──ゴツンッ。
翌朝、庭を歩いていると、変な音がした。
ガサガサと茂みを掻き分けて、音を頼りに屋敷の竹の塀沿いを歩く。
やがて門に辿り着き、外へ出ようとすると、後ろから腕を引かれた。
「出たらあかん。結界の外に出た瞬間、他の陰陽師に捕えられるかもしれへんのやぞ」
「光明さん……?」
額に汗をかき、肩で息をしている光明さんに呆気にとられる。
「寝室にいーひんさかい、どこ行ったかと思うたやろ。出ていくとか、けったいなこと考えてへんやろうな?」
私が出ていくかもしれないと思って、そんなに焦って追いかけてきてくれたの?
掴まれた腕が熱い、鼓動が驚きとは別の意味で騒いでいる。
まただ……また、光明さんと見つめ合うと、時が止まったみたいに世界の音が遠ざかって──。
「……! なんや、あやかしの気配──!?」
さらに強く腕を引かれ、光明さんの胸に鼻をぶつける。強引に抱き寄せられて顔を上げれば、厳しい目付きで私の背後を睨んでいた。
ごくりと唾を飲み、怖々と後ろを向いてみると……。
「……え、どうしてここに?」
よく、私の住んでいた屋敷に来ては、タマくんのご飯を摘んでいた一つ目小僧がいる。
一つ目小僧は中に入ろうとして、ゴツンッと頭を透明な壁にぶつける。結界だ、先程の変な音は一つ目小僧が結界にぶつかる音だったようだ。
突然現れた一つ目小僧に目を瞬かせていると、光明さんが印を切ろうと指を構えた。
「ま、待って!」
私は慌てて光明さんの手を掴み、下ろさせる。
「なんで邪魔するんや」
「し、知り合いです!」
「……あやかしの知り合いがおるんか」
「うちの屋敷によく来てたんです。タマくんの──」
彼の名前を口にしただけで、息が出来ないほど胸が詰まった。
ふう、と息を吐けば、光明さんは「もうええ」と私の背に手を添える。おかげで少しだけ、胸の重りが軽くなった気がした。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。結界解除、急急如律令!」
素早く指で印を切り、光明さんは結界を解く。そして一つ目小僧に向かって「ん」と言い、中に入れと顔を動かした。
一つ目小僧は下駄を鳴らしながら、無言でそばにやってくる。
光明さんが再び結界を張り直している間に、一つ目小僧がずいっと私に顔を近づけてきた。その大きな瞳に波紋が広がり、まるで水面のようになにかを映し出す。
「これは……」
「商店街やな。前に俺とお前とポン助で行った」
そういえば、三人で夕飯の買い出しに行ったな。そこで光明さんの同僚の陰陽師に会って、魔性の瞳を使ってしまった……。
あの出来事がなければ、光明さんが陰陽寮に行けなくなることも、タマくんが離れることも、私が封印されることもなかったのだろうか。
胸に罪悪感がわく中、私は一つ目小僧の瞳に映し出される映像を見つめる。
商店街の骨董品店に虱潰しに入っていく陰陽師たちの姿、それになぜか記憶の奥底を揺すぶられた。
「これ……」
「前、同僚の陰陽師が言うとったな。商店街の骨董品店で、曰く付きの日本刀が出たって」
私は返事の代わりに頷く。
『お前らがいるってことは、ここでなにかあったのか?』
『ええ、この商店街の骨董品店で曰く付きの日本刀が出たとかで。妖刀の可能性もあるので、私たちが出向くことになったんです』
あの妖刀騒ぎの……。でも、なんでこれを一つ目小僧が見せてくるのか。
募る疑問を飲み込んで、私は映像に集中する。
刀のようなものを数本、手に持った陰陽師が骨董品店から出てくる。立ち去る彼らの背を鋭い眼差しで見送る猫が五匹いるのが気になった。
猫たちはくるりと身を翻し、陰陽師たちとは反対方向に歩いていく。
一つ目小僧は自分が見たものを私たちに見せているのだろうか。
猫のあとをつけていき路地に入るや、しゅるしゅると猫たちが大きくなり……。
キジトラやサバトラ、三毛猫やハチワレといったいろんな柄の猫耳や二股に分かれた尻尾がついた人間へと化けた。
「嘘……猫又……?」
私やタマくんの他にも存在したの? でも、土蜘蛛の紫苑と美琴の話では……。
『もう陰陽師たちに利用されるのはたくさんだ。残った仲間も数少ない。美琴姫、お前に至っては……』
『……そうだな。 猫又の一族は、もう……』
猫又の一族はもういない、というような口ぶりだった。だからてっきり、もうこの世に猫又は存在しないのだと思っていた。
だけど……いたんだ、仲間。
胸が弾み出したとき、猫又たちは顔を突き合わせ『陰陽師の連中が嗅ぎ回ってるな』と小声で話し始める。
『妖刀で人間たちを狂わせる。暴走した人間が、同族の人間を襲う。滑稽だな』
『これも我らが姫を奪い、多くの仲間を奪った人間たちへの復讐。玉貴様の言う通りにすれば、うまくいくはずだ』
玉貴……様……?
こんなところで、彼の名前を聞くことになるとは思っていなかった。
「どうして、タマくんが……」
どうしてと言いながら、答えはちゃんと頭に浮かんでいる。人間たちへの復讐のために、タマくんが妖刀をばら撒いているのだ。
なんでこんなことを……?
ほら、またそんなわかりきった問いかけをして、自分で絶望する。
憎んでいるんだ。前世の私を、今の私を奪った人間を……タマくんは。
映像は終わりだとばかりに、一つ目小僧が目を瞑る。
「人間と全面的に戦うつもりか」
「そのことを、知らせに来てくれたんだね」
私は一つ目小僧の頭を撫でた。一つ目小僧はタマくんのご飯を気に入っていたし、心配して私のところまで来てくれたんだろう。
「──光明さん」
行かなきゃ。なにができるかわからないけど、猫又が妖刀をばら撒いているのなら、それを止めてタマくんに会わないと。
タマくんたちが陰陽師に先に見つかってしまったら、殺されてしまう……!
「陰陽寮のやつらよりも早う妖刀を回収するで。話がしたいんやろ、あいつと……猫又と」
「──っ、うん!」
私の意図を汲んでくれた。あやかしを恨んでいた彼が、あやかしを守ろうとしてくれている。
こうして関わり合っていけば、すぐにとはいかなくても、わかり合えるはずなのだ。だからタマくん、猫又のみんな、諦めないで──。
妖刀回収のために私は光明さんと商店街の東側を、赤珠と水珠、ポン助は西側にある骨董品店を訪ね歩いていた。
暖簾を避けて店の外に出ると、光明さんと同時にはあっと肩を落とす。
「妖刀は陰陽師たちが全部回収したあとやったな」
前に商店街で光明さんの同僚さんたちに会ったときには、すでに妖刀の件は陰陽寮側に知られていた。
一つ目小僧が見せてくれた映像は、つい数時間前のものだろう。何日も前のものなら、もっと早くに見せに来ているはずだ。つまり……。
「回収されては妖刀をばら撒いてる猫又をなにがなんでも捕まえるべく、陰陽師たちは躍起になってるんやろうな」
「今もこの商店街を探し回ってるかも……」
なおさら早く、猫又たちを見つけないと。
焦りに駆り立てられていると、光明さんが「……っ」とうめき、手の甲を押さえた。
「光明さん?」
その手元を覗き込めば、つうっと血が流れている。
「これ……どうしたの!? いつ怪我を?」
「放った式神、誰かに消されると……こうして傷で返ってくるんや」
「そんな危険があるって知ってたら、止めたのに!」
「だから言わなかったんや」
「もうっ、開き直らないで! とにかく手当て!」
私はハンカチを鞄から取り出そうとして、「あ……」と固まる。
「ハンカチ……持ってない」
「女やろ、そこは持っとき」
「こういうの、タマくん担当……だったから……」
ああ、また……タマくんの名前を呼んだら、胸がちくりとした。
「女子力、昔から高かったんだ……タマくん。でも、タマくんは……私が美琴の生まれ変わりだから世話を焼いてくれてただけ……」
もし、私のことを美琴だと思って接していたのだとしたら、私とタマくんが一緒に過ごした時間はなんだったのだろう。
どんな姿も見せられた、どんな感情も曝け出せた。そんな相手に、私は今……これからどんな顔で会えばいいのかわからないでいる。
「そんなん考えてもしゃあないやろ。本人にしかわからへんことは、直接聞け」
光明さんはズボンのポケットから、紺色のハンカチを取り出した。
「正論な上に女子力高い……」
私はわざとらしく唇を突き出して、光明さんからハンカチを奪い、その手に巻いていく。
そうだよね、本人に聞いてみないとわからないよね。だけど……。
「怖いな……」
「怖いならやめるか? 傷つきたないなら逃げるか?」
「に、逃げない! それだけは、絶対にしない」
怖いけど、傷つくかもしれないけど、傷ついてもいいから、知りたい。
光明さんのおかげで、はっきり自分の心が固まっていくのがわかる。私の顔を見た光明さんは、なぜか満足そうにふっと笑みをこぼした。
「心決まったみたいやな。ええ顔してる」
「ふふっ、光明さんのおかげ。本当にありが──」
言いかけたとき、身体がぐんっと宙へと上がる。
「きゃああああっ」
視界を過ぎる二股の尻尾。私は見覚えのある焦げ茶色の大きな猫又の口に咥えられていた。
「美鈴!」
地上が遠ざかり、私を追いかけて走る光明さんの姿が豆粒みたいに小さくなっていく。
振り返って自分を連れ去ろうとしている張本人の姿を確かめると、心臓がドクンッと跳ねた。
「……タマくん……」
「迎えに来た。きみが……探してるみたいだったから」
それが好意的なものなのかは別として、なにか目的があってのことなのかもしれないけれど、私もタマくんに会いたかった。
「……うん、探してた」
タマくんはなにも言わなかった。静かに目線を前に戻し、私を攫う。
こんなにも近くにいるのに、誰よりも信じていた人なのに、その心はなにひとつ汲み取れない。だからこそ、私は抵抗せずに身を委ねた。大切な人の気持ちを知るために。
タマくんは商店街を突き抜けた先、山の中腹あたりにある古びた鳥居の前に降り立った。
中は錆びれた神社がぽつんと立っているだけで、参拝客が来るような雰囲気ではない。
人型に戻ったタマくんは灰色の着物を身に着けていた。そして、猫又の耳や尻尾を隠さずに歩き出す。
「ここは?」
「中に入ればわかる」
私の知るタマくんの口調はいつも柔らかくゆっくりで、聞いていてほっとする声だった。
だけど……こんなに抑揚のない話し方もするんだ。
ううん、本当はときどき感じてた。そう、光明さんと出会ってから、少しずつだけど、その片鱗を見せていた気がする。
日和りそうになる心を叱咤して、彼の背を追い、鳥居を潜ると……。
「「「「「「「姫様」」」」」」」
桜吹雪く境内で、一斉にひれ伏す老若男女。ざっと三十名ほどだろうか、着物姿の彼らは皆、猫耳や尻尾を持っている。
しかも昼間の青空はどこへやら、頭上にはオーロラのようなものがかかった濃紺の星空。こじんまりとして古びていた神社は、朱色の立派な神宮へと姿を変えていた。
「嘘……どういう仕掛けなの? それに、ここにいるのって……」
「ここは猫又が生き延びるために作った隠れ里みたいなものだよ。不本意だけど、安倍晴明が僕に託した幻術の札のおかげで、人間の目には誰も立ち寄りたがらない古びた神社に映る」
「じゃあ、これが本当の神社の姿……」
周りを見回せば、境内も鳥居を潜る前に見たものより、うんと広い。
「そして……ここにいるのは全員、猫又だよ。美琴は全滅したと思ってたみたいだけどね、僕が逃がした猫又たちが所帯を持って、ここまで数を増やしたんだ。って言っても、八百年経ってもこの数だけどね」
「それだけ、助けられた猫又の数が少なかったってことだよね。……タマくん、私をここに連れてきたのは……なんで?」
少し前に立っていたタマくんは、意味ありげに沈黙する。
やがて、ゆっくり私のほうに身体を向けると、そうするのが当然のように跪いた。
「姫様、あなたに私たちを導いてほしいからです」
ぐらぐらと、視界が揺れる。
「今こそ、私たちからあなたを奪い、多くの同胞を手にかけた陰陽師や人間への復讐を果たす時。生き残ったあやかし七衆を見つけ出すのです」
タマくんに賛同するように、雄叫びを上げる猫又たち。
復讐に燃えるみんなの声が遠くなり、まるで水の中にいるみたいにぼわぼわと聞こえる。
深い……深すぎる、みんなの怒りが、憎悪が──。
