僕らの奇跡が、君の心に届くまで。


 ◇

「おぉ、本当に働いてる」

 ぴろぴろぴろーん、ぴろーりーろーりー。

 なんとも平和で単調なメロディに条件反射となった「いらっしゃーせー」を口にすれば、聞き慣れた声が楽しそうに転がった。

「わ、胡桃じゃん。びっくりしたー」

 レジの小銭を補充している僕の姿に、くすくすと笑う彼女。どうやら真面目に働いている僕らを冷やかしにきたらしい。拓実はドリンクの補充をしに裏へ行ってしまっている。

 時刻は午後七時。ここはどちらかと言えば学校の近くにあり、胡桃の家からはバスで十分ほどかかる場所だ。どうして、という僕の気持ちを汲み取ったのだろう。彼女は「おばあちゃんの薬をもらいに来たの」と小さなビニール袋を持ち上げてみせた。

「薬って、ここの裏の病院?」

 僕が親指で背後を指すと、彼女は「うん」と頷く。狭間病院という名のそこは、この街では一番の大きな総合病院だ。胡桃はおばあちゃんと暮らしていると言っていたから、そのおつかいごとを頼まれたのだろう。

「なんか不思議な感じ。ちゃんと店員さんに見える」
「当たり前だろ。店員なんだから」

 バイト先に胡桃が来るのは初めてのことで、僕はなんとなくそわそわと落ち着かない気分になってしまう。普段はいない僕の生活区域に、彼女がいる。いつもとは違う自分を見られている。
 それはなんだか少しむず痒く、だけど不快なんかじゃない。自然と背筋が伸びてしまって、必要のない札数えなんかもしたりして。

「……ってなんだよ、見てないじゃん」

 仕事ができる僕、を見せたかったのに。

 当の胡桃はレジ前のスイーツの棚を見て、ウンウンと頭を捻っている。どうやら、牛乳プリンにするか、シュークリームにしているか悩んでいるみたいだ。

「両方にしなよ。牛乳プリンは、僕が払う」
「え、なんで?」
「給料日だから」

 本当はただ買ってあげたくなったからなんだけど、そんなこと口に出せない。

「悪いよ、大丈夫」
「いいのか? その牛乳ぷりん、めちゃくちゃレアな限定味で、全国でこのコンビニにしかもう残ってないんだから」

 ぴろぴろぴろーん、ぴろーりーろーりー。

 来客を知らせるメロディに会話を打ち切る。お客さんが来てくれてよかった。僕というやつは、適当な嘘をついてまで胡桃に牛乳プリンを買ってあげたかったらしい。

「あれ」

 開いた自動ドアからは、同じ年齢くらいの男女が並んで入ってきた。その女の子にどこか見覚えがあり、僕は数秒、その横顔を眺めてしまう。

「あの子、見たことある」

 僕の視線を辿った胡桃もそう言う。ふわふわと揺れる長い髪の毛に、真っ白な肌。大きな瞳とピンクの唇。儚くて可憐な印象をまとったその子を、僕はどこで見たのだったか。

「確かひとつ下の女の子。去年の入学式ですごくかわいい子が入ってきたって、噂になってた子だと思う。名前……なんだったかなぁ」
「──戸塚真帆(とつかまほ)

 ふいに明らかになった名前に右を向くと、品出しを終えた拓実がすぐそばに立っていた。胡桃に向かて「よっ」と片手を挙げた拓実は、そのままレジカウンターの中へと入ってくる。

 そうか、拓実が学校で話していた女の子だ。私服姿で、すぐにはわからなかったのだ。

 僕はもう一度、背の高い男と楽しそうに会話をしながらお菓子の棚を見ている彼女に目をやった。一緒にいるのは彼氏だろうか。

「彼氏、あの子のことが大好き!って感じだね。顔がゆるゆるだもん」

 微笑ましく見守る胡桃とは対照的に、拓実の表情はなんの感情も表してはいなかった。ただただ瞳に、その姿を映しているだけのように見える。

 ぐるりとコンビニ内を一周したふたりは、お菓子やドリンクを手にこちらへとやって来た。そこで彼女は、レジカウンター内の拓実の姿に気づいたのだ。

「あっ、拓実先輩じゃないですかぁ! ここでバイトしてたんですねっ」

 綿菓子のような甘い声。彼女は笑顔を咲かせながら小走りにカウンター前へ駆け寄る。それからきょとんとしている彼氏に向かって「学校の先輩なの」と振り返った。

「デート? 楽しそうでいいね」

 にこやかに彼女の手からお菓子を受け取り、スキャンしていく拓実。しかし、その目が彼女の笑顔にまっすぐに向けられることはない。
『女の子と接するときにはアイコンタクト必須』を信条とする拓実が、こんなにかわいい女の子を前に視線を上げないのだ。

「拓実先輩がいるとき、また買いにきますね」

 語尾でハートマークでも踊りそうな話し方をする彼女を前に、拓実はやはり薄ら笑いを浮かべるだけで顔を上げない。それから「千十五円でーす」と、やたらと軽い口調で金額を伝えたのだった。

「戸塚ちゃん、かぁ。初めて近くで見たけど、すごくかわいくて綺麗な子だったね」
「まあ確かに、人形みたいな子だったな」

 胡桃のがかわいいし、莉桜のが綺麗だと思うけど。とは言わないでおいた。

「拓実、好きなんだろうね」
「ああ、うん……って、え? 拓実が誰を?」

 僕と胡桃はいつもの海沿いの道を、バス停に向かって歩いていた。あのあと出勤してきた店長が、胡桃を僕の彼女だと勘違いして大盛り上がり。休憩がてらバス停まで送っていけと、店長命令が出たわけである。ちなみに拓実はレジ番だ。

 それにしても、胡桃は突然何を言い出すのか。いま僕らは戸塚ちゃんというかわいらしい後輩の話をしていたはずで、どうしてそこで拓実が誰かを好きだという話題になるのか。
 話の脈絡が、見えてこない。

