バチバチと大粒の雨が僕の頬を打つ。かろうじて灰色を残した黒い空は、ごうごうとすごい音を立てながら無数の雨を降らせていた。うねりを上げる濃紺の海は、一度吞まれたら二度と海面へは戻さないという意志すら感じさせる。
 そんな豪雨の中、僕はひたすらに猫を探していた。どこかにいるはずの、小さな命。助けなければならない、大事なもの。しかしその姿はどこにもない。
 ふと雨があがり、濁った灰色から一筋の光が差し込む。照らされた海面は、闇と光の間を行き来するようにきらきらと光を放つ。ふと後ろを振り向くと、少し離れたところに誰かが立っているのが見えた。それは──。

 ハッと目を開けると、見慣れた天井が僕のことを見下ろしている。

「またこの夢……」

 手の甲で額を拭うと、じとりと汗が滲んでいる。胡桃と最後に会ってから、毎晩のようにこの夢を見ている。見覚えがあるような景色なのに、思い出そうとするとずきんずきんと頭が痛くなるのだ。

「……よしっ、起きよう! ただの夢ただの夢!」

 バシッと両手で頬を叩き、僕は勢いよく起き上がった。今日は、胡桃が久しぶりに登校する日なのだ。



「わ、みんな来てくれたの?」

 かちゃりと開いた玄関から現れた胡桃は、僕たち三人の姿を見ると目を丸くした。

「おはよー胡桃! 待ってたよ」
「おはよ、よく眠れた?」

 いつも通りに彼女を迎え入れる莉桜と拓実に、胡桃は嬉しそうな表情を見せる。とことこと小走りにこちらへやって来た胡桃は「みんなおはよう」とはにかんだ。

 今日という日を迎えるまでに、一週間弱がかかった。胡桃は莉桜と拓実を呼び出し病気のことを打ち明け、それからやはり学校へ向かうには心の準備が必要だったのか、数日の空白期間を経て、今日を再出発の日と決めた。

「胡桃、予備校やめたの?」
「うん。とりあえずは、きちんと卒業できることを目標にしようと思って。その先のことは、また考える」

 胡桃が休んでいる間にも、当然のことながら授業は進んでいた。この空白分は、僕と高野さんが放課後の図書室で埋めることになっている。

「そういえば、担任から保健室登校でもいいって電話きたんだって?」
「うん。いろいろと配慮してくれたみたいでね。だけどわたしは、みんなと一緒に教室で授業を受けたいって言ったんだ」

 胡桃の病気のことは、教職員と僕ら以外は知らされていない。それでも長く休んでいた胡桃が教室に入ることを決めたのは、勇気がいったことだろうと思う。

「僕たちだって同じ気持ちだよ。胡桃のいない教室は、なんだか変な感じがしたんだ。酸素が多すぎるっていうか」

 僕が軽口を叩いてみれば、胡桃が「そんなに酸素使ってませんー!」といつもの膨れ面を復活させ、僕らはみんなで笑った。


 穏やかな毎日が、戻ってきていた。胡桃の現在の病状は初期段階。何度も同じことを質問したり、財布がどこにあるかわからなくなり、もしかしたら盗まれたのかもしれないと不安がることもあった。今までの胡桃と同じように元気に登校するときもあれば、体調不良で学校に来られない日もある。
 それでも僕たちは、毎朝胡桃の家まで彼女を迎えに行き、休んだ日には放課後に顔を見に行く。登校した日の放課後は図書室で一緒に勉強し、自宅まで送り届ける。そんなルーティンができあがっていた。

「このまま行けば、卒業日数も大丈夫そうだな」

 放課後の図書室、スマホのカレンダーで数えながら僕が言えば、胡桃はやったーと両手を天井へと突き上げる。よかった、これで約束通り、四人揃って卒業することができそうだ。

