◇◇◇
 ……帰ろう。
 役割は果たしたとばかりに、青波は家に帰ろうとしていた。
 正妃を弾劾した夜から、二日後の朝だった。
 どさくさに紛れて無事「天冩刀」を取り戻した青波は、事の成り行きを軽く見届けた上で、手薄となっている城門から後宮の外に出ようと考えた。術さえ使えれば、皇城を出ることくらい、簡単だ。
 しかし、その過信がいつも青波の身を滅ぼすのだ。
 余計な人脈と恩情が、仇になった。
 明淑に、効率的な仕事方法を引き継ぎしてしまったのがいけなかったのだ。
 青波の企みに感づいた明淑は、とっくに金で買収されていたらしく、瞬く間に、青波は尚寝殿の女官長から、朱微殿の女官長に引き渡され、第三妃の住処に連れて行かれてしまった。
 なんでも、第三妃の室は、全体に青と白を使った珍しい造りをしているので「瑠璃宮」などと呼ばれているらしい。青波を先導した後宮の最年長らしき女官がやけに丁寧に教えてくれた。

(逃げるのは無理……か)

 皇城にそぐわない色合いの目が滑りそうな広い一間。調度品の一つもない、淡泊な部屋の中に、豪奢な金色の椅子が一脚だけ置かれている。そこに、春霞は置物のように座って、青波を待ち構えていた。

「おはよう、青波。早起きなんだね。私は眠いよ。貴方が息災なのは何よりだけど」

 眠い割には、絶好調な早口だ。
 しかも、今日は冕旒冠をかぶり、鮮やかな赤い裳裾に、白い絹と思しき単衣を着ていた。大きな帯には、金色の龍が刺繍されている。何処からどう見ても、皇帝以外有り得ない正装姿だった。
 今まで寝間着の彼としか遭遇しなかった青波は、妙な緊張感に萎縮しながら、跪拝しようとしたが、案の定、すぐに止められた。
 春霞は上機嫌で、脇息に頬杖をついている。
 青波が黙っていると、こちらの思考を読んだのだろう。試すように尋ねてきた。

「あれ? もっと動揺するかと思っていたんだけど。第三妃は何処にいるんだって、嫉妬の一つでもしてくれるんじゃないかって」
「こんな生活感のない処に、お妃様はいないでしょうよ」

 冷めた口調で答えると、春霞は大仰に肩を落とした。

「分かっていたんだね。青波は」
「正妃様が私を最初に「幻華」とお疑いになった時に。いくらなんでも、後宮内にお妃様を隠す場所なんてありませんよ。幻華は存在しないと考えるのが妥当かと」
「いや、一応、存在はしているんだよ」
「まさか、誰か身代わりを立てて?」
「私、意外に女装が似合うんだ」

 真顔で告げられたので、青波は返す言葉がなかった。多分、似合うはずだ。見たくもないけれど……。

「それで、その……正妃様は、どうされたんです?」

 取り押さえられたところまでは覚えているが、それ以上のことは、青波も知らなかった。
 ここを去るのなら、知らない方が良いと思っていたが、春霞と会ったのなら、無視なんてできなかった。
 春霞は重い溜息の後に、嫌々言った。

「死んでもらったよ。一応」
「えっ!?」 
「だから、一応だって!」

 青波の驚きに、珍しく春霞は声を荒げた。

「仕方ないでしょう。あの場には、立会人として重臣達も招いていたんだ。死罪でなければ、示しがつかないよ」
「正妃様は、私を狙ったんですよ」
「分かっているさ。だから、死んだふりをしてもらったんだ」
「ふり?」
「ああ。実質、国外追放。表向きは病死になる。そうすれば、こちらも沙葉に貸しができるからね。この件に関しては重臣達とも、珍しく意見が一致している。まあ、処分以上のことは、私には分からないけど。逆に沙葉に戻ったら、汀妃は殺されてしまうかもしれないから、子供の父親と一緒に、他国に亡命するかもしれないな」
「しかし、正妃様は……」
「何?」

