礼央たちが戻って来たのはそれから十五分ほど経ってから。

俺はしぃちゃんが先に帰ったことだけを告げた。ひとりで考えたいと言っていた、と。

しぃちゃんが帰ったことを知ったくぅちゃんは、また怒り出しそうになった。けれどすぐにため息をつき、「しぃちゃん、頑固だからなあ」とうなだれた。

もう動物園を楽しむ気分ではないし、元山たちにまた会ってしまうのも嫌なので、そのまま帰ることにした。

帰り道で、くぅちゃんはしぃちゃんがひとりで帰ってしまったことを俺たちに何度も謝った。でも、俺も礼央もしぃちゃんを責めるつもりはない。逆に礼央は自分がトラブルの一要因になってしまったと謝っていた。俺だって何も役に立てなかったのだから同じ気持ちだ。

そんな中で事の責任を元山たちに被せたくなるのは仕方ないことではないだろうか。「あそこで会わなければ」「あれは言い過ぎだ」「ほかの誰かだったら」と考えてしまう。けれど、誰も彼女たちの名前を口に出さない。彼女たちに罪をかぶせて文句を言っても意味がないと分かっているから。

起きてしまったことは起きてしまったこと。もう、元に戻すことはできない。

今日のことは問題の一端が明るみに出ただけでもある。根っこの部分はそれぞれの胸に、日々積み重ねられてきたのだ。簡単に解消できるわけがない。

けれど、だからと言って、言いたいことをぶつければいいというものでもないと思う。

俺たちみんな、何かしらを抱えて、自分たちを取り巻く世界と折り合いをつけながら進むしかないのだ。荷物が重くなったら休んだり、誰かと分かち合ったりしながら。俺は礼央やしぃちゃんと、そんなふうに進んで行きたい――。

昼を過ぎたばかりの帰りのバスは空いていて、俺たちは一番後ろに並んで座ることができた。

「しぃちゃん、前は絶対に言い負かされたりしなかったんだよ」

くぅちゃんが静かに言った。

「小学生時代から頭が良かったし、いつも正しいと思うことを論理的に説明して、みんなを納得させることができてた。でも、中学の後半くらいから言い返さなくなった。……ボクが原因で」

うつむくくぅちゃんを礼央が静かに見つめる。

「モデルの活動を始めたころ、人気のあるモデルをふたりでネットで検索してたんだ。最初は楽しかったんだけど、途中でひどい中傷の書き込みをされてるひとを見つけちゃってね、ふたりともびっくりしちゃったの。ひどい言葉がいくつもいくつも並んでた」

想像しただけで胸が苦しくなる。言葉の刃は向けた相手以外も傷付けると、使っているひとは気付いているだろうか。

「しぃちゃんは『こんなの見るのやめよう』って、すぐに画面を閉じちゃった。で、ボクに『くぅちゃんは大丈夫。こんなこと言われないから』って言ってくれたんだけど……、たぶんボクよりもショック受けてたと思う。顔から血の気が引いてて目を見開いて。ボクよりも感受性が強いって小さいころから言われてたし」

くぅちゃんが唇を噛んだ。まるで自分に落ち度があったみたいに。

「しぃちゃんは冗談めかして明るく、自分も気を付けるねって言ったんだ。自分が嫌われて、その攻撃がボクに向かうといけないからって。世間に顔を知られるようになるボクの方が攻撃されやすいからって。そのときはボクも笑って、そうだねって言ったけど……、気がついたら学校でのしぃちゃんが変わってた」

そうか。そんないきさつがあって、くぅちゃんは責任を感じていたんだ……。

礼央がくぅちゃんにかける静かな声を聞きながら、しぃちゃんの言ったことを思い返してみる。

彼女は自分が攻撃されることが怖いと言っていた。反論しないのはくぅちゃんのためではないと。きっと、あとでくぅちゃんにもそう説明するのだろう。

けれど、俺の頭の中ではいろいろなことが蜘蛛の巣状につながっている。それぞれの言い分も、事情も、周囲の誰かも、どこかしらでつながっていて、ある場所で受けた刺激は二次的、三次的に広がっていく。あるいはバラバラにもたらされた刺激が一か所に集まることもある。

因果関係が一対一で終わるものなんて、世の中にはないような気がする。そう。しぃちゃんが言い返さなかった理由だって、きっといろいろなことが絡み合っている。

しぃちゃんの説明をくぅちゃんが受け入れない可能性はある。反論しないこと自体の是非もある。

俺たちはみんな何らかの理由があって、ものを言ったり行動したりする。けれど、それが絶対的に正しいと、世の中のすべてのひとが賛成してくれることってあるのだろうか……。



