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ポツポツと軽快な音が鳴り響く。どんよりとしたグレーの空から降り出した雨粒が、ガラス窓を叩いている。
「降ってきたねぇ」
「梅雨だから、仕方ないよなぁ」
頬杖をついた胡桃が、窓の向こうを見上げた。手元には図書室から借りてきたという天然石の図鑑が広げられている。
ホームルーム後の空っぽの教室。そこで胡桃と僕は向かい合って座っていた。胡桃の前の席の椅子に、僕が後ろ向きで座る形で。
ちなみに僕は、スマホでゲームをしている最中。同じ色のブロックを並べて消していくやつだ。
「せっかくの土曜日に進路ガイダンスなんてなぁ」
「でも、卒業した先輩たちの話、おもしろかったよ」
普段であれば休日となる土曜。午前中の進路ガイダンスを終えた僕らは、どこかで四人揃って昼ご飯を食べようと計画していた。しかし、学級委員である莉桜が担任に用事を頼まれたのだ。
もうひとりの学級委員である野口は本日、風邪で欠席。力仕事もあるとのことで、拓実が借り出されることとなった。
そんなふたりのことを、僕たちは教室で待っているというわけである。
「その本、おもしろい?」
ピコンピコンと画面をタップしながら口を開く。さっきからなかなか赤のブロックが消えてくれない。あ、また失敗した。
机の端に置いてあるスティック状のスナック菓子をポリポリかじると、ゴリッと頬の内側まで噛んでしまった。
「教授がしてくれた話がおもしろかったから」
顔をしかめる僕に気付かず、艶のあるページを捲りながら彼女は答えた。
胡桃が言っているのは、昨日の地学の授業のことだ。白いあごひげを蓄えた地学の先生のことを、僕たちは教授と呼んでいる。ここは大学じゃないし、先生はここでしか教鞭を執っていないので、正確には教師だ。
だけど落ち着いた物言いだとか、一年中着ているベージュのチョッキだとか、ちょっと眠たくなるような雑談だとか、生き字引のような雰囲気だとか、そういったものからが実に〝教授っぽい〟のである。
「この間の、石の話?」
そんな教授には自分の好きなことに話題が寄ると、授業そっちのけでそのことについて語るという癖があった。
「はい次のペェジィー。おっと、この写真は鉱山か。そういえば日本にもな、みんなが知っているような宝石の元を採掘できる場所があってな」といった具合だ。
教授が特に好きなのは〝石〟全般で、昨日は宝石の元ともなる天然石の話に、授業の八割は費やされた。アメジストやダイヤモンドなど、僕でも聞いたことのある石の名前がたくさん出てきて、女子たちが目を輝かせていたのが印象的だった。
「胡桃も宝石とか、興味あるんだ」
「だってさ、すごいよ。石自体は自然界のものだけど、人間がそれを掘り起こしたり磨き上げたりすることで、あんなに綺麗な色や輝きを放つ宝石になるんだよ。一見普通の石だけど、本当はすごい美しさやパワーを秘めている。それって、すごく素敵じゃない?」
そんな風に考える胡桃に、僕は感心していた。宝石の魅力っていうのは、あのキラキラとした輝きにのみあるのだと思っていた。だけど彼女の言う通り、ただの石ころだと思っていたものが磨き上げると立派な宝石になることもある。
未完成で不完全な十代の僕たちにとってそれは、どこか救いのような響きを持っているのも確かだ。
まだまだ青くて未完成な僕たちだけど、内に秘めた何か特別なものを持っている。
「……この石、すごい綺麗だな」
胡桃の手元に視線を落とすと、深く美しい青を持つ石の写真が開かれたページに鎮座していた。ページの右上には太字で〝ラズライト──青金石──〟と書かれている。あまり聞きなじみのない名前だ。
「空の色って青だけど、もっともっと上はどんな色をしてるんだろうって考えるの。海の色も青だけど、もっともっと深い場所はどんな色をしているのかなって」
胡桃はそう話すと、優しい瞳で開かれたページを見つめる。
