旦那様は陰陽師〜猫憑きOLですが、危うく封印されかけてます〜

 陰陽寮から小一時間ほどで、例の誘拐疑惑のある陰陽師の屋敷に着いた。

「あなたの噂はかねがね……まさか陰陽寮から、あの安倍晴明の子孫であらせられる安倍光明様がいらっしゃるとは。力が弱まり廃業した私に、一体なんの御用でしょう?」

 案内された居間で向かい合っているのは、七十代くらいの白髪の男性。

湯佐茂(ゆさ しげる)さんというらしく、垂れた目尻や笑みを絶やさない口元は、とても朗らかなおじいさんという印象だった。

「最近、この近辺で十歳前後の女児が行方不明になっているのは知ってますか」

 安倍さんの眼光が鋭くなるが、湯佐さんは動じることなく「ええ」と笑みを浮かべたまま相槌を打つ。

「不安にさせへんように、住民に聞き回るより先に、湯佐さんからなんか気づいたことはあらへんか情報を聞ければと思たんや。廃業しとっても、陰陽師やったあなたの視点や勘はそう簡単に鈍らへんやろ」

 湯佐さんはそれを聞くと、困ったように笑った。

「どうでしょう? 私も現場を離れて、かれこれ五年近く経っておりますから……」

 探り合うような問答に緊張が走り、さっきから背筋が勝手に伸びる。

お腹がぐるぐると音を立てて下り始め、耐えきれなくなった私は……申し訳なく思いながらも、挙手をした。

「すみません、お手洗いをお借りしてもいいですか?」




「ああ、生きた心地がしない……」

 お腹をさすりながら、お手洗いを出る。

「にしても、広い家だなー」

 先ほどいた居間からお手洗いまで、何度廊下の角を曲がったかわからない。むしろ、ちゃんとあの部屋に戻れるのかが怪しい。

 出迎えてくれたのは湯佐さんだけだったけど、奥さんやお子さんはいないのだろうか。

式神の姿も見かけないし、こんなに広い家でひとり暮らし?

「寂しいだろな……」

 私もおばあちゃんが死んじゃってからは、ひとりで家にいると嫌でも静けさを感じてしまって、寂しくてたまらなかったっけ。

 タマくんはほとんど毎日家に来てくれたけど、今日みたいにご両親が揃って家に帰ってくるときは家族と過ごしていた。

それは当然のことだし、むしろうちに入り浸っていることのほうがおかしいのだけれど、家が広ければ広いほど自分がひとりぼっちなのだと思い知らされて、私はこのままずっと孤独で生きる運命なのかな?とか、悪い妄想ばかり膨らんで……。

「って、ひとんちで考え事してる場合じゃない! 早く安倍さんのところに戻らないと……」

 そう思って居間の扉を開けた……つもりだったのだが、そこは薄暗かった。

部屋の奥には仏壇があり、遺影にはランドセルを背負った女の子と年老いた女性が映っている。

 そして、その仏壇の前には──。

「んーっ、んーっ」

 口に布を咥えさせられ、手足を後ろで縛られた女の子が三人も転がっている。

彼女たちは私を見上げながら、涙があふれそうになっている目で『助けて!』と訴えていた。

「こ、これって……え、どういう……」

 頭には、安倍さんの声がこだまする。

『廃業したはずの元陰陽師が、式神を使うて女児を誘拐してるって疑惑があってな』

 まさか、湯佐さんは本当に女の子を誘拐してた?

 その結論に至ったとき、ゴンッと頭の後ろに強い衝撃を受けた。受け身を取ることもできず地面に倒れ込むと、頭に鈍い痛みが襲ってくる。

 床に頬をつけながら、必死に私を殴った犯人を見上げた。

「だ、誰……?」

 先に視界に捉えたのは三つ編みに結われた長い灰色の髪。次に、無機質に私を見下ろす……着物姿の男だった。

 でも、その濡れ羽色の黒い瞳はどこか悲しげで、意識を失う寸前まで目を離せなかった。




「いっ……」

 ズキズキとした痛みで、意識が浮上してくる。

 私、どうしたんだっけ。部屋で女の子を見つけて、そのあと男の人に後ろから殴られて……そうだ、安倍さんにこのことを知らせないと!

 そう思って瞼を持ち上げれば、私を待っていたのは闇だった。

「え……なんで、なに……ここ……」

 震えが止まらない。昔から、ううん……お父さんとお母さんに物置小屋に閉じ込められた日から、暗闇は苦手だった。

 少しして、薄っすらとホウキやちりとりなどの掃除道具が壁に立てかけられているのが見えた。私がいるのは、物置小屋のようだ。

 早く、ここから出なきゃっ。

 慌てて起き上がると、頭に鋭い痛みが走る。

悲鳴が喉まで出かかったが、そんなことよりもここから出るほうが大事だ。

 構わず立ち上がった私は、両手を伸ばして出口を探した。

 しかし、なにも見えないせいで、先ほどからいろんなものにぶつかってしまう。

「あっ……」

 なにかに躓いて、思いっきり転んだ。

肘と膝を擦りむいたのか、ヒリヒリする。地面を這うように前に進むと、ようやく扉に辿り着いた。

「誰かっ、誰かーっ、ここから出して!」

 どんどんと扉を叩いても、叫んでも助けはこない。

真っ暗で埃臭くて寒くて……私は世界にひとりぼっちなのだと、そう思わせるこの場所から一刻も早く逃げ出したかった。

「誰かっ、助けてーっ」

 外から鍵をかけられているのか、扉は押しても横にスライドさせようとしても、びくともしなかった。

 何度も何度も扉を叩きながら、どこかで失望している自分がいた。

 どんなに足掻いても、私を助けに来る人なんていない。わかってた……だって、あのときもそうだった。

 私を【化け物】と呼び、【気味が悪い】と恐れ罵倒したふたりが、私を助けになんてくるはずがなかったのだ。

 今回も同じだ。安倍さんはあやかしを従わせられる私を、人間にとっての脅威だと、そう言っていた。

もし【呪約書】のことがなければ、ご両親の敵であるあやかしに憑かれた私なんて、死んだほうがいいと思っているかもしれない。

 ああ、やっぱり暗闇は、私の心に絶望しか連れてこない。

 がっくりと、崩れ落ちるように地べたに座り込む。膝を抱えて、その間に顔を埋めた。

 どれくらい、ここにいたんだろう、あとどれくらい、ここにいなきゃいけないんだろう。

 窓がひとつもないので、時間も確かめられない。本当の本当に、世界から切り離されたみたいだ。

「助けて……」

 願ったって無駄だと、諦めたような私の声がする。

「助けて……」

 散々、化け物だと罵られてきたのに、それでもまだ信じてる。

私をこの暗闇から救い出してくれる誰かが現れるって。それは、きっと──。 

「助けて、安倍さん!」

 声が届いたのだろうか。バタンッと勢いよく開いた扉から、光が差し込む。

「無事か! 美鈴!」

 初めて名前を呼ばれた。私は眩しさに目を細める間もなく、彼へと抱きつく。

「安倍さん!」

 ひしっとしがみつけば、安倍さんは突き放すことなく抱き留めてくれた。

「安倍さんっ、安倍さんっ、安倍さんっ……ううっ、ふうっ……」

 人間って、ほっとしたらこんなに涙が出るんだ。

 助けにきてくれたことが、自分で思うよりもずっとうれしかった。

「落ち着け、もう大丈夫や。俺がおるやろ」

「怖……くてっ……暗いの、ダメなんです……」

 安倍さんのジャケットを握る手が震える。それに気づいたのか、安倍さんはぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。

「なんで、暗いのがあかんのや?」

「昔……閉じ込められた、から……。お父さんとお母さんが猫憑きの私を気味悪がって、物置小屋に……」

 私を抱きしめる安倍さんの腕に、力が込もった気がした。

「また……」

 ぽつりと安倍さんがこぼした言葉に、私は「え?」とか細い声を返しながら、顔を上げる。

「また、お前が暗闇に閉じ込められたときは、俺が見つけたるさかい、もう泣きやめ。見とって鬱陶しい」

 つっけんどんな物言いなのに、どうして労わってくれているように聞こえるのだろう。

 本気で心配してくれている安倍さんに、私はようやく笑みを浮かべた。

「さすが、光明さん」

「んなっ──、なんや、急に名前で呼んだりして」

「光と明……名前の漢字、どっちも明るいから……私を照らしてくれそうだなって。私を見つけてくれた、今の光明さんみたいに」

 甘えるように、安倍さんの胸に頬を擦り寄せる。

 安倍さんは一瞬、身を固くしたけれど、

「なんか、猫に懐かれたみたいや」

 と言い、脱力していた。

 するとそこへ、足音が近づいてくる。

安倍さんと一緒に振り向けば、湯佐さんともうひとり、私を後ろから殴って気絶させた男の人がいた。

「長い御手洗ですね、おふたりとも」

 底知れない笑みを浮かべている湯佐さんに、ぶるりと震えてしまう。そんな私を、安倍さんはそっと抱き寄せた。

「わかってるやろ。俺が席を立ったのは、御手洗目的ちゃう。帰ってきいひん連れを探すためや」

 そこまで言って、安倍さんは物置小屋をちらりと見やり、鼻で笑う。

「まさか、物置小屋に閉じ込められてるとは思わへんかったけどな」

「あ、安倍さん。私、湯佐さんの後ろにいる人に殴られて、それで気絶しちゃったんです。それで気づいたら物置小屋に……」

 安倍さんは、湯佐さんの後ろに控えている男性を一瞥した。

「あら式神や。あんた、式神になにをさせてる」

 なにも言わない湯佐さんに、安倍さんはため息をつく。

「おんなじ年齢、性別の子供を誘拐してるんは、亡くなった娘さんのためですか」

 亡くなった娘さん……?

