月曜日に教室に着くと、いちごと話していたしぃちゃんが「おはよう」と言ってくれた。
それを聞いたとき、ふわっと肩の力が抜けて、自分がどれほど緊張していたかが分かった。
俺もいつものとおり「おはよう」と言い、突進してきた礼央のハグを受け止めた。それから四人で普通におしゃべりをした。
「きのう、景に言い忘れちゃったんだけど」
ふたりになったときに礼央が小声で言った。
「くぅちゃんと俺のこと、質問されたら事実を答えようって決めてあるんだ。だから景も気を使わなくていいからね」
「事実って……」
「ゴールデンウィークに偶然会ったことから、連絡を取りたいって、俺がしぃちゃんに頼んだこと、今は俺もくぅちゃんもいい関係が長く続くといいと思ってること。」
「礼央……」
きっぱりと言い切った礼央がすごくカッコよく見える。
「うん。分かった」
俺としぃちゃんもそんなふうに胸を張って言えるようになりたい。
「実はさあ」
礼央がいつものへらっとした笑顔を見せる。
「きのうの情報がもう出回ってるみたいなんだよね。スマホに知り合いから連絡来てて。『モデルと付き合ってるってマジか?!』って」
「そっか……」
有名人のくぅちゃんの相手は礼央だし、礼央自身が俺よりも顔が広い。そういうことが分かっていて覚悟を決めているのだろう。場合によっては俺も問い詰められる可能性があると考えて、きちんと伝えてくれた礼央のやさしさが胸に沁みた。
驚いたことに、昼休みに道中と元山がきのうの女子たちと一緒に礼央と俺に謝りに来た。
いちごから元山の礼央に対する気持ちを聞いていた俺は、単なるパフォーマンスではないか、なんて勘ぐってしまう。でも、元山だってあんなことの後では礼央の気持ちが自分に向くとは思っていないだろうから、そんな勘ぐりは意地が悪いと自分でも分かっている。
でも、礼央が言っていた「情報が出回っている」原因だって、おそらくこの四人のうちの誰かだ。そんなつもりはなかったかも知れないけれど、今どきのネット状況を知らなかったとは言わせない。ただ、それを問い質すかどうか決めるのは礼央だから、礼央が何も言わないのなら俺もそれには触れないでおく。
微妙な顔で黙っている俺の横で、礼央は、謝る相手は俺たちではなくてしぃちゃんだと指摘した。すると、そちらは既に済ませたと答えが返ってきた。しぃちゃんはどうやら謝罪を受け入れたらしい。まあ、同じクラスにいるのだし、受け入れないという選択肢はないのだろう。
謝られたことできのうの記憶が一気に戻って来て、逆に気分がふさいできてしまった。午後の授業中も、しぃちゃんの後ろ姿がなんとなく淋しそうに見えてしまって仕方がない。
白いワンピースを着てあきらめたような微笑みを浮かべる彼女が頭から離れない。俺は今日、彼女を笑顔にしただろうか……。
木曜日になって、避けられているのかも、と気付いた。もちろん、しぃちゃんに、だ。
彼女は話しかければ笑顔で応じてくれるし、前と変わらず俺を「景ちゃん」と呼んでくれてもいる。ただ、元気がないように感じてはいたのだ。
元気がない理由を、俺は動物園でのこととつながっていると考えていた。そして、時間が経てば元気になるだろうと。
けれど今日、ふと思った。彼女と目が合っていないような気がする――。
月曜日の朝は大丈夫だったと思う。でもその後はどうだったか思い出してみると。
微妙なうつむき加減。
そう。ちらりと俺の顔を見ることはあったけれど、前のようにまっすぐ見上げて話してはくれない。俺と彼女の身長差だと、近い距離で彼女が正面を向いていたら視線は合わないのだ。
念のため二度ほど話しかけてみて、俺の勘違いではないと確信した。あからさまに避けることはしないけれど、彼女の受け答えは短くて会話が広がらない。以前は彼女も思い付いたことを言ってくれて、ふたりで一緒に笑ったのに。
――何かやっちゃったかな……?
不安が胸に広がる。思い当たることはないが、ぼんやりしている俺のことだから、気付かないうちに何かしでかした可能性は否定できない。
落ち着かないけれど、礼央に相談したらくぅちゃんからしぃちゃん本人に伝わりそうだし、そうなったら彼女が気を使うことになりそうだ。それは望んでいない。
――直接訊いてみるか。
タイムリーなことに、明日は放課後の図書委員当番だ。放課後はそれほど混まないから、仕事の合間に話す機会をつくるのは簡単だ。
だけど……。
ちゃんと答えてくれるだろうか。
以前なら聞き出すことができたかも知れない。でも、今の様子だと白を切られそうだ。こうと決めたら決心を曲げなさそうだし……。
「ねえねえ、景ちゃんさあ、紫蘭と何かあった?」
休み時間にいちごがこっそりと尋ねてきた。いちごに心配されるという事態にますます不安が大きくなる。
でも、何か情報を引き出せるかも知れない。ほんの小さなことでも。
「何か……って、動物園のことは話したよな?」
「うん。紫蘭からも聞いたよ、同じこと」
「だよな?」
そう言えば、いちごにはしぃちゃんとふたりで話した部分は言っていなかった――って、あのとき!