「なんかきっとね、こういう色なんじゃないかなぁ。空のはるか上の青も、海の深い部分の青も。いろいろな青が重なって完成する〝ラズライト・ブルー〟みたいな」
思い描く青に名前をつけた彼女は、そこでふと、窓の外へと視線を上げた。僕らの教室からは、グラウンドの奥にまっすぐに伸びる水平線が見える。
「〝ラズライト・ブルー〟か」
雨がぽつぽつと降る今日の空はどよんとしたグレーで、その下に広がる水平線も同じような色をしていた。
空も海も、本当に不思議だ。穏やかなときにはそれぞれの〝青〟を広げ、天気や季節によってはその色を潜めて別の衣をまとう。それでも胡桃の言うように〝ラズライト・ブルー〟こそが、彼らの真の姿なのかもしれない。
「おばあちゃんとよく、こうやって空想の色の名前をつけて遊んだんだ」
ぽつりとそう言った彼女は、なぜか少し寂しそうに笑った。
胡桃の家族構成は、両親とおばあちゃんだというのは以前聞いた通り。この間もおばあちゃんの薬を病院にもらいに行った帰りに、僕のバイト先に寄ってくれたのだ。
「うちのおばあちゃんね、いろいろわからなくなっちゃうことが多くて。もう年齢も年齢だから、仕方ないんだろうけどね」
そうして胡桃は、脳の病気と診断されたおばあちゃんについて話してくれた。これが、彼女の寂し気な笑顔の理由だったのだ。
「最初は加齢による物忘れでしょ、って家族みんな思ってたの。だけど、どんどんひどくなって……病院に行ったときには、症状がずいぶんと進んじゃってた」
加齢による自然現象である物忘れと、脳の病気による記憶障害はまったくの別物だと、胡桃は話す。
「物忘れ外来っていう科があるんだけどね。もっと早く連れていってあげてたら、って今でもやっぱり思っちゃう」
医療がどんどん発達して、人間は百歳を迎えることも夢のまた夢ではなくなった。だけど加齢と共に増えるリスクを消滅させることは、今の医療にはできない。
「こんなこと、話してごめんね」
胡桃の言葉に、僕は黙って首を横に振るしかできなかった。
僕の家族は健在といえば健在で、北海道にいるばーちゃんだって健康そのものだ。物忘れ外来という存在自体も、胡桃の話で知ったばかり。だからどうしても、自分とは無関係だと思ってしまっていたのだ。
「なんで人間は、病気になっちゃうのかなぁ」
胡桃の言葉に、現実はここにあるのだと突きつけられる。
人間は誰だって必ず年を重ねるし、そうしていけばいろんなリスクが生まれてくる。記憶障害の起こる病気がどういうものか。ドラマや映画で見たことはあっても、どこかではその病気さえフィクションのように感じるようになってしまっていたのだ。
だけど現実には、その事実と向き合っている人たちが実際にいる。
「いろんなことを忘れちゃうのに、亡くなったおじいちゃんのことはよく覚えてるの。何年の何月何日にどこで出会ってねとか、初めてふたりで出かけたときには白いワンピースを着てねとか。昨日のことも忘れちゃうのに、何十年も前のおじいちゃんとの思い出は覚えてる」
きっと胡桃だって、たくさんつらい想いをしているのだろう。だいすきなおばあちゃんが自分のことをいつか忘れてしまうということを、彼女は知っている。それでも笑顔で毎日を過ごしている。僕らが気付かないほどに、自然に。
「人の記憶って、不思議だよね」
今日の胡桃は、いつになく雄弁だ。
人間というのは、本当にわからないものだ。明るく見えても、心の中に大きな闇を持っているひともいる。チクチクと尖っていても、根が優しいひともいる。楽観的に見えたって、心の底で思い悩んでいるひともいる。
きっと誰にだって、周りに見せていない部分があるのだろう。それでもほんの一握り、そういうものを見せられる相手がいるとしたら。それはきっと、心から許した相手なんじゃないだろうか。
もしも胡桃にとって僕が、少しでもそういう存在になれてきているのだとし
たら──。
「僕はいつでも、胡桃の味方だから」
重いものを抱えるには、ひとりよりもふたりの方がきっといい。僕の言葉に、胡桃はふわりと目尻を下げた。