 それは初耳だった。じゃあもしかして、女の子たちがいたあの部屋の仏壇に映ってた女の子が亡くなった娘さんだったのだろうか。 

「はは、あなたがここに来たときから、もう隠し通せないと思っておりました。私の式神も撒いてしまわれましたし」

 湯佐さんの笑みが自嘲的なものへと変わる。その表情は、初めて湯佐さんが見せた本心のような気がした。

「……もう、三十年も前になります。妻と娘をあやかしに殺されたのは」

 あやかし……それにどきりと心臓が跳ねた。あやかし憑きだからだろうか、私も他人事ではないように思えたのだ。

「あやかしを滅する立場にいる陰陽師を継いだときから、あやかしに討たれる未来は常に想像していました。ですが……あやかしは私を殺すのではなく、私の大事な者を奪うことで復讐を果たしたのです」

「そら……自分が殺されるよりもしんどかったやろうな」

 感傷のこもった響きが、安倍さんの呟きにはあった。

 安倍さんはご両親をあやかしに殺されたときのことを思い出しているんだろうな。

湯佐さんの気持ちがわかるだけに、今回の依頼はつらいはず。

 だけど、あやかし憑きの私が慰めたところで、安倍さんを励ませるとは思えない。

むしろ、お前にはわからないと、また怒らせてしまうかも……。

 それでもなにかせずにはいられなくて、私は安倍さんの腕に手を添えた。

こんな私の手でも、安倍さんの心を温めてあげられたらいいと、そう願って。

 安倍さんは私をちらりと見て、

「お前が気にすることやない」

と、小声で言った。

 お前に関係ないと突き放されたようにもとれるけれど、柔らかい声音がそうではないのだと教えてくれる。

「私の家族を殺したあやかしは、私が仕事で滅したあやかしの仲間だったのでしょう。それから定年まで、あの子と妻を生き返らせる術を探して、ようやく見つけたのです」

「死者蘇生の禁術に手ぇ出すつもりやったんやな。正確には別の肉体に死者の魂を入れる術やけど、それには生き返らせたい人間に近い器が必要や。そやさかい、娘さんとおんなじ年齢、性別の子供を誘拐して、娘さんの魂を入れる器にしようとしとった」

「そうです。いずれ、妻の魂を入れる肉体も探すつもりです」

「探すつもり……そらまだ、諦めてへんってことやな」

「諦めるわけにはいかないんです。──風切(カザキリ)」

 風切は湯佐さんの式神の名前だったらしい。彼は前に出てくると、すっと大きな鎌を出して構える。

 やっぱり、その眼差しには悲壮がこもっていた。

「やれ」

 湯佐さんに命令された風切は、一瞬だけ躊躇うようにぐっと鎌の取っ手を握った。それでも命には逆らえないのか、強く地面を蹴って襲いかかってくる。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。結界、急急如律令!」

 安倍さんは素早く印を切り、結界を張って攻撃を弾いた。

後ろに飛ばされた風切は、宙で一回転して着地すると、すぐに鎌を振り上げながら結界を壊しにかかる。

「式神の力は主に比例する。俺の力はお前の主の何倍も上や。つまり、俺の結界はお前には壊せへん。……まあ、そう言うたところで主の命には逆らえへんか。酷い命令をするもんだな」

 壊せない結界に鎌を振り下ろす風切を、安倍さんは憐れむように見つめている。

「本当は……従いたくないの?」

 そう問えば、風切の肩がピクリと跳ねた。

 風切は私を気絶させたときも、悲しげな目をしていた。今だって、苦しみを押し殺すみたいに無表情を貫いて攻撃してくる。

「言いにくい?」

「いや、発言すらも許されてへんのや」

「そんな……」

 娘さんと奥さんを亡くした湯佐さんには同情できる。だけど、自分の目的のために式神に罪を背負わせるのは理解できない。

「安倍さんは、自分の式神を我が子みたいに大切に見つめてた。式神って、陰陽師にとって子供みたいなものじゃないの?」

「子供……そう思っていた時期もありましたがね、でも……あの子の代わりにはならないのですよ。本当の娘の代わりには」

 湯佐さんの言葉に、風切が傷ついた表情を浮かべた。その瞬間、私の中のなにかが勢いよくぶち切れた。

「式神は親を……主を選べないでしょう? それを利用して縛り付けるなんて、ダメだよ」

「同感や。式神は道具ちゃうんやで。心がある」

「風切、あなたはどうしたいの? 教えて」

 私が、あなたを自由にしてあげるから。

 その思いに反応するように、ドクンッと心臓が音を立て、熱が全身を巡る。

今までは勝手に発動していた魔性の瞳の力が、初めて自分の意志で呼び覚まされていく。

「お前、またあの力を使う気か? 昨日の今日で無茶するな!」

「安倍さん、でも……こういうときのために、私の力ってあるんじゃないかなって。誰かを従わせるんじゃなくて、勇気をあげるんです」

 私は結界の外に出て、風切に向かって歩き出す。

「なにしてんねん、危ないやろうが! 早う戻れ!」

 安倍さんの呼び止める声が聞こえるけれど、たぶん大丈夫だ。だって、風切が私を傷つけようとしても──。

「──動けない」

 風切は私に鎌を振り上げた状態で固まる。

それを目の当たりにした湯佐さんは「なにが起こって……」と狼狽を顔に漂わせていた。

 私は風切の頬に手を添え、「──本心を聞かせて」と促す。

彼は肩の荷を下ろすみたいに、どこか諦めの滲んだ表情をした。

「本当の主は……こんなふうに誰かを傷つけてまで、自分が幸せになろうとするお方ではないのだ。けれど、家族を失った悲しみに心が蝕まれてしまった。だから、このように恐ろしい計画を……」

