僕らの奇跡が、君の心に届くまで。


 ◇

 ゆっくりと、だけど確かに時計の針は進んでいった。

 それぞれが、それぞれの将来のために時間を費やす。放課後、莉桜と胡桃はすぐに予備校へ向かい、僕は図書室での自習、もしくはバイトに向かう。拓実はと言えば、ずいぶんと距離を縮めた戸塚ちゃんと町の図書館で勉強したりしていて、僕たちはバラバラで過ごすことが増えた。

「毎日よくがんばるね」
「頑張ろうって思わせてくれる周りがいるからさ」

 高野さんは毎日のように、僕の自習を見てくれている。

「バイトも続けてるんでしょ?」
「週に二日だけ。一応さ、できることは自分でやれるようにはしておきたいから」

 大学とはいっても、偏差値は実にさまざま。ずっと勉強をしてこなかった僕にとっては一流大学なんてお門違いで、地元の私立大学を第一志望にすることにしている。強い想いや目的がない場合、身の丈に合った選択をするということも時には重要だ。
 高野さんはそんな僕のことを「大人になりつつあるねぇ」と目を細めて笑っていた。



「胡桃、大丈夫かな」
「さっきメッセージしといたけど、既読つかないんだよね」
「熱、まだ高いままなのかな」

 教室から見えるイチョウの木から、はらりと黄色い葉が落ちる。制服にグレーのカーディガンを羽織った莉桜は、ここ数日空席となっている胡桃の机をじっと見つめた。

『ちょっと早いインフルエンザにかかっちゃった』

 胡桃からスマホを通して、そんな連絡が入ったのは今から二週間ほど前のこと。まだ流行時期ではないものの、インフルエンザは一年を通して発症するものらしい。
 受験シーズンに重ならなくてラッキーじゃん、と僕はジョークで返した。そのくらいの気持ちだった。

「それにしても二週間休みっていうのは、あまりにも長いよな」

 拓実の言葉に、僕と莉桜は同意を込めて顎を引く。胡桃はいまだに、登校はおろか、スマホのグループメッセージにさえ参加をしてこなかった。
 僕らの言葉に三日に一度、『大丈夫だよ!』と返事を寄越すだけで、それ以外の反応はない。個人的に電話をしてももちろん出ないし、メッセージの返事もなかった。そしてそれは僕だけでなく、拓実や莉桜に対しても同じだったのだ。

「プリントを渡しに家へ行ったときも、胡桃には会えなかったしね……」
「あのときの胡桃のお母さん、愛想笑いしていたように見えたよな」

 同じクラスにいて、連絡先はわかっていて、住んでいる家も知っている。それなのに、会うことができない。顔を見ることもできない。こんな状況は彼女に出会ってから初めてのことで、僕は言いようのない不安を抱えていた。

 小柄で華奢な胡桃だったが、身体が弱いというような話は聞いたことがない。むしろ健康そのものという印象だったのに。

「ちょっと今日、帰りにもう一度胡桃の家に寄ってみる」
「お願い。わたし今日、予備校で」
「俺もバイト、入ってる」

 放課後の時間を合わせることすら、以前のようにはいかなくなった僕たちだけど、それでも心の距離感はそれまでと変わっていない。

 もしも何かがあったとしても、必ずみんながいてくれる。

 いつしか芽生えた安心感は、僕のことを支えていた。胡桃も同じように、感じてくれていればいい。

「僕にできることなら、なんでもやりたいんだ」
 
 連続で学校を休むと、登校しづらくなるというのも聞いたことがある。それでも胡桃が安心して学校へ来られるひとつの要素に、僕たちの存在がなれればいい。

「じゃあこれで、牛乳プリン買ってってあげて」

 チャリン。莉桜が僕に小銭を手渡す。

「これも渡しといて。胡桃読みたがってたから」

 トン。拓実が人気コミックの最新刊を机に置く。

 こういうのが、とてもいいと思う。顔を見ることだとか、会いに行くことだとか、そういうのがすべてじゃない。みんなそれぞれの生活があって、やらなきゃいけないこともあって。その中でも、僕たちの心の中にはみんながちゃんと存在しているんだ。

 放課後、胡桃の家を訪れた僕を迎え入れてくれたのは、優しそうなおばあちゃんだった。

「同じ高校の同じクラス? お友達なのかいね? ほぉー、葉くんっていうの。あらあ〜ばあちゃんてっきり、胡桃ちゃんの彼氏なんかと思ったよぅ〜」

 おばあちゃんはそう言いながら、トポトポと急須でお茶を入れる。

 胡桃は現在、ちょっと出かけているとのこと。庭掃除をしていたおばあちゃんは縁側に僕を招き入れ、おもてなししてくれているというわけだ。

「羊羹は好きかいね? いただきものが、あるんのよぅ」

 僕がいま座っているこの場所は、厳密に言えば胡桃の暮らしている家ではない。同じ敷地内に新しい一軒家と、昔ながらの日本家屋が並んでいる。今僕がいるのは、おばあちゃんが暮らしているという立派な瓦屋根の家だ。広い庭の向こうには、うっすらと海が見えた。
 胡桃が、〝おばあちゃんと一緒に暮らしているようなもの〟と言っていたのは、こういうことだったようだ。

「ちょうど、お腹すいてた!」

 素直にそう返すと、おばあちゃんはニコニコと顔にしわをたくさん作りながら笑う。どこか北海道のばーちゃんに似ていて、僕は懐かしさを覚える。
 ときおり向けられる柔らかな視線は、胡桃のそれと同じあたたかさがあった。

「はい、どんぞ」

 木の茶托と一緒に手渡されたお茶は深みのある緑色。そこにぷかりと浮かぶ柱を僕は見つけた。

「あ、茶柱! おばあちゃん、茶柱立ってる!」

 茶柱なんて初めて見た。若干興奮気味に湯呑を向ければ、おばあちゃんは「おやまあ」と目を丸くしてから顔をしわくちゃにして笑う。

「ばあちゃんも久しぶりに茶柱なんて見たよぅー。葉くんが来てくれたからだねぇ」

 以前、胡桃からおばあちゃんは色々なことがわからなくなっていると聞いた。だけどこうして接していると、それも勘違いなのではないかと思えてくる。
 だっておばあちゃんはとてもしっかりしていて、僕だって会話をしていて楽しいくらいなのだ。

 歳を重ねれば物忘れをしていくことも増えるだろう。色々とわからなくなる、というのは家族だからこそ気にしすぎてしまう部分なのではないかと、僕はそんなことを感じていた。

「胡桃ちゃんはねぇ、小さい頃は本当にお転婆な女の子でねぇ」

 おばあちゃんは先程から、胡桃の現在の様子については話してこない。小さい頃はあの庭の木に登っていただとか、胡桃ちゃんは蝋梅の花が大好きでねだとか、幼い頃の話ばかり。つまり、今の胡桃の状態について特に話すことはないということだ。

