彼女は俺の魔法使い


翌朝、教室に着くとしぃちゃんが俺の机に来てくれた。朝の電車で『われはロボット』を読み終わったから話ができる――と思った、のに。

「ねえ、景ちゃん。副部長になったのって、立候補?」

あいさつもそこそこにぶつけられたのは副部長になったことへの質問だった。電話の効果で普通のおしゃべりをしに来てくれたのだと期待したのに、ちょっと力が抜ける。でも、きっとしぃちゃんはこれを確認したくて仕方なかったに違いない。そう思ったら、なんだか可笑しくなってしまった。

「いや、違うよ。先輩たちから指名されたんだ」
「そうなんだ……。前からそういう雰囲気あったの?」
「うーん、それは俺も考えてみたんだけど、何もなかったと思う。部長はなんとなくみんなが予想してたとおりだったけど、副部長候補に俺の名前は挙がってなかったよ。みんなが意外だったと思うな」

彼女がうなずきながら考える。そして。

「でも、引き受けたんだね。やりたいと思ってたとか……?」
「いや。俺よりしっかりしてるヤツ、いくらでもいるし」

答えながら気付いた。彼女は自分に来た主役と俺の副部長を重ね合わせて考えようとしているのではないだろうか。

「最初は断ろうと思ったんだ。でも、コウ……新しい部長が、俺が副部長なら安心して部長をやれそうだって言ってくれたから、そういうの、有り難いなあ、と思って引き受けることにした」
「ふうん……」
「でも、先輩から引き継ぎ受けてみたら、副部長って事務仕事の担当っぽくて、今は意外と俺向きかもなあって思ってる。部長が部員の心をまとめるシンボル的な存在で、俺は裏方」

そう。劇の主役とは重さが全然違う。残念だけど、しぃちゃんの役には立てそうにない。

「裏方?」
「うん。名簿と部費の管理とか、試合のエントリー手続きとか。まあ、マネージャー的な?」
「え、でも、そういうの、面倒がるひともいるでしょ?」
「ああ、そうかもね。でも、俺は気にならないから。むしろ、ほかで役に立たない分、雑用でいいならいくらでもやるし」
「景ちゃん……」

どうしてそんなに驚いてるんだろう? 俺らしくないことでも言ったかな?

と、しぃちゃんがほうっと息をついた。表情も穏やかに変わる。そういえば、向かい合って話すのは久しぶりかも知れない。俺を見上げる彼女の顔の位置がこんなに低いんだって、あらためて実感するくらいだから。

ひとつ瞬きをして、彼女が口を開いた。

「景ちゃんのそういうところ、」
「おっす、景、しぃちゃん」

低い美声と同時に肩に手が。そこにいたのは。

「宗一郎。……おはよ」

思わず「おはよ」に力がこもった。何食わぬ顔をしているけれど、俺としぃちゃんの邪魔をしようという意図があった疑いが濃厚だ。

しぃちゃんは親しみのこもった笑顔であいさつを返している。俺に言いかけた言葉など忘れてしまったようだ。

「おはよう、紫蘭!」

今度はいちごの登場だ。しぃちゃんの笑顔が一気に無邪気で楽しげに変わる。「いぇーい」と言いながらハイタッチをしたりして。

「なんの相談? もしかして、景ちゃんも劇に出たいとか?」
「まさか! そんなつもりは全くないよ」

いちごにははっきりと意思表示しておかないと。曖昧にしておいたら、面白がって俺を推薦しかねない。

「いちごはどうなんだよ? 出ないのか?」
「うーん、どうかなあ?」

本気で考えているらしい。冗談で言ったのに。

「まあ、若葉次第かな」

その言葉にしぃちゃんもうなずいた。

「大和次第? 理久は?」
「キャスティングは若葉が中心になると思うよ。脚本書くときに具体的に誰かを思い浮かべる方が楽って言ってたから、そのひとが指名される可能性が高いんじゃないかな」
「ふうん」

