部活が終わると、スマホに待ち合わせ場所の連絡が届いていた。あたふたと帰り支度をする俺を礼央は面白そうに見守り、先に部室を出るときには高砂の気をそらしてくれた。

中庭に面した玄関の前で、しぃちゃんはぼんやりと立っていた。リュックを背負って、、地面に突いた傘を両手で支え、雲が切れた夕空を見上げている。彼女のきれいな立ち姿を久しぶりに見た気がして、心安らぐ懐かしさを覚える。

「しぃちゃん」

俺の声に反応して振り向き、笑顔になる彼女。それだけで胸の中で翼が羽ばたくような喜びが広がる。

「待ち合わせって、なんだか恥ずかしいね」
「うん。そうだね」

彼女のはにかんだ微笑みに、俺も、えへへ、と笑ってしまう。と同時に、これこそがほやほやのカップルの初々しさだと気付いた。こういう感じをずっと思い描いていたのだ!

「景ちゃん、きっとびっくりしたよね?」

並んで歩き出すと、微笑んだまま静かに彼女が言った。

「昼休みのこと?」
「うん、そう」

門のあたりは下校する生徒でにぎわっていて、“彼女”という存在とふたりで歩くことに慣れていない俺はなんとなく落ち着かない気分。けれど、昼休みのしぃちゃんの告白を思い出したら可笑しくなって力が抜けた。

「びっくりしたけど、ああいうの、すごくしぃちゃんらしいって思った」

そう。午後の授業のあいだ、あの展開を何度も思い出しているうちに気付いた。たくさん考えた末に思い切ったことをする。それこそがしぃちゃんなのだ。四月に、俺にいちごの彼氏かと尋ねたときに感じたことだった。そして。

「そういうところ……好きなんだよね、俺」

彼女が目を見開いた。少し声が小さくなってしまったけれど、ちゃんと聞こえたようだ。周囲の九重生たちは俺たちのことなど気にも留めず、自分たちの会話に夢中だ。

「ふふっ、そうやって無言で目を見開く顔も。何を言いたいんだろうって考えちゃう」

俺の言葉にしぃちゃんはちょっと口をとがらせて、拗ねたような顔をした。と思ったら、くすくす笑い出した。

「いっぱい考えてるよー。いろんな可能性とか、くだらないジョークとか、会話の予想とか。ものすごいスピードで流れてく。でも、自分でつかまえられないの」
「で、黙ったまま、周りにいる俺たちを置き去りにして思考が突き進んでる。だからときどき周りが驚くことを言う」
「んー、でも、景ちゃんも考えるひとでしょう? 思ったこと、そのまま口には出さないよね?」
「まあ、そうだね。俺は警戒してしゃべらないっていう方かな」

つまり、俺たちはどちらも口数が少なめだということだ。それでもお互いに大事なことは通じているのだから、よくやっていると言うべきだろう。いや、もしかしたら俺たちは最高の組み合わせなのかも。

「景ちゃんにはたくさん心配かけちゃったよね」

彼女がそっと視線を落とした。俺の傘が乾ききっていないアスファルトに当たって、カツン、と小さな音を立てた。

「動物園の日から、頭の中、ずっとぐちゃぐちゃで。自分のダメなところだけしか考えられなくなってて」
「……うん」
「きのう、景ちゃんが新着図書のことで声をかけてくれたあと、ますます落ち込んじゃって」
「え、なんで?」

元気になったと思ったのに……。

驚く俺に向けられたのは淋しげな微笑み。

「景ちゃんに、自分がひどいことしたって分かったから」
「それは……でも、謝ってくれたじゃん」
「だけど、やってしまった行為は消せないよ。それに、そういうことをする自分だってことが、すごく嫌。泉美たちにも偏見持ってたことに気付いたし」
「しぃちゃん……」

頑固なしぃちゃん。頑固で、自分に厳しくて。

「だけどね」

彼女の瞳に光が戻ってきた。すっきりしたその表情は、迷いや不安を洗い流した証か。

「お昼休みに雪見さんに言われたの。自分がダメだって決めるのは早いって」
「雪見さんに?」
「うん。高校二年生で自分の価値を決めちゃう必要ないよって。そのとおりだよね? まだ経験してないことがたくさんあるし、これから何十年も生きるのに」
「うん、そうだよ。ほんとうにそうだ」