 さすがに青波の口から話すことは出来なかった。

 ……正妃は春霞を想っていた……なんて。

 青波からしたら、彼女のやることなすこと、愛情の裏返しにしか見えなかったのだが。
 彼は気づいていたのだろうか?
 いや、気づくはずもないだろう。これでこの話は終わりとばかりに、子犬のような目で青波に媚びているのだから。

「そんなことより。青波は私に何か言うことがあるんじゃないかな?」
「……傷、癒えましたか?」

 渋々、青波は尋ねた。
 ――あの晩。
 錯乱した妃に、あやうく簪で刺されそうだった青波を、春霞が庇ったのだ。
 幸い、急所は外れていたが、毒が仕込んであった為、出血が止まらず、本格的に春霞の命は危なくなってしまった。
 いくら、六年前に施した青波の術の効果があっても、こんな状態では危険だ。
 ――だから。
 青波は、再び同じ過ちを犯してしまったのだ。

「有難う、青波! おかげで、傷はもう綺麗に塞がったよ。他の生傷もすべて痕跡すらなくなった。貴方に助けてもらうのは、これで二度目だね」
「そうなりますかね。でも、今回は目撃者も多く、ちゃんと回復して頂かないと、私まで貴方様の墓に埋められそうだったので。やむを得ずで」
「いいんだよ。貴方は素直じゃないところが可愛いんだから」

 春霞の悟り澄ました顔が、逆に腹立たしいのは何故なのか?

「私は嬉しいんだ。六年前のことは覚えていないけれど、今回のことは、目に焼き付けられたからね。貴方は私を治療すると、その場にいた全員を退けて、二人きりになったところで、その家宝の刀で自分の指を切ったね。それから、その血を……」
「あーっ。もう! 詳かに語らないで下さい。ええ、そうです。それが禁術の正体です。瞬家の者が禁じられているのは、天冩刀で切った己の血を人に飲ませることです」

 自棄になって叫んで、息を乱して前を向いたら、なんと春霞が目を潤ませていた。
 
「感動だよ。青波の血が私の身体の中に流れているなんて。家族よりも深い、離れがたい絆が、私達にはあるってことじゃないか」
「いや、だから、離れた方が良いんですって」
「何で、そんなこと言うの? 意地悪」
「意地悪って」

 ――子供か?
 けれど、春霞の質問はもっともだ。今更、素知らぬ振りで、逃げ切ることなんて出来やしないのだ。

「たとえば。陛下の爪、伸びるのが早くないですか? 喉が異様に乾くことは? 頭や臀部がむず痒かったりすることはありませんか?」
「薬師の問診? まあ、いいけど。そうだね。爪は昔から伸びるのが早かったんだけど、確かに一段と伸びが早くなったかもしれないね。喉も水を飲んでもすぐに乾くかな。だけど、病み上がりだから、生命力ってやつなんだと」
「そのうち、水では飽き足らず、人の血を求めるかもしれません」
「嘘?」
「瞬氏の王家の血統。私が血を与えることで、中毒性を持ってしまうそうです。霜先生から聞きましたよね。瞬氏は神獣を使役すると。つまり、瞬氏の王家筋は、血の契約で人を縛り、獣に変化させ、己の下僕にした。そのうち、耳や尻尾も生えてくるかもしれません」
「耳や尻尾?」

 ハッとして春霞は冕旒冠を脱ぎ、頭と耳と臀部を押さえたが、その兆候はなかったようで、ほっと胸を撫で下ろしていた。

「一度ならいざ知らず、今回二度目。血の味を覚えてしまっているかもしれません。だから、私の祖父は貴方様に再会することを固く私に禁じたのです」
「要するに、貴方が近くにいなかったら、私は化け物にならないってこと?」
「さあ、それは分かりません。昔のことで分からないのです。でも、私が傍にいたら、危険なことは事実です」
「危険……ね。会えなかった理由も、頑なに術の詳細を話さなかった理由も、それが原因か」

 難しい顔つきで考えこんでいる春霞を、丸め込むつもりで、青波は言葉を重ねた。

「だから、私は貴方の前から消えるのです。たとえ万が一、この先、血が欲しくなったとしても、後宮もありますから。陛下なら、いくらだって調達」
「貴方、それ、本気で言っているの?」
「あっ」

