彼女は俺の魔法使い


「偶然だよねー、こんなところで会うなんてー」

嬉しそうにはしゃぐ女子たちに、礼央が「そうだね」と笑顔で調子を合わせる。俺もなんとか笑顔をつくって、こくこくとうなずいてみせた。

――どうかしぃちゃんたちが見つかりませんように。

見つかる前に隠れたほうがいいよ、と伝えたいけれど、少し先のテーブルでパンフレットに見入っているしぃちゃんは気付いていない。くぅちゃんは俺たちをはさんで彼女の反対側だ。

「バレー部で来たの? あれ? もうひとりいたよね?」
「ええと、いや、バレー部じゃないよ」
「そうなんだ? 誰?」

俺たちが言葉を濁している周りで、四人がきょろきょろする。一緒に行動しようとでも言うつもりなのだろうか? くぅちゃんは隠れたのか?

恐る恐る振り向くと、売店の棚をながめているくぅちゃんの背中が見えた。もしかしたら、俺たちの横をすり抜けてしぃちゃんのところに戻ろうと様子をうかがっていたのかも知れない。

「うちの学校のひと? 脚長いね」
「同じ学年? こんにちはー」
「よかったら午後は一緒にまわらない? たくさんの方が楽しいと思うけど」

彼女たちは間違いなく、俺たちが男同士で来たと思っている。

「ああ、うちの学校の生徒じゃないんだ。久しぶりに会ったからできれば――」

礼央があわてて説明するけれど、四人の視線はくぅちゃんに向いたままだ。

くぅちゃんはこちらの気配で、このままでは済まないと思ったらしい。キャップのつばに手をかけ、うつむき加減に振り向いて会釈した。それを隠すように礼央が「あのさあ」と、間に割り込む。

「え?! もしかして?!」

元山が叫ぶような声をあげた。その勢いで礼央を押し退け、一気にくぅちゃんに迫る。

Kuran(クラン)ちゃん?! Kuranちゃんだよね?!」

「えっ?!」という声が残った三人からあがる。通りかかったひとたちが何事かと視線を向けた。向こうのテーブルでしぃちゃんがはっと顔を上げたのも見えた。

あっという間に四人は俺たちから離れ、黄色い声をあげてくぅちゃんを取り囲んだ。

「Kuranちゃん! すごい! 本物!」
「カッコいい! いつも応援してるよ~」
「男の子かと思った! でもすごいカワイイ!」

仕事で慣れているのだろうか。くぅちゃんが屈託のない笑顔で話を合わせているのはさすがだ。

振り返ると、しぃちゃんが慌てた様子でテーブルの上を片付けている。俺はその姿をおろおろした気分で見ているだけで、どうすべきなのか決められないし、彼女がどうするつもりなのかも分からない。

――どうしたらこのハプニングをやり過ごせる?

あの子たちはくぅちゃんに会って満足したら、いなくなってくれるのか? それともますます「一緒に」と言われる? しぃちゃんはどうなる?

ああ、何もかもごちゃごちゃだ!

「でも、どうして礼央くんたちと一緒にいるの?」

耳に飛び込んできた質問。一番訊かれたくなかったやつだ。

俺と礼央が覚悟を決める前に、女子たちがさっとあたりを見回した。そして。

「紫蘭」

道中が鋭い声で呼びかけた。その視線を追って、あとの三人も近付いてくるしぃちゃんを見つけた。しぃちゃんは微笑みを返したけれど、その笑顔が普段よりも弱々しく見えるのは思い違いじゃないと思う

「偶然だね。四人で来たの?」

しぃちゃんも、四人とも顔見知りらしい。

「まあね。紫蘭たちも四人で?」

元山の声の調子に胃のあたりがざわりとした。そう言えば、さっきまで聞こえていたほかの三人の声が消えている。

一、二秒の間のあと、しぃちゃんが「うん」と小さくうなずいた。

「へえ。あたしたちとはいつも日程が会わなかったのにね?」

しぃちゃんに向けられたわざとらしい表情と言葉が俺の胸にも突き刺さる。

元山を取り巻く三人は多少の戸惑いを見せつつも、しぃちゃんに向ける視線は責めるような色をたたえている。

「あ……、ごめんね」

しぃちゃんがうつむいてしまう。

――どうしよう?

女子たちの尊大で不機嫌な態度が怖い。不安で息苦しさも感じる。

こんなふうに怖じ気づいている自分が情けないけれど、何を言っても反撃されそうだし……。

「あ、あのさ」

礼央が軽い口調と笑顔で割って入った。

「これは、俺から頼んだんだよ。しぃちゃんは仕方なく――」
「へえ、そうなんだ?」

元山が勝ち誇ったような顔をしぃちゃんに向けた。説明した礼央ではなく。

「男子の頼みだったらきいてあげるんだね。なんかさあ、下心見え見え」

ぱっとしぃちゃんが顔を上げた。そこに広がっているのは驚愕の表情。

「べつに男子とか女子とかは――」
「関係あるでしょ? あたしたちが何度頼んでも会わせてくれなかったのに、礼央くんはOKなんだから」

しぃちゃんの言葉は最後まで聞いてもらえなかった。口を封じられたようなしぃちゃんに、ほかの三人も厳しい目を向ける。

「そうだよねぇ。あたしたちにはいつも『都合が悪い』って即答で」
「毎回じゃ、嘘だって分かるよね?」
「そうそう。あたしたちのこと、馬鹿にしてる証拠」
「適当にあしらっておけばいいやって思ってるよね?」
「あの……そういう言い方、やめようよ」

ようやく声を出せた。心臓がバクバクして汗が噴きだしてくるけれど、これではあまりにもしぃちゃんがかわいそうだ。

「もともとは偶然で――」
「景ちゃんも礼央くんもやさしいからね」

強い視線と声が今度は俺に向けられる。思わず“怖い”と思って、言葉が止まってしまう。

「紫蘭の真面目そうな雰囲気に騙されてるんだよ。『あたしは男の子に興味ありません』って顔して、こっそり(こび)売ってんじゃん。あたしたちよりよっぽどしたたか」

勢いに飲まれてしまった俺の前で、名前の分からない女子が元山の腕にそっと手をかけた。ちらりと周囲に向けた視線の様子では、もうこの辺でやめた方がいいと思ってくれたようだ。通りかかる人たちがさり気なく俺たちを見ているから。

元山は一瞬、その子に怒った目を向けたものの、すぐに力を抜いてうなずいた。少しは言い過ぎたと思ってくれただろうか。

礼央と俺に気まずそうにうなずいて、四人は足早に去っていった。

「……ごめんね」

しぃちゃんの声。弱々しい、悲しげな声だ。

「あたしがもっとみんなと上手に付き合えてたら……」
「しぃちゃんのせいじゃないよ」

これだけはちゃんと言わなくちゃ。さっきは何の助けにもならなかったのだから、今は。

「向こうだって、くぅちゃんに会いたくてしぃちゃんを利用しようとしたんだろ? それを断ったからって、文句を言われる筋合いはないよ」

言いたいことはほかにあるような気がするのに、言葉にできたのはこんな分かり切ったことだけ。

後ろから「しぃちゃん」と声がして、くぅちゃんがしぃちゃんの前に進み出た。

きらきらと光る瞳とその決然とした表情は見覚えがある。初めて会ったあの日、それは礼央に向けられていた……。

「どうしてあんなこと言われて黙ってるの? しぃちゃんは悪くなんかないよね? ボクを守ってくれてたんでしょ?」

――やっぱり怒ってるみたいだ……。

だけど、その対象はしぃちゃん? さっきの女子たちじゃなくて?

驚いているのは礼央も同じらしい。呆気にとられた様子でくぅちゃんを見ている。

「正しいことならちゃんと言い返してよ。男子に媚売ってるなんて言われて黙ってるしぃちゃんなんて嫌だ。ボクのために我慢なんかしてほしくない。ボクは覚悟できてるんだから。間違ったこと言われてるのに怒りもしないで謝るだけのしぃちゃんなんか見たくないよ」

息継ぎで、くぅちゃんの言葉が途切れた。

我に返った礼央と視線を交わす。お互いにいい考えが浮かんでいないことが判明し、急いで考えなくちゃと思ったそのとき、礼央の腕をくぅちゃんがつかんだ。

「行こう、礼央」
「え?」

展開について行けずにあわてる礼央。その腕を、くぅちゃんが「早く」と引っ張る。

転びそうになって向きを変えながら、礼央が俺に向かってうなずいた。俺も心の中で「分かった」とうなずく。礼央はくぅちゃん、俺はしぃちゃん。ふたりが落ち着くまで話さなくちゃ。

園路を曲がってふたりが見えなくなり振り向くと、しぃちゃんはうつむいて肩を落としていた。力なく下がった腕の下でワンピースの輝くような白さが悲しい。

「ごめん、景ちゃん」
「俺に謝る必要なんてないよ」

少し先のベンチに彼女を誘導する。そのあいだも彼女は顔を上げなかった。

「気にしないほうがいいよ」

ベンチに落ち着いてからそっと伝えた。けれど、しぃちゃんはうつむいたまま動かない。

「元山たちはしぃちゃんを傷付けようとして、わざと酷い言い方をしてるんだから」

そう。あれは悪意で捻じ曲げられた言葉だ。

言葉は怖い。ひとつの事実をどんなふうにでも表現することができる。あるときは大袈裟に。あるときは裏の意味を滲ませて。

傷付けることも、怖がらせることも、疑惑を植え付けることも可能だ。

「ん……、そうかも知れないけど」

しぃちゃんがつぶやくように言った。

「やっぱりあたし、ダメなんだよね。いくら頑張っても、ちゃんとみんなに馴染めなくて。だからあんなふうに言いたくなるんだと思う」

深い深いため息をついてから、ようやく彼女が俺を見てくれた。そこに浮かんだ微笑みは、穏やかなのに空っぽに見える。

「ごめんね、変なことに巻き込んじゃって。景ちゃんも礼央くんも、……くぅちゃんだって悪くないし、関係ないのにね」

もう一つため息をついて、視線を遠くに向けた。

「あたしがダメで、弱虫なだけなんだ。結局、自分のことしか考えてないんだよ。ほんと、やなヤツ。なのに男の子と出かけるなんて、図々しいよね、ふふふ」

苦々しく笑うしぃちゃんを見ていると胸が痛くなる。

頭に浮かぶ励ましの言葉は彼女を癒すには不十分な気がして、片っ端から却下している――。




頭の中を整理するために深呼吸をしてみる。脳にたくさん酸素を送って、しっかり働いてもらわないと。

とにかく何か言わなければ始まらない。

「しぃちゃんはダメじゃないよ」

沈黙があまり長くならないうちに声を出す。安っぽくても不十分でも、黙っていたら何も伝わらない。

「それに、関係なくなんかないよ。友達だし、仲間だもん。関係ないわけないじゃん」

大丈夫だ。しっかりしゃべれている。これならどうにか行けそうだ。

彼女が言ったことは間違っていると、しっかりと伝えなければ。

「しぃちゃんは俺が困ってるときにちゃんと助けてくれたよ? だから、自分を嫌なヤツだなんて言っちゃダメだよ」
「……うん。ありがとう」

ありがとうと言っていながら、しぃちゃんが俺と距離をとっているように感じる。並んで歩いていたさっきまでと、実際の距離は変わらないのに。俺の言葉がブロックされているようでもどかしい。