でも、憎悪に任せて人を傷つければ、憎み憎まれ、狩り狩られるをまた繰り返すことになる。
「復讐ってなにをするの? 妖刀をばら撒いたこととなにか関係がある?」
「狂って同族同士で殺し合ってくれれるのが、いちばん手っ取り早いですからね」
「そんなの……っ、すぐに陰陽師たちに嗅ぎつけられる! 現に、もうバレて妖刀を回収して回ってるんだよ? みんな、退治されちゃうかもしれないっ」
「嗅ぎつけられていいんですよ。これは布石です、戦いの火蓋を切って落とすための」
「え……?」
少しの焦りも見せず、それどころか待ち望んでいるとばかりに口端を上げるタマくん。彼から漂う不穏な気配に、手には汗が滲む。
「私が陰陽寮の所長と手を組んでいた理由を知りたがっていましたね。それがこれなんですよ。あやかしと人間を敵対させる、その目的が一致したからです」
「なっ……なんで所長さんはそんなことを……」
「さあ? 向こうの事情は知りませんが、陰陽寮の所長はあやかしと人が敵対するためには、前世で夫婦だったあなたたちを会わせるのは危険だと踏んでいたようです」
だから所長さんは、私の家に結界を張ったんだ。
「ですが私は、あなたが晴明の生まれ変わりと会おうが会うまいが、どちらでもよかった。むしろあいつのそばにいれば、あなたはあやかしに心を寄せ、魔性の瞳を使わずにはいられなくなる。そうすれば、あなたを猫又として覚醒させることができますからね」
なら私は、まんまとタマくんの術中にはまったというわけだ。魔性の瞳をコントロールできなくなるほど、あやかしになりかけているのだから。
「姫様、どうか我らを鼓舞してくださいませ」
「この身を懸けて、人間どもを殺し尽くしてみせます!」
次々とかけられる言葉の意味を理解したくないと、頭が拒否しているのだろう。ズキズキと眉間の辺りが痛みだす。
「私は……人間だよ? 前世が、この魂があやかしなのかもしれなくても、二十三年間、人間として生きてきたんだよ。それなのに、私に人間が殺せるわけがない」
「なにを言います、あなたは猫又の姫です。あなただって憎んでいるでしょう、人間を」
タマくんの他人行儀な口調や態度に、これまで築いてきた関係がガラガラと崩れ落ちていくような錯覚に陥る。
「私が人間を憎んでる? そんなこと、一度も思ったことないよ。……ねえ、タマくん。それは……」
唇が震えた。口に出してしまったら、認めざるを得なくなる。でも、もううやむやにもできないのだ。タマくんが、私を見ていないことを。
「タマくんが言うあなたって、美琴のことでしょう? 美鈴じゃない」
「同じ魂を持っているのですから、どちらもあなたです」
「──っ、違う! 私は……っ」
「美鈴だ」と紡いだ声が、ドゴオオオンッというけたたましい音と地響きに掻き消える。景色がぐにゃりと歪み、そして──。
「歴代最高の陰陽師と謳われた安倍晴明の札も、八百年も使えばガタが来るってことかな。とはいえ、探すのに手間取ったよ」
この声……!
鳥居を振り返れば、数十人の陰陽師を率いる所長さんの姿があった。猫又たちは獣に化けると毛を逆立てる。
「こちらの準備は待ってくれない、というわけですか」
タマくんは私を庇うように前に出た。
「あやかし七衆と手を組まれては面倒だからね」
やれ、と所長さんが手を挙げると、一斉に陰陽師たちが術を唱え始める。
だが、タマくんも腕をすっと横に伸ばし、「唱えさせるな」と猫又たちに指示を飛ばす。
彼らは迷いなくシャーッと威嚇しながら陰陽師に噛みつき、術を食い止めていった。
「発動する前に叩けば、お前たちは脅威にすらならない」
不敵に口端を上げるタマくんだったが、所長さんも余裕の笑みを浮かべている。
爆風や悲鳴がこだまする中、その変わらない態度に不安が胸の内で渦巻く。
「悪いね、こちらも優秀な陰陽師を失うわけにはいかないんだ」
パチンッと指を鳴らす所長さん。その足元に現れた五芒星が青白い光を放ち、所長さんの背後から頭と尾が八つずつある巨大な蛇が現れた。
「あ……ああ……なんなの、あれ……」
膝頭がガクガクと震える。奥歯が鳴り、私は息をするのすら恐ろしくて両手で口を塞いだ。金のぎょろっとした目が、射殺さんとばかりにこちらに向けられている。
「八岐大蛇(やまたのおろち)、私の悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)だよ」
「そんな上位式神を使うなんて、本気で僕たちを殺しに来たってわけか」
たぶん、ずっと一緒にいた私にしかわからないほどの些細な変化だけれど、タマくんの声にも少しの動揺が滲んだ。間違いなく、この状況は分が悪いのだろう。
八岐大蛇とか、神話に詳しくない私でも知っている。
確か大酒を好み、毎年ひとりずつ娘を食ったとか。そうやって、今度は猫又たちを喰らうつもりだろうか。
「……っ、タマくん」
私は彼の着物の裾を引いた。
「みんなを……逃がさないと……でないと、殺されちゃう……やっと会えたのに……」
なんでか、涙が頬を伝う。これは仲間を奪われたくないという、美琴の思いでもあるのかもしれない。
「美鈴……」
私の名を呼んでくれた。美琴じゃなくて美鈴と向き合ってくれている今なら、タマくんを止められるかもしれない。
そんな希望が見えた矢先、ぎゃああああっという悲鳴が聞こえた。
声のほうへ目をやれば、八岐大蛇は八つの牙で次々と猫又の腹に噛みつき、貪り食っていた。
それを目の当たりにした瞬間、うっと吐き気がしてその場に蹲る。
「おえっ……はあっ……はあっ……なんて、ことを……っ」
涙なのか、唾液なのか、俯いた先にある地面を濡らしていく。
「吞気に話している場合かな、あっという間に全滅するよ」
穏やかな口調で、残酷なことを述べる所長さんを恐る恐る見上げる。
その口元には笑みが浮かんでいるのに、瞳は虫けらでも見るように冷酷だった。
「姫、ここを離れましょう。立て直しを図るのです」
タマくんが私の両脇に腕を差し込んで立ち上がらせようとするが、足に力が入らない。それに、ここから動く気にもなれなかった。
「みんな……逃げ、て……逃げて……」
「ここは彼らに任せるしかありません。あなたさえ生きていれば、いつでも立て直せる」
「……なに言ってるの? いつでもっていつ? また何百年も経ったあと? こんなこと、何度繰り返すつもりなの!」
「姫……」
「私は姫じゃない! 猫井美鈴だよ!」
どんっとタマくんを突き飛ばし、腹の底で煮えたぎる怒りを糧に立ち上がる。
「私だけじゃダメだんだよ、みんながいなきゃ!」
陰陽師も猫又も仲間を殺され、怒りに敵(かたき)を取ろうと殺し合っている。ここには怒りしかなかった、殺意しかなかった。
「なんのために言葉があるの、なんのために考える頭があるの、なんのために悲しみ喜ぶ心があると思ってるの? 分かり合えない相手とも、分かり合うためだよ!」
怒鳴れば、所長さんは鼻で笑った。
「美鈴さんはまだ二十三だったね、まだ子供だ。世間に出たばかりで、理想だけじゃどうにもならないことがあるって、わからないんだろう」
「なにが言いたいんですか」
「どれだけ心を尽くしても恩を仇で返す連中はいる、それがあやかしだ。あいつらは馬鹿のひとつ覚えみたいに人間を喰らう。それ以外の知能など持ち合わせていない獣だよ」
無機質に響く所長さんの口上、それはいつもの穏やかさがないからこそ本心から出た言葉だとわかった。
こっちのほうが、いつもの飄々とした態度よりずっと信用できる。
「なにが……所長さんをそんなふうに偏った考え方にさせたんですか?」
「偏った考え方ではないよ、これが世の心理なんだ。犠牲失くしては目的は達成できない、甘さや優しさなどでは大事な者は守れない。非道だろうと、確実な方法を取る責任が私にはある」
所長さんの中に、その考えを曲げられない確固たる理由があるのが伝わってくる。
でも、『はい、そうですか』と容認はできない。私は所長さんが経験したものを知らないし、私の心は私だけのものだから、自分で信じたものしか選べない。
「所長さんはきっと、その甘さや優しさのせいで、とても大切なものを失くしたんですね」
所長さんが息を詰まらせるのがかわかり、やっぱりそうなんだと小さく苦笑いする。
「それがどうしてなのかはわかりません。だけど……甘さや優しさがなくたって、私たち……こうして傷つけ合ってるじゃないですか。憎しみや復讐心に駆られてたって、大事な者は守れないのでは?」
はっとしたのは、所長さんだけでなくタマくんもだった。
よかった、まだ私の言葉は届く。魔性の瞳で命令しなくても、ちゃんと。
「もし、それでも怒りが収まらないのなら、私を煮るなり焼くなりしてください」
両手を広げて無抵抗だと意思表示すれば、タマくんが私の肩を掴んで自分のほうへ振り向かせる。
「僕がそんなこと、許すわけないだろ!」
怒りと悲痛が滲んだ彼の顔が間近に迫り、胸が痛む。
ごめんね、と心の中で謝りながら、私は魔性の瞳を発動させた。
「──私の意思を縛りつけることはできない。たとえ、タマくんであっても」
うっとタマくんが小さく声を漏らし、私からぎこちなく手を離す。
タマくんの思惑のおかげで、随分と力が身体に馴染んできている。
彼を制御下におけているという確かな手応えがあった。
「その代わり、ここにいる猫又たちは傷つけないでください。猫又たちにも、あなたたちを傷つけさせないから」
「口約束は信じない質なんだ」
「口約束なんかじゃない」
ぶわっと私の髪が浮き、身体中を熱が駆け巡る。ドクン、ドクンッと脈打つ力の波動を少しずつ大きくしていき、私は息を大きく吸う。
「──この場にいる全員、私の許可なく傷つけ合うことを禁じる」
ピキンッと空気が張りつめる音がして、陰陽師や猫又たちは一斉に動きを止めた。
ね?とばかりに所長さんに向き直れば、その喉がゴクリと上下に動いた。
「ここまで広範囲に術をかけられるまでになっていたとはね。脱帽するよ」
「これで、私の提案を聞き入れてくれますか?」
「……ああ、いいだろう。ひとまずこれで、あやかし七衆の猫又の一族は陰陽師に害成すことはできないからね。人間に手を出されたそのときは、他の陰陽寮の陰陽師を派遣するとしよう」
陰陽師と猫又たちが見守る中、所長さんが私のほうへ歩いてくる。
「美鈴に近づくな! ふざけるなっ、勝手に決めるなよ!」
タマくんが慟哭にも似た叫びをあげる。
でも、魔性の瞳の力が働いているせいで、タマくんは私の意思に反した行動をとることはできない。
私の拘束から逃れようと前のめりになり暴れているが、こちらに足を踏み出せないでいる。
「従者として、幼馴染として、僕はずっと美鈴のそばにいたんだぞ! ずっとあなたを見守ってきた……っ、なのに、また失うのか!」
私は八百年なんて途方もない時間を生きたことがないからわからないけど、大事な人に置いて行かれて、それでも待ち続けるのは……寂しかっただろうな。
「タマくん、私が生まれ変わるのをずっと待ち続けてくれて、ありがとう。私、タマくんのおかげで……家族に捨てられても、おばあちゃんが死んじゃったあとも、寂しくなかった」
「美鈴……」
「だから、タマくんが孤独だった時間も埋められるくらい、一緒にいてあげたかったけど……ごめんね。できそうにない……っ」
笑いたかったのに、涙で声が震える。
悲しいのは、ただ封印されるからではない。またタマくんを、大好きな人たちを置いていかなきゃいけないから。
「誰よりも、ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて……つらいこと、知ってるのに……」
タマくん、水珠、赤珠、ポン助、それから……光明さん。
「本当に……ごめんなさい」
後ろから回った所長さんの手が、私の顔を覆う。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──」
所長さんの声が真後ろでして、青白い光が私を包み込んだ。徐々に思考が奪われ、強い眠気に襲われる。
「──封印、急急如律令」
「静紀!」
所長さんの指の隙間から見えたタマくんの泣き出しそうな顔。それが眩い光に薄れていき……重力に逆らえず、私は瞼を閉じた。
***
『──美琴、聞いておるのか』
……え?