「拓実が……誰を好きだって?」
「戸塚ちゃんだよ」

 いやいやいや、そんなまさか。確かに拓実の好きそうなふわふわした女の子で、声だってかわいかった。甘え上手な感じもしたし、さぞかしモテるだろう。
 だけど拓実はつい先ほど、彼女に笑顔を向けたりはしなかったのだ。

「むしろ、苦手な感じに見えたけど」
「えー、なんで?」
「だってさ、拓実はあの子と目も合わせようとしなかったし」

 拓実と戸塚ちゃんが並んでいるところを思い出し、僕はうーんと小さく唸った。確かに美男美女で、お似合いだと言えなくはない。
 それでも僕にとって一番しっくりくる構図は、拓実の隣には莉桜がいるというものなのだ。恋愛どうこう関係なく、あのふたりが一緒にいることがなによりも自然に思える。

「まぁ、あんな場面に出くわしちゃったら、拓実があんな態度になるのもわかるけどね」

 したり顔で頷く胡桃に、僕は首をかしげる。

「どういうこと? 僕の統計上、ああいう拓実の態度は、苦手な相手にするものなんだけど」
「葉は人の気持ちを汲み取るのがうまいけど、恋愛においてはかなり疎いよね」
「そんなことないって」

 なんて、口では言ってみたものの、たしかに胡桃の言う通り。僕は恋愛経験がほとんどない。
 人の気持ちというのは、恋愛が絡むだけでそこまで違うものになるのだろうか。

「それじゃあ、胡桃は恋愛の達人だって言うのかよ」
「少なくとも、葉よりは恋愛経験がある!」

 堂々と胸を張る胡桃に、少しむっとしてしまう。

 僕の知らない胡桃がいる──。

 そんなことを思ってしまったのだ。

 胡桃は腰に当てた両手をほどくと、それからふわりと髪の毛を耳にかけた。その仕草がたおやかで、僕の心はきゅうっと一度小さく音を立てる。

「今だって、片思いしている真っ最中だよ」

 振り向いた彼女をまとう空気が、ほんのりと淡い桜色に見えたのは、僕の思い過ごしだろうか。

 ──恋をする。

 それは僕にとって、未知の世界だ。だけど胡桃がこんなにも綺麗に見えるときがあるのは、彼女が恋をしているからなのだろうか。

「あ、バス来た」

 街灯が照らすバス停に、青いバスが滑り込む。胡桃の片思いについて、色々と聞きたくなるのをぐっとこらえ、僕は口を開いた。

「店長の勘違いは、僕がしっかり解いておくから」

 プァン、とバスのライトが僕らの姿を眩しく照らす。プシューッという空気の塊を吐き出して停車して扉が開くと、胡桃は車内へと上がり、それからこちらを振り向いた。

「べつに、そのままでも構わないけどね」
「……えっ?」

 プシューッ。再び吐き出された音と共に、ふわりと彼女の姿が浮かぶ。そのままウインとバスの扉が閉まった。
 窓の向こうに立った胡桃はいたずらが成功した子供のような表情を浮かべると、『ばいばい』と口だけパクパク動かした。

 誰もいなくなったバス停で、僕がしばらく微動だにできずにいたのは、言うまでもないだろう。

 ──恋する女の子の思考回路は、本当によくわからない。

「葉って、中田と付き合ってんの?」

 体育の授業。ストレッチをしていた僕に、クラスメイトが尋ねた。半分に仕切られた体育館の向こうでは、女子たちがバレーボールに黄色い声を上げている。

「いや、付き合ってないけど」

 正直に答えれば、相手はおもむろに喜んだ表情を見せる。なんだよその顔。

「中田ってかわいいけど、ガード固いじゃん? だからさ、協力してよ」

 協力? 何の?

「俺、一年の頃から中田のこといいなーって思ってて」

 そう言いながら体育館の奥に視線をやる相手に、僕は笑顔で「無理」と即答していた。頭で考えるより先に口が動いた。条件反射っていうやつだ。コンビニで自動ドアの開くメロディが鳴ると口から「いらっしゃーせー」って飛び出るのと同じ。

 僕は、ずい、とクラスメイトの視線の先に体を移動させた。胡桃の姿を見せるのが、なんだか癪に思えたからだ。

「なんだよ、付き合ってないんだろ?」

 むっとした表情で首を伸ばす相手に、また視界を遮るように体を移動させる。

「付き合ってなくても、無理は無理」

 相手が右に首を伸ばせば、僕もずいっと右に移動し。

「頼むよ、ちょっと会話するきっかけ作るだけでいいから」

 相手がひょいっと上方向へ首を伸ばせば、僕は思い切り踵を上げて。

「葉は中田のことが好きなわけ?」

 最終的には半分睨まれるようにそう言われ、僕は頑とした態度で胸を張った。

「そりゃあね。大事な友達だし」

〝好き〟にも色々な感情がある。先日胡桃が言っていたことを思い出した僕は、大事な友達という大義名分を振りかざした。ここで「好きじゃない」と言えば協力を請われるし、「好きだけど」なんて普通に言えば恋愛どうのと騒がれる。
 案の定、相手は「なんだよそれ」と面倒くさそうな顔を見せた後、ボールをドリブルしながら行ってしまった。

「お前はいつから、胡桃の父親になったわけ?」

 呆れたような声に振り返れば、拓実は一部始終を見ていたようだ。悔しいことに、バスケットコートにいる拓実は俺から見てもかっこいい。ほっそりとしていて高身長という体型からして似合うんだよな。
 さっきから女子たちがチラチラと拓実のことを見ているが、本人は全く気にしていない。

「別に、父親になんてなってないけど」

 そうは言うものの、確かにさっきのは年頃の娘を持つ父親みたいな感じだったかもしれない。だけど、心配じゃないか。僕たちの大事な友達である胡桃が、変な男に引っかかったりしたらさ。

