「――何かあったの?」

 涼香は問いかけてから、引き戸の向こうに意識を集中させる。
 紫織の気配は感じる。
 だが、微かな物音でさえ聴こえない。

 しばらく、黙ったままで辛抱強く反応を待つ。
 すると、意を決したように、「――うん」と小さく返答が戻ってきた。

「何かあった、とゆうのとも違うけど……、ちょっと、上手く説明出来ないってゆうか……」

 多分、伝えたいことが伝えられないことに、本人が一番もどかしさを覚えているに違いない。

 紫織の気持ちを何となくでも察した涼香は、「今はいいよ」と穏やかな口調で告げた。

「まだ夜は長いんだしさ。あとでゆっくり話そう? 私も紫織に話したいことがあったし」

「うん」

 短い返事だったが、安堵していると涼香も分かった。

「ごめんね。それじゃ、ごゆっくり」

「はいよ。またあとで」

 そう言うと、パタン、とドアの閉まる音が聴こえた。
 今度こそ、紫織の気配は完全に消えた。

 涼香は引き戸から湯に視線を移し、両手でそれを掬い上げては、ゆっくり傾けながら少しずつ戻してゆく。

(紫織の悩みどころは、彼だろうな……)

 涼香は朋也と、顔を見たことがないもうひとりの男性の背中を同時に思い浮かべる。
 朋也と年の離れた兄であるその男性は、今は紫織の恋人だ。
 もう、事実上は婚約者と呼んでもいいぐらいかもしれない。

「板挟み、ってやつか……」

 涼香はひとりごちると、両手で掬った湯を今度は自分の顔にかけ、そのまま手で拭った。
 これこそオヤジ臭い仕草だな、と思わず自分で自分に苦笑いしてしまう。

「馬鹿みたい……」

 不意に出た言葉は、自分に向けたものだったのか、それとも違うのか。
 涼香自身も分からなかった。