 そっか、風切の苦しみは命令に従いたくないだけではなく、主を止めたいけど逆らえないことだったんだ。

「──あなたはどうしたいの?」

「……止めたい。止めようとして、私は言葉を奪われた。ただ、主が罪を犯す姿を見ているしかできなかった」

 悔しさからか、唇を噛む風切。私は血が滲んだ風切の唇に指先で触れて、自分で自分を傷つけるのをやめさせる。

「──大丈夫、もうあなたは自由だよ。だから、あなたが助けたい人を、あなたのやり方で助けるの」

「え……?」

 どういう意味だ?と目で問いかけてくる風切に、にっと笑って見せた。

「──風切、あなたの意思は誰にも支配されない」

 強い言葉で、風切に暗示をかける。

これは陰陽師と式神の契約以上に強制力のある、新たな縛り。

だけど主に抗えるようになるから、風切は湯佐さんの命令から解き放たれる。

「……主、もうおやめください」

 私に鎌を向けていた風切が、私を庇うように立つ。

自分の式神が裏切るとは思っていなかったのか、湯佐さんは動揺を隠せず後ずさっていた。

「わ、私の式神だというのに、敵になるというのか!」

「いえ、私は今もあなたの式です。あなたが、あなたの誇りを失わないために、こうして相対しているのです」

 主に歯向かうのはつらいだろうに、風切は決して湯佐さんから目を逸らさなかった。

「自分の式に諭されて、ほんでもまだ目ぇ覚めへんのか」

 安倍さんは歩きながらそう言い、私たちの隣に並ぶ。

「ここまで慕われてるんや、ほんまはこないな非道なことできる人間やないってことはわかる。そこまであんたを認めてくれてる式神を、これ以上失望させるな」

「それでも、私は家族を取り戻したい! あなただって、わかるでしょう!  家族を殺されたことがある、あなたなら!」

 安倍さんは、ぐっと拳を握りしめた。

「……死んだ家族は戻らへん。そやさかい、今そばにいてくれてる存在をぞんざいに扱うたらあかん」

 安倍さんの言葉が真に迫っているのは、実体験からくる考えだからだろう。

自分の傷を抉ってまで伝えようとする安倍さんの説得だから、湯佐さんの心も動かせたのかもしれない。

「……っ、すまなかったな……すまなかった……」

 湯佐さんはその場に泣き崩れた。

風切はすぐに駆け寄り、その傍らに膝をつくと、主の肩をさする。

「風切、お前はいつだってそばにいてくれてたのに……本当にすまなかった……」

 謝罪を重ねる湯佐さんに、風切はただ優しく首を横に振る。

そして、どこか憑きものが落ちたような顔つきで、こちらを見上げた。

「あなたのおかげで、私はこれから自分の意思で主を守っていけます」

 その言葉が聞けてよかった。

 命令と服従で繋がるのではなくて、心で繋がったふたりなら、この先どちらかがまた間違いを犯しそうになっても正しい道を歩いていけるだろう。

「本当、よか……た……」

 これはデジャブかと思うほど、私は昨日と同じ勢いでその場にへなへなと倒れ込む。

力を使った反動で、またもや身体が縮んでいき……猫になってしまった。

「お前は学習しいひんな、まったく」

 呆れながらも抱き上げてくれる安倍さんは、眉間にしわこそ寄っているが、言うほど怒っていなさそうなので安心した。

本当に嫌だったら、私を放って帰っているはずだ。

 こうして、女児誘拐の犯人は湯佐さんであると判明した。

当然、誘拐は犯罪なので逮捕されることとなったのだが、式神を使った犯行だなんて普通の警察では信じてもらえない。

なので、陰陽寮と繋がりがある警察署の特殊な課……つまりはこういったあやかしの関わっている案件を扱う課に連絡をして、連行されていった。

 今回、風切は命令されていたために抗える状況でなかったとして、罪には問われなかった。

主が罪を償い、この家に帰ってくるまで家を預かるのだと、寂しそうではあるが、どこか清々しく言い切った風切の顔が脳裏に強く焼きついている。

「ときどき、風切のところに遊びに行ってあげましょうね」

 夕暮れの帰り道、安倍さんの腕の中でぐったりしながら話しかけると、指で額を弾かれた。

「痛いっ」

「人の心配してる場合か」

「だって、あんな広い家でひとりぼっちは寂しいですし……」

「まあ、見回りついでに寄るくらいはできるしな」

「安倍さん!」

 それはついてきてくれるってことですね!と言わんばかりに感動の声をあげれば、またデコピンされる。

「痛いっ……何度も何度も、凹んだらどうするんですか……」

「いっそ凹ましたろか」

「やめてください……って、そうだ。大変です、安倍さん。私、これじゃあ買い物できません」

 それだけで、私がなんの心配をしているのか察したらしい。

安倍さんは「ああ」と思い出したように方向転換して、行き先を変える。

「明日の誕生日会の買い出しやろ。なにが必要なのか言え」

「買ってきてくれるですか? 優しい……安倍さんがむちゃくちゃ優しい……これ、夢? 私、寝てる?」

「失礼なやつやな。俺だって、あいつらの誕生日を祝いたい気持ちはあるんや」

「ふふ、じゃあ、生まれてきてよかったって思ってもらえるように、いっぱいお祝いしましょうね」

 そう言って、つらつらと買い出しリストを述べていたら、眠くなってきた。

瞼がくっつきそうだったが、なんとか最後まで材料を伝えきる。

やりきった達成感も相まって、急激に睡魔が襲ってきた。

「安倍さん……ちゃんと、忘れずに……買ってきて……ください……ね……」

「わかった、ええから寝ろ。どれだけ人のことばっかなんや」

 眠る間際まで安倍さんの声は呆れ気味で、私は少し笑いながら眠りに落ちるのだった。

***

「ハッピーバースデ~」

 急遽計画した誕生日会当日。

べたと言えばべたなのだが、安倍さんが買ってきたチキンにフライドポテトにピザなんかが座卓に並んでいる。 他にも、タマくんお手製の豪勢な料理も。

 ポン助の変化ショーなる余興とともに夕食を堪能したあと、私は手作りのホールケーキを手に居間に入った。

「ふたりの年齢、見た目ものすごく子供だけど、十七歳ってことでよかったかな?」

 さすがに十七本もロウソクを挿したら、ケーキが穴だらけになってしまうので、【17】という数字の形をしたロウソクを飾った。

 水珠と赤珠は興味津々にテーブルに乗り出し、ケーキを覗き込む。

「これ、俺たちの名前か?」

「この茶色いの……光明様が食べてるチョコレートの匂いがする……」

 ケーキの中央にあるチョコプレートに、自分の名前が書かれているのに驚いているらしい。

「誕生日ケーキ、見たのが初めてなの?」

「そや、こいつらには毎年服買うて終わりやったし……」

 安倍さんは、ばつが悪そうにしている。

提案すれば誕生日会にも協力してくれるし、なにより水珠と赤珠を大事に思っているのは確かなので、安倍さんは甲斐甲斐しさがないわけでもない。

「単に、どう祝っていいかがわからなかった……とか?」

 下から安倍さんの顔を覗き込むと、ぐっと悔しげな息を漏らす。

これまでの安倍さんは無表情か物騒な顔をしているのかのどちらかだったので、案外わかりやすい人で安心した。

「さーてと、ふたりともロウソクを吹き消して。その瞬間は、バッチリ私が写真に収めておくからね」

 スマホを構える私に、水珠と赤珠は顔を見合わせて、それからふーっと火を吹き消す。

さすがは双子、タイミングまでシンクロしている。

 私はシャッターチャンスを逃すことなく、撮影ボタンを押した。そんな私の服をポン助が引っ張る。

「オラにも、いつか作ってほしいポン」

「ポン助、もちろんだよ。ポン助の誕生日でも、ロウソクとチョコレートプレートをつけたケーキを作るからね」

 ぱっとポン助の顔が明るくなる。

今度はポン助の顔をケーキで作ってみようかな?なんて想像を巡らせていると、安倍さんがふたりの前まで歩いていった。

そして、大きな包みを差し出す。

「……親父とお袋を亡くしたあと、俺はずっと京都の邸にひとりでいた。祖父母に引き取られてからも、心はずっと空っぽで……その寂しさを埋めるために作ったのがお前らや」

「はい、俺たちは光明様がすごく寂しかったのを知ってます」

「だから私たちは……光明様の心も支えたいと……今日までお仕えしてきたのです」

 水珠と赤珠は親を慕うように、はたまた我が子を見守るように、安倍さんを見上げる。

式神と主というのは不思議だ。彼らにしか分かち合えない、強い絆のようなものを感じる。

「仕えるんは仕事のときだけでええ。それ以外のときは家族であり、相棒であり、兄弟であり……ひと言では表せへんけど、俺らは心で繋がった関係やろ」

「「……っ、光明様!」」

 涙を浮かべる双子を、安倍さんは抱きしめた。

「あ、鼻水つけるなや。ああ……涙で着物がびしょびしょになったやんか」

 文句を垂れながらも安倍さんは、まるで我が子にするようにふたりをあやしていた。そんな彼らを眺めながら、微笑ましく思っていると……。

「きみは……すぐに人の心に入り込むね」

 すっと隣に立ったのは、困ったように笑うタマくんだ。

「入り込むなんて……もし安倍さんたちと打ち解けてるんだとしたら、人見知りしない性格のおかげかもね。氷結陰陽師みたいに、難攻不落な相手ほど燃えるんだなあ、これが」

「その氷結陰陽師っちゅうのんは、俺のこっちゃあらへんやろうな」

 不機嫌な顔をして、安倍さんがやってくる。

座卓のほうでは水珠と赤珠にちゃっかり混じって、ポン助がケーキを食べていた。

 そうだ、安倍さんにちゃんとお礼を言っておかないと。

「安倍さん、物置小屋に閉じ込められたとき、助けに来てくれてありがとうございます」

「なんや、改まって」

「こういうのは、ちゃんと伝えておかないとって思って。あやかしが憑いてて、それでいて前世の妻で……安倍さんからしたら嫌なところしかない私を助けてくれたでしょう? すごく、うれしかったです」

「別に、嫌なんかじゃ……」 

 もごもごとなにかを言いかけた安倍さんに、私は首を傾げる。そんな私たちを見ていたタマくんは……。

「いつの間に、仲良くなったんだ?」

「誰が、仲がええって?」

 不服そうな安倍さんを無視して、私は今日あったことをタマくんに報告する。

「そう、物置小屋に……。嫌なこと、思い出したでしょ」

「嫌なこと? ああ、親に閉じ込められたっちゅうあれか」

「美鈴が話したのか?」

 タマくんは驚愕の表情で、私を見る。 

「安倍さんの顔見たら、なんだかほっとして……気づいたらいろいろ話してたんだ。それに、安倍さんは私を助けてくれたから、過去を知られてもかまわないよ。別に、隠していたわけでもないしね」