「勝手に父親になるなよ、おこがましいやつだな」
 僕の言葉に、拓実はそう笑った。

 ◇

 ポツポツと軽快な音が鳴り響く。どんよりとしたグレーの空から降り出した雨粒が、ガラス窓を叩いている。

「降ってきたねぇ」
「梅雨だから、仕方ないよなぁ」

 頬杖をついた胡桃が、窓の向こうを見上げた。手元には図書室から借りてきたという天然石の図鑑が広げられている。

 ホームルーム後の空っぽの教室。そこで胡桃と僕は向かい合って座っていた。胡桃の前の席の椅子に、僕が後ろ向きで座る形で。
 ちなみに僕は、スマホでゲームをしている最中。同じ色のブロックを並べて消していくやつだ。

「せっかくの土曜日に進路ガイダンスなんてなぁ」
「でも、卒業した先輩たちの話、おもしろかったよ」

 普段であれば休日となる土曜。午前中の進路ガイダンスを終えた僕らは、どこかで四人揃って昼ご飯を食べようと計画していた。しかし、学級委員である莉桜が担任に用事を頼まれたのだ。

 もうひとりの学級委員である野口は本日、風邪で欠席。力仕事もあるとのことで、拓実が借り出されることとなった。
 そんなふたりのことを、僕たちは教室で待っているというわけである。

「その本、おもしろい?」

 ピコンピコンと画面をタップしながら口を開く。さっきからなかなか赤のブロックが消えてくれない。あ、また失敗した。

 机の端に置いてあるスティック状のスナック菓子をポリポリかじると、ゴリッと頬の内側まで噛んでしまった。

「教授がしてくれた話がおもしろかったから」

 顔をしかめる僕に気付かず、艶のあるページを捲りながら彼女は答えた。

 胡桃が言っているのは、昨日の地学の授業のことだ。白いあごひげを蓄えた地学の先生のことを、僕たちは教授と呼んでいる。ここは大学じゃないし、先生はここでしか教鞭を執っていないので、正確には教師だ。
 だけど落ち着いた物言いだとか、一年中着ているベージュのチョッキだとか、ちょっと眠たくなるような雑談だとか、生き字引のような雰囲気だとか、そういったものからが実に〝教授っぽい〟のである。

「この間の、石の話?」

 そんな教授には自分の好きなことに話題が寄ると、授業そっちのけでそのことについて語るという癖があった。

「はい次のペェジィー。おっと、この写真は鉱山か。そういえば日本にもな、みんなが知っているような宝石の元を採掘できる場所があってな」といった具合だ。
 教授が特に好きなのは〝石〟全般で、昨日は宝石の元ともなる天然石の話に、授業の八割は費やされた。アメジストやダイヤモンドなど、僕でも聞いたことのある石の名前がたくさん出てきて、女子たちが目を輝かせていたのが印象的だった。

「胡桃も宝石とか、興味あるんだ」
「だってさ、すごいよ。石自体は自然界のものだけど、人間がそれを掘り起こしたり磨き上げたりすることで、あんなに綺麗な色や輝きを放つ宝石になるんだよ。一見普通の石だけど、本当はすごい美しさやパワーを秘めている。それって、すごく素敵じゃない?」

 そんな風に考える胡桃に、僕は感心していた。宝石の魅力っていうのは、あのキラキラとした輝きにのみあるのだと思っていた。だけど彼女の言う通り、ただの石ころだと思っていたものが磨き上げると立派な宝石になることもある。
 未完成で不完全な十代の僕たちにとってそれは、どこか救いのような響きを持っているのも確かだ。
 まだまだ青くて未完成な僕たちだけど、内に秘めた何か特別なものを持っている。

「……この石、すごい綺麗だな」

 胡桃の手元に視線を落とすと、深く美しい青を持つ石の写真が開かれたページに鎮座していた。ページの右上には太字で〝ラズライト──青金石──〟と書かれている。あまり聞きなじみのない名前だ。

「空の色って青だけど、もっともっと上はどんな色をしてるんだろうって考えるの。海の色も青だけど、もっともっと深い場所はどんな色をしているのかなって」

 胡桃はそう話すと、優しい瞳で開かれたページを見つめる。

「なんかきっとね、こういう色なんじゃないかなぁ。空のはるか上の青も、海の深い部分の青も。いろいろな青が重なって完成する〝ラズライト・ブルー〟みたいな」

 思い描く青に名前をつけた彼女は、そこでふと、窓の外へと視線を上げた。僕らの教室からは、グラウンドの奥にまっすぐに伸びる水平線が見える。

「〝ラズライト・ブルー〟か」

 雨がぽつぽつと降る今日の空はどよんとしたグレーで、その下に広がる水平線も同じような色をしていた。

 空も海も、本当に不思議だ。穏やかなときにはそれぞれの〝青〟を広げ、天気や季節によってはその色を潜めて別の衣をまとう。それでも胡桃の言うように〝ラズライト・ブルー〟こそが、彼らの真の姿なのかもしれない。

「おばあちゃんとよく、こうやって空想の色の名前をつけて遊んだんだ」

 ぽつりとそう言った彼女は、なぜか少し寂しそうに笑った。

 胡桃の家族構成は、両親とおばあちゃんだというのは以前聞いた通り。この間もおばあちゃんの薬を病院にもらいに行った帰りに、僕のバイト先に寄ってくれたのだ。

「うちのおばあちゃんね、いろいろわからなくなっちゃうことが多くて。もう年齢も年齢だから、仕方ないんだろうけどね」

 そうして胡桃は、脳の病気と診断されたおばあちゃんについて話してくれた。これが、彼女の寂し気な笑顔の理由だったのだ。

「最初は加齢による物忘れでしょ、って家族みんな思ってたの。だけど、どんどんひどくなって……病院に行ったときには、症状がずいぶんと進んじゃってた」

 加齢による自然現象である物忘れと、脳の病気による記憶障害はまったくの別物だと、胡桃は話す。

「物忘れ外来っていう科があるんだけどね。もっと早く連れていってあげてたら、って今でもやっぱり思っちゃう」

 医療がどんどん発達して、人間は百歳を迎えることも夢のまた夢ではなくなった。だけど加齢と共に増えるリスクを消滅させることは、今の医療にはできない。

「こんなこと、話してごめんね」

 胡桃の言葉に、僕は黙って首を横に振るしかできなかった。

 僕の家族は健在といえば健在で、北海道にいるばーちゃんだって健康そのものだ。物忘れ外来という存在自体も、胡桃の話で知ったばかり。だからどうしても、自分とは無関係だと思ってしまっていたのだ。