 ……まずい。今回ばかりは、青波が悪い。 

「いくら秘匿性の高い後宮だって、そんな化け物みたいな皇帝がいたら、絶対バレるよ。この先、耳や尻尾まで生えたりしたら、まあ、可愛いかもしれないけど、嗤われるよ。この国、おしまいだよ」

 そうだろう。まあ、現時点でも風前の灯かもしれないが。

「酷いね。一人だけ逃げようなんて。貴方がそうしたのなら、責任は取るべきじゃないか。それに」

 立ち上がった春霞は、不敵な笑みを浮かべていた。

「下僕なら大歓迎だよ。むしろ、私はなりたい!」
「正気ですか?」
「六年間、貴方のことしか考えてなかったんだよ。とっくに狂ってるさ」

 確かに。常軌を逸した執念だ。
 さすがに、ここまで言われたら、青波も彼の気持ちを信じないわけにはいかなかった。
 青と白の部屋なんて、いかにもな誘導ではないか……。

「今まで、私が何度、貴方のところに逃げたいと思ったか。でも、そうしたら、瞬家の汚名はそそげないし、嘉栄にも負けたことになる。ならば、準備が整った時点で、貴方を後宮に呼べば良い。けど、入宮の手続きに手間取っていたら、貴方のことだ。帰るとか言いだしかねない。……だから、私はこうして入念に」
「待って下さい。陛下」
「もう十分待ったよ。ねえ、青波。化け物になるっていうなら、二人で解決したら良いじゃないか。要は私のことが好きか嫌いか、二択ってことだよ。貴方は私のこと嫌いなの?」
「嫌いなわけじゃ……」
「じゃあ、好きなんだ。そういうことだよね」

 そんな単純な話ではない。こんなこと、祖父に話したら、どんな目に遭うか。
 問題しかないのに……。
 春霞は微笑っているのだ。

「貴方は瑠璃殿の主。私の妃だ。生涯貴方以外の妻を、私は迎えるつもりはない。私にはね、貴方以外、女性に見えないんだよ」

 そして、足早にこちらにやって来た春霞は、壊れ物のように、青波の両手を取った。

「宜しくね。青波」
「で、でも。私、こんなんで……」

 滑らかな春霞の手に比べて、青波の手は水仕事をしていたせいか、がさがさだ。髪だって寝起きのままだから、ぼさぼさだし、寝不足のせいか、隈だって酷いのに……。
 ……それでも。

「私は貴方が良いんだ。初めて会った時から、ずっと」

 春霞のぶれない一言に、青波の胸はとくんと鳴った。すぐ目と鼻の先にある春霞の顔は、見惚れるほどに美しく、優しい。青波が知っているようで知らない大人の男性だ。
 とんでもない術を掛けたものだと、恨まれても仕方ないのに、彼は怒るどころか、青波の下僕になることも厭わないと、情熱を示してくれている。

(私もずっと春霞に会いたかった。会いたかったから、理由を探していた)

 幽体でない春霞の手に触れたことで、青波は自分の気持ちが隠せなくなってしまった。

「後宮の幻華」
「……幻華?」
「幻のように、消えないでね。青波」

 そして、春霞は存在を確かめるように、青波の頬に指を這わせる。熱く見つめ合い、二人の顔が近づきつつあったところで、しかし、春霞は突如横を向いて、口元を手で押さえた。

「えっ?」

 肩が震えている。
 まさか、もう化け物になってしまったのか?
 心配になって、青波が春霞を揺すると……。
 ――彼は、笑っていた。

「ああ、さすが幻の華だ。貴方に触れようとした途端、私は動悸が極まって、身体が震えて動けなくなってしまったよ。一体、何の術を貴方は私にかけたの? それとも、下僕の精神がすでに私に……」

 ……だとしたら、春霞は永遠に青波に触れることは無理だろう。

「私、家に帰っていいですか?」

 透国二十五代皇帝、怜 春霞。
 後に透国稀代の名君と謳われた彼が、長年の想いをこじらせすぎて、愛しい妃に、なかなか触れることが出来なかったという事実は、意外と知られていない。

【了】