水森とはこれまで、色々な話をした。
けれど、恋愛に関して話題に上がった事は一度も無い。
お互いになんとなく、その話題を避けてきた部分もある。
明確に問いかけたのは、これが初めてだ。
視線の先にいる水森は相変わらず、表情の変化が見られない。彼女から感情を読み取るのは、なかなか至難の業だ。
気まずさの残る空気が、緊張を増幅させる。
暫しの沈黙の後、彼女は首を横に振った。
「いないですよ」
「……そうなんだ」
途端、肩の力が一気に抜ける。
その返答に、心の底から安堵している自分に気がついた。
ここでこんなに安心するということは、つまり、俺はきっとそういう事なんだろう。
彼女に対する想いには薄々感づいてはいたけれど、今この瞬間、はっきりと自覚した。俺は水森が好きなんだ、って。
「……私、長続きしないんです」
か細い声が聞こえたのは、そう自覚した直後。
「学生の頃に、お付き合いしていた人はいるんですけど」
「うん」
「いつも、すぐフラれちゃうんです。私には、きっと恋愛は向いていないんだと思います」
その、どこか冷めきった発言に違和感を覚えた。
「……なんで?」
「私、見た目も中身も子供っぽいから。『ガキっぽくて、一緒にいて疲れる』って言われて」
「……」
「実際、そうなんだと思います」
「……そんなことないだろ。俺なら、」
「え?」
「……いや、なんでもない。急かしすぎた」
「え……あ、はい……」
それきり水森は口を閉ざしてしまい、手元のグラスに視線を落とす。
俺もそれ以上何も言えないまま、再び沈黙が訪れた。
水森は鋭いし、頭の回転も速い。恋愛に関しても、きっと鈍い方ではない。俺の、さっきの微妙な言い回しやこの空気に、何か思うところはあるはずだ。
彼女にとって、俺はどういう存在なんだろう。
ただのご飯仲間なんだろうか。
そうだったとしても、俺はもう、それ以上を望んでいるから。
「水森」
「は、はい」
「今週末、空いてる?」
「へ」
「どこか出掛けないか? 2人で」
「え……」
パッと俺を見上げた水森の表情は、あまり変わり映えしていないように見える。
それでも頬がほんのりと染まっている事に、不謹慎にも嬉しくなった。
ある意味、賭けに出た。
もし、この雰囲気の流れで誘いを断られたら、その時点でもう脈は無いだろう。
まだ想いが浅いうちにさっさと身を引こう、と。
そう考えていたけれど。
「……あ、空いて、ます」
「………」
「がら空きです。24時間自宅待機中ですセコム並みに」
「……セコム」
俯いたまま冗談を言う彼女の横顔はいまだに赤く、そんな反応にまた嬉しさが込み上げる。
素直に可愛いと思った。
好きだと自覚すればするだけ、彼女への想いは膨らんでいく。
堪らなくなって、グラスを握る水森の手に触れる。
ぴく、と彼女の肩が小さく震えた。
「どこに行きたいか考えておいて」
「……はい」
視線は合わない。
けど、心の距離が近づいた気がした。
──―次の日。
水族館に行きたい、彼女はそう言った。
意外な返答だった。水森の事だから、有名スイーツ店や行列の並ぶ人気ラーメン店の食べ歩きに引っ掻き回されるかと思ってた。彼女と2人で過ごせるならそれでもいい、そう思っていた自分も大概だけど。
けれど返ってきた要望は、水族館。
普通すぎて、本当にそれでいいのかと尋ね返してしまったくらい。
そんな俺の言い分にも、水森はやっぱり表情を変えない。相変わらず、淡々としている。
昨日の、あのもどかしいくらいの雰囲気は微塵も感じなかった。
・・・
水森との約束の日。
リビングでコーヒーを淹れていた時、突然背中に何かが張り付いた。
見下ろした先に、もかがいる。
腹回りに両手が巻き付いて動けない。
「……おい。なんだ」
抗議してみるものの、離れる気配はない。
俺を見上げる顔は不機嫌そうだ。
「どこに行くのだ」
