「ここまで広範囲に術をかけられるまでになっていたとはね。脱帽するよ」
「これで、私の提案を聞き入れてくれますか?」
「……ああ、いいだろう。ひとまずこれで、あやかし七衆の猫又の一族は陰陽師に害成すことはできないからね。人間に手を出されたそのときは、他の陰陽寮の陰陽師を派遣するとしよう」
陰陽師と猫又たちが見守る中、所長さんが私のほうへ歩いてくる。
「美鈴に近づくな! ふざけるなっ、勝手に決めるなよ!」
タマくんが慟哭にも似た叫びをあげる。
でも、魔性の瞳の力が働いているせいで、タマくんは私の意思に反した行動をとることはできない。
私の拘束から逃れようと前のめりになり暴れているが、こちらに足を踏み出せないでいる。
「従者として、幼馴染として、僕はずっと美鈴のそばにいたんだぞ! ずっとあなたを見守ってきた……っ、なのに、また失うのか!」
私は八百年なんて途方もない時間を生きたことがないからわからないけど、大事な人に置いて行かれて、それでも待ち続けるのは……寂しかっただろうな。
「タマくん、私が生まれ変わるのをずっと待ち続けてくれて、ありがとう。私、タマくんのおかげで……家族に捨てられても、おばあちゃんが死んじゃったあとも、寂しくなかった」
「美鈴……」
「だから、タマくんが孤独だった時間も埋められるくらい、一緒にいてあげたかったけど……ごめんね。できそうにない……っ」
笑いたかったのに、涙で声が震える。
悲しいのは、ただ封印されるからではない。またタマくんを、大好きな人たちを置いていかなきゃいけないから。
「誰よりも、ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて……つらいこと、知ってるのに……」
タマくん、水珠、赤珠、ポン助、それから……光明さん。
「本当に……ごめんなさい」
後ろから回った所長さんの手が、私の顔を覆う。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──」
所長さんの声が真後ろでして、青白い光が私を包み込んだ。徐々に思考が奪われ、強い眠気に襲われる。
「──封印、急急如律令」
「静紀!」
所長さんの指の隙間から見えたタマくんの泣き出しそうな顔。それが眩い光に薄れていき……重力に逆らえず、私は瞼を閉じた。
***
『──美琴、聞いておるのか』
……え?
瞼を持ち上げると、目の前には絶世の美女がいた。
薄紫の長髪や紫水晶の瞳は気怠げで美しく、アヤメの花が刺繍された藤色の着物は彼女のためにあつらえたよう。
あれ、待って……この人、見たことがある。
この妖艶な彼は女性ではなく男性、そして人間ではなくあやかし──土蜘蛛の紫苑だ。
『紫苑、茶の席でくらいは物騒な話はやめないか』
私の意思に関わらず声が出た。
なぜか私は紫苑とお茶を飲んでいる。
これは夢? そうしようと思っていないのに、この身体は勝手に湯吞みを口に運ぶ。
私がいるのは柱だけで壁がほとんどなく、御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)や衝立(ついたて)で生活空間が仕切られた寝殿造の屋敷。
さっきまで猫又が隠れ住んでいる神宮にいたはずなのだが、これはどういう状況だろう。
夢にしてはお茶の苦さ、空気の温かさをリアルに感じる。
先ほど紫苑に美琴と呼ばれたことといい、これはまさか……美琴だった頃の記憶?
『帝は高額な納税を強いたことで、民からの信を失いつつある。それを挽回するための策として、大々的なあやかし討伐を行うらしい』
帝……ということは、ここは平安時代?
