天に舞い上がる金色蝶を見上げたのは束の間で、男は副官を急かす。
「早くしろ。永寧宮の火は消し止められたようだぞ」
 副官が背負った布袋からは、竹簡の一部がはみ出している。
「これで全部でございます。さあ、参りましょう」
 慌てて門をくぐった副官の背から、ひとつの竹簡が転がり落ちた。
 ころりと石畳を回り、焼け焦げた鞋先にこつんと当たる。
「どちらへ行かれます。王尚書令」
 竹簡を拾い上げた結蘭と黒狼は立ちはだかる。焼け焦げた衣と煤にまみれた姿を見やり、王尚書令は目を眇めた。
「……やあ、蟲公主。鎮火していただけたようで、ご苦労でしたな」
「ええ。これで、本当に鎮火できます。李昭儀に闇塩密売をそそのかし、毒薬を仕込んで皇帝暗殺を計画したのは、あなたなのね」
 黒狼は剣鞘を押さえ、ずいと踏み出す。
「李昭儀は助かった。すべて自白したぞ。これから、夏太守と密売のやり取りを記した竹簡を処分しに行くところか?」
 布袋を指摘された副官はうろたえ、不安げに上官を仰ぎ見ている。詰め寄られても王尚書令は微動だにしない。
「私のあずかり知らぬこと。李昭儀は虚偽を申したのでしょう。私が関与したという証拠が、どこにありますかな。その竹簡に、私の名が書いてあるとでも?」
 結蘭は竹簡を捲り、中身を確認した。仏像の売買を記した帳簿には、尚書省副官の名が記入されている。
 念の入ったことだ。黒狼に罪を着せたように、巧妙に仕掛けを施して保身を図る。
 まさに今、密売の下手人に仕立て上げられようとしている副官は慌てて上官に縋った。
「困ります、王尚書令! 私の一族は守ってくださると、お約束したではありませんか」
「黙れ! 余計な口を叩くな」
 王尚書令は剣柄に手を掛けた。すらりと抜かれた刀身が光る。
 その瞬間には、黒狼はすでに抜刀していた。
 哀れな副官を斬り捨てようとした邪悪な太刀は、瞬速の双手剣によって完全に封じられる。
 交わされた白刃の周りを、風に乗って運ばれてきた黒い灰が、さらさらと舞い踊った。
「おふたりとも、剣を収めなさい」
 冷涼な声音が響き、はっとして振り向く。
 いつの間にか尚書省前は、多数の衛士に囲まれていた。人垣が割れ、前へ進み出た新月は神妙に告げる。
「光禄勲として命じます。王尚書令、貴殿を皇帝暗殺未遂及び闇塩密売の疑いで捕縛致します。証人はそろっています。もう観念してください」
 王尚書令は剣を握った腕を下げると、憎々しげに新月を見返した。
「貴様になにがわかる。先帝は偉大な覇王だった。弟の私こそ、先帝の意志を受け継いで中原を制することができる。それなのに、次期皇帝に指名したのは腑抜けの長子だ」
 本音が現れた権力者の裏の顔に、新月は冷めた眼差しを向けた。
「先帝の御意志ですから」
 その冷静さに神経を逆撫でされたらしい。衛士が捕縛しようとすると跳ね除け、感情を剥き出しにして叫んだ。
「あの娘! なぜもっと毒を入れなかったのだ。皇帝が死ねば、すべて計画通りに事が運んだのだ!」
 副官と共に捕らえられ、暴言を撒き散らしながら、王尚書令は牢へと引き立てられていった。
 あとには、雪のように降り積もる漆黒の灰が、主の失った尚書省を哀しく彩っていた。



 数日後、闇塩密売と皇帝暗殺未遂の両件が外朝にて審理された。くしくも桜の花が蕾を綻ばせる麗らかな春の日であった。
 火事の件と王尚書令の謀反は宮廷中に知れ渡ることとなり、噂がまことしやかに流れ、皆は真実を望んだ。
 呂丞相によって述べられた事件の概要を聞いた詠帝は動揺を表すこともなく、凛として審理に臨む。
 黒狼は拘禁中の身分であるので衛士に付き添われていたが、夏太守を召喚した功績により縄は解かれている。
 後方の席で見守る結蘭は祈った。
 どうか、真実を明らかに。
 まずは夏太守が、闇塩密売の証人として詠帝の前に跪く。呂丞相が尋問しようとするより先に、夏太守は闇取引していた事実を認めた。
「いかにも、私は尚書省に塩の仏像を卸していました。保管場所の永寧宮まで、お運びしましたとも」
 証拠の竹簡が提示されているためか、あっさりとした暴露に、殿は驚きの声に包まれる。
