「おっす。何してんの桐谷クン」
「なあ、あれって」
「うん? あ、ミズキチちゃんと清水課長じゃん」
……ミズキチ?
「水森だろ?」
「うん。ミズキチちゃんって、あだ名な」
「あだ名?」
「本人が言ってた。小学生の頃から、あだ名が『みずきち』なんだとさ」
軽快に笑われて、胸に苦いものが広がる。
あだ名を知った経緯よりも、『本人から聞いた』という発言に反応してしまった。
「……なに、お前仲いいの」
「いや、すれ違ったら話す程度だよ。ミズキチちゃん、誰とでも仲いいからみんなに好かれてるし。友達多いんじゃない?」
「ふーん……」
「人気あるぜ、あの子。あ、人気って男にモテるとかじゃなくて。面白すぎるキャラだから」
「ああ……そういう事」
まあ、それはわかる、けど。
水森がああいうキャラだって知ってるのも、仲いいのも。俺だけじゃなかったんだなって。
当然と言えば、当然だけど。
なんとなく面白くない。
「まあ、実際狙ってる奴もいそうだけどな。可愛いし」
「……」
「俺先に行くからなー」
「……おー」
やっぱり聞くんじゃなった。
朝から気分悪い。
その場から動けず呆けている俺の前で、同僚の男はエレベーターに乗り込んで4階へと上がっていった。
視線を戻せば、いつの間にか清水課長の姿もない。
水森の周りにいた女性社員も、その場から散っていた。
その場に残っていた彼女自身もエレベーターへと歩きだそうとして―――不意に、後ろを振り向いた。
思わず心臓の音が跳ねる。
目が合った瞬間、水森は驚いた表情を見せた。
俺が出社してきた事に今気づいたらしい。
「ふおおおぉ。キリタニさんっ」
「……?」
かと思えば、今度は謎の奇声を発しながら両手を前に突き出して走ってくる。真顔で。
何事かと思いながら俺も同じように真似てみる。近づいてきた彼女の両手が、ぱちんと俺の両手と重なって音を弾いた。唐突のハイタッチ。
「キリタニさん」
「はい」
「おはようございます」
「おはよう」
「聞きました。A社との契約、キリタニさんが結んできたって」
「ああ、それか」
「それです」
興奮やまぬ様子で、水森は身を乗り出してきた。
それは、互いに手を組んだ後日のこと。
彼女は【ある情報】を俺に教えてくれた。
その情報を元にすぐ行動を起こした結果、世界的にも有名なキャラクターを生み出した大手企業のA社と、版画作品の独占販売契約を結ぶことに成功した。
それは今までにない、大きな実績だ。
「すごいです、あのA社だなんて。上層部の方々はみんな諦めていたと、課長が言ってましたよ」
「持ち上げすぎだって」
そもそもこれは、水森の情報があってこそだ。
彼女が事前に教えてくれなければこの契約も無かったし、A社と繋がりを持つことすら出来なかった。
「そのお話、ぜひ聞かせてください」
「いいよ。じゃあ今日の夜、いつもの場所で」
「はい。楽しみにしてます」
そう言って、水森は俺から離れた。
他のマーケ社員と挨拶を交わし、共にエレベーターへと乗り込んでいる。
1人置いてけぼりをくらったような心境に陥っている俺は、その後もモヤモヤとした気分を抱えたまま、定時までの時間を過ごした。
水森曰く、俺は『ご飯仲間』らしい。
グルメ友、略してグル友とも言っていた。
そう呼び合う程に、彼女とは仕事上がりに会う機会が増えている。大体週2、3回ほどのペースで、夕飯を共にする仲になっていた。
豊さんの店で待ち合わせをする日もあるし、美味しいと評判の店を見つければ、一緒に足を運ぶ事もある。出向く先の殆どは、多くの客で賑わう大衆居酒屋がメインだ。高級感のある静かなレストランは、彼女はあまり好まないらしい。
その理由は単純で、
「一皿に乗ってる量が少ない上に、追加注文がしずらい空気だから」
