彼女は俺の魔法使い


次の日、朝練から教室に行く途中、一年生部員二人が俺の名を呼んで追いかけてきた。しぃちゃんの様子を確認するために早く教室に行きたかったけれど、真剣な顔のふたりを見たら「あとで」とは言えない。

礼央は気を利かせて先に教室に行った。ところが、なかなか言い出せない様子のまま時間が過ぎていく。いったいどれほど重い相談なのか、いやそれよりも、これではしぃちゃんどころか遅刻になってしまうかもと不安になってきたころ、やっと伝えられたのは、

「高砂先輩は僕たちの何が気に入らないんでしょう?」

だった。一年生全員が同じように不安を感じていて、このふたりが代表で話に来たという。

なるほど、高砂は部活中は不機嫌に見える。太い眉とぎょろりとした目が迫力があるし、男だけのときには笑わないからだ。だけど、べつに怒っているわけじゃない。ただ、顔が怖くて真面目なだけだ。高砂から一年生に対する不満を聞いたこともないし。

難しい相談じゃなくてよかったとほっと――というよりも脱力――しながら説明すると、尚も一年生は食い下がった。彼らのクラスの女子が高砂のことを「面白い先輩」と言ったと。なのに、入部して一か月、ほぼ毎日顔を合わせている自分たちはまだ親しく話したことも、笑顔を見たこともない。それは自分たちが嫌われているからではないか?

――高砂め。

女子の前でだけ態度が変わるなどと説明したら、高砂の人間性に問題があるように思われそうだ。先輩としての威厳にも関わるだろうし。こういうとき、礼央が一緒にいてくれたらフォローしてもらえるのに。

とりあえず、高砂は俺たちにも笑顔は滅多に見せないのだと話して納得してもらうしかない。笑顔は女子のために温存しているとは後輩には言えない。歯切れの悪い説明に疑惑の表情を向けながらも、ふたりは一応了承して戻って行った。

なんだか疲れた気分で教室に着くとちょうどチャイムが鳴り、しぃちゃんに「おはよう」を言う暇もなかった。

休み時間に理科室へと移動しながら礼央に一年生の相談の内容を話すと景気よく笑ってくれた。そして「たいへんだったねえ」と労ってくれた。

「でも、景だから相談しに来れたんだと思うよ。ツッキーはバレーにストイックなところがあるから、バレー以外の相談はしづらいよね」

ツッキーというのはうちのエースで部長の津久井のことだ。礼央が言うとおり、バレーボールに文字どおり青春をかけている津久井には、同学年の俺でも同じレベルで話すことに気後れを感じることがある。同じくバレーに熱心でも少し抜けたところのある高砂とは違うのだ。礼央は持ち前の人懐こさで「ツッキー」なんてニックネームを付けてしまったけれど。

「高砂に、一年生ともう少し話すように言ったほうがいいかなあ?」

考えながらつぶやくと、礼央は「そこまでしなくてもいいんじゃない?」と明るく答えてくれた。

「俺たちが高砂を適当にコントロールしようよ。そのうち、一年生にも分かると思うよ。それにしても、高砂を面白いって言った一年の女子って、あの図書委員の子たちかなあ? ほら、電車で会ったって話したよね?」
「あ! 今朝のふたりって何組だっけ? そういえば1組だったような……」

その可能性が高い。どうもあの図書委員の一年生コンビは俺の日常に小さな波を立てるめぐり合わせのようだ。

ため息をつきながら、胸の中ではほっとしていた。礼央が今回の件について一緒にフォローしてくれると分かったから。持つべきものは礼央のような友だちだ!

一つ事件が片付いて、やっとしぃちゃんと話せる――と思ったら、次の休み時間に声をかけてきた田原(たはら)理久(りく)。後ろに半分隠れるように大和若葉(やまとわかば)の姿が。九重祭の劇担当の組み合わせに、嫌な予感が一気に膨れあがる。

「景と礼央も劇に出てほしいんだよ」

見事に予感的中だった。よろけそうになって、礼央の肩につかまった。

「ほら、主役のふたり、引き受けてくれたけど、大鷹はちょっと困ってただろ? だから今度は事前に伝えた方がいいってことになって」
「それ、断っても……?」
「断るのはなしにしてほしい」

理久がきっぱりと言った。

「希望を聞いてるときりがないし、大和がそれぞれのイメージでシナリオ書いてくれてるんだ。それに、相模と大鷹は断れない状況で引き受けてくれたわけだからね」
「うん、そうだね」

礼央が返事をしてくれた。それを胸の中で繰り返す。うん、そうだ。あそこで断るわけにはいかなかった。そのとおり。

「俺たち、どんな役?」

動揺が収まらない俺のために礼央が尋ねる。そうだ。役が大事だ。もしかしたらナレーションとか――。

「染井くんは呂海雄(ろみお)の友人で、鵜之崎くんは珠璃(じゅり)のお父さん」

半分隠れていた大和が前に出てきてきっぱりと言った。メガネ越しの瞳の真剣さに、思わず体を引いてしまう。でも、お父さん……?

「染井くんの役は呂海雄を悪ふざけに誘ったりするお金持ちの友だちなの。医学生で勉強ばっかりしてる呂海雄を遊びに連れ出して、そこで珠璃と会うの」

なるほど。それは礼央向きの役だ。でも……。

「鵜之崎くんは厳格なお父さん。明治維新のあと商売を始めた元武士の家を継いでいるけれど、商売は上手くいっていなくて、家を守るために娘を羽振りのいい家に嫁がせたいと思ってるの」
「ひでぇ父親……」

俺の役はそれか……。

俺、そんなキャラに見られていたのか……。しかもおじさんだし……。

「あ、あの、べつに鵜之崎くんがこういうひとだと思ってるわけじゃないよ? これは誰かがやらなくちゃいけなくて、鵜之崎くんの背の高さなら厳格なお父さんの雰囲気でるなあって」
「劇だからさあ、いい役も悪役もあるんだよ。見る方も分かって見てるわけだから、嫌なキャラクターを演じても、本人がそうだなんて誰も思わないよ」

大和と理久の説明が単なる言い訳にしか聞こえない。頭では理解しているけれど、最初に「イメージでシナリオを書いている」と言ったじゃないか。それがどうしても引っかかってしまう。

「分かってる」

納得しきれていなくても、笑ってこう言うしかない。ここで俺がゴネたら、頑張っているこのふたりがかわいそうだ。でも、舞台に上がる覚悟は簡単にはできなくて、「大丈夫」も「頑張るよ」も言えなかった。

次のターゲットに向かうふたりを見送りながら、礼央にとりあえず宣言してみる。

「俺、『ロミオとジュリエット』を読んでみる」
「ああ、それいいかもね」

うなずいた礼央が笑いをこらえているのを感じる。だから思い切って。

「礼央ぉ、俺、おっさんっぽいかなあ……?」
「えぇ? 景、何言ってんの?」

驚き方がわざとらしい。でも、それも俺を笑わせるためだ。

「景のどこがおっさんだって? 顔かな? いや、皺ないし。髪には……白髪なし。もしかして加齢臭とか?」
「うわ、それはダメだ。それはないから! 絶対ない!」
「あははは、当然だよ。十代は臭くても加齢臭って言わないもんね」
「え、俺、臭い? 汗臭い? スプレー使ってるけど」

急いで自分のシャツの匂いを嗅いでみる。でも、よく分からない。しぃちゃんに臭いなんて思われたら困るのに!

「大丈夫。一緒にいて、今まで気になったことないよ」

落ち着いた礼央の答えに、とりあえず気分が静まった。まあ、焦ってもすぐにどうにかなるものでもない。

「俺は、劇に出るのは面白そうだなって思ってるよ」

礼央がにやりと俺を見る。

「ま、俺はおっさん役じゃないけどね」
「だよなあ?」

でも、だいぶ受け入れられそうな気分になってきた。よく考えると、別な人間になるのは面白いかも知れないし、礼央やしぃちゃんと一緒に練習するのも楽しいだろう。劇に出るなんて、俺の人生で一度きりのことだろうし。

「シナリオ書くのって大変だろうなあ」

受け入れられそうだと感じたら、大和の仕事に思い至った。セリフに個々のキャラクターの性格を出す必要があるだろうから、モデルがいた方が書きやすいというのはそのとおりなのだろう。

――いや、だけど……。

だからって、俺をおじさん役に当てはめようと思われたショックはやっぱりあるわけで。大和は俺の背の高さのことだけしか言わなかったけれど。どうしても出なくちゃならないのなら、もう少し若い役がよかったな……。

「景ちゃんも劇に出るんだってね?」

昼休みに『ロミオとジュリエット』を借りて教室に戻るとしぃちゃんが駆け寄ってきて言った。

「あ、うん」

礼央がこっそり笑いながら俺から離れて行く。遠くから見守ってくれるつもりらしい。

「あたしのお父さんの役なんだって?」
「うん……、そうらしいよ」
「面白いね。どんなお父さんになるんだろう? ね?」
「そう……だね」
「厳しいっていう設定だから、あたしのこと怒るのかな? 大きな声で」

なんだか想像と違う。しぃちゃんは楽しそうだ。ちょっとはしゃいでいるようにも見えるけど……?

「景ちゃん、もっと胸を張らないと! 元武士の家系なんだから」
「え? え? こんな感じ?」
「そうそう」

点検するように眺められて、どんな顔をしたらいいのか困ってしまう。

「あのね、楽しんでやろうね」

その口調にはっとした。彼女の表情は静かで、向けられた瞳はやさしげで……。

「嫌だって思ったままじゃもったいないって思ったんだ。最初はショックで、いちごと景ちゃんに心配かけちゃったけど」

そうだ。主役の彼女は俺よりももっと大きなショックだったはずだ。

「今はだんだんキャストが決まってきて落ち着いてきた。一人じゃないって分かったから」

そこでちらりと俺を見た表情が――。

「景ちゃんもいるし」

自分が特別だと思ってしまいそうだ……。

「あ……、これを読んでみようと思って」

後ろポケットから借りてきた文庫本を取り出す。

「なに? あ、『ロミオとジュリエット』! すごい。えらい」

彼女が目を丸くした。

「いや、まあ、原作を知りたいと思って……」
「原作って戯曲でしょう? じゃあ、中は」
「うん。セリフになってる」

実はこんな本があるとは思っていなかったのだ。雪見さんに見せられてびっくりした。

「景ちゃん、やっぱり真面目」

笑われてしまったけれど、しぃちゃんの笑顔を見ると、心がリラックスして大きく翼が広がるような気がする。これも彼女の魔法の効果だ。

彼女に礼央たちと出かける話を確認しなかったことを思い出したのは、ベッドに入ってからだった。でも、礼央から中止の連絡もないし、きっとしぃちゃんもOKなのだろう。



「……のさきくん!」

あ、俺か――と思ったのは数歩進んでからだった。立ち止まると同時に隣に現れたメガネの女子――大和若葉だ。駅から出てくるうちの生徒たちが左右を通り越していく。

「あ……と、おはよう」

教室でも小さなあいさつしか交わしたことがない大和が今朝はわざわざ声をかけてきた。それくらい大事な――彼女にとって――用があるということか。一瞬、俺に輪をかけて社交的ではなさそうな大和と上手く話せるか不安がよぎったけれど、用事があるのは彼女の方なのだから、と思い直す。

