「こちらこそ。また明後日、会社で」
「はい」
「ちゃんと鍵閉めろよ」
「……はい」
「……」
「……」

 なんとなく、互いに見つめ合う。
 まだ掛けるべき言葉があるんじゃないかと思案していた時、水森は急に身を翻した。

「ちょっとだけ、待っててください」
「え」

 俺の返事も待たず、彼女は部屋の扉を開ける。
 そして奥へと消えて行った。
 訳もわからず待っていれば、カシャン、と鈍い音が部屋の奥から聞こえてくる。それはどこかで聞いたことがあるような、無機質な音だった。

 何の音だったかと首を捻っていたら、水森は小走りで玄関先へと戻ってくる。腕に、何かを抱えながら。
 その何かに視線を落とせば、2匹の小動物が彼女の腕に抱えられていた。

「……水森、それって」
「私のペットです」

 そう言って彼女が俺に見せてくれたのは、茶色い毛並みで覆われた、耳がペタンとしな垂れているウサギだった。
 そして傍らには、白と黒の毛が入り混じった謎の生き物。長い毛並みで覆われていて、顔がどこにあって尻尾がどこなのかもわからない。
 わからないが、確実にウサギではない。

「……モップ?」
「モップじゃないです。ウサギのウサ子と、モルモットのモル男です」
「……そのまんまだな」
「そのまんまです」

 ネーミングセンス皆無か。
 苦笑しつつウサギを撫でれば、つぶらな瞳を俺に向けたまま鼻先をすんすんと鳴らし始めた。

 俺の手は食いモンじゃないんだけど。飼い主に似たのか。
 モルモットらしい生き物に至っては、どこに目があって口があるのか、相変わらずわからない程のもっさり具合だ。

「ペット、いたんだ」

 先程の鈍い金属音は、ゲージを開閉している音だったらしい。

「はい。キリタニさんはペットを飼っていないようなので、黙ってたんですが。せっかくの機会なのでご紹介しようかと」

 ああ、なるほどな。って思った。ペットを飼っていない奴にペットの話をされるほど、苦痛なものは無いから。
 その辺りの機転や気遣いが、咄嗟に自然とできてしまう。他の女の子には無い、水森の長所だ。

「あの」

 両腕に収まっている2匹を抱え直して、水森は俺を見上げた。
 相変わらずの無表情で。

「これからも、よろしくお願いします」
「うん」
「飽きられないように、頑張ります」
「……」

 その言葉の端から、彼女の中にある不安が感じ取れる。
 好意を抱いていた男から飽きられて、振られてしまった過去の記憶。

 俺を信用していないわけじゃない。
 それでも、不安要素は拭えないんだろう。

「……頑張らなくてもいいよ」
「でも」
「関係が変わっても、何かを無理に変える必要ないだろ」
「………」
「今までみたいに仕事の話して、株の話もして。またこうやってご飯、食べに行こ」
「……キリタニさん」
「俺達は『ご飯仲間』、だろ」
「……はい」

 花びらが舞うように、水森はふわりと微笑んだ。
 ご飯を食べてる時の笑みとはまた違う、きっと本来の素の笑顔。

 ……ここで全開の笑顔とか、ほんと反則だ。

 コートのポケットに手を突っ込んだまま身を屈める。彼女の吐息を唇で感じながら、そっと熱を落とした。
 すぐに顔を離せば、無表情のまま赤面してる水森の姿がある。
 違和感がありすぎて、なんか笑えた。

「ふ、不意打ちはズルいと思います」
「そっちもな」
「え?」
「そろそろ帰る」
「え、あ、はい。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」

 ゆっくりと扉が閉まる。施錠する音を確認してから、俺もその場から歩き出した。
 頬を撫でる夜風はひやりと冷たくて、でも心は温かい。
 スマホを取り出して時間を確認すれば、もう22時を回っていた。

 水森といると時間が経つのが早い。
 自宅から着信があった事にすら気付かなかった。

 車に戻ってから自宅に電話を掛け直そうとして、けれど突然ラインの通知音が響く。
 その相手先の名前を確認して、つい口元が緩んでしまった。

「……律儀すぎる」

 彼女らしいシンプルな文面に苦笑しながら、俺もシンプルな一言を打ち込んでから送信した。



(本編・了)