建物の雰囲気や着ているものからするに、きっとそうだろう。
紫苑が人差し指を動かすと、糸がピンッと音を鳴らしながら太陽の光を受けて輝く。
糸は青空のほうへ伸びていて、その先がどこへ繋がっているのかはわからない。
『お前の糸は便利だな。遠くの声も拾えるのか』
美琴がちらりと糸を見やると、紫苑は意味深な笑みを唇のほとりに浮かべた。
『気をつけるのだな、私には美琴と晴明の密事も筒抜けだ』
くだらんと言いたげなため息とともに、美琴は欄干に寄り掛かり、屋敷を囲うようにある池を覗き込んだ。
そこに映ったのは、憂い顔の紅い髪の女性。私と瓜二つだけど、私は彼女ほど凛然としていない。
儚げに見えて、その瞳には芯の強さが宿っている。これが、前世の私……。
『悪趣味だな、紫苑』
耳心地のいい低音がして、美琴がゆっくり声の主を仰ぐ。
後ろで束ねられた夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪、静かな深海を思わせる青の瞳。
見る者を惹きつけるその美しい顔貌は、澄んだ水のように清潔感があり、あれは間違いなく……。
『──晴明』
美琴は口元を緩ませながら、愛しい男の名を呼んだ。
『人間を喰らうガマガエルとやらは退治できたのか?』
『いや、あいつは噂ほど悪いやつではなかったからな、話をつけてきた』
美琴と紫苑の頭上に『話を……つけてきた?』という疑問が浮かんでいるのが見える。
『あいつは、正確には人間は喰らっていない。口の中で転がして、味を楽しんでいたらしい。あれだ、水飴みたいなものなんだろう』
呆気にとられているふたりを他所に、晴明さんは至極真面目に報告を続ける。
『だから、ガマガエルの水飴になる仕事を作った。貧困に喘ぐ町民には割のいい仕事みたいでな、今では町いちばんの人気職だ』
晴明さんは至って真顔で言い、美琴の隣に片膝を立てて座った。そこでふたりは限界だったようで、ぶはっと吹き出す。
『美琴、お前の夫はやはり変わり者だな』
紫苑が目に涙をためながら、美琴を指差してからかう。
『私を嫁にする時点で、普通の人間でないことは確かだろうな』
向けられた指を下げさせ、美琴がにやりとしたとき、晴明さんは『なぜだ』と首を傾げる。
『俺が美琴を嫁にしたら、おかしいのか』
『おかしくはないが、強いて言うならば、そういうことを平然と尋ねてくるあたりが異常だな』
夫相手に随分な物言いをして、美琴は晴明さんの長い髪の束を引っ張る。
『俺は美琴を愛している』
『くっ、くっ、くっ……話が嚙み合っておらんな』
ツボに入ってしまったのか、紫苑はお腹を抱えて笑っていた。
晴明さん、ちょっと天然なのかな。毒舌で、氷点下並みにクールな光明さんの前世とは到底思えない。
でも、当たり前だ。私たちは生まれ変わりかもしれないけれど、別の個人なのだから。
『この男は出会った頃から、いろいろと嚙み合ってなかったぞ。あれは冬の日だったか、空腹で倒れていたかと思えば図々しく飯をねだってきてな。うっかり、そう不憫に思って、持ち合わせの握り飯をやったら、こうして懐かれた』
『そうやって食べ物を人間に与えてしまう美琴も、相当だぞ。晴明の気づいたら懐に入り込んでいるところに絆されたというわけか』
『否定はできんな』
苦笑いする美琴に、紫苑は『付き合いきれん』とわざとらしく首を振ってみせ、立ち上がった。
『そろそろ帰ることにしよう、熱に当てられそうだ』
『そうか、今度来るときは土蜘蛛の里名物、蜘蛛糸饅頭を差し入れてくれ』
『あやかしの食べ物を好んで口にするか、やはり晴明は面白い。いいだろう、茶飲み友達の頼みだからな』
ひらひらと手を振りながら歩いていく紫苑だったが、ふいに足を止める。
『……美琴、帝は特にあやかし七衆の首を狙っておる。死ぬなよ、いちばん気の合うお前を失うのは……堪えるからな』
こちらを見ずに去っていく紫苑。美琴が『ああ、わかっている……』とか細く答え目を伏せると、その肩を晴明さんが抱き寄せた。
『朝廷から、あやかしの討伐命令が出るかもしれん』
『民からの心証をよくするため、あやかしを狩る……体のいい必要悪だな。ただ……一族の中には戦えない者もいる』