それなら俺は出なくて済みそうだ。大和が存在感の薄い俺を思い浮かべることはないだろう。

「あ、景ちゃん、今、俺は安心って思ったでしょ。目立たない性格だからって」
「たしかに景は他人事って顔してた。気楽なヤツだなあ」

いちごと宗一郎が言い、しぃちゃんがくすくす笑う。

「いいだろ? それに、名前出されてもそもそも無理だし」
「そんなに頑なにならなくてもいいのに。文化祭の劇なんて、ただのお楽しみなんだから」

宗一郎があきれた笑いを残して立ち去ると、いちごもしぃちゃんを連れて行ってしまった。

――いいじゃないか、安心してたって。

机の上に置いたままだったバッグから教科書を出しながら、もやもやした気分が胸に滞っている。最後にちらりと振り返ったしぃちゃんの表情が頭の隅にちらつく。あれは憐み? それとも同情?

――目立たないのは仕方ないよ。

俺が目立たないからといって、誰かが困るわけじゃない。ただ、たまに得をすることがある、というだけ。学校生活全体を通して見ると、淋しさや不安を感じるマイナス面の方が多いのだ。

小学校のころからクラス替えやチーム決め、行事の写真を見たときなど、自分が忘れられていると思い知る場面が何度もあった。その度にあきらめ、少しずつ、自分の中にある<自分>という存在――認識? 自我?――を削ってきた。その結果が今の状態だ。ほとんど注意を向けられない状態が今の俺にとっては当たり前で安心で、注目されることは苦痛。

宗一郎やいちごのように如才ないタイプには、俺の性格は理解できないだろう。「人前で緊張するのは当たり前」「自分だって同じ」――こんな言葉をいろんなひとから言われた。あのふたりだって言うだろう。でも違うのだ。明らかに。

話しても反論されると分かっているから、もう今は、これについて説明はしない。礼央や何人かの友人たちのように分かってくれる友だちがいてくれれば、それで十分だ。たぶん、しぃちゃんも――。

「景! おはよう」
「ああ、礼央。おはよ」

いつも楽しそうな礼央の笑顔だ。こんな気分のときは特にほっとする。

礼央も如才ない性格だけど、宗一郎とは何かが違う。なんていうか……俺を信じて、好きでいてくれているところかな。

「そういえば、きのう、くぅちゃんと話したよ」

礼央の顔を見たら、自然とくぅちゃんを思い出した。

「え、いつ?」
「夜に電話で――」

――しまった!

これを言ったら、俺がしぃちゃんに電話をかけたことがバレてしまう。いや、もしかしたら、くぅちゃんに電話したと勘違いされる? でも、俺がくぅちゃんの連絡先を知らないって礼央は知ってるよな? いや、そんなことじゃなくて。

「景……」

ニヤリとした礼央が肩を寄せて来る。

「景が電話したの? それとも逆?」
「え、あの、くぅちゃんにじゃないよ?」
「分かってるよ、そんなこと」

呆れた様子で礼央が肩をすくめた。たしかに、俺がためらいなくくぅちゃんの名前を出した時点で、礼央に対して後ろめたさがないことは分かるに違いない。

「元気いっぱいだったよ、くぅちゃん」

安心して報告すると、礼央は「だよね」と笑った。

「俺、思ったんだけど……」

余計なお節介かも、と迷う。でも。

「礼央とくぅちゃんは顔を合わせて話す方がいいような気がする。ふたりが話してるところ想像すると、火花がいっぱい散ってるけど、すごく楽しそうだよ」
「それってさあ、めっちゃ気の合う友だちってやつじゃない?」
「あはは、でも、もしかしたら次は違う雰囲気になるかも知れないじゃん」
「うーん……、まあ、いいんだ、火花が散ってても。お互いに本来の自分でいられて、それが楽しければ」
「うん。そうだな」

本来の自分でいられるって、それほど簡単じゃない。でも、礼央とくぅちゃんならそれができるような気がする。

礼央と話して気が晴れたのも束の間、授業が始まってしばらくすると宗一郎といちごの言葉を思い出して、またもやもやした気分が戻って来てしまった。自分のこういうところが情けなくて、自己嫌悪に陥る。まあ、誰にも気付かれなければいいのだから……。

「景ちゃん」

2時間目の体育のために教室を出て行く前にしぃちゃんがちょこちょこっとやってきた。

「お昼休み、図書館で相談に乗ってもらえる?」

周囲を気にするような抑えた声に、思わず俺も反射的に小声で「うん」と答える。でも、俺に相談って、何を?