「なんで人間は、病気になっちゃうのかなぁ」

 胡桃の言葉に、現実はここにあるのだと突きつけられる。

 人間は誰だって必ず年を重ねるし、そうしていけばいろんなリスクが生まれてくる。記憶障害の起こる病気がどういうものか。ドラマや映画で見たことはあっても、どこかではその病気さえフィクションのように感じるようになってしまっていたのだ。
 だけど現実には、その事実と向き合っている人たちが実際にいる。

「いろんなことを忘れちゃうのに、亡くなったおじいちゃんのことはよく覚えてるの。何年の何月何日にどこで出会ってねとか、初めてふたりで出かけたときには白いワンピースを着てねとか。昨日のことも忘れちゃうのに、何十年も前のおじいちゃんとの思い出は覚えてる」

 きっと胡桃だって、たくさんつらい想いをしているのだろう。だいすきなおばあちゃんが自分のことをいつか忘れてしまうということを、彼女は知っている。それでも笑顔で毎日を過ごしている。僕らが気付かないほどに、自然に。

「人の記憶って、不思議だよね」

 今日の胡桃は、いつになく雄弁だ。

 人間というのは、本当にわからないものだ。明るく見えても、心の中に大きな闇を持っているひともいる。チクチクと尖っていても、根が優しいひともいる。楽観的に見えたって、心の底で思い悩んでいるひともいる。

 きっと誰にだって、周りに見せていない部分があるのだろう。それでもほんの一握り、そういうものを見せられる相手がいるとしたら。それはきっと、心から許した相手なんじゃないだろうか。

 もしも胡桃にとって僕が、少しでもそういう存在になれてきているのだとし
たら──。

「僕はいつでも、胡桃の味方だから」

 重いものを抱えるには、ひとりよりもふたりの方がきっといい。僕の言葉に、胡桃はふわりと目尻を下げた。

 結局、三十分ほど経ったところで拓実からメッセージが入った。

『まだかかる。先帰ってて』

 だから僕たちはふたりで、並んで校門を出たのだ。淡いブルーの小さな折りたたみ傘の中、肩を寄せ合って。

「マジでごめん! まさかアルミホイルが入ってるとは……」

 僕の言葉に胡桃がころころと笑う。その度に、シャンプーの香りが隣で揺れた。

 梅雨入りしたと気象庁が発表したのは一週間ほど前。そんな今日は、午後から雨が降る〝かもしれない〟という予報だった。だから僕は部屋の隅に置いてあった黒い折りたたみ傘をリュックに押し込んだのだ。カバーに入れられたそれは、確かに傘同様の重みと形を保っていた。

 ところがつい五分前、僕がリュックから取り出したのは、折り畳み傘のカバーに入った、アルミホイル──芯に巻き付いたままのもの──だったのだ。

「妹がやったんだと思うけど」

 はあ、と僕がため息をつくと胡桃が意外そうな顔をした。
 普段あまり、妹の話はしないようにしている。というよりは、家庭の話だ。僕が暮らす家はちょっと事情アリなので、その話をして周りに気を遣わせるのが嫌だからだ。

 小学校や中学校のときには親同士のネットワークみたいなものがあり、僕の特殊事情はみんなの知るところではあった。しかし、高校ではそんなことを知る人も少ない。それがとても気楽で、だからこそ僕は胡桃たちにも話していなかったのである。

「葉、妹がいたんだ。知らなかった」

 別に自分のことを不幸だなんて思わないし、むしろとても恵まれていると思う。話さなかった理由は、気を遣わせたくないというシンプルなものだったけれど、ここまで仲良くなっておいて話さないというのもなんだか不義理な気もする。

 そこで僕は、努めて明るく事情を話すことにした。胡桃がおばあちゃんの話をしてくれたということも、僕の背中を後押しした。

「──うちの両親さ、本当の親じゃないんだ」

 その一言を発するのには、自分で思っていたよりも大きな勇気が必要だった。僕はそのことに、言葉を放ったいま、気付いたのだ。

「小学校にあがる前に、シングルマザーだった母親が突然いなくなったんだよね」

 しかし話し出してしまえば、スルスルと口からは過去の出来事が滑り出した。

 母が消えた理由は今でもわからないし、生きているのか死んでいるのかもわからない。そんな僕を引き取ってくれたのが、母親の兄である叔父。その後、叔父は結婚し、養子縁組により正式に僕を息子として迎え入れてくれたのだ。

「しばらくしてから、妹が生まれた。叔父さんも叔母さんも優しいし、妹の鈴はかわいいし、特殊だけど不幸とかじゃ全然ないし。そうそう、叔母さんの作る酢豚は絶品でさぁ」

 ぺらぺらと僕はしゃべった。

 噓じゃない。噓じゃないんだ。

 それでも胡桃の反応を見るのが怖くて、僕はひとりでひたすらにしゃべっていた。
 思い返してみれば、こんなふうに家のことを自分から話したのは、初めてのことだ。

「叔父さんは昔からずっと優しいし、叔母さんだって目の上のたんこぶでしかなかったはずの僕を受け入れてくれてさ。年が離れた鈴だって、僕のことを〝おにい〟なんて慕っていて」
 
 そうだ。僕は本当に恵まれている。すごくすごく、幸せなんだ。ちょっと変わった家庭環境かもしれないけれど、だからって不幸だなんてことはきっとなくって──。

「それで……」

 ──それでも僕はいつだって、自分がどこにも存在していないように感じていた。

「……葉?」

 自分の心に突如浮いてきた本音に、僕の足はぴたりと止まった。心の小さな躓きは、保っていたバランスをいともたやすく崩していく。

 不幸じゃない、不幸じゃない。
 だけどそうやって言うってことは、不幸だと思っている本音を、隠すためなんじゃないのか?

