優しいコーヒーで涙する



 一瞬、強い日差しが入り込んだような気がした。

 谷地(やち)小豆(あずき)は視線を上げ、窓側を見る。しかしそこは空席で、机が照らされているだけだ。

「どうした」

 喫茶店『tear』の店主である結月(ゆづき)(るい)は、完成したカフェモカを置きながら言う。

「もう一年経ったんだなって思っただけ」

 小豆はそれを木製のお盆に乗せ、客のもとに運ぶ。

「まだ引きずってるのか?」

戻ってきた小豆に、躊躇いながら聞く。

「ううん、るー君とか(そら)さんに話聞いてもらったりしたから、今は平気」

 そう語る表情は優しく、嘘をついているようには見えない。それにつられるように、涙の表情も柔らかくなる。

「そうか」

 小豆はまた窓際の席を見つめ、そこに座っていた大学の先輩、椿木(つばき)優夜(ゆうや)のことを思い返す。

 あれは、一年前の春のことだった。



 カップの三分目までコーヒーを、そして六分(ろくぶ)ほど温めたミルクを注ぐ。残りのミルクは素早く泡立てていく。

「ここ、本当に居心地いいね」

 目の前で行われていた涙の手元には一切興味を示さず、小豆は店内を見渡す。

 木材を多く使っていることもあり、懐かしさを感じる。さらに穏やかな音楽まで流れていて、癒しの空間を作りたいという願いがそのまま形になっているようだ。

 小豆は今日、初めて『tear』を訪れた。大学進学をきっかけに一人暮らしを始め、『tear』の近くに引っ越してきたのだ。

「母さんがこだわって作った場所だからな」
「さすが天さん」

 チョコケーキにフォークを入れ、口に運ぶ。その甘さにとろけるような表情になる。

 天は涙の母親で、『tear』を始めた人物だ。ちなみに小豆の母親の親友でもあり、小豆と涙は幼なじみという関係にある。

「まあ、店の名前だけは気に入らないけど」
「あ、(なみだ)

 小豆は言われて気付いた。しかし本人が気にしているから、それ以上は言わない。

「それ、天さんに言ったことあるの?」
「もちろん。どうして俺と同じ名前なんだって、文句言った。そしたら、俺の名前から付けたんだ、客に話す由来は後付けだって、笑って」

 不服そうに見えるが、それを話す涙の表情は柔らかかった。つられるように、小豆も微笑む。

「天さん、元気?」

 視線を落とし、遠慮気味に尋ねるが、涙は答えず、泡立てたミルクを入れて完成したカプチーノを運ぶ。

「ねえ、無視しないでよ」

 戻ってきた涙に文句を言うが、涙は気にする素ぶりを見せない。それどころか、戻る途中に受けた注文のコーヒーを作り始めている。

 小豆は会話を諦め、目の前のケーキに集中した。

 二人の間に沈黙が訪れるが、一人の男性客が会計をしたいと、二人の間にやって来た。

「なあ、涙。この子、お前の彼女か?」

 受け取ったおつりを財布にしまいながら尋ねる。

 小豆は涙の彼女というワードに反応し、あたりを見る。しかし涙の彼女らしき人はどこにもいない。それどころか、その客は小豆のことを見ていた。それで自分が涙の彼女と言われていることに気付く。

 戸惑い俯く小豆に対し、涙は呆れたようにため息をつく。

「小豆は母さんの親友の娘で、妹みたいなもん。彼女じゃないから」
「そうか。やっと涙が前に進めたと思ったんだが、違ったか」

 その客は天が店を始めたときからの常連客で、涙のことをよく知っていた。それは、恋愛事情も例外ではなかった。

「おっさん、あまり余計なこと言うようだったら、出禁にするからな」

 涙は冷たい声で言う。

「おお、怖い。涙の味はもう日常の一部だからな。出禁は困る」

 男性は笑って店を出て行った。

 小豆は少し戸惑いを見せながらも、最後の一口を飲み込む。

「るー君に、好きな人が……」
「そんなに驚くことか?」

 小豆は迷わず頷く。反応の速さに、涙は苦笑する。

「二十年以上生きてるんだ、俺にだって彼女くらいいたよ」

 涙に彼女がいた事実に驚きが隠せないのか、小豆は目を見開いている。

「るー君に、彼女……」

 涙の恋愛事情を知ったときと同じような言い方をする。

「まあ、私とお店、どっちが大事なの?ってフラれたけどな」

 あまりにも淡々と語るから、小豆はどういう反応をすればいいのかわからなかった。

 しかし別れてしまったことを気にしていないからといって、深堀りすることもできなかった。

「おい、わかりやすく困るなよ」
「だって、そんな質問されたってことは、るー君はその人のことが好きだったのに、フラれたってことでしょう? つらかったはずなのに、るー君、笑ってるんだもん」