「あの、劇の役のことなんだけど」

歩き出してすぐに用件を切り出されてほっとする。

「びっくりしたよね? ごめんね」

うつむいたまま、大和は言った。きのうの熱心さは影をひそめ、視線を落としている様子は教室で見慣れた姿だ。

「そうだね。びっくりした」

自然な声が出て、自分が思いのほかリラックスしていることに気付いた。

「自分に声がかかるとはまったく思ってなかったから。はは」

宗一郎に指摘されたように、他人事だと思っていた。俺を見ている誰かがいるなんてほんとうにびっくりだ。

そっと大和が顔を上げた。その視線が何かを確認するように俺に据えられたと思ったら、また下がった。

「鵜之崎くん……、たぶん苦手だよね、舞台に上がることとか」
「ああ……、まあ、そうだけど……、もう覚悟ができたから大丈夫だよ。やることはちゃんとやるから」

笑顔をつくって答えたのに、彼女は驚いたように見返してきた。俺の答えが予想と違っていたのか? 謝罪しにきてくれたのかと思ったけれど、この反応は、何か別な用事があるということか。

――あ。

もしかしたら。

俺が舞台に上がるのが苦手だということを確認されたということは、それが前提の話だ。

「あ、あのさ」

期待で少し早口になる。しぃちゃんと話していくらか前向きな気分になったとは言え、やっぱり。

「もしかして、俺、出なくてよくなった? あの役、誰かほかのヤツがやってくれるのかな?」

きっとそうに違いない。なのに俺が覚悟ができたなんて言ったから、「やっぱりほかの人に」とは言い出しにくくて困っているんだ。

「それなら全然気にしなくていいよ。俺、恨んだりしないし。たぶん、誰でも俺なんかよりもずっと上手くやれるんじゃないかな。絶対そうだよ。うんうん」

しゃべっているあいだに大和の目がだんだん見開かれて――。

「ごめんなさいっ」
「お?!」

思い切り頭を下げられて驚いた。思わず身構えた俺を見上げた表情がきのうとダブる。大和はいつも真剣で一生懸命だ……。

「ごめんなさい。やりたくないのは分かっているけど、役のチェンジはないんです。ただ謝ろうと思っただけで。きのうは無理強いする形になっちゃったから」
「あ、そう……? そうなんだ? そうかー……」

そうだよな。きのうの今日で変更にはならないよな。でも、ほんとうに変更でもよかったんだけどなあ……。

「きのう話したとき、鵜之崎くん、青天の霹靂って顔してたから……。言葉が出ないほどショック……って感じで」
「うん、まあ……」
「喜んで引き受けてくれるひとばかりじゃないって分かっていたんです。でも、予想していたよりもずっと鵜之崎くんはショックが大きかったように見えたので……申し訳なかったな、と思って」
「いや。いいよ」

がっかりだけど、それ以外答えようがない。あのとき理久が言ったように、本人の希望を聞いていたらきりがないと分かっているから。理久と大和が一人ずつ出演交渉するなんて負担が大きすぎる。

それでも大和は俺の反応を気にしていてくれたのだ。

「わざわざありがとう。気を使ってくれて」

一応、笑顔で言ったのに、彼女は探るように俺の顔を見た。嫌味を言っていると思われたのだろうか。数秒後、ようやく納得した様子でうなずくと、おずおずと微笑んで。

「紫蘭が言ってました。鵜之崎くんは大丈夫だって」
「しぃちゃんが?」
「はい。気が進まないことでも、一旦引き受けたら『ちゃんとやる』って言ってくれるよって」

しぃちゃんが……。

――やばい。

鼻の奥がつーんとする。気を抜くと涙が出そうだ。俺ってこんなに涙腺ゆるかったっけ? こんな……、ほんの少しの言葉で感動したりして。

「そうかー」

急いで向きを変え、歩き出す。慌ててついてきた大和は下を向いているから気付かないだろう。こちらを向かないことを祈りながらこっそり洟をすすり、ゆっくりまばたきして涙をひっこめる。

「さっき……」

視線を上げないまま大和が話し始めた。

「ちょっと驚きました。鵜之崎くんが紫蘭が言ったとおりの言葉を使ったから」
「言ったとおりの言葉?」

それであんな顔をしたのか。

「はい」

大和が俺を見上げた。涙の名残がないか不安ではあるものの、彼女は気付かないようだ。

「『やることはちゃんとやる』って」
「……ああ」

そうだ。たぶん、あのとき。

最初の図書委員会の日。図書委員の仕事に不安になった俺に、しぃちゃんが難しいわけではないと言ってくれて、それなら……と口にしたような気がする。

そういえば、あのときのしぃちゃんも驚いた顔をした。俺がやる気を出すことが意外だったのだろうか。それほど期待されていなかったのか。それも情けないけれど……、今はかなり挽回できている気がするからいいかな。

「紫蘭は鵜之崎くんのこと、とっても信頼してます」
「あはは、そう? それならよかった」

第三者にそう見えるのなら信憑性が高い。

「“相棒”って言ってました。うらやましいです。そういう相手がいるって」
「そう?」
「はい。わたしはなかなか……」

彼女が言い淀んだ内容がなんとなく分かる。教室での様子からの想像だけど、彼女はあまり対人関係を築くのが得意ではないのだと思う。理由はたぶん、自信がないから。要するに、俺と同じだ。

「そんなことないよ」

俺の言葉に彼女が抗議のこもった表情を向ける。でも。

「そんなことないよ。きのう、理久が、大和の言いたいこと、ちゃんと伝えてくれてたじゃん」
「それは……、ええ……」

彼女は視線を逸らし、もどかし気に片手を胸に当てた。

「配役のこと、ふたりで話し合ったんじゃないの?」
「そう……ですけど」

またうつむいてしまう。

「わたし、自分の都合で役を頼むことになったのに、みんなに自分の責任で頼めなかったことが申し訳ないんです。田原くんが前に出て大事なことを言ってくれたから、わたしも説明できたっていうだけで……」
「それでいいんじゃないかな」

きのうの大和と理久を思い出す。きっぱりと「断るのはなしにしてほしい」と言った理久、そして、どんな役かを懸命に説明した大和。

「しぃちゃんが俺を“相棒”って言ったのは、目標に向かって協力し合える相手っていう意味だよ。苦手なこととかできないことはカバーし合って、ふたりで一つのことをさ。きのうの大和と理久も、俺にはそう見えたけど」
「わたしと田原くん? ……そうですか?」
「うん。理久は理久ができることをやって、大和は大和ができることをやってるって、俺は思ったけど」
「でも、田原くんの方がきのうはたくさん……」

彼女の思考過程が手に取るように分かる。なぜなら俺も同じだからだ。俺も、自分は役に立たない、自分には足りないところばかりだと思っていた。できなかったことばかりを考えていた。

けれど、相棒のことなら彼女よりも俺の方が少しだけ余分に知っている。

「きのうだけを見たら、たしかに理久の方が目立つよ。だけど、シナリオを書いてるのは大和だよね? その方が時間がたくさんかかってるよ? きのうの放課後だけで終わる仕事じゃないよね」

彼女が目を瞠る。

「ああ、やっぱり」

思ったとおりだ。

「自分がやってることはたいしたことないって思ってるんじゃない? でもさ、シナリオを書くなんて誰にでもできることじゃないよ。しかも、原作があるって言ってもオリジナルだし」
「でも。そうかも知れないけど、わたしは好きなことをやってるだけですよ?」
「うん。そうだろうけど、だから、少なくとも理久は、それをやらないで済んでるってことだよ?」

彼女が狐につままれたような顔でまばたきをした。

「もしかしたら、理久はそれが申し訳ないって思ってて、きのうは自分が前に出たんじゃないかなあ?」
「田原くんが……?」

うん。きっとそうだ。

たぶん、理久も普段の大和を見ていて、対人関係が苦手そうだと気付いていたに違いない。そして、監督と演出を担う理久は劇全体のリーダーとも言えるのだ。

「理久はきっと、大和といい相棒になりたいと思ってると思うな」

だからきのう、大和の決めた配役をみんなにきっぱりと伝えたのだと思う。彼女の案を指示すると態度で示すために。あとは大和が理久を信じるかどうかだけだ。

「分担をきっぱり分けなくてもいいんじゃないかな。得意なことと不得意なことで分担のラインがでこぼこになっても、ふたりで協力できていれば」
「……ありがとう」

つぶやくような声。けれど、俺に向けた表情はやわらかく微笑んでいて。

「鵜之崎くん、やさしいですね。紫蘭が大丈夫って言った意味が分かります。嫌な父親役でごめんなさい。もっとやさしいお父さんだったらよかったんだけど」
「いや、それはもういいよ」

俺が気にしているのは“嫌な”父親だからじゃない。父親役とはつまり、“おじさん”だからだ。嫌な役でも若ければあんなにショックじゃなかった。

そこのところ、察してほしいんだけどなあ……。

でも、まあ、いいか。

しぃちゃんが俺を信じてくれていると分かった。これからはもう少し自信をもって一緒にいられそうだ。



五月最後の週に、二度目の図書委員の昼休み当番がまわってきた。利用者が多くて忙しい昼休みの当番だけれど、しぃちゃんとの時間を確保できる大事な機会だ。

仕事に慣れて少し手際が良くなり、気持ちの余裕も生まれている。今回はどんな話ができるかとわくわくしながら、じれったい思いでお客が途切れるのを待った。

「景ちゃんは前転って得意?」

先に質問したのは彼女だった。返却本をかごに移しながら、「前転って、でんぐりがえしのこと?」と確認すると「そう」と彼女は言った。

「特に得意でも苦手でもないけど……」

前転のことで何かを考えたことはないと思う。どうして突然、前転の話なのだろう? と考えて、思い当たった。

「女子の体育、マット運動なの?」
「今日からね。で、首をぐきっとやっちゃって」
「ああ、それは痛いね」

うなずいたしぃちゃんが顔をしかめて首に手を当てる。そう言えば、さっきから首を気にしているようだった。

「無理しなくていいよ。仕事はだいたい分かるから、しぃちゃんはじっとしてて」
「ありがとう。でも大丈夫。仕事はできるから」
「だけど捻挫みたいなものだよね? あんまり動かさない方がいいよ」

貸出を1件さばいてから彼女がゆっくり振り返る。体ごと向きを変えたのは首を動かさないために違いない。

「あたし、年に何回かは首を痛めてるの。マット運動だと必ずだし、朝起きたときとか、うがいでもやっちゃうときがある。だから慣れてるんだ」
「慣れてるっていっても、痛いよね?」
「うん……、まあ、そうなんだけどね。それに、前転でやっちゃうのは初めてで、ちょっと落ち込んでる。いつもは後転なのに」