「……ダチと遊びに」
「女か。女だな」
「違う」
違わないけど。
「郁兄のくせに、もかちゃんを置き去りにして他の女と遊びに行くなんて許すまじ。一体誰なの。どこのアバズレ女なの。今すぐここに連れてこい。大根おろし器で擦ってやる」
「落ち着け」
ぎゅうぎゅうに巻き付く腕を剥がそうとしても、頑なに離れようとしない。
嫉妬なのか何なのか。どっちにしても面倒臭い。
遂にはそのままの状態で放置すれば、再び不満げな声が聞こえてきた。
「今日、バスケ付き合ってくれるって約束したのに」
「あー……」
忘れてた。
だからこんなに拗ねてるのか。
「悪い。明日付き合ってやるから。今日は春樹に遊んでもらえ」
「春は友達と遊びに行った……」
「いい子で留守番してろ。帰りにプリン買ってきてやるから」
「ビッグサイズを所望する」
「はいはい」
単純な約束を取り付ければ、単純なもかはすぐに離れていく。まだ機嫌がいいとは言えないが、とりあえず納得はしてくれたようだ。
「郁兄はデートだし、春くんは友達と遊ぶし、私はお家でぼっちだし。はー、つらたん」
「……」
……そうか。デート、か。
・・・
職場から遠くない1LDKのマンションに、水森は一人暮らしをしている。
俺の自宅から彼女のマンションまでは、車で10分ほどの距離だ。ご飯会の帰りに、彼女をマンションまで送り届けることも多い。
迎えに行く途中でコンビニに寄り、日経新聞を購入した。
株投資家にとってこの新聞こそ、日常に無くては困る大事な情報源だ。きっと水森も同じことを言うだろう。
ついでだから、お菓子もいくつか買っておく。
全て水森の好きなものばかり。
……多分、すぐ消化されると思うけど。
マンション前に着き、LINEを送る。
数分後に部屋を出てきた水森は、花柄のカットソーにクロップドパンツというカジュアルな格好だった。
見た目よりも動きやすさを重視した機能性。
ワンポイント的に添えられたブルーストーンのネックレスやブレスレットが目をひいて、センスの良さを感じさせた。
花柄のチャームが付いたトートバックを抱え、彼女が助手席に乗り込む。
爽やかな香りが車内に舞い込んだ。
「やっぱり花柄なんだ?」
「そうですね。昨年に続いて、今年も大柄な花模様のファッションが女性に流行ると思います。ひまわりとか、ハイビスカス系ですね」
「へえ」
車内で盛り上がる話題はやっぱりというか、仕事の事。
休みの日までこんな話を持ち出さなくても、そうは思っていても、目に付くものは全部仕事関連に繋げてしまうのがお互いの性だった。
これはもう、俺も水森も基本仕事人間だから仕方ない。職業病ってやつだ。
何か、可愛いとか服似合ってるとか、一言あってもよかったかもしれない。そこまで気が回らなかった事に、後悔を抱く。
けどもう今更な感じがして、結局何も言えなかった。
・・・
週末の水族館は、結構な人で溢れていた。
特に家族連れが目立っていて、ちらほらとカップルの組み合わせも見かける。
自分達も周りからそう見えるのかと思ったら、少しむず痒い気分になった。
視界全体を見渡すほどの水槽には、大小様々な魚の群れがゆらゆらと優雅に泳ぎ回っている。
2人でその光景を眺めていた時、頭上に大きな影が落ちた。
「水森、上にジンベエザメいる」
「わあ。でかい」
「あんなの、どうやって水槽に入れるんだろうな」
「ジンベイザメって焼いたら美味しいんでしょうか……」
「……さあ」
焼き魚にするつもりなのか。
「でも焼いて食べるならサンマがいいです」
「俺はサバの味噌煮が好きだな」
「サバも美味しいです」
「でも、釣れたての魚を焼いて食べるものに勝るものはないな」
「同感です。新鮮な魚が一番美味しいです」
「向こうにエイの群れもいる」
「あの大きさなら、2匹はギリ食べれそうです」
「イワシの群れとかすげーな」
