翌日、喫茶店の閉店時間が近付いてきたころ、目の前に並べられたお菓子の量に、涙は顔を顰める。それは今やってきた小豆が手提げカバンから取り出したものだった。
すべて並べると、小豆はカウンター席に座る。
「なんだよ、この量」
茶色をベースとしたシンプルな袋を可愛いピンクのリボンで丁寧に包装されているが、どう見ても一人分ではない。手のひらサイズでも十個以上はある。
涙がため息交じりに言うと、小豆は目を逸らした。
「るー君が曖昧なことしか教えてくれなかったから、なにがいいのか迷って、つい作りすぎちゃって」
「で、緊張して渡せなくて、消費しきれないから、俺に食え、と。新手のいじめか?」
涙は小豆の言葉に続いて不服そうに言う。一番近くにあった袋を手に取って開けると、中にはカラフルなマカロンが入っていた。それはお店で買ったのではないかと思うほど、レベルの高いものだった。
「いじめじゃないよ。ほら、優しいるー君ならたべてくれるかなって」
小豆は笑顔を作る。涙はピンクのマカロンを食べるが、小豆のように美味しいものを食べたと思わせるような顔をしない。それどころか、どこか嫌そうな顔をしている。
「こんなに食えるかよ」
小豆は苦笑して同意する。
マカロンを置き、またため息をついた。
「コーヒーに合う菓子を作って、明日持ってこい。で、ここで絶対に渡せ」
「無理」
即答だった。涙の目が死んでいく。
「お前、よくそれで菓子を渡してもいいのかって聞いてきたな」
「いや、それは頑張るけど、ほら、私、コーヒー飲めないから」
それを聞いて、涙は作業を始めた。手持ち無沙汰になった小豆は、自分で作ったお菓子を手に取る。入っていたのは、チョコチップクッキーだった。
一枚、また一枚と食べていると、鼻をつまんでしまいたくなるような匂いがした。
「もしかしてるー君、コーヒー作ってる?」
「味を知らないと、どんなものが合うのかなんてわからないだろうからな」
甘いものを食べているのに、小豆の表情は曇っていく。涙はその変化を見逃さない。
「そんなに嫌か」
「苦いものよりも甘いもののほうがいい」
それを聞いて、涙は淹れたてのコーヒーを自分で飲んだ。無理にでも飲まされると思っていたため、小豆は涙のしていることが理解できなかった。
「いやいや飲まれるのはごめんだからな。小豆だって、せっかく作ったものをいやいや食べられたくはないだろ」
「それはまあ、そうだけど」
涙が自分のためにコーヒーを淹れてくれたことは理解しているからこそ、小豆は複雑な思いでいっぱいだった。
「お子様にはまだ早かったってことだな」
涙は小豆の考えを消すためか、わざと挑発するような言い方をした。小豆は素直にその挑発に乗る。
「コーヒーが美味しいって思えるのって、舌の細胞が死んで味を感じなくなるかららしいよ。るー君、おじいちゃんなんじゃないの」
「じゃあ毎回コーヒーを注文する、お前の好きなアイツも爺ってことだな」
「あの人は大人だからいいの」
「なんだそれ」
涙は呆れた声で言い、コーヒーを煽る。
小豆は最後の一枚を食べる。それを飲み込むと、なにかを思いついたように顔を上げた。
「るー君がアドバイスするってのはダメ? 喫茶店やってるんだし、それくらい簡単じゃない?」
「断る」
涙は迷う暇なく言った。小豆は頬を膨らませる。
「少しくらい協力してくれてもいいじゃん。るー君のケチ」
コーヒーを飲み終え、涙は洗い物を始める。小豆の言葉にはまったく耳を貸そうとしていない。
「私が作るお菓子が、コーヒーと合うかを言ってくれるだけでいいんだよ? たったそれだけ」
「……無理」
また断る言葉だったが、前のものとは違うようだった。小豆はそれを感じ取り、言葉を抑える。
「どうして?」
涙に尋ねる声は穏やかだった。
「俺が提供してるのは飲み物だけで、菓子は作っていない。だから、お前の菓子にアドバイスなんてできないんだよ」
小豆は余計に混乱する。
「じゃあ、お菓子を作ってるのは別の人ってこと? 誰が……」
「私だよ」
小豆の疑問に答えたのは、女性の声だった。
声がした、店の奥を見ると、小豆は目を見開いた。
「天さん……?」
天は小豆の隣に座る。目の前にいても、小豆はまだ天が現れたことが信じられなかった。
「久しぶり、あずちゃん」
驚きのあまり、小豆は頷くことしかできない。
「出てきてもよかったのか」