頭を動かした拍子にまた痛そうに手を当てた。前転でも後転でも寝起きでも首を捻挫した記憶がない俺には、その痛みを想像することしかできないけれど。

「誰でもやるものだと思ってたんだけど、前にお医者さんに行ったとき、『年に三、四回』って言ったら『多いですね?!』って驚かれて……、みんなはならないんだってね?」

尋ねた拍子にまた首が動いたらしい。「いたたた……」と顔をしかめている。大丈夫だと言われても、痛々しくて見ていられない。

「もう座ってなよ。俺、本戻してくるから」

椅子を向けてあげると、「ありがとう。ごめんね」と素直に腰掛けてくれた。カウンターの椅子はキャスター付きだから、少しは楽だといいけれど。

――保健室に行くように言おうかな。

本を書架に戻しながら考える。

保健室には湿布があるはずだ。当番の仕事は最初のラッシュが終わって落ち着いている。サボるわけじゃないし、いざとなれば雪見さんが手伝ってくれるだろう。

「せーんぱい」
「景先輩。こんにちは」
「ん」

今回はすぐに分かった。一年生の図書委員コンビだ。たしか名前は……。

「こっちが絵島で、背が高い方が見浦」
「そうでーす」
「お当番、ご苦労さまでーす」

この子たちの楽しげな押しの強さにもだいぶ慣れてきた気がする。

「先輩、やっぱりやさしいですね」
「委員長、具合悪いんですか?」

カウンターの中の俺たちを見ていたらしい。俺を冷やかしつつもしぃちゃんに向けたふたりの表情は真面目で、心配しているのは本心のようだ。賑やかなだけじゃなく、やさしいところもあるらしい。

「首を痛めてるんだよ。本人は大丈夫って言ってるけど、動くとだいぶ痛そうだよ」

俺が言うと、ふたりは「痛いの嫌だよね」と顔を見合わせた。と、すぐに俺に笑いかけて。

「でも、景先輩がついてるから」
「ね?」

そしてまた、ふたりでうなずき合う。

「俺がついてても、痛いものは痛いよ」
「でも、心は癒されます」
「景先輩、やさしいから」
「ほめてくれてありがとう」

どうしても俺をからかいたいようだけれど、今日は受け流せる心の余裕がある。

それにしても、最近、「やさしい」と言われる回数が増えた気がする。俺自身は特別に変わったわけではないのに。

「委員長にお見舞い言ってこようか」
「そだね。お手伝いしてもいいし」

ふたりがうなずき合う。しぃちゃんが後輩に慕われていることで、胸の中がほんのり温かくなる。

「あ、ちょっと待って」

歩き出そうとしたふたりを呼び止めた。実は、この前から少しばかり気になっていたことがあるのだ。

「『委員長』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んであげてくれるかな?」

思いがけない内容だったらしい。ふたりは目をぱちくりさせて俺の顔を見上げた。

それはそうだろう。「委員長」という呼び方は当たり前に使われている。そして、ふたりはこの言葉を使うことには何の悪意もない。それにあの日、俺もみんなの前ではっきりと、しぃちゃんを「委員長」と言ったのだ。なのに今度は名前で呼べなんて。

「ごめんな。そんなにたいしたことじゃないんだけど」

そうだ。たいしたことじゃない。それでも。

俺はしぃちゃんが傷付いたという事実を忘れられない。俺のせいで傷付いてしまったことを。彼女は今でも否定するだろうけれど。

「細かいこと言ってごめん」
「いいえ、そんなことないです。たしかに、『委員長』って固有名詞じゃないですもんね」
「うんうん。何て呼ぶ? 『大鷹先輩』?」
「そうだねえ……、訊いてみようか」
「うん、そうしよ!」

カウンターに向かう背中を見ながら、素直に受け入れてくれてありがたいと思った。俺の中の漠然とした理由を上手く説明できそうにないから。

ひと通り本を戻してカウンターに戻ると、さっきのふたりがカウンターの両脇に立ってしぃちゃんと話していた。人が来ると声かけをして、しぃちゃんの手伝いをしているらしい。

新たな返却本をかごに移しながら、ふたりがしぃちゃんを「紫蘭先輩」と呼ぶのを聞いた。本の話で盛り上がっている彼女たちの間に変な遠慮は感じられない。本が好きな者同士の楽しい雰囲気がほんわりと漂っているだけ。

「あ、そう言えば」

少し前の出来事を思い出した。

「バレー部の一年に、高砂の話をしなかった?」

一瞬きょとんとした見浦と絵島が「ああ!」とうなずいた。

「しました。面白い先輩がいるよね? って言ったら通じなくて」
「高砂先輩、全然笑わないって言うから、そんなはずないよって言いました。そうですよね? オモシロいこといっぱい言って、電車の中で笑いが止まらなかったんですよ?」
「あのときあたしたち、礼央先輩にあいさつしたんです。景先輩のお友だちだから。そしたら一緒にいた高砂先輩がたくさんおしゃべりしてくれて」
「そうそう」

その情景が目に見えるようだ。

「なのに男子が高砂先輩は笑わないって言うから、あんたたちが何か失礼なことしたんでしょって言ったんです」
「もしかして、何か困ったことになったりしました?」
「いや。揉めたりはしてないよ。この前、一年生が俺のところに相談に来たから」

ふたりが顔を見合わせる。そしてうなずいた。

「やっぱり景先輩なんだ」
「うん。そうなんだね」
「何が?」

俺の名前が突然出て不安になる。しぃちゃんがにっこりした意味もよくわからないし。

「景ちゃんのところに相談に行ったこと、だよね?」

しぃちゃんの言葉にふたりが大きくうなずく。

「特別な意味なんかないよ。俺が副部長だからだよ」
「そうじゃありません」
「それだけじゃないと思います」

見浦と絵島が妙にきっぱり言いきる。

「じゃあ、怖くないからだろ」

自分で言うのもなんだけど、俺には誰かを怖がらせる要素はまったくない。それが必要な場合でも出てこない。中学時代は部活でよく「闘志がない」と言われたものだ。自分でもそうかも知れないと思う。

「まあ、それはそうですけど」
「景先輩はそれだけじゃなくて、ちゃんと受け止めてくれるっていうか」
「ちゃんと考えてくれそうっていうか」
「そうです。安心して相談できる雰囲気」

まあ、それはあるかも知れない。とは言っても、解決できるかどうかとなると話は別だ。けれど、三人はまるで安心感さえあれば十分みたいな顔でにこにこしている。

こんなに全面的に俺を肯定してくれるなんて、三人は何か大きな勘違いをしているのではないだろうか。戸惑いしか湧いてこないし、背中がむずむずする。

で、返却本第二弾をかごに入れ、その場を離れることにした。



「今日はありがとう」

閉館後、教室へと階段を上りながらしぃちゃんがお礼を言ってくれた。首のことをほんの少し気遣っただけなのに。

「いつもと同じことしかしてないよ。あ、そうだ」

今ごろ思い出しても遅いけれど。

「保健室に行ったらって言おうと思ったんだった。すっかり忘れてたよ。湿布もらえると思うよ?」
「ありがとう。でも大丈夫」

また「大丈夫」って言った。動いた拍子に「いたたたた……」と首を押さえて。

「首の湿布って目立つんだもん」
「恥ずかしいってこと? 痛いのに」
「見た目もそうだけど、みんな気を使って『どうしたの?』って訊いてくれるでしょ? そうしたら、原因を説明しなくちゃならないでしょ? 単なる前転だよ? どれだけ不器用なのかって、自分でもあきれちゃうもん。もう少し難しい技ならまだしも、前転じゃあ……」

なるほど。前転が原因というところが彼女なりにショックなのか。

「足首の捻挫なら恥ずかしくないのに」

そう言ってため息をつき、また「いたた」と首に手を当てる。痛いだけじゃなく、気分も落ち込んでいるようだ。

「足首だったら、この階段は俺がおぶってあげるんだけどなあ。治るまで、朝と帰り、毎日」
「え? ほんとう?」

ぱっと顔を上げた彼女が「うっ、いたっ」と顔をしかめた。でも、すぐに瞳が楽しげにきらめいて。

「じゃあ、次は頑張って足首の捻挫にする」
「いいよ。いつでもどうぞ」
「背が高いから、おんぶされたら景色が変わるよね、きっと」

彼女は冗談だと思っているだろうけれど、俺は半分は本気でやってもいいと思っている。と言っても、たぶん断られるだろうな。

「で、景ちゃんが捻挫したら、あたしがおんぶする」
「え? いや、それはいいよ」
「遠慮しないで。あたし、景ちゃんが思ってるよりも力持ちかもよ?」
「そうかなあ?」

こんなふうに言い合えることがとても楽しい。

「ただね、」

と、にやりとしたしぃちゃん。

「景ちゃんは背が高いから、床に足を引きずっちゃうかも知れない」

その途端、赤いマントを床に引きずって歩く王さまの絵が頭に浮かんだ。そして、肩にしがみついた俺を引きずって階段を上るしぃちゃんの姿が。

「教室に着くのが三時間目くらいになりそうだなあ」
「上りはいいけど下りはかなり危ないね」

こんなくだらない話を楽しく話せるってことは、やっぱりしぃちゃんと俺は上手くいくんじゃないだろうか。

もうすぐ礼央とくぅちゃんが会う日だ。付き添いの俺たちも、一歩進めるかも?



「ねえねえ、次はなんだろう? 何だと思う?」

礼央が目を輝かせて俺たちを追い越して行く。そのうきうきした表情と足取りは、礼央の弟の太河にそっくりだ。

しぃちゃんとくぅちゃん、そして礼央と俺の四人が集まったのは6月の最初の日曜日。しぃちゃんたちが訪問先に選んだのは動物園。

今、四人の中で一番はしゃいでいるのは礼央だ。朝まではそれほど動物に興味はなさそうだったのに、入園して最初にオオアリクイを目にした途端、豹変した。

「なにこれ?! しっぽが箒みたい!」

そう言ったきり、目を丸くして見入ってしまったのだ。そこから礼央のスイッチが入った。

どの動物も礼央には驚くべき存在で、魅力的に映るらしい。それぞれの解説を丹念に読み、うっとりと見つめている。中でも大型のネコ科動物と猛禽類が気に入ったらしく、「さわりたい~!」とガラスごしに残念がった。

そろそろ梅雨入りかという空は厚い雲で覆われていて、気温はさほどではない割に蒸し暑い。四人とも折り畳み傘を持ち物に加え、朝のあいさつは「とりあえず、降らなくてよかったね」だった。

くぅちゃんは今回も男の子みたいな服装で来た。前回と同じように黒いキャップにジーンズ、違うのはシャツが淡いグリーンということくらい。しぃちゃんは白いワンピースに薄い色のジーンズを合わせ、清楚で可愛らしい。

待ち合わせた駅で、明るい表情で「礼央!」と手を振ったくぅちゃんは、友だちとの久しぶりの再会を喜ぶ姿そのもの。それを見た礼央は嬉しそうでもあり、照れくさそうでもあり、困惑気味でもあり……、複雑な表情を浮かべた。まあ、私服のしぃちゃんとあいさつを交わしたときの俺もきっと同じだな。

バスに乗って動物園に到着すると、駐車場はかなり埋まっていた。入り口からも家族連れやカップルがどんどん入っていく。

混んでいるかと覚悟したが、中に入ってみるとそれほどではなかった。敷地が広大なので、来園者がばらけてしまうらしい。子ども時代にこの動物園に来た思い出が、動物ではなく、たくさん歩いた、という印象だけだったことに今さらながら納得した。礼央がそこそこはしゃいでいてもあんまり恥ずかしくない。

「フクロウだ! めっちゃカワイイよ!」

礼央が大きなケージの前で振り返って呼んでいる。くぅちゃんがどちらかというと礼央を笑いながら走り寄って隣に並んだ。一緒にケージをのぞき込んでいる後ろ姿が微笑ましい。

そこにぶらぶら歩いて近付いていく俺の隣には穏やかに微笑むしぃちゃんがいる。

ああ、なんて完璧なシチュエーション!

