彼女は思った。
こりゃまあ鹿だ。馬もちょっと入っている。
今し方、路上でうっ○―わを口ずさんでいたら、生まれて初めて通りすがりに馬鹿と言われた。
まあ確かに馬鹿と言われて良い気はしないが、白昼堂々市街のど真ん中で音程の狂った歌など披露していたら、まあ誰かしら何か言われる。
藪を突いて蛇が出るのは運だとしたら彼女が突いたのは巣だ。虫の巣。
「あー、かったりいー。事件でも起きねーかな! そうすりゃしばらくネタ(写真)マスコミに売りつけて遊べるのにい!」
交差点の手前。肩まで伸びた黒髪の女子高生が車のサイドミラーに映っている。横にぴょんとはねた癖毛はただの寝癖だが、幾つもあるせいかある種のファッションに見えなくもない。
個性的なライトブラウンの制服も着崩し気味で不良ぽさがあり、顔立ちも可愛いと美人の中間くらいの部類に入る。
遊んでる雰囲気は出てるだろう。
実際のところ彼女、野倉野々はこの三日間遊び呆けている。
学校側には病気の家族の看病と伝え、家族にはそもそも言ってない。
初日は適当に見つけた暇人(通行人)とカラオケ屋でアルコール入れて殴るように奇天烈なシャウトを朝まで続けてストレスを発散した。
翌朝から次の日まで町中をぶらぶらしては電車内で見つけた痴漢に目をつけ証拠をぶら下げて恐喝まがいにフレンチを奢らせたりした。
階段の下で覗き魔を発見した日には交渉と称して一日中奴隷にして使いっぱをやらせたりして遊んでいたが、白昼堂々と交番の前を制服で歩いていたら勤務中の警察に職質と称してナンパをされた。
断ったらこっそりつけていたらしい。なんとなく大人っぽい用語で無理矢理車に連れ込まれそうになり、あれを盛大に蹴り上げて逃げ出したりした。
後々ネットニュースになっていたが一日で風化したのはこれ幸い。
しかしどうにも肩が重い。
頭も重いし身体も重い。
三日目は一日中簡易ホテルで枕に唾液をつけていたらしく起きた時には夕方だった。
だからさっきから夜のテンションで歌っていたわけだ。
もちろんそんな事はどうでもいい。
野々は信号が変わる前に歩き出す。
目の前には車の応酬。
行ったり来たり、足の踏み場もない。
「私も美兎の元に」
ざあっと何かが流れるような音がした。
死ぬ間際に人は音が鮮明に大きくなるらしい。
足を踏み出し駆け出した。
瞬間大きな音に叫び声が混ざる。
急ブレーキと人の声。
慌てて出てくるドライバー。
「おいおい冗談じゃねえよ!」
しかしでてきたドライバーがキョロキョロしている叫び声もやがて冷静にあれ、とトーンが落ちる。ざわざわとしたノイズが興味もない大多数に飲まれるように消えていく。
「まっそりゃそうよね」
ビルの屋上。さっき跳ね飛ばされたはずの交差点の向かいの真上から、野倉野々は髪をかき分けた。
「まだ死ぬ気ないし」
ぷっと可愛く吐いた笑い。
さっきの悲鳴は誰の為か。
ドライバーが出てきたのは誰の為か。
「偽善者乙―。やっぱ私はまだアイツが死んだって信じたくないから」
だから死なない。
言葉を飲むと目を閉じてどこから帰ろうか思案した末に、コンコン音を立てながら非常階段を降りていった。