パラパラと小雨の降る金曜の夜、そのヒトは私の前に現れた。

「こんばんは」

驚くほど色が白くて、上品なブロンドの髪にブルーグレイの瞳。すらりと高い背に華奢な体格は、誰もが振り返るトップモデルそのものだった。

「驚かせてごめんなさい。あなたを見かけたその日から、ずっと気になっていました。今日初めて勇気を振り絞って声をかけたんです。少しだけ、お茶に付き合ってはもらえませんか」

しっとりと濡れたビジネス街の灯りが、アスファルトに反射している。彼は緋色の傘を傾けた。

「一緒に、いかがです?」

私は常磐色の傘を折りたたむ。

一目惚れなんて、自分の人生にあるわけないと思っていた。それなのに、吸い付けられるようにその緋色の傘に入る。

もしかしたら、左の首筋にあるほくろの位置が、別れたばかりのあの人に似ていたからなのかもしれない。彼はにこりと微笑んだ。

「行きましょう」

並んで座ったコーヒーショップのガラスを、雨はやさしく通りを滲ませる。

「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「岡田真緒といいます」

「そう。僕はルイ」

細く長い指が、優雅にカップを持ち上げる。一口だけ口をつけて置くその仕草まで、よく出来たガラス細工のように繊細だった。

「あ、ルイさんですか。そうですか」

そっか、偽名なのかな。

そうだよね。

私もバカみたいに本当のコトを言うんじゃなかった。

「ごめんなさい。僕には名前がないんだ」

「名乗れないってこと?」

「そう」

ついた肘に頬を乗せ、にこりと微笑む。

「真緒は何が好き? やっぱりお花とか鳥が好きなの?」

「どこかでお会いしたことがありましたっけ」

こんな凄いイケメンと会ったことがあるなら、覚えていないはずはないんだけど。

「会ったよ。だけどそれは秘密」

落ち着いた笑みを絶やさないギリシャ彫刻のような顔は、本当に大理石で出来ているみたい。

「あの、肌がとてもきれいですね。どんなお手入れをされてるんですか? ちょっとだけ触ってみてもいいです?」

「じゃあキスしよう」

そう言って近づく横顔に、驚いてとっさにうつむいた。

「そ、そういうのは困ります」

「はは。かわいい」

彼の手が私の手に重なった。

「ね、僕のこと好きだったでしょ。それはどこから来たの?」

「え?」

私は自分の記憶の中をぐるぐると駆け巡る。だけどこんなヒトに会った覚えは一切ない。

「もしかして人違い?」

その問いに、彼は急に動かなくなった。

何かを一生懸命考えているようにも、全くの無心になってしまったようにも見える。

やがてゆっくりと会話を再開した。

「そうだね。人違いではないけれども、確かに同一人物というわけではない。約840万の組み合わせからのランダムアソートだからね、ややこしいんだ」

優雅に微笑む。

「大丈夫。僕の見立てに間違いはない。今もう一度確認した。君にも僕を好きになる要素は含まれている。それがどこにあるのか教えてほしい」

意味が分からない。

そんなことをいきなり言われても困る。

じっと見つめる彼とは、目が合えば優しく微笑むばかりで、会話はどこまでもかみ合わなかった。

彼は結局、最初の一口以外全く手をつけなかったコーヒーカップを持って立ち上がる。

「もう帰ろう。時間だ。少し長すぎたくらい。途中の駅まで送るよ」

たっぷりとカップに残るそれを、ためらうことなく流しに捨てた。

彼はまたにっこりと優しい笑みを浮かべる。

「また会いたいんだけど。いい?」

緋色の傘が差し出される。私はその中に入る。

「連絡先、交換します?」

「あぁ、いいね」

地下鉄へ下りる階段の前で、彼は手を振った。

私はペコリと頭を下げ電車に乗った。