 ちなみに放課後での図書室勉強会では、胡桃は授業の予習復習、僕は第一志望の大学の過去問題を解いている。疑問点があるときに答えてくれるのが、高野さんだ。驚くことに高野さんはどんな教科でも知識が深く、それでいて教えるのもうまかった。教師にならなかったのが惜しいくらいだ。

「四月からは、みんな大学生かぁ……」

 そんな胡桃の小さな独り言は、カキーンという野球部の音と共に、窓の向こうへと吸い込まれていく。
 こういう音を聞くことも、残り少なくなってきているのだろう。

「わたしも。こんな青春っぽい音とも、あと少しでお別れだわー」

 自分の心を読み上げられたのかと思った。しかし司書席の高野さんは、こちらなど見ずに窓の方へと顔を向けているだけだ

「お別れ……?」

 胡桃が首を傾げると、高野さんはこちらを向いて、コキコキと首を鳴らす。

「わたしも石倉たちと一緒。三月でここを卒業して、実家に戻るの」

 息をするように話された事実に、僕たちは驚きを隠せなかった。

 適当にやっているようで、高野さんは本をとても愛していたし、司書という仕事にも誇りを持ってやっていた。その仕事をやめ、嫌だと言っていた旅館の仕事をするというのだ。
 僕たちの顔を交互に見た高野さんは、「なあにその顔」と吹き出した。どうやら同じような表情をしていたみたいだ。

「自分がやりたいことと、大事にしなくちゃいけないもの。ずっと迷っててさ」

 それは今まで語られることのなかった、高野さんの本音の部分。今までの高野さんの言動から、やりたいことは司書の仕事で、大事にしなくちゃいけないものというのが家族や旅館だということはなんとなくわかった。

「自分の人生なんだから自分の思うように生きるんだー!って思ってたのよ、ずっと。だけど歳を重ねていくとさぁ、それはそれでいろいろなことが見えてきちゃうわけ」

 例えばお父さんの頭ってこんなに白かったっけ、とか。
 お母さんの背って、こんなに小さかったっけ、とか。
 お客さん全然いないけどやってけてるのかな、とか。
 お父さんとお母さんが引退したら、ここで働いてる人たちどうすんのかな、とか。

「ちょっと顔見るだけのつもりで帰ったら、他のものまで見えちゃって。やんなっちゃうよ」

 お盆期間中、高野さんは文句を言いながらも実家に帰省していた。手土産にと買ってきてくれた温泉まんじゅうはとてもおいしくて、胡桃がおかわりをしていたくらいだ。きっとその帰省の中、色々と感じる部分があったのかもしれない。

「いつだって自分のために生きていたい、わたしの人生だし。でもね、まあ色々、世の中には仕方がないことも多い」

 それでもその道を選んだのは、他でもない高野さん本人だ。

 どうして大人になると、仕事をひとつにしか絞れないのだろう。学校では数学や国語、化学に美術など、たくさんのことを学ばされるのに。
 学校の先生なら先生、旅館の女将なら女将、司書なら司書。それ以外の仕事は許しません。ひとつのことを極めてこそプロフェッショナルです!という風潮が、大人の世界にはある。

「とりあえずは旅館立て直して、黒字になったら速攻で図書室作る。そしたらみんなで勉強合宿しに来てもいいよ?っていうか、それいい。塾とか学校向けに勉強合宿プランも提案しようか。あれだな、富裕層の集まる学校とか塾をターゲットにして──」

