だが、舟を目にした柊夜さんは息を呑む。
「あのときの……!」
「柊夜さん、どうしました?」
突然、必死の形相をした彼が掴みかかってきた。
私の着ていたカーディガンをむしり取り、ブラウスの釦が引き千切られる。突然の凶行に驚いて、抵抗すらできない。
「しゅ、柊夜さん⁉」
「あかり、お守りはどこだ! お守りを渡すんだ!」
「お守り……? 持っていません!」
そう叫ぶと、真紅の双眸を炯々と光らせていた柊夜さんの眦が緩められる。
彼は深い溜息を吐いた。
大きなてのひらで、乱したばかりの私の着衣を丁寧に整える。
「……乱暴してすまなかった。俺の、思い違いだったようだ」
なぜ、唐突にお守りを捨てろなどと言ったのだろう。
私はお守りを持ち歩く習慣はないし、柊夜さんからお守りをもらったことがあるわけでもなかった。
気まずい空気の中で、釦が飛んだブラウスの前を合わせる。
ちらりと悠に目を向けると、彼は今の騒ぎに動揺することもなく、静謐な双眸で私たちを見つめていた。
幻影かもしれないが、悠が存在してこその成長した姿であるわけなので、本人そのものといえる。悠がこの年齢に達したときに、今見たことの記憶が残されていたらと思うと、とてもいたたまれない。
親がケンカしているところなんて、子どもに見せるべきではない。
けれど柊夜さんの凶行には、なにか理由があるのだと思えた。お守りにかかわる、なにかが。
ぎゅっと私の体を抱きしめた柊夜さんは、敵意を含んだ眼差しを小舟に向けた。
「少し離れていろ」
彼は注意深く舟を見回り、舳先や船底を探っている。単なる木の船なので、なにも怪しいところはないと思うのだけれど。
「珠がない……。いや、あのときとは状況が異なる。赤子は、ここにいないのだからな。それに当時の夜叉である御嶽は同行していなかったはずだ」
独りごちる柊夜さんにしびれを切らしたように、「ピピッ」とコマがひと声鳴いた。舳先に飛び乗り、早く行こうと言いたげに羽を震わせる。
「柊夜さん。この舟に乗っていけば、洞窟から出られるんじゃないでしょうか」
「ああ……そのようだ」
“あのとき”とは、いつのことだろうか。柊夜さんの過去になにがあったのか。
まだ周辺を警戒している柊夜さんは、私を守るように肩を抱くと、ともに舟に乗り込んだ。
だが、悠はその場から動こうとしない。
「悠、一緒に行きましょう。舟に乗って」
私が差し伸べた手を避けるように、悠は舟の後方へまわった。
「あかり。コマが本物の悠のもとへ案内してくれるはずだ。彼とはここで別れよう」
幻影なので、特定の場所でしか姿を現せないのかもしれない。
私は避けられた手を胸に引き寄せ、未来の悠の姿を目に焼きつけた。
「必ず、迎えに行くからね」
彼にそう言うのは奇妙なのかもしれない。
けれど、それまで無反応だった悠は、こくりと頷いた。
私が瞠目していると、悠は大きく両手を動かして、押しだすような仕草をする。
すると、ゆっくり舟が動きだした。
小舟は洞窟に流れる川の流れに乗っていく。
洞窟の果てで見送っている悠の姿が、次第に遠ざかる。
切なくなった私は唇を噛みしめた。
コマが、「ピ……」と小さく鳴いた。柊夜さんはもう見えなくなった悠の方角に、遠い目を向けていた。
「……ああすればよかったのか。やはり俺が、母を殺したのかもしれない」
「柊夜さんが……お母さんをですか?」
向かい合う私の目をまっすぐに見つめた柊夜さんは、決意を込めて発した。
「あの洞窟は、俺の母親が死んだ場所だ」
「……えっ⁉ あそこが?」
「俺には古い記憶がある。赤子を抱いた母が何者かに追われ、舟で逃げようとしたとき、落雷に撃たれて息絶えてしまうんだ。俺はそれを幻影となって見ていた。先ほどの洞窟で悠がいたから、その過去が再現されるのかと警戒した」
柊夜さんの母親が亡くなったときと、よく似た状況だったらしい。
だから彼は緊張を漲らせていたのだ。
舟は洞窟から出て、運河に乗った。人工的な石塀に沿って進んでいく。船体が掻き分ける水音が大きく耳に届いた。
「ということは、そのときにお母さんが抱いていた赤子が、柊夜さん自身だったんですね」
「そうだ。俺だけが助かり、母は死んだ」
「……柊夜さんのせいじゃありませんよ。まだ赤ちゃんだったんですから。お母さんは我が子を守ろうとしていたときに、偶然、不運に襲われたのではないでしょうか」
苦しそうに眉を寄せる柊夜さんを慰めたかった。
柊夜さんは自分を責めているけれど、赤子だった彼になんの責任もないのは明らかだ。もし私が母親の立場だったなら、子どもに過去について苦悩してほしくない。