 呂丞相は苦々しく眉根を寄せた。
「それは敬州の意思とみなしてよろしいか?」
「いいえ? 私の一存です。小遣い稼ぎですよ」
 敬州を庇い、一人で責任を負うつもりだ。
 結蘭は人並みをかき分けて声をあげた。
「陛下! 私は塩湖を見て参りましたが、敬州は決して豊かではありません。北蜀との戦で民は大変な目に遭ったのです。夏太守は民のためを思えばこそ、闇塩に手を染めたのだと思います。どうか、恩赦を」
 皇帝の面前でも作務衣を纏う夏太守は、困ったように笑う。
「いやはや、そんな聖人に仕立てられては照れますな。しかし、金がないのは確かです。民は病人に薬を与える銀子すら工面できません」
 やんわりと民の苦境を上奏する眼差しは、真剣みを帯びていた。
 詠帝は神妙に頷く。
「うむ。先の戦で敬州には辛い思いをさせた。事が落ち着いたら、朕自ら赴き、敬州の現状を確かめよう。そなたが民を思う気持ちはよくわかる。最大限の恩赦を与える」 
 結蘭のものだけではない安堵の吐息が、殿全体に伝わった。
 皇帝が斬首と断定すれば、それで審理は済んでしまう。敬州すべてを敵にまわすことは、塩そのものの存在が揺らいでしまうことになりかねないのだ。
英断でございます、と合唱される。
 本題はここからだった。
 続いて、李鈴が衛士に連れられて入場してきた。皇帝に毒を盛ったと告白したことは、火災の現場で大勢の人間が聞いている。
 童女の李鈴は蒼白になり、がくがくと膝が震えている。呂丞相は優しく問いかけた。
「そなたが陛下の茶碗に毒を入れたことは間違いないか?」
「毒ではありません! 好きになるお薬です……。姉さまは、そうおっしゃいました」
「姉に入れてこいと言われたのか?」
「いいえ。あとで使うからと菓子箱にしまったのです。陛下が姉さまを好きになってくれたら喜んでもらえると思って、こっそり入れてあげました。でも……」
 上衣の裾をいじりながら、李鈴はうつむいた。李昭儀は火傷が深く床に臥せっているため、この場には来られない。
「その惚れ薬とやらは、これのことかな?」
「あっ……。それです! でもどうして? 菓子箱に元通りしまって、姉さまに叱られて、それで……」
 呂丞相が持っている小瓶は、黒狼の房室から発見されたことになっている証拠品だった。李鈴が使用したものは火事のときに灰と化している。
「黒狼校尉の房室から発見されたこれと、李昭儀が入手したものは同じ薬師によって作成された同一の附子と思われます。尚書省付きの薬師をこれへ」
 附子の判定を行った侍医と共に、薬師が現れた。薬師は医療行為は行わず製薬専門職だが、医者とは密接な関係にある。
「これはそなたが作ったのか?」
「……さようにございます」
「誰の命令じゃ」
「……申し上げられません!」
 震える薬師は土下座した。代わりに侍医が答える。
「王尚書令さまにございます。私どもは主の命令に従ったまで。用途については知らされておりません」
「黒狼校尉が下手人に挙げられた時点で、不審だとは思わなかったのか。そなたらは自分で作った毒薬を、わざわざ皆の前で判定するのか?」
「さあ……。私どもは医術と薬の知識以外のことは、なにも存じません」
 悪い意味で医者の鑑といえる侍医たちを呂丞相はそれ以上追及することをせず、審理を見守る一同に向き直った。
「それでは、黒幕の言い分を聞きましょうぞ」
 衛士に伴われた王尚書令は、堂々と胸を張り、威厳を保っていた。縄を掛けられていなければ、下手人とわからないほどだ。
 呂丞相が並べ挙げた数々の罪状を聞いても、平然としている。
「それで? それらがなぜ、私の仕業だといえるのです。私の失脚を狙う者に仕組まれた罠に相違ない」
 失脚、の部分を強調して呂丞相をにらみつける。
 遂に宿敵を葬り去る機会が訪れたと喜ぶ様子は、呂丞相には微塵もなかった。
「王尚書令の命令のもとに作られた附子が、媚薬と偽られて李昭儀の手に渡ったことは明白。しかも暗殺が失敗すると、同じ毒が黒狼校尉の房室から見つかる。いや、罪を着せるため急遽用意されたのじゃろう」
