「胡桃……」
庭に植えられた松の木の先端に、傘の閉じた松ぼっくりがいくつもついている。その木の前、胡桃は立ち尽くすようにしてこちらを見ていた。
たった二週間。それなのに僕の目の前にいる彼女は、一回り小さくなったように感じられる。
「ああ、それ見ちゃったんだね」
しかし、彼女から発されたのはあまりにもあっさりとした、そんな一言だった。
「ごめんね、心配かけて」
僕の手元に視線を落とした彼女は、申し訳なさそうに、だけど笑った。その表情自体は、僕の知る彼女のものと変わらなくて、そのことは僕を混乱させる。
だって僕が今見た日記の中で、彼女は悲痛な心のうちを嘆き叫んでいた。笑うことなんて忘れてしまったように、ただただ悲しみと戸惑いが書かれていたのに。
どうしてそんな風に、笑うことができるのか。
「読んだ通り、記憶障害の病気になっちゃったんだ。でもね、本当幸いなことに初期も初期で。今すぐにどうこうってわけじゃないから」
「だけど……」
「最初はすごく落ち込んだんだけどね、なんとなく、こんな日が来るんじゃないかなーって思ってたところもあって。だから今はもう、大丈夫」
僕らが学校で普通の生活を送っていた間、彼女なひとりで苦しんでいたのだ。
「どうして何も、言ってくれなかったんだよ……」
そんなの、本当はわかっている。きっと胡桃は、僕たちに心配をかけたくなかったんだ。気を遣わせるのが嫌で、周りの目が変わるのが怖くて、外の世界にいる僕たちに打ち明けることなんてできなかった。胡桃の優しさが、そうさせたのだ。
それでも話してほしかったと思ってしまうのは、完全なる僕のエゴだ。
頼ってほしかった、ひとりで苦しまないでほしかった。
「──これは、わたしが自分と向き合わないといけない問題だったから」
だけど胡桃は、凛とした表情でそう言った。
ころんと足元でミイ子が腹を出して寝転がる。胡桃はその場にしゃがむと、慈しむような表情でそのお腹を撫でてやった。
つられるように、僕もその場にゆっくりと屈みこむ。
「ずっとね、不安要素としてわたしの中にあったことなの。昔から忘れ物が多かったり、うっかりすることが多くて。おばあちゃんの付き添いで病院に行くこともあったから、そこで物忘れ外来の看護師さんやボランティアのカウンセラーさんとも仲良くなってね。いろいろ相談したりしてたんだ」
診察にしては遅い時間帯に、病院帰りだとコンビニに寄った胡桃を思い出す。なるほど、彼女はおばあちゃんの診察以外でも、狭間病院に足を運ぶ機会が多かったのかもしれない。
「もう何年も前から、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているような気持ちだった。だから心の準備もできていたし、本当に大丈夫。専門的に相談できる人たちもいるし。それに今の医療って進歩がすごくて、もしかしたらわたしが大人になる頃には、治療法が見つかっている可能性もあるんだよ」
ゴロゴロと、ミイ子は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「それにね──。人に与えられた運命は、何度やり直したって変えることはできないの」
〝何度やり直したって〟という言葉に、僕は反射的に顔を上げた。
過去をやり直すことで、未来は変わった。過去をやり直すことで、僕らの夏は取り戻された。それを知っているのは、僕だけのはず。
「まさか──」
胡桃も、僕と一緒に二度目の夏を生きていた?