「それにさ」

負けちゃダメだ。しぃちゃんの心のドアが閉じてしまったら簡単には開けられない気がする。

「元山たちって、俺も苦手だよ。ああいうタイプと馴染めないのはしぃちゃんだけじゃなくて、俺も同じだよ。気にする必要ないって」
「景ちゃんは男の子だから……、あたしとは違うよ」
「それは……」

言葉に詰まってしまった。性別を、理解できない理由に挙げられると反論のしようがない。

彼女が顔を上げた。そこに浮かんだ微笑みは弱々しくて、まるで何もかもあきらめてしまったように見える。

「泉美たちは普通だよ? 仲良くしてる子たくさんいるし、いつも楽しそうで、一緒にいると盛り上がるし、みんな泉美たちといるの好きだもん。だけど、あたしは……上手くいかない」

ふっと息をついて、彼女は視線をはずしてしまう。

「あの子たちとだけじゃないんだよね。ほかのひとと話しててもしょっちゅう感じる。その場の雰囲気を壊しちゃったり、受け答えが普通の枠からはみ出しちゃったりして、周りが困っちゃうこと、よくあるの。またやっちゃったなあって思うんだけど、ちっとも直らなくて……」

またため息。

「要するに、あたしが変だってこと。だから、話に相槌を打つだけにするとか、当たり障りのないことを答えるとか気を付けていたんだけど……。そうやって話を合わせてることが、馬鹿にしてるって思われちゃったのかもね」
「話を合わせることなんて、誰でもするよ」
「でも、あたしはそれが下手だったってこと。やっぱり普通の範囲には入れていない」
「それは……」
「そんなあたしが男の子と出かけたりしちゃいけなかったんだよね……」
「そんなこと……」

その理屈は絶対におかしい。

「たしかにしぃちゃんはほかの女子たちとは違うかも知れない。違うかも知れないけど、だからって“変”だなんてことにはならないよね? それに、なんで男と仲良くなっちゃいけないんだよ? そのルール、相手にも適用されるの?」
「それは……」
「俺や礼央が誰と仲良くなるかは、俺たちが自分で判断することだよ。周りがどう思うかなんて、それこそ関係ないじゃん」

彼女は反論できないのだろう。唇をきゅっと結んで黙ってしまった。

「しぃちゃんは変じゃないよ。いちごだってしぃちゃんのこと、ちゃんと認めてるよ? 礼央も、しぃちゃんが変だなんて思ってないし」

そう言えば……。

しぃちゃんは、女子に苦手意識のある俺が異例のスピードで仲良くなれた女の子だ。いちごのお陰もあるとしても、だ。それはつまり、彼女が一般的な女子とは違うということを示していると言えなくもない。

だとしても。

それは断じて悪いことではない。しぃちゃんがしぃちゃんであることに意味があるということだ。

そうだ。それを伝えないと。

「俺だって――今のしぃちゃんのこと、いいと思ってる。ほかの女子とは違うからこそたくさん話したいって思うんだよ」
「今のあたし……ね」

懸命に伝えたのに、しぃちゃんはなぜかなげやりな表情で「ふふっ」と笑った。

「景ちゃんが見てるのはあたしが創ったあたしだよ」

笑っているのに、向けられた瞳は暗い。

「いつもにこにこして前向きなことを言って。でも、それは単なる自己防衛なの。周りから攻撃されないように、いい子になっていただけ。いい子に見えるように振る舞っていただけ。ほんとうのあたしじゃないの」
「しぃちゃん……、そんなことないよ」

俺の言葉が届いていない。こんなにも俺は無力なのか。

「あたし、弱虫なんだ。みんなに文句言われないようにってことばっかり考えてるの。ずるいんだよね」
「そんなことない。違うよ。そうじゃない」
「景ちゃんは善意のひとだから、創りもののあたしをそのまま信じてくれたんだね。ごめんね」

俺の心は彼女の言葉が間違いだと知っている。けれど、彼女の表情から、俺が何を言っても跳ね返すつもりだと分かってしまう。

どうして俺の言葉を信じてくれないのか。もどかしさで胸が詰まる。

「くぅちゃんは勘違いしちゃったみたいだだけど……」

静かに言ってうつむく彼女。

「優しいんだよね。でも、さっき黙ってたのだって、自分の身を守るためだもん。反論したらもっとたくさん言われると思って怖かったの。くぅちゃんのためじゃないって、あとでちゃんと説明して謝らなきゃ」

そして顔を上げ、にっこりした。

「ね?」

――彼女の扉が閉まってしまった……。

間に合わなかった。俺の言葉では足りなかった。俺では役に立たなかった。

しぃちゃんはすっかり決めてしまった……。

「ごめんね、景ちゃん。せっかく仲良くしてくれたのに、なんか……本物じゃなくて」

肩をすくめて笑う彼女。でも、俺は笑えない。

「しぃちゃん。本物じゃないなんて俺は」
「ということで」

しぃちゃんが素早く立ち上がる。振り返った表情はあまりにもさっぱりしていて。

「あたし、帰るね」
「え?」

膝がまるでばね仕掛けのように伸びた。

「じゃあ俺も」

俺を見上げる瞳は今までと変わらないように見えるのに。

「ごめん。ひとりで帰るから」
「でも」
「ごめんね。その方がいいんだ。少し、ひとりで歩きたいの」
「だけど――」

もし自分だったら……、と頭をかすめた。

もし俺がしぃちゃんの立場だったら、きっと、ひとりになりたいと思うだろう。ひとりになって、いろいろなことを考えて、たくさん考えて。だけど……。

「大丈夫」

しぃちゃんが明るく言った。俺が何を心配しているか、彼女はちゃんと分かっているのだ。聡明な彼女だから。

「気を付けて帰るから。途中で事故に遭ったりしないし、明日はちゃんと学校に行く。帰ったらくぅちゃんと仲直りもする。だから心配しないで。それにね」

いたずらを打ち明けるような上目遣いで微笑む。さっきまでならときめいたであろうこんな表情も、俺に心配させないためだと思うと寂しさを感じるだけ。

「くぅちゃんの荷物、渡してもらいたいんだ。テーブルに置きっぱなしだったから」
「え……」
「これ」

差し出された布製のバッグはたしかにくぅちゃんのものだ。そう言えば、俺たちを売店に迎えに来たくぅちゃんは地図しか持っていなかったかも……。

「お財布もスマホも入ってるの。だから、あたしが持って帰るわけにはいかないんだ。悪いけど、景ちゃんから渡してもらえる?」
「それは……」

礼央に連絡したら、すぐに戻って来るだろうか? でも、くぅちゃんがまだ落ち着いていなかったら気がつかないかも知れない……。

「お願い」

嫌だと言えば、彼女は帰れない。それなら……。

「……そうだね。分かった」

ひとりになりたいという彼女の気持ちを思うと断れない。

「ありがとう」

礼央たちが戻って来ないかと、望みを託して見回してみる。けれど見当たらない。

「じゃあ、あたし行くね。景ちゃん、ほんとうにごめんなさい。礼央くんにもちゃんと謝るから。じゃあ……、明日ね」
「うん……、明日」

ワンピースの裾が翻る。

遠ざかっていくしぃちゃんのうしろ姿にそっと「絶対だよ」と声をかけた。

――明日、絶対に、いつもと同じように笑顔で「おはよう」って言おうね。

彼女は振り返らないまま見えなくなった。

俺の手にはくぅちゃんのバッグ。胸の中には虚しさと不安と……バランスをとるために練り上げた期待。

彼女はきっと気持ちを整理できる。明日にはまた元の関係に戻れるはずだ。閉じてしまった扉もきっと開く。

礼央に連絡するためにスマホを取り出してからベンチに戻った。メッセージには、ここで待っていることだけを書いた。

しぃちゃんが帰ったことはふたりに直接話した方がいい。くぅちゃんの荷物がここにあるのだから、落ち着いたら戻って来るのは間違いない。

ふたりが戻ったら、俺もすぐに帰ろう。急げばどこかでしぃちゃんに追いつくかも知れないし。

それにしても……。

しぃちゃんがあんな悩みを抱えていたなんて。

みんなと違うこと。“普通”からはみ出していること。

悩んで、傷付いていたのだ。ずっと、ひとりで密かに。

悩みが深くて傷付いていたからこそ、俺には――おそらく誰にも――言わなかったのだ。俺もそうだから分かる。本当に深く傷付いたときには礼央にだって話さない。

そんな中で彼女は『五輪書』と出会った。そして、俺が気付かなかった「比べることの無意味さ」というエッセンスをキャッチした。彼女には“みんなと違う”という悩みがあったから。

俺に「比べるのをやめる」と宣言したときは嬉しそうだった。あんなふうにきっぱり言ったのは、自分に言い聞かせるためでもあったのかも知れない。

俺は、そんな彼女の一面しか見ていなかった。

前向きに努力する理由を自分と似たようなものだと思って、彼女を理解したつもりになっていた。もっと深い悩みがあることに気付かなかった。

――やっぱり俺って……甘いのかな。

家族や経済的な心配があるわけじゃない。他人から攻撃されたりもしていない。存在感が薄いことなんて、そう度々問題になるわけではない。礼央やしぃちゃんの状況を考えると、自分は恵まれていると思えてくる。

――あ。俺、今、比べてる。

比べるって……。

劣っていると悲しいのは当然だけど、恵まれているからといって嬉しいとは限らないんだな……。



礼央たちが戻って来たのはそれから十五分ほど経ってから。

俺はしぃちゃんが先に帰ったことだけを告げた。ひとりで考えたいと言っていた、と。

しぃちゃんが帰ったことを知ったくぅちゃんは、また怒り出しそうになった。けれどすぐにため息をつき、「しぃちゃん、頑固だからなあ」とうなだれた。

もう動物園を楽しむ気分ではないし、元山たちにまた会ってしまうのも嫌なので、そのまま帰ることにした。

帰り道で、くぅちゃんはしぃちゃんがひとりで帰ってしまったことを俺たちに何度も謝った。でも、俺も礼央もしぃちゃんを責めるつもりはない。逆に礼央は自分がトラブルの一要因になってしまったと謝っていた。俺だって何も役に立てなかったのだから同じ気持ちだ。

そんな中で事の責任を元山たちに被せたくなるのは仕方ないことではないだろうか。「あそこで会わなければ」「あれは言い過ぎだ」「ほかの誰かだったら」と考えてしまう。けれど、誰も彼女たちの名前を口に出さない。彼女たちに罪をかぶせて文句を言っても意味がないと分かっているから。

