一旦ファイルから目を離して一息つく。腕を伸ばして背を伸ばし、強張った体を解していく。肩の力を抜けば、急に瞼が重くなってきた。
仕事終わり、こんな夜更けに活字ばかり眺めていれば、さすがに疲労が溜まってくる。襲い掛かる睡魔を振り払うように、残りのコーヒーを喉の奥へと流し込んだ。
「……郁也?」
不意に呼び掛けられて手が止まる。
背後を振り向けば、2つ下の弟が顔を覗かせていた。
「まだ起きてたんだ。仕事?」
「……まあ、そんなとこ」
どう答えるのが正解なのかわからず、曖昧な返事で誤魔化す。
「そっか。大変だね」
特に疑う風でもなく、弟はそのままキッチンへと向かう。冷蔵庫を開ける音が、遠くから聞こえた。
「春樹」
「ん?」
「大学、決めたのか?」
弟の春樹は今年で高3。受験生だ。
医師でもある両親の想いを継ぎ、医学を学びたいと以前から言っていたが。
ペットボトルを手に戻ってきた春樹は、何故か困ったような笑みを浮かべていた。
「……大学、行ってもいいのかなって」
「なんで」
「お金とか」
「なんだ、そっちの方は心配すんな」
弟は俺と違って優秀だ。1を教えれば10を理解できるほどの明敏な頭脳を持っている。器量も良く性格も穏やかで、誰に対しても分け隔てなく接することができる人柄だ。兄の俺が言うのもアレだが、よく出来た弟だと思ってる。
内向的な部分もあるが、決して短所ではない。春樹の長所は、医学の分野でも十分活かせるはずだ。金の問題で、夢を頓挫してほしくはなかった。
『お金が理由で諦めたくはありません』
……ああ、水森の言う通りだな。
「医者になりたいんだろ」
「……うん、ありがとう」
「早く寝ろよ」
「うん」
「ついでに、ソイツ叩き起こせ」
「え?」
首を傾げた春樹が、ソファーに寝そべっている"奴"の気配に気づき、納得したように頷いた。
3人掛けソファーの上。呑気によだれを垂らしながら、ぐーすかと惰眠を貪る女の子の姿がある。
俺より2つ年下で、春樹とは同い年。
訳ありな事情で居候しているいとこの頬を、春樹の手がぺちぺち叩く。
「もか、起きて」
「……む?」
「こんなところで寝たら風邪ひくよ」
「……むー」
もか、と呼ばれた女の子の眉間に皺が寄る。小さな手をぶんぶんと振り回し、必死に春樹を追い払おうとしている。不満そうだ。
意地でも離れんと言わんばかりに、ソファーに顔を押し付けて動こうとしない。
よだれ拭けよ。
「もか、プリンが待ってるよ」
「…………、ふあ、ぷりん!」
春樹の一言で覚醒し、即座に起き上がる。
小学生かお前は。
「あ、起きた。ほら寝るよ」
「プリンは?」
「プリンはないよ」
「へっ?」
「部屋戻るよ」
「……ふえ?」
無情にもそう告げて、春樹の手がもかの首根っこ掴む。そのままズルズルと引っ張りながら、2人でリビングを出ていった。
随分ともかの扱いが上手くなったな、と感心しながら見送った直後。
「嘘ついたああぁ!」
悲痛な叫び声が聞こえてきた。
階段でぎゃあぎゃあ喚く声を背に、手元のファイルに視線を落とす。一通り目は通したし、水森にとっては大事なファイルだろうから、早めに返却した方がいいだろう。
そう思う反面。
俺はどうしても、気がかりなことがあった。
翌日の社内は、どこも活気で賑わっていた。
おそらく華金が原因だろう。
今日を耐え抜けば、明日から世間は3連休だ。定時上がりに飲みに行く連中もいるだろうし、連休という解放感が、社員達の原動力になっている。かくいう俺も、同僚から飲みに誘われている身だ。
……水森も、誰かと飲みに行くのかな。
「あの」
「はい?」
「水森さんから借りていた資料の件で話があるんですが。本人、いるかな」
「……え?」
3階のオフィスを見渡しても水森らしき姿はなく、近くにいたマーケ社員に声を掛けてみたけれど。
彼女達は何故か一斉に、疑わしげな視線を俺に……、
いや、俺の背後へと向けていた。
「水森さんなら、すぐそこに、」
「え?」
「ここにいます」
「うわっ」
背後から聞こえてきた声に驚いて振り向けば、すぐ真後ろに水森が立っていた。気配に全く気付いていなかった俺の慌てように、周りからは小さな笑い声が漏れている。
一方の水森は、やっぱり今日も無表情で。
「……びっくりした」
「ごめんなさい。私、存在感が薄くて」
「………」
そんな返しを受けたのは初めてだ。
「あのさ、今って忙しい? 昨日の件で話があったんだけど」
「……大丈夫です」
トーンを落とした水森の声は弱々しい。
緊張で強張っているのか、表情も固い。
そんな彼女に内心戸惑いつつ、2人でその場を後にした。
休憩スペースに足を運び、自動販売機で缶コーヒーを2本購入する。
彼女に差し出せば、目を丸くして俺を見返してきた。
「いいんですか?」
「どうぞ。1本じゃ、足りないかもしれないけど」
「……足ります。足らせてみせます。大丈夫です」
「……」
……こんなに信用ならない決意表明を聞かされたのも初めてだ。
壁を背に寄りかかり、プルタブを開ける。プシ、と耳に心地いい音がやけに大きく響いた。
隣に並んだ水森が、いただきます、と謝礼を述べてから口につける。
その様を見届けてから、俺もコーヒーを飲み込んだ。
周囲に人気はほとんど無い。
たまに社員が通り過ぎるだけで、人の賑わいは遥か遠く。
どことなく息苦しいような、ぎこちない空気が流れている。
「ファイルのことなんだけど」
沈黙に耐えられず口を開く。
ぴく、と水森の肩が震えた。
「ごめん、実は家に置き忘れてきたんだ。本当は今日返すつもりだったんだけど」
「え、そうだったんですか」