瞼を持ち上げると、目の前には絶世の美女がいた。
薄紫の長髪や紫水晶の瞳は気怠げで美しく、アヤメの花が刺繍された藤色の着物は彼女のためにあつらえたよう。
あれ、待って……この人、見たことがある。
この妖艶な彼は女性ではなく男性、そして人間ではなくあやかし──土蜘蛛の紫苑だ。
『紫苑、茶の席でくらいは物騒な話はやめないか』
私の意思に関わらず声が出た。
なぜか私は紫苑とお茶を飲んでいる。
これは夢? そうしようと思っていないのに、この身体は勝手に湯吞みを口に運ぶ。
私がいるのは柱だけで壁がほとんどなく、御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)や衝立(ついたて)で生活空間が仕切られた寝殿造の屋敷。
さっきまで猫又が隠れ住んでいる神宮にいたはずなのだが、これはどういう状況だろう。
夢にしてはお茶の苦さ、空気の温かさをリアルに感じる。
先ほど紫苑に美琴と呼ばれたことといい、これはまさか……美琴だった頃の記憶?
『帝は高額な納税を強いたことで、民からの信を失いつつある。それを挽回するための策として、大々的なあやかし討伐を行うらしい』
帝……ということは、ここは平安時代?
建物の雰囲気や着ているものからするに、きっとそうだろう。
紫苑が人差し指を動かすと、糸がピンッと音を鳴らしながら太陽の光を受けて輝く。
糸は青空のほうへ伸びていて、その先がどこへ繋がっているのかはわからない。
『お前の糸は便利だな。遠くの声も拾えるのか』
美琴がちらりと糸を見やると、紫苑は意味深な笑みを唇のほとりに浮かべた。
『気をつけるのだな、私には美琴と晴明の密事も筒抜けだ』
くだらんと言いたげなため息とともに、美琴は欄干に寄り掛かり、屋敷を囲うようにある池を覗き込んだ。
そこに映ったのは、憂い顔の紅い髪の女性。私と瓜二つだけど、私は彼女ほど凛然としていない。
儚げに見えて、その瞳には芯の強さが宿っている。これが、前世の私……。
『悪趣味だな、紫苑』
耳心地のいい低音がして、美琴がゆっくり声の主を仰ぐ。
後ろで束ねられた夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪、静かな深海を思わせる青の瞳。
見る者を惹きつけるその美しい顔貌は、澄んだ水のように清潔感があり、あれは間違いなく……。
『──晴明』
美琴は口元を緩ませながら、愛しい男の名を呼んだ。
『人間を喰らうガマガエルとやらは退治できたのか?』
『いや、あいつは噂ほど悪いやつではなかったからな、話をつけてきた』
美琴と紫苑の頭上に『話を……つけてきた?』という疑問が浮かんでいるのが見える。
『あいつは、正確には人間は喰らっていない。口の中で転がして、味を楽しんでいたらしい。あれだ、水飴みたいなものなんだろう』
呆気にとられているふたりを他所に、晴明さんは至極真面目に報告を続ける。
『だから、ガマガエルの水飴になる仕事を作った。貧困に喘ぐ町民には割のいい仕事みたいでな、今では町いちばんの人気職だ』
晴明さんは至って真顔で言い、美琴の隣に片膝を立てて座った。そこでふたりは限界だったようで、ぶはっと吹き出す。
『美琴、お前の夫はやはり変わり者だな』
紫苑が目に涙をためながら、美琴を指差してからかう。
『私を嫁にする時点で、普通の人間でないことは確かだろうな』
向けられた指を下げさせ、美琴がにやりとしたとき、晴明さんは『なぜだ』と首を傾げる。
『俺が美琴を嫁にしたら、おかしいのか』
『おかしくはないが、強いて言うならば、そういうことを平然と尋ねてくるあたりが異常だな』
夫相手に随分な物言いをして、美琴は晴明さんの長い髪の束を引っ張る。
『俺は美琴を愛している』
『くっ、くっ、くっ……話が嚙み合っておらんな』
ツボに入ってしまったのか、紫苑はお腹を抱えて笑っていた。
晴明さん、ちょっと天然なのかな。毒舌で、氷点下並みにクールな光明さんの前世とは到底思えない。
でも、当たり前だ。私たちは生まれ変わりかもしれないけれど、別の個人なのだから。
『この男は出会った頃から、いろいろと嚙み合ってなかったぞ。あれは冬の日だったか、空腹で倒れていたかと思えば図々しく飯をねだってきてな。うっかり、そう不憫に思って、持ち合わせの握り飯をやったら、こうして懐かれた』
『そうやって食べ物を人間に与えてしまう美琴も、相当だぞ。晴明の気づいたら懐に入り込んでいるところに絆されたというわけか』
『否定はできんな』
苦笑いする美琴に、紫苑は『付き合いきれん』とわざとらしく首を振ってみせ、立ち上がった。
『そろそろ帰ることにしよう、熱に当てられそうだ』
『そうか、今度来るときは土蜘蛛の里名物、蜘蛛糸饅頭を差し入れてくれ』
『あやかしの食べ物を好んで口にするか、やはり晴明は面白い。いいだろう、茶飲み友達の頼みだからな』
ひらひらと手を振りながら歩いていく紫苑だったが、ふいに足を止める。
『……美琴、帝は特にあやかし七衆の首を狙っておる。死ぬなよ、いちばん気の合うお前を失うのは……堪えるからな』
こちらを見ずに去っていく紫苑。美琴が『ああ、わかっている……』とか細く答え目を伏せると、その肩を晴明さんが抱き寄せた。
『朝廷から、あやかしの討伐命令が出るかもしれん』
『民からの心証をよくするため、あやかしを狩る……体のいい必要悪だな。ただ……一族の中には戦えない者もいる』
『美琴』
『討伐命令が出る前に、対策を講じなければ……』
『美琴、案ずるな』
晴明さんは不安に飲まれそうになっていた美琴の顔を両手で包み込んだ。
『ふたりで考えるぞ、人間もあやかしも共に生きられる方法を』
晴明さんの真っ直ぐな瞳は、本気でそんな世が来ると信じて疑っていない。
不思議と信じたいと思わせる力が、晴明さんにはあった。
吸い寄せられるように顔が近づき、美琴が目を瞑る。視界が閉ざされ、吐息を感じ、口付けを交わす刹那──。
どこかで炎が爆ぜる音がした。再び瞼を持ち挙げれば、私は……美琴は、どこかの村にいた。それも家々が燃えて、夜なのに辺りが明るい。
『なんと惨いことを……』
地面にごろごろと転がっている猫又の女子供の骸から、美琴はすぐに目を背けた。
『姫様! 晴明の話では、討伐命令はまだ出ていないはずでは?』
刀を持った男を鋭い爪で倒し、駆け寄ってきたのは……タマくんだった。
美琴は彼と背をくっつけるようにして、周囲を取り囲む追っ手と睨み合っている。
『あやかしに好意的な晴明に、我らは討てん。初めから晴明には朝廷からの命令はまだ出ていないと伝え、それをあえて私たちの耳に入るようにし、油断しているところを叩くつもりだったのだろう』
『だとしても、こちらには紫苑殿の糸があります。そのような策略も筒抜けだったはずでは?』
『紫苑とは茶会のあとから連絡が取れておらぬ。もしかしたら、すでに討たれたやも……』
美琴は苦しげに眉を寄せ、すぐに息を吐いて顔を上げる。悲しんでいる暇も、彼女にはなかったのだ。
『とにかく生き残っている仲間を見つけ出し、避難させるのだ。玉貴、頼めるか』
『姫様はどうなさるおつもりですか?』
『私はここでできるだけ、敵を足止めする』
『なりません! それは私が……っ』
振り返ったタマくんに、美琴は語気を強めて言う。
『聞き分けろ、玉貴。帝は特にあやかし七衆の首を欲している。自身で悪を退治したと見せびらかすまで、すぐにこの首は取らん。その隙になにがなんでも逃げ出す。だが、それ以外のあやかしはそうはいかない。わかるだろう?』
『……っ、はい……あやかしの頭だからこそ、討てば功績も大きいですが、私たち下っ端では影響力はさほどありません。ですから、すぐに殺されてしまう』
『そうだ。私も死ぬ気はない、そしてお前たちを死なせる気もない。だから、そのための最善策だ』
『承知……いたしました』
悔しさを堪えるように唇を噛んで俯くタマくんの手に、美琴は手を添える。
『お前は、私の最も信頼している剣……。お前にしか頼めぬ、どうか一族の皆を守ってくれ』
『くっ……御意に』
頷いたタマくんの頬には涙が伝っている。美琴は弟に向けるような優しい眼差しを彼に注いだあと、静かに敵を見据えた。
『──全員、動くな』
魔性の瞳で人間たちの動きを封じ、『今のうちに行け』とタマくんの背を押す。
タマくんは泣きながら、大きな猫又に化けて里の猫又たちを助けるべく飛んでいった。
『さて……』
拘束した人間たちを見回しながら、美琴は自嘲的に笑う。そのときだった、美琴の想いが、私にも伝わってくる。
──奇襲を受けたこの里に、生き残った猫又はどれほどいるのだろうか。ろくな対策もできぬまま、一方的に狩られるだけだった。望みは薄いが、玉貴を信じるしかない。
──そして、晴明は私たちを助けられぬよう、朝廷に拘束されているだろう。それどころか、朝廷からあやかしの討伐命令が出た以上、陰陽師である晴明は私を殺さねばなるまい。そうしなければ、死罪になる可能性すらある。
『すまないな、玉貴。私は……夫を助けなければならん』
──いや、違うな。
『助けたいのだ、私が……』
──夫が私を匿ったとして、罪に問われることがないように……。
美琴は魔性の瞳の力を解く。自由になった兵たちは戸惑っていたが、美琴は『私を連れていけ』と両手を広げた。
『お前たちに捕まろう』
──そして陰陽師に葬られる。それが夫を救う最善の策だ。
そこへビュンッ、ビュンッと無数の光る矢が飛んできて、美琴の背を射抜く。
『ぐうっ』とうめいて地面に倒れ込んだ美琴を、容赦なく兵たちは刀で斬りつけた。
そのときの痛みは私にも伝わってきて、言葉にならない、息もできないほどの激痛だった。
痛いっ、痛いっ、痛い……! こんなの人間のすることじゃない……っ。人間のほうが、よっぽど恐ろしい化け物だ!