起きてしまったことは起きてしまったこと。もう、元に戻すことはできない。

今日のことは問題の一端が明るみに出ただけでもある。根っこの部分はそれぞれの胸に、日々積み重ねられてきたのだ。簡単に解消できるわけがない。

けれど、だからと言って、言いたいことをぶつければいいというものでもないと思う。

俺たちみんな、何かしらを抱えて、自分たちを取り巻く世界と折り合いをつけながら進むしかないのだ。荷物が重くなったら休んだり、誰かと分かち合ったりしながら。俺は礼央やしぃちゃんと、そんなふうに進んで行きたい――。

昼を過ぎたばかりの帰りのバスは空いていて、俺たちは一番後ろに並んで座ることができた。

「しぃちゃん、前は絶対に言い負かされたりしなかったんだよ」

くぅちゃんが静かに言った。

「小学生時代から頭が良かったし、いつも正しいと思うことを論理的に説明して、みんなを納得させることができてた。でも、中学の後半くらいから言い返さなくなった。……ボクが原因で」

うつむくくぅちゃんを礼央が静かに見つめる。

「モデルの活動を始めたころ、人気のあるモデルをふたりでネットで検索してたんだ。最初は楽しかったんだけど、途中でひどい中傷の書き込みをされてるひとを見つけちゃってね、ふたりともびっくりしちゃったの。ひどい言葉がいくつもいくつも並んでた」

想像しただけで胸が苦しくなる。言葉の刃は向けた相手以外も傷付けると、使っているひとは気付いているだろうか。

「しぃちゃんは『こんなの見るのやめよう』って、すぐに画面を閉じちゃった。で、ボクに『くぅちゃんは大丈夫。こんなこと言われないから』って言ってくれたんだけど……、たぶんボクよりもショック受けてたと思う。顔から血の気が引いてて目を見開いて。ボクよりも感受性が強いって小さいころから言われてたし」

くぅちゃんが唇を噛んだ。まるで自分に落ち度があったみたいに。

「しぃちゃんは冗談めかして明るく、自分も気を付けるねって言ったんだ。自分が嫌われて、その攻撃がボクに向かうといけないからって。世間に顔を知られるようになるボクの方が攻撃されやすいからって。そのときはボクも笑って、そうだねって言ったけど……、気がついたら学校でのしぃちゃんが変わってた」

そうか。そんないきさつがあって、くぅちゃんは責任を感じていたんだ……。

礼央がくぅちゃんにかける静かな声を聞きながら、しぃちゃんの言ったことを思い返してみる。

彼女は自分が攻撃されることが怖いと言っていた。反論しないのはくぅちゃんのためではないと。きっと、あとでくぅちゃんにもそう説明するのだろう。

けれど、俺の頭の中ではいろいろなことが蜘蛛の巣状につながっている。それぞれの言い分も、事情も、周囲の誰かも、どこかしらでつながっていて、ある場所で受けた刺激は二次的、三次的に広がっていく。あるいはバラバラにもたらされた刺激が一か所に集まることもある。

因果関係が一対一で終わるものなんて、世の中にはないような気がする。そう。しぃちゃんが言い返さなかった理由だって、きっといろいろなことが絡み合っている。

しぃちゃんの説明をくぅちゃんが受け入れない可能性はある。反論しないこと自体の是非もある。

俺たちはみんな何らかの理由があって、ものを言ったり行動したりする。けれど、それが絶対的に正しいと、世の中のすべてのひとが賛成してくれることってあるのだろうか……。



家に帰るといちごが来ていた。冷房の効いたリビングで、諒と母親と三人で人生ゲームをしていた。

「あれ? 早いね」

三人が異口同音に言った。

俺は家族には友だちと出かけると伝えてあった。でも、いちごはしぃちゃんからもう少し詳しく聞いているはずで、ほぼ間違いなく、諒と母親にも話しただろう。だったら、早く帰ってきたいきさつをここで話しても問題はない。むしろ、学校でのことを考えたら、いちごには知っておいてもらった方がいい。

そう判断して、動物園で元山たちに会ったところから話をした。くぅちゃんがしぃちゃんを責めたことも簡単に。ただ、しぃちゃんが俺に話した内容は黙っていることにした。

「会った相手がまずかったねえ」

早い解散を決めたところまでくると、いちごが苦笑いしながら言った。憤慨もせず、あまり深刻な顔もされなかったことになんだかほっとして、自分で少し驚いた。

「たしかにそうだな。よりによってくぅちゃんと会いたがってた面子だし」
「そこじゃないよ」

否定された意味が分からずいちごを見返すと。

「泉美は礼央くんのこと気に入ってたんだよ。かなり本気だったと思うよ」
「えぇ?! マジで?!」

そんなこと全然気付かなかった。女子はだいたいみんな、礼央と話すときは嬉しそうだから、そんなものだと思っていたのだ。

「だから偶然、礼央くんに会えて、すごく嬉しかったと思うよ。でも、礼央くんは自分に興味がないってことが分かったし、紫蘭が紅蘭ちゃんの姉妹だからって理由で礼央くんと仲良くできてると思って悔しかったんだと思う」
「そんな」

ということは。

「じゃあ……八つ当たり?」
「まあ、そういう意味合いもあるよね」
「なんだよ、それ……」

しぃちゃんは俺たちと一緒にいたくなくなるほどショックを受けたのに。今までの悲しいことを思い出して、傷付いて、自分はダメだなんて落ち込んで。

なのに、元山の恋が上手くいかなかった八つ当たりだなんて。

「景。はい、これ」

諒が俺の前にマグカップを置いた。中身はホットミルクだ。小さいころにお腹が弱かった俺と諒は、今でも牛乳は温めて飲むことが多い。

礼を言った俺に、諒はさわやかに微笑んだ。

「世の中って、口に出した者勝ち、みたいなところ、あるよね」

残念そうに言ったのは母親だ。

「今日のその子みたいにさ、どんどん言っちゃった方が勝ち。言われた方は傷付くだけで、黙っていたら相手に何のダメージも与えられない」
「たしかに」

ネット上で理不尽な情報を流される被害はその最たるものだ。

「でも、景も言い返さないよね、たぶん」

諒に言われてびっくりした。

「景って相手のことも考えるから。好きじゃない相手でも、これを言ったら傷付くだろうと思う言葉は言えないと思うな」
「うーん……、言われてみると、そんな気がする」

ホットミルクを飲みながら考えてみる。

俺はそもそも、ぽんぽんと言葉が出てくる方ではない。でも、腹が立っているときは、言ってやりたい言葉はいくつでも頭に浮かぶ。

ただ、そういうときは逆に口を噤んでしまうのが俺だ。それは、うっかり取り返しのつかない言葉を使ってしまうことが恐いから。

取り返しのつかない言葉。――そう。諒が言うように、相手を傷付けてしまう言葉。

「小学生のときに意地悪言ったこと、今でも思い出すと落ち込むよなあ……」

思わずつぶやくと、いちごが急に「あ、それ、あたしに言ったやつでしょ!」と突っ込んできた。

「景ちゃんに『うるさい』ってずうっと言われ続けたよ」
「は? それは意地悪じゃないだろ? 俺、まったく忘れてたし。むしろいちごに言われたことがグサグサ来ることの方が多かったよ」
「あ! 今ので傷付いた! あたしにデリカシーが足りないみたいな言い方!」

諒と母親が笑って「まあまあ」と割って入った。いちごが本当に怒っているわけじゃないことは全員承知で、少ししんみりしかけた空気が軽くなった。

「あたし、あとで連絡してみるね」

帰り際にいちごが言った。

「景ちゃんから聞いたって言っちゃうからね。知らないふりするの、上手くないから」
「うん。いいよ。俺は……今日はやめておくから」

彼女を信じて明日を待とうと思う。彼女が言ったのだから。「明日ね」って。

明日になったら、きっと、今までと同じ俺たちに戻れるはずだ。一緒に笑い合い、助け合える同志で相棒に。

そう言えば……。

俺、かなり告白っぽいこと言ったんだけどなあ。

有耶無耶になっちゃったなあ……。



月曜日に教室に着くと、いちごと話していたしぃちゃんが「おはよう」と言ってくれた。

それを聞いたとき、ふわっと肩の力が抜けて、自分がどれほど緊張していたかが分かった。

俺もいつものとおり「おはよう」と言い、突進してきた礼央のハグを受け止めた。それから四人で普通におしゃべりをした。

「きのう、景に言い忘れちゃったんだけど」

ふたりになったときに礼央が小声で言った。

「くぅちゃんと俺のこと、質問されたら事実を答えようって決めてあるんだ。だから景も気を使わなくていいからね」
「事実って……」
「ゴールデンウィークに偶然会ったことから、連絡を取りたいって、俺がしぃちゃんに頼んだこと、今は俺もくぅちゃんもいい関係が長く続くといいと思ってること。」
「礼央……」

きっぱりと言い切った礼央がすごくカッコよく見える。

「うん。分かった」

俺としぃちゃんもそんなふうに胸を張って言えるようになりたい。

「実はさあ」

礼央がいつものへらっとした笑顔を見せる。

「きのうの情報がもう出回ってるみたいなんだよね。スマホに知り合いから連絡来てて。『モデルと付き合ってるってマジか?!』って」
「そっか……」

有名人のくぅちゃんの相手は礼央だし、礼央自身が俺よりも顔が広い。そういうことが分かっていて覚悟を決めているのだろう。場合によっては俺も問い詰められる可能性があると考えて、きちんと伝えてくれた礼央のやさしさが胸に沁みた。

驚いたことに、昼休みに道中と元山がきのうの女子たちと一緒に礼央と俺に謝りに来た。

いちごから元山の礼央に対する気持ちを聞いていた俺は、単なるパフォーマンスではないか、なんて勘ぐってしまう。でも、元山だってあんなことの後では礼央の気持ちが自分に向くとは思っていないだろうから、そんな勘ぐりは意地が悪いと自分でも分かっている。

でも、礼央が言っていた「情報が出回っている」原因だって、おそらくこの四人のうちの誰かだ。そんなつもりはなかったかも知れないけれど、今どきのネット状況を知らなかったとは言わせない。ただ、それを問い質すかどうか決めるのは礼央だから、礼央が何も言わないのなら俺もそれには触れないでおく。

微妙な顔で黙っている俺の横で、礼央は、謝る相手は俺たちではなくてしぃちゃんだと指摘した。すると、そちらは既に済ませたと答えが返ってきた。しぃちゃんはどうやら謝罪を受け入れたらしい。まあ、同じクラスにいるのだし、受け入れないという選択肢はないのだろう。

謝られたことできのうの記憶が一気に戻って来て、逆に気分がふさいできてしまった。午後の授業中も、しぃちゃんの後ろ姿がなんとなく淋しそうに見えてしまって仕方がない。

白いワンピースを着てあきらめたような微笑みを浮かべる彼女が頭から離れない。俺は今日、彼女を笑顔にしただろうか……。



木曜日になって、避けられているのかも、と気付いた。もちろん、しぃちゃんに、だ。

彼女は話しかければ笑顔で応じてくれるし、前と変わらず俺を「景ちゃん」と呼んでくれてもいる。ただ、元気がないように感じてはいたのだ。

元気がない理由を、俺は動物園でのこととつながっていると考えていた。そして、時間が経てば元気になるだろうと。

けれど今日、ふと思った。彼女と目が合っていないような気がする――。

月曜日の朝は大丈夫だったと思う。でもその後はどうだったか思い出してみると。

微妙なうつむき加減。

そう。ちらりと俺の顔を見ることはあったけれど、前のようにまっすぐ見上げて話してはくれない。俺と彼女の身長差だと、近い距離で彼女が正面を向いていたら視線は合わないのだ。

念のため二度ほど話しかけてみて、俺の勘違いではないと確信した。あからさまに避けることはしないけれど、彼女の受け答えは短くて会話が広がらない。以前は彼女も思い付いたことを言ってくれて、ふたりで一緒に笑ったのに。

――何かやっちゃったかな……?