 なんだ、僕たちが心配するほど体調を悪化させているというわけではなさそうだ。大体、出かけることができるのだから、大丈夫なのだろう。
 僕は小さく胸を撫で下ろした。

「それにしても、本当に立派なおうちだ」

 僕がぐるりと見回すと、おばあちゃんは「古い家だよぅ」と嬉しそうに笑う。
 畳張りの居間に使い込んだ立派な座卓。和ダンスの上にはかわいらしいこけしが三体並んでいて、その隣にいくつかの写真立てが飾ってあった。ちょっと距離があるからよく見えないけれど、きっと家族のものだろう。その奥には綺麗に掃除された仏壇が置かれていた。

「あれ……」

 そのとき、足元でチリンと小さな鈴が鳴ったのだ。視線を落とすと、そこにいたのは海沿いの広場に住み着いていたあの猫。

「ミイ子や、こっちおいで。にぼしあげるからねぇ」

 おばあちゃんの声に、猫がトトトッとこちらへと走り寄る。
 僕が時間を遡ったあの雨の日、胡桃は子猫を家に連れ帰ったと話していた。猫嫌いのお父さんは大丈夫か、僕は何度か尋ねていたのだが、彼女はいつも笑顔で「問題ないよ」と答えていた。

 胡桃の〝家〟はふたつある。両親と暮らす家と、同じ敷地内にあるおばあちゃんの家。猫はおばあちゃんの家で暮らしているようだ。それも、愛情をたっぷりと受けながら。

「ほらほら、えーっとなんだっけ。とにかくほら、これをあげていいからねぇ」

 おばあちゃんは僕の名前を忘れてしまったらしい。にこにこと差し出されたニボシの袋を受け取った僕は、そっと上半身を倒して猫の鼻先へと人差し指を近付けた。猫と人間の挨拶になると、前に胡桃から教えてもらったのだ。

「ところで今日は、あそこの松を切りに来てくれたんだっけねぇ。そうそう、ついでにたまったゴミを燃しちゃおうと思ってるんだけど、植木屋さん、手伝ってくれるかいね?」

 クンクンと鼻先を鳴らしていたミイ子は、僕を思い出したのか、今度はすりすりと手全体に身を寄せる。背中を何度か撫でてやってからにぼしをやれば、ミイ子は喜んでそれをかじった。

 ──おばあちゃんは、僕が誰であるかを忘れてしまったのだ。つい十分前までは、僕のことを胡桃の友達であるとわかっていたはずなのに。

「……そうか。そういうことなのか」

 思わず落ちてしまう、小さなつぶやき。胸の奥はきゅっと小さく萎んだままだ。
 忘れられていくというのは、自分が自分でなくなることのようにも感じられた。おばあちゃんが悪いわけじゃない。だけどおばあちゃんを蝕む病は、おばあちゃん本人だけではなく周りの人々をも追い詰めていくのだ。

 胡桃はいつも、どんな気持ちでおばあちゃんと接してきたのだろう。

「よっこらしょ、っと。もうばあちゃんねぇ、年寄りだからだめだねぇ」

 古新聞や雑誌のようなものをどこからか出してきたおばあちゃん。よたよたと運ぶおばあちゃんに駆け寄った僕は、両手でそれを受け取った。

「これを、庭で燃やせばいい?」
「そうそう。あそこにね、焼却炉があるでしょう? ぽーんっと投げて、ボッと燃しちゃっていいからねぇ」

 昔ながらの日本家屋。その庭の端には、小さな焼却炉が置いてある。昔は可燃ごみを自宅で焼却することもあったのだと、社会科の授業で聞いたことがあった。

「植木屋さんにこんなことまでお願いしちゃうの、悪いんだけどねぇ」
「いえいえ、喜んでお手伝いさせてもらいます!」

 にこりと笑顔を向けると、切ない気持ちが込み上げてしまう。どうして人の記憶というものは、こんな風にあやふやになってしまうものなのだろうか。
 マッチマッチ、と部屋の奥へと向かったおばあちゃんの丸い背中を見送った僕は、隣に積み上げられた雑誌類をぱらりとめくる。おばあちゃんが昔作ったのだろうか、赤ちゃんの編み物というタイトルのものから料理本まで、古い雑誌が数冊重ねられていた。

 色あせた紙の束たち。その中に僕は、鮮やかなブルーの背表紙を見つけて思わず手を伸ばしたのだ。

「うわ、懐かしいな……。なんだ、胡桃が持ってたのか」

 それは、僕がどうしてもと三人を巻き込んで始めた交換ノート。とは言っても一周もせず、そのノートはどこに行ったのかわからなくなっていたのだ。
 まだ、ほんの数か月前のことだ。それなのになぜか無性に懐かしくなり、僕はそのノートを開いた。一番最初のページは僕だ。わざわざひとりひとりの名前を呼んで、熱いメッセージが綴ってある。

「こうして見ると、僕って本当に思い込みが激しくて、暑苦しいやつだな……」

 読み返すのを辟易してしまうものの、どこか微笑ましくも思ってしまう。

 次のページは莉桜。彼女らしい綺麗な文字で日付が書いてあって、あとはりんごの模写。なぜりんご? たださすがは美術部員、とてもうまい。僕じゃこんな風には絶対描けない。

 そしてページを開く。胡桃の番だ。

『交換ノートなんて小学生ぶりに書くよ。えっと……なにを書いたらいいのかなぁ。今日の夕ご飯はおばあちゃん特製カレーでした!』

 くすりと小さく笑ってしまう。戸惑いながらも一生懸命書いている姿が浮かんだからだ。しかしそのページはその一行で終わっている。僕はぺらりと次のページを開いた。

『ちょっと聞きたいことがあるんだけど……。みんなは、自分がどこになにを置いたか忘れることってある? 一度や二度じゃなくて、頻繁に』

 僕の眉間には、ゆっくりと力が入っていく。かろうじて読み取れるその一文は、ぐるぐるとボールペンで消すようにされている。僕は次のページに目を移した。

『今日一瞬、おばあちゃんがわたしのことを忘れていた。わたしのことを見て「志保ちゃんのお友達?」って。志保ちゃんって、お母さんのこと。おばあちゃん、本当にわからないのかな』

 もう誰にも渡すことはないと決めたのか、そこからの言葉は全て、僕らへ向けてのものではなくなっていた。そう、これは〝胡桃の日記〟だったのだ。

『みんな、ちゃんと進路を考えていてすごい。わたしはどうなんだろう。まだあのことが解決していないのに、本当に大学なんて目指してもいいのかな』

『歴史のテストの結果が散々だった。必死に勉強したはずなのに、頭の中が真っ白になった。もしかしてこれも、症状のひとつなのかな。先生には考えすぎないでって言われたけど、色々考えてしまう』

『みんなの前でも、わからなくなってしまった。たこ焼き屋なんて、境内の中にひとつしかなかったのに。みんな変に思ったよね。どうして思い出せないんだろう。簡単なことなのに、どうしてわからなくなっちゃうんだろう。記憶障害が起こる病気は、遺伝することもあるらしい。怖い』

 日付は特に記されてはいない。だけどこれが夏祭りのときのことだろうということは察しがついた。
 あのとき、たこ焼きを買った出店の場所がわからないと、胡桃は不安そうな表情を浮かべていた。その背景には、彼女のこの想いがあったのだ。