光の矢が刺さったところから、力が抜けていく。
ぐったりとした美琴は荷物のように馬に乗せられ、やがて立派な屋敷の広場に乱暴に転がされた。
私はここを知っている、朝廷の敷地内にある陰陽寮だ。何十人といる矢を構えた陰陽師たちに囲まれ、刺すような空気が漂っている。
ここに、美琴の味方はどこにもいなかった。なにがあっても美しく降り注ぐ桜の雨、それすらも美琴の心を冷たくしているのがわかる。
結界に囚われ、うつ伏せに倒れている美琴の身体の下には血だまりができている。
桜が咲いているので春だとは思うが、寒くて仕方なかった。
【死】という文字が頭を過ぎったとき、また美琴の心が流れ込んでくる。
──痛い、寒い、苦しい、憎い……。生き残った仲間はいるだろうか? 山の中に築いた隠れ里も見つかり、女も子供も皆殺しだった。きっと、もう誰も──。
『あやかしなど、知性のない獣と同じ。生かす価値もないわ』
陰陽師の言葉に、美琴はギリッと奥歯を噛む。そんな彼女を陰陽師たちは蔑むように笑った。
『あの耳と尾を見よ。まさに獣』
──私たちあやかしが獣なら、お前たち人間は慈悲の欠片もない化け物だ。
また、美琴の心が聞こえてくる。でも、美琴は人間を憎みきれないのだろう。人にも、あやかしに理解を示す者がいると知ってしまったから……そう、晴明さんのように。
そこへ仲間の陰陽師に引きずられるようにして、ひとりの男が連れてこられた。美琴は土を握りしめ、力を振り絞るように顔を上げる。
『……なぜ、なぜ逃げなかった、美琴(みこと)』
後ろ手に縛られ、美琴の前へと突き出されたのは晴明さんだ。
泣き出しそうな顔をしている晴明さんを目にした瞬間、美琴の心が震えたのがわかった。
──あの後ろで束ねられた、夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪を梳いてやりたい。静かな深海を思わせる青の瞳も、ずっと眺めていたい。でも、これで見納めか……。
美琴の心を知って、私は光明さんと出会ったときに彼に触れたくてたまらなくなった理由が腑に落ちた。
懐かしくて、切なくて、悲しくて、悔しくて、そして──愛しい。
涙とともに溢れた、たくさんの感情。あれは美琴の、晴明さんへの想いだったのだ。
あのとき、手が勝手に光明さんの髪に伸びた。どうしてか、優しく梳いてあげたくてたまらなかった。いつまでも彼の瞳を眺めていたい、そう思った。
あれは全部、美琴が晴明さんにしてあげたかったことだったのだ。
美琴は自嘲的な笑みを口元に浮かべる。
──なぜ逃げなかったのか、利口なお前なら気づいているだろうに。
そうだよ、愛した夫を置いていける妻なんているわけがない。
陰陽寮に属している以上、晴明さんは朝廷の者。朝廷に、帝に逆らえば、晴明さんは反逆者として殺されてしまうのに、ひとりで逃げられるわけがない。
『その者を殺せ、晴明』
御簾の向こうから、しゃがれた声で非情な命令を下すのは、恐らく帝だ。
『できませぬ! たとえ、帝の命だろうと!』
『なんと……我の命が聞けぬと言うか! 陰陽寮きっての陰陽師だからと、図に乗るでない! その首、跳ねてもよいのだぞ……!』
『その御心の済むようになさればいい。妻を見殺しにするくらいなら、死んだほうがマシです』
怒りに震える帝に、なお食ってかかろうとする晴明さん。美琴は『やめろ……晴明……』と声を絞り出す。
あやかしを守る立場にいる美琴と、人間を守る側にいる晴明さん。
正反対の立場にいるふたりの仲を『イカレた男だ』『あやかしを娶るとは』と侮辱する者はいても、理解できる者はいなかった。
──私は、あやかしを守る立場にいる。それなのに、人間の……それも陰陽師を夫に迎えた時点で、仲間を裏切ったも同然の私が、人間を憎みきれないこと。これ以上、散っていった仲間に顔向けできない真似はするべきじゃない。
──全てを敵に回しても夫と生きていきたいなどと、言えるはずもない。許されない。
──そして、守るべき仲間たちがもうこの世にいないのなら、果たすべき責任は死地への旅に付き添うことの他にはないだろう。それで夫も、私を匿ったとして罪に問われることもあるまい。
『あやかしと陰陽師……私とお前は、そもそも相容れない存在だったのだ……』
どこか言い聞かせるような語り口に、晴明さんは眉をいっそう寄せ、涙で目を濡らす。
『そんなこと、初めからわかっていたはずた。それでも俺は、お前を愛した』
その言葉を聞いた途端、美琴の頬に……私の頬にも、つううっと涙が伝っていく。
──私も、愛したからこの運命を選んだ。
──お互いの立場を考えれば、いつかこうなることはわかっていた。それでも、限られた時間を共に生きることこそ私の幸せだと、そう信じて……。
ただ、それは強がりだったかもしれないと、美琴は晴明さんを前にして気づいてしまったのだ。
この涙がなによりの証。美琴は本当は、もっとずっと晴明さんと生きていきたかったのだ。
でも、包み隠さずその気持ちを口にしようものなら、晴明さんが泣くから……だから、美琴は言わない。
その想いを胸の奥深くにしまい、蓋をして逝こうとしている。
わかってしまう、私が美琴ならそうするだろうから。
『……晴明。なにも遺してやれず、すまない』
陰陽師たちが呪文を唱えると共に指で印を切る。眩い光が美琴を包み、愛する夫の姿を霞ませていく。
絶命させられそうになっているというのに、美琴は自分の死よりも晴明さんが悲しむことを恐れていた。
『やめろ……!! 美琴がなにをした!? あやかしにも、善良な者はいる! なぜそれがわからない!』
悲痛な晴明さんの叫びだけが響いている。
──ああ、今宵の月が悲しげな色を放っているのも、桜が天の涙のように見えるのも、お前の心が泣いているからか──。
『美琴──!!』
鼓膜をつんざくような爆発音とともに、視界が一気に白に染まる。
身体の感覚という感覚が消えていき、痛みも寒さも感じない。
薄れゆく意識の中で、無情な世界に残された夫を想う美琴の心の声が聞こえる。
──来世で……また会おう。再び巡り逢えたら、私たちは間違いなく……惹かれ合うだろうから。
***
「はあっ、はっ……っ、美鈴!」
俺は目の前で猫又──魚住に攫われていく美鈴を追いかけていた。
美鈴のいる宙を仰ぎ、通行人にぶつかりながら全力で走るも、その姿は見えなくなる。
「くそっ」
そばにおったのに、あないに簡単に奪われて、自分が情けのうてしゃあない。
無力感に苛まれる俺に追い打ちをかけるように、メガネをかけた黒いスーツの男が行く手を阻んでくる。
「……比呂さん」
ここに所長の補佐役である比呂さんがおるってことは、所長がなんか企んでるのか?
魚住と関係あるのかはわからへんが、あまりええ状況とは言えへんな。
「邪魔する気なら、こっちも本気で相手させてもらうさかい」
「お前は陰陽師だろう、戻ってくる気はないのか。人生、棒に振る気か」
「陰陽師だからや!」
声を張る俺に、比呂さんはわずかに目を見開いた。
「人を傷つけるさかい殺すって言うんなら、犯罪者も熊もイノシシも人を襲うたら殺してええってことになる。このご時世、罪人にだって生きる権利があるんですよ。そやのに、俺らのやってきたことは人殺しと変わらへんと違いますか」
陰陽師やさかい、あやかしの肩を持つんはおかしい。その固定概念が、どれだけ視野を狭めているのか、人としての善悪を捻じ曲げているのかに陰陽師たちは気づいていない。
「非道なのは、理由も聞かへんであやかしを滅してきた陰陽師のほうや。人間同士の揉め事には法律があるけど、人とあやかしの問題にはそれがあらへん。そやさかい、こないな殺戮がまかり通るんや。いつか、あやかしに報復されてもおかしない」
そして繰り返すんや、憎み憎まれ、殺し殺され……悲劇を何度も。
「そやさかい、俺は戻りません。美鈴が封印される理由も納得いきませんから」
「あの子が好きなのか」
「……は?」
堅物で極悪面の比呂さんの口から、愛だの恋だのという類の話が飛び出すとは思っておらず、間抜けな返しをしてしまう。
でも、ああ……そうか。あいつが心細そうにしてると、ほっとけへん思うんは……俺が美鈴のこと、好きやったからか。
こないな大事なこと、あいつがいーひんようになってから自覚するなんて……俺、アホすぎるやろ。
「そうですね、俺はあいつが好きです。そやさかい、あやかしの味方をするってわけちゃう。あやかしも人も対等に見つめる美鈴を見て、俺もそうするのが正しいって自分で考えてそう思ただけや」
「……そうか。なら、お前は大事な人を失わないように足掻け」
愚かだと、俺の考えを突っぱねられると思っていた。でも、予想に反した答えが返ってきて、俺は自分の耳を疑いながら尋ねる。
「比呂さん……俺を止めないんですか」
「……立場的には止めるべきだろうな。だが……これは個人的な事情だ」
比呂さんの個人的な事情ってなんや?