不安が胸に広がる。思い当たることはないが、ぼんやりしている俺のことだから、気付かないうちに何かしでかした可能性は否定できない。

落ち着かないけれど、礼央に相談したらくぅちゃんからしぃちゃん本人に伝わりそうだし、そうなったら彼女が気を使うことになりそうだ。それは望んでいない。

――直接訊いてみるか。

タイムリーなことに、明日は放課後の図書委員当番だ。放課後はそれほど混まないから、仕事の合間に話す機会をつくるのは簡単だ。

だけど……。

ちゃんと答えてくれるだろうか。

以前なら聞き出すことができたかも知れない。でも、今の様子だと白を切られそうだ。こうと決めたら決心を曲げなさそうだし……。

「ねえねえ、景ちゃんさあ、紫蘭と何かあった?」

休み時間にいちごがこっそりと尋ねてきた。いちごに心配されるという事態にますます不安が大きくなる。

でも、何か情報を引き出せるかも知れない。ほんの小さなことでも。

「何か……って、動物園のことは話したよな?」
「うん。紫蘭からも聞いたよ、同じこと」
「だよな?」

そう言えば、いちごにはしぃちゃんとふたりで話した部分は言っていなかった――って、あのとき!

「あ、やっぱり何かあった?」

――しまった。

思わず顔に出てしまったようだ。でも、これはいちごには言えない。

「いや、ちょっと別な話を思い出しただけ。しぃちゃんとは関係ないよ」

あのことだろうか? しぃちゃんはあれを気にしているのか? あれで困って、あんな態度を?

――いや、違う。

だって、彼女の態度が変わったのは月曜日より後だ。あれが原因なら月曜日から変わっていたはずだ。だから違う。きっと。……たぶん。

「ホントに? 紫蘭、なんだか景ちゃんの話題に、前みたいに乗って来ないんだけど」
「いちごが俺のことこきおろしてばっかりいるから、もう聞き飽きたんじゃないのか?」
「そんなことないと思うけどなあ。面白い話ばっかりなんだから」
「ちょっと待て。それが原因で俺が嫌われる可能性もあるよな?」
「えぇ? それはないよ。そんな変な話をしたら、幼馴染みのあたしまで変に思われるでしょ」

それはそうだ。しぃちゃんがいちごを避けていないなら……ちょっと待て。

「それほど変な話なんかないだろ!」
「へへっ、どうかな?」

嫌な笑みを浮かべて、いちごは戻って行ってしまった。でも、今の話だと、しぃちゃんが俺への関心を失いつつあるのは間違いない? そんな!

――慌てるな。落ち着いて。

状況を整理しようと席に戻ると、ちょうどしぃちゃんが前方の戸口から教室に入ってきた。自分の席へ――つまり俺の方に歩いてくるあいだ、視線は下がったまま。ちょっと顔を上げてくれれば俺が目に入るのに。

自分の席にたどり着いたしぃちゃんは、くるりと俺に背を向けて座ってしまった。

――さびしい……。

まるで俺を視界に入れたくないみたいだ。以前はちらりと微笑みを向けてくれたこともあったのに。

でも、くよくよしていても始まらない。とにかく、よく思い出してみなくちゃ。

日曜日に動物園に行った。あの四人に会うまでは順調だった、と思う。そしてあの事件。俺はしぃちゃんを庇うことができなかった。

四人がいなくなり、くぅちゃんと礼央が離れたあと、ふたりで話した。しぃちゃんはとても落ち込んでいて、自分はダメだと――努力してもダメだったと言った。みんなと同じになれないから。それと、俺が見ていたのは自己防衛のために創りあげた“いい子”だと。本当の自分は弱虫でずるい、と。

――切なくなるなあ……。

どんな気持ちであんな告白をしたのだろう。自分の弱さを他人に明かすのは、とても勇気が要ることだ。あるいは――希望を捨ててしまったとき?

今の状態の原因が、彼女がこの話をした後悔であるのならまだいい。俺がそれを払拭すればよいのだから。けれど。

原因があのときの俺の言葉だとしたら。

あのとき俺は、自分の気持ちを伝えた。「しぃちゃんのことをいいと思っている」と。「ほかの女子とは違うからたくさん話したいと思う」と。

あれは本当の気持ちだ。あそこで伝えなければならないと感じたから口にした。「付き合ってください」式のはっきりした告白ではないけれど、落ち着いて思い出せば分かるだろう。

そう。“落ち着いて思い出せば”。

月曜日の朝は以前と同じように話ができた。そう感じた。

火曜日は……あいさつはしたと思う。すれ違いざまに言葉も交わしたかも。でも一瞬だったからはっきりしない。いや、あれは水曜日――きのうか?

俺の言葉をあとで思い出した、あるいはあとで意味を悟った。そういう可能性は何パーセントくらいだろうか。

だから警戒されている、と考えるのは無理がないように思える。警戒か、距離を置くことで無言で断っているのかは分からないけれど。

あのとき、俺の言葉は彼女には通じなかったと思った。彼女が元山やくぅちゃんに言われたことで傷付いていたから、そっちの方が重大で気がかりだった。だから、俺の中ではなかったことになっていた。でも……?

考えても分からない。しぃちゃんが何を考えているのか。そして、どうしたいのか。

それなら――訊いてみるしかない。

このままでは俺たちの関係が薄くなって、いつか消えてしまう。それはいつか起こることかも知れないけれど、こんなふうに俺の中に疑問が残っている状態では嫌だ。

彼女の中で何かの決断が為されたのなら、それを聞きたい。

明日、訊こう。放課後の当番のときに。



「しぃちゃん、行こう」

放課後になってすぐに声をかけた。計画したとおりに。

図書委員の当番。俺がもたもたしていたら「先に行くね」と言われそうだし、「用意できた?」などと疑問形で声をかけたら「先に行ってて」と言われそうだ。だから「行こう」という言葉を選んだ。

「あ、うん」

返事は簡単なものだったけれど、拒否はされなかった。礼央に合図して教室を出ながら、後ろに彼女が続いていることを肌がピリピリするくらい感じている。

「今日はどれくらいお客さん来るかなあ?」

能天気を装って声をかけると、「どうだろうね」と答えが返ってきた。視線は足元に向けられて。

階段だから下を見ているのは当然だよ、と、心の中で説明しつつ、こっそり傷付いている。

――やっぱりダメなのかな。

気付かれないようにため息をついた。

しぃちゃんは俺のことが嫌いになったのだろうか。顔もみたくないほど? まるで彼女と俺の間に透明な壁があるみたいだ。

日曜日はこれほどではなかった。扉が閉じてしまったと感じたけれど、それでもまだ彼女は俺と向き合ってくれていた。

「今日はあたしが棚戻しをやるね」

図書館の戸を開けながら彼女は振り返ったけれど、彼女が見たのはたぶん俺の腕だけだろう。

雪見さんの穏やかな笑顔を見たら、なんだか無性に弱音を吐きたくなった。雪見さんならきっと微笑みを浮かべて聞いてくれるに違いない。静かにうなずきながら。そして最後に「大丈夫だよ」と言ってくれるだろう。

――でも……、無理だよな。

雪見さんとふたりで話せるチャンスがない。

やっぱり自分でなんとかしなくちゃ。今はまずは図書委員の仕事だ。心を奮い立たせてカウンターに立つ。

返却箱に入れられた本のバーコードを読み取り、戻す本の場所に置いていく。貸し出し手続き、取り置き予約本の対応、検索の依頼……、今日はお客が多い。ふと見回すと、学習コーナーの机が以前よりも埋まっている。部活を引退した三年生が増えているのかも知れない。

書架の前にしぃちゃんがいた。返却本を入れたかごを持って。高い棚に手を伸ばす姿を見て、俺の背の高さのことで笑って話をしたことを思い出した。図書館にはちゃんと踏み台があるから、背が低くても仕事はできるけれど……。

「あ、いたいた」

近付いてきた声に顔を上げると、2年4組の図書委員、早川(はやかわ)正弥(まさや)だった。

「夏休み用のコーナー作り、来週の昼休みに打ち合わせをやろうと思うんだけど、どうかな?」

夏休み用のコーナー。図書委員のおすすめ本のコーナーのことだ。本の紹介を書かない俺は、コーナーの看板や飾りを作る担当に入っていた。

「昼休みね。OK」

しぃちゃんがおすすめ本を選ぶ手伝いをしたのはいつだっけ。あのときはすごく楽しかった。後になってから、あれは彼女が俺の気分を気遣って声をかけてくれたのではないかと思い至ったのだった。そう思えるくらい、彼女を近く感じた。それが今日は……。

「あ、早川くん」

戻って来たしぃちゃんに、早川は「や」と手を上げた。それににっこりと微笑みを返したしぃちゃんは、いつもと変わりない彼女。

「来週から夏休み用コーナー作りも動き出すよ」
「早川くんは去年も担当だったよね? 斬新な看板、覚えてる」
「今年も目立つの作るからね」
「うん。頼りにしてるよ」

会話が弾んでる。もしかしたら、しぃちゃんの気分が変わったのかも。でなければ、俺のマイナス思考で勝手に不安を増大させていただけだったとか。

期待がそうっと忍び込む。けれど。

そのあと残りの返却本を戻しに行った彼女は、当番終了時間が近付いてもカウンターに戻って来ない。ずっと書架整理をしているのだ。

もちろん、書架整理だってれっきとした図書委員の仕事だ。けれど、カウンターにひとりでいると、放課後の静けさと相まって、思考は悲しい方へと傾いてゆく。

「少し早いけど、もういいよ。あとは僕がやるから」

雪見さんが本が詰まった箱を持ってやって来た。ぼうっとその箱を見ていた俺に気付いて、「新着図書だよ」と教えてくれた。

「新着図書……」

届いたばかりの本。

沈んでいた気持ちの下からわくわくする気持ちが顔を出す。生徒はまだ誰も触っていない本だなんて。

「見る? もう登録済んでるから貸し出しできるけど」
「いいんですか? じゃあ、しぃちゃん呼んできます」

しぃちゃんはきっと見たいはずだ! 新着図書コーナーに並ぶ前の本!