「記憶障害……? 病気って……」

 僕はなにかに取り憑かれるようにそのノートのページをめくった。そこに書かれていたのは、漠然とした彼女の不安感。そして、僕らとの日々が彼女にとってどれほどにかけがえのないものであるかということ。その想いが強くなればなるほどに、比例して大きくなっていく恐怖心が書かれていた。

 ドクドクと心臓に血液が集中していくのがわかる。酸素が薄くなったように感じ、僕は浅い呼吸を繰り返した。
 胡桃は心配性だ。起きてもいないことを危惧して、わからない未来を案じて、最悪の事態を想定して必要以上に不安になったりする。

「他人のことなら、ドーンと背中を押すだけの大胆さがあるのに……」

 なぜか、自分のことには妙に慎重だった。きっと胡桃は、考え過ぎだ。もっと気楽に生きていいのに。できれば僕が、この不安を取り除いてあげたい。

 ――ペリ。ページをめくろうとしたときに、それまでの捲る感覚とは違うものが指先に伝わった。紙自体が張り付いているような、硬さを持っていたのだ。

「……涙?」

 ぎゅんとした焦燥感が身体を包む。心はそのページを捲りたくないと拒否反応を示したが、僕は大きく深呼吸をしてそれを無視した。破いてしまわぬよう、ゆっくりと。そのページをめくったのだ。

『十代でこの病気を発症する人なんて、世界的にもほとんどいないらしい。限りなく0に近い確率に、どうしてわたしが入ってしまったんだろう。やっぱり運命は、変わらないみたい』

 僕は何度も、その文章を目でなぞった。何度も、何度も。

 病気を発症? わたしが入ってしまった? それはつまり、胡桃が、記憶障害が起こる病気だと診断されたということか?

 ぐるぐると目が回る。いや、なにかの間違いに決まっている。このあとだって、日記が書かれた形跡はある。きっとこのあと、その間違いが訂正されるに違いない。
 ぐっと奥歯を強く噛みしめ、僕はまたページを捲る。指先が震えていることには、気が付かないふりをして。

『本当に忘れちゃうのかな。こんなに毎日ちゃんと生きてるのに、いろんな思い出がたくさんあるのに、全部本当に忘れるの? なんで? どうして忘れるの? お父さんのこともお母さんのこともおばあちゃんのことも、わからなくなるの? 葉に拓実に莉桜のことも? こんなにずっと一緒にいるのに? あんなにたくさん楽しいことがあったのに? 忘れろって言われても無理なのに、本当にいつか全部消えるの?』

『病院に行った。まだ本当に初期の段階だからそんなに気落ちしないでって先生から言われて、叫びだしそうだった。初期だろうがなんだろうが、病気なのは確かなのに。わたしだって知ってる。この病気は、完治することがないっていうことも』

『全部夢だったらいいのに。夜もいつ眠ってるんだか、いつ起きてるんだかよくわかんない。なにも考えたくない』

『今日葉から、みんなで夏祭りに行ったときの写真が送られてきた。あのときは楽しかった。空気がキラキラしてて、青春って感じで。葉が家まで送ってくれて、すごく嬉しかった。一生忘れないだろうなって思った。だけど忘れるのかな。この瞬間にも、わたしの脳の細胞は、どんどん壊れていってるのかな。
本当に? やだよ、忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない』

 ──胡桃はひとり、闘っていた。

 特効薬があって感知する可能性の高い、インフルエンザじゃなかった。今の医療では治すことは難しい──限りなく不可能に近いと言われている病と、胡桃は対峙していたのだ。

「……なにかの、間違いだよな」

 わなわなと唇が震えてしまう。
 間違いだと思いたい。間違いだと信じたい。
 だけどこの日記から伝わってくるのは、胡桃のどうしようもない絶望と心の叫びだ。

「だって僕は……胡桃を事故から救ったじゃないか……記憶を失った彼女の過去は、僕が塗り替えたはずじゃないか……」

 胡桃は過去に一度、事故によって記憶を失っている。だけど僕が時間を戻して、それを阻止した。
 あの時点で胡桃が記憶を失うという運命は変わったはずなのだ。だからきっとこれもなにかの間違いで──。

「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」

 トントントン、という包丁の音と共に、おばあちゃんの歌声。次いで、お出汁のやさしい香りが奥から風にのってやって来た。
 おばあちゃんはもう、ゴミを燃やすことからは意識が離れていったようだ。僕がここにいることも、もしかしたら忘れてしまったかもしれない。

 そこでふと、日記に書かれた言葉が思い出された。

 ──遺伝性の病気。

 しわくちゃに笑うおばあちゃんの顔と、不安そうに瞳を揺らした胡桃の顔がぼんやりと重なった。

「運命は、変わってなんかいなかったのか……?」

 中田胡桃は、いつか必ず記憶を失う。
 それが、彼女の運命だというのだろうか──。

「……葉?」

 ずっと聞きたかった、恋しかったはずの声が、僕の鼓膜をゆるやかに震わせた。
「胡桃……」

 庭に植えられた松の木の先端に、傘の閉じた松ぼっくりがいくつもついている。その木の前、胡桃は立ち尽くすようにしてこちらを見ていた。
 たった二週間。それなのに僕の目の前にいる彼女は、一回り小さくなったように感じられる。

「ああ、それ見ちゃったんだね」

 しかし、彼女から発されたのはあまりにもあっさりとした、そんな一言だった。

「ごめんね、心配かけて」

 僕の手元に視線を落とした彼女は、申し訳なさそうに、だけど笑った。その表情自体は、僕の知る彼女のものと変わらなくて、そのことは僕を混乱させる。
 だって僕が今見た日記の中で、彼女は悲痛な心のうちを嘆き叫んでいた。笑うことなんて忘れてしまったように、ただただ悲しみと戸惑いが書かれていたのに。

 どうしてそんな風に、笑うことができるのか。

「読んだ通り、記憶障害の病気になっちゃったんだ。でもね、本当幸いなことに初期も初期で。今すぐにどうこうってわけじゃないから」
「だけど……」
「最初はすごく落ち込んだんだけどね、なんとなく、こんな日が来るんじゃないかなーって思ってたところもあって。だから今はもう、大丈夫」

 僕らが学校で普通の生活を送っていた間、彼女なひとりで苦しんでいたのだ。

「どうして何も、言ってくれなかったんだよ……」

 そんなの、本当はわかっている。きっと胡桃は、僕たちに心配をかけたくなかったんだ。気を遣わせるのが嫌で、周りの目が変わるのが怖くて、外の世界にいる僕たちに打ち明けることなんてできなかった。胡桃の優しさが、そうさせたのだ。
 それでも話してほしかったと思ってしまうのは、完全なる僕のエゴだ。

 頼ってほしかった、ひとりで苦しまないでほしかった。

「──これは、わたしが自分と向き合わないといけない問題だったから」

 だけど胡桃は、凛とした表情でそう言った。
 ころんと足元でミイ子が腹を出して寝転がる。胡桃はその場にしゃがむと、慈しむような表情でそのお腹を撫でてやった。
 つられるように、僕もその場にゆっくりと屈みこむ。