 ―――やっぱり、お腹に何か入れておくべきでした。

 後悔先に立たず。
 その言葉の真意を実感したのは、夕闇迫る時間帯に差し掛かった頃。
 買い物帰りの主婦の姿も見当たらない、住宅街の一角。私は空腹のあまり、ぺたんと地面に座り込んでしまった。
 一応成人迎えた大人がこの様だ。
 本当、情けない。

 普段から馬鹿みたいに食べまくる癖に、どうして今日だけご飯を抜いてしまったのか。朝食・昼食抜きのまま1日通しで仕事なんて滅多に無いけれど、仕事の都合上、そうなってしまう事だってある。
 でもそんな時でも、いやそんな時でこそ、ポケットなり鞄の中なり常備品を忍ばせておくのが、鉄壁のマイルールだった。仕事中にお腹の音が鳴る、なんて事は避けたいからだ。

 それが。
 どうして今日に限って。
 何も無いんでしょうか。

 昨日、空腹に負けて全部食べてしまったからですね、ハイ。

 空腹くらいで、と思われるかもしれないけれど、私にとって空腹という症状は、もはや余命宣告を受けているのも同じ。餓死寸前の体は全く力が入らず、蹲る様にその場にしゃがみこんでしまった。

 やっぱり、無理やり時間を作ってご飯を食べておくべきでした。
 もしくはコンビニに寄って何か買ってこればよかった。
 しかしこの周辺にコンビニらしき建物は見当たらない。絶望でしかない。

 もはやお腹が空きすぎて気持ち悪い。
 貧血にも似た不快感が身を襲う。
 脳に酸素がうまく回っていないのかもしれない。
 翳む視界の中、視界の端に捉えたもの。
 春の息吹とともに凛と聳え立つ、それはそれは立派なつくしんぼ。

 ……つくしんぼって生で食べても美味しいのかな……。

 思考回路が危機レベル5あたりまで到達しかかったその時、後ろに人の気配を感じた。
 そして、トントン、と肩を叩かれる。
 声を掛けられた気がするけれど、つくしんぼに意識が向いていた私にその声は届かない。

 もう私はダメです……。
 お腹が……すきました……。

 そんな心の中の嘆きは、どうやら口に出てしまっていたらしい。私の訴えを聞いた誰かにガッと腕を引っ張られ、近くの公園まで強制連行されてしまった。

 あれ。
 今、私の身に何が起こってるの。

 事態を把握できないままベンチに座らせられて、目の前に何かを差し出された。
 大きな手のひらの上に転がるそれは、コンビニでよく見かけるあの小さいおにぎり。
 ちょっと小腹が空いた時に、つまみぐい程度(?)で確かな満足、それでいてワンコインで購入できるアレです。

 ペットボトルのお茶も一緒に「どうぞ」と差し出されて、その意味を理解した途端、私は悟った。

 このひとは……神様か……。

・・・


 神様ではなかった。

 キリタニと名乗ったその人は、黒いコートに身を包んだサラリーマン風のお兄さん。整った顔立ちの、なかなか素敵なイケメンさんだった。

 見た目はとても若く見える。
 私と同じくらいの歳だろうか。
 そう分析しつつ、助けてくれたお礼がしたいと申し出る。
 けれど彼は、頑なに拒否の態度を取った。あまり私に関わりたくない、という意思表示かもしれない。

 確かに、空腹で道端に倒れているような奴を助けたからって彼に何かメリットがある訳でもないし、そんな変な奴と関わりたくないと思われても仕方ないかもしれない。

 残念だけど、私は大人しく引き下がった。
 彼が少し気まずそうな態度を見せたので、明るい(でもきっと無表情)態度で接すれば、安心したように表情を和らげてくれた。

 見ず知らずの人間を見捨てたりせず、ちゃんと助けてあげられる人。
 この人から受けたご恩と優しさだけは一生忘れないようにしよう。
 そう胸に刻み込んだ。

・・・


 そんなキリタニさんと私は、何かの縁で繋がっていたのかもしれない。まさか同じ会社の人だったなんて思いもしなかった。
 それは相手も同じ思いだったようで、2度目の再会にすごく驚いている。
 ただ、昨日と違う点がひとつあった。
 私に対する態度だ。