カウンターを出たところで彼女の様子を思い出した。俺が声をかけても喜ばないかも知れない。迷惑そうな顔をされてしまうかも。

だけど。

ここで声をかけなかったら、俺はきっと何日もそのことでくよくよ悩むに決まっている。そんな自分を簡単に想像できる。それと比べたら、今この場で拒否される方がましだ。

「しぃちゃん」

覚悟を決めて、壁際の書架の前にいたしぃちゃんに小声で声をかける。近付く俺を少し驚いたような顔をして彼女が見上げた。何かトラブルがあって呼びに来たのだと思ったのかも知れない。

「雪見さんが新着図書を見てもいいって。まだ箱に入ってるやつ」
「え? 新着図書? ほんとう?」

瞳をきらめかせ、彼女が一歩近づいた。その様子にほっとする。

「うん。登録済んでるから借りられるって」
「わあ、見たい。景ちゃんは? 部活、まだ大丈夫?」

彼女の言葉に心臓がきゅっと反応した。俺のことをちゃんと気遣ってくれた。

「ざっと見るくらいなら大丈夫」

答えると、彼女がにっこりした。

――呼びに来てよかった。

拒否されなかったどころか、とても嬉しそうだ。一緒に見ることも嫌がっていない。

カウンターに戻るとき、彼女がそっと「ありがとう」と言った。そのとき彼女はうつむいていたけれど、ここに来るときとは何かが違う。なんだか……どこかが触れ合っているような気がしてドキドキしてしまった。

いそいそと戻って来た俺たちを微笑んで迎えた雪見さんが、「悪いけど、ついでにブックトラックに出してもらっていいかな?」と言った。こういう丁寧な言葉のかけ方がとても雪見さんらしいと感じる。

俺たちは張り切って「はい」と言い、声が重なったことが少し可笑しくて顔を見合わせた。

新着図書を見ていたのは十分足らずだったと思う。でも、そのあいだにしぃちゃんと俺の関係はかなり修復された。

何度も目が合ったし、もちろん静かにだけど、一緒に笑いもした。ただ、俺は少し警戒して、彼女には近付き過ぎないように気を付けていた。

本を手にとっては目を輝かせる彼女。その一瞬一瞬が俺の心に光を投げかけてくれる。

――もしかしたら、雪見さんは……。

ふと思った。

俺たちの様子がいつもと違うことに気付いていて、この本を見てもいいと言ったのだろうか。一緒に何かをすることで、俺たちが壁を乗り越えられるように。

――そんなはず、ないかな?

離れていたけど、それぞれちゃんと仕事をしていたし。まったく口を利かなかったわけじゃないし。

でも……。

なんとなく、雪見さんなら気がつきそうな気がする。今の雪見さんには俺たちを気にする素振りは微塵もないけれど。

新着図書を堪能した俺たちは、雪見さんにお礼を言って図書館を出た。部活に向かうためしぃちゃんに「じゃあ」と手を上げると、彼女は「うん」とうなずいた。階段の手前で振り返ると彼女はまだそこにいて、無言で手を振ってくれた。

――訊くの忘れちゃったなあ。

部室で着替えながら思い出した。彼女の態度が変わった理由を尋ねようと思っていたのだ。でも、新着図書のお陰で元に戻れた気がするからいいか。

――ほんとうに元に戻れたのかな……。

明日になってみないと、確かとは言えないかも知れない。そう考えると不安になるけれど……。

考え始めるときりがない。だから、今は部活に集中しよう。



――だめだ……。

大きなため息が出た。そのまま体を前に倒し、空気を限界まで吐き出してみる。

体の力が抜けていく。机に広げたノートの上に頭を乗せて、静かに落ち込む。

わたしは何をやっているんだろう?

自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。

「はぁ……」

宿題がちっともはかどらない。ここ数日、自分がやってきたことを思うと、腹立たしさと情けなさで自己嫌悪が止まらない。

「あー、もう」

わたしは馬鹿だ。わたしは馬鹿だ。わたしは馬鹿だ。あきれ果てて暴れまわりたいくらいだ。

――景ちゃん……。

今日、心の底から分かった。景ちゃんがどれほど優しいか。そして……、わたしがどれほど景ちゃんが好きか。

新着図書を見せてもらえるからと、わたしを呼びに来てくれた景ちゃん。笑顔の中に微かな不安が混じっているのが分かった。

わたしが景ちゃんを遠ざけようとしていることに気付いていたのだ。なのに、本が好きなわたしのことを考えて呼びに来てくれた。そういう景ちゃんに、わたしはなんてひどいことをしたのだろう。

「あぁ……」

一緒に本を見ているあいだも、景ちゃんは何度も笑いかけてくれた。それに応えながら、どれほど後悔したことか。その一方で、以前と同じように話せる嬉しさがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

お当番が終わって部活へと向かう景ちゃんの後ろ姿が、今でもはっきり目に浮かぶ。

見送るわたしの胸の中にあったのは感謝と後悔と罪悪感。泣きたいような気分で、でも自分の中身が空っぽみたいで、声も涙も出なかった。胸の中で名前を呼んで、謝って、体は――ただ見送っていた。そうしたら。

景ちゃんが振り向いた。廊下の曲がり角で。

今、思い出しても胸が震える。

動揺して、思わず手を振ってしまった。よかったのかな――なんて考えてしまう自分がまた嫌だ。でも……嬉しかったのだ。

「はぁ……」

そう。嬉しかった。自分で驚くほどに。

あのとき、わたしの中で何かがはじけた。暗い色で塗りつぶされたような景色にぱっと火花が飛んだ。小さいけれど強く輝いて、一瞬だけど深く心に残って。

もう距離を置こうとするなんてできない、と分かった。

もちろん、最初から友だちをやめるつもりではなかった。四月の初めごろの関係に戻るつもりだった。戻れると思った。わたしが決心すれば。

はっきり決めたのは月曜日。動物園の話が一部に伝わっていて――中心はくぅちゃんと礼央くんのことだったけど――景ちゃんとの関係を羨ましがられたことがきっかけだった。わたしと景ちゃんがカップル認定されているウワサもあって。

どんな顔をしたらいいのか分からなかった……。

もちろん、その場でそれは正しくないと伝えた。そして、そんな情報が流れるようではいけないと思った。

だって、景ちゃんはすごくいいひとだから。すごくすごく、いいひとだから。ちゃんと普通の女の子を彼女にしなくちゃ。わたしではダメだ。

「はぁ……」

そう。わたしではダメ。

泉美とこのみが謝りに来てくれたときに、自分がどんなに意固地で心の狭い人間なのか気がついた。弱虫でずるいだけじゃなかったのだ。

彼女たちの言葉ではっとした。「いくらKuranちゃんの関係者でも、嫌いな子を遊びになんて誘わないよ」って……。

ふたりがわたしと仲良くしようとしたのは、くぅちゃんのことも理由の一つではあったけれど、わたしをどうでもいいと思っていたわけじゃなかったのだ。ちゃんと、わたしと仲良くなりたいと思ってくれていた。

でも、わたしは彼女たちの見た目や話し方だけで、自分が好かれるわけがないと決めつけた。くぅちゃんだけが目的だと考えて、心から打ち解けることができなかった。偏見のために、このみたちの好意に気付けなかったのだ。

この偏見の出どころは劣等感だ。お洒落が上手で、みんなと楽しく遊べる泉美やこのみみたいな女の子たちに、“そうなれない自分”のいじけた気持ちと羨望が、偏見を生んだ。

「はぁ……」

他人と比較しないって決めてたのに……口ばっかり。

こんなダメなわたし、景ちゃんには似合わない。彼女だと思われたら景ちゃんが嫌な思いをすることもあるだろう。そんなことは望まない。

それに、一緒にいたら、自分の気持ちを止められなくなる。友だち同士の関係を越えたくなってしまう。景ちゃんといるのは楽しかったけれど、あきらめなくちゃ、と、思った。でも……。

「はぁ……」

苦しい……。

一緒に図書委員になって話す機会が増えて、ゴールデンウィークに偶然会って、呼び方が変わって。球技大会ではアドバイスをもらった。それからも、わたしが困っていると助けてくれて。

一番驚いたのは、何と言っても球技大会だった。バレーボールで惨めな気持ちになっていたわたしに、応援や慰めじゃなく、立ち向かう方法を教えてくれたこと。あれでとても勇気が出た。

今までいろいろな場面で「大変だね」と言ってくれたひとはいた。でも、実際に手を貸してくれたひとは滅多にいなかった。べつに、手助けを期待したこともないから、がっかりしたこともない。だから、助けてくれた景ちゃんにびっくりしたのだ。

わたしも何か景ちゃんの役に立ちたいと思った。だから景ちゃんが困っていると感じたときには声をかけてきたのだけど、それは……良くなかったかも知れない。

景ちゃんとの距離が近付き過ぎてしまったから。

近くにいればいるだけ、景ちゃんの良いところが見えてくる。親切で、相手の気持ちを思いやることができて……、自分の傷付きやすさは静かに隠している。

景ちゃんを知れば知るほど、何かしてあげたいと思ってしまう。元気がないときには応援してあげたい、わたしを気遣ってくれることに感謝の気持ちを伝えたい、と。それは景ちゃんがいいひとだから当然のこと……と、自分の中で理由をつけていた。でも。

「はぁ……」

そんなのはただの理由のための理由。ほんとうは……景ちゃんに惹かれていた。

今だって同じ。たくさん話したいし、一緒に笑いたいって思ってる。きっと、放課後のことがあった今だから余計に……。

「ふぅ」

景ちゃんには何度もはっとさせられたっけ。

図書委員になったときに「できることならちゃんとやる」って言われたこと。図書委員の一年生にわたしたちの関係を誤解されたとき、景ちゃんが気軽さを装って責任を引き受けてくれたこと。ゴールデンウィークにくぅちゃんと礼央くんのケンカを止めようとした景ちゃんが心配したのが太河くんだと分かったとき。落ち着こうと席をはずす礼央くんが、太河くんを景ちゃんに頼んだとき。バレー部の副部長に選ばれた話で「ほかで役に立たない分、雑用でいいならいくらでもやる」と言ったこと。ほかにも……。

やさしさとか真面目さとか責任感とか。そいういう部分を景ちゃんは内に秘めている。外からは見えないように隠している。自分では気付いていないみたいで、指摘されると驚いた顔で「たいしたことないよ」って言う。

でも、一緒にいると分かる。隠れていた部分が少しずつ見えてきて……尊敬する。どんどん好きになる。

だから、動物園で並んで歩くことができて嬉しかった。

だから、ダメな自分が悲しかった。

だから決心できた。距離を取ることを。だけど……。

上手くできなかった。

「はぁ……」

そうしようと決めたときには、それほどあからさまに避けるつもりはなかったのに。結果的に、かなりはっきりと態度に出てしまった。だって、少しでも話したり視線を合わせたりしたら決心が揺らいでしまうと分かったから。

景ちゃんは気付いて――傷付いたはずだ。

なのにわたしを問い詰めなかった。そして、見限ろうともしなかった。そういうひとではないのだ。そんなことは最初から分かっていたはずなのに。

わたしは馬鹿だ。ほんとうに嫌な女だ。自分が景ちゃんにしたことを思うと許せない。

想像力が足りなかった。友だちに避けられた景ちゃんがどんな気持ちになるかを考えていなかった。逆の立場だったらどう感じるか、考えてみれば簡単に分かるのに。

親しさを解消することが景ちゃんのためだと決めつけていた。すぐに景ちゃんが離れて行くと思っていた。でもそれは、何も説明せずに距離を置こうとする自分の都合がいいように、辻褄を合わせたストーリーを創りあげていただけだ。

景ちゃんは動物園で言ってくれたのに。自分が誰と仲良くするかは自分で判断するって。

だからわたしはちゃんと説明すべきだったのだ。景ちゃんが判断できるように。これ以上、景ちゃんを傷付けないように。

だけど……。

もしも……、それでも景ちゃんが今までどおりの関係でいようと決めたら? わたしはどうなの? 同じ決心ができるの? 景ちゃんに惹かれたまま一緒にいられるの?