「ずっとね、不安要素としてわたしの中にあったことなの。昔から忘れ物が多かったり、うっかりすることが多くて。おばあちゃんの付き添いで病院に行くこともあったから、そこで物忘れ外来の看護師さんやボランティアのカウンセラーさんとも仲良くなってね。いろいろ相談したりしてたんだ」

 診察にしては遅い時間帯に、病院帰りだとコンビニに寄った胡桃を思い出す。なるほど、彼女はおばあちゃんの診察以外でも、狭間病院に足を運ぶ機会が多かったのかもしれない。

「もう何年も前から、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているような気持ちだった。だから心の準備もできていたし、本当に大丈夫。専門的に相談できる人たちもいるし。それに今の医療って進歩がすごくて、もしかしたらわたしが大人になる頃には、治療法が見つかっている可能性もあるんだよ」

 ゴロゴロと、ミイ子は気持ちよさそうに喉を鳴らす。

「それにね──。人に与えられた運命は、何度やり直したって変えることはできないの」

 〝何度やり直したって〟という言葉に、僕は反射的に顔を上げた。

 過去をやり直すことで、未来は変わった。過去をやり直すことで、僕らの夏は取り戻された。それを知っているのは、僕だけのはず。

「まさか──」

 胡桃も、僕と一緒に二度目の夏を生きていた?

 思い返してみれば、不自然なことがいくつもあった。
 まず、戸塚ちゃんと拓実のコンビニでのやりとりを、胡桃が知っていたこと。
 外から見えた、なんて言っていたけれど、拓実の表情までもが窓の外から見えていたとは考えにくい。

 胡桃の、『葉、変わったね』という言葉だってそうだ。過去の僕と、今の僕を見てきた彼女だからこそ、その変化に気付いてくれた。

 さらには僕が両親とぶつかり家を出たとき。
『前に葉が、自分の両親は本当の親じゃないって言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな?』
 どうしてあのときに気付けなかったのか。
 僕が叔父夫婦と暮らしていると打ち明けたのは、一度目のときだけだ。〝二度目の夏を生きる胡桃〟は、そのことを知るはずがない。

 そして、今彼女から放たれた〝何度やり直したって〟という言葉。

「胡桃。もしかして、胡桃も僕と同じで──」
「わたしには葉たちがいてくれるから、大丈夫だよ」

 真意を尋ねようとした僕の言葉を、胡桃の明るい声が柔らかく遮った。

「葉がいつも笑っていてくれるから、わたしもちゃんと前を向こうと思えた。なんで、とか、どうして、とか。そういうことを考えるのはやめたの」

 胡桃は自分が、過去に記憶を失ったことを知っていた。もしかしたら夏祭りのあとだって、再び記憶を失うことを恐れながら過ごしてきたのかもしれない。
 僕が感じていた『胡桃の心配性』には、きちんとその理由があったのだ。
 それなのに僕は、何も気付けなかった。彼女が全てを知った上で、〝今〟を生きているということに。

「ねえ葉、笑ってよ」

 奥歯が擦れる鈍い音に、胡桃の穏やかな声が重なる。

「葉のおかげで、わたしはこんなに強くなれた。葉がわたしたちの手を離さずにいてくれたから、四人の絆だってこんなに確かなものになったの」

 胡桃の透き通った目はまっすぐに、僕のことを射抜いた。そこには、強い意志が込められている。

「だから絶対に、〝何もできなかった〟なんて、思ったりしないでね」

 胡桃には適わない。
 彼女はなんでも、お見通しだ。

 僕は、細く長い息を吐き出すと、胡桃の視線をまっすぐに受け止めた。
 こんな彼女を前に、僕がいつまでも下を向いているわけにはいかない。僕が励まされている場合ではないんだ。

 ──やっぱり、胡桃は強い。本当に強くて、誰よりも優しい女の子だ。だから僕も、強くなりたい。強くなろう。

「四人で一緒に、卒業しよう」

 声が震えぬようみぞおちに力を入れてそう言えば、彼女の顔には、満面の笑顔が咲いたのだった。

 バチバチと大粒の雨が僕の頬を打つ。かろうじて灰色を残した黒い空は、ごうごうとすごい音を立てながら無数の雨を降らせていた。うねりを上げる濃紺の海は、一度吞まれたら二度と海面へは戻さないという意志すら感じさせる。
 そんな豪雨の中、僕はひたすらに猫を探していた。どこかにいるはずの、小さな命。助けなければならない、大事なもの。しかしその姿はどこにもない。
 ふと雨があがり、濁った灰色から一筋の光が差し込む。照らされた海面は、闇と光の間を行き来するようにきらきらと光を放つ。ふと後ろを振り向くと、少し離れたところに誰かが立っているのが見えた。それは──。

 ハッと目を開けると、見慣れた天井が僕のことを見下ろしている。

「またこの夢……」

 手の甲で額を拭うと、じとりと汗が滲んでいる。胡桃と最後に会ってから、毎晩のようにこの夢を見ている。見覚えがあるような景色なのに、思い出そうとするとずきんずきんと頭が痛くなるのだ。

「……よしっ、起きよう! ただの夢ただの夢!」

 バシッと両手で頬を叩き、僕は勢いよく起き上がった。今日は、胡桃が久しぶりに登校する日なのだ。



「わ、みんな来てくれたの?」

 かちゃりと開いた玄関から現れた胡桃は、僕たち三人の姿を見ると目を丸くした。

「おはよー胡桃! 待ってたよ」
「おはよ、よく眠れた?」

 いつも通りに彼女を迎え入れる莉桜と拓実に、胡桃は嬉しそうな表情を見せる。とことこと小走りにこちらへやって来た胡桃は「みんなおはよう」とはにかんだ。

 今日という日を迎えるまでに、一週間弱がかかった。胡桃は莉桜と拓実を呼び出し病気のことを打ち明け、それからやはり学校へ向かうには心の準備が必要だったのか、数日の空白期間を経て、今日を再出発の日と決めた。

「胡桃、予備校やめたの?」
「うん。とりあえずは、きちんと卒業できることを目標にしようと思って。その先のことは、また考える」

 胡桃が休んでいる間にも、当然のことながら授業は進んでいた。この空白分は、僕と高野さんが放課後の図書室で埋めることになっている。

「そういえば、担任から保健室登校でもいいって電話きたんだって?」
「うん。いろいろと配慮してくれたみたいでね。だけどわたしは、みんなと一緒に教室で授業を受けたいって言ったんだ」

 胡桃の病気のことは、教職員と僕ら以外は知らされていない。それでも長く休んでいた胡桃が教室に入ることを決めたのは、勇気がいったことだろうと思う。

「僕たちだって同じ気持ちだよ。胡桃のいない教室は、なんだか変な感じがしたんだ。酸素が多すぎるっていうか」

 僕が軽口を叩いてみれば、胡桃が「そんなに酸素使ってませんー!」といつもの膨れ面を復活させ、僕らはみんなで笑った。


 穏やかな毎日が、戻ってきていた。胡桃の現在の病状は初期段階。何度も同じことを質問したり、財布がどこにあるかわからなくなり、もしかしたら盗まれたのかもしれないと不安がることもあった。今までの胡桃と同じように元気に登校するときもあれば、体調不良で学校に来られない日もある。
 それでも僕たちは、毎朝胡桃の家まで彼女を迎えに行き、休んだ日には放課後に顔を見に行く。登校した日の放課後は図書室で一緒に勉強し、自宅まで送り届ける。そんなルーティンができあがっていた。