 肩を竦めると、タマくんは悔しそうに拳を握り締めた。

「僕がそばにいれば、すぐに助けてあげられたのに……」

 悲しげな顔をするタマくんに、私は首を横に振った。

「ありがとう、でも今日は安倍さんが来てくれたから、大丈夫!」

 なるべく明るく振る舞うも、タマくんも安倍家さんは深刻な表情で言葉を探している様子だった。

 今さらだけれど、こんなにめでたい日にわざわざ暗い話題を投下することもなかったかと後悔する。

「ま、それは遠い日の過去ですし! そうだ、安倍さんのプレゼントってなんですか? いつの間に用意してたんですか? 気になるなあ~」

 焦って早口だし、質問攻めだし、話題の逸らし方が不自然も不自然。

とはいえ口から出てしまった言葉は撤回できないので、笑顔で乗り切ることにする。

「新しい着物や。毎年、あいつらに合うものを仕立ててる」

「へ、へえ~、呉服屋さんで?」

「そや」

 会話が終了し、気まずくなり、タマくに視線を移して助けを求めた。

タマくんは苦笑いでため息をつくと、ケーキを食べている水珠と赤珠たちに目を向ける。

「変な光景だよね。相容れない人間とあやかし、陰陽師と式神が誕生日会をしてるだなんて」

 話題が変わったことにほっとしつつ、私も目の前に広がる景色に頬を緩める。

「あやかしと人は敵対してきたのかもしれないけど、お互いを知ればこんなにも仲良くなれるのにね」

 そこでふと、昨日の湯佐さんのことを思い出した。

「討って討たれてを繰り返していたら、復讐は永遠に繰り返されるよね。憎しみの連鎖が途切れない限り、また大切な人の命が奪われて、悲しみが生まれる。どこかで、断ち切れたなら……誰も泣かずに済むのに」

 目を伏せれば、安倍さんは「綺麗事やな」と言う。タマくんも否定しないので、同意見なんだろう。

「誰しもが綺麗事だと思うかもしれなくても、世界にはその綺麗事こそ必要なんだよ。でなきゃ一生わかり合えないし、歩み寄れないから」

「……まあ、少しは……お前の夢物語みたいな綺麗事も一理あるな、とも思わなくもない」

「えっ、ついに光明さんが歩み寄ってくれた!?」

 嬉しさのあまり詰め寄ると、安倍さんは「お前、今……」とわずかに目元を赤らめる。

そこでようやく、自分が安倍さんを下の名前で呼んでいたことに気づいた。

「あ……ごめんなさい、つい……」

「いや……構わへん。それに、物置小屋の前でも、俺のことそう呼んどったやろ。今さらだしな」

 あのときは安倍さんが迎えに来てくれて、ものすごく安心して、勢いで呼んでしまったのだ。

「じゃあ、光明……さん……と呼ばせていただければと」

 安倍さんは「ん」と短く答え、私たちに背を向ける。

「ついでに、その鬱陶しい敬語もいらへんさかい、やめろ。──美鈴」

「わかりまし……わかった。って……えっ」

 今、美鈴って呼んだ? 

 夢かと思って頬をつねってみるけれど、ちゃんと痛い。じんじんする頬に、じわじわと現実なのだと感動が込み上げてくる。

 思い返してみると、私を助けに来てくれたときも名前を呼んでくれた気がする。

 水珠と赤珠のもとへ歩いていく安倍さんの背を見つめながら、ついに『猫又女』呼びから脱出したんだと実感していると、ふふっと笑みがこぼれた。

「うれしい? 安倍さんに名前を呼ばれて」

「うん、それはもちろん」

 迷わず答えて隣を向けば、タマくんは少し切なげに笑っていた。

どうしたの?と問うのをためらったのは、どうしてだろう。

 自分の気持ちに困惑していると、タマくんは私の変化にすぐに気づいてしまう。

「大事な幼馴染を取られた気分だよ」

「そんなっ、私が誰と仲良くなっても、タマくんがいちばんであることには変わりないよ! これまでも、これからも……」

「うん、そうだとうれしい」

 うれしいなんて、これっぽちも思っていないような顔。

私の中のいちばんが、これからもタマくんであるということを信じていないような曖昧な返し。

タマくんの考えがわからないと思ったのは、これが初めてのことかもしれない。

***

 あれは俺が十歳の頃の話だ。
 陰陽寮の仕事から帰ってきた両親が、原因不明の熱病に倒れた。

 北野天満宮の裏手にある塚に、巣を作っていたあやかしを退治したせいだろう。

呪いや毒の類を受け、何日も身の内から焦がされるような灼熱感と激痛に苦しみ、最後は……。

『ああ、なんで消えへんねん!』

 床に伏せっていた両親の身体から、火が上がる。内側でくすぶっていた熱が一気に外へ噴き出したみたいに、発火している。

 俺は自分の羽織で、何度もふたりの火を消そうとした。そんな俺の努力を嘲笑うかのように、火は強くなっていく一方だった。

『うああああっ、うがああっ』

『ぎゃあああああっ』

 耳を塞ぎたいほどの両親の悲鳴。皮膚や肉が焼ける匂い。俺はただ、「どうして!」と繰り返し泣き叫ぶ。

『ぐあああっ、ぁ……こう……めい……逃げるんや……っ』

『なに言うてんねん、親父!』

 こんな時まで自分の心配をする親父に、俺は怒鳴る。

『っ、そうよ……どうかあなただけは、無事、に……っ」』

『お袋まで…… !』

 おふくろの笑みが炎の中に消えていく。

ふたりを形作る骨や肉までもが炎に溶かされていく様を、俺はなす術なく見つめることしか出来なかった。

  両親を無情にも焼いた炎が、住み慣れた屋敷さえも燃やし尽くそうとしていた。

 やがて骨も残らず炭になった両親を前に放心していると、辺りに割れたような声が響いた。

『消えぬ……怒りが、憎しみが、悲しみが……』

 黒く大きな影が天井に映り込む。その声を聞いた瞬間、虚ろだった心に一筋の光が差した気がした。

 俺はゆっくりと天井を見上げ、影を睨みつける。

『許さぬ……我が同胞にした仕打ち、必ずやこの恨み晴らしてみせようぞ。お前たちの血筋の末代まで、呪い殺してくれる』

『俺も許さへん。この恨みを晴らしたる。それまで首を洗うて待っとき』

『面白いことを言う。安心しろ、お前はすぐには殺さない。お前に妻ができ、子ができ、孫ができ……そうして繋がれた命をひとつずつ燃やし尽くして、我らが土蜘蛛の怒りを買ったこと、後悔させてくれるわ』

 あやかしは人間の敵。ただ殺すだけじゃ飽き足らず、じわじわと炎で焼いて殺すなんて、どんな理由があったとしても非道すぎる。

 ──そないなあやかしは、この世から消えるべきだ。

***

 今日も光明さんの仕事に付き添って、私はタマくんと一緒に陰陽寮に来ていた。

 水珠と赤珠はいつものことだけれど、ポン助もお留守番だ。

さすがに陰陽師がいる陰陽寮に、商店街で盗みをしていたあやかしを連れてくるわけにはいかない。

本人はものすごく、ものすごーく、ついて行きたがっていたけれど。

「というわけで、きみたちには京都に行ってもらうことになったから……って、私の話を聞いてるかな? 光明」

 光明さんから応答はない。

さっきから、光明さんは心ここにあらずで、所長さんがこれから担当する仕事の説明をしている間、ぼんやりと湯のみに視線を落としたままなのだ。

「光明さん、光明さん!」

 肘で光明さんを突くと、ようやくはっとしたように顔を上げ、「……あ」となんとも抜けた返事をする。

「あ、 じゃないよ、光明。私の話、ほとんど聞いてなかったでしょ?」

「……すんません」

「まあ、無理もないよね。今回の仕事は、光明にはかなり苦しい案件になるだろうし」

 光明さんにとって、苦しい案件?

 私はタマくんと顔を見合わせる。それから、隣に座っている光明さんに視線を向けた。

 光明さんはいつも以上に無表情で、誰にも自分の感情を悟られまいとしているかのようだった。

「京都にある光明の屋敷にねえ、土蜘蛛の巣食う塚ができちゃったらしいんだよ」

「土蜘蛛?」

 どこかで聞いたことがあるな、と記憶の引き出しを頭の中で引っ張り出していると、ポンスケの言葉を思い出した。

『あなた様は鬼(おに)、妖狐(ようこ)、烏天狗(からすてんぐ)、大蛇(だいじゃ)、猫又(ねこまた)、土蜘蛛(つちぐも)、犬神(いぬがみ)……あやかし七衆(ななしゅう)の頭首のひとりであらせられる猫又の姫様にございますポン!』

 そのあやかし七衆とかいう頭首のひとりに、土蜘蛛がいたな。ということは、私は前世で仲間だったのだろうか。

「土蜘蛛は名前の通り、蜘蛛のあやかしだよ。あれは吐いた糸で死体を操り、毒で身体に異常を起こす力を持ってる。土蜘蛛の塚の近くに植えられていた木を伐採した者は、病死したって事例もあるんだ」

「その土蜘蛛は、どうして光明さんの屋敷に?」

「……私の口から話していいのかい?」

 所長さんは、わずかに首を傾ける。光明さんは横目で私を見るや、「別に構わへん」と答えた。

「俺だけが話さへんのも、不公平やからな」

 私が両親にされたこと、暗闇が怖いこと、それは私が勝手に話したことだ。

 だから、義理を感じることはないし、出会った頃の光明さんなら、お前には関係ないと突っぱねたはず。

 でも、私には知られてもいいって思ってくれたんだ。少しは光明さんに気を許してもらえたって自惚れても、いいのかな?