『美琴』
『討伐命令が出る前に、対策を講じなければ……』
『美琴、案ずるな』
晴明さんは不安に飲まれそうになっていた美琴の顔を両手で包み込んだ。
『ふたりで考えるぞ、人間もあやかしも共に生きられる方法を』
晴明さんの真っ直ぐな瞳は、本気でそんな世が来ると信じて疑っていない。
不思議と信じたいと思わせる力が、晴明さんにはあった。
吸い寄せられるように顔が近づき、美琴が目を瞑る。視界が閉ざされ、吐息を感じ、口付けを交わす刹那──。
「これで、私の提案を聞き入れてくれますか?」
「……ああ、いいだろう。ひとまずこれで、あやかし七衆の猫又の一族は陰陽師に害成すことはできないからね。人間に手を出されたそのときは、他の陰陽寮の陰陽師を派遣するとしよう」
陰陽師と猫又たちが見守る中、所長さんが私のほうへ歩いてくる。
「美鈴に近づくな! ふざけるなっ、勝手に決めるなよ!」
タマくんが慟哭にも似た叫びをあげる。
でも、魔性の瞳の力が働いているせいで、タマくんは私の意思に反した行動をとることはできない。
私の拘束から逃れようと前のめりになり暴れているが、こちらに足を踏み出せないでいる。
「従者として、幼馴染として、僕はずっと美鈴のそばにいたんだぞ! ずっとあなたを見守ってきた……っ、なのに、また失うのか!」
私は八百年なんて途方もない時間を生きたことがないからわからないけど、大事な人に置いて行かれて、それでも待ち続けるのは……寂しかっただろうな。
「タマくん、私が生まれ変わるのをずっと待ち続けてくれて、ありがとう。私、タマくんのおかげで……家族に捨てられても、おばあちゃんが死んじゃったあとも、寂しくなかった」
「美鈴……」
「だから、タマくんが孤独だった時間も埋められるくらい、一緒にいてあげたかったけど……ごめんね。できそうにない……っ」
笑いたかったのに、涙で声が震える。
悲しいのは、ただ封印されるからではない。またタマくんを、大好きな人たちを置いていかなきゃいけないから。
「誰よりも、ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて……つらいこと、知ってるのに……」
タマくん、水珠、赤珠、ポン助、それから……光明さん。
「本当に……ごめんなさい」
後ろから回った所長さんの手が、私の顔を覆う。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──」
所長さんの声が真後ろでして、青白い光が私を包み込んだ。徐々に思考が奪われ、強い眠気に襲われる。
「──封印、急急如律令」
「静紀!」
所長さんの指の隙間から見えたタマくんの泣き出しそうな顔。それが眩い光に薄れていき……重力に逆らえず、私は瞼を閉じた。
***
『──美琴、聞いておるのか』
……え?
瞼を持ち上げると、目の前には絶世の美女がいた。
薄紫の長髪や紫水晶の瞳は気怠げで美しく、アヤメの花が刺繍された藤色の着物は彼女のためにあつらえたよう。
あれ、待って……この人、見たことがある。
この妖艶な彼は女性ではなく男性、そして人間ではなくあやかし──土蜘蛛の紫苑だ。
『紫苑、茶の席でくらいは物騒な話はやめないか』
私の意思に関わらず声が出た。
なぜか私は紫苑とお茶を飲んでいる。
これは夢? そうしようと思っていないのに、この身体は勝手に湯吞みを口に運ぶ。
私がいるのは柱だけで壁がほとんどなく、御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)や衝立(ついたて)で生活空間が仕切られた寝殿造の屋敷。
さっきまで猫又が隠れ住んでいる神宮にいたはずなのだが、これはどういう状況だろう。
夢にしてはお茶の苦さ、空気の温かさをリアルに感じる。
先ほど紫苑に美琴と呼ばれたことといい、これはまさか……美琴だった頃の記憶?
『帝は高額な納税を強いたことで、民からの信を失いつつある。それを挽回するための策として、大々的なあやかし討伐を行うらしい』
帝……ということは、ここは平安時代?