このまま一日が無事に終わったら、別れ際に俺の気持ちを伝えちゃったりできるかも。そうしたら、これからはふたりで出かけることもできるし、学校で話すときだってもっと……うわ、ドキドキする!

でも、考えてみたら今だってチャンスかな。礼央とくぅちゃんは俺たちのことなど気にしていない。何を話しても――。

「あ、あの花」

しぃちゃんの声。視線は植え込みの下のあたりに向いている。

「どれ?」
「あの細い葉っぱの中に咲いてる紫色の」

たしかに細い葉っぱがわさわさと茂ったところから何本もの細い茎が伸び、五センチくらいの赤紫色の花が数個ずつついている。

「あれ、あたしたちの花」
「しぃちゃんたちの?」
「そう。シランっていう名前の花。で、別名がコウラン。漢字があたしたちと同じ、紫の蘭と紅色(べにいろ)の蘭なの」
「へぇ。しぃちゃんとくぅちゃんって同じ花の名前なんだ?」

アピールするような豪華さはないけれど、濃い緑色の葉の中に花の赤紫がよく映えて、とても目を引く。じっくり見ていても飽きない不思議な魅力がある。

「地味な花でしょう?」

そう言ったしぃちゃんの横顔にはっとした。なぜか淋しそうに見えて。

「地味っていうのとはちょっと違うかな。何か、強さを感じる」
「強さ?」

見上げた彼女にうなずく。

「うん。自分はここにいるって……静かに主張してる感じ?」
「静かに主張……」

つぶやいて、しぃちゃんが視線を花に戻した。

「でも、俺が思ってたのとは違うな」
「え?」

彼女の視線が戻って来る。

「俺、しぃちゃんを見たとき別な花を思い浮かべた。菖蒲(しょうぶ)の花」
「菖蒲?」
「そう。アヤメと似てるやつ。本当の名前は花菖蒲らしいけど。うちのじいちゃんちに咲くんだ。俺の好きな花――」

――しまった!

好きな花に似てるなんて言ってしまった。引かれちゃったら……いや、大丈夫みたいだ。不思議そうな顔はしているけれど。

さっさと話を進めてしまおう。恥ずかしいし。

「しぃちゃんの姿勢のよさが似てるなあって。きれいな立ち姿でさ、こう……凛としてて」
「あ……りがとう」

面食らった表情をされてしまった。あんまり嬉しくなかったのかな。

褒めるところが間違っていたのかも知れない。やっぱりダメだな、俺は。……でも?

「びっくりしっちゃったな」

彼女が笑い出した。くすくすと楽しそうに。

「自分が何かの花に似てるって言われるなんて思ってもみなかった。そんなひとがいるなんて。それに、景ちゃんが花の名前を知ってることが意外」
「ああ、そこね」

自分が花に――という部分は触れないことにする。そんなことを語らせる必要はない。

「うちのじいちゃんち、庭に池があってさ、和風の庭になってるんだ。そこに生えてる」
「和風庭園……」
「あ、もしかして京都の寺みたいなの想像してる? 違う違う、普通の家の庭より少し広い程度だから。じいちゃんち農家でさ、家の敷地は広そうでも半分以上は作業とか車置いたりで使ってるし。その端っこに池と築山がある感じ」
「へえ……」

しぃちゃんが曖昧にうなずく。見たことがないと、よく分からないだろう。

ドラマなどでは庭に池があるのは金持ちの家と決まっていて、そういうのは手入れが行き届いている。けれど、じいちゃんちの庭は古くて、まさにただ“ある”というだけ。

地面は土がむき出しのところがほとんどで、大きな石と植え込みがちょっとある程度。子どものころ、俺と諒はじいちゃんちに行くたびに、二メートルくらいに盛られた築山の石と木の間を登ったり降りたりして遊んだ。乾いた土で埃だらけになるし、池に足を入れてしまったことだってある。

「ねえ?」

いつの間にか思い出に浸っていた耳にしぃちゃんの声が聞こえた。

「くぅちゃんはどんな花を思い浮かべる?」

彼女の瞳が楽し気にきらめく。俺が花菖蒲以外の花を知っているのか試しているのかも知れない。

「そうだなあ……」

礼央と並んでにこにこしているくぅちゃんを確認してみる。彼女のイメージは?

一重(ひとえ)のバラかな」
「バラ? 一重の?」

しぃちゃんが意外そうな顔をした。

「うん。色は白……じゃなくて赤かピンクかな。最初の印象ほどクールじゃないから」
「景ちゃん、意外と知ってるんだね。バラって言ったら、一般的に思うのは花屋さんで売ってる花びらが重なってる方なのに」
「ああ、うちに咲いてるからね」

すぐに種明かしをしてしまう。

「うちの母親がバラを育てるのが趣味でさ。だからバラだけはたくさん見てるよ。個別の名前はよく分からないけどね」
「そうなんだ……? バラがたくさんあるお家なんて、なんだか素敵」
「そう? じゃあ、そのうち見においでよ」

――と。

また口が滑った! 家に遊びに来いだなんて!

「うん……、そうね、機会があれば」

これはたぶん困っている笑顔だ。そんなに仲良くしてるつもりはなかったんだ。ああ、失敗した!

「い、いちごが遊びに来たときには、よくお土産にあげるんだよ」

これでどうか、バラを見に来るのは何でもないことだと思ってくれますように!

「お土産に? バラを?」
「うん。だって、たいてい大量に咲いてるんだもん。そんなに大きな庭じゃないのにさ」

彼女が感心した様子でうなずいた。どうにか納得してくれたようでよかった。

でも……。

この様子だと、俺の気持ちを伝えるのはまだ早いかな……。




「あー……、動物園がこんなに楽しいなんて思わなかったー……」

空になったトレイの乗ったピクニックテーブルで、礼央が大きな伸びをした。雨は降らずに午前が過ぎ、今は昼ご飯の休憩中。

隣で頬杖をついたくぅちゃんが、そんな礼央にからかうように声をかける。

「最初は馬鹿にしてたくせに」
「ごめん。反省してます」

素直に頭を下げる礼央を三人の笑い声が取り囲んだ。

「お土産欲しいなあ。ぬいぐるみ」

つぶやいた礼央に「太河に?」と尋ねると「え? あ、そうか」としゃっきりした。考えていたのは自分用だったようだ。

ペットボトルを買いに行くとことわって立ち上がると、礼央が一緒についてきた。売店でぬいぐるみを見つけた礼央のテンションがまた上がり、つい俺も足を止めてしまう。

思ったよりも時間が経ったらしく、園内マップを持ったくぅちゃんが「遅いよ!」とやって来た。謝る俺たちと一緒に店を出ながら「こっちの売店にぬいぐるみがたくさんあるらしいよ」とマップを指し示す。

「だから、これからこの道を行って……」
「あれ? 礼央くん!」
「わあ、ほんとだ! 景ちゃんも」

いきなり名前が呼ばれた。あっという間に駆け寄ってきた女子数人。見覚えのある顔はうちのクラスの――。

「あ、このみちゃんたち……」

道中(みちなか)このみと元山(もとやま)泉美(いずみ)。あとのふたりは俺は知らないが、顔の広い礼央は名前も知っているらしい。いかにも道中たちの友だちという雰囲気の、賑やかで、おしゃれにも気を配っていますというメンバーがそろっている。

俺の苦手なタイプ……と思いながら不安で体温が下がった気がした。

しぃちゃんたちと一緒に来ていることを知られるのはまずいのではないだろうか。特に道中と元山はくぅちゃんに会わせてもらえないことに陰で文句を言っていたし、もしかしたらあとのふたりも、あのとき一緒にいた相手かも知れない……などと考えている間にくぅちゃんは静かに離れていった。

大丈夫だろうか。このまま切り抜けられるのか?

そっと礼央の様子をうかがうと、めずらしく緊張した顔をしている……。



「偶然だよねー、こんなところで会うなんてー」

嬉しそうにはしゃぐ女子たちに、礼央が「そうだね」と笑顔で調子を合わせる。俺もなんとか笑顔をつくって、こくこくとうなずいてみせた。

――どうかしぃちゃんたちが見つかりませんように。

見つかる前に隠れたほうがいいよ、と伝えたいけれど、少し先のテーブルでパンフレットに見入っているしぃちゃんは気付いていない。くぅちゃんは俺たちをはさんで彼女の反対側だ。

「バレー部で来たの? あれ? もうひとりいたよね?」
「ええと、いや、バレー部じゃないよ」
「そうなんだ? 誰?」

俺たちが言葉を濁している周りで、四人がきょろきょろする。一緒に行動しようとでも言うつもりなのだろうか? くぅちゃんは隠れたのか?

恐る恐る振り向くと、売店の棚をながめているくぅちゃんの背中が見えた。もしかしたら、俺たちの横をすり抜けてしぃちゃんのところに戻ろうと様子をうかがっていたのかも知れない。

「うちの学校のひと? 脚長いね」
「同じ学年? こんにちはー」
「よかったら午後は一緒にまわらない? たくさんの方が楽しいと思うけど」

彼女たちは間違いなく、俺たちが男同士で来たと思っている。

「ああ、うちの学校の生徒じゃないんだ。久しぶりに会ったからできれば――」

礼央があわてて説明するけれど、四人の視線はくぅちゃんに向いたままだ。

くぅちゃんはこちらの気配で、このままでは済まないと思ったらしい。キャップのつばに手をかけ、うつむき加減に振り向いて会釈した。それを隠すように礼央が「あのさあ」と、間に割り込む。

「え?! もしかして?!」

元山が叫ぶような声をあげた。その勢いで礼央を押し退け、一気にくぅちゃんに迫る。

Kuran(クラン)ちゃん?! Kuranちゃんだよね?!」

「えっ?!」という声が残った三人からあがる。通りかかったひとたちが何事かと視線を向けた。向こうのテーブルでしぃちゃんがはっと顔を上げたのも見えた。

あっという間に四人は俺たちから離れ、黄色い声をあげてくぅちゃんを取り囲んだ。

「Kuranちゃん! すごい! 本物!」
「カッコいい! いつも応援してるよ~」
「男の子かと思った! でもすごいカワイイ!」

仕事で慣れているのだろうか。くぅちゃんが屈託のない笑顔で話を合わせているのはさすがだ。

振り返ると、しぃちゃんが慌てた様子でテーブルの上を片付けている。俺はその姿をおろおろした気分で見ているだけで、どうすべきなのか決められないし、彼女がどうするつもりなのかも分からない。

――どうしたらこのハプニングをやり過ごせる?