「そう? じゃあ、私から話すけど……屋敷は光明のご祖父母が管理していたんだ。ほら、ご両親は亡くなっているからね」

 あやかしに殺されたんだよね……。

 少しだけ重たい空気が、私たちの間に漂う。

「管理しとった言うても、屋敷は半分以上燃えて住める状態やないけどな」

「じゃあ、どうして管理を……」

「……焼け焦げてようが、俺の帰る家やさかい。ほんまは自分で管理したかったんやけどな、俺は呪いのことがあったさかい、こっちの別荘に移り住まなあかんかったんや」

「それでおじいちゃんとおばあちゃんに、屋敷を任せてたんですね」

 納得している私の横で、タマくんが「んー」と難しい声を漏らした。

「その住めなくなった安倍さんの家に、なんで土蜘蛛の塚が? あやかしは、あまり人里を好まないだろ。わざわざそこに巣を作る目的に、見当はついてるの?」

「……ついてる。そやさかい、この案件を俺に任せたんやろう、所長」

 光明さんの視線を受けた所長さんは、「そうだよ」と頷いた。

「光明の親を死に追いやった、あやかしの仕業かもしれないからね」

「えっ……そんなつらい案件を光明さんにさせるなんて、酷すぎます!」

 思わず立ち上がった私を、光明さんはため息をつきながら見上げる。そして、「座っとき」と言い、私の腕を引いてソファーに座らせた。

「俺はずっとこの日を待っとったんや。いつか、親父とお袋を殺したあやかしを見つけて、滅したるって決めとったさかい。向こうから会いに来てくれて、むしろうれしいくらいだ」

 光明さんが浮かべた笑みは、見ているこっちが凍りつきそうなほど冷たいものだった。

「じゃあ、出張に行ってくれるってことでいいね?」

「はい、すぐにでも立ちます」

 すぐにでもって……。

「目的地、京都だよ?」

「もう忘れたのか? 喰迷門を使えばすぐやろ」

「それは嫌っ、それだけは絶対に嫌っ」

「わがまま言いなや」

「だって、口の中に入るなんて、生理的に受け付けないんだもん! こう、ぞわぞわっと鳥肌が立つっていうか!」

 腕をさすりながら抗議するけれど、光明さんはつんと顎を上げて言い放つ。

「お前の選択肢はふたつにひとつだ。おとなしゅう喰迷門で行くか、俺に気絶させられて喰迷門で行くか、選べ」

「どっちも大差ないじゃん!」

 お笑い芸人のノリツッコミみたいに、コントを繰り広げる私たちを所長さんは呑気にお茶(ちなみに激辛)をすすりながら、タマくんは苦笑いしながら眺めている。

「私は絶対に新幹線で行くからねーっ、I LOVE文明の利器!」

 陰陽寮には、私の絶叫が響き渡った。
***

 抗議も虚しく、私は無理やり喰迷門に落とされて、京都にある光明さんのご祖父母の屋敷にやってきていた。

「大丈夫? 美鈴」

 手で口を覆いながら「うっぷ」嘔気を催している私の背を、タマくんがさすってくれる。

「タマくんは、なんで平気なの……?」

 喰迷門を通って、ケロッとしているタマくんを尊敬する。

「軟弱やな。 お前、猫やろ。猫はどないな高さから落ちても、華麗に着地できるんちゃうんか」

「光明さん、私は猫じゃなくて猫〝憑き〟」

「どっちも一緒やろ」

「全然違う!」

 屋敷の門の前でガヤガヤ言い合っていたら、中から八十代半ばぐらいの白髪の女性が出てきた。

浅葱色の着物に身を包み、髪も綺麗にまとめられ、どこか品のある方だ。

「なんかやかましいな思たら、光明、帰っとったんやなあ」

「ああ、ばあさん。久しぶりやな」

 柔らかな笑みを浮かべる白髪の女性は、どことなく光明さんに似ている気がした。

まじまじと女性を眺めていると、隣にいたタマくんが耳打ちしてくる。

「あの人が安倍さんのおばあちゃんみたいだね」

「うん、美形は代々引き継がれてるんだね」

 コソコソと話していたら、安倍さんのおばあちゃんがこちらを向いた。

「そちらさんが、今回の案件を一緒に受けてくれはる……」

「猫井美鈴です」

「魚谷玉貴です」

 自己紹介をした私たちを、光明さんのばあちゃんは品定めするようにじっと観察してきた。なにかを見透かそうとする目に、 全身に嫌な汗をかく。

「私は安倍雪路(ゆきじ)です。なんだか、けったいな気配のするおふた方やなぁ」

「……!」

 私たちが猫憑きだって、お見抜きになってる!?

 穏やかそうな雰囲気に反して、鋭い眼光に真っ向から射抜かれる。思わず圧倒された私は、ごくりと息を呑んだ。

「ばあさんは、元陰陽師なんやで」

「ふふ、とっくに引退してるけどなあ」

 頬に手を当てて、雪路さんは可愛らしく小首を傾げる。

「ばあさん、こいつらはあやかし憑きだ」

「どうりで……やけど、人にしては妖気強すぎる気もするわねえ」

「そっちの男のほうはわからへんが、女のほうは安倍晴明の妻の生まれ変わりだ」

 それを聞いた雪路さんは両手をパンと合わせて、花が咲いたように笑う。

「そうやってん! 前世の奥さんを見つけて呪いが解けたって話は聞いとったけど、そう、あなたが……」

 なんでだろう、光明さんとはかりそめ夫婦なのに、 結婚の挨拶に来たみたいな緊張感があって、胃が痛い。

「立ち話もなんどすさかい、中へどうぞ」

 雪路さんに案内されて門の中に入ると、屋敷の中は思った以上に広かった。広大な庭には松の木が植えられ、池には鯉が泳いでいる。

 石畳の道を歩いて屋敷の玄関まで来たところで、ふと光明さんが「じいさんは元気か?」と尋ねた。その瞬間、雪路さんの顔が強張る。

「そら……直接会うて、確かめてもろうたほうがええ」

 どこか歯切れの悪い物言いに、胸には一抹の不安がよぎった。




「 これは……」

 光明さんは寝所の布団で横になっているおじいさんを見下ろし、言葉を失っている様子だった。

 それもそのはず、初めてお会いした光明さんのおじいさんは生気を感じられないほど青白い顔をしており、食事が食べられないのか頬もこけ、熱のせいでうんうんとうなされていた。

「あのときと……親父とお袋のときと一緒や」

  耳に入ってきた呟きに、私は「え……」と光明さんの横顔を見上げた。

「俺が十歳の頃、陰陽寮の仕事から帰ってきた親父とお袋が原因不明の熱病に倒れたんや。退治したあやかしのせいや思う。何日も身体の中から焦がされるみたいな灼熱感と激痛に苦しんで、最後は……」

 その先を聞くのが怖くて、 息もつけずに光明さんの言葉を待つ。

「身体から火ぃが上がって、骨も残らへんかった」

 呼吸が止まってしまいそうなほどの衝撃だった。どんな言葉をかければいいのかわからなくて、 代わりに光明さんの手を握った。

 震えてる……これが光明さんの中にある傷と闇なんだ。

 私にもある、どんなに平気なふりをして偽っても、忘れたふりをしても、ふとした瞬間に痛み、心を真っ黒に覆いつくそうとしてくる過去……。

「おじいさんね、あなたの屋敷の庭を掃除してるときに、土蜘蛛の塚に近づいてもうたみたいやで」

 雪路さんは言いにくそうに切り出した。

「じいさんが結界張っとったはずやろ? それ破って侵入できるあやかしは、一匹しか思い当たらへん」

「それって……光明さんのお父さんとお母さんを殺した……」

「そうや、あいつは十年前に言うたんや。俺の血筋の末代まで呪い殺すってな。そやさかい、じいさんも狙うたんやろ」

 実際にあやかしの恨みを買ったのは光明さんじゃなく、ご両親だ。それなのに、どうして光明さんが苦しまなきゃいけないの?