建物の雰囲気や着ているものからするに、きっとそうだろう。
紫苑が人差し指を動かすと、糸がピンッと音を鳴らしながら太陽の光を受けて輝く。
糸は青空のほうへ伸びていて、その先がどこへ繋がっているのかはわからない。
『お前の糸は便利だな。遠くの声も拾えるのか』
美琴がちらりと糸を見やると、紫苑は意味深な笑みを唇のほとりに浮かべた。
『気をつけるのだな、私には美琴と晴明の密事も筒抜けだ』
くだらんと言いたげなため息とともに、美琴は欄干に寄り掛かり、屋敷を囲うようにある池を覗き込んだ。
そこに映ったのは、憂い顔の紅い髪の女性。私と瓜二つだけど、私は彼女ほど凛然としていない。
儚げに見えて、その瞳には芯の強さが宿っている。これが、前世の私……。
『悪趣味だな、紫苑』
耳心地のいい低音がして、美琴がゆっくり声の主を仰ぐ。
後ろで束ねられた夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪、静かな深海を思わせる青の瞳。
見る者を惹きつけるその美しい顔貌は、澄んだ水のように清潔感があり、あれは間違いなく……。
『──晴明』
美琴は口元を緩ませながら、愛しい男の名を呼んだ。
『人間を喰らうガマガエルとやらは退治できたのか?』
『いや、あいつは噂ほど悪いやつではなかったからな、話をつけてきた』
美琴と紫苑の頭上に『話を……つけてきた?』という疑問が浮かんでいるのが見える。
『あいつは、正確には人間は喰らっていない。口の中で転がして、味を楽しんでいたらしい。あれだ、水飴みたいなものなんだろう』
呆気にとられているふたりを他所に、晴明さんは至極真面目に報告を続ける。
『だから、ガマガエルの水飴になる仕事を作った。貧困に喘ぐ町民には割のいい仕事みたいでな、今では町いちばんの人気職だ』
晴明さんは至って真顔で言い、美琴の隣に片膝を立てて座った。そこでふたりは限界だったようで、ぶはっと吹き出す。
『美琴、お前の夫はやはり変わり者だな』
紫苑が目に涙をためながら、美琴を指差してからかう。
『私を嫁にする時点で、普通の人間でないことは確かだろうな』
向けられた指を下げさせ、美琴がにやりとしたとき、晴明さんは『なぜだ』と首を傾げる。
『俺が美琴を嫁にしたら、おかしいのか』
『おかしくはないが、強いて言うならば、そういうことを平然と尋ねてくるあたりが異常だな』
夫相手に随分な物言いをして、美琴は晴明さんの長い髪の束を引っ張る。
『俺は美琴を愛している』
『くっ、くっ、くっ……話が嚙み合っておらんな』
ツボに入ってしまったのか、紫苑はお腹を抱えて笑っていた。
晴明さん、ちょっと天然なのかな。毒舌で、氷点下並みにクールな光明さんの前世とは到底思えない。
でも、当たり前だ。私たちは生まれ変わりかもしれないけれど、別の個人なのだから。
『この男は出会った頃から、いろいろと嚙み合ってなかったぞ。あれは冬の日だったか、空腹で倒れていたかと思えば図々しく飯をねだってきてな。うっかり、そう不憫に思って、持ち合わせの握り飯をやったら、こうして懐かれた』
『そうやって食べ物を人間に与えてしまう美琴も、相当だぞ。晴明の気づいたら懐に入り込んでいるところに絆されたというわけか』
『否定はできんな』
苦笑いする美琴に、紫苑は『付き合いきれん』とわざとらしく首を振ってみせ、立ち上がった。
『そろそろ帰ることにしよう、熱に当てられそうだ』
『そうか、今度来るときは土蜘蛛の里名物、蜘蛛糸饅頭を差し入れてくれ』
『あやかしの食べ物を好んで口にするか、やはり晴明は面白い。いいだろう、茶飲み友達の頼みだからな』
ひらひらと手を振りながら歩いていく紫苑だったが、ふいに足を止める。
『……美琴、帝は特にあやかし七衆の首を狙っておる。死ぬなよ、いちばん気の合うお前を失うのは……堪えるからな』
こちらを見ずに去っていく紫苑。美琴が『ああ、わかっている……』とか細く答え目を伏せると、その肩を晴明さんが抱き寄せた。
『朝廷から、あやかしの討伐命令が出るかもしれん』
『民からの心証をよくするため、あやかしを狩る……体のいい必要悪だな。ただ……一族の中には戦えない者もいる』
『美琴』
『討伐命令が出る前に、対策を講じなければ……』
『美琴、案ずるな』
晴明さんは不安に飲まれそうになっていた美琴の顔を両手で包み込んだ。
『ふたりで考えるぞ、人間もあやかしも共に生きられる方法を』
晴明さんの真っ直ぐな瞳は、本気でそんな世が来ると信じて疑っていない。
不思議と信じたいと思わせる力が、晴明さんにはあった。
吸い寄せられるように顔が近づき、美琴が目を瞑る。視界が閉ざされ、吐息を感じ、口付けを交わす刹那──。