「後ろで台車を引いていたのが私ですよ。劉青が斬られたときはどうしようかと焦りましたが……。あの珠鐶でしばらく時間稼ぎができましたかな?」
 新月かと思っていた賊の正体は、劉青。
 そして後宮に闇塩を届けていた一味は、夏太守率いる敬州だった。李昭儀が語った呪術の話は嘘だったのだ。
 この仏像が動かぬ証拠だ。李昭儀が闇塩にかかわっていたことは疑いようがない。
「どうしてなの、夏太守。借金を返済するためとはいえ、闇塩のことが知られたら罰せられるわ」
 太守が闇塩を妃嬪相手に売りつけていたとなれば、厳しい罰が待っている。審理の結果次第では死罪になるかもしれない。
 夏太守は手を後ろに組み、ふと首をかしげて思いを馳せた。剣を構えた黒狼がすぐ目の前にいるというのに、気負いがまったく感じられない。
「私にはね、敬州の民と財政を守る義務がある。ひどいものですよ、国というのは。いや、あなた方にそれをどうこう説こうという気はないが、民のためなら私はなんでもできる。それが法に触れることでもね」
「夏太守……それはぜひ皇帝の前でお話しください。あなたの民を思う気持ちを、きっと陛下もわかってくださるはずだわ」
「それはまた、難しい話だ。さて、秘密を知ったあなた方をどうしようかね」
 工房の外に、大勢の人の気配が漂う。騒ぎを聞きつけた兵や工人が武器を携え、固唾を呑んでうかがっている緊張感が扉越しに伝わってきた。
 このまま、斬り捨てられるのか。
 指先は冷えているのに、鼓動だけが早鐘のように刻む。
 黒狼は結蘭を庇うように、背の後ろに隠した。
 じり、と劉青が草鞋の先でにじり寄る。
 剣先がこちらに向いたとき、黒狼は懐に手を差し込んだ。
「これを見ろ。以前もらった竹簡の返礼だ」 
 ばらりと竹簡が皆の前に広げられる。覗き込んだ夏太守は丹念に眺めた。
「ほほう。私を闇塩事件の証人として金城に招き、弁明を求めると……。慈聖皇后直筆の召喚状か。これはまた、すごいものを持参してきましたな」
 召喚状の存在を初めて知った結蘭は唖然とした。
 皇帝ではなく、なぜ皇后の命令なのだろうか。皇后は病気で臥せっているので、黒狼も本人に会ったことがないはずだ。
 ともあれ、皇后の召喚令を無下に扱うことはできない。夏太守は、ぽんと手を打った。
「なるほど。仕方ない。王都へ行こう」
「太守……! いけません」
 狼狽する劉青に、剣を収めるよう夏太守はてのひらを水平にかざす。
「ちょうどよい。皇帝に塩の課税を下げてもらうよう直訴しようじゃないか」
「では、私も参ります」
「いけない。おまえは敬州に残りなさい。私のいない間、留守を頼んだぞ」
 納得できず、さらに言い募ろうとする劉青を諭すように、夏太守は人差し指を立てた。
「珠鐶を盗んだ件があるだろう。あれで斬首されては、かなわないからね」
「あれは……盗んだのではありません! 拾ったのです。そんなつもりでは……」
 結蘭たちを横目にして、劉青は気まずく口を噤んだ。
 事態を見守っていた村の者たちに、夏太守は向き直る。
「皆が仕事や居場所を失うことは決してない。すべて、私に任せてほしい。敬州は、必ず守る」
 村民は信頼を込めて頷く。
 統治者としての矜持に、結蘭は尊敬の念を覚えた。項垂れる劉青に旅の支度を申しつけた夏太守は、呑気に結蘭に声をかける。
「まずは朝餉でもどうかね?」



 三頭の馬が王都へ向かって街道を進む。夏太守は桜の蕾の品評を語りながら、まるで観光気分である。
 敬州の太守が金城に召喚されるという伝令は、王都から派遣された使者によって届けられた。政府を敵視していた夏太守が、ついに闇塩の首謀者であると認めたという尾ひれをつけて。
 敬州の領地から一歩出た途端に、結蘭たちは物々しい軍兵に囲まれる。
「何事ですか?」
「結蘭公主さまと夏太守をお迎えにあがりました。太守はどうぞ、馬車へお乗りください」
 用意された馬車を指し示す軍吏に、夏太守は「ご苦労」と声をかけて悠然と馬を進めた。
「馬車に乗ったら景色が見えなくなるじゃないか」
 あくまでも賓客という扱いだが、闇塩事件はすでに周知のことのようだ。大勢の軍兵を従えて王城を目指すことになった結蘭は、こっそりと耳打ちする。
「黒狼が呼んだの?」
「いいや。おそらく、あいつの差し金だ」
「あいつって?」
「着けばわかる」