雪見さん、すごい。ちゃんとした大人だ。人生の先輩として、俺たちには見えていないものを教えてくれたのだ。

「それにね、“みんな”は変わるって」
「変わる?」
「今は学校っていう場所限定の集団に過ぎないってこと。だから、みんなと違うって感じても、それは学校の中だけでのことで、違う場所に行けば――」
「違う“みんな”がいる」
「そう。それに、違うって感じることが自分を育てるきっかけになると思うって言ってた」
「へえ……」

雪見さんって、先生たちとは全然違う感じがする。年齢は離れているけれど、心がとても近いというか。導かれるのではなく、寄り添ってくれる感じ。それは雪見さんも俺たちと同じように悩んでいたからだろうか。それとも、本をたくさん読んでいるから……?

「そんな話を聞いたらね、うじうじ落ち込んでる場合じゃない気がしてきたの」

しぃちゃんの晴ればれとした声。

「自分はどうなりたいの? って。ダメとかみんなと違うとか思ってるけど、どうなりたいの? どうしたいの? って考えた。で、まずは景ちゃんに話さなくちゃって思ったの」
「え? 俺が最優先? すごいな」
「そう? でも、一番大事なことだよ」

半ば冗談で返した言葉にしぃちゃんは真面目な表情で答えてくれた。

「……ありがとう」

自分がどうなりたいのか、なんて、生き方を問うような大きな質問だ。その中で、俺との関係を最優先にしてくれた。そのことが素直に嬉しい。

「あのさあ」

考えながら話すのはあまり得意じゃない。でも、俺たちのこれからのために、ちゃんと伝えておかないと。

「俺、しぃちゃんと話すと、楽しいだけじゃなくて、気持ちが楽になったり、前向きに考えられるようになったりしたんだよね。中でも他人と比較しないっていうのは、俺にとってすごく大きいことだったんだ」

そう。諒との比較だけじゃなく、クラスや部活でも、どうして自分には足りないところばっかりなのだろう、と思ってきた。劣等感は俺の伴走者と言っていいくらい当たり前の感情だったのだ。

それがしぃちゃんのお陰で薄れた。さらに、言葉を惜しまず褒めてくれることで、俺も捨てたものじゃないと思えたりもした。そういうことを通して、自分の中に土台が感じられるようになった。

「なんだか、しぃちゃんは魔法使いみたいだって思った。しぃちゃんの言葉が俺に魔法をかけてるって。しぃちゃんのお陰で俺は変われるって」
「景ちゃん……」

驚いている彼女ににやりと笑いかける。

「だからしぃちゃんが『みんなと違うからダメだ』って言ったとき、比べてる相手が大きすぎて、まあなんて言うか……呆れちゃったよ。『何人と比べてるんだよ!』って」

彼女も苦笑いしながら「だよね」とうなずいた。

「でも、思い出したんだ。球技大会で俺がバレーボールのアドバイスをしたとき、しぃちゃん、『呪文みたい』って喜んでくれたよね? ってことは、俺もしぃちゃんに魔法をかけることができるのかもって」
「ああ……、うん、……うん、そうなの。そのとおりだよ」

見上げる彼女の視線に照れてしまうけれど。

「だから俺、これからもっと言葉にしようと思ってる。しぃちゃんのいいところ。俺が……好きだな、と思うところ。あんまり上手くないかも知れないけど」

それに、あんまり直接的な表現はできないけれど。

「だから……って言うのもなんだけど、しぃちゃんさあ、もっと俺に愚痴こぼしてよ。たぶんしぃちゃんって、何かを言う前にたくさん――すごく先回りして考えて、その中から一番いいものだけを選んで外に出してるんじゃないかな」

彼女が目を見開いた。たぶん、当たっているから。

「そういう気遣いって大事だし、それができるしぃちゃんを尊敬してる。だけど、そういうことができるしぃちゃんだから、逆に心配になるよ。無理してないかなって」

いちごが彼女を「いい子」というのはそういう意味もあると思っている。彼女の外側に現れている言動だけじゃなく、自分の言葉や態度を吟味したうえで表に出すことそのものを含めての「いい子」。だからいちごは彼女を可愛がる言葉や態度で、彼女が自由になれる場を作ってあげているのだ。

