マスターと桜が通っていた時よりも机は明らかに少なくなっている。

 マスターには、しっかりと座席が見えている。
 そして、床に一滴の水が・・・。

「桜。悪いな」

「話は終わったのか?」

「あぁ」

 マスターは、こめかみを指で叩く。頭痛がしているわけではない。

「安城。癖は治らないのだな」

「癖?」

「ん?気が付いていないのか?」

「あぁ」

「そうか・・・。お前は、困ったことがあると、こめかみを叩く」

「そうなのか?」

「だから、美和とか、由紀が・・・」

「朝日さん?」

「そうだ。お前が、こめかみを叩いていると、必ず俺が何かをしたのかと、俺に聞きに来た」

「そうなのか?」

「卒業式の時にも・・・」

 桜は、言葉を紡げなかった。
 マスターと桜だけではなく、いろいろな人が巻き込まれた。桜の子供っぽい正義感。

 二人の時間は・・・。

「・・・」

 マスターの表情が全てを物語っている。

「すまん。失言だった」

「いいさ。桜。俺は忘れない」

「あぁ。俺も、忘れない。でも、シマちゃんの言葉が、ある一面では正しかった。俺は、子供だった」

「そうだな・・・」

「安城。そこは、否定する所じゃないのか?」

「否定されて喜ぶような奴なら、否定している」

「・・・。そうだな」

 桜が、古い。本当に古い腕時計を見る。

「お前・・・。その時計・・・」

「修理が大変だ」

「ははは。そうだな。俺が持っている時計も修理をしてくれるか?」

「いいぞ。修理費は高いぞ」

「いいさ。時間か?」

「そうだな。待たせても怒る奴は・・・。ヤスは、怒り狂うか?」

「そうだ。ヤスよりも、ツクモじゃないか?」

「そうだな・・・」

 二人は、会えなくなってしまった3人の姿を探して教室を見回す。
 桜が開けた窓から、風が吹き込む。

「シンイチが急がしているみたいだ。安城」

「わかった」

 マスターは、黒板の前に立ってから教室を見回す。

 マスターの目には、騒がしく懐かしい情景が見えている。そこには、桜を追いかける自分の姿。桜に手を振る女性。そして・・・。
 全てが幻だ。マスターが大切にしている記憶だ。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

「安城」

「わかった」

 教室の後ろに回って、扉を開けてから深々と頭を下げる。
 今度は、マスターの足下には、数滴の涙の跡が残されていた。

 頭を上げたマスターの目には、少しだけ古くなった教室だけが映っていた。

 桜は、教室と廊下の窓を閉めた。動いていた時間が、また止まった。

 同じ道順で校舎を出て、男が待つ車に戻った。

 マスターが助手席に黙って乗り込む。
 男も黙って運転席に座る。桜が駐輪場からバイクに乗ってきた。二人が乗っているType-Rの運転席の窓ガラスを軽く叩いた。

「道はわかるのか?」

 男は、桜の問いかけに首を横に振る。

「桜。先導してくれ、道は解るが、車で行ったことがない。それに、道も変わっているだろう?」

「そうだな。わかった。着いて来てくれ」

「はい」

 男が返事をしたので、桜は走り出した。

 学校の門を出て右に曲がって、すぐを右に曲がる。そして、すぐに右に曲がって、まっすぐに進む。いくつかの交差点を通過して、上り坂を登って、神社の横を通り過ぎてから、道なりに進む。学校を左に見ながら、まっすぐに進む。みかん畑の間を突っ切るような道を進んだ。複雑な五差路を山側に進路を取る。そのまま、山に登っていくと、徐々に民家も少なくなった。

 そして、清流と呼べるような川が見える場所で、バイクが止まった。

「マスター?ここ?」

 マスターは首を横に振ってから、男に待っているように告げる。

 後部座席に置いていた花束を持ち出して、桜の所まで移動する。

 そして、マスターは花束を桜に渡して、自分は跪いて、深々と頭を下げる。
 桜は受け取った花束をバラバラにしてから、清流に投げる。そして、煙が立ち始める線香をマスターに渡した。