 小豆は思ったことをそのまま言葉にした。涙は微笑んで手を伸ばす。小豆の頭に置くと、思いっきり髪をぐしゃぐしゃにする。

 小豆は抵抗の声を出す。

「昔の話だから、そんな気にすんな」
「……わかった」

 手櫛で髪を整えると、小豆はアイスココアを飲みながら、穏やかな時間を過ごした。

「じゃあ、そろそろ帰るね」

 席を立ち、財布を出す。

 チョコケーキとアイスココアの代金を支払い、カバンを肩にかけて振り返ると、ドアが開いた。一人の若い男性が入ってきて、涙の声を聞きながら迷わず窓際の席を選んで座った。

 小豆はその彼を見て、固まっている。

「小豆?」

 そんな小豆を不思議に思い呼ぶが、反応がない。涙は小豆の頭を小突く。小豆は頭を押さえながら涙を見た。

「どうした」
「ううん、なんでもない。またね」

 明らかになにかあったと思わせるような言い方だったが、涙が言及するより先に店を後にした。



 小豆は初めて訪れた日からほぼ毎日のように、『tear』に足を運んでいた。それは、帰り際に見かけた男性に会うためだった。

 今日も窓際に座る彼は、文庫本のページをめくっている。

「お前、毎日ここで甘いもの食べていて、大丈夫か」

 小豆の注文の品を聞いて、涙は言った。小豆は涙を睨む。

「……女の子にそういうこと言うの、よくないと思う」
「体形のことじゃなくて、栄養バランスのことを言ってんだよ。どうせ自炊してないんだろ」

 小豆は答えない。わかりやすく涙から目を逸らしている。

「お菓子は作れるもん」

 子供の言い訳に対し、涙は鼻で笑う。

大翔(ひろと)が聞いたら泣くだろうな」
「そもそも、お兄ちゃんが悪いんだよ。危ないからって、私に包丁を持たせてくれなかったんだから」

 大翔という名に反応して、小豆は言い訳のようなことを言った。涙はさらに笑っている。

 小豆は笑われたことが気に入らず、拗ねたようにそっぽを向く。その視線の先には、あの彼がいる。

「やっぱりあの客となにかあったんだろ」

 涙に声をかけられて前を見ると、アイスココアとチョコタルトが目の前に並べられていた。

「なにもないよ」

 わかりやすい嘘をつきながら、フォークを手にする。

「好きなのか」

 包み隠さず、ストレートに聞いた。タイミング悪くチョコタルトを口に含んでいたため、小豆はむせてココアで流し込む。

「図星だな」
「違うよ、好きとか、そんなんじゃ」

 否定の言葉を並べるが、そうすればそうするほど怪しく思えてしまい、涙は不敵な笑みを見せる。

 それを見て、小豆は否定するのを諦める。

「……最初の授業のとき、大学内で迷子になったの。地図見ても自分がどこにいるかわからないし、案内所みたいなところがどこにあるのかもわからなくて……授業開始時間が近付いてきてどうしようって困ってたら、大丈夫? どうしたの?って声をかけてくれたのが、あの人だったの」