「俺、しぃちゃんと一緒に悩んだり考えたりしたいよ。答えを出す役には立てないかも知れないけど、せめて“一人じゃない”って思ってほしい。普段も、俺といるときには自主規制を緩めていいよ。俺、たいていのことは受け止められるから」

しぃちゃんがくすっと笑った。

「でも、あたしが考えてることをそのまま口に出したら、景ちゃん、びっくりして引いちゃうかもよ?」

そんなことを言われるのは想定内だ。

「たぶん大丈夫だと思う。俺、しぃちゃんを信じてるから」

彼女ははっとした様子で俺を見上げた。

「だからしぃちゃんも俺を信じてほしい。安心して一緒にいてほしい。もちろん、俺の良くないところを指摘してくれてもいいよ。俺も言うかも知れないし、しぃちゃんと議論するのは楽しいんじゃないかって思うから」
「景ちゃん……」

深く息を吐き出すように俺の名前をつぶやいた。それから浮かんだ微笑みは、なんだかとても満足そうで。

「あたし、今の気持ち、言葉では伝えられない。ハグするしかないって思ってる」
「え!?」

思わず足を止めてしまった俺を彼女が笑う。

「あはは、大丈夫、やらないから。それくらい感謝してるってこと」

ほっとしながらまた並んで歩き出し、でも、やってもらってもよかったかな、と惜しい気持ちも拭いきれず……。こういうところが俺だよな、と思う。

「……あたしね」

言葉をきった彼女がまっすぐに俺を見上げた。

「世界で一番素敵なひとを好きになったと思う」
「えー……?」

それは大袈裟だよ! と思った途端。

「ほら、引いてるじゃん! 思ったこと言ったのに!」

ツッコまれた。

「いや、まさかこういう方向に来るとは思ってなかったから」
「景ちゃん、自分のいいところ、ちっとも分かってないもんね」
「そう……かな?」

彼女は俺を「素敵なひと」と思ってくれている。それはさっきの言葉でよく分かった。俺の好きなしぃちゃんが、俺を好きだと言ってくれている。それはほんとうにすごいことだ。

でも、もちろん俺は「世界で一番」なんかじゃない。だから、彼女の言葉に少しでも近づけるように頑張ろう。彼女が自慢しても恥ずかしくないように。

それにしても。

「しぃちゃん、今は悩みがないのかな?」
「そうねぇ……、今週ずっと悩んできたから、その反動で一気にプラス思考に飛び込んじゃった気がする。今、すっごく楽しくて、わくわくしてる」

目を輝かせて彼女は言うと、ふと、自分の手のひらを見つめた。

「どうしたの?」
「うん……」

数秒迷ってから彼女はにっこりして。

「景ちゃんと手をつなぎたい気がしたけど、暑いから無理かなって。あたし暑がりで。でも、秋になっても恥ずかしいかなあ?」
「あー……どうだろう?」

こっそり服で手を拭ってみるけれど、暑いのも、恥ずかしいのも間違いない。特にここはうちの学校の通学路だし。

それにしても、しぃちゃんって意外と積極的だ。それとも、これが俺の申し出への答えなのだろうか。俺への信頼の証?

「景ちゃん、ごめん。あたし、少しハイになってると思う。楽しくてふわふわする」

しぃちゃんがくすくす笑いながらくるりと一回転した。

「きっと景ちゃんの魔法にかかったんだ。ふふ、球技大会に続いて二度目だ」

いつもよりも浮かれ気味のしぃちゃんに、思わず口元がゆるむ。「かわいいよ」と言いたいけれど……やっぱり言えない! 照れくさすぎる!

「ええと……、ずっと仲良くしよう。それで……、俺にもしぃちゃんの魔法が必要だから」

上手く言えない。照れくささが舌にブレーキをかけていて。

でも、いつか言いたい。言える日が来るといいな。

俺はしぃちゃんのその笑顔を一生守りたい――って。




ーーーーーーーーーーおしまい