 二人で、線香を土に立ててから祈り始める。

 男は、桜とマスターの儀式を見守っている。
 そして、男は”バーシオン”のカウンターに飾ってある古い写真を思い出した。

(ここが・・・)

 マスターの膝に付いた土を桜が払っている。

 車に戻ってきたマスターは、黙っている。男も無理に聞こうとは思わない。桜のバイクが走り出したので、慌てて追いかける。

 民家は無くなっている。片道一車線の・・・。
 一車線というのも烏滸がましい山道だ。運転のミスで崖に落ちることはないが、ガードレールや岩に当たるくらいには狭い道が続いている。

「ねぇマスター?」

「なんだ?」

「彼?警察官だよね?」

「辞めていなければな」

「いいの?」

「何が?」

「制限速度を越えているよ?」

「気にするな。ここからなら俺も記憶している。遅れても大丈夫だ」

「(そうじゃないけど・・・)」

「なんだ?」

「何でもない。ゆっくり走る」

「あぁ。ここからは、道なりだ。キャンプ場という案内が出るはずだ」

「わかった」

 桜から遅れること10分で、キャンプ場に到着した。

「マスター。待っているよ」

「悪いな」

「いいよ。今度、何か飲ませてよ」

「わかった。”カンパリソーダ”と”ギムレット”のどちらかを選べ」

「そりゃぁないよ」

 マスターは、男の言葉で、こめかみを指で叩いてから、ドアを開けた。
 もうマスターには、目の前に居る者たちしか見えていない。

 本来なら、その場に居るはずの者たちも、現在の姿で立っている。

「松原さん。克己。待たせた」

「本当よ。安城君。何年、待たせるのよ」

 女がマスターの言葉に返事をしている間に、克己と呼ばれた男は、安城に歩み寄ってから手を差し出した。
 マスターは、差し出された手を見てから、克己の顔を見て・・・。ゆっくりとした動作で手を握った。

幸宏(ユキ)

「・・・」

 先に歩いていた桜が振り返って、3人を呼ぶ。

「安城。克己。美和!」

 二人が、手を離したのを見てから、美和と呼ばれた女が、手を叩いた。

「再開の挨拶も終わったから、移動しよう」

「ちょっと待ってくれ、奴らに・・・。お前たちにも飲ませたい(カクテル)がある」

 マスターは、3人に断りを入れてから、運転席に座っている男に後ろを開けるように合図する。
 買ってきた物を取り出す。クーラーボックスに入れて、しっかりと冷やしている。

