「あの。ご連絡先、教えて貰ってもいいですか? お礼がしたいです」

 その一言にハッとする。
 どうしてこの時、自分の名前を名乗ってしまったのか。今頃になってそう思った。

 今日初めて会った相手。
 彼女が何者で、どこで働いていて、どこに住んでいるのかも全く知らない。
 今後会うこともないだろう人間に、名乗る義理などない筈で。

「いいよそんなの。大した事してないし」
「でも、それだと私の気が収まりません」
「ほんとにいいって」
「じゃあ、せめてお代だけでも」
「200円程度だし。いいよ、ほんとに」

 営業用の、下手くそな笑みを浮かべながら手を振る。そこまでしてもらう理由が俺にはないから断った。
 立派な人助けをしたとは思ってないし、自分がした事に対する見返りも報酬も求めていない。彼女の誠意は素直にありがたいとは思うが、俺が必要ないと思っている以上、彼女の言葉はありがた迷惑でしかない。

 何より、女性に対して苦手意識を持っている俺としては、これ以上彼女と関わり合いを持ちたくなかった。
 関わる必要があるとも思えない。
 もしこの先、どこかで偶然彼女を見かけたとしても、声を掛ける事もしなければご飯を与えることもしない。徹底的に知らない振りを貫き通すだろうから。


 幸いにも、彼女は空気の読める子のようだ。口に出さずとも、俺の真意は彼女に伝わったらしい。そうですか、と素直に引き下がってくれたお陰で、後味の悪い思いをせずに済んだ。人間、いつでも引き際が肝心だ。

「もし、また再会する事があったら、その時はお礼をさせてください」
「ああ。その時は一緒にご飯でも」
「はい」

 今交わした口約束はきっと果たされない。
 道端で困っていたから助けただけの相手と、また再会する確率なんて、偶然でも起きない限りゼロに近い。それは彼女自身も理解しているだろう。

 だからあえて、「再会した時は」なんて仮定を彼女は口にした。
 このぎこちない雰囲気を変える為だけの言い回し。社交辞令。
 そして俺も軽く応えた。

 会話の流れを変えてくれたお陰で、気まずさの残った場の空気が軽くなる。彼女の誠意を拒否した俺が罪悪感を抱かないように、うまく機転を利かせた彼女の気遣いが、気さくな言葉の端から感じ取れた。

 思わず感心を抱く。
 苦手だと思っていた異性への意識が、少しだけ薄れたような気がした。

 ……なんだ、いい子じゃんか。


 血色を失っていた彼女の頬は、薄く赤みがさしている。顔色も悪くない。
 一時はどうなるかと思ったが、お腹が満たされた事で体調も元に戻ったようだ。

 目的地まで車で送ってあげようかと思ったが、その目的地はすぐ近くなので、そう言って彼女はその場を後にした。
 最後に俺を振り向いて、頭を下げてくる。
 律儀な子だな、そう思いながら軽く手を振って応えた。
 俺もいい加減、会社に戻らないと。

 というか、結局何も食べていなかった。

「………」

 遠くなっていく後ろ姿を見て。
 ふと、疑問を抱く。

 一般企業の定時時刻は、基本17時と決まっている。
 今はまだ16時半。定時前だ。
 会社の人間が帰宅できるような時間帯じゃないのに、あの子はどうして、こんなところにいたのだろう。

「……いや」

 そこまで考えて、頭を振る。
 そんな事を考えたところで意味は無い。
 もう会う事も無いだろう他人の事を考えたところで、どうしようもない。
 俺には、全く関係の無いことだ。






「……やっぱり、お礼してもらえばよかったな」

 誰ともなく呟く。
 密かに湧いてしまった彼女への興味は、それまでの思考と共に放棄した。





 もう会うことは無いだろう。
 そう思っていた彼女に、再会した。
 空腹で倒れていた彼女を助けた、その翌日の朝に。

 出社前。
 自社ビルのエントランス。
 奥にあるエレベーター前に、彼女はひとりで立っていた。

 腕にはピンクのショルダーバックと、昨日と同じトレンチコートを抱えている。着ている制服は、アジュールで指定されているものだった。

「……まじか」

 昨日の、彼女の格好が脳裏に浮かぶ。コートの襟元から覗く制服は、うちの会社のものだったのか。全く気付かなかった。
 そもそも女性社員の制服デザインなんて、どこの会社も似たり寄ったりなものばかりだ。まさか同じ会社の人間だとは夢にも思わない。

 どうする、と思考を急かす。
 また偶然会ったとしても関わらない、そう決めていたけれど、同じ会社の人間ならそうもいかない。
 何より「また会えるなら会ってみたい」、密かに抱いてしまった彼女への興味が、頑なだった意思を揺らぎ始めていた。

 異性と深く関わりたくない。
 そう思っていたはずなのに。

 立ち尽くしたままの俺の横を、同じように出社してきた社員が通り過ぎていく。
 なのに俺の足は一歩も動かない。
 小さな後ろ姿から、目が逸らせなかった。

 けれど彼女も鈍くはないようで、自らの背中に注がれる視線に感付いたらしい。その視線の矛先へと、顔を向けた。当然、その矛先は俺だ。

 ぱちり。
 彼女と目が合う。
 大きな瞳がぱちぱちと、瞬きを繰り返す。
 あっ、と開いた口がそう発するのが、遠くからでもわかった。

 ポン。到着を知らせるエレベーター音が、その場に静かに鳴り響く。
 当然のように開かれた扉に、けれど彼女は乗り移らなかった。
 くるりと方向転換して、艶やかな茶髪をなびかせながら俺の方へと駆け寄ってくる。顔は昨日と同様、無表情に近い。