あの子たちはくぅちゃんに会って満足したら、いなくなってくれるのか? それともますます「一緒に」と言われる? しぃちゃんはどうなる?

ああ、何もかもごちゃごちゃだ!

「でも、どうして礼央くんたちと一緒にいるの?」

耳に飛び込んできた質問。一番訊かれたくなかったやつだ。

俺と礼央が覚悟を決める前に、女子たちがさっとあたりを見回した。そして。

「紫蘭」

道中が鋭い声で呼びかけた。その視線を追って、あとの三人も近付いてくるしぃちゃんを見つけた。しぃちゃんは微笑みを返したけれど、その笑顔が普段よりも弱々しく見えるのは思い違いじゃないと思う

「偶然だね。四人で来たの?」

しぃちゃんも、四人とも顔見知りらしい。

「まあね。紫蘭たちも四人で?」

元山の声の調子に胃のあたりがざわりとした。そう言えば、さっきまで聞こえていたほかの三人の声が消えている。

一、二秒の間のあと、しぃちゃんが「うん」と小さくうなずいた。

「へえ。あたしたちとはいつも日程が会わなかったのにね?」

しぃちゃんに向けられたわざとらしい表情と言葉が俺の胸にも突き刺さる。

元山を取り巻く三人は多少の戸惑いを見せつつも、しぃちゃんに向ける視線は責めるような色をたたえている。

「あ……、ごめんね」

しぃちゃんがうつむいてしまう。

――どうしよう?

女子たちの尊大で不機嫌な態度が怖い。不安で息苦しさも感じる。

こんなふうに怖じ気づいている自分が情けないけれど、何を言っても反撃されそうだし……。

「あ、あのさ」

礼央が軽い口調と笑顔で割って入った。

「これは、俺から頼んだんだよ。しぃちゃんは仕方なく――」
「へえ、そうなんだ?」

元山が勝ち誇ったような顔をしぃちゃんに向けた。説明した礼央ではなく。

「男子の頼みだったらきいてあげるんだね。なんかさあ、下心見え見え」

ぱっとしぃちゃんが顔を上げた。そこに広がっているのは驚愕の表情。

「べつに男子とか女子とかは――」
「関係あるでしょ? あたしたちが何度頼んでも会わせてくれなかったのに、礼央くんはOKなんだから」

しぃちゃんの言葉は最後まで聞いてもらえなかった。口を封じられたようなしぃちゃんに、ほかの三人も厳しい目を向ける。

「そうだよねぇ。あたしたちにはいつも『都合が悪い』って即答で」
「毎回じゃ、嘘だって分かるよね?」
「そうそう。あたしたちのこと、馬鹿にしてる証拠」
「適当にあしらっておけばいいやって思ってるよね?」
「あの……そういう言い方、やめようよ」

ようやく声を出せた。心臓がバクバクして汗が噴きだしてくるけれど、これではあまりにもしぃちゃんがかわいそうだ。

「もともとは偶然で――」
「景ちゃんも礼央くんもやさしいからね」

強い視線と声が今度は俺に向けられる。思わず“怖い”と思って、言葉が止まってしまう。

「紫蘭の真面目そうな雰囲気に騙されてるんだよ。『あたしは男の子に興味ありません』って顔して、こっそり(こび)売ってんじゃん。あたしたちよりよっぽどしたたか」

勢いに飲まれてしまった俺の前で、名前の分からない女子が元山の腕にそっと手をかけた。ちらりと周囲に向けた視線の様子では、もうこの辺でやめた方がいいと思ってくれたようだ。通りかかる人たちがさり気なく俺たちを見ているから。

元山は一瞬、その子に怒った目を向けたものの、すぐに力を抜いてうなずいた。少しは言い過ぎたと思ってくれただろうか。

礼央と俺に気まずそうにうなずいて、四人は足早に去っていった。

「……ごめんね」

しぃちゃんの声。弱々しい、悲しげな声だ。

「あたしがもっとみんなと上手に付き合えてたら……」
「しぃちゃんのせいじゃないよ」

これだけはちゃんと言わなくちゃ。さっきは何の助けにもならなかったのだから、今は。

「向こうだって、くぅちゃんに会いたくてしぃちゃんを利用しようとしたんだろ? それを断ったからって、文句を言われる筋合いはないよ」

言いたいことはほかにあるような気がするのに、言葉にできたのはこんな分かり切ったことだけ。

後ろから「しぃちゃん」と声がして、くぅちゃんがしぃちゃんの前に進み出た。

きらきらと光る瞳とその決然とした表情は見覚えがある。初めて会ったあの日、それは礼央に向けられていた……。

「どうしてあんなこと言われて黙ってるの? しぃちゃんは悪くなんかないよね? ボクを守ってくれてたんでしょ?」

――やっぱり怒ってるみたいだ……。

だけど、その対象はしぃちゃん? さっきの女子たちじゃなくて?

驚いているのは礼央も同じらしい。呆気にとられた様子でくぅちゃんを見ている。

「正しいことならちゃんと言い返してよ。男子に媚売ってるなんて言われて黙ってるしぃちゃんなんて嫌だ。ボクのために我慢なんかしてほしくない。ボクは覚悟できてるんだから。間違ったこと言われてるのに怒りもしないで謝るだけのしぃちゃんなんか見たくないよ」

息継ぎで、くぅちゃんの言葉が途切れた。

我に返った礼央と視線を交わす。お互いにいい考えが浮かんでいないことが判明し、急いで考えなくちゃと思ったそのとき、礼央の腕をくぅちゃんがつかんだ。

「行こう、礼央」
「え?」

展開について行けずにあわてる礼央。その腕を、くぅちゃんが「早く」と引っ張る。

転びそうになって向きを変えながら、礼央が俺に向かってうなずいた。俺も心の中で「分かった」とうなずく。礼央はくぅちゃん、俺はしぃちゃん。ふたりが落ち着くまで話さなくちゃ。

園路を曲がってふたりが見えなくなり振り向くと、しぃちゃんはうつむいて肩を落としていた。力なく下がった腕の下でワンピースの輝くような白さが悲しい。

「ごめん、景ちゃん」
「俺に謝る必要なんてないよ」

少し先のベンチに彼女を誘導する。そのあいだも彼女は顔を上げなかった。

「気にしないほうがいいよ」

ベンチに落ち着いてからそっと伝えた。けれど、しぃちゃんはうつむいたまま動かない。

「元山たちはしぃちゃんを傷付けようとして、わざと酷い言い方をしてるんだから」

そう。あれは悪意で捻じ曲げられた言葉だ。

言葉は怖い。ひとつの事実をどんなふうにでも表現することができる。あるときは大袈裟に。あるときは裏の意味を滲ませて。

傷付けることも、怖がらせることも、疑惑を植え付けることも可能だ。

「ん……、そうかも知れないけど」

しぃちゃんがつぶやくように言った。

「やっぱりあたし、ダメなんだよね。いくら頑張っても、ちゃんとみんなに馴染めなくて。だからあんなふうに言いたくなるんだと思う」

深い深いため息をついてから、ようやく彼女が俺を見てくれた。そこに浮かんだ微笑みは、穏やかなのに空っぽに見える。

「ごめんね、変なことに巻き込んじゃって。景ちゃんも礼央くんも、……くぅちゃんだって悪くないし、関係ないのにね」

もう一つため息をついて、視線を遠くに向けた。

「あたしがダメで、弱虫なだけなんだ。結局、自分のことしか考えてないんだよ。ほんと、やなヤツ。なのに男の子と出かけるなんて、図々しいよね、ふふふ」

苦々しく笑うしぃちゃんを見ていると胸が痛くなる。

頭に浮かぶ励ましの言葉は彼女を癒すには不十分な気がして、片っ端から却下している――。




頭の中を整理するために深呼吸をしてみる。脳にたくさん酸素を送って、しっかり働いてもらわないと。

とにかく何か言わなければ始まらない。

「しぃちゃんはダメじゃないよ」

沈黙があまり長くならないうちに声を出す。安っぽくても不十分でも、黙っていたら何も伝わらない。

「それに、関係なくなんかないよ。友達だし、仲間だもん。関係ないわけないじゃん」

大丈夫だ。しっかりしゃべれている。これならどうにか行けそうだ。

彼女が言ったことは間違っていると、しっかりと伝えなければ。

「しぃちゃんは俺が困ってるときにちゃんと助けてくれたよ? だから、自分を嫌なヤツだなんて言っちゃダメだよ」
「……うん。ありがとう」

ありがとうと言っていながら、しぃちゃんが俺と距離をとっているように感じる。並んで歩いていたさっきまでと、実際の距離は変わらないのに。俺の言葉がブロックされているようでもどかしい。

「それにさ」

負けちゃダメだ。しぃちゃんの心のドアが閉じてしまったら簡単には開けられない気がする。

「元山たちって、俺も苦手だよ。ああいうタイプと馴染めないのはしぃちゃんだけじゃなくて、俺も同じだよ。気にする必要ないって」
「景ちゃんは男の子だから……、あたしとは違うよ」
「それは……」

言葉に詰まってしまった。性別を、理解できない理由に挙げられると反論のしようがない。

彼女が顔を上げた。そこに浮かんだ微笑みは弱々しくて、まるで何もかもあきらめてしまったように見える。

「泉美たちは普通だよ? 仲良くしてる子たくさんいるし、いつも楽しそうで、一緒にいると盛り上がるし、みんな泉美たちといるの好きだもん。だけど、あたしは……上手くいかない」

ふっと息をついて、彼女は視線をはずしてしまう。

「あの子たちとだけじゃないんだよね。ほかのひとと話しててもしょっちゅう感じる。その場の雰囲気を壊しちゃったり、受け答えが普通の枠からはみ出しちゃったりして、周りが困っちゃうこと、よくあるの。またやっちゃったなあって思うんだけど、ちっとも直らなくて……」

またため息。

「要するに、あたしが変だってこと。だから、話に相槌を打つだけにするとか、当たり障りのないことを答えるとか気を付けていたんだけど……。そうやって話を合わせてることが、馬鹿にしてるって思われちゃったのかもね」
「話を合わせることなんて、誰でもするよ」
「でも、あたしはそれが下手だったってこと。やっぱり普通の範囲には入れていない」
「それは……」
「そんなあたしが男の子と出かけたりしちゃいけなかったんだよね……」
「そんなこと……」

その理屈は絶対におかしい。

「たしかにしぃちゃんはほかの女子たちとは違うかも知れない。違うかも知れないけど、だからって“変”だなんてことにはならないよね? それに、なんで男と仲良くなっちゃいけないんだよ? そのルール、相手にも適用されるの?」
「それは……」
「俺や礼央が誰と仲良くなるかは、俺たちが自分で判断することだよ。周りがどう思うかなんて、それこそ関係ないじゃん」

彼女は反論できないのだろう。唇をきゅっと結んで黙ってしまった。

「しぃちゃんは変じゃないよ。いちごだってしぃちゃんのこと、ちゃんと認めてるよ? 礼央も、しぃちゃんが変だなんて思ってないし」

そう言えば……。

しぃちゃんは、女子に苦手意識のある俺が異例のスピードで仲良くなれた女の子だ。いちごのお陰もあるとしても、だ。それはつまり、彼女が一般的な女子とは違うということを示していると言えなくもない。