「僕は、不幸なのか……?」

 僕の自問自答は、パタパタと足元に落ちる水滴と共にアスファルトの色を染める黒の一部になってしまう。

 じめじめとした雨と熱のこもった匂いが、肺の中に広がっていく。スニーカーの上、大きな水滴がぽたんと落ちて、じわりと大きなシミとなる。傘の露先から落ちたのだろう。

 ──わからない。自分のことなのに、よくわからない。

 そのとき不意に、傘の柄を握る右手にやわらかなぬくもりが重なった。小さいと思っていた、彼女の左手。

「葉、見て」

 ゆっくりと顔をあげれば、隣にいる胡桃は海を眺めている。いつの間にか、海の向こうには薄い光が差し込んでいたようだ。

 大粒だった雨は霧雨のような細かいものに変わっている。灰色の雲が動き、徐々に広がっていく光の輪。それが照らした先には、美しい海がキラキラと輝きながら凪いでいた。

 青と、白と、黄色と、金と、エメラルドグリーンと、群青と──。きっとこれが、〝ラズライト・ブルー〟。

 そのコントラストは息を呑むほどに美しく、非日常を感じるほどに神々しくて。ガラにもなく、僕は泣き出したくなっていた。
 どうして泣きたいのか、なんでそんな気持ちになるのか、よくわからない。だけどこみ上げてくるなにかが確かにあって、ごくりと喉が大きく上下してしまう。

「いいんじゃないかな、我慢なんかしなくても」

 胡桃は海を見つめながら口を開く。

「全部全部、この青のせいにしちゃえばいいんだよ。あまりにも綺麗だったからさ、──って」

 優しく細められた彼女の瞳に、情けない顔をした僕が映る。口元を歪めた僕の表情は、まるで小さな子供みたいだ。さらりと風が彼女の髪の毛をさらっていくと、薄茶色の向こうに光が透ける。

 僕は心から美しいと思った。海と空と光と霧雨が織りなすこの景色を。そこにまっすぐに立つ、胡桃のことを。

「泣いてるの?」

 優しく微笑む彼女が、わざとそう問う。
 泣いてなんかいない。ただちょっと、ほんのちょっと。涙が込み上げてきただけなんだ。
 胸いっぱいにこの空間を吸い込むと、瞳に張られた涙の幕が揺れ、キラキラと景色がきらめく。

「──あまりにも、綺麗だったからさ」

 僕がその言葉をゆっくりとなぞらえれば、彼女は嬉しそうに目を細めた。

 ◇

「ラブとライクの違いってなんだと思う?」

 正座をする僕の前で、「なにを突然」と拓実がせんべいをかじった。

 胡桃と別れる頃には雨はすっかり上がっていた。
 どこかでご飯でもと思っていたけれど、胡桃のスマホにお母さんから連絡が入ったのだ。なにとは詳しく聞いていない。だけどすぐに帰らないと、という胡桃を僕はバス停で見送った。そこから拓実の用事が終わるのを待ち、そのまま家に上がり込んだというわけである。

「恋愛経験豊富な拓実を見込んで、真剣に聞いてるんだよ。拓実は莉桜のことを特別って言ってたけど、ラブとライクならどっちになるわけ?」

 身を乗り出して問いかけても、拓実は漫画本を棚から出して開きながらせんべいをまたかじる。僕の話は片手間で十分とでも思っているのかもしれない。

「ちなみに、〝スペシャル〟って回答は無しな? ラブかライクの二択で!」

 拓実の読んでいたバスケット漫画を取り上げた僕は、こほんと咳払いをして姿勢を正すと、拓実にも正座するように促した。
 あとから思えば、こんな中学生のような質問に渋々といった様子ながらも答えてくれる拓実は本当にいいやつだ。胡座はかいたままだったけど。

「そんなの考えたこともない」
「じゃあ、今考えてみてよ。どう? ラブ? ライク?」
「お前は? 胡桃のこと、どう思ってんの?」

 まっすぐに放たれた問いに、僕はウッと言葉に詰まる。僕が本当に知りたい部分を、ずばりと言い当てられたからだ。
 胡桃のことをかわいいと思う。愛おしいと感じるし、笑っていてほしいと願う。一緒にいて楽しくて、もっと色々な表情を見てみたい。
 それが友達としての想いなのか、それとも恋愛感情なのか、ずっとあやふやで過ごしてきた。だけどそろそろ、曖昧にしておくのも限界がきたようだ。僕は自分自身のこの想いの正体を、はっきりとさせたくなったのだ。

「なんだ、簡単なことだよ」

 僕の説明を一通り聞いた拓実は、そう言って軽やかに笑った。こういうとき、やっぱり拓実は恋愛をたくさん経験してきているのだなと感じる。多分こういうものは、実際に自分が通ってみないとわからないものだ。

「他の誰にも渡したくなくて、触れたいと思うのが恋愛感情」

 拓実曰く、恋愛関係になるかならないかは、具体的な接触が大きな鍵のひとつとなるらしい。

「葉は莉桜のこと綺麗だって言うじゃん? あいつのことも、ひとりの人間として好きだろ? でも、手を繋ぎたいと思うか?」

 拓実の質問のふたつには顎を引き、最後のものには首を横に振って答える。

 莉桜は大事な友達で、かけがえのない仲間だ。美人だと思うし信頼もしているけれど、別に手を繋ぎたいとは思わない。むしろ、そんなことを想像したこともなかった。

「じゃあ、胡桃は?」

 すべてを見透かすような拓実の視線から、僕はゆるりと顔をそらす。一気に恥ずかしさがこみあげてきたのだ。ぽっぽっと顔に熱が集中する。

 あたたかくて小さな、胡桃の手。長い指と、珊瑚のような淡いピンク色の形のいい爪は女の子特有のしなやかさを持っていた。
 そんな彼女の手の感触がリアルに蘇ってくる。触れられた右手の甲がやたらと熱く感じられ、僕は大きく息を吐いた。

