午後4時過ぎ―――
「えびすや」の紺色に染まったのれんが揺れた。風に靡いたわけではない。ぼんやりと丸椅子に座っていた凛花が、チラリと視線を動かす。
「遅くなりました」
現れたのは平良だった。
凛花は思わず立ち上がり、口を開く。開くが言葉が見付からず、口を閉じる。思考がまとまらず、何を言えば良いのか分からない。その場で固まったまま動けない。
そんな凛花の心境に気付くはずがなく、平良はいつもの席に向かって歩き始める。そして、何事もなかったかのように、定位置に腰を下ろした。
そこまでは良い。
凛花の視線が、平良のすぐ隣に向けられる。
「臼田先輩、何食べます?」
平良と一緒に来店し、隣に座ったのは私服姿の紗希だった。凛花の表情が険しくなる。紗希はその変化に気付いていたが、当然、平良の頭はお好み焼きでいっぱいだった。
次の瞬間、紗希が凛花に向かって微笑んだ。
「私は良太郎君と同じで」
「そうですか?じゃあ、肉・たま・ソバ2枚ね」
「良太郎、君・・・?」
凛花の眉が吊り上がり、こめかみ辺りがピクピクと小刻みに震える。
「立花? 肉・たま・ソバ2枚だって」
不思議そうに小首を傾げる平良に、怒りながら笑うという器用な表情で凛花が詰め寄った。
「これからは、凛花、凛花って呼んで。平良のことは良太郎って呼ぶから。分かった?」
「え? あ、う、うん。分かった」
あまりの勢いに、平良はコクコクと何度も首を縦に振る。その様子を見ながら、隣で紗希が笑いを懸命に堪えていた。
そんな時だった。
再びのれんが動き、高らかに名乗りを上げる人物が入店してきた。
「愚民どもよ、我に最上級の料理を提供せよ!!もし我が納得せねば、この地はこの、ダーク・エンジェル・スーパー・エクセレント・バニーが地獄に変えてくれようぞ!!」
バニーって、ウサギかよ。
そう思ったが、平良は余計なツッコミを入れない。余計に面倒臭くなるからだ。しかし、今日の芽衣はこれ以上の暴挙に及ぶことはできそうになかった。
「こんにちは、芽衣ちゃん」
紗希の声が聞こえた瞬間、芽衣の表情から笑みが消え、フルフルと震えながら声のする方向に顔を向ける。そこに笑顔の紗希を見付け、90度腰を曲げて見事なまでのお辞儀を披露した。
「紗希お姉さん、こんにちは」
「元気があるのは良いことだけど、余所様に迷惑を掛けるのはどうかと思うわ。ね?」
「はい!!」
芽衣は快活に返事をすると、紗希の隣に行儀良く座る。初めて見る芽衣の姿に唖然とする凛花と平良。過去に何があったのかは、聞かないでおくことにする。ちなみに芽衣の後ろでは、いつものように母親が頭を下げていた。
「あ、平良、来てるじゃん」
「ホントだ」
勢い良くのれんがめくれ上がり、中薗と島田が姿を現す。
「平良が来ないって落ち込んでたから、せっかく来てあげたのに。来なくても良かったじゃん」
「ダメだよハル。ああ見えて、凛花は繊細なんだから」
次々と爆弾発言を交わしながら、素知らぬ顔で椅子に座る中薗と島田。そんな2人を眺める平良の頭上には、クエスチョンマークが大量に浮かんでいる。耳まで赤くなった凛花が、もの凄いスピードで中薗に台拭きを投げ付けた。
「いらっしゃい。
あらあら、急いで作らないとね。えっと、みんな何を食べるの?」
奥で一休みしていた店主が姿を見せた。
平良を見て、そして店内を見渡し笑顔になる。
「肉・たま・ソバ」
「私も」
「じゃあ、肉・たま・ソバを6枚ね」
不機嫌そうに中薗と島田を睨んでいる凛花に、平良がいつもと変わらない口調で声を掛ける。
「あのさ」
「何?」
平良に視線を向けた凛花も、いつもと同じ口調で応じる。
「ずっと秘密にしていたことがあるんだ」
「は?」
少しだけ平良に近付き、凛花が平良の顔を覗き込む。
「実は、相手の悩み事がさ、その人の胸元にカギのカタチになって見えるんだよ」
「ふうん」
「信じる?」
「え、何で信じないの?」
「だよね」
「で、それはそうと、かなりサボったんだから、明日からは毎日出勤ね」
「え?」