らしい。本人がそう言っていた。
いかにも彼女らしい主張だ。質より量派、ということだろう。
夕食を共にしながら話す内容といえば、ほとんどが仕事の事。
共通の話題で盛り上がれるのは、やっぱり営業とマーケの情報だった。
こうして話を聞く限り、水森はかなりの勉強家だとわかる。特に流行りものに関しては、誰よりもいち早く真新しい情報を仕入れてくる。食やファッション、遊びにエンタメなど、そのジャンルは多彩に渡る。世間のニーズや動きに、常にアンテナを張っているようだ。
それだけではない。
更に過去のデータから換算し、次に来る流行ものの予想立てをするのも、彼女の得意分野でもあった。
それだけ情報に精通していれば、マーケターとしての能力も十分高いのが窺える。
彼女の情報収集能力の高さには、毎度舌を巻く。
顧客の好みやターゲットを絞る上で、水森が持つ情報と知識は、俺が営業を成功させる為の必要不可欠な要素となっていた。
「……いつも思うけど、営業の効率化を図る為に改善する余地はまだ多いよな」
「マーケもIT化が進んで、精度の高いメッセージを各方面に展開できるようになりました。営業の皆さんが仕事しやすいように、私ももっと頑張らなければいけません」
「水森は十分頑張ってるだろ。かなり有能だよ。すげー助かってる」
「私が有能だとしたら、きっと先輩方のお陰です」
さりげなく上の立場の人間を立てるのも忘れない。誰が見ていなくとも、だ。謙虚な姿勢を崩さないのも、彼女らしいと言える。
こうして豊さんの店で話すのも、もう何度目だろうか。
いつもの特等席で隣同士に座り、今日も今日とて仕事の話題で盛り上がる。
「でも、キリタニさんは本当にすごいです。あの情報ひとつでA社と独占契約まで結んでしまうなんて驚きです」
「事前に情報をくれた水森のお陰だよ」
「そんなことないです。数字だけを見ている人には絶対に出来ない行動だと思います」
この話題に移れば、彼女は途端に俺を褒めちぎる。
けど、本当に大した事はしていない。
というか、営業すらしていない。
俺ですら、A社と契約を結べるなんて微塵も思っていなかったんだ。
アジュールが、A社との独占契約を狙っているという話は以前から噂で聞いていた。
だから水森に、詳細を尋ねてみた。
そして彼女がくれた情報の中に、
『A社の社員の方が、平日の早朝に公道を掃除してるみたいです』
そんな雑談が混じっていた。
それはなんて事はない話のネタのひとつ。
でも俺は、チャンスだと悟った。
「それで翌朝5時に起きて、その方の元へ向かったんですね。『今日から一緒に掃除をさせてください』と、頭まで下げて」
「ちゃっかり名刺も渡してる辺り、下心は見え見えだったけどな」
「はあ、すごい」
俺から事情を聞いた水森は、何度も「すごい」を連発した。
それは彼女から話を聞いた翌朝のことだ。A社の社員が掃除をしているという公道へひとりで向かった。
そこには年配の老人がひとり、ゴミ袋を持参して黙々と作業をこなしている。社員というわりには高齢の方だなと思いつつ挨拶を交わし、ここ1ヶ月間くらいはずっと、彼と2人で公道の掃除をしていた。
契約を持ち掛けようとして、彼の元を訪ねたわけじゃない。
A社の話が聞ける上に、運よく繋がりが持てれば、と。その時はただ、そう思っていただけだ。
「まさかあの爺さんが、A社の創業者だったなんて思いもしなかったんだよ。あの人自身も名乗らなかったし、俺はてっきり、A社に雇われている清掃業者なのかと思ってた」
「びっくりですね」
「いや、水森は最初から気付いてただろ。ほんと人が悪いよ。教えてくれてもよかったのに」
「ごめんなさい。まさかキリタニさんが、そこまで考えていたなんて思ってもいなかったから」
感嘆の息を漏らす水森に、苦笑いを浮かべる。