 ──こんなの、どう考えても〝恋〟でしかないじゃないか。

 正体のわからなかった感情が、くっきりとした輪郭を持つ。そうすると頭の中もクリアになっていくようだ。

「な、簡単なことだろ?」

 ふふんと笑った拓実は、再び漫画を手に取った。今度は僕も、それを取り上げるようなことはせず、照れ隠しにせんべいをかじった。

 やっぱり、拓実は恋愛の上級者だ。僕がずっとウンウン唸って考えてもわからなかったことを、シンプルな基準で答えに導いてくれた。
 しかしそこでふと、純粋に疑問が浮かぶ。

「拓実って、やたら女子に触るよな?」
「言い方ってもんがあるだろー? 俺は、スキンシップが多いだけ」
「同じじゃん」

 苦笑いしながらも、僕は普段の拓実の行動を思い返す。結構な頻度で女子の肩にトン、と手を置いたり、言い寄ってきた子たちの頭をぽんぽんと撫でたりしている。
 少女漫画の王子か?と思わないでもなかったけれど、実際それを嫌味なくやってのけるのが拓実だ。

「葉にもスキンシップのコツ、教えてやろうか?」
「いや、そうじゃなくってさ……」

 そんな拓実だが、あれほど近い距離にいる莉桜に触れている場面は見たことがない。
 例えば、胡桃と莉桜の頭に葉っぱがついていたことがあった。それに気づいた拓実が、胡桃のものは直接取ってあげていたのに対し、莉桜には口だけで伝えていたのだ。莉桜がなかなか、それを取ることができずにいたのにも関わらず。
 それが僕の目には反って、不自然にも映った。

「頑なに莉桜に触ろうとしないのは、なにか別の理由があるわけ?」

 拓実は驚いたように僕を見ると、「葉にしては鋭いな」と苦笑いする。
 やっぱり僕の感じた違和感は、思い過ごしではなかったみたいだ。

「莉桜の場合は、そうだなぁ……。触れたいと思わないっていうよりは、触れちゃいけない、って感じに近いかも」
「なんだよそれ」
「いや、俺もよくわかんない」

 僕らは一旦拍子をあけてから、顔を見合わせて笑った。

 実際、僕には拓実の言っていることがよくわからない。だけど僕だって、胡桃の手にまた触れたいと思う反面、触れたら何かが壊れてしまうんじゃないかと怖く感じる気持ちもある。
 繊細な年ごろである僕ら男子には、言葉では説明できない複雑な気持ちがあるものなのだ。

「で、どうすんの?」
「どうするって、なにが?」
「好きだって気付いたなら、その先は? 告白とか」
「こくはく……」

 告白がうまくいけば、基本的には恋人同士になるはずだ。そんなことになれば、それはどんなにいいことか。だけどもしも振られたら、その後はどうなるのだろう。今までと変わらずに、一緒にいることができるのか。莉桜や拓実との関係は? 四人で過ごす居心地の良い場所を、失わずにいられるのだろうか。

「……っていうか。胡桃はいま、片思い中だって言ってた……」

 こんなに大事なことを、どうして僕は忘れていたのだろう。ふわふわと浮足立っていた心は、ざばりとバケツの水をかぶされたように、一瞬でずぶ濡れ状態になってしまう。

「その片思いの相手が葉かもしれないし」

 拓実の一言で、しゃきんと伸びる僕の背中。

「まあ、別の誰かかもしれないけどな」

 今度はへにゃりと崩れる僕の背中。
 拓実はおもしろそうに声を上げて笑ってから、そんな僕の肩をぽんっと力強く叩く。

「葉が自分の気持ちに気付いたところが、まずは第一段階なんじゃないの。あとは葉のペースで胡桃と向き合っていけば。恋愛感情を意識しすぎると、それまで自然に成り立っていたことがうまくいかなくなることもあるしな」

 そんな経験をしたことがあるのだろうか。拓実はそう言って、にかっと白い歯を見せた。
 拓実という人間は、基本的にこちらの言動を否定するようなことがほとんどない。それは胡桃や莉桜に対しても同じだ。その一方で僕は彼らに対し、「こうしたらいいのに」とか「本当はこうなんじゃないのかな」などと憶測を働かせてしまう。
 さすがに口に出すことは、だいぶ我慢できるようにはなったけれど。

「仲間がいて、好きな子がいて……か。なんだかドラマみたいだな」

 スマホのカメラロールを開き、四人で撮った写真を眺める。みんないい表情をしている。信頼しきっていて、楽しんでいて。
 あえて変化させなくたって、僕のそばには胡桃がいる。拓実がいて、莉桜がいる。これ以上なにかを望んだら、バチが当たりそうだ。

 はあ、と僕は、落胆とも感嘆とも言えぬため息を天井に向かって吐き出したのだった。
「夏だー!」

 ミンミン、シュワシュワ、ジジージジー。

 七月初旬。今年は例年よりも暑くなるのが早いらしい。蝉たちが我先にと大声で鳴く季節がやって来た。僕の一番好きな、夏らしい夏だ。
 最近ではアイスキャンディもひとつでは物足りず、僕は両手に一本ずつ持ち交互に食べる、しかも溶ける前に食べきるという技を習得していた。ちなみに他の三人は、今までと変わらず一本ずつしか食べていない。よく足りるよなぁ。

「今年の夏祭り、行くだろ?」

 夏といえば祭りだ。陽気なお囃子の鳴り響く中での提灯の明かり。浮足立ったみんなの表情に屋台の香ばしい匂い。最後、夜空に打ち上がる花火がこれまた綺麗でさ。この素晴らしいイベントに、今年は四人で参加できるなんて夢のようだ。
 胡桃と莉桜は浴衣を着てくるのだろうか。それなら僕たちも合わせて浴衣を着るのもいい。バイト代が入ったばかりだし、週末に買いに行こうか。

 アイスキャンディを口に入れたときだった。

「俺、パス」

 聞き間違いかと思ったのは、多分僕だけじゃないと思う。胡桃も莉桜もきょとんとした表情で、その言葉を放った拓実を見ている。

「……え、なんで?」

 わざわざ約束なんかしなくても、一緒に行くものだと思っていた。「葉は祭りとか好きそうだよなぁ」なんて苦笑いしながらも、浴衣選びに付き合ってくれると思いこんでいたのだ。きっと僕の言葉は、拙いカタコトのような響きを含んでいたと思う。