放心状態の小豆に変わり、天に話しかけたのは涙だった。
「もうお客さん少ないし、大丈夫だよ」
自分で聞いたのに、涙は興味なさそうに返す。そんな涙に不満の色を見せるが、天の視線は小豆に移った。
まだ呆けた顔をしている小豆を見て、天は小さく笑い声を出す。
「あずちゃん、まだびっくりしてる」
天が小豆の前で手のひらを振ると、小豆は現実に戻って来た。
「だって、天さんが体調崩してからは会ってなかったし、るー君に聞いても誤魔化されたし、ここにいたなんて。もうるー君、なんで教えてくれなかったの」
小豆は一気に言い、涙を睨む。
「客がいるのに、言えるかよ」
涙の説明はまた言葉が足りなかった。小豆はさらに憎しみを込めて涙を見る。
「あのね、あずちゃん。私、今はキッチンに入っているんだけど、まだホールに出られるほど回復はしていないの。だから、私がこのお店にいることはお客さんには内緒なんだ」
天は人差し指を唇に当てる。それを聞いて、小豆は納得した。
小豆にはまだ聞きたいことがたくさんあった。しかしそれを素直に聞く勇気がなくて、その返事をして止まってしまった。
「ところで、これはあずちゃんが作ったお菓子?」
天は小豆が作ってきたお菓子を一つ、手に取った。小豆の目の色が変わる。
「天さん、どれがコーヒーに合うか、教えてくれないかな?」
小豆は天との距離を詰めた。それは天が思わずのけぞってしまうような勢いだった。
「コーヒーが好きな子にプレゼントするの?」
静かに元の場所に戻り、頬を赤くして俯いた。小豆にはコーヒーという単語が聞こえなかったのではないかと思ってしまうような反応だ。
「あずちゃんってわかりやすいね」
天は言いながら、袋を開ける。四角く切られたブラウニーが出てくる。
「どう、かな」
天が食べたことに気付き、恐る恐る尋ねる。
「言うな」
小豆に答えようとすると、涙が遮った。ここまで邪魔をされ、小豆は我慢の限界に近かった。
「もう、さっきからなんなの。なんでそんなに邪魔するの」
その声には怒りがこもっていた。小豆にしては低い声だったが、涙は気にせず話を続ける。
「いつまでも他人に頼るな。少しは自分で決めて行動しろよ」
天は話が見えなかった。だが間に入ることはできなくて、二切れ目を食べて二人を見守ることにした。
「ちょっとくらいいいでしょ。自信がないものを渡して、後悔したくないし」
「誰かに言われた通りにやって、それがなんになるんだよ」
小豆は言葉を詰まらせる。
「それともあれか。ただのお礼のつもりだとか言っておきながら、本当は告白でもする気か」
「違う」
その否定の声は涙の言葉に被り気味だった。本人は真剣に否定しているつもりだが、その頬は赤かった。それを見た涙は、小さく笑う。
「説得力なさすぎ。どう見ても」
「涙、ストップ」
天の目は鋭かった。流暢に話していた涙だが、母親に睨まれると大人しくなった。
天はそっと小豆の背中に触れる。小豆は縋るような目を天に向ける。
「あずちゃん、ちょっと待っててね」
そして天はキッチンスペースに行く。二人にされた涙と小豆の間には、気まずい空気が流れる。
天が戻ってくるまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
「これ、参考にしてみて」
渡された紙には、いくつかお菓子のレシピが書かれている。小豆は簡単に目を通す。
「ありがとう、天さん。試しに作ってみる」
小豆はまた涙に文句を言われる前に、それをカバンに入れて逃げるように店を後にした。
天は小豆が置いていったお菓子を食べ始める。
「涙は本当、優しくないよね」
店の片付けを始めていた涙に小さな声で言う。
「相手を甘やかすだけが優しさとは思えない」
「確かに、可愛い子には旅をさせよ、とか言うけど。でも、迷って答えを求める人に対して、さらに突き放すようなことを言うのは、優しさじゃないと思うな」
涙と天の意見はまったく一致せず、二人は睨み合う。といっても、お互いに睨んでいるつもりはないため、見つめあっているという表現のほうが正しいのかもしれない。
先に目を逸らしたのは天だった。
「なんて、どういうものを優しいと思うかは相手次第だし、私たちが言い争っても仕方ないのよね」
そう言うと、天はキッチンスペースに入っていった。涙はそれに反論することはできなかった。