思い返してみれば、不自然なことがいくつもあった。
まず、戸塚ちゃんと拓実のコンビニでのやりとりを、胡桃が知っていたこと。
外から見えた、なんて言っていたけれど、拓実の表情までもが窓の外から見えていたとは考えにくい。
胡桃の、『葉、変わったね』という言葉だってそうだ。過去の僕と、今の僕を見てきた彼女だからこそ、その変化に気付いてくれた。
さらには僕が両親とぶつかり家を出たとき。
『前に葉が、自分の両親は本当の親じゃないって言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな?』
どうしてあのときに気付けなかったのか。
僕が叔父夫婦と暮らしていると打ち明けたのは、一度目のときだけだ。〝二度目の夏を生きる胡桃〟は、そのことを知るはずがない。
そして、今彼女から放たれた〝何度やり直したって〟という言葉。
「胡桃。もしかして、胡桃も僕と同じで──」
「わたしには葉たちがいてくれるから、大丈夫だよ」
真意を尋ねようとした僕の言葉を、胡桃の明るい声が柔らかく遮った。
「葉がいつも笑っていてくれるから、わたしもちゃんと前を向こうと思えた。なんで、とか、どうして、とか。そういうことを考えるのはやめたの」
胡桃は自分が、過去に記憶を失ったことを知っていた。もしかしたら夏祭りのあとだって、再び記憶を失うことを恐れながら過ごしてきたのかもしれない。
僕が感じていた『胡桃の心配性』には、きちんとその理由があったのだ。
それなのに僕は、何も気付けなかった。彼女が全てを知った上で、〝今〟を生きているということに。
「ねえ葉、笑ってよ」
奥歯が擦れる鈍い音に、胡桃の穏やかな声が重なる。
「葉のおかげで、わたしはこんなに強くなれた。葉がわたしたちの手を離さずにいてくれたから、四人の絆だってこんなに確かなものになったの」
胡桃の透き通った目はまっすぐに、僕のことを射抜いた。そこには、強い意志が込められている。
「だから絶対に、〝何もできなかった〟なんて、思ったりしないでね」
胡桃には適わない。
彼女はなんでも、お見通しだ。
僕は、細く長い息を吐き出すと、胡桃の視線をまっすぐに受け止めた。
こんな彼女を前に、僕がいつまでも下を向いているわけにはいかない。僕が励まされている場合ではないんだ。
──やっぱり、胡桃は強い。本当に強くて、誰よりも優しい女の子だ。だから僕も、強くなりたい。強くなろう。
「四人で一緒に、卒業しよう」
声が震えぬようみぞおちに力を入れてそう言えば、彼女の顔には、満面の笑顔が咲いたのだった。
庭に植えられた松の木の先端に、傘の閉じた松ぼっくりがいくつもついている。その木の前、胡桃は立ち尽くすようにしてこちらを見ていた。
たった二週間。それなのに僕の目の前にいる彼女は、一回り小さくなったように感じられる。
「ああ、それ見ちゃったんだね」
しかし、彼女から発されたのはあまりにもあっさりとした、そんな一言だった。
「ごめんね、心配かけて」
僕の手元に視線を落とした彼女は、申し訳なさそうに、だけど笑った。その表情自体は、僕の知る彼女のものと変わらなくて、そのことは僕を混乱させる。
だって僕が今見た日記の中で、彼女は悲痛な心のうちを嘆き叫んでいた。笑うことなんて忘れてしまったように、ただただ悲しみと戸惑いが書かれていたのに。
どうしてそんな風に、笑うことができるのか。
「読んだ通り、記憶障害の病気になっちゃったんだ。でもね、本当幸いなことに初期も初期で。今すぐにどうこうってわけじゃないから」
「だけど……」
「最初はすごく落ち込んだんだけどね、なんとなく、こんな日が来るんじゃないかなーって思ってたところもあって。だから今はもう、大丈夫」
僕らが学校で普通の生活を送っていた間、彼女なひとりで苦しんでいたのだ。
「どうして何も、言ってくれなかったんだよ……」
そんなの、本当はわかっている。きっと胡桃は、僕たちに心配をかけたくなかったんだ。気を遣わせるのが嫌で、周りの目が変わるのが怖くて、外の世界にいる僕たちに打ち明けることなんてできなかった。胡桃の優しさが、そうさせたのだ。
それでも話してほしかったと思ってしまうのは、完全なる僕のエゴだ。
頼ってほしかった、ひとりで苦しまないでほしかった。
「──これは、わたしが自分と向き合わないといけない問題だったから」
