「──静紀(しずき)」
月の光が落ちて、私の名を呼ぶ翠(すい)の瞳に熱情が煌(きら)めいている。
──神様と人間は交わってはならない。
頭ではわかっていても、どんなに理性が止めても、この視線に囚(とら)われて誰が抗えるというのだろう。
夜の縁側で私を組み敷く彼は、とても泣きそうな顔をしている。
悲しみに暮れるその心を私が包み込んであげたい、愛しさでいっぱいにしてあげたい。欠けたもの、枯渇(こかつ)したもの、飢えたもの……。それらを満たせるのはただひとつ、愛ではないかと思うから。
だから私は、彼を引き寄せる。夜風の冷たさから、世界の無情さから守るように。
「触れたら後戻りできねえって、わかってんだろ……」
後戻りできなくていい……触れてほしい、あなたに触れたい。
「心だけじゃ足りなくて、あなたの全部が欲しい」
たとえ、望んだものと引き換えに……死ぬことになったとしても。
地上とそこに生きる者を見守る神様が、庇護(ひご)すべき人間を憎み嫌うは禁忌(きんき)。
後(のち)の私の夫……龍神(りゅうじん)の翠は親友の神様が人間に殺されたことで人間を恨み、魂が穢(けが)れて神(かみ)堕(お)ち──あやかしになりかけていた。
その穢れさえなければ、天界(てんかい)最強の龍神とも謳(うた)われた翠。この事態を憂(うれ)いた龍神の長(おさ)様は、私──原(はら)静紀を巫女(みこ)にして、翠に龍宮神社(りゅうぐうじんじゃ)の奉(まつ)り神になるよう命じ、夫婦の契(ちぎ)りを交わさせた。私がひとたび舞えば弱った神様を癒やすことができる、白拍子(しらびょうし)の生まれ変わりだからだ。
翠たち龍神のいる龍宮(りゅうぐう)と、この地上にある龍宮神社には切っても切れない繋がりがある。それは遥か昔、龍神の先祖(せんぞ)が人間の女性──それも巫女と恋仲になり、夫婦の契りを交わしたところから始まる。
神様は巫女の願いを聞き届け、その恩恵(おんけい)を与えるのが役目。そして龍宮神社の巫女の願いを受けるのは、主に龍宮にいる龍神の仕事だ。
代々、龍宮神社の奉り神になる龍神は、そこの巫女と婚姻する習わしになっている。だが奉り神は人間に信仰(しんこう)されなければ消滅するため、進んで人間と契りたい神様はおらず、そもそも神様と婚姻できる力ある巫女も減っていた。龍宮神社には長らく奉り神がいないどころか、舞の奉納(ほうのう)で地上の願いを届ける巫女も不在。ゆえに地上に神様の恩恵が行き渡らず、神社周辺の町ではあやかし絡みの揉め事が起こっていた。
私と翠の婚姻はそういった事情……つまり神堕ちを防ぎ、龍宮神社に神様の恩恵をもたらすためのもので、それが叶えば解消される。目的を果たすまでの、期間限定のかりそめ夫婦だったのだ。
でも、神社に持ち込まれる依頼をこなしているうちに、人間嫌いの翠が少しずつ心を開いていってくれて、大切な親友を奪われた憎しみに苦しみながらも、人間を大切に思う彼の不器用さに惹かれてしまった私は……心から翠と夫婦になりたいと思った。
翠も同じ気持ちだったようで、私たちは神堕ちを回避し、神社を再建したあとも一緒にいる。かりそめではなく、本物の夫婦として──。
「起きたか」
瞼を持ち上げると、昼間の縁側で私に膝枕をしてくれている旦那様と目が合った。
人にはない頭の二本の角(つの)。燃えるような紅(あか)色をした切れ長の鋭い目は、私を見つめるときに柔らかく細められる。その仕草がたまらなく好きで、私は彼の赤い髪に手を伸ばし、指を差し込んだ。
「……おはよう、翠」
私が翠と夫婦になって、いくらかの月日が流れた。舞もそれなりに上達し、今日も私は世界でいちばん愛しい神様と、この神社にいついている。今やここが、私たち夫婦の家だ。
「この羽織……かけてくれたんだね。ありがとう」
身体にかけられていた羽織を軽く持ち上げると、翠は軽く顔を背けてぶっきらぼうにこぼす。
「やわな人間は、風邪ひいただけでも死んじまうだろ」
「ん……心配してくれたんだ」
ポカポカした日差しのせいか、まだ眠気が抜けきらない。うとうとしていたら、翠の大きくて骨ばった手が私の前髪を撫でた。
気持ちいい……二度寝しちゃいそう。
どこよりも安心できる彼の膝元で目を瞑る。
「私、いつの間に寝てたんだろう……」
「午後の稽古が終わって、俺の隣で茶を飲んでた辺りだ」
思い出してきた。身体を動かして、お昼ご飯をたっぷり食べたあとだからか、縁側に寝っ転がった途端、睡魔に襲われたんだった。まだ太陽も沈んでないし、そんなに時間は経ってないみたいだけど、熟睡した気がする。
「翠がそばにいてくれたから、ぐっすりだったんだなあ」
思ったままに言えば、翠が息を呑むのがわかった。
瞼に透ける白い光が微かに陰り、柔らかな感触が額に落ちてくる。目を開ければ、凛々しく美しい翠の顔が間近にあった。
「こんな毎日がずっと続くといいね」
「そんなに惰眠(だみん)を貪(むさぼ)りてえのか。俺の嫁は一年後には、豚か牛になってそうだな」
「嫁を豚と牛呼ばわり……。あのね、私は翠と平凡な日常を末永~く続けたいなって意味で……」