わたしは――みんなと違うのに。普通の女の子になれないのに。

「分かんないよ……」

頭の中がぐちゃぐちゃだ。

“こうしたい”と“こうすべき”が頭の中で戦っている。それぞれにくっついている理由と言い訳が浮かんでは消える。

決まっているのは一つだけ。景ちゃんを避けるのはおしまい。これ以上ひどい人間にはなりたくない。

でも、それ以外は……。

わたしは意固地で弱虫でずるい人間。そして、“普通”に入れないはみ出し者。

どうしてみんなと同じにできないのだろう。

それが解決したら、もっと自信を持って毎日を過ごせると思うのに……。


――来た。

景ちゃんが教室に入ってきた。今日は礼央くんと一緒だ。

「おはよう」

笑顔で声をかけたら、隣でいちごがちらりとこちらを見たのを感じた。景ちゃんが一瞬目を見開いてから満面の笑みを返してくれる。

「おはよう」

――ああ……、やっぱり好きだ……。

笑顔が自分に向けられたことで、じんわりと胸が熱くなる。この笑顔を見られなくなったら、わたしは一生笑えない気がする。

ちゃんと見上げなかったのは何日かだけのことだったのに、懐かしく感じる景ちゃんの笑顔。こんなふうに笑ってくれるのだから、とりあえずだけれど、避けるのはやめにしてよかった。

近付いてくる景ちゃんにいちごがからかいの言葉をかけている。礼央くんが景ちゃんを庇うふりでさらにからかう。景ちゃんが気の毒になったわたしが別な話題を提供する。久しぶりに四人で会話が弾む。

けれど。

わたしの中にある迷いが消えたわけではない。友だちでいることができればいいのだけれど、今だってどんどん心が引き寄せられて、たくさんたくさん話したい、と思ってしまう。

でも、わたしは普通からはみ出してしまう困った存在だ。そのうえ、浅い考えで景ちゃんを傷付けるようなことをしてしまう。わたしのせいで景ちゃんがまた嫌な思いをしたり困ったりするのは絶対に嫌だ。だから……どうしたらいい?

「ちょっと落ち着いた?」

景ちゃんたちが通りすぎてからいちごにそっと尋ねられた。見返すと、「景ちゃんと話す気になった?」と。いちごにも気付かれていたようだ。ダメなわたし。

「ごめん。気を使わせちゃった?」
「うーん、そんなこと……少しあるけど平気」

にっと笑った顔が親しみやすくて大好きだ。

「紫蘭も景ちゃんも、あたしにとっては信じられる友だちだから」
「いちご……。ありがとう」

信じられる友だち……。

わたしと景ちゃんも信じられる友だちだった。でも、わたしの中に恋愛感情が生まれてしまったからそのままではいられなくなった?

――ああ、分からない。

午前中は迷いの中で過ぎてゆき、お昼休み。静かに考えたくて、ひとりで図書館に向かった。

戸を開けると冷房の効いた空気に包まれた。カウンターにいるのは一年生だ。雑誌コーナーの前はいつものようにくつろいだ雰囲気。書架の間をひとりでめぐっている生徒。机は勉強や昼寝でぽつぽつと埋まっている。

「ふ……」

ぼんやり見回していたらため息が出てしまった。今まで図書館に来てぼんやりしたことなどなかったのに。いつもわくわくしながら本を探していたのに。

「こんにちは」

気付くと雪見さんがそばにいた。穏やかな、落ち着いた微笑みを浮かべて。

「ため息をつくと幸せが逃げちゃうらしいよ」
「あ」
「ぼんやりしているのはめずらしいね」

またいつもと違うことに気付かれてしまった。わたしって、そんなに分かりやすいの?

図書委員の仕事で何度も雪見さんにはお世話になってきたけれど、雪見さんが図書館や本のこと以外を見ているとは考えたことがなかった。でも、たしかにときどき雪見さんに愚痴を聞いてもらったり、嬉しそうに報告しにくる生徒がいる……。

「考えごと? よかったら座ってどうぞ。今日はお客さんが少なめだから」

座席の方を手で示してにっこりした雪見さんを見たら、自分の周りの壁がほろほろと崩れたような気がした。

「なんか……ちょっと凹んでるんです」

思い切って口に出してみた。あんまり深刻にならない言葉を選ぶと、自然と苦笑いが浮かんだ。

「そうなんだ? 何か失敗しちゃったのかな?」

雪見さんの声も表情も静かで明るい。軽い調子の中に気遣いを感じて気持ちが緩む。

「失敗っていうか……、友だちにひどいことをしちゃいました。もともとダメな人間だったのに、もっとダメになっちゃった」

言いながら自覚した。わたしは景ちゃんを傷付けて、ますますダメな人間になったのだ……。

「いやだなあ、ダメな人間だなんて」
「え?」

雪見さんが微笑んでいる。まるでわたしが冗談を言ったみたいににこにこと。これは予想外だ。

「高校二年生で決めちゃうの? そんなの早すぎるよ」
「そ、そうですか……?」
「だって、生まれてまだ十六年か十七年だよね? これからまだまだいろんなことがあって、いろんな人に出会って変わっていくんだよ。なのに、自分の価値を決めてしまうのは早いよ」
「それは……そう、かも……?」

言われてみると、そんな気がしてきた。わたしの一生って八十年? 九十年? その中で、今、十六歳……。

「そもそも人の価値って何? 才能? 誰が決めるの?」
「それは……みんなが」

答えたものの確信はない。そんなわたしに雪見さんがおどけた表情を向けた。

「僕なんか、大人になってからすごくひどい失敗をしたよ」
「お仕事で……?」
「違う違う。他人を傷付けるようなこと」
「そんな。雪見さんが?」

この穏やかなひとが他人を傷付けるなんて。信じられない。

「うん。しかも、自分が何をしたか理解したのは何年も経ってからで。相手が奇跡的にいいひとだったから責められなかったけど、今でも後悔してる。でも、だからってダメな人間にはなっていない……と思うけど、どうかな?」
「雪見さんは全然、その、ダメじゃないです。ほんとに」

真剣に答えると、雪見さんは「よかった」とにっこりした。

「たぶん、ひとの価値って簡単には決まらないんじゃないかな。評価のポイントもいろいろあるしね」

評価のポイント……。

相手や場面によって評価が変わることって、たしかにある。そうは言っても。

「でも、全体的に同じものってありますよね? 雰囲気とか考え方とか……」
「“空気”っていうものかな?」
「ああ、そうです。空気。わたし、そこからはみ出しちゃってることが多くて」
「そうなんだ? あんまり感じたことなかったけど」

それはわたしが気を付けていたからだ――という言葉は飲み込んだ。

「それは苦しいね」

――え?

驚いて見上げると、雪見さんが静かに言った。

「みんなと違うって、なんだか……孤独な気がしない? みんなと一緒にいても」
「そう、です。ええ、そうです」
「自分が言ったことが話の流れに合っていたかどうか、あとで検証してみたりね」
「はい……、します」

雪見さんには分かるのだ。みんなと違うことがどういうことか。

「でも、大丈夫」

力強く、雪見さんの言葉と視線がぶつかってきた。

「今の“みんな”がずっと続くわけじゃないから。学校は特別だよ? 同じ年齢がこんなに大勢で行動する場所なんて、社会に出たらないからね」
「ああ……、そうか」
「それにね、孤独って、自分を育てるきっかけになるような気がするんだよね。もちろん、悲しいっていうのは事実としてあるんだけど」

自分を育てる――。

そんなふうに考えたことなかった。

今までの学校生活の中で、先生がこの言葉を使っていたような気がする。でも、曖昧でつかみどころがなくて、何をしたらいいのかよく分からなかった。でも、孤独が自分を育てる……。

考えこんでいるわたしの耳に、雪見さんの「ほかのひとと違う自分……」というつぶやきが聞こえた。そのままゆっくり言葉が続く。

「みんなと違う自分を自覚する。みんなに合わせるかどうか考える。自分の中の基準を決める。どう生きたいか考える。そんな感じかなあ?」
「それは……つまり、周りに流されるだけじゃなくて……ってことですね?」
「そうそう。自分で選ぶ練習、みたいな。学校を卒業したら、自分で選ばなくちゃいけないことがたくさんあるんだよ」

自分で選ぶ練習……。

ということは、みんなに合わせるかどうかも自分で決めてもいいんだ。つまり、みんなと違うのは悪いことじゃないんだ。それはわたしがわたしであるために必要なこと。

「まあ、学校は集団の力が強いから、みんなと違っているのは負担が大きいよね。でも、負担の少ないグループもあると思うし、ひとりで過ごしたいときにはここがあるから」

雪見さんが館内を見回した。

「そうですね」

そうだ。図書館がある。わたしはここに来るたびに自由を感じていた。ひとりで考えて、選ぶ自由を。

「なんだか元気が出てきました。ありがとうございます」
「そう? よかった。でも、無理しないでね。きちんと相談できる場所もあるからね」
「はい」

ひとりになって書架へと向かいながら、頭がすっきりしているのが分かる。ひとりで考えようと思ってここに来たのだけれど、雪見さんと話せてとてもよかった。

雪見さんはわたしを取り巻く靄を追い払ってくれた。今はわたしの前に広い草原が広がっているように感じる。そしてその向こうには遥かな山並みが。

この世界をどの方向からどこを目指して進むのか、決めるのはわたし。戻ったり、蛇行したり、迂回したり、止まったりすることもできる。途中で誰かと会うかも知れない。そのひとと一緒に行くかも知れないし、すれ違うだけかも知れない。それを決めるのもわたし。

――みんなと違うのは悪いこと?

いいえ。そうじゃない。

――みんなと違うひとはダメなひと?

そう考えるひともいる。でも、そう考えないひともいる。いちごがわたしを好きでいてくれるように。

――わたしは……みんなと同じになりたい?