「このまま行けば、卒業日数も大丈夫そうだな」

 放課後の図書室、スマホのカレンダーで数えながら僕が言えば、胡桃はやったーと両手を天井へと突き上げる。よかった、これで約束通り、四人揃って卒業することができそうだ。

 ちなみに放課後での図書室勉強会では、胡桃は授業の予習復習、僕は第一志望の大学の過去問題を解いている。疑問点があるときに答えてくれるのが、高野さんだ。驚くことに高野さんはどんな教科でも知識が深く、それでいて教えるのもうまかった。教師にならなかったのが惜しいくらいだ。

「四月からは、みんな大学生かぁ……」

 そんな胡桃の小さな独り言は、カキーンという野球部の音と共に、窓の向こうへと吸い込まれていく。
 こういう音を聞くことも、残り少なくなってきているのだろう。

「わたしも。こんな青春っぽい音とも、あと少しでお別れだわー」

 自分の心を読み上げられたのかと思った。しかし司書席の高野さんは、こちらなど見ずに窓の方へと顔を向けているだけだ

「お別れ……?」

 胡桃が首を傾げると、高野さんはこちらを向いて、コキコキと首を鳴らす。

「わたしも石倉たちと一緒。三月でここを卒業して、実家に戻るの」

 息をするように話された事実に、僕たちは驚きを隠せなかった。

 適当にやっているようで、高野さんは本をとても愛していたし、司書という仕事にも誇りを持ってやっていた。その仕事をやめ、嫌だと言っていた旅館の仕事をするというのだ。
 僕たちの顔を交互に見た高野さんは、「なあにその顔」と吹き出した。どうやら同じような表情をしていたみたいだ。

「自分がやりたいことと、大事にしなくちゃいけないもの。ずっと迷っててさ」

 それは今まで語られることのなかった、高野さんの本音の部分。今までの高野さんの言動から、やりたいことは司書の仕事で、大事にしなくちゃいけないものというのが家族や旅館だということはなんとなくわかった。

「自分の人生なんだから自分の思うように生きるんだー!って思ってたのよ、ずっと。だけど歳を重ねていくとさぁ、それはそれでいろいろなことが見えてきちゃうわけ」

 例えばお父さんの頭ってこんなに白かったっけ、とか。
 お母さんの背って、こんなに小さかったっけ、とか。
 お客さん全然いないけどやってけてるのかな、とか。
 お父さんとお母さんが引退したら、ここで働いてる人たちどうすんのかな、とか。

「ちょっと顔見るだけのつもりで帰ったら、他のものまで見えちゃって。やんなっちゃうよ」

 お盆期間中、高野さんは文句を言いながらも実家に帰省していた。手土産にと買ってきてくれた温泉まんじゅうはとてもおいしくて、胡桃がおかわりをしていたくらいだ。きっとその帰省の中、色々と感じる部分があったのかもしれない。

「いつだって自分のために生きていたい、わたしの人生だし。でもね、まあ色々、世の中には仕方がないことも多い」

 それでもその道を選んだのは、他でもない高野さん本人だ。

 どうして大人になると、仕事をひとつにしか絞れないのだろう。学校では数学や国語、化学に美術など、たくさんのことを学ばされるのに。
 学校の先生なら先生、旅館の女将なら女将、司書なら司書。それ以外の仕事は許しません。ひとつのことを極めてこそプロフェッショナルです!という風潮が、大人の世界にはある。

「とりあえずは旅館立て直して、黒字になったら速攻で図書室作る。そしたらみんなで勉強合宿しに来てもいいよ?っていうか、それいい。塾とか学校向けに勉強合宿プランも提案しようか。あれだな、富裕層の集まる学校とか塾をターゲットにして──」

 突然手元のノートに、カリカリとペンを走らせる高野さん。僕と胡桃は相変わらず、その思考回路と行動についていけず、ぽかんと見ているだけだ。

「高野さん、司書やめるんじゃないの……?」

 僕の言葉に、高野さんは「はい?」と眉をひそめた。

「旅館も大事だし、本に関わって生きてく人生も捨てらんない。女将なんだから司書はやっちゃいけないなんて、そんなのナンセンスでしょ」

 高野さんは立ち上がり、つかつかとこちら側へと歩み寄った。そして僕の向かいに座る胡桃の真横で立ち止まったのだ。

「だからね、中田。行きたいなら、大学に行けばいいんだよ」

 カシャンと、胡桃の手からシャープペンシルが落ちた。

「ちょっと、高野さんっ……」

 思わず口を挟んだ僕を、高野さんは「いいから」と制した。
 高野さんだって、胡桃の病気のことは知っている。進行を遅らせることはできても、完治するのが難しい病気だということも、物事を忘れていってしまう病気だということも。

「大学って、頭がいい人が行くところじゃない。学びたい人が行くところなんだから、中田に学びたいって意欲があるなら行けばいい。病気だから大学は行っちゃいけないなんて、そんなことありえないんだよ」

 高野さんの言葉は当然のことで、だけどそのことを忘れていた僕は、目から鱗が落ちるような心持だった。しかし当の胡桃としては、「それじゃあ行きます」だなんて簡単に思えないだろうことも容易に想像がついた。

「学んだところで忘れちゃうし……」
「わたしだって、大学で勉強したことなんてザルみたいに流れてっちゃったよ」
「でも……試験だってうまくできるかわからないし……」
「色々な大学があるし、受験のスタイルも様々でしょ。自己推薦とかもあるんだし、いいじゃん受けてみたら」
「それでもやっぱり、病気のこともあるし……。入学しても大学側に迷惑をかけちゃうかもしれないし……」
「誰にでも平等に、学ぶ権利がある。楽しむ権利も、遊ぶ権利も、今をめいっぱい生きる権利も」

 高野さんはピシャリと放った。

「いいじゃない。いつか忘れてしまう可能性がありますが、学びたい意欲は誰よりも強いです!って、胸を張ればいい。中田にしかできないことが、中田だからできることが、絶対にあるから」

 今年間に合わないなら、また来年チャレンジすればいい。とことん付き合うよと、高野さんはそう言った。

 純粋に、僕は心を打たれていた。

 僕は知らずのうちに、胡桃の状況を「病気だから仕方がない」と思ってしまっていた。そうすることが、彼女に寄り添うことだと勘違いしていた。胡桃が大学受験をやめたことも、やりたがっていた卒業式の合唱の演奏を諦めたことも、仕方がないことだと受け入れてしまっていた。だけど、本当はそうじゃない。