「そうだな」
ふっと笑いつつ、翠があっさり肯定する。
「……え?」
出会った頃より幾分かマシになったが、鬼畜な彼らしからぬ素直な返しだったので耳を疑った。
「前に、俺の言葉をそのまま受け取るなっつっただろうが。わかってる、自分の嫁の考えくらいな」
翠の指が私の頬をくすぐる。私は「もう……」と口元を緩ませた。さすがは旦那様、私を喜ばせるのがうまい。
「そろそろ、孫の顔も見たい頃合いだがな」
神出鬼没、金の瞳に苧環(おだまき)色の長い髪をした幼女が縁側に腰かけている。
狩衣装束(かりぎぬしょうぞく)を纏(まと)った彼女は平安時代に日本一の舞い手と称(しょう)された白拍子、静御前(しずかごぜん)だ。見てくれこそ二歳児だが、中身は三十歳の立派な大人の女性。そして本来ならば出会うはずのない、前世の私だ。
彼女は人でありながら神様の力──神力を宿していた。その舞で神様の神力を高め癒やすことができ、彼女の生まれ変わりである私もその力を受け継いだ。
静御前は転生するはずだったのだが、愛する人と添い遂げられなかったという未練があったために、魂の一部……欠片が地上に残ってしまったらしく、こうして目の前に存在している。とはいえ霊体(れいたい)で本来の姿を維持するのは疲れるようで、今みたいに幼女の姿でいることが多い。
「孫って……静御前は私のおばあちゃんですか」
翠との子供かあ……。翠と婚姻して二年、私も二十七歳になった。意識してないわけじゃない。
翠に似たら、さぞ美男美女になるんだろうな。どちらにせよ、翠の子供なら目に入れても痛くないくらい可愛いはず。
でも翠との子供って、生まれてくるのは神様と人のハーフだよね? 翠みたいに龍に変わったりもするのかな? そうなったら、学校に通うのとか大変だろうなあ。そもそも、学校とか行かせていいのかな。私はどう育てていけばいいんだろう。
あれこれ妄想を膨らませていると、翠が予告なしにすくっと立ち上がる。おかげさまで翠の膝の上に載せていた私の頭は、ゴトンッと床に落下した。
「い、痛いじゃないですか……。立ち上がるなら、立ち上がるって言っ──」
「無理に子供を作る必要はない」
幸せな空気が一瞬にして、ぱちんっと弾けて消える。
子供を作る必要はないって……どういう意味?
「翠は、私との子供が欲しくないってこと?」
これだけ一緒にいて、少しも望まなかった?
思い返せば、夫婦生活は主に翠の口の悪さが原因で喧嘩したりはするものの、なんだかんだ満たされていた。けれど、一度たりとも夜の営みはない。ただ、同じ部屋で眠るだけ。翠の抱き枕だった頃と大差ない。
黙ったままの翠に、胸にはモヤモヤばかり溜まっていく。
「私は、翠の子供なら欲しい」
さすがに傷つく。まさか翠が、子供はいらないタイプの夫だったとは……。いろんな夫婦の形があってもいいとは思うけど、私は翠とは違って子供が欲しい。生まれてくる子が神様でも人間でも、翠との間に誕生した命をいっぱい愛したいのに……。
なんか、悲しくなってきた。
泣きそうになって俯けば、ため息と同時に翠の手が私の頭に落ちてくる。
「俺の言い方が悪かった。てめえを……失いたくないから言ってる」
「失うって……いくら人間が弱くても、それは大げさだよ。確かに昔の出産は命懸けだったかもしれないけど、現代は医療も発達してるわけだし……」
神様の翠からしたら、人間はよっぽど脆弱に見えるのかもしれない。……などと考えていたら、足音が近づいてくる。
「翠様が言いたいのは、そういうことではないんじゃよ」
振り返ると、長い白髪を後ろでひとつに束ね、白龍の文様(もんよう)入り白袴(しろばかま)を身につけているご老人──神主の宮光(みやみつ)吉綱(よしつな)さんがいた。
「吉綱さん」
「龍宮神社ではこれまでも巫女と龍神が婚姻したあと、神様のお子を宿した巫女がいたという記録が残っておる。じゃが、巫女は神力が強いというだけで人間じゃ。身籠ったお子の神力に耐えられず、例外なく亡くなっておる」
「……っ!」
亡くなってる……! だから翠は、子供を作る必要はないなんて言ったんだ。
「翠様は天界最強の龍神様、そして静紀さんは神様をも癒やす強い神力の持ち主。間違いなく力の強いお子が生まれる。そうなったら、人の身体では耐えられんじゃろう。ゆえに神様と婚姻した巫女の妊娠は、ご法度とされてるんじゃ」
「そんな……」
じゃあ私は、翠の子供は産めないんだ。
妊娠しているわけでもないのに、私は自分のお腹に手を当てる。すると足元に、黒猫がすり寄ってきた。
〝彼〟は普通の黒猫ではない。金と青のオッドアイで、尻尾は四本に分かれており、その先には青い炎がメラメラと燃えている。
そして、黒猫の身体がぼわっと青白い炎に包み込まれたかと思えば、学ランを着た中学生くらいの男の子に変化(へんげ)した。
目にかかるほど長い前髪の下には、猫のときと同じオッドアイの瞳。その頭にはぴょこんと猫耳があり、お尻にも四本の尻尾。彼はあやかしのミャオ、見ての通り化け猫だ。