 涙は興味なさそうに相槌を打つ。普通なら真面目に聞いていないように感じるだろうが、長い付き合いということもあり、小豆は気にせず話を続ける。

「でも私、緊張してお礼も言えなくて。それなのに、優しい顔のまま、頑張ってって言ってくれて、素敵な人だなって」

 涙には小豆が頬を紅潮させているように見えたが、それは言わなかった。

 小豆はその話題が終わったと思い、またチョコタルトを食べる。

「じゃあ、小豆はお礼するタイミングを探していたのか」

 それに対して、小さく首を傾げる。しかしすぐに涙の言いたい意味がわかった。

「うん、そう」

 妙な間を作ってしまったため、涙はその返答を嘘だと思った。だが、それには触れようとはしなかった。

「ここに初めて来たときには知っていたってことは、もう一週間以上経ってるってことだよな。今さらお礼言うのか?」

 小豆はフォークを下ろし、視線を落とす。

「やっぱり、今さら言われても迷惑だよね……」

 涙は余計なことを言ってしまったと後悔するが、もう遅い。慌ててフォローの言葉を並べる。

「でもまあ、感謝されて嫌なやつなんていないし、思うようにやってみればいいんじゃないか?」

 しかしその言葉はあまり小豆に響かなかった。小豆は黙々とチョコタルトを食べていく。

 涙は戸惑いを見せながら、そっとしておくことにした。

「……ねえ、男の人って、甘いもの好き?」

 コップまで空にしてから、涙に聞く。

「好きな人もいるとは思うけど」

 小豆の質問に答えはするが、その意図までは見えていなかった。

 小豆は小さな声でそっか、とこぼす。

「あのさ……あの人の好みって、わかったりする?」

 言葉を細かく切っていくあたり、小豆はこの質問をすることに少なからず抵抗があるようだ。

 しかしそれを聞いて、涙は小豆がしようとしていることを理解した。

「お礼にお菓子を渡したいってことか」
「ダメ、かな」

 自分がしようとしていることに自信がないのが手に取るようにわかる。

「いや、いいと思う」

 また否定すると、さっきと同じことになってしまうと思ったのか、今度はすぐに肯定した。わざとらしかったように感じたが、小豆は涙の反応に安心していたため、涙も胸をなでおろす。

「あの人がいつも頼むのはブレンド。ミルクとか砂糖を入れているのは、見たことないな。あと、たまにサンドウィッチとか軽食を頼むこともあるけど、スイーツ系を頼んできたことはない」

 涙は安心して彼の味の好みを話す。

「ということは、甘いもの、苦手なのかな」
「そうなのかもな」

 一番知りたかった情報が得られず、小豆は肩を落とす。

「るー君って、本当に人に興味ないよね。あの人の名前も知らないでしょ」

 それは棘のある言い方で、まるで八つ当たりのようだった。涙はその言葉で顔を顰める。

「客の顔とコーヒーの好みさえわかっていれば十分。そんなに知りたいなら、自分で聞いてこい」
「できないから、るー君に聞いてるんでしょ」
「じゃあ文句言うな」

 涙は冷たく言い、小豆は涙を睨みつける。本当の兄妹喧嘩のように見えるほど、テンポがよかった。

「そんな意地悪だから、彼女にフラれたんじゃないの」

 小豆の気は収まらず、不服そうにしながら言い続ける。しかし涙はそれには反応せず、聞き流した。

 その態度は、余計に小豆を苛立たせた。

「ごちそうさま」

 冷たい態度を見せる涙にこれ以上なにを言っても無駄だとわかっているから、小豆はそう言い捨てて店を出た。



 翌日、喫茶店の閉店時間が近付いてきたころ、目の前に並べられたお菓子の量に、涙は顔を顰める。それは今やってきた小豆が手提げカバンから取り出したものだった。

 すべて並べると、小豆はカウンター席に座る。

「なんだよ、この量」

 茶色をベースとしたシンプルな袋を可愛いピンクのリボンで丁寧に包装されているが、どう見ても一人分ではない。手のひらサイズでも十個以上はある。

 涙がため息交じりに言うと、小豆は目を逸らした。

「るー君が曖昧なことしか教えてくれなかったから、なにがいいのか迷って、つい作りすぎちゃって」
「で、緊張して渡せなくて、消費しきれないから、俺に食え、と。新手のいじめか?」

 涙は小豆の言葉に続いて不服そうに言う。一番近くにあった袋を手に取って開けると、中にはカラフルなマカロンが入っていた。それはお店で買ったのではないかと思うほど、レベルの高いものだった。