家に帰るといちごが来ていた。冷房の効いたリビングで、諒と母親と三人で人生ゲームをしていた。

「あれ? 早いね」

三人が異口同音に言った。

俺は家族には友だちと出かけると伝えてあった。でも、いちごはしぃちゃんからもう少し詳しく聞いているはずで、ほぼ間違いなく、諒と母親にも話しただろう。だったら、早く帰ってきたいきさつをここで話しても問題はない。むしろ、学校でのことを考えたら、いちごには知っておいてもらった方がいい。

そう判断して、動物園で元山たちに会ったところから話をした。くぅちゃんがしぃちゃんを責めたことも簡単に。ただ、しぃちゃんが俺に話した内容は黙っていることにした。

「会った相手がまずかったねえ」

早い解散を決めたところまでくると、いちごが苦笑いしながら言った。憤慨もせず、あまり深刻な顔もされなかったことになんだかほっとして、自分で少し驚いた。

「たしかにそうだな。よりによってくぅちゃんと会いたがってた面子だし」
「そこじゃないよ」

否定された意味が分からずいちごを見返すと。

「泉美は礼央くんのこと気に入ってたんだよ。かなり本気だったと思うよ」
「えぇ?! マジで?!」

そんなこと全然気付かなかった。女子はだいたいみんな、礼央と話すときは嬉しそうだから、そんなものだと思っていたのだ。

「だから偶然、礼央くんに会えて、すごく嬉しかったと思うよ。でも、礼央くんは自分に興味がないってことが分かったし、紫蘭が紅蘭ちゃんの姉妹だからって理由で礼央くんと仲良くできてると思って悔しかったんだと思う」
「そんな」

ということは。

「じゃあ……八つ当たり?」
「まあ、そういう意味合いもあるよね」
「なんだよ、それ……」

しぃちゃんは俺たちと一緒にいたくなくなるほどショックを受けたのに。今までの悲しいことを思い出して、傷付いて、自分はダメだなんて落ち込んで。

なのに、元山の恋が上手くいかなかった八つ当たりだなんて。

「景。はい、これ」

諒が俺の前にマグカップを置いた。中身はホットミルクだ。小さいころにお腹が弱かった俺と諒は、今でも牛乳は温めて飲むことが多い。

礼を言った俺に、諒はさわやかに微笑んだ。

「世の中って、口に出した者勝ち、みたいなところ、あるよね」

残念そうに言ったのは母親だ。

「今日のその子みたいにさ、どんどん言っちゃった方が勝ち。言われた方は傷付くだけで、黙っていたら相手に何のダメージも与えられない」
「たしかに」

ネット上で理不尽な情報を流される被害はその最たるものだ。

「でも、景も言い返さないよね、たぶん」

諒に言われてびっくりした。

「景って相手のことも考えるから。好きじゃない相手でも、これを言ったら傷付くだろうと思う言葉は言えないと思うな」
「うーん……、言われてみると、そんな気がする」

ホットミルクを飲みながら考えてみる。

俺はそもそも、ぽんぽんと言葉が出てくる方ではない。でも、腹が立っているときは、言ってやりたい言葉はいくつでも頭に浮かぶ。

ただ、そういうときは逆に口を噤んでしまうのが俺だ。それは、うっかり取り返しのつかない言葉を使ってしまうことが恐いから。

取り返しのつかない言葉。――そう。諒が言うように、相手を傷付けてしまう言葉。

「小学生のときに意地悪言ったこと、今でも思い出すと落ち込むよなあ……」

思わずつぶやくと、いちごが急に「あ、それ、あたしに言ったやつでしょ!」と突っ込んできた。

「景ちゃんに『うるさい』ってずうっと言われ続けたよ」
「は? それは意地悪じゃないだろ? 俺、まったく忘れてたし。むしろいちごに言われたことがグサグサ来ることの方が多かったよ」
「あ! 今ので傷付いた! あたしにデリカシーが足りないみたいな言い方!」

諒と母親が笑って「まあまあ」と割って入った。いちごが本当に怒っているわけじゃないことは全員承知で、少ししんみりしかけた空気が軽くなった。

「あたし、あとで連絡してみるね」

帰り際にいちごが言った。

「景ちゃんから聞いたって言っちゃうからね。知らないふりするの、上手くないから」
「うん。いいよ。俺は……今日はやめておくから」

彼女を信じて明日を待とうと思う。彼女が言ったのだから。「明日ね」って。

明日になったら、きっと、今までと同じ俺たちに戻れるはずだ。一緒に笑い合い、助け合える同志で相棒に。

そう言えば……。

俺、かなり告白っぽいこと言ったんだけどなあ。

有耶無耶になっちゃったなあ……。