だけど胡桃は、凛とした表情でそう言った。
ころんと足元でミイ子が腹を出して寝転がる。胡桃はその場にしゃがむと、慈しむような表情でそのお腹を撫でてやった。
つられるように、僕もその場にゆっくりと屈みこむ。
「ずっとね、不安要素としてわたしの中にあったことなの。昔から忘れ物が多かったり、うっかりすることが多くて。おばあちゃんの付き添いで病院に行くこともあったから、そこで物忘れ外来の看護師さんやボランティアのカウンセラーさんとも仲良くなってね。いろいろ相談したりしてたんだ」
診察にしては遅い時間帯に、病院帰りだとコンビニに寄った胡桃を思い出す。なるほど、彼女はおばあちゃんの診察以外でも、狭間病院に足を運ぶ機会が多かったのかもしれない。
「もう何年も前から、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているような気持ちだった。だから心の準備もできていたし、本当に大丈夫。専門的に相談できる人たちもいるし。それに今の医療って進歩がすごくて、もしかしたらわたしが大人になる頃には、治療法が見つかっている可能性もあるんだよ」
ゴロゴロと、ミイ子は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「それにね──。人に与えられた運命は、何度やり直したって変えることはできないの」
〝何度やり直したって〟という言葉に、僕は反射的に顔を上げた。
過去をやり直すことで、未来は変わった。過去をやり直すことで、僕らの夏は取り戻された。それを知っているのは、僕だけのはず。
「まさか──」
胡桃も、僕と一緒に二度目の夏を生きていた?
思い返してみれば、不自然なことがいくつもあった。
まず、戸塚ちゃんと拓実のコンビニでのやりとりを、胡桃が知っていたこと。
外から見えた、なんて言っていたけれど、拓実の表情までもが窓の外から見えていたとは考えにくい。
胡桃の、『葉、変わったね』という言葉だってそうだ。過去の僕と、今の僕を見てきた彼女だからこそ、その変化に気付いてくれた。
さらには僕が両親とぶつかり家を出たとき。
『前に葉が、自分の両親は本当の親じゃないって言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな?』
どうしてあのときに気付けなかったのか。
僕が叔父夫婦と暮らしていると打ち明けたのは、一度目のときだけだ。〝二度目の夏を生きる胡桃〟は、そのことを知るはずがない。
そして、今彼女から放たれた〝何度やり直したって〟という言葉。
「胡桃。もしかして、胡桃も僕と同じで──」
「わたしには葉たちがいてくれるから、大丈夫だよ」
真意を尋ねようとした僕の言葉を、胡桃の明るい声が柔らかく遮った。
「葉がいつも笑っていてくれるから、わたしもちゃんと前を向こうと思えた。なんで、とか、どうして、とか。そういうことを考えるのはやめたの」
胡桃は自分が、過去に記憶を失ったことを知っていた。もしかしたら夏祭りのあとだって、再び記憶を失うことを恐れながら過ごしてきたのかもしれない。
僕が感じていた『胡桃の心配性』には、きちんとその理由があったのだ。
それなのに僕は、何も気付けなかった。彼女が全てを知った上で、〝今〟を生きているということに。
「ねえ葉、笑ってよ」
奥歯が擦れる鈍い音に、胡桃の穏やかな声が重なる。
「葉のおかげで、わたしはこんなに強くなれた。葉がわたしたちの手を離さずにいてくれたから、四人の絆だってこんなに確かなものになったの」
胡桃の透き通った目はまっすぐに、僕のことを射抜いた。そこには、強い意志が込められている。
「だから絶対に、〝何もできなかった〟なんて、思ったりしないでね」
胡桃には適わない。
彼女はなんでも、お見通しだ。
僕は、細く長い息を吐き出すと、胡桃の視線をまっすぐに受け止めた。
こんな彼女を前に、僕がいつまでも下を向いているわけにはいかない。僕が励まされている場合ではないんだ。
──やっぱり、胡桃は強い。本当に強くて、誰よりも優しい女の子だ。だから僕も、強くなりたい。強くなろう。
「四人で一緒に、卒業しよう」
声が震えぬようみぞおちに力を入れてそう言えば、彼女の顔には、満面の笑顔が咲いたのだった。