 物腰も柔らかで、口調も堅苦しくない。
 昨日の、どこか拒絶に近かったよそよそしいあの空気は、今日は微塵も感じなかった。

 そんな彼の態度に、ちょっと嬉しくなる。
 あまつさえ、夕飯にまで誘ってくれた。
 お礼じゃなくて一緒にご飯、という理由付けをしてくれたのも、何だか嬉しくてくすぐったい。

 特別に、行きつけのお店でもご紹介しようかな。
 そんな浮かれ気分で歩いていた私に、マーケの先輩達が群がってくる。

「ミズキチちゃんおはよー」
「おはようございます」
「ね、今桐谷くんと一緒にいた?」
「はい」

 1年前、私が入社した会社。
 アジュールは、絵画商材を中心に事業を展開させている企業だ。

 大まかに言うと営業、マーケティング、人事部門があって、私はそのマーケ部門。今でこそマーケティング、という名称に変わったけれど、数年前までは総合事務という名で、社員も女性が大半を占めていた。

 逆に営業は男性社員ばかり、という訳ではなく、近年は女性社員もかなり増えている。
 そしてキリタニさんは、営業二課の担当社員。
 さっきエレベーターで聞いたのです。

「何の話してたの?」
「えっと。キリタニさんに昨日、ちょっとお世話になりまして。そのお礼を言ってました」
「お世話?」
「空腹で倒れていたら、ご飯を恵んでくれました」
「またご飯!?」

 そこで一斉に笑いの渦が起こる。

「さすがのミズキチちゃんだわ」
「でもすごいね? あの桐谷くんが助けてくれるなんて」
「凄いんですか?」

 すごい、の意味がわからず、こてりと首を傾げる。

「そう。営業二課の間では一番の有能株って言われてるような人だよ。ホープだよ。あれ? ミズキチちゃん、桐谷くん知らないの?」
「キリタニさん……桐谷郁也さん?」
「そうだよその人! え、本当に気付いてなかったの?」
「はあ……気付きませんでした」

 桐谷郁也さん。
 私と同じ時期に入社した人。
 営業成績は常に優秀。期待のホープって言われ始めているのは、もともと営業成績が下ランクだったのに、並々ならぬ努力で急激に這い上がってきた若手社員だから、らしい。

 名前だけは知ってた。
 今まで喋ったり、関わった事は無かったけれど。
 あの人がそうだったんだ。

「彼、どんな感じだった?」
「どんな感じ……とは?」
「桐谷くんって、ほら。女嫌いでちょっと有名だから」
「……オンナギライ……?」

 聞き慣れない単語に、もう一度首を傾げる。

「女子には態度悪いって話なの。愛想が無いっていうか」
「そう……なんですか」

 噂は所詮、噂でしかない。
 でも、納得できる部分はあった。
 確かに昨日話した時は素っ気無く感じたし、お世辞にも愛想がいい、とは言えなかった。それに関しては、私も人のことは言えないけれど。

 だけど私は、助けてもらった身だ。感謝こそはしているものの、彼に対して悪い印象は抱いていない。それに、今朝は好意的に接してくれた。 
 話しやすかったし、女嫌いって印象は全く感じなかった。

 もしかして、日によって態度が変わる人なのかもしれない、と頭の片隅で考えてみる。
 それでも、やっぱり彼に『女嫌い』というワードは、私の中では全く結び付かなかった。


・・・


 気分屋さんなのかな? と思ったキリタニさんは、全然気分屋さんなんかじゃなかった。
 やっぱり噂は噂でしかなかったみたい。

 今日は彼と3回目のご飯会。
 箸をつつきながら話す内容は、ほとんどが仕事の話題。
 キリタニさんはすごく真面目な人で、仕事に対しては特に厳しい目を持っていた。

 自分なりの営業スタイルをきちんと確立していて、滅多に聞けない営業の極意を彼から教わるのは、なかなか新鮮で面白い。彼もマーケの内情を知りたかったようで、互いに色々と情報を共有した。

 とはいえ、全てをおおっぴらに公言するわけにもいかない。
 そうなると、会話の限界は近づいてくる。
 次第に、休日の過ごし方や趣味などに話題は移っていた。

「実は株をやってて」

 と、うっかり口を滑らせてしまった。