眉を寄せる俺に、比呂さんは苦笑をこぼす。
「英城は……所長は、あやかしに婚約者を殺されている。歳は猫井さんと同じくらいだったはずだ。雪奈(ゆきな)といってな、俺の妹でもあった」
「なっ……」
殺されている。それを聞いて驚いたが、ときどき所長から底知れない闇を感じていたのはこのことだったのかと納得もする。
俺も奪われ、憎んだことがあるからわかるのだ。どれだけ明るく振る舞っていても、普通のふりをしてきても、憎悪の影は隠しきれない。
「俺たちの家は代々陰陽師の家系だったんだが、雪奈の力はさほど強くはなく、俺や英城のようにあやかしを滅する陰陽師として育てられなかった。ただ、あやかしを見ることはできた雪奈は、あやかしに対しても分け隔てなく優しかったんだ」
「所長は、あやかしは滅するべきものや思てるやろ。雪奈さんと意見がぶつかったんちゃいますか」
「納得はしていなかったが、今のお前のように雪奈の考え方を理解しようとしていた。だが、そのせいで英城は雪奈を失った」
「どういうことです?」
「雪奈のところに遊びに来ていた子供のあやかしに食われたんだ。英城も何度も会っていたからな、安心しきっていたんだろう。ふたりを残して家を出て、仕事から帰ったときには……骨ひとつ残っていなかった」
骨ひとつ……そら、無念なんて言葉じゃ足らへんほど、許せへんかったやろうな。
亡骸に縋りつくことも、弔う機会も奪われたんや。それじゃ、いつまでも進めへん。
「なんでや……そのあやかしは、なんで雪奈さんを?」
「腹を空かせていたらしい。それで陰陽師ほどとはいかないが、霊力のある雪奈に近づいた。英城は雪奈の考えを尊重したことを後悔していた」
たった一回の情が、親切が、迷いが、大事な者の命を一瞬にして奪うかもしれないのだ。
それを誰よりも知ってるからこそ、所長は奪われる前に手を打つと言ったのだろう。
「しばらくは抜け殻のようになっていたが、それから数週間ほどして、英城はいつも通り出社してきた」
「復讐するため……ですね」
原動力にするには手っ取り早い起爆剤や。
あやかしの考えなんてどうでもいい、俺の大事な者を奪った、その事実さえあれば十分なのだ。自分を正当化しながら、悲しみを紛らわせることができる。
「……ああ。いつも通りに見えるが、あの日あいつの心も死んだんだろう。茶にタバスコや唐辛子を入れるのも、その痛みで生きていることを実感し、なんのために生きているのかを再確認するためだと気づいたとき、俺は自分の無力さに腹が立った」
所長と比呂さんが旧知の仲なのは知っていたが、それ以上に踏み込めない絆のようなものを感じていた。
友人であり、仲間であり、家族であり、上司と部下でもあり、大事な者を奪われた者同士でもあり……。こんなにも複雑な繋がりだったとは、思いもしなかった。
「子供の頃から付き合いがあったからな、英城と雪奈が惹かれ合うのは自然なことで、俺もふたりが幸せでいられるように尽くそうと思っていた。だが……叶わなかった」
「比呂さん……」
「だから光明、お前の心が死んでしまわぬように彼女を守り切れ。もっと早くこの言葉をかけてやりたかったんだが……」
「比呂さんは、所長の願いを叶えたったかったんやろう? そやさかい、俺の肩を持てへんかった」
「……それが俺にできる唯一のことだと思っていたからな。だが、引き裂かれそうになっているお前たちを見ていて、違うと気づいた。愛し合っているふたりが引き裂かれていいはずがない」
比呂さんもつらかったやろうな。守りたかったふたりを守れなかったと、今も自分を責めている。それでいて俺と美鈴のことを思い、味方になってくれたんや。
「英城は魚住さんと協力関係にあったときから、魚住さんの動向を探っていた。猫又の一族は、生き残ったあやかし七衆とともに人間や陰陽師を襲う気でいる。だから所長は、陰陽師を率いて猫又の隠れ家に向かった」
「猫又の隠れ家……そこに魚住がおるかもしれへん。ちゅうことは、魚住が攫った美鈴も危険やちゅうこっちゃ。すぐに行かな──ぐあっ……」
全身に電撃が走ったような痛みに襲われ、俺はその場に崩れ落ちた。
「……! 光明、どうした!」
比呂さんが駆け寄ってきてくれるが、返事をする余裕がない。
久々やな、この感覚……。
地面についた両手の甲に【呪】の文字がびっしりと浮かんでいる。これが出ているということは、【呪約書】の内容を破ったという証。
【一、俺、安倍晴明の生まれ変わりは猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない】
「美鈴になにかあったんや……」
商店街の向こうにある見える山から、青白い光の柱が上がる。一般人には目視出来ないだろうが、あれは間違いなく……。
「英城の術だ」
「美鈴、待っとき。すぐに助けたる」
呪いが回り、動くたびにビリビリと痺れて痛む身体を無理やり起こし、俺は立ち上がった。
喰迷門は知っている場所でなければ使えない。美鈴がどこにいるかわからない以上、自分の足が頼りだ。
「俺も行こう」
隣に並ぶ比呂さんを、俺は横目で鋭く見据える。
「俺の敵になるんやったら、比呂さんやろうとここで倒すで」
「俺には親友を……妹の大事なやつを守る義務がある。雪奈はあやかしを傷つけることを望まない、それを踏みにじるあいつを止めるんだ。あいつの心を守るために」
「なら、俺らは同士ですね」
「生意気なやつだ」
小さく笑い、俺たちは山へと目を向ける。そして走った、そばにいてやりたい人のもとへと。
「美鈴!」
都会では珍しい山の中腹、オーロラがかかった星空の下に浮世離れした神宮があった。
猫又や陰陽師が倒れている中、青い光の柱の中で眠る美鈴を見つける。
その姿が誰かと被る。そう、着物を纏った、今よりももっと大人びた女の姿と……。
「くっ……」
呪いの影響なのか、そうじゃないかは定かではないが、視界がぐらりと揺れた。
頭痛がして額を押さえた俺は、封印されている美鈴を強く見つめた。
ダブって見えているのは、前世の記憶だろうか。
「……こら俺の人生や」
決して前世の妻を助けたいわけちゃう、俺が……美鈴を助けたいだけや。
呪いに痛む身体を無理やり動かして、俺は立ち尽くしている魚住のもとへ行き、その胸倉を掴む。
「それで? お前はそこでなに突っ立ってるんや」
「美鈴が……魔性の瞳を使ったんだ。ここにいるあやかしは陰陽師を、陰陽師はあやかしを襲えない。そして僕の動きを……封じた。美鈴はあやかしと人が争わないようにするために、自分で望んだんだ……封印されることを」
諦めを滲んだ目を伏せ、投げやりに言う魚住に苛立ちが込み上げた。
「それで、お前はそうして腑抜けてるんか! 攫うといて、簡単にあいつを諦めるんやな」
「覚醒間近の美鈴の力には抗えない! 仕方ないだろ!」
声を荒げた魚住の目から、透明な粒の水滴が瞬きと一緒に弾き出される。
「あいつに魔性の瞳を使わしたお前が悪いんやろう。力を使いたがらへんあいつを追い詰めな、あいつが封印される事態にはならへんかったはずや!」
魚住は「……っ」と息を詰まらせる。
俺の言葉を否定しきれへん時点で、俺の言葉を認めてるのとおんなじなんやぞ、魚住。
「あいつは誰よりも、お前に自分の考えを理解してほしかったはずや。敵対するのも、力で無理やり従わしてお前を止めるのも、しんどかったはずや。そんなこと、お前が誰よりも知ってるやろう!」
黙ってしまう魚住の肩を、乱暴に掴む。
魚住にかけられた魔性の瞳の束縛が解けるのは、俺だけだろう。だから魚住の返答次第では、解放するつもりだった。
「お前は、誰のためになにをしたい」
「それは……姫のために……」
「そら美鈴のことか? それとも美琴のことか?」
「僕に……選べというのか? 美琴への忠誠を貫き、復讐をとるのか……。あやかしの僕にとっては、瞬きと同じくらい短い間しか一緒にいなかった美鈴との穏やかな日々を守るのか……」
「そら、そないにややこしいことか。あいつが封印されたとき、なんもできひんかった。そやさかい、後悔して泣いてるんちゃうんか」
はっと夢から覚めたような顔で、魚住が息を呑んだ。やがて、その瞳から迷いが消え、引き締まった面構えになる。
「自分がなにを本当に望んでいるのか……この涙に教えられるとはね」
魚住は自分の下瞼を人差し指で掬うように撫で、そこに載った涙の粒を見つめると、弱々しく笑った。
「そうだよ、僕は美琴様に仕えた数百年よりも、美琴と過ごした数十年を大事に思っている。僕に……安らぎをくれた彼女が……大事なんだ」
心の奥底にある想いを引きずり出すように言い、魚住は俺に真っ向から相対する。
やっと、ええ顔になったやんか。
「僕は美鈴のために、そして自分のために美鈴を取り戻す」
「よう言うた。臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。解術(かいじゅつ)、急急如律令」
俺の手から放たれた青白い光が、魚住の肩に触れている手から広がる。光は魚住の身体を包み込み、固まっていた腕や足に自由を取り戻していく。
「話は終わったかな」
声を発した所長は封印された美鈴の横で、いつもと変わらない笑みを浮かべている。ここが陰陽寮の所長室かと錯覚するほどに。
「……で、比呂。光明の足止めを頼んだはずなのに、一緒に連れて来ちゃってるのはどういうことかな」
……八岐大蛇を従えて、平然と話してるなんてな。所長の陰陽師としての能力は、安倍晴明でも手ぇ焼くやろう。
おどろおどろしい八つの頭を持つ蛇を前に嫌な汗が背を伝ったとき、比呂さんが前に出た。
「英城、俺はなにが正しいのかをずっと考えていた。雪奈が大切にしたあやかしとの繋がりを壊してしまって、お前は後悔しないのかと」
「後悔などしないよ。全てを守ろうとするから、守り切れない。だから、いちばん大事なものを、この手からあぶれないものを、この目が届く範囲のものだけを守ると決めたんだ。そのためなら、手段は選ばない。もう二度と、失わないために」
「英城……」
言葉を紡げなくなった比呂さんの代わりに、俺は一歩を踏み出す。
「二度と失わへんために? なに言うてるんや、失うやろ!」
「私は失わないよ」
「なんもわかってへんのやな。肉体を失うたら、残るんは想いだけや。そやのに雪奈さんが残した唯一の信念や心を裏切ったら、その想いを失うことになるんや! それがわからへんのか!」
所長の目が見開かれていき、放心している隙を狙って俺は印を切る。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。思業(しぎょう)式神! 水珠、赤珠、急急如律令!」
五芒星が目の前の空間に現れ、そこから水珠と赤珠が飛び出した。
「……っ、お嫁様……!」
「あんなのに掴まりやがって……叩き起こしてやるからな!」
封印されている美鈴に気づき、顔をしかめているふたりに俺は命ずる。
「水珠、赤珠、美鈴を助け出すで。──道を切り開け!」
「「承知いたしました!」」
ふたりが繰り出した炎と水が渦を巻きながらひとつになり、所長と八岐大蛇に容赦なく襲いかかる。しかし、所長が簡単に術を受けるはずがなかった。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。結界、急急如律令!」
ピキンッと所長と八岐大蛇の周囲に透明な壁が現れる。
さすがは所長、それは他の陰陽師とは比べ物にならないほど早く形成され、頑丈だった。
だが、水珠と赤珠はそれよりも先に壁をぶち壊す。
──ドゴオオオンッ!