だとしても。

それは断じて悪いことではない。しぃちゃんがしぃちゃんであることに意味があるということだ。

そうだ。それを伝えないと。

「俺だって――今のしぃちゃんのこと、いいと思ってる。ほかの女子とは違うからこそたくさん話したいって思うんだよ」
「今のあたし……ね」

懸命に伝えたのに、しぃちゃんはなぜかなげやりな表情で「ふふっ」と笑った。

「景ちゃんが見てるのはあたしが創ったあたしだよ」

笑っているのに、向けられた瞳は暗い。

「いつもにこにこして前向きなことを言って。でも、それは単なる自己防衛なの。周りから攻撃されないように、いい子になっていただけ。いい子に見えるように振る舞っていただけ。ほんとうのあたしじゃないの」
「しぃちゃん……、そんなことないよ」

俺の言葉が届いていない。こんなにも俺は無力なのか。

「あたし、弱虫なんだ。みんなに文句言われないようにってことばっかり考えてるの。ずるいんだよね」
「そんなことない。違うよ。そうじゃない」
「景ちゃんは善意のひとだから、創りもののあたしをそのまま信じてくれたんだね。ごめんね」

俺の心は彼女の言葉が間違いだと知っている。けれど、彼女の表情から、俺が何を言っても跳ね返すつもりだと分かってしまう。

どうして俺の言葉を信じてくれないのか。もどかしさで胸が詰まる。

「くぅちゃんは勘違いしちゃったみたいだだけど……」

静かに言ってうつむく彼女。

「優しいんだよね。でも、さっき黙ってたのだって、自分の身を守るためだもん。反論したらもっとたくさん言われると思って怖かったの。くぅちゃんのためじゃないって、あとでちゃんと説明して謝らなきゃ」

そして顔を上げ、にっこりした。

「ね?」

――彼女の扉が閉まってしまった……。

間に合わなかった。俺の言葉では足りなかった。俺では役に立たなかった。

しぃちゃんはすっかり決めてしまった……。

「ごめんね、景ちゃん。せっかく仲良くしてくれたのに、なんか……本物じゃなくて」

肩をすくめて笑う彼女。でも、俺は笑えない。

「しぃちゃん。本物じゃないなんて俺は」
「ということで」

しぃちゃんが素早く立ち上がる。振り返った表情はあまりにもさっぱりしていて。

「あたし、帰るね」
「え?」

膝がまるでばね仕掛けのように伸びた。

「じゃあ俺も」

俺を見上げる瞳は今までと変わらないように見えるのに。

「ごめん。ひとりで帰るから」
「でも」
「ごめんね。その方がいいんだ。少し、ひとりで歩きたいの」
「だけど――」

もし自分だったら……、と頭をかすめた。

もし俺がしぃちゃんの立場だったら、きっと、ひとりになりたいと思うだろう。ひとりになって、いろいろなことを考えて、たくさん考えて。だけど……。

「大丈夫」

しぃちゃんが明るく言った。俺が何を心配しているか、彼女はちゃんと分かっているのだ。聡明な彼女だから。

「気を付けて帰るから。途中で事故に遭ったりしないし、明日はちゃんと学校に行く。帰ったらくぅちゃんと仲直りもする。だから心配しないで。それにね」

いたずらを打ち明けるような上目遣いで微笑む。さっきまでならときめいたであろうこんな表情も、俺に心配させないためだと思うと寂しさを感じるだけ。

「くぅちゃんの荷物、渡してもらいたいんだ。テーブルに置きっぱなしだったから」
「え……」
「これ」

差し出された布製のバッグはたしかにくぅちゃんのものだ。そう言えば、俺たちを売店に迎えに来たくぅちゃんは地図しか持っていなかったかも……。

「お財布もスマホも入ってるの。だから、あたしが持って帰るわけにはいかないんだ。悪いけど、景ちゃんから渡してもらえる?」
「それは……」

礼央に連絡したら、すぐに戻って来るだろうか? でも、くぅちゃんがまだ落ち着いていなかったら気がつかないかも知れない……。

「お願い」

嫌だと言えば、彼女は帰れない。それなら……。

「……そうだね。分かった」

ひとりになりたいという彼女の気持ちを思うと断れない。

「ありがとう」

礼央たちが戻って来ないかと、望みを託して見回してみる。けれど見当たらない。

「じゃあ、あたし行くね。景ちゃん、ほんとうにごめんなさい。礼央くんにもちゃんと謝るから。じゃあ……、明日ね」
「うん……、明日」

ワンピースの裾が翻る。

遠ざかっていくしぃちゃんのうしろ姿にそっと「絶対だよ」と声をかけた。

――明日、絶対に、いつもと同じように笑顔で「おはよう」って言おうね。

彼女は振り返らないまま見えなくなった。

俺の手にはくぅちゃんのバッグ。胸の中には虚しさと不安と……バランスをとるために練り上げた期待。

彼女はきっと気持ちを整理できる。明日にはまた元の関係に戻れるはずだ。閉じてしまった扉もきっと開く。

礼央に連絡するためにスマホを取り出してからベンチに戻った。メッセージには、ここで待っていることだけを書いた。

しぃちゃんが帰ったことはふたりに直接話した方がいい。くぅちゃんの荷物がここにあるのだから、落ち着いたら戻って来るのは間違いない。

ふたりが戻ったら、俺もすぐに帰ろう。急げばどこかでしぃちゃんに追いつくかも知れないし。

それにしても……。

しぃちゃんがあんな悩みを抱えていたなんて。

みんなと違うこと。“普通”からはみ出していること。

悩んで、傷付いていたのだ。ずっと、ひとりで密かに。

悩みが深くて傷付いていたからこそ、俺には――おそらく誰にも――言わなかったのだ。俺もそうだから分かる。本当に深く傷付いたときには礼央にだって話さない。

そんな中で彼女は『五輪書』と出会った。そして、俺が気付かなかった「比べることの無意味さ」というエッセンスをキャッチした。彼女には“みんなと違う”という悩みがあったから。

俺に「比べるのをやめる」と宣言したときは嬉しそうだった。あんなふうにきっぱり言ったのは、自分に言い聞かせるためでもあったのかも知れない。

俺は、そんな彼女の一面しか見ていなかった。

前向きに努力する理由を自分と似たようなものだと思って、彼女を理解したつもりになっていた。もっと深い悩みがあることに気付かなかった。

――やっぱり俺って……甘いのかな。

家族や経済的な心配があるわけじゃない。他人から攻撃されたりもしていない。存在感が薄いことなんて、そう度々問題になるわけではない。礼央やしぃちゃんの状況を考えると、自分は恵まれていると思えてくる。

――あ。俺、今、比べてる。

比べるって……。

劣っていると悲しいのは当然だけど、恵まれているからといって嬉しいとは限らないんだな……。



礼央たちが戻って来たのはそれから十五分ほど経ってから。

俺はしぃちゃんが先に帰ったことだけを告げた。ひとりで考えたいと言っていた、と。

しぃちゃんが帰ったことを知ったくぅちゃんは、また怒り出しそうになった。けれどすぐにため息をつき、「しぃちゃん、頑固だからなあ」とうなだれた。

もう動物園を楽しむ気分ではないし、元山たちにまた会ってしまうのも嫌なので、そのまま帰ることにした。

帰り道で、くぅちゃんはしぃちゃんがひとりで帰ってしまったことを俺たちに何度も謝った。でも、俺も礼央もしぃちゃんを責めるつもりはない。逆に礼央は自分がトラブルの一要因になってしまったと謝っていた。俺だって何も役に立てなかったのだから同じ気持ちだ。

そんな中で事の責任を元山たちに被せたくなるのは仕方ないことではないだろうか。「あそこで会わなければ」「あれは言い過ぎだ」「ほかの誰かだったら」と考えてしまう。けれど、誰も彼女たちの名前を口に出さない。彼女たちに罪をかぶせて文句を言っても意味がないと分かっているから。

起きてしまったことは起きてしまったこと。もう、元に戻すことはできない。

今日のことは問題の一端が明るみに出ただけでもある。根っこの部分はそれぞれの胸に、日々積み重ねられてきたのだ。簡単に解消できるわけがない。

けれど、だからと言って、言いたいことをぶつければいいというものでもないと思う。

俺たちみんな、何かしらを抱えて、自分たちを取り巻く世界と折り合いをつけながら進むしかないのだ。荷物が重くなったら休んだり、誰かと分かち合ったりしながら。俺は礼央やしぃちゃんと、そんなふうに進んで行きたい――。

昼を過ぎたばかりの帰りのバスは空いていて、俺たちは一番後ろに並んで座ることができた。

「しぃちゃん、前は絶対に言い負かされたりしなかったんだよ」

くぅちゃんが静かに言った。

「小学生時代から頭が良かったし、いつも正しいと思うことを論理的に説明して、みんなを納得させることができてた。でも、中学の後半くらいから言い返さなくなった。……ボクが原因で」

うつむくくぅちゃんを礼央が静かに見つめる。

「モデルの活動を始めたころ、人気のあるモデルをふたりでネットで検索してたんだ。最初は楽しかったんだけど、途中でひどい中傷の書き込みをされてるひとを見つけちゃってね、ふたりともびっくりしちゃったの。ひどい言葉がいくつもいくつも並んでた」

想像しただけで胸が苦しくなる。言葉の刃は向けた相手以外も傷付けると、使っているひとは気付いているだろうか。

「しぃちゃんは『こんなの見るのやめよう』って、すぐに画面を閉じちゃった。で、ボクに『くぅちゃんは大丈夫。こんなこと言われないから』って言ってくれたんだけど……、たぶんボクよりもショック受けてたと思う。顔から血の気が引いてて目を見開いて。ボクよりも感受性が強いって小さいころから言われてたし」

くぅちゃんが唇を噛んだ。まるで自分に落ち度があったみたいに。

「しぃちゃんは冗談めかして明るく、自分も気を付けるねって言ったんだ。自分が嫌われて、その攻撃がボクに向かうといけないからって。世間に顔を知られるようになるボクの方が攻撃されやすいからって。そのときはボクも笑って、そうだねって言ったけど……、気がついたら学校でのしぃちゃんが変わってた」

そうか。そんないきさつがあって、くぅちゃんは責任を感じていたんだ……。

礼央がくぅちゃんにかける静かな声を聞きながら、しぃちゃんの言ったことを思い返してみる。

彼女は自分が攻撃されることが怖いと言っていた。反論しないのはくぅちゃんのためではないと。きっと、あとでくぅちゃんにもそう説明するのだろう。

けれど、俺の頭の中ではいろいろなことが蜘蛛の巣状につながっている。それぞれの言い分も、事情も、周囲の誰かも、どこかしらでつながっていて、ある場所で受けた刺激は二次的、三次的に広がっていく。あるいはバラバラにもたらされた刺激が一か所に集まることもある。

