都会から少し離れたところにある総合病院。都会の喧騒をすっかり忘れた閑散とした山の中にあるだけあって、廊下や待合室にいる患者は皆落ち着いていた。
 そしてその病院に、病床の並ぶ一室がある。その部屋に入院しているのは一人の女性だけで、他の病床は誰も使っていない。

 そんな彼女の顔は大人びてはいるもののどこかまだあどけなさを残しており、人によっては少女と大人女性の中間のようにも見えるだろう。髪は抗がん剤で抜け落ちているのか、薄灰色の医療用帽子を深く被っている。また、体はやつれており触れたら溶けてしまいそうなくらい皮膚の色は青く、淡い。彼女は病床から体を起こし窓から吹く爽やかな風を浴びながら、大学生向けの英語試験の参考書を読んでいた。

 彼女が参考書の次のページをめくる。大学生向けの難解な参考書だというのに、すでに彼女は大半を読み終えており残り数十ページとなった。
 そして、彼女がまた新たなページに入ろうとしていたところ、病室のドアが横に静かにスライドする。彼女がめくろうとしていた手を止め、目線を参考書からドアの方へと移動させた。

 ドアをスライドさせたのは、男性だ。後少し身長が高ければこの部屋に入る際屈まなければいけないであろうと思えるほどに、身長が高い。筋肉質な体であり、彼女同様に大人びていながらもまだどこかあどけなさの残る顔立ち。彼は室内に入る前に、ドアの隣にある名札を確認した。

『諏訪春乃』

 そして彼は再び室内に覗き込むと、彼女と目線が重なる。その瞬間、彼は少し照れ臭そうに笑みをこぼす。そしてそのまま春乃の病床のすぐ隣に立った。

「春乃。大丈夫か?」

「うん。大丈夫。最近は、手術も少ないしそろそろ退院できると思う。それにしても大学は大丈夫だったの? 守」

 春乃は手に持っていた参考書を両腕で大切に抱きしめながら嬉しそうに語った。男の名は春好《はるよし》守。

「大丈夫。大丈夫。休んでも怒られないのが大学だからさ」

 守は春乃の病床に腰掛けると、豆知識を披露するかのように語った。

「いいな……、大学。私も早く通いたい……」
「もうすぐ退院なんだろ。もう少しの辛抱だな」
「うん」

 そう言って春乃は参考書を更に両腕で固く抱き、恍惚としてみせた。
 一方の守はその妖艶な表情に思わず顔が真っ赤になる。

「ちょ、ちょっとトイレ行ってくる」
「あっ、うん……」

 自らの動揺を悟られたくない守は逃げるように病床から立ち上がると、そのまま顔を春乃に一度も振り向けず速歩きで退室しようとした。ドアの取っ手を掴もうと取っ手に手を伸ばすと、途端にドアが勢いよくスライドした。

 廊下から病室に入ろうとしていたのは、白衣を身にまとった中年男性。そして付添の若い女性看護師が一名。守は彼が即座に医師であると確信し、道を譲るようにドアから一歩離れた。
 一方の医師は、そんな守を見た。

「ああ、すみません。ところで君は春乃さんのご家族か何かかな?」

「えっ……」

 問診かなにかだろうと思っていた守は、突然の質問に思わず慌てふためいた。

「いえ、違いますが……」

 冷静を取り戻した後、すぐに医師の質問に対して若干の疑問を残しつつも正直に答えた。

「そうですか。私は、彼女と大事な話がありますので少しの間出ていただいても?」
「ええ、今からトイレに行くところでしたので」

 大事な話ならば致し方無いと、守は素直に肯定しドアレールをまたいだ。

「そうでしたか、これは失礼」

 そう言って医師付添の看護師は扉を閉め、施錠した。守は驚いていれども、決して悲観的には考えていなかった。春乃が退院が近いと言っていたのだ。退院の話か医療費の話のことだろうと。守は特に気にせずにトイレへと向かった。

 守は暇つぶしのために外へ出て近くのベンチに座り、スマホを取り出す。そして、守は期待に満ちた表情でデートスポットを隈なく探した。
 調べるのに熱中するがあまり、一時間ほど経ってしまったことに気がついた守はさすがに話は終わっているだろうと思い身支度を済ませ春乃の病室へと向かう。病室のドアの取っ手を引っ張ると、ドアが横へとスライドする。案の定既に解錠されているようだった。