「あのときの……!」
「柊夜さん、どうしました?」
突然、必死の形相をした彼が掴みかかってきた。
私の着ていたカーディガンをむしり取り、ブラウスの釦が引き千切られる。突然の凶行に驚いて、抵抗すらできない。
「しゅ、柊夜さん⁉」
「あかり、お守りはどこだ! お守りを渡すんだ!」
「お守り……? 持っていません!」
そう叫ぶと、真紅の双眸を炯々と光らせていた柊夜さんの眦が緩められる。
彼は深い溜息を吐いた。
大きなてのひらで、乱したばかりの私の着衣を丁寧に整える。
「……乱暴してすまなかった。俺の、思い違いだったようだ」
なぜ、唐突にお守りを捨てろなどと言ったのだろう。
私はお守りを持ち歩く習慣はないし、柊夜さんからお守りをもらったことがあるわけでもなかった。
気まずい空気の中で、釦が飛んだブラウスの前を合わせる。
ちらりと悠に目を向けると、彼は今の騒ぎに動揺することもなく、静謐な双眸で私たちを見つめていた。
幻影かもしれないが、悠が存在してこその成長した姿であるわけなので、本人そのものといえる。悠がこの年齢に達したときに、今見たことの記憶が残されていたらと思うと、とてもいたたまれない。
親がケンカしているところなんて、子どもに見せるべきではない。
けれど柊夜さんの凶行には、なにか理由があるのだと思えた。お守りにかかわる、なにかが。
ぎゅっと私の体を抱きしめた柊夜さんは、敵意を含んだ眼差しを小舟に向けた。
「少し離れていろ」
彼は注意深く舟を見回り、舳先や船底を探っている。単なる木の船なので、なにも怪しいところはないと思うのだけれど。
「珠がない……。いや、あのときとは状況が異なる。赤子は、ここにいないのだからな。それに当時の夜叉である御嶽は同行していなかったはずだ」
独りごちる柊夜さんにしびれを切らしたように、「ピピッ」とコマがひと声鳴いた。舳先に飛び乗り、早く行こうと言いたげに羽を震わせる。
「柊夜さん。この舟に乗っていけば、洞窟から出られるんじゃないでしょうか」
「ああ……そのようだ」
“あのとき”とは、いつのことだろうか。柊夜さんの過去になにがあったのか。
まだ周辺を警戒している柊夜さんは、私を守るように肩を抱くと、ともに舟に乗り込んだ。
だが、悠はその場から動こうとしない。
「悠、一緒に行きましょう。舟に乗って」
私が差し伸べた手を避けるように、悠は舟の後方へまわった。
「あかり。コマが本物の悠のもとへ案内してくれるはずだ。彼とはここで別れよう」
幻影なので、特定の場所でしか姿を現せないのかもしれない。
私は避けられた手を胸に引き寄せ、未来の悠の姿を目に焼きつけた。
「必ず、迎えに行くからね」
彼にそう言うのは奇妙なのかもしれない。
けれど、それまで無反応だった悠は、こくりと頷いた。
私が瞠目していると、悠は大きく両手を動かして、押しだすような仕草をする。
すると、ゆっくり舟が動きだした。
小舟は洞窟に流れる川の流れに乗っていく。
洞窟の果てで見送っている悠の姿が、次第に遠ざかる。
切なくなった私は唇を噛みしめた。
コマが、「ピ……」と小さく鳴いた。柊夜さんはもう見えなくなった悠の方角に、遠い目を向けていた。
「……ああすればよかったのか。やはり俺が、母を殺したのかもしれない」
「柊夜さんが……お母さんをですか?」
向かい合う私の目をまっすぐに見つめた柊夜さんは、決意を込めて発した。
「あの洞窟は、俺の母親が死んだ場所だ」
「……えっ⁉ あそこが?」
「俺には古い記憶がある。赤子を抱いた母が何者かに追われ、舟で逃げようとしたとき、落雷に撃たれて息絶えてしまうんだ。俺はそれを幻影となって見ていた。先ほどの洞窟で悠がいたから、その過去が再現されるのかと警戒した」
柊夜さんの母親が亡くなったときと、よく似た状況だったらしい。
だから彼は緊張を漲らせていたのだ。
舟は洞窟から出て、運河に乗った。人工的な石塀に沿って進んでいく。船体が掻き分ける水音が大きく耳に届いた。
「ということは、そのときにお母さんが抱いていた赤子が、柊夜さん自身だったんですね」
「そうだ。俺だけが助かり、母は死んだ」
「……柊夜さんのせいじゃありませんよ。まだ赤ちゃんだったんですから。お母さんは我が子を守ろうとしていたときに、偶然、不運に襲われたのではないでしょうか」
苦しそうに眉を寄せる柊夜さんを慰めたかった。
柊夜さんは自分を責めているけれど、赤子だった彼になんの責任もないのは明らかだ。もし私が母親の立場だったなら、子どもに過去について苦悩してほしくない。