人は誰かの親になるとき、過去の懊悩や因縁のすべてを清算しているのだろうか。
あかりの胎内に、新たな命が宿った。俺たちはもうじき、ふたりの子の親になるだろう。
男女がセックスすれば子は作れる。
だが人の親になるには、子を育て、正しく導かなければならない。まさに試練といえるその行為に終わりがあるとしたら、子が結婚して、新たな子が産まれたときと思える。
長い試練に耐えきれず、人の親になることを放棄する者のなんと多いことか。
コマの親鳥がそれだ。あれはただ産んだだけで、親ではない。
しかし、俺自身も苦悩を抱えた身の上なので、偉そうなことを言える立場でもなかった。
あかりには、未だに話していない秘密がある。
それは悠が産まれる前に清算しておくべきことだったのかもしれない。問題の解決を図らなかった俺が悪いのだが、容易に決着がつけられない性質ゆえという事情もある。
――俺は、母を殺した。
先代の夜叉であった父からは、俺のせいで母が死んだと罵倒されたことがあった。その通りなので弁明することはない。母が死んだとき、傍にいたのは俺だけだったのだから。
俺には誰にも話していない過去の記憶がある。
暗い洞窟の中で、母は赤子を抱いて走っている。その姿を、小学生ほどの年齢になっている幻影の俺は傍から眺めていた。
それは夢のようにおぼろだ。
彼女は髪を振り乱し、必死になにかから逃げていた。
「絶対に守るからね、柊夜……」
やはり、あの人は俺の母なのだ。
だが幽体のような俺に、母が気づくことはない。
彼女は白いおくるみに包んだ赤子の顔を見ては切なげに目を細める。そしてしきりに後ろを振り返り、恐怖をにじませていた。
何者に追われているのか不明だが、女の足で逃げ切れるものでもないだろう。
やがて赤子の俺を抱いた母は、洞窟の最果てに辿り着くことができた。
そこは紺碧の光を帯びた水面で満たされている。運河が洞窟内へ入り込んでいるようだ。歩いていける通路はないので泳いで渡るしかないが、誰かが乗り捨てたのか、傍らに一艘の小舟がある。舟に乗れば、洞窟の外へ出られるだろう。
ほかに人はいないので、舟は自らが押して水面に乗せる必要がある。
母は慎重に周囲を確認すると、抱いていた赤子を舟の内部にそっと置いた。そうしてから両腕に力を込めて、船体を押しやる。
女の力でも動かせるほどの小舟は、水面に乗った。
浮かんだ舟に乗り込もうとしたとき、着物の袂が大きく翻る。
そのとき、ほろりと落ちた小さな物体に気づいた母は振り向いた。
「あっ……お守りが……!」
母は袂から転げ落ちようとしたお守りを握りしめる。
その瞬間、眩い落雷が洞窟を白く染める。
雷の衝撃が彼女の身を撃った。
目を見開いた幻影の俺は見た。
雷が落ちるとき、お守りから小さな珠が転がったのを。
短い絶叫をあげた母は、がくりと倒れる。それでも彼女は船体に縋りつき、最後の力を振り絞って舟を出した。
ひとり小舟に乗せられた赤子は、泣き声をあげている。
洞窟の奥へ消えていく舟を、俺は呆然と見送る。足元には、母の遺体が転がっていた。
「かあさん……」
そう呼んだつもりだが、俺の声は届かなかった。
ただ己の無力さを痛感するしかない、古い記憶だ。
俺は物心つく前から、母の最期を知っていたのだった。
おばあさまの屋敷で育てられた俺が、夜叉の後継者であることは知らされていた。父にも何度か会ったことはあるが、父子の会話は冷淡な空気しか生まず、親の愛情など期待するほうが愚かなのだという事実を突きつけられただけだった。
あの記憶は、なにか意味があるのか。
母を恋しいと思う俺が生み出した妄想なのだろうか。
長年のその疑問がやがて確信に変わったのは、意外なところからだった。
あかりが悠を妊娠していたとき、小学生くらいの男の子に何度も助けてもらったのだという。謎の男子の正体は悠だったと、あかりは話していた。
ということは夜叉の神気により、母親の腹にいる赤子であっても姿を現して、外界に影響を及ぼせるのだ。
つまり、俺も悠のように幻影となって、あのとき母の傍にいた。
あの光景は夢ではなく、現実に起こったことだった。とはいえ、俺にはなにもできなかったわけだが……。
母は赤子を守り、逃がそうとしていた。俺が生まれさえしなければ、母が死に至ることはなかったはずだ。
こんな男が夫で、子の父親だなどと知ったら、愛想を尽かされてしまうかもしれない。
あかりへの愛しさを募らせるほど、この秘密を決して話せないと心が硬くなる。
だが、夫婦に秘密があってよいものかという迷いもあった。妻に対して誠実でありたい。
