三大欲求のひとつを口にしてしまえば、仕事モードに入っていた思考は遮断され、腹を満たしたい欲求に支配される。多少の空腹なら耐えられるが、昼抜きはさすがに胃が堪えたようだ。

 空腹状態が続けば、血糖値が下がる。
 それはつまり、集中力や思考力の低下を招きかねない。脳が栄養不足になるからだ。
 会社へ戻る前に、何かしら胃に入れた方がいいかもしれない。

「……公園に寄るか」

 そう思い至った俺は、車が行き交う通りを抜けて進路を変えた。

 高台へと向かえば、なだらかな傾斜地に一戸建ての住宅地が見えてくる。広い敷地に見事な植栽が並ぶ、落ち着いた場所だ。地盤が良い土地の証拠だろう。
 陽は徐々に傾きを見せ始め、黒いアスファルトが紅に染まっていく。夕刻の闇が、閑静な住宅地を包み込もうとしていた。

 車用時計は16時を表示している。
 定時まで、もう1時間しか残されていない。
 残業になるかもしれない。

 暗くなる前に、会社に戻らないと。
 そう思い直した、その時―――

「……?」

 視界の端に映った光景。
 道端に女の子が倒れていた。


 ……いや。倒れているというより、蹲っているという言い方の方が正しいのか。外壁に片手をついて、彼女はその場に屈んでいた。
 長い髪が顔を覆い隠して、車内からでは表情はわからない。けれど、どうにも尋常ではない様子に見える。貧血だろうか。

 近くに車を停めた後、運転席から降りる。
 周囲を見渡しても、俺以外は誰もいない。
 一向に動く気配の無い彼女に駆け寄り、肩に軽く触れてみる。

「あの、大丈夫ですか」
「………」

 応答がない。
 もう一度肩を叩いてみるも、彼女は振り向くどころか微動だにしない。
 けど微かに、「うぅ……」と苦しげな呻き声だけは、かろうじて耳に届いた。

 貧血かと思ったが、もっと深刻な状況なのかもしれない。表情はわからずとも、具合が良くなさそうなのは見ただけでわかる。体調が悪ければ病院まで乗せていく事も出来るが、喋る事もままならない状態なら、素人判断はせずに助けを呼んだ方がいいだろう。

 すぐに救急車を呼ぶので、スマホをタップしながらそう伝えようと口を開きかけた、

 その時。



「……おなかが……すきました……」

「……へ」

 スマホを操作していた指が止まる。
 屈んだまま空腹を訴えた女の子と、その傍らで絶句している俺。

 その直後、



 ―――ぐおおおおおぉぉ、と。


 とても腹の音とは思えない、まるで怪獣の咆哮のような凄まじい腹鳴が、夕暮れ時の静かな住宅地にこだました。






 駆け回っていた子供達が、母親に呼ばれてひとり、またひとりと走り去っていく。そうして人気が無くなった公園には、遊具の影だけが伸びていた。
 その片隅に、古ぼけたベンチが置かれている。
 白く塗装されたペンキは所々剥がれ落ち、年季の入りようを感じさせた。

 俺はそのベンチに座り、隣にはうなだれた様子の彼女が座る。どうぞ、と控えめに声をかけて、購入したばかりのおにぎりとお茶を手渡した。
 のろりと女の子が顔を上げて、虚ろな瞳が俺の手元で視線を止める。

 ―――途端、ぱあああ、と。
 まるで花が咲いたかのように、彼女の表情が一変した。

 驚きで見開いた瞳がきらきらと輝きだし、口は半開き状態。興奮しているのか、頬には赤みが差している。
 ペコペコと何度も俺にお辞儀をして、受け取ったおにぎりのパッケージをビリッと裂き、肉食動物の如く、すごい勢いで食べ始める。口を挟む隙すらない。
 目尻にはうっすらと、涙まで滲ませていた。

「………」

 むせび泣きながらコンビニおにぎりを貪る人間を、俺は今日、初めて目にした。
 こんなに喜ばれて、製造した業者もさぞ嬉しいだろう。


 そうこう考えている俺の傍らでは、ものの数秒で飯を胃に納めた彼女の姿がある。今度はペットボトルのキャップを開け、中身を一気に飲み始めた。
 口を離し、ぷはっと短く息を吐く。
 満腹感で満たされたその表情は、幸せを噛み締めているようにも見えた。

「生き返った……」

 と、静かな囁きまで聞こえた。
 餓死寸前ではあったが、どうやら最悪な状況だけは回避できたみたいだ。

 あっという間にお茶を飲み干した彼女は、頬を紅潮させたまま、今度は俺へと視線を向ける。空腹で倒れていた人物とは思えないほど、彼女の身なりはきちんとしていた。

 トレンチコートの襟元からは、事務服のベストが見える。顔は幼いし、背も低いから高校生かと思っていたが。会社員のようだ。

 クセのない髪は、艶やかなストレートロング。ほんのりと、甘い香りが鼻腔を掠める。
 香水は元々苦手だが、彼女の香りは不思議と不快な気分を感じない。コートやブーツも、女性の流行りを一式揃えたコーデのようだ。見た目だけで言えば本当に、普通のOLと変わりないが。