「いじめじゃないよ。ほら、優しいるー君ならたべてくれるかなって」

 小豆は笑顔を作る。涙はピンクのマカロンを食べるが、小豆のように美味しいものを食べたと思わせるような顔をしない。それどころか、どこか嫌そうな顔をしている。

「こんなに食えるかよ」

 小豆は苦笑して同意する。

 マカロンを置き、またため息をついた。

「コーヒーに合う菓子を作って、明日持ってこい。で、ここで絶対に渡せ」
「無理」

 即答だった。涙の目が死んでいく。

「お前、よくそれで菓子を渡してもいいのかって聞いてきたな」
「いや、それは頑張るけど、ほら、私、コーヒー飲めないから」

 それを聞いて、涙は作業を始めた。手持ち無沙汰になった小豆は、自分で作ったお菓子を手に取る。入っていたのは、チョコチップクッキーだった。

 一枚、また一枚と食べていると、鼻をつまんでしまいたくなるような匂いがした。

「もしかしてるー君、コーヒー作ってる?」
「味を知らないと、どんなものが合うのかなんてわからないだろうからな」

 甘いものを食べているのに、小豆の表情は曇っていく。涙はその変化を見逃さない。

「そんなに嫌か」
「苦いものよりも甘いもののほうがいい」

 それを聞いて、涙は淹れたてのコーヒーを自分で飲んだ。無理にでも飲まされると思っていたため、小豆は涙のしていることが理解できなかった。

「いやいや飲まれるのはごめんだからな。小豆だって、せっかく作ったものをいやいや食べられたくはないだろ」
「それはまあ、そうだけど」

 涙が自分のためにコーヒーを淹れてくれたことは理解しているからこそ、小豆は複雑な思いでいっぱいだった。

「お子様にはまだ早かったってことだな」

 涙は小豆の考えを消すためか、わざと挑発するような言い方をした。小豆は素直にその挑発に乗る。

「コーヒーが美味しいって思えるのって、舌の細胞が死んで味を感じなくなるかららしいよ。るー君、おじいちゃんなんじゃないの」
「じゃあ毎回コーヒーを注文する、お前の好きなアイツも爺ってことだな」
「あの人は大人だからいいの」
「なんだそれ」