「彼女できたから」

 ミンミン、シュワシュワ、ジジージジー。
 ぼと、と僕のスニーカーにソーダ味のアイスが落ちた。


 拓実は普段、あまり自分のことを語らない。色々な女の子と遊んではいるけれど、ずっと特定の彼女は作っていなかった。それはなんだかんだで、身近に特別な存在である莉桜がいるからだと思っていた。

 その莉桜はついこの間、年上の彼氏と別れたのだ。やっとここから、ふたりが新たな関係への第一歩を踏み出せるんじゃないかと思っていた矢先の出来事だった。

「まさか、戸塚ちゃんが相手だとは……」

 嘆いている僕を、胡桃と莉桜が呆れ顔で見つめている。

 拓実の相手は、コンビニで拓実が一切顔を見ようとしなかった、あの戸塚ちゃんだった。
 一体なにが起きたというのだろう。僕が見る限り、戸塚ちゃんは語尾にハートはつけるものの、拓実に想いを寄せているようには見えなかった。だけど胡桃曰く、恋愛ごとに疎い僕の目なんて誰が信用できるだろうか。結果は明白。戸塚ちゃんは最初から拓実が本命だったに違いない。

「莉桜、あの子と知り合いだったんだな」

 あのあと、拓実は恋人である戸塚ちゃんからの連絡で学校へと戻っていった。残された僕ら三人は、ただなんとなく堤防の上に腰掛けて海を見ている。

 ぶわりと強い風が海からやって来ると、莉桜はうざったそうに顔にかかった髪の毛を後方へ手で流した。

「……うん。戸塚は美術部の後輩だから」

 僕らの通う高校では、三年生は夏前に部活を引退することになっている。四人の中では唯一、莉桜だけが部活動に所属していて、しかしほとんど自由参加だった美術部に彼女はあまり顔を出してはいなかった。

「どんな子? 僕が会ったときは、別の彼氏がいたみたいだけど」

 僕は信じたくなかったんだと思う。拓実は僕たちのことがすごく好きで、心の底から信頼していて、一緒にいる時間が何よりも大事だと感じている。それなのに、なによりも彼女を優先させる拓実がいるという事実を、僕は受け入れられなかったのだ。

「戸塚、特定の彼氏とかあまり作ってなかったから。葉が見たのは、彼氏ではなかったと思うよ」

 莉桜の言葉に、僕の頭の中にはまたもやクエスチョンマークが浮かぶ。つまり、戸塚ちゃんは女版拓実みたいなタイプということなのだろうか。

 拓実の友達として矛盾しているということを分かっていてあえて言うが、友人の恋人は一途で真面目な子であってほしい。拓実も一途とは言い難いのは承知の上、それでもあいつは本当に優しい男なのだ。弄んでいい相手じゃない。

「押し切られて付き合うことになった、とか」

 僕の言葉に、莉桜が小さく顔をあげる。そこになんとなく翳りがあるような気がして、つい彼女の顔を正面から見つめてしまった。

 もしかして、莉桜は──。

「拓実、ああ見えて優しいからね」

 莉桜はそう言って笑った。だけどその笑顔が、どうしても無理して作られたもののように見えてしまう。
 その奥に座る胡桃も、心配そうに莉桜のことを見つめていた。もしかしたら同じように、胡桃も感じているのだろうか。

「莉桜……」

 胡桃がぎゅっと、莉桜の手を握った。莉桜の瞳がゆらりと揺らめいたからだ。だけど莉桜は涙を流したりはしなかった。代わりに、やっぱりへたくそな笑顔を作るだけ。

「彼氏と別れたときにも、こんな気持ちにならなかったのになぁ……。わかってるんだよ、拓実とわたしがそういう関係にはならないってことくらい。好きとかじゃないの、そんなんじゃないのにね……。素直におめでとうって言えないなんて、友達失格だよね」

 空を見上げて笑う莉桜の横顔はとても切なくて、そしてとても綺麗に見えた。

 ──恋は人を綺麗にするから、切なくとも、輝いて見えるのだろうか。

「夏祭りはさ、三人で行こうよ」

 透き通った胡桃の声が、今はいない一人分の隙間を抜ける。
「三人で浴衣着て、おいしいものいっぱい食べて、写真もたくさん撮るの。最高の夏にしようよ」

 僕らの仲間に胡桃がいてくれて、本当によかった。こういうとき、さりげなく寄り添うことができるのはいつだって胡桃だ。無理に気持ちを聞き出すわけではなく、自分の意見を押し通すわけでもなく、それでいて自然に空気を送り込んでくれる。

「一生忘れられないくらいの夏にしよう!」

 僕が拳を頭上に掲げると、「暑苦しいなぁ」と莉桜はそこで、やっといつもの笑顔を見せてくれたのだった。

 ◇

 拓実が戸塚ちゃんと付き合い始めてから、僕らの日常は驚くほどに変化した。

 拓実が教室にいるのは授業中のみになり、自由に動ける時間帯になると、廊下まで来ていた戸塚ちゃんとずっと話している。
 放課後だってふたりにとっては大事なデートの時間。おのずと拓実抜きの三人で過ごす時間が増えていき、高校最後の夏休みはそのまま幕を開けることとなった。

「いよいよ夏休みかぁ。本当早いなぁ」
「ねえ莉桜、アイス食べて帰ろうよ! アイス!」

 終業式を終えた僕らは、三人並んでいつもの海沿いの道を歩いていた。拓実はもちろん、ここにはいない。なんでも戸塚ちゃんの誕生日らしく、今日は奮発して戸塚ちゃんの行きたかったお店で、巨大なパフェを食べるとのこと。