 何気ない話だったのだろうと軽い足取りで春乃の病床のすぐそばへと向かう。しかし、病床にいたのは頭を抱え、今にも泣きそうになって瞳が曇った春乃の姿だった。
 そんな彼女を見て、守は平然としていられるわけがない。考えるよりも先に体が動いていた。
 実際、なにがあったんだと訝しがるのは守が病床のすぐそばについてからだった。

「どうした春乃。痛いのか? ナースコール押すか?」

 守は拳を握りしめ、春乃に話しかける。病院内であるため、配慮して大きな声ではなかったものの威勢と必死さは配慮されてなかった。

「はは……。あのお医者さん、冗談言うんだよ……。余命三週間だって……」

 春乃の声はひどく震え、獰猛な猛獣に今まさに食べられんとし、全てを諦めた子どものようだった。冗談話には決して聞こえない。
 それを受け、守もまた平常心ではいられなかった。全身の力が抜けたような気がして思わず硬い床に尻もちをついてしまう。痛くないはずないのだが、守は痛みを全く感じずただ突きつけられた宣告に心を揺さぶられるほかなかった。

「落ち着け……落ち着け俺……」

 守は呼吸を荒げたのを自覚し、手を胸板に置き深呼吸を繰り返す。

「本当なんだな……」

 春乃が嘘をつかない人間であることは、守は知っていた。そして、冗談でこんな絶望に満ちた表情ができるほど演技が上手くないことも知っていた。
 それでも、信じたくなかったのだ。

「だ、か、ら……。冗談だよ……ね?」

 絶望に打ちひしがれ、剰えその事実を否認しようとする春乃に、守はなんと声をかけてよいのかわからなかった。



 余命宣告から一日が過ぎた。

 守はジレンマに陥っていた。なんと声をかけてよいのかわからないから行きたくない。そして、医師の言葉を信じるなら後20日しか会える機会はない。その貴重なチャンスを無駄にしていいわけがないから行きたい。両者がぶつかり合い、最早大学のことなんてどうでもよかった。
 そして、一つの答えを導き出した。

「……。例え嫌われても……」

 例え嫌われようとも毎日通いに行こうと決意した。思い立ったが吉日とばかりにすぐさま病院へ行き、病室へと覗き込む。
 あの絶望状態から治っていないだろうかという淡い期待を抱いているが、あまり期待はしていなかった。余命宣告され、一日で心の整理がつくとは思ってもいないからだ。
 守は意を決して病室のドアを恐る恐る動かした。

「春乃──」

 ドアを少し開け様子を垣間見しようと思っていた守だったが、予想以上にひどい春乃の状態を見て目を見開き絶句した。

「やだっ! 離して!」

 病床の上に立っている春乃が、落ち着かせようとしている看護師たちを強引に振りほどき思わず耳をふさぎたいと思えるほどの金切り声を上げていた。

「諏訪さん。落ち着いてくだ──」
「わ、た、し、は! 落ち着いています! だから離せっ!」

 春乃は、看護師の顔面をを蹴り飛ばしていた。とはいえ長期間入院していた春乃に力はなく、蹴り飛ばされた看護師もあまり痛がるような真似はしていない。

「春乃! 落ち着け! 自分が何やってるのかわかっているのか!」

 守はまたもや体が勝手に動いていたのだ。だが、前回とは違う。今回は春乃と対する側に。守は振りほどかれた看護師を守るように立った。
 その光景を曇った目で見た途端、春乃の瞳には涙が貯まり力の限り歯を食いしばった。

「いいよね、大学生活謳歌している人はさ。私が何やっているのかくらいわかっているよ! 私は後ちょっとで死ぬんだよ! 私は別に悪いこと何にもしてないのに、世の中には悪人なんてごまんといるのに、どうして私なんだよっ……」