所長は間一髪で飛び退き攻撃を避けたが、八岐大蛇は図体がでかいせいで素早くは動けないらしい。
『ニャオオオオンッ!』
魚住は八岐大蛇の首に噛みつき、そのまま頭のいくつかを噛み千切った。
あれでは、しばらくは動けないだろう。その間に俺は光の柱まで走り、美鈴を見上げる。
「いつまで寝てるつもりや。誰が封印されてええって言うた」
呼びかけても返事をしない美鈴に、込み上げてくるのは苛立ちでも悲しみでもない。
「俺、安倍晴明の生まれ変わりは、猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない」
【呪約書】の一説を読み上げ、俺は光の柱に手を突っ込む。ビリビリッと異物を拒むような電流が肌を焼くが、構わず美鈴の腕を掴んだ。
「……っ、く……俺は【呪約書】関係のうて、お前を諦める気はさらさらあらへん。俺の、安倍光明の妻を取り戻す、絶対に!」
じゅうっと腕の皮膚や肉が焦げ、痛みに一瞬だけ意識が飛びそうになる。だが俺は美鈴の姿をしっかり瞳に捉え、倒れないよう踏ん張った。
「伝えたいこと、が……っ、あるんや!」
気づくのが遅くなったせいで、俺は美鈴に伝えられなかった。
もしかしたら、自分から封印されることを望む美鈴を引き留められただろう想いを。
「そやさかい……っ、帰ってこい、美鈴!」
***
『──帰ってこい、美鈴!』
唐突に光明さんの声が聞こえた気がして、私の意識が目覚める。
気づいたときには、私は暗闇の中で自分そっくりの女性と向き合うように立っていた。
「今の声は……あなたは、誰?」
私は問いかけておきながら、彼女を知っている。だって、今の今まで夢で見ていたのだ。彼女になって、前世を追体験してきた。
「ううん、美琴。あなたは……私の前世」
「そうだ。そしてお前は……私の未来。本来ならば会うことは叶わないが、私も晴明も未練があったのだろうな。晴明は【呪約書】なる呪で私と自分の魂を繋いだ。その影響か、私や晴明の意識が残ったまま転生してしまったようだ」
「じゃあ、晴明さんの意識も光明さんの中に?」
「お前も話したことがあるだろう、晴明と。屋敷の結界が解けたときに」
屋敷の結界が解けたとき……。
『──ここにいたか、愛しい妻よ』
あのとき、頭の中で聞いたことがない男の声が響いたのだ。
『──このような小細工を……どうりでなかなか見つからないはずだ』
そっか、所長さんの結界を解いたのは、晴明さんだったんだ。だから私は、光明さんに会えた。
『──帰ってこい、美鈴!』
「まただ……」
私は知っている。私を呼んだ彼が誰なのかを。晴明さんじゃない、あなたは……!
呼びかけに応えるため、大きく深呼吸をする。
「光明さん! 光明さん、光明さん!」
何度も名前を呼んだら、光明さんに会いたくてたまらなくなった。でも……。
「私は戻っちゃいけないっ」
だって私が封印されないと、猫又のみんなも陰陽師も争うでしょう? それに私が暴走したら、傷つく人が出る。
私の願いとみんなの安全、天秤にかけるまでもない。
「それでも望んでしまうのだろう?」
美琴は残酷にも私の本音を突き付けてくる。
「私もそうだった。猫又の一族を玉貴に任せ、私は晴明のために動いた。結局、どれだけ正しく在ろうとしても無駄なのだ。最後に自分を動かすのは、本当の願い……。ただそれだけなのだから」
確かにそうかもしれない。迷いながらも、心にある願いなんてひとつしかない。
それを選び取ったことで犠牲になるものがわかっていたとしても、渇望してしまう。
「光明さんと……一緒にいたい。光明さんのところに帰りたい……っ」
「愛する男のもとへ行きたいのなら、お前がまず人間の脅威でなくならなければならない。自分の力を制御できるようにならなければ」
「でも、どうやって……」
「力に見合う器に……あやかしになることだ。制御できないのは、強すぎる力が人間の身体では抑えきれないからだ」
選択肢は、思いもよらないものだった。あやかしにならないようにするのではなく、あやかしになれと美琴は言うのだ。さすがに戸惑う。
「私があやかしになったら、それこそ人間の脅威になってしまうんじゃ……」
「ならない。お前には光明がいるからな」
意味深に笑った美琴に、私は目をパチクリさせてしまう。
「信じろ。お前が何者でも、光明は受け入れてくれると。だからお前は、自分にできることだけをすればいい」
「美琴……そうだね。私は信じてる、光明さんのこと。だから教えて、どうしたら私は……あやかしになれる?」
「ただ、内に宿る妖力に身を任せろ」
言われてすぐにできることではないはずなのに、目を閉じれば身体の中を血液と一緒に巡っている妖力を感じられる。
呼吸とともにその力を動かして、否定するのではなく身体に馴染ませていく。すると、耳や尻尾が出るのがわかった。
「私たちの未練を晴らせるのは、未来のお前たちだけだ。今度こそ……幸せに。そして願わくば、猫又たちのことも救ってくれ──」
美琴の声が遠くなり、視界が真っ白に染まる。
「──帰ってこい、美鈴!」
今度ははっきりと聞こえた。瞼越しに感じる光に向かって手を伸ばせば、パシッと腕を掴まれる。そして、闇の外へと引きずり出された。
「ただいま、光明さん」
目を開けて真っ先に瞳に映ったのは、世界で誰よりも愛しい人。
そして彼は光の柱の中で浮いている私を見上げ……切なくも嬉しそうに微笑んだ。
「……遅いわ。おかえり、美鈴」
私たちは手を取り、指を絡め、額を重ねた。すると、光明さんの肌を埋め尽くしていた【呪】の文字が消えていく。
「愛してる。【呪約書】がのうても、お前を守りたい思うほどに」
「私も同じ。前世とか関係なく、私は光明さんと夫婦になりたい」
見つめ合って心を通わせると、揺るがない繋がりを光明さんとの間に感じる。
「光明さん、私の封印を解いたの?」
息遣いも聞こえる距離で、私たちは囁き合うように会話する。
「そっちこそ、妖力強なってる。あやかしみたいに」
「みたい、じゃないよ。美琴が力をコントロールする方法を教えてくれて、それがあやかしになることだったから」
身体が軽い、なんでもできそうな気さえする。姿こそ変わらないが、これがあやかしになるということなのだろうか。
人でなくなったことに未練はない。だって、私は信じているのだ。光明さんを……。
「なら、あとは俺に任せろ。お前がどない強いあやかしになろうと、使役したる」
光明さんの手が私の頬に添えられた。
「安倍晴明の名において、汝を悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)として使役せん。……名を、捧げよ」
なぜか、神聖な儀式をしているような、結婚式の誓いの言葉でも述べるような緊張感があった。
私は深呼吸をして、大切に、大事に、彼に応える。
「……美鈴……猫井美鈴。この名を……あなたに捧げます」
名を告げた瞬間、どくんっと鼓動が跳ねた。熱くなる胸元に視線を落とせば、谷間の辺りに蓮の花の文様が浮かぶ。
「これって、赤珠と水珠の額にもある……」
「俺の式神になった印や。これで強い妖力のある猫又の姫は、俺の支配下に置かれた。暴走することも、もうあらへん。もっと早うこうしとったらよかったんやろうけどな。そうするには、お前があやかしであることが前提条件やったんや」
「光明さんは、私に人間でいて欲しかった?」
「いいや……お前が人だろうが、あやかしだろうが、どうでもええ。美鈴が美鈴であること、それだけが重要なんや」
光明さんの腕の中に収まれば、もうなにも怖くない。私の帰る場所はここだと、迷わず言い切れる。
「もう、自分を犠牲にしたりしない。光明さんが、私を必要としてくれたから」
光明さんの背に腕を回したら、それ以上に強い力で抱き締め返された。
「お嫁様、ご無事でなによりです」
「まったく! 心配かけさせやがって」
いつの間にか水珠と赤珠がそばにいて、目を潤ませながら私と光明さんに寄り添う。
「ふたりとも、ごめんね。助けに来てくれてありがとう」
私は何度、彼らに心配をかければ気が済むのだろう。
それでもなお、私を受け入れてくれるみんながどうしようもなく……そう、どうしようもなく大好きだ。
涙が瞳の表面を覆っていく。歪む視界の中に、私のもうひとつの居場所である彼が現れる。
「……美鈴」
目を真っ赤にして、タマくんは私が封印されたあとに泣いたのだろう。
「タマくん……置いていって、ごめんね。美琴の分もまとめて、謝らせてほしい」
そう言った途端、タマくんの双眼から涙がこぼれ落ちた。
誰よりも従者として美琴のそばにいたかったはずなのに、猫又を守るように言われ、それが叶わなかった。
そして、そばにいたかった彼女は……愛する夫のもとへ行ってしまった。
私も同じ、タマくんを置いて封印されることを望んだ。
だから前世の分と合わせると、私は二度もタマくんを置いていってしまったことになる。
私は美琴ではないけれど、でもその事実を知ってしまった。だから無関係ではいられない、大切なタマくんのことだから。
「きみには本当に……敵わないよ。そうやって僕の欲しい言葉をくれるところも、従者としての人生ではなく、きみの幼馴染としての人生のほうが大事だと思わせてくれるところも」
タマくんは肩を竦めて、困ったように口角を上げた。
子供の頃からよく知る笑顔が目の前にある、私はようやくタマくんに向き合えたのだ。
「確かに僕は姫に置いて行かれた。でも……僕も従者としての僕を、きみと出会った日に置いてきたんだよ。そして僕は、きみと重ねた時間を選んだんだ。美琴様が姫としての人生ではなく、晴明の妻であることを選んだように」
「タマくん、好きにはたくさん種類があるんだよ。私は光明さんが好き、だけど……あなたを置いて行ったりはしない。だって、家族と同じくらい大好きな幼馴染のあなたに、そばにいてほしいんだ」
私が伸ばした手を、タマくんは従者のように跪くことなく握り返す。
「どこまでも、そばにいるよ。僕の大好きな女の子のそばに」
笑みを交わしていると、急に辺りが陰った。『キシャーッ』と八岐大蛇が鳴き、顔を上げたときには──。
「え……」
私たちを潰そうと、八岐大蛇の頭が振り下ろされるところだった。
「美鈴!」
タマくんが私に覆い被さるのと、光明さんが前に出たのは同時。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。結界、急急如律令!」
光明さんが咄嗟に結界を張り、八岐大蛇は透明な壁に弾かれて後ろに体勢を崩した。
「英城! しっかりしろ!」
いつの間にか江永さんが、頭を押さえながら「ぐうっ」とうめく所長さんに付き添っている。
「まずいな……悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)の力は強いんや。陰陽師の精神力が弱まれば、飲み込まれる……!」
「ぐううっ、ああっ」
所長さんは勢いよく江永さんを突き飛ばした。腰を折り、「ああああっ」と声をあげながら後ずさる。
所長さんの動揺に比例して、八岐大蛇も『グギャアアアアッ』と叫んだ。
何度も長い首を振って、頭を地面に打ちつける。そのたびに大地が揺れ、よろけた私をタマくんが支えてくれた。
「僕に掴まって」
「ありが……」
返事をしようとしたとき、八岐大蛇は大きく口を開け、ぱくりと所長さんを飲み込んだ。
その光景があまりに衝撃的で、悲鳴をあげることすらできない。おそらく、その場にいた全員が放心状態だった。
「えい、じ……そんな、嘘だろう。英城……!」
江永さんが駆け寄ろうとするが、所長さんを飲み込んだ八岐大蛇の妖力が増す。その妖力の波動が、江永さんを吹き飛ばした。
「比呂さん!」
光明さんが走り出そうとしたとき、「変化!」と聞き覚えのある声が響いた。
木にぶつかりそうになった江永さんを、モフモフの茶色いクッションが受け止める。