 附子を発見した尚書省付きの衛士が証人として呼ばれた。侍医や薬師と同じように、王尚書令の命令で行ったと白状する。小瓶はやはり、あらかじめ王尚書令より預けられていた。
 黒狼に罪を着せようと提案したのは自分であると副官が告白した。李姉妹を切り捨てては闇塩まで失う可能性がある。仕切り直して、改めて皇帝暗殺の機会をうかがうつもりだったと赤裸々な暴露が垂れ流される。
 もはやすべてが白日の下に晒された。
 部下たちに見放されても観念することなく、王尚書令は最後の切り札を出した。
「皇族の断罪は皇族によってのみ裁かれる。陛下が赤子の頃より付き添ってきた私を、罰することなどできましょうか」
情に訴える王尚書令に、詠帝の眼差しが揺らぐ。
 慈悲深い詠帝の性格を見越した、自信に満ちた口上に、結蘭だけでなく皆が歯噛みした。 
 このまま罪は流されてしまうのか。
「そうだな……。朕が叔父上を断罪するのは忍びない。では、皇族である皇后に判断を仰ごうではないか」
 荘厳な扉が開いた。
 清楚な青の衣を纏い、頭に鳳凰の宝冠を乗せた皇后が女官に付き添われ入室する。
 端麗な面差しをした皇后は、いつもの冷涼な声音で切り出した。
「叔父上、罪を認めてください。これ以上、王氏の名を辱めないでください。私はこたびの事件に深くかかわり、調査を重ねてきました。私や結蘭公主、黒狼校尉が叔父上の悪行をしかと見届けた証人です」
 皆は唖然とした。
 病に臥せっているという皇后の姿を、誰も見たことがなかったに違いない。
「新月さま……?」
 それもそのはずだ。皇后は、光禄勲としてすぐ傍にいたのだから。
 詠帝は咳払いをひとつすると、改めて紹介した。
「彼女こそ朕の正妃、慈聖皇后である。宮廷を正すことを目的として、光禄勲という仮の姿で調査を任せていた」
 驚きが広がるなか、夏太守は皇后である新月に声をかけた。
「おや、あなたはあのときの方だね」
「ごきげんよう、夏太守」
「敬州まで訪れて闇塩を調べる皇后とは……。はは、恐れ入りましたな」
 夏太守の盛大な笑い声が殿に木霊する。
 闇塩について夏太守に聞き込みをしていた女とは、新月だったのだ。
「なんだと……。まさか、皇后だったとは……」
 新月の正体を初めて知った王尚書令は、がくりと項垂れた。
 尚書省前での自白が決め手になり、詠帝は王尚書令に蟄居を申し渡した。
 李鈴と李昭儀については、王尚書令の傀儡だったことが考慮され、官位剥奪と後宮退去処分とされた。その他の侍医や薬師、尚書省副官や衛士については降格と謹慎処分という最大限の恩赦がなされた。
 黒狼の嫌疑も晴れた。
 心から安堵した結蘭の隣で、当の本人はけろりとしている。
「なるほどな。皇后と光禄勲の兼任なら、あらゆる権限を持っているはずだな」
 つぶやく黒狼を、ゆっくりと振り返る。
 なにやら水面下で事は運ばれていたようだけれど。
「皇后の召喚状を持っていたってことは……。黒狼は新月さまの正体を知らなかったの?」
「察しはついていた。俺を牢から逃がして夏太守を連れてこいと命じたのは、新月だからな」
 珠鐶の一件で賊かと思っていたが、新月は味方だったのだ。結蘭たちとは別行動で事件を探っていたとは、露知らずにいた。
「じゃあ、あの珠鐶は……?」
 さらりと裙子の裾をひるがえして、新月は皇后の玉座から降りる。
「あれは、落としたのです。私が敬州を訪れたときに。それを賊に利用されたのでしょう」
 刺繍の施された袖を捲り、手首を露わにする。
 翡翠の珠鐶には、もう血痕は付着していなかった。黒狼がつけたと予想していた傷跡は、もちろんそこにない。
「だから、さっさと見せろと言ったんだ」
「黒狼! 皇后陛下になんてこと言うのよ」
 慌てて跪こうとすると、苦笑交じりに制された。
「私には堅苦しい拝謁など必要ありません。今まで通りに接してください」
 元々上官で皇后だというのに礼を執るどころか、黒狼の不遜な言動は止まらない。
「病気と偽って芋虫を仕込んでくるとはな。たいした皇后だ」
「芋虫くらいで、泣いて逃げ帰られたのでは困りますからね。あの程度の洗礼は当然です」