「高野さん……、ありがとう……」

 胡桃はそう言うと、きゅっと口元を結んで天井を見上げた。ふるふると瞳の表面で涙が揺れる。高野さんの言葉は、胡桃にもきちんと響いたのだ。
 やっぱり高野さんは、ちゃんと大人なんだ。物事を広い視野で見て、こうだからこう、という固定観念を外すことのできるひと。

「高野さんって、すごいな」

 僕がそう言うと、そこで高野さんはこちらをまっすぐに見つめ、顔を崩した。

「石倉たちが教えてくれたんだよ。今という瞬間を精一杯に生きて、楽しんで。泣いて笑って怒ってさ。石倉は、奇跡は〝起こす〟ものだって言ったけど、わたしはそう思わない。奇跡って、きっと本当はそこに〝ある〟ものなんだよ」

 ──奇跡は、〝起こす〟ものじゃない。
 ──奇跡は、〝気付けばそこにある〟もの。

「わたしにとっての奇跡は、石倉たちと出会えたこと」

 思わぬ言葉に、僕は大きく目を見開く。

 学校において、大人と生徒の関係というのは、基本的に教える側と教わる側に分けられる。高野さんは教師ではないけれど、それでも僕らに多くのことを教えてくれる。そんな高野さんが、僕たちとの出会いを奇跡だと言ってくれるなんて。
 僕もこんな大人になりたい。願わくば、胡桃と拓実と莉桜と一緒に──素敵な大人になっていきたい。そう思えることさえも、奇跡と呼んでもいいのだろうか。

 ◇

 結局、胡桃は色々と大学の資料を取り寄せたりはしたものの、受験はしなかった。
 莉桜は第一志望の医学部に一発合格。拓実は第一希望の私立大学に、そして僕も同じ大学への入学切符を手に入れた。今度はお前と腐れ縁かよ、なんて言われたけれど顔が笑っていたのがなによりの真実だ。

「なんか、あっという間だったよなぁ」

 コンビニのカウンターで横並びになり、拓実がそう口にした。店内にいる客は、若い男性がひとりと、スーツ姿の女性ひとりだ。

「卒業式まで、あと一週間か」

 時間が過ぎるのは、本当にはやい。ついこの間、みんなで夏祭りに行ったと思っていたのに、気付けば寒い冬も終わりを告げようとしている。

「石倉くーん、休憩入って~」

 裏から店長に声をかけられ、僕は「はーい」と返事をする。と、目の前にコトンと缶コーヒーがふたつ置かれた。
 この会計を終えたら、休憩に入ればいい。

「もしかして、〝葉くん〟かな?」

 突然見知らぬ声に呼ばれた僕が顔をあげれば、そこには物腰のやわらかそうな男性が立っていた。出で立ちを見るに、僕らより三、四歳年上だろうか。ベージュのジャケットを着たその人は、首から下げた写真付きの身分証をこちらに見せた。

 〝川口昌(かわぐちあきら)“と書かれたそれは、狭間病院のスタッフが常に身に着けているものだった。そこで僕は、この人は胡桃と関わりのある人だろうと悟ったのだ。

「少し、話せるかな?」

 休憩時間に入る、ということはさきほどの店長の声でばれてしまっている。戸惑いながらも、僕はその言葉にうなずくしかなかった。


 数分後、川口さんと僕は、コンビニの裏側に回った。ここは従業員用の喫煙スペースになっていて、灰皿とパイプ椅子がふたつ置かれている。僕はそのうちのひとつを川口さんに勧め、自分も腰を下ろした。

「改めて自己紹介させてもらうね。大学院に通う傍ら、狭間病院でカウンセラー見習いとしてボランティアをしている、川口です」

 ブラウンのニットに黒いズボン姿の川口さんは、人の良さそうな笑顔を向けた。そして先ほど購入した缶コーヒーをひとつ、こちらに差し出す。

「胡桃ちゃんと色々話すことも多くて。その中で、葉くんの話がよく出てきてたんだ。それで、一度話してみたいなと思って」

 胡桃が僕の話をしていた。そのことは、こんな状況でもやはり嬉しく感じてしまう。彼女にとって自分が、それなりに意味がある存在であると感じられたからだ。
 僕はお礼を言って缶コーヒーを受け取った。ぷしゅりとプルタブを引くと、苦い香りが鼻先をかすめていく。

「胡桃ちゃんのこと、石倉くんもショックだったと思う。だけど彼女は本当に強くてね……。葛藤しながらも、比較的すんなりと状況を受け入れたから、僕らも驚いたよ」

 病院で過ごしていれば、様々な状況の患者さんと出会うだろう。自分の病と様々な方法で闘い、乗り越えてきた人々を見ることも、少なくはなかったはずだ。
 そんな川口さんの目から見ても、やはり胡桃は〝本当に強い“女の子なのだ。

「普通は病気であることを受け入れられないことがほとんどなんだ。なにかの間違いじゃないかとか、自暴自棄になったり無気力になったり。そういう段階を経て、少しずつ病と向き合うということができるようになっていく」

 僕の父親なんて、そこまでに一年以上かかったと、川口さんはわざと呆れたように笑った。

「あまりにも聞き分けがいいというか、そういうところが心配に思えることもあって……」

 僕は、胡桃の日記を思い返していた。

 あそこには、彼女の悲しみや絶望、嘆きが綴られていた。胡桃は決して、最初からすんなりと病を受け入れたわけじゃない。苦しみ、もがき、だけど自分を見失うことだけはしたくなかったのかもしれない。「仕方がない」と何度も言い聞かせることで、どうにか自分の中で折り合いをつけたのだ。
 だからこそあの日記の言葉には、常に諦めの色が滲んでいたのだ。

「胡桃は胡桃のやり方で、病気と向き合っているんだと思います」

 うん、と川口さんは、自分を納得させるように頷いた。それから缶コーヒーをぐいっと煽る。

「胡桃は絶対、大丈夫ですよ。川口さんのような相談相手もいるし。なによりも、僕たちがいますから」

 ──このときの僕は、本気でそう思っていた。思い込んでいたのだ。

 だから気付くことができなかった。小さな体で受け止めきれないほどの運命を背負った彼女が、ギリギリのところでどうにか立っていたことに。

 卒業式をあと二日後に控えた日、胡桃は入院することになった。

「急遽入院なんて、びっくりさせちゃったよね。みんな、ごめんね」

 薄いピンクの病衣をまとった胡桃は、彼女が悪いわけではないのに、謝罪を口にした。
 狭間病院にある、脳神経外科病棟の一室。学校帰りの僕たち三人は、お見舞いに訪れていた。

「検査入院だって?」
「そうなの、急に決まっちゃって」

 ベッドの上にはいるものの、胡桃の様子はいつもとなんら変わらない。顔色もいいし、「病院にいると体がなまっちゃう」なんて、腕をぶんぶんと回している。その様子に、僕はちょっとだけ安堵の息を吐き出した。

