特別なものなど何もない。
 時間がゆっくりと流れる駅裏の路地。
 色褪せた郵便ポストが浮かび上がって見える。

 ところどころ空が見えるアーケード。
 ずっと先まで灰色のシャッターが続く。
 点滅さえしない信号機は誰にも注意することはない。 

 老いた野良猫がアンバランスなステップを踏む。
 そのすぐ後ろから杖をつく人影のスローステップ。
 切り取られ置き忘れられた景色。

 黒ずんだタイル張りの道をしばらく歩く。
 疑心暗鬼になった頃、ようやくその店にたどり着く。

 ここ広島では珍しくもないお店。
 広島風お好み焼き屋。
 紺色の布に白で抜かれた「お好み焼き」の文字。
 雨と日の光で元の色が分からなくなった看板。
 午前10時頃に開店。
 午後8時前後に閉店。
 その店の名前は「えびすや」。

 どこにでもあるお好み焼き屋。
 広島市内だけでもかるく百件以上あるお店。
 どこにでもある。
 だけど、どこにもないお店。
 それが「えびすや」。


 口コミで、インターネットで、知る人ぞ知るその理由。
 確かに美味しい。
 でも、それだけが理由ではない。

 「えびすや」の名前を知っている人は、みんなが知っている。
 使い込まれた鉄板の向こう側。
 そこでヘラを握るのは魔女なのだ、と。

 いや、本物の魔女であるはずはない。
 しかし、魔女のようだと噂される店主。
 注文してくれた人にサービスで付く手相占い。
 それが、すべての始まりだった。
 ただ手を見詰めるだけ。
 それだけで、店主はすべてを見通した。
 気味が悪いほどに悩み事を言い当てる。
 そして、年輪が刻まれた穏やかな笑顔で優しく助言を与える。

 噂が風と共に街を駆け抜け、若い女性たちを中心に広がった。
 美味しくて空腹が満たされるお店。
 そして、心まで満たしてくれるお店。
 幸福(しあわせ)になれるお店。

 それが「えびすや」。


 でも、それも去年までの話。
 お店はそのまま残っているものの、店主は昨年の10月に他界した。
 その事実を知らない人たちが、今でも足を運ぶ。

 バラバラの魂を抱えたまま、救いを求めて「えびすや」を訪れる。