 飛び交う応酬に結蘭は額を押さえる。
 けれど、あの芋虫のおかげで結蘭たちは命を救われたのだ。
 金色蝶の幼虫が皇后の庭にいて、女官が摘ままなければ、今回の奇跡も起こらなかっただろう。不思議な巡り合わせに感謝したい。
 にぎやかな一同を傍目に、呂丞相は微笑みながら髯を撫でた。
「いやはや、これにて落着。結蘭公主を指名した陛下の英断が解決しましたな。無能な丞相を演じるのも老体にはこたえましたぞ」
 皆に聴こえないよう玉座の傍でつぶやいた呂丞相に、詠帝は静かに微笑んだ。
「すべて彼らが活躍してくれたおかげだ。朕は、座していただけだよ」
 審理は終了した。詠帝は玉座から立ち上がり、結蘭たちのもとへ赴く。
「皆、御苦労であった。特に黒狼校尉……。どうかこれからも軍府に在籍して、そなたの力を発揮してほしい。あらゆることに便宜を図ろう。それが儀国からの、そなたに対する償いと思ってほしい」
「もったいないお言葉にございます」
 黒狼は膝をつき、頭を垂れた。
 彼の過去が少なからず報われて、結蘭は感慨に胸を熱くした。黒狼と共に、詠帝に礼を執る。
「姉上もよく頑張ってくれた。金色の蝶が永寧宮から飛び立つ奇跡を、朕も見届けた。姉上の力がなくば事件は解決できなかっただろう」
「ありがとう。あの蝶は伝説の金色蝶で、私はずっと話をしたいと思っていたの」
 金色蝶はとても美しく、そして凜々しい存在だった。
 幼い頃からの夢が叶えられた。
 そして、事件も無事に解決できた。
 それは結蘭に特別な力があったからではない。
 黒狼が、傍にいて力を貸してくれたおかげなのだ。
「ありがとう。黒狼のおかげよ」
 感謝を告げると、黒狼は瞬きをひとつして結蘭の瞳を見返した。
「俺はなにも。結蘭が、頑張った結果だろう」
 微笑みが殿に広がる。
 優しい春風が、そっと皆の衣を撫でていった。
 暖かな陽気に誘われて、ひらりと紋白蝶が舞う。
 結蘭と黒狼は朱雀門の前で、馬車の支度を見守っていた。
「李鈴、嬉しそうね」
「はい。これからは父さまと母さまと姉さまと、みんなで暮らせるのです。早くおうちに帰りたいです」
 結蘭の周りを飛び跳ねていた李鈴は、すでに馬車に乗り込んでいた李昭儀に促されて榻をぴょんと踏む。
 李姉妹は蘇州に帰郷することになったので、見送りに来た。
 だが、李昭儀は迷惑そうに扇をかざした。火傷の痕が残った彼女の顔半分は、仮面に覆われている。
「李昭儀、お元気で」
「……礼は言わないわよ。それにもう、こなたは昭儀ではないわ」
「じゃあ、名を教えて」
「嫌よ」
 つんと澄ますのは、彼女なりの矜持だろう。
 李昭儀も罰を受けた。美貌を失い、罪人として蔑まれ故郷へ戻らなければならない。
 けれど、彼女には李鈴がいる。命と大事な人があれば、人はきっとやり直せる。
 荷を積み終え、御者が出発を告げる。
「そういえば、李昭儀。聞きたいことがあるの」
「なによ」
「あの小瓶の中味がなにか、知っていたの?」
 王尚書令は媚薬と称して渡したそうだが、なぜ彼女は使うのをためらったのか。そのおかげで、最悪の事態を防げたわけだが。
 もしかすると、李昭儀はすでに王尚書令に疑念を抱いていたのかもしれない。
 仮面と扇の隙間から覗いた目が眇められる。
「教えない」
 車輪が回りだす。李鈴は懸命に手を振った。
「結さま、黒さま、さよなら」
「元気で暮らせよ、小朋友」
 黒狼が軽く手を掲げると、次第に遠ざかる馬車の中で李鈴が目元を拭う姿が見えた。思い出したように李昭儀は、朱雀門に佇む結蘭たちに向かって掠れた声を投げかける。
「蘇州へ来る機会があったら李氏を訪ねなさい。お茶ぐらい出してあげるわ」
 やがて街並みに紛れ、馬車は見えなくなる。
 別れはいつでも、胸が詰まる。込み上げるものを押し留めていた結蘭の横で、黒狼は深い溜息を吐く。
「助けてやったのに、教えないだと。なんだ、あの言い草は」
「素直じゃないよね。誰かさんに似てる」
 じっと黒狼を見上げると、嫌そうに眉をひそめられた。
「さあ、屋敷へ帰りましょう」
 一日中機嫌が悪くなられてはあとが大変なので、黒狼の腕を引いて後宮への路を共に歩く。