 この間の湯佐さんのときもそう、無関係の娘さんや奥さんが復讐の標的になった。

「あやかしだって、理由なく殺したりはしない。きみの両親は、土蜘蛛になにをしたんだ?」

 タマくんは露骨に眉間にしわを寄せる。

「なにをしたって、仲間の土蜘蛛を滅したんやろ。それで安倍家の陰陽師を恨んで、うちまで押しかけてきたとしか考えられへん」

「それはありえないですポン!」

 突然、どこからかポン助の声がした。みんなで「ポン?」と声を揃えて首を捻ったとき、私のキャリーバッグが暴れだす。

「嘘っ、まさか……!」

 慌ててキャリーバッグのチャックを開けると、中から茶色い物体が飛び出してきた。

「ポン助だポーンっ」

「ポーンじゃないよ! ここ、陰陽師の住んでる屋敷なんだよ? 危ないからお留守番しててって言ったのに、荷物に紛れ込んでくるなんて……」

 全然気づかなかった。ちょっと重いなとは思ってたけど、ここまで気配消せるって、ある意味ポン助は最強かもしれない。

「あ、あやかしですか?」

「ばあさん悪いけど、ツッコミ間に合わへんさかい、見ーひんかったことにして」

 疲れ切った顔で、光明さんは手で額を押さえている。あとで、しばかれるかもしれない……。

 これからのことを思うと胃がキリキリするが、とりあえずポン助の前にしゃがみ込む。

「ポン助、この際、ここに来た理由はもうどうでもいいよ。さっき言ってた『それはありえない』っていうのは、どういう意味?」

「土蜘蛛は毒なんてものを扱ってはいるポンが、温厚なあやかしで有名ですポン。これまで陰陽師に仲間を殺されることは何度もあったと思いますポンが、一度たりとも反撃したりはしてないんですポン」

 両腰に手を当てて、得意げに胸を張って話すポン助。

「なんでお前が、そんなこと知ってるんや」

「土蜘蛛は、あやかし七衆に組してたあやかしですポン。オラみたいな下級のあやかしたちを導いてくれたあやかし七衆の方々は、あやかし界の中で有名なんですポン」

 また、あやかし七衆……。

「そのあやかし七衆に、前世の私も入ってたんだよね?」

「そうですポン! あやかし七衆の中でも、猫又と土蜘蛛は人間と和解して共存することを望んだ和平派、鬼や大蛇、そして犬神は人間を討つべきだとお考えになっていた過激派、妖狐と烏天狗は中立派だったとお聞きしてますポン」

「だから温厚派の土蜘蛛が光明さんの家族を殺すことは、ありえないってこと?」

 ポン助は「そうですポン」と自信満々に頷いているが、タマくんは険しい顔つきのままで腑に落ちていなさそうだ。

「そう決めつけるのは早いんじゃないか? どんなに温厚なあやかしでも、我慢の限界を超えたら、なにをするかわからない」

「そう、だよね……」

 もし自分の大事な人の命を奪われたりしたら、私だってなにをするかわからない。恨みを持たない人間なんて、あやかしなんて、いないのだから。

「お前らは親父とお袋が恨みを買うようなことしたさかい、殺されたんちゃうかって言いたいんか?」

「そういう可能性もあるって話だよ。むしろ、その可能性を除外している時点で、人間中心の考え方だとは思わないのか? 人間は都合が悪いことがあると、すぐにあやかしのせいにする。傲慢にもほどがあるな」

 光明さんとタマくんの間に、ピリピリとした空気が流れる。

「ふたりとも、落ち着いて。光明さんの話が本当なら、このままだとおじいさんの身も危険ってことだよね? だったら、言い争ってる場合じゃないよ。あやかしを見つけて、毒の消し方を教えてもらわないと……」

「毒の消し方を教えてもらう? そないな必要はあらへん。滅したら、済む話や」

「そうやって滅した土蜘蛛の仲間に、今度は安倍さんが恨まれるつもり?」

 復讐には終わりがない。延々と永遠と殺し殺され、 ただ悲しいだけ、ただ苦しいだけ。

どこかで断ち切らなくちゃ、また新たな悲しみが生まれてしまう。

「自分じゃなくて、自分の大切な人たちが、その憎しみの犠牲になるかもしれないんですよ?」

 どちらから始めたのか、どちらの方がひどいことをしたのか、 もうそれを比べる段階にもない。

手をかけてしまった時点で、罪の重さは同じになってしまうのだから。

 光明さんは目を伏せ、口を噤み、俯いていた。

「光明、美鈴さんの言うてることは正しい」

 沈黙を破ったのは、雪路さんだった。

「私たちは知らなあかんのかもしれへんね……十年前になにがあったのか。ここで憎しみを精算できな、おじいさんも、それから光明の奥さんも子供も、そのまた孫も、苦しむことになる」

 雪路さんも元陰陽師だと聞いていたけれど、 頭ごなしにあやかしを敵視しているわけではなさそうだ。

「俺はそないなふうに割り切れへん。親父やお袋だけでのうて、じいさんもこないなふうになって、 憎しみを精算する? そんなん、できるわけあらへんやろ」

 わかってる。私の意見は部外者だから口にできる綺麗事であって、当事者からしたら簡単に言うなって思うだろう。

だけど部外者だからこそ、物事の全体像が見える。

 前世はあやかしで、今は人間。その狭間にいる私の目には、人間もあやかしも、どちらも善で悪に映るのだ。

「俺は刺し違えてでも、俺の大事な家族をこんな目に合わせた土蜘蛛を殺す。たとえ刺し違えてもな」

 意思は変わらないとばかりに二度言い、光明さんは行き場のない怒りを表すかのように大きな足音を立てて寝所を出て行ってしまった。
 お昼になり、雪路さんが昼食を作ってくれたのだが、居間に光明さんは現れなかった。

ポン助曰く、屋敷内に光明さんの気配があるので、外へは出ていないらしい。

「光明さん、どこへ行っちゃったんでしょうか……」

 ほやほやと湯気が立つお味噌汁を見つめて、私は箸を取れずにいた。

 今、光明さんはひとりでいるのかな? ひとりで思い詰めてないといいけど……。

 孤独は人を惨めにさせる。

物置小屋に閉じ込められたときも、『どうせ誰も、私を迎えになんて来ない』『私は化け物だから、誰からも必要とされてない』って、自分の存在がひどくちっぽけに思えた。

 そうやって、光明さんも自分を傷つけていないといいんだけど……。

 光明さんのことばかり考えていたら、タマくんが顔を覗き込んできた。

「美鈴、食べないの?」

「あ……なんか、食欲……わかなくて……」

 苦い笑みを微かに頰に含ませて下を向けば、ポン助が「ならオラが~」と私の前にある煮物の皿に手を伸ばし、しいたけをつまんで、それはもう美味しそうに頬張っていた。

「ご飯大好きな美鈴が、お腹空いてないなんて……重症だね」

「私は食いしん坊キャラですか」

 キレのないツッコミをして、私は静かにため息をつく。すると、見かねた様子で雪路さんが箸を置いた。

「……光明は、あそこにおるのかもしれまへん。息子たち……あの子の両親が亡くなったあと、光明をうちで引き取ってから、よう登ってましたさかい」

「登る?」

 どこへ?と首を傾ければ、雪路さんは光明さんの居場所を教えてくれた。

  私は昼食に手をつけずに席を立った。

雪路さんの説明を思い出しながら、屋根裏に行き、天井の小窓を開ける。そこから屋根に登ると、会いたかった人を見つけた。

 光明さんは屋根に片膝を立てて座りながら、遠くを眺めている。その瞳は寂しそうで、胸がキュッとなった。

 今、なにを考えてるんだろう?

 背が高くて身体もがっしりしていて、私よりも大きいはずの光明さんの背中が、今は頼りなさげに丸まって小さく見える。 

 声をかけるのを躊躇っていたが、意を決して、わざとおどけるように「光明さん、見っけ!」と叫んだ。

 この距離で、しかもこの声量で私に気づかないはずがない。……のだが、光明さんはこちらを見ない。

まさかの無視かとしゅんとしていたら、光明さんは鬱陶しそうにため息をついた。

「……ご近所迷惑や、なんの用や」

 最近は世間話にも付き合ってくれるようになっていたのに、親密度がゼロに戻ったみたいにつれない態度。ちょっと心が折れそうだ。

 そっちに……行ってもいい? そんなこと聞いても、今の光明さんはスルーするだろうな。

 どうせ空気みたいに扱われるなら、勝手にさせてもらおうと、許可も取らずに光明さんのそばに寄る。

 案の定、光明さんは私が近づいても我関せずで景色を見ていた。

 私たちの間に会話はなく、 木々のざわめきだけが聞こえてくる。遮るものがないせいか、風が強く感じられて、昼間だというのに少しだけ肌寒い。

 光明さんの心も、こんなふうに寒がっているかもしれない。

 そう思って、光明さんにぴったりとくっついた。そこで初めて光明さんは、「お前は、ほんまに猫みたいやな」と呆れ気味に言葉を発した。

「ばあさんに聞いたのか?」

 自分がここにいることを誰に聞いたのか、と尋ねているのだろう。

「うん、勝手に聞いちゃって、ごめんなさい」

 でも、どうしてここなんだろう? 