「あ、やっぱり何かあった?」
――しまった。
思わず顔に出てしまったようだ。でも、これはいちごには言えない。
「いや、ちょっと別な話を思い出しただけ。しぃちゃんとは関係ないよ」
あのことだろうか? しぃちゃんはあれを気にしているのか? あれで困って、あんな態度を?
――いや、違う。
だって、彼女の態度が変わったのは月曜日より後だ。あれが原因なら月曜日から変わっていたはずだ。だから違う。きっと。……たぶん。
「ホントに? 紫蘭、なんだか景ちゃんの話題に、前みたいに乗って来ないんだけど」
「いちごが俺のことこきおろしてばっかりいるから、もう聞き飽きたんじゃないのか?」
「そんなことないと思うけどなあ。面白い話ばっかりなんだから」
「ちょっと待て。それが原因で俺が嫌われる可能性もあるよな?」
「えぇ? それはないよ。そんな変な話をしたら、幼馴染みのあたしまで変に思われるでしょ」
それはそうだ。しぃちゃんがいちごを避けていないなら……ちょっと待て。
「それほど変な話なんかないだろ!」
「へへっ、どうかな?」
嫌な笑みを浮かべて、いちごは戻って行ってしまった。でも、今の話だと、しぃちゃんが俺への関心を失いつつあるのは間違いない? そんな!
――慌てるな。落ち着いて。
状況を整理しようと席に戻ると、ちょうどしぃちゃんが前方の戸口から教室に入ってきた。自分の席へ――つまり俺の方に歩いてくるあいだ、視線は下がったまま。ちょっと顔を上げてくれれば俺が目に入るのに。
自分の席にたどり着いたしぃちゃんは、くるりと俺に背を向けて座ってしまった。
――さびしい……。
まるで俺を視界に入れたくないみたいだ。以前はちらりと微笑みを向けてくれたこともあったのに。
でも、くよくよしていても始まらない。とにかく、よく思い出してみなくちゃ。
日曜日に動物園に行った。あの四人に会うまでは順調だった、と思う。そしてあの事件。俺はしぃちゃんを庇うことができなかった。
四人がいなくなり、くぅちゃんと礼央が離れたあと、ふたりで話した。しぃちゃんはとても落ち込んでいて、自分はダメだと――努力してもダメだったと言った。みんなと同じになれないから。それと、俺が見ていたのは自己防衛のために創りあげた“いい子”だと。本当の自分は弱虫でずるい、と。
――切なくなるなあ……。
どんな気持ちであんな告白をしたのだろう。自分の弱さを他人に明かすのは、とても勇気が要ることだ。あるいは――希望を捨ててしまったとき?
今の状態の原因が、彼女がこの話をした後悔であるのならまだいい。俺がそれを払拭すればよいのだから。けれど。
原因があのときの俺の言葉だとしたら。
あのとき俺は、自分の気持ちを伝えた。「しぃちゃんのことをいいと思っている」と。「ほかの女子とは違うからたくさん話したいと思う」と。
あれは本当の気持ちだ。あそこで伝えなければならないと感じたから口にした。「付き合ってください」式のはっきりした告白ではないけれど、落ち着いて思い出せば分かるだろう。
そう。“落ち着いて思い出せば”。
月曜日の朝は以前と同じように話ができた。そう感じた。
火曜日は……あいさつはしたと思う。すれ違いざまに言葉も交わしたかも。でも一瞬だったからはっきりしない。いや、あれは水曜日――きのうか?
俺の言葉をあとで思い出した、あるいはあとで意味を悟った。そういう可能性は何パーセントくらいだろうか。
だから警戒されている、と考えるのは無理がないように思える。警戒か、距離を置くことで無言で断っているのかは分からないけれど。
あのとき、俺の言葉は彼女には通じなかったと思った。彼女が元山やくぅちゃんに言われたことで傷付いていたから、そっちの方が重大で気がかりだった。だから、俺の中ではなかったことになっていた。でも……?
考えても分からない。しぃちゃんが何を考えているのか。そして、どうしたいのか。
それなら――訊いてみるしかない。
このままでは俺たちの関係が薄くなって、いつか消えてしまう。それはいつか起こることかも知れないけれど、こんなふうに俺の中に疑問が残っている状態では嫌だ。
彼女の中で何かの決断が為されたのなら、それを聞きたい。
明日、訊こう。放課後の当番のときに。