「姫様っ、ご無事でなによりですポン!」
「ポン助!」
「助っ人を呼んで来ましたですポン!」
助っ人?と首を傾げたとき、ビュオンッと後ろから風が吹いた。振り向けば、そこには大きな鎌を構える風切の姿が。
「どうして風切がここに!?」
風切は前に光明さんの仕事で出会った湯佐さんの式神だ。警察に捕まった主を屋敷で待ち続けているはずの彼が、どうして……。
「あなた様にご恩を返すべく、馳せ参じました」
「風切……そうだったんだ……。ありがとう、とっても心強いよ」
笑みを返したとき、後ろから伸びてきた腕が私の首に回った。間髪入れずに耳元で「私もいるぞ」と囁かれる。
肩口から顔を覗き込んできたのは、京都の光明さんの屋敷にいるはずの紫苑だった。
「私の糸はどこにいても、どんな声も拾える。前にお前たちにこっそりつけておいたのだ。そこの狸が援軍を集めると言うから、手伝ったまで。役に立ったようでなりよりだ」
「紫苑……これはあやかし七衆のよしみで?」
「いいや、新しい茶飲み友達のよしみだ」
ちらりと目を背後に向けると、そこには土蜘蛛の大群が。紫苑は仲間と一緒に駆けつけてくれたようだ。
「あ……ふふっ、うん。まだお茶会も実現できてないしね、こんなところで死ねない」
本当に、心強い。ひとりぼっちだった私の周りは、光明さんや赤珠や水珠、そしてポン助の他にも紫苑や風切、所長さんや江永さん……いつの間にか賑やかになっていた。彼らがいてくれるだけで、少しも怖くない。
「なんや、八岐大蛇の様子がおかしないか」
光明さんの声で八岐大蛇に視線を移せば、その体表がボコボコと動いていた。
やがて八岐大蛇は人のシルエットを象り……。白い着物を纏い、虚ろな金の瞳をした所長さんへと変わった。
所長さんの右肩からは、八つの蛇の頭が飛び出ていて、ふしゅうーっと白い息を吐いている。
「あれは……所長さん?」
「そらちゃう、あら八岐大蛇や。所長の身体を乗っ取ったんやろ。手遅れになる前に、八岐大蛇と所長を引き剝がすぞ」
光明さんはそう言ってこちらに向き直ると、私の両肩に手を載せてきた。
「美鈴、猫又と陰陽師にかけた暗示を解くんや。でないと所長を攻撃できひん。今は協力して、八岐大蛇を食い止めなあかん」
「でも私、うまくできるかな……」
自分の手を見つめれば、少し震えている。
美琴は光明さんに任せれば大丈夫だって言ってたけど、それでも怖いんだ。力をコントロールできなくなるかもしれないことが。
その不安を感じとったように、光明さんが手を私の手のひらに重ねる。
「お前はもう俺に使役されてる。暴走なんかさせへん、俺がちゃんと抑え込んだる」
「光明さん……」
迷ってしまう心を、光明さんはいつだって強くしてくれる。
彼ほど心強い陰陽師はいるだろうか。彼ほど信じられる人はいるだろうか。きっと、いや絶対に、彼以上に全てを委ねられる人などいない。
「うん、わかった。あなたの言葉に従う。それが正しい道だと、断言できるから」
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)! 猫井美鈴、急急如律令!」
胸元の蓮の印が熱くなり、青白くて温かい光明さんの光が私を包み込む。
「──あなたたちに自由を返します」
ピキンッと私の声が波紋となって辺りに広がると、陰陽師や猫又たちが自分の手を握ったり開いたり、腕を回したりして自由になった感覚を確かめていた。
「そして、これは命令じゃありません。今は生きるために協力しましょう」
そう説得するも、陰陽師たちは助けに来てくれたあやかしに敵意がこもった眼差しを向けている。
駆けつけたあやかしたちもそれを感じ取って、「あの調子じゃあな」「共闘なんて無理だろ」と警戒していた。
前世からの因縁は簡単には断ち切れない、それは紫苑や光明さんの一件でよくわかっているつもりだ。
でも、この状況になっても私怨を捨てられないなんて……。命よりも大事なものなんてないのに、なんて、なんて……。
──愚かだろう。
「愚かやな」
私の心の声と、光明さんの声が重なった。弾かれたように光明さんを見上げると、皆を凛々しく見据える横顔がある。
「復讐は命よりも大事なのか? 八岐大蛇は人もあやかしも関係のうて、俺らを喰らうで。所長も町の人も、それにあやかしも……誰ひとり犠牲者を出さへんために戦う。これ以上に大事なことなんて、あらへんやろ!」
わかり合えないと否定する声が止まった。
所長さんを取り込んだ八岐大蛇は、まだ新しい身体に慣れていないのか、よたよたと右へ左へ歩いては転ぶ。説得するなら、今しかなかった。
「誰かを憎んでは殺して……そんなんじゃ、最後にはなにも残らなくなる。許せとか、わかり合えとか、そんな無茶苦茶言わない。ただ……大事な人を失わないために必要なことはなんなのか、ちゃんと考えて!」
皆は顔を見合わせて渋い顔をしていたけれど、「姫の言うことなら」と猫又たちが先に動いた。
八岐大蛇の攻撃を受けて倒れている陰陽師たちに歩み寄り、「ほら……」と手を差し伸べる。
「あ、ああ……どうも……」
陰陽師たちは猫又の手を困惑気味に取った。
今はこれだけで十分だ。今日繋がった手のように、心でも繋がれる日が来るように、これから私たちが証明していけばいい。
あやかしと陰陽師がなりゆきとはいえ夫婦になって、愛し合えたのだから。
「八岐大蛇を外に出すわけにはいかない。いや……違うな」
江永さんが人間に化けたポン助の手を借りながら、立ち上がる。
「俺は英城を人間の敵にしたくないんだ。そうなったら、あいつはあやかしを否定できなくなる。それどころか……自分もあやかしと変わらないと、自害するかもしれない」
「どういうこと?」
話が読めなくて眉を寄せると、光明さんが所長さんの過去をかいつまんで教えてくれる。
「そう……婚約者さんがあやかしに……」
「俺は、陰陽師としてのあいつまで死なせるわけにはいかない。……この辺一帯に結界を張れ!」
陰陽師に指示を飛ばし、結界を張らせる江永さん。こんなときに悠長だと怒られてしまうかもしれないが、私は問わずにいられなかった。
「あやかしと同じだと、陰陽師でなくなると、所長さんは生きていけないの?」
「そうだ。あやかしを憎むことで、あいつは生きてこられたからな」
「……所長さんがここまで生きてこられたのは、憎しみだけじゃないと思います」
江永さんの目が他になにがあるのだと、私に問うている。
「憎しみだけじゃ、人って生きられません。……私がそうだったように」
タマくんのほうを向けば、優しい笑みが返ってくる。こうして、見守ってくれる誰かがいるかどうか、それが大事なのだ。
「あやかしに憑かれてる私を両親は捨てました。もちろん両親を恨んだし、そうすることで心が砕け散らないように保ってたこともあった。だけど、孤独は埋まらない。ぽっかり空いた心の穴を埋めてくれたのは、タマくんとおばあちゃんだったんです」
血の繋がりを超えて、私に帰る場所をくれた人たち。彼らがいなければ、私は蔵に閉じ込められたときのように、ずっと暗闇の中にいただろう。
「そして……おばあちゃんが死んじゃったあと、タマくんとふたりになった私に、安倍家っていう新しい家ができた。急に賑やかになって戸惑ったけど、誰かの声が途切れず聞こえること、それが私の心を温めてくれた」
赤珠や水珠、そしてポン助の顔を見れば、同じ気持ちだとばかりに頷いてくれる。
私は彼らの存在を頼もしく思いながら、今度は光明さんに視線を移した。
「愛されないと思っていた私に、求め求められる幸せをくれたのは光明さん」
「俺もおんなじや。美鈴と出会うまでの俺は、憎しみで視野狭まっとったんや思う。いや、憎むこと、復讐だけに目ぇ向けてへんとあかん気ぃしたんや。であらへんと……死んだ親父とお袋に申し訳あらへんって、そないな気になって」
光明さんが憎しみに囚われていた頃を知っている。
だから幸せになってはいけないと、そんなふうに自分を追い詰めていた彼が、清々しい表情で過去を語れていることに心底ほっとした。
「でも美鈴が……これからの幸せに目を向けさせてくれたんや」
お互い様だ。私も光明さんのおかげで、自分の人生を諦めずに済んだ。おかげで今、私は好きな人の隣にいられる。
「自分を見守ってくれてる人がいる、それだけでどれだけ心強いか。だから所長さんは、江永さんがそばにいたから、ここまで生きてこられたのだと思います」
「……私には、そんな力は……」
「あるんです。自分を大切に思ってくれる人の言葉、体温、存在感……そのどれもが、どんな薬よりも心の傷を癒してくれる。江永さんの存在は所長さんを救えます、絶対に。だから……憎む以外の生きる理由を、江永さんが教えてあげてください」
所長さんの心を救えるのは、江永さんだけだ。
「……不思議な方だ。これも魔性の瞳の力……いえ、あなたの魅力でしょうか。その言葉を、信じたいと思ってしまう」
江永さんは涙こそ流していなかったが、泣きそうな笑みを浮かべて長く息を吐く。そして決意を固めたような瞳で、所長さんを見た。
「お前を止める。……親友として、お前がこれ以上傷つくことがないように」
所長さんは操られているのか、がくがくと不自然な動きで腕を上げた。
それに合わせて八岐大蛇の首が伸び、手を下ろすと、一気に頭がこちらに向かってくる。
「今日は蛇の丸焼きがいいんじゃないか、な? 水珠」
「光明様とお嫁様を苦しめた蛇なんて……食べたくないです。兄さん」
蛇たちの頭を赤珠が焼き、水珠が水柱を起こして吹き飛ばした。だが、切れた首の断面から千切れたはずの頭がまた生えてくる。
「やっかいだな、所長の霊力を吸ってるんや。美鈴、魔性の瞳で所長の自我を引きずり出せるか」
「わかった、やってみる」
意識を所長さんに集中する。そんな私を助けるようにタマくんが前に出て、こちらを振り向きながらふっと笑った。
「足止めは僕らに任せて」
そう言って獣に化けた彼は『皆、息を合わせろ』と猫又のみんなを先導しながら、一斉に八岐大蛇に飛びかかる。
「あなたは私を自由にしてくださった。今度は私が、あなたが自由に動けるように尽くす番です」
隣に並んだのは、風切だった。
主である湯佐さんに自由を奪われていた彼を魔性の瞳の力で自由にしたとき、自分がかけた言葉を思い出す。
『──大丈夫、もうあなたは自由だよ。だから、あなたが助けたい人を、あなたのやり方で助けるの』
風切の思いに胸がじんとする。
「そっか、今度はその自由になった身体で、私のことも助けてくれるんだ」
風切は頷き、そして鎌を手に強く大地を蹴った。
猫又や陰陽師、そして土蜘蛛たちも互いを守りながら、切っても切っても無限に生えてくる八岐大蛇の頭を落としていく。
「我が糸で、絡めとってやろう」
紫苑が所長さんの四肢を糸で拘束し、私に向かってにやりとした。
「美鈴姫、存分にやるといい」
「うん!」
みんなが足止めしてくれている。私は深呼吸をして、ありったけの声で叫ぶ。
「──目覚めて」
自我を呼び起こすように語りかければ、所長さんの身体がびくりと揺れる。
もっと深く、所長さんの瞳の奥を覗き込んで……その心に届けないと。
「──目覚めて、所長さん!」
またビクッと震えた所長さんは、ゆっくり目を閉じ……再び瞼を開く。現れた双眼には、意思の光が宿っていた。
「私は……そうか、自分の式神に乗っ取られてしまったんだね。不甲斐ない……」
所長さんは自分の変わり果てた姿を見て、すべてを悟ったらしい。目を伏せ、自分を嘲るような笑みを唇に滲ませている。
「身体の自由が利かない……。このまま、あやかしに成り果てるくらいなら……」
顔を上げた所長さんは、私と光明さんに目を留めた。
「すまない、私を殺してくれ」
「英城!」
「比呂ならわかるだろう。私は雪奈を死に追いやったあやかしとなって、人間を殺すのだけは絶対に嫌なんだよ」
雪奈さんって、死んでしまった婚約者さんのことだよね?