 春乃は、情緒不安定だった。守を非難し、激昂し、そして自らの運命に泣き喚いた。そして、力尽きたように虚空を見つめ病床へと倒れた。

 守は春乃の側へと近づき、腰をかがめる。看護師はたちは春乃を羆にでも見立てて引き止めたかったようだが、気にしてはいない。守は嫌われようとも会うと決意したのだから。

「なぁ、春乃」

 幼稚園児に相手にするような話し方をすると、虚空を向いた瞳は守の方を向く。

「いや、諏訪春乃さん。僕と結婚してください」

「……」

「僕は、君が傷つくのも傷づけるのも見たくないんだ。どうしても傷つけたいなら、僕を煮るなり焼くなり好きにしていいさ」

 守は春乃を優しく抱きしめた。

「……」

「駄目かな? 僕は君と一緒にいたい。君は違うのかい?」

 春乃の淀んだ瞳に少しばかりの光が見えた。

「……なんで、なんで今そんなこというの?」

「僕は君が好きだ。いずれ言ったことさ。今という機会を逃して機会を永遠に探り続けるヘタレにはなりたくないんだ」

「いいの? すぐ死んじゃうんだよ?」

「死ぬとは限らない。あくまで余命宣告さ。余命宣告過ぎても生きながらえた人なんてテレビで散々見たことあるだろ?」

「……うん」

 春乃を抱きしめていた守は、ゆっくりと春乃を抱いていた手を離した。そして、春乃の顔を見つめる。晴天のように澄み、潤んでいる瞳がそこにはあった。

「もう一度聞くね、春乃。僕と結婚してください」

 守は今、指輪なんて持ってない。バラの花束だって持っていない。場所だってロマンチックの欠片もない病院の病室。
 それでも、春乃の心を動かすには充分だった。

「……はい」

 こうして守は、告白を飛ばしたプロポーズは成功させた。周囲で固唾を呑んでいた看護師たちは、互いに顔を見合わせると静かに笑顔で拍手をした。



 翌日、春乃は退院した。決して治ったわけではないが、貴重な余生を大切に楽しみたいからだ。早速婚姻届を出し、守は大学そっちのけで春乃を連れ回した。

「私ね、決めたの。もし、奇跡が起こって病気が治ったときのために英語、もっと勉強しようと思うんだ」

 守の自宅で春乃との同棲が始まった初日、春乃は宣言した。入院生活中にほとんどを終えてしまったため、残りは僅か21ページ。一日一回一ページずつ、終わらせていった。

 そして余命宣告から22日目、プロポーズをされてから21日目。春乃は日課の英語の参考書を終わらせた。

「ふぅ……。最後の問題もあっけなかったな……」

 春乃は参考書を閉じ、終わってしまった参考書に少々虚しさを覚えた。

「大学に入っても上手くやれそうだな」
「うん!」

 守にとっては入院生活以前には一度も見たことがなく、同棲が始まってからは毎日見た春乃のひだまりのような笑顔だった。

「さて、もう寝るか」

 遊びっぱなしだったとはいえ守は春乃の健康を考え早めに、日没して少しで寝るようにしていた。

「おやすみ、春乃」
「おやすみ、守」

 翌日、春乃は目を覚まさなかった。ただ苦しんだようすもなく、いつもと同じような寝顔のまま亡くなった。



 十数年後、とある大学。
 大学の廊下を二人の学生が歩いていた。

「うぅ……。単位やばくて卒業できんかもしれん。なんか単位取りやすい科目ってないの?」

 片方の学生は、単位修得表を見て怯えながらもう片方の学生に希う。

「春好教授の英語学めっちゃ取りやすいって聞いたけど」

 その後二人は、英語学のガイダンスが行われている教室へと足を踏み入れた。既に始まっていたようで、二人は静かに席へと座る。

「はじめまして、外国語学部英語学科の教授、春好守です。君たちは大学生だからとはっちゃけすぎるなと散々いろんな人から言われたでしょう。でも、私はそうは思いません。大学生の頃、沢山遊んだりして留年しましたが何も後悔していません。留年しても、もう一年頑張れば良いんです。みなさんが、学業に感けて大切な時間を無駄にしてほしくないんです。大切な時間は、二度と戻ってこないですから……」

 そう言うと、教授は教卓の上に参考書を出した。十年以上前に出版された古い参考書だ。

「では、授業そのものについての説明を開始します」