あかりの胎内に、新たな命が宿った。俺たちはもうじき、ふたりの子の親になるだろう。
男女がセックスすれば子は作れる。
だが人の親になるには、子を育て、正しく導かなければならない。まさに試練といえるその行為に終わりがあるとしたら、子が結婚して、新たな子が産まれたときと思える。
長い試練に耐えきれず、人の親になることを放棄する者のなんと多いことか。
コマの親鳥がそれだ。あれはただ産んだだけで、親ではない。
しかし、俺自身も苦悩を抱えた身の上なので、偉そうなことを言える立場でもなかった。
あかりには、未だに話していない秘密がある。
それは悠が産まれる前に清算しておくべきことだったのかもしれない。問題の解決を図らなかった俺が悪いのだが、容易に決着がつけられない性質ゆえという事情もある。
――俺は、母を殺した。
先代の夜叉であった父からは、俺のせいで母が死んだと罵倒されたことがあった。その通りなので弁明することはない。母が死んだとき、傍にいたのは俺だけだったのだから。
俺には誰にも話していない過去の記憶がある。
暗い洞窟の中で、母は赤子を抱いて走っている。その姿を、小学生ほどの年齢になっている幻影の俺は傍から眺めていた。
それは夢のようにおぼろだ。
彼女は髪を振り乱し、必死になにかから逃げていた。
「絶対に守るからね、柊夜……」
やはり、あの人は俺の母なのだ。
だが幽体のような俺に、母が気づくことはない。
彼女は白いおくるみに包んだ赤子の顔を見ては切なげに目を細める。そしてしきりに後ろを振り返り、恐怖をにじませていた。
何者に追われているのか不明だが、女の足で逃げ切れるものでもないだろう。
やがて赤子の俺を抱いた母は、洞窟の最果てに辿り着くことができた。
そこは紺碧の光を帯びた水面で満たされている。運河が洞窟内へ入り込んでいるようだ。歩いていける通路はないので泳いで渡るしかないが、誰かが乗り捨てたのか、傍らに一艘の小舟がある。舟に乗れば、洞窟の外へ出られるだろう。
ほかに人はいないので、舟は自らが押して水面に乗せる必要がある。
母は慎重に周囲を確認すると、抱いていた赤子を舟の内部にそっと置いた。そうしてから両腕に力を込めて、船体を押しやる。
女の力でも動かせるほどの小舟は、水面に乗った。
浮かんだ舟に乗り込もうとしたとき、着物の袂が大きく翻る。
そのとき、ほろりと落ちた小さな物体に気づいた母は振り向いた。
「あっ……お守りが……!」
母は袂から転げ落ちようとしたお守りを握りしめる。
その瞬間、眩い落雷が洞窟を白く染める。
雷の衝撃が彼女の身を撃った。
目を見開いた幻影の俺は見た。
雷が落ちるとき、お守りから小さな珠が転がったのを。
短い絶叫をあげた母は、がくりと倒れる。それでも彼女は船体に縋りつき、最後の力を振り絞って舟を出した。
ひとり小舟に乗せられた赤子は、泣き声をあげている。
洞窟の奥へ消えていく舟を、俺は呆然と見送る。足元には、母の遺体が転がっていた。
「かあさん……」
そう呼んだつもりだが、俺の声は届かなかった。
ただ己の無力さを痛感するしかない、古い記憶だ。
俺は物心つく前から、母の最期を知っていたのだった。
おばあさまの屋敷で育てられた俺が、夜叉の後継者であることは知らされていた。父にも何度か会ったことはあるが、父子の会話は冷淡な空気しか生まず、親の愛情など期待するほうが愚かなのだという事実を突きつけられただけだった。
あの記憶は、なにか意味があるのか。
母を恋しいと思う俺が生み出した妄想なのだろうか。
長年のその疑問がやがて確信に変わったのは、意外なところからだった。
あかりが悠を妊娠していたとき、小学生くらいの男の子に何度も助けてもらったのだという。謎の男子の正体は悠だったと、あかりは話していた。
ということは夜叉の神気により、母親の腹にいる赤子であっても姿を現して、外界に影響を及ぼせるのだ。
つまり、俺も悠のように幻影となって、あのとき母の傍にいた。
あの光景は夢ではなく、現実に起こったことだった。とはいえ、俺にはなにもできなかったわけだが……。
母は赤子を守り、逃がそうとしていた。俺が生まれさえしなければ、母が死に至ることはなかったはずだ。
こんな男が夫で、子の父親だなどと知ったら、愛想を尽かされてしまうかもしれない。
あかりへの愛しさを募らせるほど、この秘密を決して話せないと心が硬くなる。
だが、夫婦に秘密があってよいものかという迷いもあった。妻に対して誠実でありたい。