 涙は呆れた声で言い、コーヒーを煽る。

 小豆は最後の一枚を食べる。それを飲み込むと、なにかを思いついたように顔を上げた。

「るー君がアドバイスするってのはダメ? 喫茶店やってるんだし、それくらい簡単じゃない?」
「断る」

 涙は迷う暇なく言った。小豆は頬を膨らませる。

「少しくらい協力してくれてもいいじゃん。るー君のケチ」

 コーヒーを飲み終え、涙は洗い物を始める。小豆の言葉にはまったく耳を貸そうとしていない。

「私が作るお菓子が、コーヒーと合うかを言ってくれるだけでいいんだよ? たったそれだけ」
「……無理」

 また断る言葉だったが、前のものとは違うようだった。小豆はそれを感じ取り、言葉を抑える。

「どうして?」

 涙に尋ねる声は穏やかだった。

「俺が提供してるのは飲み物だけで、菓子は作っていない。だから、お前の菓子にアドバイスなんてできないんだよ」

 小豆は余計に混乱する。

「じゃあ、お菓子を作ってるのは別の人ってこと? 誰が……」
「私だよ」

 小豆の疑問に答えたのは、女性の声だった。

 声がした、店の奥を見ると、小豆は目を見開いた。

「天さん……?」

 天は小豆の隣に座る。目の前にいても、小豆はまだ天が現れたことが信じられなかった。

「久しぶり、あずちゃん」

 驚きのあまり、小豆は頷くことしかできない。

「出てきてもよかったのか」

 放心状態の小豆に変わり、天に話しかけたのは涙だった。

「もうお客さん少ないし、大丈夫だよ」

 自分で聞いたのに、涙は興味なさそうに返す。そんな涙に不満の色を見せるが、天の視線は小豆に移った。

 まだ呆けた顔をしている小豆を見て、天は小さく笑い声を出す。

「あずちゃん、まだびっくりしてる」

 天が小豆の前で手のひらを振ると、小豆は現実に戻って来た。

「だって、天さんが体調崩してからは会ってなかったし、るー君に聞いても誤魔化されたし、ここにいたなんて。もうるー君、なんで教えてくれなかったの」

 小豆は一気に言い、涙を睨む。

「客がいるのに、言えるかよ」

 涙の説明はまた言葉が足りなかった。小豆はさらに憎しみを込めて涙を見る。

「あのね、あずちゃん。私、今はキッチンに入っているんだけど、まだホールに出られるほど回復はしていないの。だから、私がこのお店にいることはお客さんには内緒なんだ」

 天は人差し指を唇に当てる。それを聞いて、小豆は納得した。

 小豆にはまだ聞きたいことがたくさんあった。しかしそれを素直に聞く勇気がなくて、その返事をして止まってしまった。

「ところで、これはあずちゃんが作ったお菓子?」

 天は小豆が作ってきたお菓子を一つ、手に取った。小豆の目の色が変わる。

「天さん、どれがコーヒーに合うか、教えてくれないかな?」

 小豆は天との距離を詰めた。それは天が思わずのけぞってしまうような勢いだった。

「コーヒーが好きな子にプレゼントするの?」

 静かに元の場所に戻り、頬を赤くして俯いた。小豆にはコーヒーという単語が聞こえなかったのではないかと思ってしまうような反応だ。

「あずちゃんってわかりやすいね」

 天は言いながら、袋を開ける。四角く切られたブラウニーが出てくる。

「どう、かな」

 天が食べたことに気付き、恐る恐る尋ねる。

「言うな」

 小豆に答えようとすると、涙が遮った。ここまで邪魔をされ、小豆は我慢の限界に近かった。

「もう、さっきからなんなの。なんでそんなに邪魔するの」

 その声には怒りがこもっていた。小豆にしては低い声だったが、涙は気にせず話を続ける。

「いつまでも他人に頼るな。少しは自分で決めて行動しろよ」

 天は話が見えなかった。だが間に入ることはできなくて、二切れ目を食べて二人を見守ることにした。

「ちょっとくらいいいでしょ。自信がないものを渡して、後悔したくないし」
「誰かに言われた通りにやって、それがなんになるんだよ」

 小豆は言葉を詰まらせる。

「それともあれか。ただのお礼のつもりだとか言っておきながら、本当は告白でもする気か」
「違う」

 その否定の声は涙の言葉に被り気味だった。本人は真剣に否定しているつもりだが、その頬は赤かった。それを見た涙は、小さく笑う。

「説得力なさすぎ。どう見ても」
「涙、ストップ」

 天の目は鋭かった。流暢に話していた涙だが、母親に睨まれると大人しくなった。

 天はそっと小豆の背中に触れる。小豆は縋るような目を天に向ける。

「あずちゃん、ちょっと待っててね」

 そして天はキッチンスペースに行く。二人にされた涙と小豆の間には、気まずい空気が流れる。

 天が戻ってくるまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。

「これ、参考にしてみて」

 渡された紙には、いくつかお菓子のレシピが書かれている。小豆は簡単に目を通す。

「ありがとう、天さん。試しに作ってみる」

 小豆はまた涙に文句を言われる前に、それをカバンに入れて逃げるように店を後にした。

 天は小豆が置いていったお菓子を食べ始める。

「涙は本当、優しくないよね」

 店の片付けを始めていた涙に小さな声で言う。

「相手を甘やかすだけが優しさとは思えない」
「確かに、可愛い子には旅をさせよ、とか言うけど。でも、迷って答えを求める人に対して、さらに突き放すようなことを言うのは、優しさじゃないと思うな」