「ふふ」

笑い声が漏れてしまった。

今までみんなに合わせようと思いながら生きてきた。でも、「同じ」になろうと思ったことは……なかった。

だって、わたしはわたしだから。

読書が好きで、ゲームが好きで、運動が苦手で、メッセージのやりとりで毎回迷っていて、おしゃれの話題にはあんまり興味がなくて、でも見た目は気になって。

勉強は「どうでもいい」って開き直れないからとりあえず頑張っていて、断られるのが怖いから他人に頼れなくて、だからしっかり者だと思われていて、心の中で「それは違うよ」と思っている。

でも、そこそこ優秀って思われたいプライドはあって、けれど、他人に褒められるのは居心地が悪くて、なのに批判を受ける覚悟があるわけじゃない。

滅茶苦茶で、まぜこぜ。でも、これがわたし。

そして、まだ未完成。

わたしは自分を創ることができる。自由に、自分自身で考えて、選んで。

――選んで。

動物園で、景ちゃんは言ってくれた。わたしがみんなと違うから話したくなるって。あのときは変な理屈をつけて自分を否定してしまったけれど、それでも景ちゃんは変わらず友だちでいてくれている。だから。

――ちゃんと話さなくちゃ。

景ちゃんに話そう。なるべく早く。今ならわたしも……覚悟ができた。



「今日の部活も暑いだろうなあ」
「だねー」

礼央と並んで外を眺めながらため息をつく。

窓越しに見る空はどんよりした雲が重そうだ。とはいえ、教室は冷房で空気がサラッとしているのがありがたい。

背後から昼休みのリラックスしたざわめきが聞こえる。四時間目が蒸し暑い中の体育だったせいで、クラスメイトたちはいつもよりもまったりしているようだ。

「今度の大会、一回戦は勝ちたいねぇ」
「明日の練習試合が三年生が抜けて最初の試合だから、それで様子が分かるかな」
「うちは三年がゴールデンウィーク明けに引退しちゃうけど、夏までいる学校も多いよね?」
「強豪校だと大学の推薦ねらいもあるだろうしなあ」

のんびりと話しながら、体育のあとの宗一郎の言葉を思い返す。「俺じゃあ、無理っぽいな」と、納得のいかない顔をしていた。

今週、俺に対するしぃちゃんの関心が薄れたと、宗一郎は感じたそうだ(さすがだ)。俺が何か失敗したのだと判断した宗一郎は、今までよりも強めのアプローチに踏み切ったらしい。でも、それらは不発に終わった。曰く「景じゃなければ俺ってわけにはいかないみたいだ」。

そりゃそうだ――と思った。

だって、しぃちゃんは“彼氏がいなければ楽しくない”とは思っていない。だから、言い寄ってくる男に簡単に「うん」とは言わないだろう。しぃちゃんの彼氏になりたいなら、彼女との関係を育てていくしかないのだ。

――ってところが俺向きだったんだよな……。

それにしても、宗一郎がそこまで本気だったとは。

不発に終わったとはいえ玉砕したわけではないようで――そこは如才ない宗一郎らしい――、仕切り直しだと言っていた。でも。

俺の可能性が戻って来た……と、思う。

理由の一つは、きのうの放課後から今朝にかけてのしぃちゃんの態度だ。まだぎこちなさが残るものの、以前に近い状態まで回復したと考えていいと思う。

彼女が俺と距離を置こうと考えた原因は結局、特定できなかった。でも、彼女が元の関係に戻ろうと決めてくれたのだから、聞き出す必要はないと結論付けた。

たぶん、彼女の中ではいろいろな思いや迷いがあったのだと思う。それらを正確に説明するのは簡単ではないだろうし、なんとなくだけど、いつか自分から話してくれるような気がしている。

そしてもう一つの理由。それは宗一郎の「景じゃダメだから俺ってわけには――」という言葉。つまり、宗一郎には俺が最有力候補と見えていた、ということだ。

――俺が。

――最有力。

思わず口許が緩んでしまう。

もちろん、これはあくまでも宗一郎の見立てで、しぃちゃん本人がどう思っているかは分からない。単なるクラスメイト、良くても親友、ということもあり得る。だとしても、宗一郎が俺に後れを取っていると感じていたというのは自信がわくし……ちょっと気分がいい。

可能性を確かめるためにしぃちゃんと話したいけれど、今は教室にいない。いちごはほかの女子と一緒にいるから、しぃちゃんは図書館にでも行ったのだろう。

「あれ? 光ったみたい」

礼央がつぶやいた。

「雷?」と尋ねた直後にゴロゴロゴロ……と雷鳴が聞こえた。まだ遠そうだ。そう言えば、雲の色がさっきよりも黒っぽくなってきたような気がする。

「景に言ったことあったっけ? 俺、雷を見るのが好きなんだよね」

窓にへばりつくようにして雲を見ている礼央。その横顔に憧れのような微笑みが浮かんでいる。

「空が光るのも稲妻も、いつまで見てても飽きない。自分が安全な場所にいるときに限るけど」

礼央の言葉に応えるように遠くの雲が光った。そして一拍置いてからゴロゴロゴロ……と。

「こっちに来ないかなあ?」
「直撃になったら、先生の声、聞こえないんじゃね?」
「そしたらあきらめて、みんなで外を見る時間にするとか」
「いいな、それ!」

そうなったら、しぃちゃんの隣がいいな。「すごいね」なんて言いながら顔を見合わせて、肩とか手とか触れたりしたら……考えただけでドキドキする!

「あの、景ちゃん」

後ろからの控えめな声と、そっとシャツに触れられた感触。ドキッとして振り向くと、しぃちゃんが見上げていた。

真剣な表情。軽く息を切らして、なんだか急いでいるようでもある。

「ど、どしたの?」

思わず後ろめたい気分になる。俺が何を考えていたかなんてバレるはずはないのに。しかも、反省するほど過激な内容ではないのに。

「あのね、ちょっとの時間でいいから話を聞いてほしいんだけど……」

急ぎの相談? 何か困ったことが起きたのだろうか。

礼央に視線を向けると、早く行っておいで、という身振りをした。

「いいよ」
「ありがとう。じゃあ、ちょっとこっちで」

後についていきながら時計を見ると、昼休みは残り五分ほど。俺を呼びに来たということは図書委員会の用事だろうか。

「あのね」

廊下の端までくると彼女はくるりと振り向き、俺と向き合った。その瞳からは何かしっかりした意志が感じられる。

「うん」

いったいなんだろう? こんなに急いで彼女が俺に言わなくちゃいけないことというのは。何か失敗――。

「あたしね、景ちゃんのことが好きなの」

――……え?

聞き間違いだろうか? 今、「好き」って言われたような気がするけれど。

「なんかごめんね。あたし、今週、滅茶苦茶なことやってるよね。景ちゃんを傷付けたってことも、ちゃんと分かってる。ほんとうにごめんなさい」
「う、うん」

いや、それよりも、俺を好きっていうのは恋愛的な意味でいいのか? こんな場所で? 昼休みの残り時間で?

「あのね、あたし、中身がごちゃ混ぜなの。劣等感の塊のくせにプライド持ってたり、用心深いわりに、よく考えないでどんどんやっちゃったり。それで景ちゃんにも嫌な思いさせちゃったんだけど」
「あ、いや、それは気にしてないから。うん」

寧ろそういうところがおもしろいんだから。

「ありがとう」

俺の返答に彼女が真面目な表情でうなずく。

俺はほんとうに告白されているのだろうか。たしかにここは生徒が通らない場所ではある。でも、一直線の廊下からは丸見えだ。しかもこんなふうに大急ぎで。

「変なこと言ったりやったりしちゃったけど、あたし、やっぱり景ちゃんのこと好きで」

やっぱり告白されているようではある、が……。

「で、こういう自分のことを正直に話して、あとは景ちゃんに判断してもらおうって思ったの」
「判断?」
「そう。あたしが……一緒にいてもいいか」

ここで初めて彼女が目を伏せた。

ちらりと俺を見上げる様子を見てようやく信じることができた。彼女はほんとうに、恋愛的な意味で俺のことが好きなのだ。……と、納得したと同時にチャイムの音が。

「あ、じゃあ、べつに回答はいつでもいいから」
「いやいやいや、ちょっと待って」

戻ろうとしたしぃちゃんの道を塞ぐ。大丈夫だ。今のはまだ予鈴だ。先生が来るまであと少しある。

それにしたって「回答」って! 一般的には「返事」って言わないか? たしかにしぃちゃんのは「質問」的だけど。

まあ、こういうところもしぃちゃんらしいのかも。何にしても答えは決まってるし。

「一緒にいてほしいです。一緒にいてください。お願いします」

姿勢を正して頭を下げた。

「え! そんなに簡単に決めちゃっていいの?!」

驚かれてしまった……。

「いや、べつに今、突然決めたわけではないから……」
「あ、そ、そうなの? それならいいんだけど――」

まだ半信半疑の表情で、しぃちゃんがこくこくとうなずいた。最後にひとつしっかりとうなずいて。

「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」

深々と頭を下げてくれた。俺もつられてまたお辞儀をして、同時に顔を上げ――にっこりする。

さあ、授業が始まる。急いで戻らなくちゃ。

「あのさ、しぃちゃん」
「ん? なあに?」

思わず吹き出してしまった。彼女があんまり普通に返事をしたから。俺たち、ほやほやのカップルなのに!

「今日、一緒に帰ろう。部活終わったら待ってて」
「分かった。場所は連絡するね」

待ち合わせの約束も、急ぎ足で教室に向かいながらではムードもへったくれもない。

「じゃ」
「うん」

席の前で交わすうなずきも事務的だ。でも。

俺にはこれが心地良い。あらたまるのは苦手だし、彼女のちょっととぼけたようなおおらかさが気に入っているから。

そして。

今、俺の胸は喜びと誇らしさではちきれそう。にこにこ顔を元に戻せない。

俺はまたしぃちゃんに、笑顔になる魔法をかけられたらしい。




部活が終わると、スマホに待ち合わせ場所の連絡が届いていた。あたふたと帰り支度をする俺を礼央は面白そうに見守り、先に部室を出るときには高砂の気をそらしてくれた。

中庭に面した玄関の前で、しぃちゃんはぼんやりと立っていた。リュックを背負って、、地面に突いた傘を両手で支え、雲が切れた夕空を見上げている。彼女のきれいな立ち姿を久しぶりに見た気がして、心安らぐ懐かしさを覚える。

「しぃちゃん」

俺の声に反応して振り向き、笑顔になる彼女。それだけで胸の中で翼が羽ばたくような喜びが広がる。

「待ち合わせって、なんだか恥ずかしいね」
「うん。そうだね」

彼女のはにかんだ微笑みに、俺も、えへへ、と笑ってしまう。と同時に、これこそがほやほやのカップルの初々しさだと気付いた。こういう感じをずっと思い描いていたのだ!