「アルコールが入っているのなら、桜は飲めないな」

「いいさ。俺は、今度、安城の店(バーシオン)に行く。俺だけ、除け者にするのだから、いいよな。安城」

「えぇそれなら私も行きたい。ねぇ安城君、いいよね?」

「・・・」「美和はダメだ。安城の店(バーシオン)は、一見さんはお断りだ」

「えぇそれなら・・・」

 美和が、何か言いかけて辞めた。
 桜が、既に歩き始めているのが見えたからだ。

 4人は、会話を必要としていない。離れていた時間を埋めるのは言葉ではない。

 4人の目的地が見えてきた。

「桜」

 克己が、前を歩いていた桜に呼びかける。

「ちょっと待て」

 桜は、持っていた地図を取り出して、紫陽花の根本を指さした。

「ここだ。許可は取ってある。掘り返しても大丈夫だ」

 マスターが、克己からスコップを受け取る。
 克己が手伝うというのを、マスターが手で制した。マスターが一人で掘り返し始めた。

 それほど深くは埋めていなかったのだろう。
 10分で目的の物が見つかる。

 錆びた缶を開けると、梱包材に包まれて、さらにビニールで何重にも包まれた箱が出て来る。

 マスターは、掘り起こした缶から宝物を取り出すように、箱を取り出して、丁寧な手つきで、ビニールを外した。

 箱には、錠前が3つ付いている。
 一つの鍵には、持ち主を示す名前が書かれている。

「安城君。鍵は持ってきた?」

「あぁ桜は、持ってきているな」

「もちろん、もう一つの鍵は、俺が預かっている。誰も受け取りに来なかったからな」

「そうか・・・」

 桜は、二つの鍵を取り出して、札が付いた鍵をマスターに投げる。

「お前が」「解った」

 札には、”井原聡子-鍵”と書かれていた。

 マスターは、自分が持っていた鍵と受け取った鍵を使って、錠前を開ける。

 ”カチリ”という音と共に、錠前が開けられた。

「桜」

 マスターが、桜の名前を呼んだ。

 桜は、残っていた錠前に鍵を刺してゆっくりと回す。

 錠前が開けられた。
 マスターが振るえる手で箱の蓋を開ける。

 中には、懐かしい物が入っている。

 最初に目に入ったのは、二人の女子生徒と6人の男子生徒が笑顔の写真だ。
 そして、写真の下には、”卒業文集”と書かれた物が置かれていた。

 マスターは、皆に飲ませようと準備していたカクテルを作り出す。

 マスターのシェイカーを振る音だけが聞こえてくる。

 シェイカーの音が鳴りやんだ。
 一度では、人数分を作るのは不可能だ。最初は、この場に来るはずだった者たちの分として、用意していたグラスに注いでいく。

 待っていた3人にカクテル・・・。テネシー・クーラーを注いだグラスを渡す。

 そして、最後に一人前の量を作ってから、二つのグラスに均等に注ぐ。

 美和が用意した。古い。古い。2着の女子が着る制服に向かって、皆が頭を下げる。

 皆が同じような動作をする。

『献杯』

 そして、桜を除く3人が一気にカクテル(テネシー・クーラー)を煽る。

 桜は、自分の持っていたグラスを、制服の前に持っていって、”お前の分だ。喜べ、安城が、幸宏が作った”と呟いてから、制服に掛からないように、カクテルを眼下に広がる町並みに振りかけた。

「安城。これは、お前が持っていけ」

 桜が、二つ折りになっている紙をマスターに差し出す。

「え?」

「他は、お前には渡さない!いいな」

 克己と美和は、桜の宣言を聞いて驚いた。話し合いで、マスターに全部を渡す事になっていた。

 マスターは、紙を受け取った。
 見覚えのある字で、”安城幸宏君へ”と書かれていた。

「桜!」

「中は見ていない。お前宛てだ。他は、必要ないだろう?」

「・・・。あぁ」

 片づけは、美和と克己がすると言い出した。
 クーラーボックスと中身も、桜が持って帰ることになった。

「安城君!」

「・・・」

「あのね。聡子が」「松原さん。それは、俺が聞いても・・・。でも、ありがとう。ごめん」

 美和は、マスターが知りたいと思っている話を、切り出そうとした。

 今は、”まだ”聞けない。マスターは、桜から宝物を貰った。今の自分には、”この紙”以上に価値がある物はない。そんな思いから、美和の話を遮った。

「桜」

「あぁ」

「克己」

「・・・」

「松原さん」

「何?」

「・・・」

 マスターは、俯いてから、まっすぐに3人を見る。3人と一緒に居るはずだった者たちを見る。
 自分が、あの輪の中に入れないことを嘆くつもりはない。

 懐に大事にしまった紙を触る。
 指先から熱が伝わるように感じている。

「桜。克己。美和さん。また、店が休める時に、遊びに来る」

 マスターの言葉を受けて、3人は笑顔で了承する。

 桜が、マスターの所に歩み寄る。

「皆。先に帰る」

 安城が拳を握って桜に差し出す。

「わかった。またな。安城!」

 桜も同じ形の手をして拳を合わせる。

 中学生の頃に、よく皆でやっていた別れの儀式だ。

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 車に戻ったマスターは、何も言わないで助手席に座る。
 マスターが座ったことを確認してから、車が動き出す。

 男は、何も聞かない。
 マスターも、何も話さない。

 近くのインターから高速に入る。

 マスターは、高速に入ってから、懐にしまった紙を取り出す。

 そこには、少しだけ丸い文字で、マスターが学生の頃に好きだと言っていた色のペンを使って、言葉が綴られていた。

”・・・・安城君。このタイムカプセルを開ける時に、安城君が誰とも結婚していなかったら、私と付き合ってください。こんな返事しかできなくて、ごめんなさい。でも、私・・・。安城君の事が好き。でも、私は・・・”

”井原聡子”

 Type-Rのエンジン音が、マスターの慟哭を消していた。