 そういえば、笑った顔を見ていない、気がする。

「キリタニさん。おはようございます」
「おはようございます」
「同じ会社の方だったんですね」
「そうみたいですね」
「びっくりです。こんな偶然ってあるんですね」
「俺もびっくりしてます」
「あの。途中までご一緒してもいいですか」
「いいですよ」

 断る理由など無い。
 俺は素直に頷いた。
 敬語に直したのは、彼女が同じ会社で働く先輩かもしれないからだ。

 共に並んで歩き出す。
 既に別の階へと稼動していたエレベーターの到着を待つ間、改めて自己紹介を交わした。


 彼女―――
 水森さやかは、俺と同じ時期に入社した子だった。
 つまり同期。
 先輩ではなかったようだ。

 アジュールには3つの部門があり、俺は営業部門に所属している。彼女はマーケティング部門で、役割的には近い位置にいる。マーケの人間と情報交換する機会も多い。

 とは言え、俺も彼女もまだ駆け出しだ。大掛かりな案件を任せられる機会はほとんど無く、企画課や開発課と組んだことは一度もない。
 更に言えばマーケは部署の数が多く、役員数も営業に比べたら遥かに多い。
 つまり、彼女と接する機会は現時点ではほぼ無い、ということになる。
 社員数がそこそこ多い会社で彼女の存在を知らなかったのは、ある意味、仕方ないとも言えた。

 昨日、あの時間帯に住宅地を歩いていたのも、彼女がマーケの人間だと知れば納得がいった。

 俺は営業職で外回りの仕事が大半だが、マーケは基本、デスクワーク型だ。
 けれど常に変動していく市場のリサーチやログ解析、市場の構造やターゲットをより正確に描く為に、外へ出向き直接足を動かすことも多い。彼女があの場にいたのも、恐らくそういった理由なのだろう。

 ……空腹で倒れていた件については、目を瞑る。

「昨日は、本当にありがとうございました」

 そう言って、彼女は深々と頭を下げた。

「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。すみません」
「おにぎり、ひとつで足りたの?」
「足りませんでした。あの後、牛カルビ特盛り弁当を3つ食べました」
「……3つも」
「はい」
「すごい食べるんだね」
「私にとっては普通なんですが」

 真顔で言う。
 たまに発言がおかしい。
 何だろう、妙に面白い子だ。

 到着したエレベーターに乗り込んで、3階と4階のボタンを同時に押す。
 俺と彼女以外、エレベーターに同乗した人間は誰もいなかった。

「……あのさ。昨日の事なんだけど」
「はい」
「ご飯でも一緒に、って言ってたヤツ。今日、どうかな」

 自然体を装って誘ってはみたものの、実のところは緊張していた。


 昔から異性が苦手だった。
 どこがどう苦手なのかと聞かれても、うまく言えない。強いて言うなら、会話が噛み合わない、執着が激しい、面倒くさい。そんなところだ。

 だから必要以上に話しかける事もしないし、プライベートで関わる事も基本しない。食事に誘うなんてもってのほか、だ。
 その俺が、まさかこうして異性を誘う日が来るとは思わなかった。自分の発言に、自分が一番驚いている。

 彼女に対して苦手意識は全く抱かなかった。

 昨日交わした会話の中で、彼女の機転の早さと聡明さを目の当たりにした。
 その時胸に抱いたのは、嫌悪感ではなく好奇心。
 女の内面にある苦手な部分、それを、彼女からは何ひとつ感じなかった。
 そればかりか、もっと話してみたい、仲良くなってみたいという気持ちが俺を突き動かしている。

 それに、マーケの人間と情報を共有できるチャンスでもあるから。

 ……まあ、これは完全に言い訳だな。

「もちろん大丈夫です。是非、お礼させてください」
「お礼、とかじゃなくてさ。ただ一緒にご飯を食べに行こうって話」
「なるほど。ご飯仲間ですね」
「え? あ、うん。それでいいけど」

 お礼とか、かしこまって欲しくない。
 お礼されて当然だとも思っていない。

「あ。着いたので、わたし降りますね」
「うん。仕事終わったら1階で待ってる」
「はい。17時ですね。楽しみにしてます」

 3階でエレベーターを降りた彼女は、扉が閉まる寸前、また俺に向かって頭を下げた。
 この光景は何度目か。
 その礼儀正しい姿に、更に好感を覚えた。

「……マーケ部門の水森さやか、か」

 大食いで、ちょっと天然入っていて。
 けど幼い見た目とは裏腹に賢い。
 なぜかいつも無表情の、礼儀正しい女の子。

 ……変わった子だな。
 普段からあんな感じなんだろうか。


 彼女の事をもっと知ってみたいと思った。
 結局その日は仕事中も、水森と名乗ったあの子の存在が気になってしょうがなかった。