因果関係が一対一で終わるものなんて、世の中にはないような気がする。そう。しぃちゃんが言い返さなかった理由だって、きっといろいろなことが絡み合っている。

しぃちゃんの説明をくぅちゃんが受け入れない可能性はある。反論しないこと自体の是非もある。

俺たちはみんな何らかの理由があって、ものを言ったり行動したりする。けれど、それが絶対的に正しいと、世の中のすべてのひとが賛成してくれることってあるのだろうか……。



家に帰るといちごが来ていた。冷房の効いたリビングで、諒と母親と三人で人生ゲームをしていた。

「あれ? 早いね」

三人が異口同音に言った。

俺は家族には友だちと出かけると伝えてあった。でも、いちごはしぃちゃんからもう少し詳しく聞いているはずで、ほぼ間違いなく、諒と母親にも話しただろう。だったら、早く帰ってきたいきさつをここで話しても問題はない。むしろ、学校でのことを考えたら、いちごには知っておいてもらった方がいい。

そう判断して、動物園で元山たちに会ったところから話をした。くぅちゃんがしぃちゃんを責めたことも簡単に。ただ、しぃちゃんが俺に話した内容は黙っていることにした。

「会った相手がまずかったねえ」

早い解散を決めたところまでくると、いちごが苦笑いしながら言った。憤慨もせず、あまり深刻な顔もされなかったことになんだかほっとして、自分で少し驚いた。

「たしかにそうだな。よりによってくぅちゃんと会いたがってた面子だし」
「そこじゃないよ」

否定された意味が分からずいちごを見返すと。

「泉美は礼央くんのこと気に入ってたんだよ。かなり本気だったと思うよ」
「えぇ?! マジで?!」

そんなこと全然気付かなかった。女子はだいたいみんな、礼央と話すときは嬉しそうだから、そんなものだと思っていたのだ。

「だから偶然、礼央くんに会えて、すごく嬉しかったと思うよ。でも、礼央くんは自分に興味がないってことが分かったし、紫蘭が紅蘭ちゃんの姉妹だからって理由で礼央くんと仲良くできてると思って悔しかったんだと思う」
「そんな」

ということは。

「じゃあ……八つ当たり?」
「まあ、そういう意味合いもあるよね」
「なんだよ、それ……」

しぃちゃんは俺たちと一緒にいたくなくなるほどショックを受けたのに。今までの悲しいことを思い出して、傷付いて、自分はダメだなんて落ち込んで。

なのに、元山の恋が上手くいかなかった八つ当たりだなんて。

「景。はい、これ」

諒が俺の前にマグカップを置いた。中身はホットミルクだ。小さいころにお腹が弱かった俺と諒は、今でも牛乳は温めて飲むことが多い。

礼を言った俺に、諒はさわやかに微笑んだ。

「世の中って、口に出した者勝ち、みたいなところ、あるよね」

残念そうに言ったのは母親だ。

「今日のその子みたいにさ、どんどん言っちゃった方が勝ち。言われた方は傷付くだけで、黙っていたら相手に何のダメージも与えられない」
「たしかに」

ネット上で理不尽な情報を流される被害はその最たるものだ。

「でも、景も言い返さないよね、たぶん」

諒に言われてびっくりした。

「景って相手のことも考えるから。好きじゃない相手でも、これを言ったら傷付くだろうと思う言葉は言えないと思うな」
「うーん……、言われてみると、そんな気がする」

ホットミルクを飲みながら考えてみる。

俺はそもそも、ぽんぽんと言葉が出てくる方ではない。でも、腹が立っているときは、言ってやりたい言葉はいくつでも頭に浮かぶ。

ただ、そういうときは逆に口を噤んでしまうのが俺だ。それは、うっかり取り返しのつかない言葉を使ってしまうことが恐いから。

取り返しのつかない言葉。――そう。諒が言うように、相手を傷付けてしまう言葉。

「小学生のときに意地悪言ったこと、今でも思い出すと落ち込むよなあ……」

思わずつぶやくと、いちごが急に「あ、それ、あたしに言ったやつでしょ!」と突っ込んできた。

「景ちゃんに『うるさい』ってずうっと言われ続けたよ」
「は? それは意地悪じゃないだろ? 俺、まったく忘れてたし。むしろいちごに言われたことがグサグサ来ることの方が多かったよ」
「あ! 今ので傷付いた! あたしにデリカシーが足りないみたいな言い方!」

諒と母親が笑って「まあまあ」と割って入った。いちごが本当に怒っているわけじゃないことは全員承知で、少ししんみりしかけた空気が軽くなった。

「あたし、あとで連絡してみるね」

帰り際にいちごが言った。

「景ちゃんから聞いたって言っちゃうからね。知らないふりするの、上手くないから」
「うん。いいよ。俺は……今日はやめておくから」

彼女を信じて明日を待とうと思う。彼女が言ったのだから。「明日ね」って。

明日になったら、きっと、今までと同じ俺たちに戻れるはずだ。一緒に笑い合い、助け合える同志で相棒に。

そう言えば……。

俺、かなり告白っぽいこと言ったんだけどなあ。

有耶無耶になっちゃったなあ……。



月曜日に教室に着くと、いちごと話していたしぃちゃんが「おはよう」と言ってくれた。

それを聞いたとき、ふわっと肩の力が抜けて、自分がどれほど緊張していたかが分かった。

俺もいつものとおり「おはよう」と言い、突進してきた礼央のハグを受け止めた。それから四人で普通におしゃべりをした。

「きのう、景に言い忘れちゃったんだけど」

ふたりになったときに礼央が小声で言った。

「くぅちゃんと俺のこと、質問されたら事実を答えようって決めてあるんだ。だから景も気を使わなくていいからね」
「事実って……」
「ゴールデンウィークに偶然会ったことから、連絡を取りたいって、俺がしぃちゃんに頼んだこと、今は俺もくぅちゃんもいい関係が長く続くといいと思ってること。」
「礼央……」

きっぱりと言い切った礼央がすごくカッコよく見える。

「うん。分かった」

俺としぃちゃんもそんなふうに胸を張って言えるようになりたい。

「実はさあ」

礼央がいつものへらっとした笑顔を見せる。

「きのうの情報がもう出回ってるみたいなんだよね。スマホに知り合いから連絡来てて。『モデルと付き合ってるってマジか?!』って」
「そっか……」

有名人のくぅちゃんの相手は礼央だし、礼央自身が俺よりも顔が広い。そういうことが分かっていて覚悟を決めているのだろう。場合によっては俺も問い詰められる可能性があると考えて、きちんと伝えてくれた礼央のやさしさが胸に沁みた。

驚いたことに、昼休みに道中と元山がきのうの女子たちと一緒に礼央と俺に謝りに来た。

いちごから元山の礼央に対する気持ちを聞いていた俺は、単なるパフォーマンスではないか、なんて勘ぐってしまう。でも、元山だってあんなことの後では礼央の気持ちが自分に向くとは思っていないだろうから、そんな勘ぐりは意地が悪いと自分でも分かっている。

でも、礼央が言っていた「情報が出回っている」原因だって、おそらくこの四人のうちの誰かだ。そんなつもりはなかったかも知れないけれど、今どきのネット状況を知らなかったとは言わせない。ただ、それを問い質すかどうか決めるのは礼央だから、礼央が何も言わないのなら俺もそれには触れないでおく。

微妙な顔で黙っている俺の横で、礼央は、謝る相手は俺たちではなくてしぃちゃんだと指摘した。すると、そちらは既に済ませたと答えが返ってきた。しぃちゃんはどうやら謝罪を受け入れたらしい。まあ、同じクラスにいるのだし、受け入れないという選択肢はないのだろう。

謝られたことできのうの記憶が一気に戻って来て、逆に気分がふさいできてしまった。午後の授業中も、しぃちゃんの後ろ姿がなんとなく淋しそうに見えてしまって仕方がない。

白いワンピースを着てあきらめたような微笑みを浮かべる彼女が頭から離れない。俺は今日、彼女を笑顔にしただろうか……。



木曜日になって、避けられているのかも、と気付いた。もちろん、しぃちゃんに、だ。

彼女は話しかければ笑顔で応じてくれるし、前と変わらず俺を「景ちゃん」と呼んでくれてもいる。ただ、元気がないように感じてはいたのだ。

元気がない理由を、俺は動物園でのこととつながっていると考えていた。そして、時間が経てば元気になるだろうと。

けれど今日、ふと思った。彼女と目が合っていないような気がする――。

月曜日の朝は大丈夫だったと思う。でもその後はどうだったか思い出してみると。

微妙なうつむき加減。

そう。ちらりと俺の顔を見ることはあったけれど、前のようにまっすぐ見上げて話してはくれない。俺と彼女の身長差だと、近い距離で彼女が正面を向いていたら視線は合わないのだ。

念のため二度ほど話しかけてみて、俺の勘違いではないと確信した。あからさまに避けることはしないけれど、彼女の受け答えは短くて会話が広がらない。以前は彼女も思い付いたことを言ってくれて、ふたりで一緒に笑ったのに。

――何かやっちゃったかな……?

不安が胸に広がる。思い当たることはないが、ぼんやりしている俺のことだから、気付かないうちに何かしでかした可能性は否定できない。

落ち着かないけれど、礼央に相談したらくぅちゃんからしぃちゃん本人に伝わりそうだし、そうなったら彼女が気を使うことになりそうだ。それは望んでいない。

――直接訊いてみるか。

タイムリーなことに、明日は放課後の図書委員当番だ。放課後はそれほど混まないから、仕事の合間に話す機会をつくるのは簡単だ。

だけど……。

ちゃんと答えてくれるだろうか。

以前なら聞き出すことができたかも知れない。でも、今の様子だと白を切られそうだ。こうと決めたら決心を曲げなさそうだし……。

「ねえねえ、景ちゃんさあ、紫蘭と何かあった?」

休み時間にいちごがこっそりと尋ねてきた。いちごに心配されるという事態にますます不安が大きくなる。

でも、何か情報を引き出せるかも知れない。ほんの小さなことでも。

「何か……って、動物園のことは話したよな?」
「うん。紫蘭からも聞いたよ、同じこと」
「だよな?」

そう言えば、いちごにはしぃちゃんとふたりで話した部分は言っていなかった――って、あのとき!

「あ、やっぱり何かあった?」

――しまった。

思わず顔に出てしまったようだ。でも、これはいちごには言えない。

「いや、ちょっと別な話を思い出しただけ。しぃちゃんとは関係ないよ」

あのことだろうか? しぃちゃんはあれを気にしているのか? あれで困って、あんな態度を?

――いや、違う。

だって、彼女の態度が変わったのは月曜日より後だ。あれが原因なら月曜日から変わっていたはずだ。だから違う。きっと。……たぶん。

「ホントに? 紫蘭、なんだか景ちゃんの話題に、前みたいに乗って来ないんだけど」
「いちごが俺のことこきおろしてばっかりいるから、もう聞き飽きたんじゃないのか?」
「そんなことないと思うけどなあ。面白い話ばっかりなんだから」
「ちょっと待て。それが原因で俺が嫌われる可能性もあるよな?」
「えぇ? それはないよ。そんな変な話をしたら、幼馴染みのあたしまで変に思われるでしょ」

それはそうだ。しぃちゃんがいちごを避けていないなら……ちょっと待て。

「それほど変な話なんかないだろ!」
「へへっ、どうかな?」

嫌な笑みを浮かべて、いちごは戻って行ってしまった。でも、今の話だと、しぃちゃんが俺への関心を失いつつあるのは間違いない? そんな!