 涙と天の意見はまったく一致せず、二人は睨み合う。といっても、お互いに睨んでいるつもりはないため、見つめあっているという表現のほうが正しいのかもしれない。

 先に目を逸らしたのは天だった。

「なんて、どういうものを優しいと思うかは相手次第だし、私たちが言い争っても仕方ないのよね」

 そう言うと、天はキッチンスペースに入っていった。涙はそれに反論することはできなかった。



 小豆が『tear』に来なくなって、三日が経とうとしている。涙はそれだけ小豆が一人で悩んで決めようとしているのだと思い、あまり心配はしていなかった。

 慣れた手つきでブレンドコーヒーを淹れ、窓際に座る男性客に運ぶ。

 彼は小豆がお菓子を渡そうとしている男性で、いつも本を読んでいる。

 涙はその程度にしか思っていなかった。

 しかし今日その客がテーブルに出していたのは、本だけではなかった。手元に見覚えのあるシンプルな茶色い袋がある。

「それ」

 涙は思わず声を出してしまった。

 男性は顔を上げる。涙が茶色の袋を見ていることに気付くと、申しわけなさそうな目をする。

「すみません、持ち込み禁止でしたか?」
「いえ、そういうわけでは」

 否定しながら、小豆がちゃんと渡すことができたのだと思い、少し安心した。どうやら突き放してしまったことに対して、心配の思いがあったらしい。

「ごゆっくりどうぞ」

 軽く頭を下げてその場を離れようとするが、男性に呼び止められた。

「あの、少しだけ、お話できませんか」

 名前も知らない相手にそんなことを言われる理由がわからず、涙は首を傾げる。彼は涙の反応を見て、説明を加える。

「tearに行って店主と話せば、心が軽くなる。昔その噂を知った姉と来たことがあるんです」

 少しずつ、その客が言おうとしていることがわかった。

 普段なら、もうそういうことはしていないと、断るところだ。

 しかし今回は、小豆が関わっている話かもしれないため、簡単に断ることができなかった。

「少しだけですよ」

 その言葉が出るまで、結構な間があった。そのため、それを聞いて男性は緊張から解放されたかのような反応を見せた。

 彼はすべての荷物を持って、カウンター席に移動する。コーヒーは涙が先に運んでいる。

「僕、椿木優夜といいます」

 椅子に座ると、思い出したように自己紹介をした。

「結月涙です」

 相手に名乗られて自分が言わないわけにはいかず、涙は嫌そうに名を口にする。

 しかしながら、涙は聞き上手なわけではないため、そこから会話が広がらない。優夜はコーヒーを飲んで間を持たせる。

「お気付きだとは思いますが、僕が話したいのはこれのことです」

 優夜は自ら切り出し、小豆が渡したであろう袋を見せる。

「これを渡してきた子が、ここで結月さんとお話ししていたところを何度か見たことがあります。結月さん、彼女とお知り合いなんですか?」
「そうですね。母の友人の娘で、妹みたいなものです」

