「なに、煙草でも吸ってんの?」
「ああ、大人のたしなみとして。拓実も吸う?」
ポケットから出したシガレットケースをカタカタと揺らして見せれば、「なんで持ってんだよ」と拓実は笑った。その笑顔にほっとさせられた僕は、ケースから一本取り出すとポキリとそれをかじる。
「シガレットラムネが、大人のたしなみね」
くつくつと肩を揺らす拓実は、そう言いながらも、僕が差し出したケースから一本ぬきだし、同じようにかじった。
コーラ味の菓子の香りが口の中で広がっていく。出かけるときに必ず持参するタバコ型のラムネ菓子は、叔父さんの好物だ。小さい頃は、よく一緒に本物の煙草のように吹かす仕草を真似したっけ。
「懐かしいな」
僕の独り言に、拓実が首を傾げる。
「ああ、小さい頃食べたなーって」
あの時期は、叔父さんも大変だっただろう。独身で働き盛り、遊びざかりの時期に突然小さな子どもを押し付けられたんだから。
当時まだ恋人であった叔母さんだって、きっとたくさん戸惑った。結婚したい気持ちはあっても、相手はコブ付き。しかも実の子供じゃない、なんて。
「……ごめんな」
突然の拓実の謝罪に、ラムネがぽきりと折れて落ちる。
「お前が高野さんの話をしたとき、俺、自分を重ねてたんだわ」
拓実の父親は、有名な柔道選手だったらしい。オリンピックにも出たことがあるというのだから驚きだ。現役を引退してからも後輩たちの指導にあたり、現在は道場を開いている。
「小さい頃は自分も柔道でオリンピックに出るんだーって信じてて。兄貴と一緒に大会とかも出て。でもそんな甘くないよなぁ。兄貴と違って、結局俺は努力ができなかった。頑張れなかった」
その頃から、拓実は父親や兄とあまり会話をしなくなった。兄と自分を比べられるのが嫌で、柔道をやめたことを責められるのが怖くて、逃げるなと叱咤されるのが苦痛で、ひたすらにふたりを避けた。
「なにをやりたいかはわからないくせに、柔道をやりたくないってことだけはわかってた。そのまま親父ともなんとなく話しづらくなって」
拓実も同じだったんだ。僕が自分の家庭環境を周りと比べたのと同じように、拓実は実の兄と自分を比べて逃げ出した。どうして僕たちは、いつでも誰かと自分を比べてしまうのだろう。
「葉が高野さんの家の話をしてるとき、俺は自分のことしか考えてなかった。親が喜ぶ結果を出せる兄貴と、ふらふらしてて『からっぽだ』って言われた俺」
「からっぽ……」
「だから葉の言葉を聞いたとき、自分を責められてる気がした」
拓実は普段、あまり自分のことを話さない。いつだって僕がしゃべっているばかりで、拓実は呆れながらも相槌を打ってくれて。
そんな拓実が、今こうして、自分のことを話してくれている。今まで僕は、拓実のことをなにもわかっていなかったんじゃないだろうか。そして拓実も、本当の僕をきっと知らない。だけど今ならば、もう少しちゃんと向き合える気がするんだ。
「拓実が僕のことを、思い込みが強いって言っただろ?」
「あれはまあ、勢いっていうかなんていうか」
「いや。あれさ、本当にその通りだなって思ったんだよ」
僕はゆっくりと、だけどしっかりと、自分がこの場所で感じたことを拓実に伝えた。
家庭環境のこと、自分が劣等感や不幸感を常に抱えていたということ。そのことについ今、気が付いたということ。
それを拓実に打ち明けるというのは、これまでの石倉葉として作り上げてきた人物像を壊すことと同じかもしれない。それでも僕は、拓実に話したかった。本心を打ち明けてくれた友に対し、きちんと自分を見せたいと思ったのだ。
「拒まれるのが怖くて周りの顔色ばかりを窺っている、ただの臆病者。それが、本当の僕なんだ」
僕がそう締めくくれば、拓実はふぅーと大きな息を吐き出した。それから、両手を上に大きく伸ばすと、コキコキと首を鳴らす。
「なんか、安心した」
すっきりとした表情の拓実の横顔に、僕は「へ?」と間抜けな声を出してしまう。
拓実はこちらを見ると、「悪い悪い」とくしゃりと表情を崩した。それは今まで僕がよく知っていたはずの拓実の笑顔と同じなのに、なんだか初めて見るような表情にも思える。
すかしたようなものじゃない、作ったようなものじゃない、ふわりと柔らかく細められる目。
「葉ってさ、喜怒哀楽の〝喜〟の部分しか見せなかったから」
拓実曰く、常に明るく笑ってばかりいる僕は、いつも一緒にいる拓実から見るとなにを考えているのかわからない部分があったと言う。
「なにをしても怒らないし、落ち込まないし、楽観的だし。さっきだって、普通なら怒る場面なのに、すんなり謝罪して部屋から出ていったじゃん? 本当はどう思ってんのかとか、本音が見えなかったんだよ」
さきほどまでは眩しすぎて痛いとすら感じていた陽の光が、さわやかな明るさで彼の髪の毛を照らす。