「景ちゃん、きっとびっくりしたよね?」

並んで歩き出すと、微笑んだまま静かに彼女が言った。

「昼休みのこと?」
「うん、そう」

門のあたりは下校する生徒でにぎわっていて、“彼女”という存在とふたりで歩くことに慣れていない俺はなんとなく落ち着かない気分。けれど、昼休みのしぃちゃんの告白を思い出したら可笑しくなって力が抜けた。

「びっくりしたけど、ああいうの、すごくしぃちゃんらしいって思った」

そう。午後の授業のあいだ、あの展開を何度も思い出しているうちに気付いた。たくさん考えた末に思い切ったことをする。それこそがしぃちゃんなのだ。四月に、俺にいちごの彼氏かと尋ねたときに感じたことだった。そして。

「そういうところ……好きなんだよね、俺」

彼女が目を見開いた。少し声が小さくなってしまったけれど、ちゃんと聞こえたようだ。周囲の九重生たちは俺たちのことなど気にも留めず、自分たちの会話に夢中だ。

「ふふっ、そうやって無言で目を見開く顔も。何を言いたいんだろうって考えちゃう」

俺の言葉にしぃちゃんはちょっと口をとがらせて、拗ねたような顔をした。と思ったら、くすくす笑い出した。

「いっぱい考えてるよー。いろんな可能性とか、くだらないジョークとか、会話の予想とか。ものすごいスピードで流れてく。でも、自分でつかまえられないの」
「で、黙ったまま、周りにいる俺たちを置き去りにして思考が突き進んでる。だからときどき周りが驚くことを言う」
「んー、でも、景ちゃんも考えるひとでしょう? 思ったこと、そのまま口には出さないよね?」
「まあ、そうだね。俺は警戒してしゃべらないっていう方かな」

つまり、俺たちはどちらも口数が少なめだということだ。それでもお互いに大事なことは通じているのだから、よくやっていると言うべきだろう。いや、もしかしたら俺たちは最高の組み合わせなのかも。

「景ちゃんにはたくさん心配かけちゃったよね」

彼女がそっと視線を落とした。俺の傘が乾ききっていないアスファルトに当たって、カツン、と小さな音を立てた。

「動物園の日から、頭の中、ずっとぐちゃぐちゃで。自分のダメなところだけしか考えられなくなってて」
「……うん」
「きのう、景ちゃんが新着図書のことで声をかけてくれたあと、ますます落ち込んじゃって」
「え、なんで?」

元気になったと思ったのに……。

驚く俺に向けられたのは淋しげな微笑み。

「景ちゃんに、自分がひどいことしたって分かったから」
「それは……でも、謝ってくれたじゃん」
「だけど、やってしまった行為は消せないよ。それに、そういうことをする自分だってことが、すごく嫌。泉美たちにも偏見持ってたことに気付いたし」
「しぃちゃん……」

頑固なしぃちゃん。頑固で、自分に厳しくて。

「だけどね」

彼女の瞳に光が戻ってきた。すっきりしたその表情は、迷いや不安を洗い流した証か。

「お昼休みに雪見さんに言われたの。自分がダメだって決めるのは早いって」
「雪見さんに?」
「うん。高校二年生で自分の価値を決めちゃう必要ないよって。そのとおりだよね? まだ経験してないことがたくさんあるし、これから何十年も生きるのに」
「うん、そうだよ。ほんとうにそうだ」

雪見さん、すごい。ちゃんとした大人だ。人生の先輩として、俺たちには見えていないものを教えてくれたのだ。

「それにね、“みんな”は変わるって」
「変わる?」
「今は学校っていう場所限定の集団に過ぎないってこと。だから、みんなと違うって感じても、それは学校の中だけでのことで、違う場所に行けば――」
「違う“みんな”がいる」
「そう。それに、違うって感じることが自分を育てるきっかけになると思うって言ってた」
「へえ……」

雪見さんって、先生たちとは全然違う感じがする。年齢は離れているけれど、心がとても近いというか。導かれるのではなく、寄り添ってくれる感じ。それは雪見さんも俺たちと同じように悩んでいたからだろうか。それとも、本をたくさん読んでいるから……?

「そんな話を聞いたらね、うじうじ落ち込んでる場合じゃない気がしてきたの」

しぃちゃんの晴ればれとした声。

「自分はどうなりたいの? って。ダメとかみんなと違うとか思ってるけど、どうなりたいの? どうしたいの? って考えた。で、まずは景ちゃんに話さなくちゃって思ったの」
「え? 俺が最優先? すごいな」
「そう? でも、一番大事なことだよ」

半ば冗談で返した言葉にしぃちゃんは真面目な表情で答えてくれた。

「……ありがとう」

自分がどうなりたいのか、なんて、生き方を問うような大きな質問だ。その中で、俺との関係を最優先にしてくれた。そのことが素直に嬉しい。

「あのさあ」

考えながら話すのはあまり得意じゃない。でも、俺たちのこれからのために、ちゃんと伝えておかないと。

「俺、しぃちゃんと話すと、楽しいだけじゃなくて、気持ちが楽になったり、前向きに考えられるようになったりしたんだよね。中でも他人と比較しないっていうのは、俺にとってすごく大きいことだったんだ」

そう。諒との比較だけじゃなく、クラスや部活でも、どうして自分には足りないところばっかりなのだろう、と思ってきた。劣等感は俺の伴走者と言っていいくらい当たり前の感情だったのだ。

それがしぃちゃんのお陰で薄れた。さらに、言葉を惜しまず褒めてくれることで、俺も捨てたものじゃないと思えたりもした。そういうことを通して、自分の中に土台が感じられるようになった。

「なんだか、しぃちゃんは魔法使いみたいだって思った。しぃちゃんの言葉が俺に魔法をかけてるって。しぃちゃんのお陰で俺は変われるって」
「景ちゃん……」

驚いている彼女ににやりと笑いかける。

「だからしぃちゃんが『みんなと違うからダメだ』って言ったとき、比べてる相手が大きすぎて、まあなんて言うか……呆れちゃったよ。『何人と比べてるんだよ!』って」

彼女も苦笑いしながら「だよね」とうなずいた。

「でも、思い出したんだ。球技大会で俺がバレーボールのアドバイスをしたとき、しぃちゃん、『呪文みたい』って喜んでくれたよね? ってことは、俺もしぃちゃんに魔法をかけることができるのかもって」
「ああ……、うん、……うん、そうなの。そのとおりだよ」

見上げる彼女の視線に照れてしまうけれど。

「だから俺、これからもっと言葉にしようと思ってる。しぃちゃんのいいところ。俺が……好きだな、と思うところ。あんまり上手くないかも知れないけど」

それに、あんまり直接的な表現はできないけれど。

「だから……って言うのもなんだけど、しぃちゃんさあ、もっと俺に愚痴こぼしてよ。たぶんしぃちゃんって、何かを言う前にたくさん――すごく先回りして考えて、その中から一番いいものだけを選んで外に出してるんじゃないかな」

彼女が目を見開いた。たぶん、当たっているから。

「そういう気遣いって大事だし、それができるしぃちゃんを尊敬してる。だけど、そういうことができるしぃちゃんだから、逆に心配になるよ。無理してないかなって」

いちごが彼女を「いい子」というのはそういう意味もあると思っている。彼女の外側に現れている言動だけじゃなく、自分の言葉や態度を吟味したうえで表に出すことそのものを含めての「いい子」。だからいちごは彼女を可愛がる言葉や態度で、彼女が自由になれる場を作ってあげているのだ。

「俺、しぃちゃんと一緒に悩んだり考えたりしたいよ。答えを出す役には立てないかも知れないけど、せめて“一人じゃない”って思ってほしい。普段も、俺といるときには自主規制を緩めていいよ。俺、たいていのことは受け止められるから」

しぃちゃんがくすっと笑った。

「でも、あたしが考えてることをそのまま口に出したら、景ちゃん、びっくりして引いちゃうかもよ?」

そんなことを言われるのは想定内だ。

「たぶん大丈夫だと思う。俺、しぃちゃんを信じてるから」

彼女ははっとした様子で俺を見上げた。

「だからしぃちゃんも俺を信じてほしい。安心して一緒にいてほしい。もちろん、俺の良くないところを指摘してくれてもいいよ。俺も言うかも知れないし、しぃちゃんと議論するのは楽しいんじゃないかって思うから」
「景ちゃん……」

深く息を吐き出すように俺の名前をつぶやいた。それから浮かんだ微笑みは、なんだかとても満足そうで。

「あたし、今の気持ち、言葉では伝えられない。ハグするしかないって思ってる」
「え!?」

思わず足を止めてしまった俺を彼女が笑う。

「あはは、大丈夫、やらないから。それくらい感謝してるってこと」

ほっとしながらまた並んで歩き出し、でも、やってもらってもよかったかな、と惜しい気持ちも拭いきれず……。こういうところが俺だよな、と思う。

「……あたしね」

言葉をきった彼女がまっすぐに俺を見上げた。

「世界で一番素敵なひとを好きになったと思う」
「えー……?」

それは大袈裟だよ! と思った途端。

「ほら、引いてるじゃん! 思ったこと言ったのに!」

ツッコまれた。

「いや、まさかこういう方向に来るとは思ってなかったから」
「景ちゃん、自分のいいところ、ちっとも分かってないもんね」
「そう……かな?」

彼女は俺を「素敵なひと」と思ってくれている。それはさっきの言葉でよく分かった。俺の好きなしぃちゃんが、俺を好きだと言ってくれている。それはほんとうにすごいことだ。

でも、もちろん俺は「世界で一番」なんかじゃない。だから、彼女の言葉に少しでも近づけるように頑張ろう。彼女が自慢しても恥ずかしくないように。

それにしても。

「しぃちゃん、今は悩みがないのかな?」
「そうねぇ……、今週ずっと悩んできたから、その反動で一気にプラス思考に飛び込んじゃった気がする。今、すっごく楽しくて、わくわくしてる」

目を輝かせて彼女は言うと、ふと、自分の手のひらを見つめた。

「どうしたの?」
「うん……」

数秒迷ってから彼女はにっこりして。

「景ちゃんと手をつなぎたい気がしたけど、暑いから無理かなって。あたし暑がりで。でも、秋になっても恥ずかしいかなあ?」
「あー……どうだろう?」

こっそり服で手を拭ってみるけれど、暑いのも、恥ずかしいのも間違いない。特にここはうちの学校の通学路だし。

それにしても、しぃちゃんって意外と積極的だ。それとも、これが俺の申し出への答えなのだろうか。俺への信頼の証?

「景ちゃん、ごめん。あたし、少しハイになってると思う。楽しくてふわふわする」

しぃちゃんがくすくす笑いながらくるりと一回転した。

「きっと景ちゃんの魔法にかかったんだ。ふふ、球技大会に続いて二度目だ」

いつもよりも浮かれ気味のしぃちゃんに、思わず口元がゆるむ。「かわいいよ」と言いたいけれど……やっぱり言えない! 照れくさすぎる!

「ええと……、ずっと仲良くしよう。それで……、俺にもしぃちゃんの魔法が必要だから」

上手く言えない。照れくささが舌にブレーキをかけていて。

でも、いつか言いたい。言える日が来るといいな。

俺はしぃちゃんのその笑顔を一生守りたい――って。




ーーーーーーーーーーおしまい