 あれほどいろいろな女の子と遊んでいた拓実が、今ではすっかり落ち着いてしまっていた。それどころか戸塚ちゃんの言いなり状態になっていた。

「葉、大丈夫? 元気ない?」

 胡桃が僕の顔を覗き込む。それに対し、僕が「なんでもない」と笑顔を作るというのがここ最近の流れだ。

 あの翌日、莉桜はやたらとすっきりとした表情で僕たちに「昨日はごめん!」と謝罪した。それからは今までと変わらない様子で過ごしているように見えた。ところが拓実の不在は、想像以上に僕自身にもダメージを与えていたのだ。

「拓実がいないのが、そんなに寂しい? 胡桃とわたしという、両手に花状態だっていうのに?」

 莉桜はおどけるように首をすくめるも、その冗談に、乾いた笑いを返すことしかできない。

 僕たちはいつだって四人だった。その絶妙なバランスは、たったひとりが欠けただけで大きく揺れてしまっていて、崩れないようどうにか保っているのがやっとといった状態だった。少なくとも僕の中では。

「もう少ししたら、慣れてくるよ」

 胡桃の慰めにも、「三人という状況に慣れてたまるか」と反発したくなってしまう有様だ。そういうつもりじゃないことくらい、わかっているのに。

 それになにより、莉桜のことがとても気がかりだった。あの日に見せた翳りの表情と、言葉たち。不自然なほどに吹っ切れたような最近の様子。もしかしたら無理をしているのではないかと、気になって仕方がないのだ。

「莉桜さ、僕らに話したいこととかない?」
「なに、突然」

 帰り道、眉をひそめた莉桜は「宝くじで一億円当てたいとか?」なんて、らしくもないことをまた口にした。最近はいつもそうだ。莉桜らしくない言動がやたらと目立つ。それが本心を隠すためのものに思えてしまうのだ。

「本当は、拓実がいなくて寂しいって思ってるとか……」

 僕の言葉に、莉桜はお腹を抱えて笑い出した。不自然なくらい、明るく。

「もう、何を言い出すかと思えば。そんなこと、思ってないよ。拓実はいま幸せなんだし、それでいいじゃん。わたしたちだって、三人でも楽しいし」
「だけどこの間、素直におめでとうって言えないって」
「ああ、それはなんか、感傷に浸っちゃったっていうか。そばにいるのが当たり前だったから、不思議な感じがしちゃっただけ」

 なんでだろう。なんでなんだろう。どうしても莉桜の笑顔が、言葉のすべてが、嘘のように感じてしまう。

 莉桜は僕にとっても、大事な仲間だ。拓実が幸せなのは喜ばしいことだけど、だからといって莉桜が自分の想いを封印しようと苦しんでいるのならば、それを見過ごすことはできない。
 少なくとも、僕や胡桃には本音を見せたって大丈夫だと知ってほしい。

「……葉、莉桜が違うって言ってるんだから」

 途中、胡桃が間に入ったけれど、僕は背の低い胡桃を追い越して、まっすぐに莉桜を見つめた。やだなーと笑う莉桜だったが、僕の視線を一度受け止めると、ふいっと顔を背けた。

「……見透かすような目で、見ないで」

 拒むような、懇願するような声。

 あとすこし。あとすこしで、莉桜が押し込めようとしていた本音を話してくれる。自分に素直になるところまで、あとすこし。

「莉桜、僕たちには本心を話したっていいんだよ」
「……本心? そんなの、わかんないよ」
「拓実がいなくて寂しいって、認めていいんだ。本当は拓実のこと──」
「好きなんかじゃないっ──!」

 莉桜が声を荒げた瞬間、かちゃり、とすぐ後ろで音がした。ゆっくりと振り返ると、そこには手を繋いだ拓実と戸塚ちゃんの姿があった。
 戸塚ちゃんのこげ茶色のローファーの踵が、じゃりっと砂と擦れて鳴く。

「……戸塚、ごめん。本当に違うから、気にしないで」

 迫りくる感情の波に耐えるようにした莉桜は、戸塚ちゃんに向かってその言葉だけを残すと、体の向きを変えて走り出した。その背中を追いかけようと一歩踏み出した拓実の手を、戸塚ちゃんが強く握る。それからふたりは、莉桜とは逆方向へと歩いていった。
 時折振り返る拓実の腕を、戸塚ちゃんが引きながら。

「……葉」

 残された胡桃が、そっと僕の名前を呼んだ。小さく息を吸い込んだ僕は、はは、と乾いた笑いを空へと投げる。

「大きなお世話、ってやつだったかな」

 自嘲気味に言葉にしてみるも、心の中はどす黒い雨雲に覆われていくばかり。

 拓実だって莉桜だって、僕にとっては本当に大事な存在で。だからあのふたりが付き合うことにはならなくても、それぞれの気持ちを大事にしてほしかった。かけがえのない気持ちを押し殺すようなことを、してほしくなかった。

「胡桃は前に、僕がみんなのことをよく見て、色々考えているって言ってくれたよな。だけど本当の僕は、なにも見えてなかった」

 仲間だから、とか、大事だから、とか。そういうことに、僕は自惚れていたのだろう。

『僕たちだから、何を言っても大丈夫』
『僕たちだから、きっと本音を聞かせてくれる』
『僕たちだから、ちゃんと分かり合えるはず』

 〝僕たちだから〟という言葉に、僕はずっと甘えてきた。だからこそ気付かなかった。誰にでも、見られたくない想いだってあるのだということを。

「本当、どうしようもないな……」

 ぐしゃりと前髪を握りしめると、どこからか雨の匂いがした。もしかすると、一降りするのかもしれない。

 胡桃の前で、僕はもう自分を繕える気がしなかった。だからそのまま、心に浮かんだ言葉を口にしてしまったのだ。なにかを言おうと口を開いた胡桃の言葉を、遮って。

「やっぱり僕には、本音での人付き合いなんて無理だったんだよ。最初から出会わなければよかったんだ。拓実にも莉桜にも、──胡桃にもさ」

 僕の言葉に唇をぎゅっと噛んだ胡桃は、くるりと背を向けると走り出した。莉桜のことを追いかけて行ったのだろう。

 小さな商店の軒先で、古びた風鈴がチリンと揺れる。それはまるで、僕たちの関係が崩れ落ちていく合図のように、僕には聞こえた。