 突然手元のノートに、カリカリとペンを走らせる高野さん。僕と胡桃は相変わらず、その思考回路と行動についていけず、ぽかんと見ているだけだ。

「高野さん、司書やめるんじゃないの……?」

 僕の言葉に、高野さんは「はい?」と眉をひそめた。

「旅館も大事だし、本に関わって生きてく人生も捨てらんない。女将なんだから司書はやっちゃいけないなんて、そんなのナンセンスでしょ」

 高野さんは立ち上がり、つかつかとこちら側へと歩み寄った。そして僕の向かいに座る胡桃の真横で立ち止まったのだ。

「だからね、中田。行きたいなら、大学に行けばいいんだよ」

 カシャンと、胡桃の手からシャープペンシルが落ちた。

「ちょっと、高野さんっ……」

 思わず口を挟んだ僕を、高野さんは「いいから」と制した。
 高野さんだって、胡桃の病気のことは知っている。進行を遅らせることはできても、完治するのが難しい病気だということも、物事を忘れていってしまう病気だということも。

「大学って、頭がいい人が行くところじゃない。学びたい人が行くところなんだから、中田に学びたいって意欲があるなら行けばいい。病気だから大学は行っちゃいけないなんて、そんなことありえないんだよ」

 高野さんの言葉は当然のことで、だけどそのことを忘れていた僕は、目から鱗が落ちるような心持だった。しかし当の胡桃としては、「それじゃあ行きます」だなんて簡単に思えないだろうことも容易に想像がついた。

「学んだところで忘れちゃうし……」
「わたしだって、大学で勉強したことなんてザルみたいに流れてっちゃったよ」
「でも……試験だってうまくできるかわからないし……」
「色々な大学があるし、受験のスタイルも様々でしょ。自己推薦とかもあるんだし、いいじゃん受けてみたら」
「それでもやっぱり、病気のこともあるし……。入学しても大学側に迷惑をかけちゃうかもしれないし……」
「誰にでも平等に、学ぶ権利がある。楽しむ権利も、遊ぶ権利も、今をめいっぱい生きる権利も」

 高野さんはピシャリと放った。

「いいじゃない。いつか忘れてしまう可能性がありますが、学びたい意欲は誰よりも強いです!って、胸を張ればいい。中田にしかできないことが、中田だからできることが、絶対にあるから」

 今年間に合わないなら、また来年チャレンジすればいい。とことん付き合うよと、高野さんはそう言った。

 純粋に、僕は心を打たれていた。

 僕は知らずのうちに、胡桃の状況を「病気だから仕方がない」と思ってしまっていた。そうすることが、彼女に寄り添うことだと勘違いしていた。胡桃が大学受験をやめたことも、やりたがっていた卒業式の合唱の演奏を諦めたことも、仕方がないことだと受け入れてしまっていた。だけど、本当はそうじゃない。

「高野さん……、ありがとう……」

 胡桃はそう言うと、きゅっと口元を結んで天井を見上げた。ふるふると瞳の表面で涙が揺れる。高野さんの言葉は、胡桃にもきちんと響いたのだ。
 やっぱり高野さんは、ちゃんと大人なんだ。物事を広い視野で見て、こうだからこう、という固定観念を外すことのできるひと。

「高野さんって、すごいな」

 僕がそう言うと、そこで高野さんはこちらをまっすぐに見つめ、顔を崩した。

「石倉たちが教えてくれたんだよ。今という瞬間を精一杯に生きて、楽しんで。泣いて笑って怒ってさ。石倉は、奇跡は〝起こす〟ものだって言ったけど、わたしはそう思わない。奇跡って、きっと本当はそこに〝ある〟ものなんだよ」

 ──奇跡は、〝起こす〟ものじゃない。
 ──奇跡は、〝気付けばそこにある〟もの。

「わたしにとっての奇跡は、石倉たちと出会えたこと」

 思わぬ言葉に、僕は大きく目を見開く。

 学校において、大人と生徒の関係というのは、基本的に教える側と教わる側に分けられる。高野さんは教師ではないけれど、それでも僕らに多くのことを教えてくれる。そんな高野さんが、僕たちとの出会いを奇跡だと言ってくれるなんて。
 僕もこんな大人になりたい。願わくば、胡桃と拓実と莉桜と一緒に──素敵な大人になっていきたい。そう思えることさえも、奇跡と呼んでもいいのだろうか。