 光明さんはこの家に引き取られてから、よく屋根に登るんだって雪路さんが言っていた。

その理由を知りたくて、私は光明さんの見ている世界を見つめる。

 すると、視線の先にその答えを見つけた。見つけた途端、胸が押し潰されそうになり、涙が勝手に目尻からこぼれる。

「……そっか、光明さんは……帰りたいんだね。幸せだったあの頃に、思い出の詰まったあのおうちに」

 遠くに、焼け焦げて黒くなった屋敷が見える。あれはきっと、光明さんがお父さんとお母さんと一緒に住んでいた家なんだろう。

「大事な居場所を奪われて、大好きだった場所が悲しくて苦しい場所に変わってしまって……。どう向き合っていいのか、わからなくなっちゃったんだね」

「……っ、お前……なんで……」

 なんでわかるのかと、 そう問われているのがわかった。私はゆっくりと隣に視線を移して、光明さんに苦い笑みを返す。

「私も同じだから……。猫に化ける前は、両親も普通に私に接してくれてて、なにも知らずに、ちゃんと家族でいられた頃は……幸せだった」

 話すのがつらくて、声が震えたのが情けなくて、私の目線はどんどん下がっていく。

「あの幸せな日々に帰りたい、でももう戻らない日々なんだって思うと、絶望して……。そんなことの繰り返しで、早く抜け出したいと思うのに、どう過去に決着をつければいいのかわからない……」

 光明さんは静かに耳を傾けてくれていて、それが私を受け入れてくれている証のように思えた。

「……お前の言う通りだ。陰陽師としての力は、もう十分すぎるくらいある。すぐに親父とお袋を殺した土蜘蛛を探し出して、敵を打つことだってできたはずだ。やけど、俺はそうしいひんかった」

 ぽつりぽつりと、光明さんは心の内を曝け出していく。

「怖かってん。俺の生きる目的は、土蜘蛛への憎しみだ。敵を討ってもうたら、俺はなにを生きる糧にしたらええ?」

 迷子のように心細そうな面持ちで尋ねられ、喉になにかがつかえたみたいに苦しくなった。

 光明さんが無表情なのも、口調が冷たくてきついのも、きっと……自分を惨めにさせる感情を隠したいからだ。

 私はそうだった。化け物と嫌われて傷ついているのを知られてしまったら、自分が惨めになるから……それを悟られないように、つらいときこそ笑うのが癖になった。

「あの家を立て直さへんのも、黒う焼けた柱を見れば、焦げ臭い匂いを嗅げば、忘れへんでいられたさかい。生きる意味やった憎しみを……」

 生きる意味が憎しみなんて……光明さんは暗いトンネルを歩き続けるみたいな気持ちで、生きてきたんだろうな。

 終わりもない、出口もない、光も見えない道を、ただ復讐するという目的のためだけに進み続けてきたんだ。

「そやさかい俺は、その憎しみの対象であるあやかしを認めることができひんかったんや。やけど、お前と会うてから……」

 じっと見つめられ、わずかに心臓が跳ねる。

「お前があやかしを人と同じように扱うのを見とったら、あやかしも悪いやつばっかりちゃうかもしれへんって、そう思うようになって……」

「光明さん……」

「そないな自分を認めてもうたら、あやかしを憎めへんくなる。俺はなにを糧に生きていったらええのか、わからへんくなる……」

 苦悶の表情で俯く光明さんの手を、そっと握った。少しだけ冷たくなっているその手を、私の体温で温めてあげられたらいい。

「生きる糧なんて、生きていればいくらでも湧いてくるものなんじゃないかな」

「お前な、軽う言いなや」

「光明さんが難しく考えすぎなんです。ほら、家の前を歩いてるあのスーツの人とか、びわの木を見上げてるあの子供たちとか、見てみて」

 私は屋根から少しだけ身を乗り出して、地上を歩く人たちを指差す。

「あの人はきっと、これから仕事に行くんだよね。それであの子供たちは、あのびわ美味しそうだなあって、お腹を空かせてる」

「それがなんやって言うんや」

「みんな、自分の生きる糧がなんなのかなんて考えて、生きてないんだよ。だって人間は、生きるために働いて、生きるために食べて……つまり、生きるために生きてるんだから、生きることこそが、生きる目的でしょう?」

 光明さんは「お前は……」と目を丸くしたあと、なにがツボに入ったのか、ぷっと吹き出した。

「ぷっくく……能天気すぎるやろ。俺が悩んでるのが、アホらしなってくる」

「もう、ここ笑うところじゃないからね? でも、光明さんが笑ってくれたから、いいや」

 つられて笑えば、光明さんは眩しそうに目を細めた。

「……不思議なやっちゃな。お前だって、しんどい人生を送ってきたんやろ? そやのにやさぐれへんで、なんで悲観せずにいられるんや?」

「うーん……私だって、心の中はそれはもう真っ黒でドロドロで、荒野のように荒れてるよ。だけど、無理してでも前を向いていたいんだ。私も幸せになれるって、希望を捨てたくないから」

「……強いやっちゃな」

「雑草の如くね」

「調子に乗るんやない」

 ピシッとおでこを指で弾かれたが、私はそんなやり取りすらも光明さんに近づけた気がして、へへっとうれしさに笑ってしまう。

「光明さん、これは傷に向き合うチャンスなんだよ。ちゃんと傷に向き合って手当てすれば、完全には塞がらなくても、思い返して血が流れることはない。かさぶたになる」

 見たくない傷から目を逸らし続ければ続けるほど、傷は膿んで悪化する。悪化した傷は心を蝕んで、人を信じたり、生きる活力を奪っていく。

「だから、真実から目を逸らさないで、これからどうすればいいのか考えよう? 私も一緒に答えを探すから」

「……ありがとう。さっきは感情的になって、なにが正しいのかを見失うとったけど、今ならちゃんとわかる。これからどないすんかを決めるためには、まず十年前の真実を知らなあかん」

「そうだね、陰陽師側だけじゃなくて、あやかし側の話も聞いてみよう? お互いにわかり合える部分があるかもしれない」

「ああ、憎しみを断ち切れるかはわからへんけど、俺の子供や孫……その先の命が幸せに生きていけるような選択、できる思うんや」

 光明さんの言葉に、もう迷いはなかった。

過去に囚われて憎しみに縋るんではなく、これからの未来を見据えて、幸せを思い描いていくために、まず知ることから始めよう。

「そうと決まれば、土蜘蛛に会いに行かないと。おじいさんも心配だし……」

「そうだな、あまり時間がない。親父とお袋のときは子供でなにもできなかったけど、今は違う。じいさんを助けてみせる、必ず」

 繋いでいた手を、お互いに強く握り合う。

 向き合うのが怖くて、崩れ落ちそうになりながらも自分の足で踏ん張っている光明さんを支えたい。

 そんな強い感情が、胸の奥から突き上げてくるのを感じていた。




「ほんまに行くねや……」

 土蜘蛛の塚に行く私たちを、雪路さんが門の前で見送ってくれる。

「ばあさん、心配かけて悪いな。やけど、俺が決着をつけなあかんことやさかい」

「……そやな、あなたは陰陽師だもの。そやけどなぁ、わかってちょうだい。私は息子と、娘のように可愛がっとった息子の奥さんも亡くしたの。それで今度はおじいさんやろう? これで光明までいーひんようになってもうたら……っ」