「来週でも大丈夫? すぐ必要なら、家に行って取ってくるけど」
「あ、いえ。大丈夫です」
慌てて彼女は首を振った。
でもその表情は、まだ強張っていて。
「……あのファイルさ」
「……はい」
「すごかった。俺は、ていうか誰もあんなこと、調べてもいないだろうし考えてすらいないと思うから。水森の着眼点にびっくりした。読んでて興味深かったよ」
「………」
「でも、今は俺以外の社員には見せない方がいいかもしれない」
それは忠告というより、彼女の身を案じて出た言葉だ。
アジュールは基本的に大卒者のみを採用している。高卒者を採用したのは昨年、つまり俺達が初めてらしい。俺と水森を含めて、確か5人いるはずだ。
ちなみに今年の採用者はいない。
つまり俺達に、まだ後輩はいない。周りは大卒の先輩だけだ。
一番立場が弱い下の人間が、上の人間に意見を主張するのはいささかリスクを伴う。
水森もそれをわかっていたから、上司でも先輩でもなく、同期の俺にファイルを見せてくれたのかもしれない。
「……気、悪くしましたか?」
「いや? 俺は全然」
「……よかった」
水森は安心したように胸を撫で下ろしていた。ファイルの内容が内容なだけに、ずっと不安な気持ちで苛まれていたのだろう。心の底からホッとした様子が、その表情からも読み取れた。
もし数年後にあのファイルを見ていたら、何か思うことはあったかもしれない。
でも今の俺はまだ、自分のことで精一杯な状況だ。営業とマーケの関係性なんて考える余裕も無い。何も染まっていない今だからこそ、あの問題を提示されても不快感を抱くことはなかった。
それよりも、別に気になったことがある。
「水森、悩んでる?」
「え?」
「あのファイルの中身を見たら、何か抱え込んでんのかなって思ったんだけど。違ったらごめん」
水森がどうして、営業とマーケの問題を調べているのか。
俺にファイルを見せて、どうしたいのか。
それが一番の気がかりだった。
たった一人であの情報をかき集めていたのは、人には安易に話せない特別な理由があるはずだ。
そう問い掛ければ、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「……たまに、ですが」
「うん」
「営業のやり方に、不信感を抱く時があります」
「……え」
その発言に、多少なりとも驚く。
俺自身はマーケの部署に不信を抱くようなことは一度も無かったし、気にすることもなかった。
けれど彼女は、営業側に不信を買っていると言う。
その発言の意味するところは。
「問題視する程のものではないんです。ただ、気になる事があって」
「うん」
「引き継いだ筈の情報のいくつかが『要らないもの』として認識されてしまったり、引き継いだ後の顧客状況が、マーケに伝わってこない時があって」
「……え、そんな事ってあるのか?」
にわかには信じ難い話だった。
何故ならマーケの役割は、『売れる仕組み』を考える事だからだ。商品開発に先立ち、情報収集に市場調査、顧客データの分析や解析など、社内ブレーンとして多様な役割を果たす機会が多い。
だからマーケは営業に情報を引き継いだ後であっても、顧客の状況を把握しておかなければならない。その為には常日頃から、営業社員との情報交換が必要になる。
ネット媒体やSNSが普及しデジタルマーケティング化している昨今、営業よりもマーケターを重要視する企業も増えている。故に、マーケティング情報は膨大な量になった。
それらの情報量を各部門で共有・管理できなければ、高い成果なんて見込めるはずがない。
「営業は短期間での成果が求められるので、質のいい情報以外は削りたい、そう思う気持ちはわからなくはないです」
「……」
「でも私達は、情報を武器にマーケティング戦略をしています。それを無いものにされるのは……やっぱり、少し複雑です」
「……だよな」
水森の意見は最もだ。彼女だって高いプライドを持って、仕事と誠実に向き合っているんだ。自らの持つ情報を活かして成果に繋げて欲しいから、だから営業社員に貴重な情報を託している。その思いを適当に扱われたら、誰だっていい気分はしないだろう。
営業とマーケは、業務内容も求められるものも全然違う。
けれど、目指すべき目的は同じ場所にあるはずだ。
"顧客に自社商品やサービスを伝え、成約に繋げること"
その為に、営業とマーケは存在している。
どちらも必須で、どちらかが欠けることはあってはならない。
でも実際は、互いの業務を理解し合おうとしなかったから確執が生まれてしまった。
「情報共有と、相互理解か」
「そういう環境づくりが私達には必要だって、個人的には思っているんですが……その、」
彼女らしくない、歯切れの悪い言い方だった。その先に続く言葉を、俺に伝えようか止めようか、躊躇している様子が垣間見える。
そこで、やっと気付いた。
水森が今、何を言いたいのか。
あのファイルを俺に見せて、何を伝えたかったのか。
今までの話の流れから推測しても、その答えはひとつしか思い浮かばなかった。
「……環境づくりか。難しいよな」
「……はい」
「社員の意識を変えるなんて、ひとりで出来るものじゃないし」
「……」
「かと言って後輩の俺らが、変に出しゃばる事もできないしな」
「……でも、何かキッカケがあれば」
キッカケ。
社員の意識を変えざるを得ない、何か。
「だったら、
俺と組もう、水森」
はっきりと告げれば、彼女の纏う空気が変わる。俺を見上げた水森の目が、驚きで見開いた。
けれど瞳の奥にある光は、確かに揺ぎ無い期待感で満ち溢れていた。