「あれなら20匹はいける」
「2桁いっちゃうのか」
何でも食べる事に脳内変換してしまう水森と、それに合わせる俺の会話は物騒すぎて少し引く。はたから聞けば異常な会話だ。水族館で話すべき内容じゃない。
その証拠に、ガラス越しに悠々と泳いでいた魚達は身の危険を感じ取ったのか、俺達の目の前でグルンッと方向転換した。
そして奥の方へ颯爽と逃げ出していく。
何というか、連れが色々と申し訳ない。
「あっ、」
ドーム型のトンネルに足を踏み入れた時、隣で歩いていた水森が急にふらついた。足元の段差に気付かなかったらしい。
つまづいて転びそうになった所を、咄嗟に二の腕を掴んで引き寄せた。
「すみません」
「足ひねってないよな?」
「それは、大丈夫です」
「ならいいけど」
そのまま腕を離そうとして思い留まる。
滑るように下へと降ろした手を、彼女の指に絡めた。
「……っ、」
俺を見上げてきた水森の顔は、珍しく驚きに満ちていて。
そんな彼女の顔を俺も直視できなくて、そのまま手を繋いだまま歩き始めた。
水森も抵抗することもなく、俺に手を引かれる形でトコトコとついてくる。その動きが小動物みたいで可愛かった。
思わず頬が緩んでしまう。
水槽に映る互いの顔が若干赤く見えたのは、きっと気のせいだと思いたい。
「……腹減った」
「……え。あ、そうですね。もうお昼です」
「何か食べる?」
「はい。あの、」
「うん?」
「隣の港に船があったんですが、気づきましたか?」
「船?」
突然、何の話かと思いつつも頷く。
確かに、入館する時に見かけた気はする。
「そこ、船上レストランなんです」
「へえ、そうなんだ。そこで食べる?」
「あ、いえ、あの」
「ん?」
珍しく、煮え切らない言い方。
水森のこんな態度は滅多に見れない。
「その船の中が、海中レストランになってるんです」
「そうなんだ」
「それで、海中の方は予約制になってて」
「ふうん。人気なんだ?」
「はい」
「もしかして、もう予約してあるの?」
「そう、です」
「それは知らなかった。もしかして水族館に誘ったのって、海中レストランが目当て?」
「……はい」
「はは。水森らしいな」
失礼な言い方になるけど、初めてのデートに水森が水族館をセレクトしたのが、彼女らしくない印象があって気になっていた。けど、そういった理由なら納得できる。
事前予約しなければ入ることができない、人数制限のあるレストラン。
食べることが大好きな水森が食いつくのも、当然かもしれない。
「けど、それなら最初からそう言ってくれればよかったのに」
「……」
何気なく放った言葉に、彼女はぴたりと歩みを止める。
当然繋がれていた手もその場に止まり、俺の足も動けなくなってしまった。
振り向いた先にいる彼女は相変わらずの無表情で、なのに。なんだろう、どこか怯えているように見える。
「……どうした?」
「……ごめんなさい」
「何が?」
「せっかくのお出かけなのに、ご飯の事ばかりで」
「……?」
「……子供っぽくてごめんなさい」
「……」
不意に、先日の彼女の言葉が蘇る。
自分は恋愛に向いてない──―
たった20の女の子が言うには、それはあまりにも達観しすぎている言い草だ。
水森は確かに見た目は可愛いし、反して中身が面白い。そのギャップに惹かれて、周囲に人が集まってくるんだろう。
女友達だけじゃなく、男も。
もしかしたら学生の頃は、結構モテていたのかもしれない。
『―――いつも、すぐフラれちゃうんです』
過去に付き合っていた奴らは、そんな彼女の一面しか見えていなかったのだろう。経験の浅い学生の頃なら仕方ないかもしれない。
付き合い始めてからわかる彼女の無邪気な面に、抱いていたイメージの違いに、それまでの興味が薄れてしまうんだろう。
『実際に付き合ってみたら、なんか違った』
そんな、幼稚で残酷な一言を彼女に切り刻んで。