 胡桃の入院は、一週間ほどらしい。ということは、二日後の卒業式はまだ入院中ということになる。

「あさってだけでも、どうにかならないのか?」

 拓実の言葉に、莉桜と僕は胡桃を見つめる。二日後は、卒業式だ。
 しかし彼女は困ったように、ゆるりと笑って首を振った。

「わたしからもお願いしてみたんだけどね。どうしてもその日に検査をしないといけないらしくて。わたしの身体のためのものだから、仕方ないよね……」

 学生である僕らから見れば、容態が悪いわけではない胡桃の検査をその日にしなければならない理由がわからない。だけどきっと、病院には病院の事情があるのだろう。

 ここに来るまでに、たくさんの入院患者とすれ違ってきた。ここにいるのは、胡桃だけではないのだ。それでもやっぱり、どうにかならないものかと考えずにはいられない。

「それより、拓実。卒業式の日、戸塚ちゃんに告白するんでしょ?」

 胡桃はいつものように明るい笑顔で、話題を変える。それは、彼女の優しさだ。

「そうだよ、わたしたちの応援を一心に受けて、バシッと勝負決めないとね!」

 莉桜は一瞬の間を開けてから、その話を明るく広げた。

「拓実の告白シーン、胡桃にも中継しないとな」

 僕が両手の人差し指と親指でカメラのファインダーを模し、拓実に向ける。

「おいお前ら……そういうのを盗撮って言うんだからな?」

 おもむろに眉を寄せた拓実がそう答え、それから僕らは声をあげて笑った。
誰もみな、本当におもしろかったわけじゃない。だけど笑うことしかできなかった。
 僕らはお互いのことが大好きだった。大切で、愛おしかった。だけど、まだまだ青い僕たちは、こうして表面的に笑うことくらいしか、胡桃の想いを受け止める方法を知らなかったのだ。
 はしゃぐふりをすることで、心の中にできてしまった空洞に蓋をして。看護師さんに注意されてもなお、僕たちはからっぽな笑い声で、真っ白な病室を、必死になって埋め尽くそうとしたのだった。



 リュックにペンケースを入れていると、体育館の方から合唱が聞こえてきた。明日の卒業式のため、在校生が最後の練習をしているのだろう。
 一年前は自分がそちら側だったのに、明日は送り出される側になる。なんだか不思議な気分だ。

「葉、先に胡桃のとこ行ってて。俺、ちょっと戸塚に呼ばれてて。あと、バイト先寄ってから行く」

 卒業式の前日、三年生である僕らが学校ですることなど特にない。それでも明日で離れ離れになるクラスメイトとの時間は特別で、午前中で学校が終わっても、教室には大勢の生徒たちが残っていた。
 莉桜は明日、卒業生代表の挨拶をする。その原稿チェックなどがあるらしく、病院で合流することになっていた。

 僕らは今日も、胡桃のお見舞いに行く。

 これは別に、誰かが言い出した約束ではない。だけど僕たちにとってそのことは、夜になれば眠るのと同じくらいに、ごく当たり前のことだった。

「来月のシフト出てたら、僕の分ももらってきて。戸塚ちゃんによろしく!」
「了解。じゃあな」

 拓実と戸塚ちゃんは、付き合ってはいない。しかし拓実の頑張りにより、戸塚ちゃんの気持ちにも変化が出てきているようだ。戸塚ちゃんが色々な男と歩いているところを、見なくなって久しかった。

 人間は、変わるものだ。だけどひとりきりで変わっていくわけじゃない。傷つけたり傷ついたりしながら、絡まった紐をほどきながら、想いをまっすぐ伝えながら、そうやって変わっていく。だから人は、ひとりでは生きていけないのかもしれない。

「お、石倉」

 ちょうど廊下の角を曲がったところで、高野さんと鉢合わせた。手には明日配布される、卒業アルバム。

「一足先に、石倉たちの青春を拝見させてもらいました。もうね、青春!って感じの写真で溢れてた」
「明日、高野さん泣いちゃうんじゃないの?」

 僕がそうからかえば、高野さんは真面目な顔をしたまま「ありえる」と頷く。それから表情を柔らかくして、僕の頭を一度だけぽんと叩いた。

「石倉さ、わたしと初めて会ったときのこと覚えてる?」

 ほんの少し、記憶の引き出しを開けてみる。高野さんと出会ったのは放課後の図書室だ。実際には高野さんとは二度、〝出会う〟という工程を踏んでいるが、高野さんには一度目の記憶はない。

「あのとき、わたしが石倉に質問したじゃない?」

 自分の身に何が起きたのかを知りたかった僕は、時間についての本をいくつも机に積み上げていた。そんな僕に高野さんは、こう聞いた。
『どの時代にも行けるって言われたらさ、未来と過去、どっちに行きたい?』と。

 あの日の僕はその質問に、『過去』と即答した。確かに僕は、後悔していた過去を変え、新たな今を送っている。しかし、胡桃の背負う運命を変えることはできなかった。

「今の石倉ならどうしたい? 未来と過去、どっちに行きたい?」

 僕の中を、たくさんの出来事がよぎっていく。
 一度目の六月、失敗したこと、すれ違ったこと、ただただ逃げたこと。バラバラの日々。僕らを忘れた胡桃がいたこと。
 二度目の夏、図書室でみんなで勉強したこと、拓実とぶつかって理解し合えたこと、四人で回った夏祭りと、花火の下で胡桃と手を繋いだこと。そして、僕らをいつか忘れる胡桃がいること。

「そんなの、決まってるよ」

 僕たちは、人生のどの部分を生きているのだろう。後悔しない人間なんて、きっと多分存在しなくて、明るい未来を願う人間は、きっと多分大勢いて。
 そんな中、僕はどこに行きたいか。どんな場面を、誰と一緒に見ていたいか。

「僕は、────」

 迷うことなく答えた僕を、高野さんは優しく目を細めて見つめた。

「中田も、同じこと言ってたよ」

 ころころと笑う胡桃。ぷんぷんと頬を膨らませる胡桃。涙もろい泣き虫胡桃に、幸せそうに微笑む胡桃。
 どんな胡桃も、愛おしくて大切だ。

「胡桃のところ行ってくる。じゃあね高野さん!」

 どうしようもなく会いたくなって、思わず僕は走り出した。
 胡桃がこの世界にいてくれることが、純粋に嬉しい。そばにいてくれることを、すごく幸せに思う。
 そのことを、ちゃんと彼女に伝えたいと。僕はそう思ったんだ。

 病院に到着すると、ナースステーションが慌ただしかった。ここは急患も受け入れているし、緊急オペなどがあったのかもしれない。

「葉くんっ‼」

 胡桃の病室へ向かう廊下で、背後から名前を呼ばれた。

「川口さん……」

 コンビニに来て以来、川口さんとは病院で顔を合わせることもあった。川口さんは本当に物腰がやわらかく、穏やかなひとだ。
 しかしそんな川口さんが、血相を変えている。それはつまり──。

「胡桃ちゃんがいなくなったんだ」

 その言葉に、頭の中が真っ白になる。

 ──胡桃が、いなくなった?

