四章
夢を見ていた。
ヒラヒラと花びらが舞う美しい光景。
一年中咲き誇る鬼龍院本家にある桜の木。
柚子はそこに立っていた。
舞い散る桜をぼうと見ていると、声が聞こえてきた。
『……こ……に』
よく聞こえないその声に耳を澄ませる。
『……をここに』
それは澄んだ女性の声だった。
その声は桜の木の下から聞こえてきていた。
柚子は地面にしゃがみ込んで桜の木の根元に手を乗せる。
「そこにいるの?」
『あの……を、ここに』
「なに? よく聞こえない」
不思議と恐いという感情は浮かんでこなかった。
まるで電波の悪い電話のように聞き取りづらかったけれど、その声の主がひどく怒っていることはなんとなく伝わってきた。
『……ここに』
その時、ぶわりと視界を覆い尽くすほどの桜の花びらが舞い、柚子は思わず顔を手で防いだ。
「ひゃっ」
『……を、ここに連れて……』
微かに聞こえたその言葉。
「ここ? 連れてくるの? 誰を?」
しかし返事はない。
そして、桜の木は桜の花びらに覆われるようにして消えていった。
そこではっと目が覚める。
薄暗い中でゆっくりと体を起こすと、そこは柚子の自分の部屋であった。
「夢……だよね?」
そのわりには随分と現実味のあった夢だった。
夢の内容もよく覚えているし、まだ心臓がドキドキとしている。
「あれって鬼龍院本家の桜だよね……」
ぶつぶつとひとりごとを言っていると、足下で猫たちと寝ていた龍が目を覚まして寄ってきた。
『どうしたのだ? まだ起きるには早いぞ』
「ごめん。起こしちゃったね。なんか変な夢見ちゃって」
『変な夢?』
「あー、気にしないで。ただの夢だし」
そうは言うものの、柚子はあの光景が頭から離れない。
『どんな夢だったのだ?』
「気にしないで。寝てていいよ」
『そういうわけにもいかぬ。忘れたのか? 我が最初に柚子に接触を図ろうとしたのも夢の中だ』
「……そう言えばそうだったね」
『神子の力が発現している柚子の夢は、ただの夢と捨て置けるものではない。おかしいと思ったのなら話してみよ』
そうこうしていると、寝ていたはずのまろとみるくまで起きてきてしまった。
その時、龍がなにかに気付く。
『柚子、髪になにかついておるぞ』
「えっ?」
言われるまま髪を手で梳くと、はらりと髪からなにかが落ちた。
布団の上に落ちたそれを手に取る。
「これ、桜の花びら?」
夢と現実が交差する。
『なぜそのようなものが』
龍が不思議がるのも無理はない。
この屋敷には桜の木は存在せず、そもそも桜の咲く季節はとうに過ぎているのだから。
「夢と関係あるのかな」
『どんな夢を見たのだ?』
「私も上手く説明できないけど、桜の木が出てきてね」
『桜の木?』
「うん。たぶんあれは本家の裏に咲いている桜の木だったと思う」
木の違いが分かるほど植物に詳しいわけではないが、あれほど大きく不思議な力を感じる桜を他に知らない。
「その桜の木の下から声が聞こえてきたの。女性の声だった。でも、なにを言ってるか分からなくて、そしたら目が覚めたの」
『ふむ……』
龍は柚子の言葉を聞いて一生懸命考えているようだ。
「よく分からない夢でしょう?」
『そう断言するのは時期尚早だ。今この時にそんな夢を見るなどなにか意味があるのかもしれぬ』
「どんな意味?」
『うーむ。それは我にも分からぬが』
「分からないんじゃどうしようもないじゃない」
『うっ……』
龍は正論を言われてたじろぐ。
『だ、だが、きっとなにかあるはずなのだ』
「そのなにかが分からないんだから、気にしても仕方ないよ。もうひと寝入りしよう」
柚子は龍を放置して布団の中に潜り込んだ。
まろも大きなあくびをして先程まで寝ていた場所に寝転ぶと、みるくもその後に続いて寝に入った。
龍だけが取り残されたが、意地があるのか、ずっとうーんうーんとうなり続けていた。
おかげで目覚ましが鳴って起き出した時には全員そろって寝不足だ。
まろとみるくは気にせず丸くなって寝ているが、大学に行かねばならない柚子はそういうわけにもいかない。
名残惜しく布団から抜け出した。
朝食の席で大きなあくびをする柚子に玲夜が気付く。
「どうした、寝不足か?」
「うん。ちょっと夢見が悪くて」
再びあくびをすると、柚子の腕に巻き付いている龍までもが大きなあくびをしていた。
「あらあら、ふたりしてお眠のようね」
クスクスと笑う祖母は、あっとなにかを思い出したようだ。
「そうそう、柚子に言っておくことがあるんだったわ」
「なに?」
「お家のリフォームが完成したようなのよ。だから準備が整ったら私たちはお暇するわ」
「えっ、もう?」
柚子はひどく残念そうな顔をした。
一時的なことだと分かっていたが、祖父母がこの家にいてくれるのが嬉しくてならなかったのだ。
また別々で暮らし始めたら会いに行く機会はぐんと減るだろう。
それが分かっているので落ち込んでしまう。
分かりやすくしゅんとなる柚子に、祖父母は優しい笑顔を浮かべる。
「今生の別れというわけでもないだろう」
「そうですよ。いつでも遊びに来たらいいわ」
「……うん」
そうは言われても、おじいちゃん子おばあちゃん子の柚子には寂しくて仕方ない。
「新しい家の完成を祝って、近所の人を呼んで小さなお祝いをするんだけど、柚子も来る?」
「行きたい!」
身を乗り出して食い気味に返事をする柚子は、恐る恐る玲夜を見る。
「行ってもいい?」
外出には玲夜の許可は絶対だ。
玲夜が現在優生のことを警戒しているのは分かっていたが、ここで駄目だと言われたら泣く自信がある。
そんな気持ちで玲夜を窺うと、仕方なさそうに溜息を吐いた。
「ちゃんと子鬼たちを連れていくんだぞ」
「うん! ありがとう」
柚子はぱあっと表情を明るくして満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、行って来る」
「いってらっしゃい」
いつものように仕事に行く玲夜を見送る柚子の頬にキスをして玄関を出て行こうとした玲夜は、不意に足を止め振り返った。
「そうそう。柚子が応募していたインターンの申し込みは全て辞退しておいたからな」
「えっ……」
固まる柚子を置いて、玲夜はさっさと仕事に行ってしまった。
残された柚子は、その場にがっかくりと膝から崩れ落ちたのだった。
「そんなぁ~」