 優夜がそうですか、と言えばまた会話が終わる。

「告白でもされましたか」

 涙は興味なさそうに言う。優夜は徐々に声をかけたことを後悔する。

 優夜の無言を、涙は肯定と捉えて話を進めていく。

「ここに恋人と来ていたら、告白されることなんてなかったと思いますけどね」

 予想外の言葉に、優夜は顔を上げる。

「どうしてそれを」
「昔は店主と客の距離が近かった店ですから」

 涙はそれ以上のことを語ろうとしない。優夜は動揺を隠すためにコーヒーを飲む。時間が経ってきたこともあり、温くなっている。

「……だったら、僕の恋人が誰かまでわかっていますよね」

 涙は答えない。無言は肯定と同等の意味を持つことがある。優夜は涙がしたように一人で話を進める。

「一緒に来れないのをわかってて言うなんて、意地が悪いですね」

 再び、二人の間に沈黙が訪れる。

 温くなってしまったコーヒーを一気飲みするのは容易く、優夜はカップを空にする。

「彼女に伝言をお願いします」

 優夜はコーヒー代と小豆がプレゼントした袋を置いて立ち上がる。

「君には僕よりもっと素敵な人がいる。僕のことは忘れてほしい、と」
「はっきりと彼女がいるから付き合えないと言えばいいじゃないですか」

 優夜は涙から視線を逸らす。なぜか優夜が傷付いた顔をしている。

「告白を断るだけでも彼女を傷付けてしまうのに、それ以上悲しませることなんてできませんから」

 そう言い残して、優夜は静かに去って行った。

「返品するなら、受け取るなっての」

 涙は寂しくテーブルの上に置かれた茶色の袋を見て、誰にも聞こえないような声で言った。



 その日の夕方、小豆が店のドアを開けた。その表情は今にも泣きそうだ。

 涙はかける言葉に迷い、結局なにも言えなかった。優夜が置いてそのままにしていたお菓子を、小豆に気付かれる前に隠す。

 小豆は静かに涙の前に座った。どちらも口を開かず、空気が重くなる。

 そんな中、小豆の前に湯気の立つカップが置かれる。喉が渇いていたのか、小豆はなにも考えずにそれを飲んだ。

 喉を通っていったとき、初めて自分が飲んだものを認識した。

 小豆は顔を顰める。

「苦い」
「ミルクも砂糖も入れてないからな」

 舌を出して飲んだことを後悔する。

 カップを置き、黒い水面を見つめる。次第に視界が滲んでいく。

「るー君、意地悪だ」

 小豆の声は震えている。まだ泣くのを我慢しているらしい。

「私がコーヒー飲めないのわかってて出すなんて、いじめとしか思えないよ。ここは、甘いココアとかで癒してくれるところでしょ」

 涙は黙って小豆の言葉を受け入れる。その対応が正しかったらしく、小豆の口は止まらない。

「もう、これ苦いよ……苦い……」

 小豆が俯いて言葉をこぼす。カップを抑えていた左手は胸元に移動し、強く服を掴んだ。

「……苦しい」

 コーヒーの感想を言っていたはずだったのに、弱音に変わった。それと同時に、テーブルに一粒の(なみだ)が落ちる。小豆は両手で顔を覆い、それを隠す。

 鼻をすする音が聞こえるが、小豆がそれ以上言葉を発することはなかった。

 涙はまた静かにカップを置く。その音で手を外す。今度はさっきよりも色が薄くなっているが、小豆は涙が自分のわがままを聞いて飲み物を出してくれたとは思えなかった。

「またコーヒー?」
「嫌かもしれないが、騙されたと思って飲んでみろ」

 この状況で涙と言い合う気力はなく、小豆は言われるがままにそれを飲んだ。

「……おいしい」
「カフェラテだ。簡単に言えば、コーヒーにミルクを入れて甘くしてある」

 小豆はもう一度カフェラテを飲む。

 甘さの中に少し苦みがある味は癖になり、ついに飲み干した。空になったカップがテーブルに置かれる。

「るー君が正しかった。あの人のこと好きになってたみたい」

 小豆が話し始めても、涙は口を挟まない。ただ静かにそれを聞いている。

「私、お礼のお菓子を渡したとき、告白みたいなこと言っちゃって。でも答え聞くのが怖くなって、逃げたの」

 また小豆は視線を落とす。その先には最初に飲んだコーヒーがある。

「なんであんなこと言ったかなって後悔しながら、なんとなくここに来ていたら、偶然あの人を見つけて」

 小豆の言葉がそこで止まった。その現実を口にしたくないらしい。

「恋人と歩いてたか」

 しかしその続きを、涙が容赦なく言う。涙が知っていたとは思わず、顔を上げた小豆は目を見開いていた。それから不満そうな視線を投げる。

「知ってたなら、教えてくれればよかったのに」
「頑なに好きじゃないって言ったのは誰だ」

 小豆は目を逸らす。二人の間に妙な時間が流れる。

「どうしてあの人に恋人がいることを知ってるの?」
「ここには余計なことを言う客が多いからな」

 それはあまり答えになっていなくて、小豆は不服そうにする。だが、その目はそればかりではなかった。

「客が誰と付き合っているかまで話す人がいるなんて、本当、余計なことを言うんだね」

 軽蔑するかのような言い方だ。

「一応その客のために説明すると、そいつの彼女が俺の元恋人で、二股されてるんじゃないかって聞いてきただけで、わざわざあいつの恋愛事情を説明してくれたわけではない」

 小豆はゆっくり、数回ほど瞬きをする。

「るー君の元カノが、あの人の今カノって……嘘でしょ」
「こんな趣味の悪い嘘つくかよ」

 そう言われてしまうと、信じるしかなかった。

 少しずつその事実を受け入れると、小豆は苦笑した。

「私たち、失恋仲間だ」

 涙は言葉を返さないが、口元は笑っている。だが、小豆に同意して苦笑しているのか、それとも呆れて笑っているのかまではわからない。

「ねえ、るー君」

 小豆は飲めないコーヒーを持ち上げる。

「恋って苦いものだったんだね。このコーヒーみたいに」

 そしてそのまま涙に渡す。涙は返上されたコーヒーを飲むと、その味に満足そうな顔をした。

「でも、百パーセント苦いだけじゃない恋だってある。それこそ、カフェラテみたいな恋とかな」

 それを聞いて、小豆は小さな笑い声を出した。少しだけ元気を取り戻したようで、涙は安心の色を見せる。

「るー君がそんなこと言うなんて、変なの」
「お前のことだから、苦しいだけなら恋なんてしないとか言いそうだったからな」
「……ノーコメント」

 その言い方に、涙は鼻で笑う。そしてさらに小豆の心を見透かしたようなことを続けた。

「あいつを好きにならなきゃよかったって後悔してるか?」

 小豆は口を噤む。それは無言の肯定だった。

「でも俺は、小豆があいつに恋してよかったと思うよ」

 それを皮肉な言葉として受け取ったことで、小豆は涙を睨みつける。

「私が苦しんだのによかったとか、意地悪すぎない?」
「そうじゃなくて。あいつに恋したことで、小豆は少しだけ成長できただろ。確かに苦しんだかもしれない。だけど、悪いことばかりじゃなかった」