結果的に大きな実績は残せたけれど、それでもまだ、ひとつだけだ。俺達の目的までは果てしなく遠い。
けど、水森の持つ情報を活かせば成果を出せることを証明できた事は大きな一歩だ。
こうして彼女とご飯仲間になって、互いに色々な話をした。仕事の話だけじゃない、他にも趣味や家族、学生時代の頃の話も。
中でも趣味に関しては、俺が水森だけにしか話せない話題がひとつだけある。
「そういえば水森、今日のでプラ転したんじゃないか?」
そう尋ねれば、急に彼女の瞳が輝きだした。
「はい。何回か小分けにして買ってたから、マイナスのものもありますが。トータルで言えばプラスです」
「へえ。やったじゃん」
「キリタニさんは?」
「俺も一応プラス。頭ひとつ飛び出た程度だけど」
「では、互いのポートフォリオプラ転に乾杯ですね」
「ウーロンだけどな」
カチン、とグラスをぶつけ合う。
水森は相変わらずの無表情で、でもどこか、穏やかな顔つきにも見えた。
仕事以外での彼女との共通の話題は、意外な事に『株』だった。
ネット上には、お金を掛けずに株式投資を楽しめるゲームがいくつかある。高校生の頃、そのバーチャルゲームのひとつに手を出したのが株を始めるキッカケになった。
興味本意のつもりだったが、投資の仕組みさえ理解出来れば、これがなかなか面白い。自動的に通貨が作られるシステムの安心感もあって、のめりこむようにハマっていった。
ゲームと言っても実際の金銭が絡んでいないだけで、本物の株式投資に近い雰囲気だ。株を始めたい初心者が、練習がてらバーチャルトレードに手を出す場合も多い。
3年も続ければ、ある程度株の知識はつく。
自身で稼げるようになれば貯金も出来る。
そこで俺はバーチャルから卒業し、実際の株投資に手を出した。
ネットとは違うリアルな世界。
当然、儲けや損失が懐に響いてくるから、生半可な覚悟で投資はできない。見極めを誤れば、マイナス数十万の損失が俺を待っている可能性もあるからだ。
それでも、株に手を出した事で得た膨大な知識量は、少なくとも今の俺にとってプラスになっている。
水森も株をしていると知ったのは、3回目のご飯会に誘った時だった。
仕事の話が尽きれば、会話の流れは自然とプライベートな話題に移る。その過程で、株投資をやっている事を本人が明かしてくれたのがキッカケだった。
俺も同じように株をやっていた事に、彼女自身もまた、相当驚いていた。
水森は元から投資に興味があったらしい。早い段階で株に目をつけ、学生の頃からバーチャルトレードを始めていたようだ。
興味本意で始めた俺とは違い、彼女の場合は完全に実践向け。いずれ、実際の株投資をする為に、バーチャルは練習用に始めたらしい。
社会人になってから実際に手を出し、今に至る。
「利確も考えなきゃですね」
彼女にしては随分と弱気な発言だった。
ついグラスを持つ手が止まる。
「もう? 夢ないな。プラ転したらすぐそれか?」
「まだ売らないけど……目標値がないと不安です。30万超えで一旦利確するのか、35万ラインまではホールドするのか、とか」
「いざ上がりだしたら難しいからな。トレンド変換したら売りたくなくなるし」
「買いだけでは儲からないですからね」
彼女の一言に頷く。
実践経験はまだ低いとはいえ、共に仮想空間で数年学んできた投資家同士、知識の幅もそれなりに広い。
「売り時期って難しいよな。決断に迷う」
「買いのタイミングが良くても、売り時外したらマイナスになっちゃいます」
「うん。けど、来週には調整入りそうだけど」
「まだ売らない方がいいですか?」
「勢いありそうだし、売る時じゃないと思う」
「うーん……」
いつも即決断が通常の水森だが、こと株投資となれば、頭を悩ませる一面もあるようで。