「助けて頂いてありがとうございます、通りすがりの親切なお兄さん」
「桐谷です」
「キリタニさん。ありがとうございました」

 言い直して、深々と頭を下げられる。
 舌足らずな口調が、余計に幼さを感じさせた。


「あの。ご連絡先、教えて貰ってもいいですか? お礼がしたいです」

 その一言にハッとする。
 どうしてこの時、自分の名前を名乗ってしまったのか。今頃になってそう思った。

 今日初めて会った相手。
 彼女が何者で、どこで働いていて、どこに住んでいるのかも全く知らない。
 今後会うこともないだろう人間に、名乗る義理などない筈で。

「いいよそんなの。大した事してないし」
「でも、それだと私の気が収まりません」
「ほんとにいいって」
「じゃあ、せめてお代だけでも」
「200円程度だし。いいよ、ほんとに」

 営業用の、下手くそな笑みを浮かべながら手を振る。そこまでしてもらう理由が俺にはないから断った。
 立派な人助けをしたとは思ってないし、自分がした事に対する見返りも報酬も求めていない。彼女の誠意は素直にありがたいとは思うが、俺が必要ないと思っている以上、彼女の言葉はありがた迷惑でしかない。

 何より、女性に対して苦手意識を持っている俺としては、これ以上彼女と関わり合いを持ちたくなかった。
 関わる必要があるとも思えない。
 もしこの先、どこかで偶然彼女を見かけたとしても、声を掛ける事もしなければご飯を与えることもしない。徹底的に知らない振りを貫き通すだろうから。


 幸いにも、彼女は空気の読める子のようだ。口に出さずとも、俺の真意は彼女に伝わったらしい。そうですか、と素直に引き下がってくれたお陰で、後味の悪い思いをせずに済んだ。人間、いつでも引き際が肝心だ。

「もし、また再会する事があったら、その時はお礼をさせてください」
「ああ。その時は一緒にご飯でも」
「はい」

 今交わした口約束はきっと果たされない。
 道端で困っていたから助けただけの相手と、また再会する確率なんて、偶然でも起きない限りゼロに近い。それは彼女自身も理解しているだろう。

 だからあえて、「再会した時は」なんて仮定を彼女は口にした。
 このぎこちない雰囲気を変える為だけの言い回し。社交辞令。
 そして俺も軽く応えた。

 会話の流れを変えてくれたお陰で、気まずさの残った場の空気が軽くなる。彼女の誠意を拒否した俺が罪悪感を抱かないように、うまく機転を利かせた彼女の気遣いが、気さくな言葉の端から感じ取れた。

 思わず感心を抱く。
 苦手だと思っていた異性への意識が、少しだけ薄れたような気がした。

 ……なんだ、いい子じゃんか。


 血色を失っていた彼女の頬は、薄く赤みがさしている。顔色も悪くない。
 一時はどうなるかと思ったが、お腹が満たされた事で体調も元に戻ったようだ。

 目的地まで車で送ってあげようかと思ったが、その目的地はすぐ近くなので、そう言って彼女はその場を後にした。
 最後に俺を振り向いて、頭を下げてくる。
 律儀な子だな、そう思いながら軽く手を振って応えた。
 俺もいい加減、会社に戻らないと。

 というか、結局何も食べていなかった。

「………」

 遠くなっていく後ろ姿を見て。
 ふと、疑問を抱く。

 一般企業の定時時刻は、基本17時と決まっている。
 今はまだ16時半。定時前だ。
 会社の人間が帰宅できるような時間帯じゃないのに、あの子はどうして、こんなところにいたのだろう。

「……いや」

 そこまで考えて、頭を振る。
 そんな事を考えたところで意味は無い。
 もう会う事も無いだろう他人の事を考えたところで、どうしようもない。
 俺には、全く関係の無いことだ。






「……やっぱり、お礼してもらえばよかったな」

 誰ともなく呟く。
 密かに湧いてしまった彼女への興味は、それまでの思考と共に放棄した。





 もう会うことは無いだろう。
 そう思っていた彼女に、再会した。
 空腹で倒れていた彼女を助けた、その翌日の朝に。

 出社前。
 自社ビルのエントランス。
 奥にあるエレベーター前に、彼女はひとりで立っていた。

 腕にはピンクのショルダーバックと、昨日と同じトレンチコートを抱えている。着ている制服は、アジュールで指定されているものだった。

「……まじか」

 昨日の、彼女の格好が脳裏に浮かぶ。コートの襟元から覗く制服は、うちの会社のものだったのか。全く気付かなかった。
 そもそも女性社員の制服デザインなんて、どこの会社も似たり寄ったりなものばかりだ。まさか同じ会社の人間だとは夢にも思わない。

 どうする、と思考を急かす。
 また偶然会ったとしても関わらない、そう決めていたけれど、同じ会社の人間ならそうもいかない。
 何より「また会えるなら会ってみたい」、密かに抱いてしまった彼女への興味が、頑なだった意思を揺らぎ始めていた。

 異性と深く関わりたくない。
 そう思っていたはずなのに。