雪奈さんを死に追いやったあやかしになったから、人間を殺してしまうかもしれないから殺してくれって所長さんは言ってるけど、それは建前な気がする。
「所長さん、私もあやかしになりました。だけど私は私、人間もあやかしも殺しません。自分の意思で、みんなをこの力で守ります」
話に水を差すのは躊躇われたが、口を挟まずにはいられなかった。だって所長さんは、〝死ぬ理由〟にあやかしを使っている。
「所長さんだって身体があやかしに取り込まれようと、人間を襲いたいとは思っていないでしょう? もうわかってるはずです、あやかしと人に違いなんてない。人間に善人と悪人がいるように、あやかしにも善と悪が存在するって」
「でも、それ知ってまうのが怖かったんやな」
光明さんは誰よりも所長さんの気持ちがわかるんだろうな。憎んでいないと、生きていられないほどの喪失感を味わったことがあるから。
息を詰まらせた所長さんの瞳が揺れている。そこへ付け入るのは今だとばかりに、肩の八岐大蛇が巨大化した。
「ぐああああああっ」
苦しむ所長さんに胸が痛む。私が惑わせたせいで、八岐大蛇が力を持ったのだ。これ以上の説得は、所長さんが危険かもしれない。
言葉をかけるのを躊躇していると、後ろから伸びてきた光明さん手が私の両肩に載る。
「業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)は過去に悪行をおこなったあやかし。弱なった心の隙に入り込んで、抱える闇を餌に巣くうんや。そやさかい、所長自身が強い心で生きることを望まな、引き剥がせへん。だから美鈴、お前は間違うてへん」
「光明さん……うん、わかった」
彼がそう言うのだ、私は信じて所長さんの心に訴えかけよう。所長さんの無事を願う人たちのためにも。
「所長さん、もう自分を許してあげてください。復讐をやめても、雪奈さんは所長さんを責めたりしません」
あやかしを憎めなくなり苦しんでいた光明さんにかけてあげたかった言葉を、所長さんにもかける。
「憎しみがのうなっても、所長を必要としてくれる人たちがおる限り、所長は生きられるはずや。俺がそうやったように」
「それに……雪奈さんはいなくなってしまったけど、ちゃんと所長さんの心にいます。肉体を失っても、想いは残るでしょう? なにを糧に生きていったらいいかわからなくなったら、雪奈さんが今の所長さんを見て幸せになれるかどうかを考えてみてください」
今の所長さんを見た雪奈さんは、きっと悲しむ。愛する人が苦しんで生きているなんて耐えられない、ましてやそれが自分のせいだなんてつらすぎる。
「美鈴さんは……光明と同じことを言うんだね」
所長さんはどこか観念したように、苦い笑みをこぼした。
「雪奈はあやかしとわかり合えると信じていたのに……そのあやかしに裏切られて殺された……皮肉だろう? その無念を晴らしてやらないと、そう憎悪を抱いている間は雪奈を失った痛みから目を背けられて楽だったんだ」
光明さんは、その痛みを自分のことのように感じているだろう。
私は肩に載っている光明さんの手の甲に、自分の手を重ねる。消えない傷の疼きが、少しでも和らぐようにと。
「全部……自分のためだった。雪奈を理由にして、悲しみから逃れたかっただけだ。私は比呂や慕ってくれている部下を、それに付き合わせていたんだな」
「英城、俺は付き合わされたなどとは思っていない。おそらく、ここにいる陰陽寮の陰陽師たちも」
江永さんに賛同するように、陰陽師たちは頷く。
「そうですよ、所長。あやかしに家族を殺された陰陽師は少なくありません」
「そんな俺たちを先導する所長の背中は、いつだって立ち止まるなと鼓舞してくれました。だから、ここまで来れたんです」
彼らの言葉を聞けば、所長さんがどれだけ仲間に慕われているのかがわかる。
「きみたちは……」
目を見張る所長さんに、私の頬も緩んだ。
「帰る場所が……拠り所があるじゃないですか。だから所長さん、みんなのところに帰ってあげてください。あなたを必要としてくれている人たちのそばにいること、これが生きる理由にはなりませんか?」
「……! そう、か……そう、だね。その生きる理由は、雪奈を守れなかった私にはもったいないくらいだ」
所長さんは涙を薄っすら浮かべた目を細め、意を決したように力強く言い放つ。
「すまないが、死ねなくなってしまった。散々あやかしたちを傷つけてきて言えた義理ではないが……どうか、助けてほしい」
お互いに仲間を傷つけられた、だから複雑な感情もあるだろう。でも、光明さんがこの場に立ち込める迷いを払拭する。
「生きるために、未来のために、もういっぺん手ぇ取り合うんや。ここから始めよう、大事な者を失わへんための戦いを」
それは単に八岐大蛇と戦うという意味ではなく、葛藤や復讐心という名の、自分の心に住む怪物との戦いを指しているのだろう。
皆が改めて戦闘態勢に入る中、所長さんも八岐大蛇を押さえ込もうと霊力を高めていくのを感じる。
「美鈴」
光明さんに名前を呼ばれただけで、自分がなにをすべきかが手に取るようにわかる。
彼の式神になったからなのか、光明さんの力が私の中に流れ込んできた。
今なら神話のあやかしでさえ、支配できる気がする……!
「うん──八岐大蛇! 私に従え……!」
ピキンッと甲高い音が鳴り、八岐大蛇の動きがぴたりと止まると、光明さんが二本の指を立てた。
「安倍晴明の名において、汝を悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)として使役せん! 八岐大蛇、我が配下に下れ……!」
光る指先を横に大きく切る光明さん。その光の線が紐のように伸びて、八岐大蛇の首に巻き付くと、そのまま強く引き寄せる。
『グギャアアアアッ』
七つの蛇の悲鳴がこだまし、光明さんの指先に吸い込まれていく。
その勢いは凄まじく、光明さんは吹き飛びそうになる私の腰を片腕で引き寄せた。
私も光明さんを支えるように、一緒に踏ん張る。
「「従え……!」」
光明さんと声が重なる。八岐大蛇は完全に光明さんの式神になり、姿を消した。静寂が訪れ、そしてぶわっと歓声が上がる。
「英城」
八岐大蛇が封じられて皆が喜んでいる中、江永さんが所長さんに歩み寄った。
「俺は、お前が行く先が地獄だろうと、どこまでもついて行くつもりだった。けどな、それは間違っていたのだと気づいた」
そう言って腰を屈め、手を差し出す。
「お前が苦しむ道なら……引きずってでも止める。お前の親友として」
「……私がここまで陰陽師で在れたのは、お前のおかげだよ、比呂。憎しみにかられる自分が嫌いでたまらなかったんだけどね、比呂や部下に慕われる自分だけは……好きになれたんだ。これからも、私が道を踏み外さないように頼むよ」
江永さんの手を取って立ち上がり、所長さんは皆の顔を見回した。
「こたびのこと、本当に申し訳なかった。あやかしも人も、こうして協力し合える。現に私は、その双方に救われたのだからね」
「そうですよ、俺らの選択がこれからのあやかしと人間の未来を左右するんです。俺らはそないな責任ある立場におるんやさかい、理想こそ抱かなあかんのや」
できるのならこの時代で、お互いの偏見がなくなればいい。
それが叶わなくても、私たちの子供が、孫が私たちの意思を引き継げるくらいには理解が深まればいい。
それが前世の記憶を受け継いで、そして陰陽師やあやかしに関わる立場にいる者のやるべきことだと思うから。
「あやかしと人間が共に生きられるように、私も陰陽師としてできることをしよう。……あやかしと人に救われた者として」
所長さんの言葉に、パッと光明さんの表情が明るくなる。
「俺も、あやかしと人間の懸け橋になるための陰陽師になる。……あやかしと人に救われた者として」
美琴、そして晴明さん……この光景を見ていますか?
誰もがあやかしと人の共存を否定し、そんなの夢物語だと嘲笑ったあの時代で、あなたたちが信じた世界への入口がここにあります。
そして私は……その夢物語のような理想の世界を信じて、まっすぐ突き進もうとする光明さんの手を取る。
「あなたを支えます。理想を現実にするために、愛する人を失わない世界にするために」
壮大すぎて途方のない話だけれど、私はこの先なにがあろうと彼と同じ夢を見続けると決めた。
向き合って見つめ合っていると、
「じゃあ僕は、そんなきみについていくよ」
タマくんが私と光明さんの間に割り込むように顔を出す。にこりとするタマくんに、光明さんは露骨に嫌そうな表情をする。
「腹立つな、そのさも純朴そうな笑顔」
「これから毎日見ることになるんだから、いい加減に慣れなよ」
相変わらずのふたりに苦笑いしていると、私の着物の袖が引っ張られた。
両脇を照れ隠しの仏頂面をした赤珠と、くすぐったそうに頬を赤らめながら微笑む水珠に固められている。
「お嫁様、なにか……食べたいものはありますか?」
「え?」
「今日は大変な一日でしたから……。サバの煮つけ、アジの塩焼き、シシャモフライ……なんでも作ります」
珍しく水珠が饒舌だ。全部、私の好物の魚料理なのも、愛を感じるなあ。
「あ、甘やかしもどうかと思うけどな、今のうちに恩を売っておくのも悪くない! 来年の誕生日に倍にして、恩を返してもらうからな!」
赤珠は素直じゃないけど、そこが主の光明さんに似て可愛いところでもある。
「赤珠は素直じゃないポン」
──ここにも私と同意見の者が。
赤珠の頭の上に一匹の狸が乗っかった。
「このっ、ポン助! 人の頭の上に乗るな! 狸の丸焼きにされたいのか!」
赤珠はポン助を自分の頭から引き剥がし、ヘッドロックをかけた。
ぎゃーっと暴れるポン助に、平和だなと視線を上げた私は……。目に飛び込んできた景色に、はっとした。
光明さんとタマくん、水珠と赤珠、そしてポン助……。私の周りは、いつの間にこんなに賑やかになったんだろう。
「あ……」
私を助けに来てくれた紫苑や土蜘蛛たち、風切や所長さんや江永さん、そして猫又や陰陽師たちも、みんな笑っている。
気を抜けば、いつだって闇の中から聞こえた『化け物』と私を蔑む声。それが今は、みんなの笑い声しか聞こえない。
涙が、自然と頬を伝った。するとみんながいっせいにこっちを見て、心配そうに表情を曇らせる。私は慌てて、顔の前で両手を振った。
「あー、違う違うっ。みんなと出会えてよかったなって、ちょっとしみじみ思って……」
涙を拭いながら笑えば、光明さんの手が伸びてきて、私の頬に添えられる。
「そう思てるんは、お前だけちゃう。俺らも同じや」
みんなが頷いてくれる。
「光明さん……みんな……」
誰が欠けてもいけなかった。改めて思う、封印されなくてよかった。みんなのところに帰ってこれてよかった。
光明さんの手に自分の手を重ねて、私は満面の笑みを返す。
「大好きだよ、みんな!」