僕はずっと、みんなのことを大切に思ってきたつもりだった。一度失ってしまった僕たち四人の絆を守らなければと、何度も自分に言い聞かせてきた。争いごとは避けて、ひたすらに楽しく過ごすことだけが、彼らを守ることにつながる。
だけどそれは反って、みんなを不安にさせることもあったのかもしれない。
「高野さんが言ってたんだ」
「なに?」
「目に見えるものが、すべてじゃないって」
いつも一緒にいることだとか、無理やり始めた交換ノートだとか、やりとりしているメッセージの内容だとか。そういう目に見えるものばかりで繋ぎ止めた気になっていた。
空気を読んで、楽しい話題だけを提供して、みんなの笑顔を見れば、これで大丈夫なんだと安心した。
「ずっとこのままならいいって、思ってたんだ。変わりたくない、って」
僕の言葉に、拓実はじっと耳を傾ける。
「だけど、そんなことばかり言ってられないんだよな」
今までのように、毎日四人で過ごすなんて無理なことだし、新しい場所で別の交友関係を築いていくことにもなるはずだ。
僕たちは大人になる。そのこと自体が、変化なのだ。
「変わることを恐れてたら、前に進めないんだよな」
ほんの少しの静寂の中、カリッとという音が響く。拓実が口の中で、ラムネを噛み砕いたのだろう。
「いいじゃん、一緒に進んでいけば。環境とか会う頻度は変わっても、俺たちが重ねてきたものは変わらないんじゃん? ま、知らないけど」
普段あまり、そういうことを言わない拓実。最後の言葉は、照れ隠しに使ったのだろう。
案の定、拓実は口元を押さえながら、向こう側を向いている。しかも耳が赤い。
僕の心には、ゆっくりとあたたかいものが広がっていった。
「来てくれて、ありがとな……」
刹那的だったとしても、拓実は僕に対して怒っていたはずだ。それでもすぐに、こうして時間をあけずに話をしに来てくれた。探しに来てくれた。
もしも僕が拓実の立場だったら、彼のようにすぐに動くことができただろうか。
「胡桃に、行ってこいって喝入れられて」
「胡桃に?」
「〝思っていることがあるなら、すぐにでも伝えなくちゃ。言いたいことも言えないまま、会えなくなったらどうするの? いつもと同じ明日が来る保障なんて、どこにもないんだよ!〟って、ドーンと」
胡桃の声真似をした拓実は、そのときの彼女の動きも真似したのだろう。両手を体の前に出すと、突き出すような動作を見せた。
思わず僕は吹き出してしまう。その様子が容易に想像できたからだ。
「普通さ、こういうときって女の子が慰めに来るのがお約束じゃん?」
拓実はそう言いながら、僕のことを横目で見て笑う。葉だってそっちのが嬉しかっただろ? と。
僕はそれに「まあなぁ」と軽口で答えながらも、そうしなかった胡桃を愛おしく思った。すごく、すごく胡桃らしい。
「胡桃は、強いんだよ」
僕は素直に、浮かんだ言葉を声に乗せる。
彼女は大事なものがなにかということを本質的にわかっていて、周りの状況に臆したりしない。人の気持ちを汲み取ることに長けていて、凛とした強さを持っている。あの小さな体のどこに、そんな強さとパワーを宿しているのだろう。
「胡桃、いいよな」
拓実がぽつりとこぼした言葉に、僕口はぽかんと開く。間抜けなほどに。
「かわいいのに芯があって、強くて。だけどちょっと抜けてるところが、またいい」
多数の女の子たちとの関係を自在に操るの拓実の口から、未だかつて胡桃をこれほどまでに褒め称える言葉が出たことがあっただろうか。
「な……」
ヒヤリ。背筋を一筋、嫌な汗が流れ落ちた。
「なに言ってんだよ! だっ、だめだってば! 胡桃はだめ! 大体ほら、莉桜にも胡桃だけはだめって言われてるって……!」
ニヤリと拓実が嫌な笑みを浮かべるから、僕はさらに焦ってしまう。
胡桃は拓実に対して、恋愛感情は抱いていないはず。だけど、女の子との接し方がとことんうまい拓実が本気を出したら、どうにかならないとも言い切れないじゃないか。
「とにかく絶対だめだから! 胡桃だけは、いくら拓実でも渡せない!」
そこまで一気に言い切ってしまったあと、今度は別のにんまりとした笑みが目に映る。どうやら、まんまと罠にはまってしまったらしい。
ぐんぐんと急上昇していく顔の表面温度。きっと真っ赤になっているであろうことは、鏡なんてなくても簡単に想像できてしまうほどに熱い。
拓実はトン、と僕の左肩に自分の右肩を軽くぶつけた。それから「心配すんなって」と笑った。
「俺、好きなやついるからさ」
人間というのは、鏡みたいなものだと聞いたことがある。自分が素直になれば、相手も素直になってくれる。自分が本音で話せば、相手も本音で話してくれる。
全部が全部、その法則にあてはまるわけじゃないとは思うけれど、少なくとも今の僕と拓実の間では、それが立証されたみたいだ。
──拓実には、好きな人がいる。
ごくりと僕の喉元が、大きな音と共に上下した。