 そう言われて小豆はここ数日の自分の行動を思い返した。

 涙に厳しい言葉をぶつけられて、自分で優夜に渡すお菓子を決めた。どう渡すかを考えて、勇気を出して声をかけた。そして、渡すことができた。

 これは今までではありえないようなことだった。

 残念な結果だったとしても、そこまでのことは悪いことばかりではなかったのかもしれないと思えた。

 小豆は頬を緩める。

「やっぱり、るー君は優しいね」
「そう言うのはお前だけだよ」

 誉め言葉を受け入れてもらえず、小豆は不満をあらわにする。

 だが、すぐになにか閃いた表情をした。少しだけ身を乗り出す。

「るー君、お悩み相談みたいなことしなよ。そしたら、みんなるー君が優しいってことわかってくれると思う」
「やらない」

 即答だった。

 名案だと思って言ったが聞く耳を持ってもらえず、小豆はさらに拗ねた顔を見せる。

「母さんがそれをやって、体の調子を悪くした。だから俺は、やらない」

 それを聞くと、無理強いはできなかった。

「人の感情は伝染する。つらいって言う人がそばにいれば自分も落ち込むし、笑っている人がいれば、自然と笑顔になる。不思議だけど、そういうもんだろ。闇ばっかり聞いていたら、自分も闇を抱える。そしてその闇を対処しきれなくなって、壊れる」
「そうか、そうだよ」

 涙の話を聞いていて、小豆は一人で完結した。

「天さんは一人でやっていたから、体調が悪くなった。でも、今はるー君も私もいる。私たちが天さんの話を聞いてあげればいいんじゃないかな」

 今度こそ名案だと言わんばかりに話を進めていく。

「天さんがお悩み相談をやって、閉店後は私たち三人でおしゃべりをする、とか。いいと思わない?」

 涙は首を縦に振ろうとしない。それどころか、今の小豆の話を聞いていたのかすら怪しい。

「私は賛成」

 キッチンスペースから天が顔を出す。

「そろそろお店に出たいなって思ってたんだけど、どうしてもあのころの記憶が頭をよぎって怖くなってたんだ。でもあずちゃんが言ったみたいにすれば、上手くいくような気がする」

 天に賛同してもらえたことが嬉しくて、小豆は笑みをこぼす。

「せっかくだし、あずちゃん。ここでバイトしない?」
「いいの?」

 小豆は目を輝かせる。

「もちろん。私がホールに出るってことは、キッチンに入る人がいなくなるからね。お菓子作りもできる子は大歓迎」

 やはり『tear』に関することの決定権は天にある。天が決めたことに対して、涙が言えることなどなにもない。涙は、悩み相談をすること、そして小豆がバイトとして入ることに賛成せざるをえなかった。



「なに笑ってんだよ。気持ち悪い」

 思い出に浸っていたところ、涙の暴言で現実に引き戻される。しかし小豆は涙を睨まない。むしろ微笑んでいる。

「るー君がその顔で恋は悪いものじゃないって言ってたんだなって思ったら、おかしくて」
「ああ、それな、嘘だ」
「嘘なの?」

 小豆は一年越しの真実に驚きを隠せない。しかし涙は注文の品を作りながら、平然と話を進めていく。

「冷静に考えてみろよ。店とどっちが大切かって言われてフラれた俺が、そんなこと思うと思うか?」

 納得するしかなかった。恋を大切に思う人であれば、そのようなことを言われるはずがない。

「じゃあ、なんであんな嘘を?」
「まだガキの小豆が、恋愛をいらないものと決めてしまうには、早いと思ったから」
「ガキって、五つしか変わらないじゃん」

 小豆は頬を膨らませる。

「黙って聞け」

 その横暴さでさらに不服そうにするが、小豆はしぶしぶ文句を飲み込んで、涙の話を聞くことにした。

「俺にとっては、この店が一番大切なものだ。でもそれは人によって違って、恋愛が一番って人もいる。もしかしたら、小豆もそうかもしれないだろ」

 それは仮定の話で、あまり腑に落ちなかった小豆は、適当に相槌を打った。

「ここを大切にするくらい、彼女のことも大切にすればよかったのに」
「二兎を追う者は一兎をも得ず。そんなに同時にいくつも大切にできねえよ」

 涙の言葉に、小豆は笑う。涙はバカにされているような気がして、面白くなさそうな顔をする。

「るー君は不器用だよね。誰かへの優しさもわかりにくい」
「うるせえ。さっさと運んでこい」

 完成したカフェラテとカフェモカがカウンターに置かれる。

「まあこれを飲めば、みんな、るー君が優しいってことがわかるけど」

 小豆はカップをお盆に乗せながら言った。その意味が読み取れず、涙は不思議そうにする。

「るー君が淹れるコーヒーは、優しい味がするから」
「飲めない奴がなに言ってんだか」

 得意げに言う小豆を、涙は鼻で笑った。



 ここは小さな幸せを提供する喫茶店『tear』。
 今日もまた、優しいコーヒーに癒されたいお客様がドアを開ける。


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