「午前の検温のときはいたんだけど、お昼ごはんを持ってきたら部屋にいなくって」

 ぼわん、ぼわん。川口さんの声は、幾重もの膜を張って僕の耳へと流れてくる。

「──中田胡桃が行方不明だと?」

 キィン。強い耳鳴りのあと、彼女の名前が輪郭を持ってクリアに聞こえた。反射的に振り向くと、白衣をまとった医師らしき男性が看護師に詰め寄っている。

「明日の検査は、研究機関のトップクラスが患者の状態を見てみたいと言ったから組んだんだぞ? 相手の都合に合わせて日程もねじこんだんだ。何があっても見つけ出さないと」

 十代での記憶障害を伴うこの病気の発症例は、世界的に見ても非常に稀。それは、以前川口さんが僕に話したことだ。それゆえ彼女は、データを取るためにも何度も検査を受けなければならないだろうということも。

「なんだよ……。それが、本当のところかよ……」

 腹の底が熱くなり、強い怒りがこみ上げる。
 胡桃がどれほどに、卒業することを心の支えとして過ごしてきたか。卒業式というひとつの節目が、彼女にとってどれほど重要な意味があることだったか。

「葉くん、少し落ち着いて。これを見てもらいたいんだ」

 医師が乗り込んだエレベーターの扉が閉まったことを確認した川口さんは、僕に一枚のメモ用紙を差し出した。


 みんなのことを忘れる前に
 このまま終わりにしたい
 わたしはわたしのままでいたい

 
「胡桃……」

 そこには、見慣れた彼女の文字。

 ──ああ、僕はなにもわかってなんかいなかったんだ。

「やっぱり胡桃ちゃんは、無理をしてたんだと思う。ひとつの支えとしていた卒業式を目前に入院したことで、その我慢の糸が切れてしまったんだ」

 川口さんは顔を歪めた。この人は、カウンセラー見習いという立場で、胡桃のことをずっと見てきた人だ。

「この病気は、葉くんが想像しているよりも、ずっとずっと残酷なものなんだ」

 身内に同じ病を抱えている立場として、言いたいことは色々あるのだろう。

「記憶をなくしていくということは、自我が崩壊していくことでもある。胡桃ちゃんはきっと、胡桃ちゃんではなくなってしまう。凶暴な別人になってしまうこともある。大きな愛情で乗り越えようと思ったって、そんな幻想を打ち壊してしまうだけの現実が待っているんだ」

 苦言を呈する、というのはこういうことを言うのだろう。川口さんは顔を歪めながらも、言葉を続けた。

「君たちが彼女を支えたいという気持ちはよく分かる。葉くん、きみが胡桃ちゃんのことをとても好きなんだということも。だけど忘れたくない人のそばにい続けるということは、果たして本当に彼女のためになるのかな」

 僕はゆっくりと、口を開く。気付かぬうちに、口の中がカラカラに乾いていた。

「胡桃が……そう言ったんですか……?」

 僕たちが一緒にいる。いつでも僕らがついている。

 それが最善だと思っていた。胡桃にとって、大きな支えになると思っていた。だけどそうではなかったのだろうか。僕らの存在が、彼女を苦しめていたのだろうか。

「葉くんたちと一緒にいると、幸せだけどつらいと言ってた……」

 カタカタと奥歯が鳴って、僕はぐっとそれを噛みしめた。

「こんな病気になってしまって、彼女の人生はこれからつらいことばかりだ。苦しくて悲しくて寂しくて……自分に降り掛かった不幸をずっと抱えながら生きていかなければならない。いつ自分のことすらわからなくなるのか怯えながら、息をしていかなきゃならない」

 ゴクリと、喉の奥で何かが擦れる音がする。

 川口さんの言っていることは、事実なのだろう。どうしたって胡桃が苦しむことは、避けられないことなのだとも思う。だけど──。

「胡桃ちゃんは、葉くんたちを忘れることを一番恐れていた。それは同時にきみたちのことをひどく傷つけるということも。この病気を抱えた人を支えていくというのは、そんな簡単にできることじゃないんだ。病気になってしまった胡桃ちゃんの意志を、尊重してあげてほしい。彼女は僕が見つけるから──」
「……じゃない」

 きつく噛み締めた歯の隙間から、低い声が漏れる。「え」という川口さんの声を待たず放たれた僕の声は、想像以上に大きく廊下に響き渡る。

「胡桃は、不幸なんかじゃない‼」

 病気になってしまったことは、確かに不運なことなのかもしれない。だからといって、胡桃が不幸かどうかなんて、そんなのはわからないじゃないか。

「不幸って、なんですか……? 世間がかわいそうだと思うことが、必ずしも不幸なんですか?」

 胡桃の笑顔、次々に大事なひとたちの顔が浮かぶ。

 記憶障害を伴う不治の病を抱えた胡桃。
 実力のある父親と結果を出す兄を持ち、からっぽだと言われた拓実。
 親の敷いたレールになんの疑問を持たない自分に、虚無感を抱いている莉桜。
 母親に捨てられた過去を持ち、自分の居場所なんてないと嘆いていた僕。

 なあ、僕。どうなんだよ、僕らはみんな、不幸なのか? 世間が不幸だと言えば、その通りなのか?
 僕らの人生を不幸にできるのは、幸せにできるのは──僕たち自身だけじゃないのか?

「胡桃が不幸かどうかなんて、あなたが決めることじゃない。胡桃の人生を決められるのは、胡桃だけだ!」

 それまでのぐちゃぐちゃに混ざっていた黒い気持ちが、少しずつ落ち着くところへ重なっていく。

 きっと人間はいつだって、あからさまな〝不幸〟で特定の人間を囲ってしまう。

 〝病気〟という不幸の枠で囲われた胡桃。
 〝からっぽ〟という不幸の枠で囲われた拓実。
 〝親の言いなり〟という不幸の枠で囲われた莉桜。
 〝母親がいない〟という不幸の枠で囲われた僕。

「枠なんて、ただの枠でしかないのに」

 不幸の枠で囲うことで、みんなと区別することで、『かわいそうだね』『自分はまだマシだね』なんて自分を慰めることを人間は無意識にしてしまう。だけど本当のことは、本人にしかわからないのだ。
 僕はゆっくりと呼吸を整えると、川口さんをまっすぐに見つめた。川口さんは圧倒されるように、そこに立ったままだ。

「周りが決めた〝不幸〟で僕らを切り離すことが正しいと、川口さんは本当にそう思いますか?」

 カウンセラーとしてではなく、ひとりの人間である川口さんに僕は尋ねた。彼は一度、黒い瞳をまるくすると、それからゆっくりとこうべを垂れた。

「胡桃のこと、真剣に考えてくれてありがとうございます」

 これは、本心だ。川口さんは本当に、胡桃のことを考えてくれている。きちんと寄り添おうとしてくれている。きっと彼は、多くの人を救うカウンセラーになるだろう。高校生の僕が言うのも変だけど。それでも本気でそう思う。

 僕は川口さんに向かって一礼すると、くるりと踵を返した。駆け出そうとしたところで、言い忘れたことを思い出す。

「川口さん」

 確かに僕は専門知識もなく、今持っているのは彼女への想いだけかもしれない。それでも僕は、彼女のそばにいたいと願う。

「僕は、彼女を〝支えたい〟わけじゃないんです。ただ一緒に、今を〝生きて〟いきたいんだ」

 それだけ告げ、僕は再び駆け出したのだった。