 両手で顔を覆ってしまう雪路さんに、光明さんは「大丈夫や」と強く断言した。

「もう、ばあさんに置いていかれる悲しみを味わわせたりはしいひん。俺を信じろ」

「……引き取ったときはまだ十歳やったのにねえ、いつのまにこないに大人になったんやろうねえ」

 雪路さんは濡れた目尻を指で拭いながら、私やタマくんに向き直る。

「どうか、光明のこと、よろしゅうおたのもうします」

 深々と頭を下げた雪路さんに、私とタマくんも会釈を返す。

それから私たちは、光明さんが十歳まで暮らしていたという屋敷に向かった。

 石造りの外壁の向こうにある木造の屋敷は、大半が燃えてしまっていて、中の骨組みまで丸見えだった。

 門の前に立った光明さんは複雑な表情で、長く息を吐く。

「……ただいま……そう言うてええのか、わからへんな」

 今の光明さんにとってここは、憎しみを忘れないための場所であって、帰る場所ではない。

 だから、我が家だと口にするのは躊躇われるのだろう。

「ここがまた、光明さんの帰る家になるように、向き合いに来たんじゃなかった?」

「そうやな……お前の言葉は不思議やな。後ろ向きになりそうになったとき、背中を叩いてくれるみたいだ。その調子で、俺が腑抜けになったら喝を入れてや」

「お安い御用ですよ!」

 バシッと光明さんの背中を叩けば、「今ちゃう」とツッコミが返ってくる。言い返す元気があるのなら大丈夫だろう。

「ふたりとも、気を引き締めたほうがいい」

 タマくんの目は、門の中を警戒するように細められている。

「門の向こう側から、強い妖気を感じるですポン」

 ポン助も耳と尻尾をピンと立てて、気を張り詰めているようだった。

「戦いに来たわけちゃうくても、向こうは陰陽師を……特に俺を警戒してるはずだ。いきなり攻撃されることも、あるやろう。絶対にはぐれへんようにな」

 光明さんに強く頷いて、私たちは門を潜った。屋敷を囲むように広がる庭を歩き、土蜘蛛の塚を目指す。

 庭の木々や花は枯れ果て、池は濁って底が見えない。

外はあれだけ晴れていたはずなのに、この屋敷の敷地内だけ紫色の霧がかかっていた。

「これって……」

「空気が淀んでるな。これも土蜘蛛の毒の類かもしれへん。あまり吸わへんようにせえ」

 私は服の袖で鼻と口を覆い、前に進む。

土蜘蛛の塚は裏庭にあるらしいのだが、屋敷がだだっ広い上に霧のせいで歩きにくく、なかなか辿り着けない。

 目を凝らしながら、周りをキョロキョロと見回していたときだった。

壁が壊れて露になっている屋敷の中に、人影が見えた気がした。
「光明さん、今……」

 人影のことを話そうとしたら、急に光明さんが立ち止まる。

屋敷のほうを向いたまま歩いていたので、私は光明さんの背中に「ふぐっ」と顔面衝突した。

「光明さん、痛いよ……一体どうしたの?」

「……なんでここに……」

  そうひと言発したきり、光明さんは絶句した。私は光明さんの背中から顔を出して、彼の目の当たりにしたものを確認する。

「あれは…… 人?」

  白い着物を纏った三十代半ばぐらいの男女が立っていた。男性の髪は誰かにそっくりの夜空色で、女性の瞳は見慣れた深海を思わせる青色をしている。

「……親父とお袋や……」

 光明さんの口から飛び出した呟きは、信じられないものだった。

「でも、ご両親は亡くなったはずじゃ……」

「美鈴、よく見てごらん? あのふたりの身体から、糸みたいなものが出てるだろ」

 隣にやってきたタマくんが言うように、ふたりの身体からは銀色に光る糸が出ていて、目を凝らさないと気づけないほど細い。

「安倍さん、ご両親の遺体はどう処理したんだ?」

「処理もなんもあらへん。骨も残らへんほど焼かれてもうて、残ったのは灰だけや。その灰も拾う前に風に吹き飛ばされてもうたけどな」

「じゃあ、ご両親の灰は屋敷内に散らばってるってことか……」

 神妙な顔つきで、タマくんは言葉を切った。

「土蜘蛛は吐いた糸で死体を操る。たとえ骨が残っていなくても、力の強い土蜘蛛ならその糸で生前の姿になるように繕うことができるんだ」

 タマくんが、なんでそんなことを知ってるんだろう。

 いくら博識とはいえ、今まで普通の会社員として生きていた彼が知っているはずのない知識だ。

 でも、タマくんのことだから、光明さんの仕事に付き添うようになって、自分なりにあやかしについて勉強したのかもしれない。そう思い込んで、自分を納得させることにした。

「えげつない出迎えやな」

 あたかも動じていないとばかりに口角を上げる光明さんだが、死んだはずのご両親と対面して、冷静でいられるわけがない。

「光明さん……」

 大事な人が死んだあとも、その命を弄ばれている。 光明さんの心の中には怒りと悲しみと憎しみがない交ぜになって、暴れ回っていることだろう。

 私は光明さんの服の袖を掴んだ。光明さんは一瞬だけ私に目を向け、「大丈夫や」とぎこちなく笑う。

 やっぱり、光明さんも戸惑ってるんだ。ここは私たちがしっかりしないと。

 そう気を引き締め直したときだった。光明さんのご両親が糸繰り人形の如く、カクカクと不自然な動きをして、勢いよくこちらに駆けてきた。

 そして、こちらに手のひらを突き出すと、そこからシュルルルルルッと何本もの糸が飛び出し、私たちを襲う。

「きゃあああっ」

 悲鳴をあげた私の身体が、ふいにふわっと浮く。白い煙があたりに立ち込め、それが晴れると──。
『美鈴、怪我はない?』

 私は狼サイズの猫又の姿になったタマくんの背にいた。

「タマくん! 助けてくれたの?」

『うん、でも咄嗟のことだったから……あそこから連れ出せたのはきみだけだ』

 屋敷の屋根に降り立ち、タマくんは庭を見下ろす。そこには身体に糸が巻きついて、身動きが取れないでいる光明さんの姿が。

「光明さんっ、早く助けないと!」

『本当に助けられたいと思ってるのかな?』

「え……それは、そういう……」

『今の攻撃、安倍さんなら結界で防げたはずだ。なんたって、稀代の陰陽師なんだから』

 タマくんは、なにが言いたいの? ううん、本当はわかってる。光明さんは避けられなかったんじゃない、避けなかったんだ。

「光明さんにとって、ふたりは敵じゃないから……」

 ──たとえ、土蜘蛛が操る屍だったとしても。

「ぐうう、うう……」

 苦しさに歪む光明さんの表情には、悲愴が滲んでいる。

「でも、このままってわけにはいかないよ……。そうだ、光明さんが傷つけなくても済むように、私の魔性の瞳でお父さんとお母さんの動きを止められないかな?」

『それは無理だよ。きみの力は意思のある生物には作用するけど、死者には効かない』

「ならどうしたら……って、なんで私の力のことにそんなに詳しいの?」

『今はその話をしてる暇、ないんじゃないかな。とにかく、安倍さんを助けたいなら物理的に糸を切るしかないね』

 ……はぐらかされた?

 これまでもこうやって、うやむやにされてきたような気がする。けど、今は光明さんを助けるほうが先だ。

「ポン助に任せるですポン!」

 タマくんの尻尾にしがみついていたポン助が、いきなり 「変化!」と空中で一回転する。

その身体はサッカーボールサイズのカニに化け、一直線に光明さんの元へ落ちていき……。

「チョッキン!」

 光明さんとご両親の間に伸びている糸を断ち切った。

 解放された光明さんは、「げほっ、げほっ」と咳き込みながら、地面に両手をつく。

 私もタマくんと一緒に地上に降り、すぐに光明さんのそばに行く。

「光明さん、大丈夫?」

「……俺は……俺は、抵抗できひんかった」

「当然だよ、だってふたりは光明さんの大切な人の姿をしてるんだから……」

「俺だって、本当の親父とお袋ちゃうって頭では理解してるんやで。やけど、やっぱし……生きとってくれたらって思たら……反撃なんて、できひんかったんや」

 光明さんの……心が軋む音がする。光明さんのために、私にできることはなんだろう。

 目の前にいる、光明さんのご両親を見つめる。

ふよふよと糸を漂わせ、こちらを攻撃する隙を窺っているようだった。

「姫様はオラが守りますポン!」

『早いとこ、結論を出してくれると助かるよ』

 ふたりが私たちを守るように前に立ち、繰り出される糸から守ってくれる。

 私が代わりに、光明さんのお父さんとお母さんを倒せばいいの? きっと、そんなことをしても、なんの解決にもならない。

 だからといって、光明さんのご両親の屍をこのままにはしておけない。

「なあ、ほんまに倒さなあかんのか?」

「え……?」

「喋れへんでもええ、操られとってもええ、ああして動いてる親父とお袋が見られるんやったら、このままでも……」

 光明さんの言葉を遮るように、ポン助が糸に弾かれて「うわああああっ」と宙を舞う。

『ポン助! ぐっ、しまっ──』

 ポン助に気を取られたタマくんも糸に巻きつかれ、動きを封じられてしまった。

『く、うう……ガルルルッ』

 糸を噛み千切ろうとタマくんが暴れるも、糸のほうが頑丈だったようだ。糸で切れたのか、タマくんの口端から血が流れる。

「ポン助っ、タマくん……!」

 どうしよう、迷ってる時間なんてない。光明さんがどうしたいかを決めなくちゃ、ふたりは反撃ができない。傷を負うだけ……。

 私は拳を握り締め、光明さんに向き直る。

「光明さん、光明さんはここになにをしに来たの? 過去の思い出に浸たるため?」

「…………」

「うんとかすんとか、言ったらどうなの!」

 責めたいわけじゃないのに、光明さんのこんならしくない姿を見ていたら、なんでか腹が立って……。

「光明さんは自分の子供や孫……その先の命が幸せに生きていけるような選択をするために、ここに来たんでしょう!?」

 そうだって言って。このまま屍と一緒にここにいたいだなんて、言わないで……。

「光明さんのそばには、私や水珠や赤珠、タマくんやポン助がいるのに……っ。私たちと未来を生きたいって、そう思ってよ!」

 私の叫びだけが、辺りに響いている。

私の思いが一方通行であることを物語っているようで、胸が切られるように痛んだ。

「……こう、めい……」

 突然、お父さんが光明さんの名前を呼んだ。

弾かれたように顔を上げ、「親父……」と声をもらした光明さんは、どこか縋るような目でお父さんを見つめている。

「光明……助けて、くれ……」

 手を伸ばすお父さんに向かって、光明さんは「親父っ」と身を乗り出す。

 お父さんに手を伸ばす光明さん。その手とは反対側の手を、私は掴んで引き留めた。 

「あれは、本当に光明さんのお父さん?」

「どう見たって親父やろ!」

 私を振り返って悲痛に訴える光明さんの目には、涙が浮かんでいる。

繋いだ手から光明さんの悲しみが流れ込んでくるようで、私の視界も潤んだ。

「光明……私たちを助けて……ここにいる、あやかしたちを殺して……」

「お袋……っ、俺は……っ」

 私とお母さんを交互に見た光明さんは、わなわな震える唇を噛む。乾いた唇から赤い血が滲んで、頬を伝って流れる涙と混じり合った。

 光明さんの心が泣いて、血を流している。

「あの人たちが、お父さんとお母さんだって言うなら……」

 私は腕を伸ばして、光明さんの目尻を指で拭った。

「どうして泣いてるの?」

 本当はわかってるんでしょう? あの人たちが、本当のお父さんとお母さんじゃないってこと。

「それはっ……」

「光明さん、生きるって……なんなんだろうね。ただ目の前で動いて、話していれば、それで生きていることになるのかな?」

 光明さんは息が詰まったように固まり、瞳に惑いを映した。