――慌てるな。落ち着いて。

状況を整理しようと席に戻ると、ちょうどしぃちゃんが前方の戸口から教室に入ってきた。自分の席へ――つまり俺の方に歩いてくるあいだ、視線は下がったまま。ちょっと顔を上げてくれれば俺が目に入るのに。

自分の席にたどり着いたしぃちゃんは、くるりと俺に背を向けて座ってしまった。

――さびしい……。

まるで俺を視界に入れたくないみたいだ。以前はちらりと微笑みを向けてくれたこともあったのに。

でも、くよくよしていても始まらない。とにかく、よく思い出してみなくちゃ。

日曜日に動物園に行った。あの四人に会うまでは順調だった、と思う。そしてあの事件。俺はしぃちゃんを庇うことができなかった。

四人がいなくなり、くぅちゃんと礼央が離れたあと、ふたりで話した。しぃちゃんはとても落ち込んでいて、自分はダメだと――努力してもダメだったと言った。みんなと同じになれないから。それと、俺が見ていたのは自己防衛のために創りあげた“いい子”だと。本当の自分は弱虫でずるい、と。

――切なくなるなあ……。

どんな気持ちであんな告白をしたのだろう。自分の弱さを他人に明かすのは、とても勇気が要ることだ。あるいは――希望を捨ててしまったとき?

今の状態の原因が、彼女がこの話をした後悔であるのならまだいい。俺がそれを払拭すればよいのだから。けれど。

原因があのときの俺の言葉だとしたら。

あのとき俺は、自分の気持ちを伝えた。「しぃちゃんのことをいいと思っている」と。「ほかの女子とは違うからたくさん話したいと思う」と。

あれは本当の気持ちだ。あそこで伝えなければならないと感じたから口にした。「付き合ってください」式のはっきりした告白ではないけれど、落ち着いて思い出せば分かるだろう。

そう。“落ち着いて思い出せば”。

月曜日の朝は以前と同じように話ができた。そう感じた。

火曜日は……あいさつはしたと思う。すれ違いざまに言葉も交わしたかも。でも一瞬だったからはっきりしない。いや、あれは水曜日――きのうか?

俺の言葉をあとで思い出した、あるいはあとで意味を悟った。そういう可能性は何パーセントくらいだろうか。

だから警戒されている、と考えるのは無理がないように思える。警戒か、距離を置くことで無言で断っているのかは分からないけれど。

あのとき、俺の言葉は彼女には通じなかったと思った。彼女が元山やくぅちゃんに言われたことで傷付いていたから、そっちの方が重大で気がかりだった。だから、俺の中ではなかったことになっていた。でも……?

考えても分からない。しぃちゃんが何を考えているのか。そして、どうしたいのか。

それなら――訊いてみるしかない。

このままでは俺たちの関係が薄くなって、いつか消えてしまう。それはいつか起こることかも知れないけれど、こんなふうに俺の中に疑問が残っている状態では嫌だ。

彼女の中で何かの決断が為されたのなら、それを聞きたい。

明日、訊こう。放課後の当番のときに。



「しぃちゃん、行こう」

放課後になってすぐに声をかけた。計画したとおりに。

図書委員の当番。俺がもたもたしていたら「先に行くね」と言われそうだし、「用意できた?」などと疑問形で声をかけたら「先に行ってて」と言われそうだ。だから「行こう」という言葉を選んだ。

「あ、うん」

返事は簡単なものだったけれど、拒否はされなかった。礼央に合図して教室を出ながら、後ろに彼女が続いていることを肌がピリピリするくらい感じている。

「今日はどれくらいお客さん来るかなあ?」

能天気を装って声をかけると、「どうだろうね」と答えが返ってきた。視線は足元に向けられて。

階段だから下を見ているのは当然だよ、と、心の中で説明しつつ、こっそり傷付いている。

――やっぱりダメなのかな。

気付かれないようにため息をついた。

しぃちゃんは俺のことが嫌いになったのだろうか。顔もみたくないほど? まるで彼女と俺の間に透明な壁があるみたいだ。

日曜日はこれほどではなかった。扉が閉じてしまったと感じたけれど、それでもまだ彼女は俺と向き合ってくれていた。

「今日はあたしが棚戻しをやるね」

図書館の戸を開けながら彼女は振り返ったけれど、彼女が見たのはたぶん俺の腕だけだろう。

雪見さんの穏やかな笑顔を見たら、なんだか無性に弱音を吐きたくなった。雪見さんならきっと微笑みを浮かべて聞いてくれるに違いない。静かにうなずきながら。そして最後に「大丈夫だよ」と言ってくれるだろう。

――でも……、無理だよな。

雪見さんとふたりで話せるチャンスがない。

やっぱり自分でなんとかしなくちゃ。今はまずは図書委員の仕事だ。心を奮い立たせてカウンターに立つ。

返却箱に入れられた本のバーコードを読み取り、戻す本の場所に置いていく。貸し出し手続き、取り置き予約本の対応、検索の依頼……、今日はお客が多い。ふと見回すと、学習コーナーの机が以前よりも埋まっている。部活を引退した三年生が増えているのかも知れない。

書架の前にしぃちゃんがいた。返却本を入れたかごを持って。高い棚に手を伸ばす姿を見て、俺の背の高さのことで笑って話をしたことを思い出した。図書館にはちゃんと踏み台があるから、背が低くても仕事はできるけれど……。

「あ、いたいた」

近付いてきた声に顔を上げると、2年4組の図書委員、早川(はやかわ)正弥(まさや)だった。

「夏休み用のコーナー作り、来週の昼休みに打ち合わせをやろうと思うんだけど、どうかな?」

夏休み用のコーナー。図書委員のおすすめ本のコーナーのことだ。本の紹介を書かない俺は、コーナーの看板や飾りを作る担当に入っていた。

「昼休みね。OK」

しぃちゃんがおすすめ本を選ぶ手伝いをしたのはいつだっけ。あのときはすごく楽しかった。後になってから、あれは彼女が俺の気分を気遣って声をかけてくれたのではないかと思い至ったのだった。そう思えるくらい、彼女を近く感じた。それが今日は……。

「あ、早川くん」

戻って来たしぃちゃんに、早川は「や」と手を上げた。それににっこりと微笑みを返したしぃちゃんは、いつもと変わりない彼女。

「来週から夏休み用コーナー作りも動き出すよ」
「早川くんは去年も担当だったよね? 斬新な看板、覚えてる」
「今年も目立つの作るからね」
「うん。頼りにしてるよ」

会話が弾んでる。もしかしたら、しぃちゃんの気分が変わったのかも。でなければ、俺のマイナス思考で勝手に不安を増大させていただけだったとか。

期待がそうっと忍び込む。けれど。

そのあと残りの返却本を戻しに行った彼女は、当番終了時間が近付いてもカウンターに戻って来ない。ずっと書架整理をしているのだ。

もちろん、書架整理だってれっきとした図書委員の仕事だ。けれど、カウンターにひとりでいると、放課後の静けさと相まって、思考は悲しい方へと傾いてゆく。

「少し早いけど、もういいよ。あとは僕がやるから」

雪見さんが本が詰まった箱を持ってやって来た。ぼうっとその箱を見ていた俺に気付いて、「新着図書だよ」と教えてくれた。

「新着図書……」

届いたばかりの本。

沈んでいた気持ちの下からわくわくする気持ちが顔を出す。生徒はまだ誰も触っていない本だなんて。

「見る? もう登録済んでるから貸し出しできるけど」
「いいんですか? じゃあ、しぃちゃん呼んできます」

しぃちゃんはきっと見たいはずだ! 新着図書コーナーに並ぶ前の本!

カウンターを出たところで彼女の様子を思い出した。俺が声をかけても喜ばないかも知れない。迷惑そうな顔をされてしまうかも。

だけど。

ここで声をかけなかったら、俺はきっと何日もそのことでくよくよ悩むに決まっている。そんな自分を簡単に想像できる。それと比べたら、今この場で拒否される方がましだ。

「しぃちゃん」

覚悟を決めて、壁際の書架の前にいたしぃちゃんに小声で声をかける。近付く俺を少し驚いたような顔をして彼女が見上げた。何かトラブルがあって呼びに来たのだと思ったのかも知れない。

「雪見さんが新着図書を見てもいいって。まだ箱に入ってるやつ」
「え? 新着図書? ほんとう?」

瞳をきらめかせ、彼女が一歩近づいた。その様子にほっとする。

「うん。登録済んでるから借りられるって」
「わあ、見たい。景ちゃんは? 部活、まだ大丈夫?」

彼女の言葉に心臓がきゅっと反応した。俺のことをちゃんと気遣ってくれた。

「ざっと見るくらいなら大丈夫」

答えると、彼女がにっこりした。

――呼びに来てよかった。

拒否されなかったどころか、とても嬉しそうだ。一緒に見ることも嫌がっていない。

カウンターに戻るとき、彼女がそっと「ありがとう」と言った。そのとき彼女はうつむいていたけれど、ここに来るときとは何かが違う。なんだか……どこかが触れ合っているような気がしてドキドキしてしまった。

いそいそと戻って来た俺たちを微笑んで迎えた雪見さんが、「悪いけど、ついでにブックトラックに出してもらっていいかな?」と言った。こういう丁寧な言葉のかけ方がとても雪見さんらしいと感じる。

俺たちは張り切って「はい」と言い、声が重なったことが少し可笑しくて顔を見合わせた。

新着図書を見ていたのは十分足らずだったと思う。でも、そのあいだにしぃちゃんと俺の関係はかなり修復された。

何度も目が合ったし、もちろん静かにだけど、一緒に笑いもした。ただ、俺は少し警戒して、彼女には近付き過ぎないように気を付けていた。

本を手にとっては目を輝かせる彼女。その一瞬一瞬が俺の心に光を投げかけてくれる。

――もしかしたら、雪見さんは……。

ふと思った。

俺たちの様子がいつもと違うことに気付いていて、この本を見てもいいと言ったのだろうか。一緒に何かをすることで、俺たちが壁を乗り越えられるように。

――そんなはず、ないかな?

離れていたけど、それぞれちゃんと仕事をしていたし。まったく口を利かなかったわけじゃないし。

でも……。

なんとなく、雪見さんなら気がつきそうな気がする。今の雪見さんには俺たちを気にする素振りは微塵もないけれど。

新着図書を堪能した俺たちは、雪見さんにお礼を言って図書館を出た。部活に向かうためしぃちゃんに「じゃあ」と手を上げると、彼女は「うん」とうなずいた。階段の手前で振り返ると彼女はまだそこにいて、無言で手を振ってくれた。

――訊くの忘れちゃったなあ。

部室で着替えながら思い出した。彼女の態度が変わった理由を尋ねようと思っていたのだ。でも、新着図書のお陰で元に戻れた気がするからいいか。

――ほんとうに元に戻れたのかな……。

明日になってみないと、確かとは言えないかも知れない。そう考えると不安になるけれど……。

考え始めるときりがない。だから、今は部活に集中しよう。