 清華宮の門をくぐると、袖を捲り上げて箒を携えた朱里が笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、結蘭さま。ついでに黒狼もね」
「俺は、おまえが黒幕かとにらんでいたんだがな。本当にただの女官だったとは驚きだ」
 さらりと吐き捨てる黒狼に、朱里は箒を掲げて応酬する。
「残念ね。私は毎日屋敷の仕事で忙しいのよ。敬州や御膳房まで、こっそり行ってる暇なんてありませんから!」
「それもそうか。こんな雑な女に裏工作なんて無理だな」
 怒り狂った朱里に箒を振り回され、結蘭は素早く駆け出して庭を横切る。駿馬のごとく足の速い黒狼も、後ろにぴたりとついてきた。
 新月によって保護されていた欣恵は療養を経たあと、奏州へ帰っていった。清華宮で共に暮らすことを勧めたが、「奥様の屋敷を守ります」と言って彼女は辞去した。
 結蘭たちもいずれは戻るつもりだが、呂丞相が次の事件もあるのでよろしくなどと笑みを見せているので、もうしばらくは王都に留まることになりそうだ。
 ふと、庭の隅に咲く桜が目に入る。
 苔生した大樹から枝を伸ばし、満開の花を綻ばせていた。
 池の傍に佇み、隣に並んだ黒狼としばし桜に見入る。
 一陣の風が吹き、淡い花びらが舞う。結蘭の切りそろえた黒髪も、かすかに揺れる。
 腰まで伸ばしていた結蘭の髪は、焼け焦げた部分を切り落とした。今は耳の下までと短く、童子のような髪型になっている。
 黒狼に耳元を指先でくすぐられる。まとわりついていた花びらが、はらりと剥がれた。
「くすぐったい」
 眩しいものを見るように、黒狼は漆黒の双眸を細める。
 庭に住む虫たちが、ふたりをお似合いだと囃し立てた。
 黒狼にそれを気づかれたくなくて、赤くなった頬を見られたくなくて、結蘭は衣やてのひらに乗ってきた虫たちに微妙な笑みで返す。
「美しい」
「え? あ、桜、綺麗ね」
 風に乗り、踊る花びらが庭に薄紅色の毛氈を敷き詰める。
 黒狼はゆるく首を左右に振った。
「桜か。綺麗だな。だがもっと美しいものがある。俺は改めて感動している」
 以前、ふたりで遠乗りをした日に語ったことを思い出す。黒狼が感動を覚えるものとは、なんなのか。
 その答えが、今、目の前にある。
「虫、なのね」
「少し違うな」
「え?」
「虫を思いやる、結蘭の心だ。なによりも美しく尊い」
 呆気にとられて、真剣な眼差しの黒狼と視線を交わす。
 虫を思いやるといっても、結蘭には昔からやってきた自然なことなのだ。友人や家族を大事にするというのと同じ感覚なのである。
 桜の花びらが一片、池にふわりと舞い落ちた。
「虫など、気味が悪いと踏みつぶされる弱い立場だ。俺も虫と同じだ。亡国の元皇子なんて忌まれる存在だからな。それなのに結蘭は、大事に労る。俺も、虫も」
「そう……。でも私は、黒狼も虫も弱いなんて思っていないわ。私のほうが助けられてばかりよ」
 彼が綺麗と感じるものが自分の心だと知り、じわりと甘いものが胸ににじむ。
 嬉しくて、でもなぜか切なくて。
「結蘭がいなければ、俺は今頃、詠帝に刃を向けて斬首されていたはずだ。おまえは、生かすことの大切さを、時間をかけて俺に教えてくれたんだ」
 恭しくてのひらをすくう黒狼に、手の甲にそっと口づけられる。
「これからも、俺を傍に置いてくれ。結蘭公主」
 漆黒の双眸には、いとしさが込められていた。
 結蘭は桜色をした唇を噛み締めた。眦に涙がにじむ。
「こちらこそ。よろしくね、黒狼」
 笑うと、弾みで涙がこぼれる。あふれる雫を、黒狼は無骨な指先でそっと拭った。
 向かい合うふたりを、舞い散る桜が優しく包む。
 遙か天空を、黄金の金色蝶が舞う。それは、金色の帯。爽やかな天の蒼は、まるで公主の纏う裙子のよう。
 虫と話せる蟲公主が金色蝶に出会ったお話は、後世に語り継がれた。
 彼女の隣には、常に漆黒の近侍が付き従っていたという。

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