けれど、彼女は俺の返事を確認しただけでさっさと行ってしまった。まるで立ち止まりなどしなかったようにまっすぐ前を見て、背筋を伸ばして。俺の中にクエスチョンマークだけを残して。

……いや、違う。

彼女が俺の中に残したのはクエスチョンマークだけではない。不思議な、そして微かに振動する甘酸っぱさと期待。

お昼休み、図書館で……。

彼女は俺を相談相手に選んでくれたのだ。もしかしたら今朝だって、ほんとうの目的はそれだったのかも知れない。

だとしても。

相談って何だ?



しぃちゃんの相談のことが気になって、午前中はそわそわしているうちに終わった。ようやく昼休みになり、礼央に図書館に行くことを伝えると、礼央も「俺も」と一緒に教室を出た。

図書館で待ち合わせていることが気になったけれど、考えてみたら、礼央は図書館ではたいてい俺とは別行動だ。しぃちゃんが図書館に来ることも特別ではないから、わざわざ話しておく必要はないだろう。

「景のお陰で図書館のハードルが下がったよ」

階段を下りながら礼央が言った。

「自由に使えるって忘れてた。……っていうより、図書館自体を思い出さなかったもんね」
「うん、俺も」

もちろん、存在は知っていた。でも、自分には関係のない――個人的な用事では――場所だと感じていた。

「社会に出てからもさあ」

礼央がずっと遠くを見るような表情をする。まるで未来を見ているように。

「市立図書館が使えるんだって気がついたんだ。調べてみたら、休日も開いてるし、夜は七時までだから仕事の帰りに寄ることもできる。俺さあ……」
「うん」
「就職したら、もう自由時間がないって思ってたんだ。ほら、働く時間って、学校の授業よりも長いじゃん? 春休みとか夏休みとかないし。だから、仕事が終わったらまっすぐ家に帰って、太河とご飯食べて、あとは家のことやって終わり、みたいな。もちろん、太河と一緒だから楽しいと思うけど」
「……うん」

礼央の覚悟だ。俺に自分が恵まれていることを思い出させる覚悟。そして、礼央に何もしてあげられない自分の無力さが悔しくなる――。

「でもさ、図書館に行ったら自分を取り戻せるような気がするんだ。図書館にいるひとって、みんな自分のやることに集中してるじゃん? 他人のことなんか関係なくって。だから、そこにいる間は完全に自由で……って、分かるかなあ?」

照れたように礼央が笑う。

「うん。分かる。俺は本を読んで、似たようなこと感じた」

周囲との関係が断ち切られた自分。孤独ではなく、独立。自分に問いかけ、自分の思考に潜りこんでいく時間。

「ん……、そっか。うん。景なら分かってくれると思った」

一足先に社会に出る礼央が、自由を取り戻せる場所がある。そう思うとずいぶん慰められる気がした。

図書館に着くと、礼央はふわりと離れて行った。俺はカウンターで本を返し、館内を見回してみる。なんだか緊張してきた。教室を出たのは俺の方が先だったから、彼女が来るまで次に読む本を――。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

隣にひょっこり現れた頭はもちろんしぃちゃんだ。分かっていたけれど、心臓が跳ね上がった。

「いや。俺も今、本を返したばっかりだから」
「そう? ありがとう、頼みを聞いてくれて」

俺を見上げる瞳がやさしく輝く。向けられた笑顔には信頼が込められている……と思う。自分の口許が変に緩んでいる気がして困る。

「あのね、図書委員会の夏休み向けのコーナーに出す本のことなんだけど」
「あ、ああ……、あれ」
「テーマに沿った本が決まらなくて困ってるの」
「そうなんだ……?」

これは……。

もしかしたら、単なる仕事の相談か?

「それで、景ちゃんに一緒に考えてもらおうと思って。景ちゃんは飾り付けの担当だから、本の心配はいらないでしょう?」
「あ、うん。そうだね」

そうだったのか……という脱力感。けれど、だとしても、今、ふたりで一緒にいるという事実がある。彼女は本について相談する相手として俺を選んでくれたのだ。俺よりも本を読んでいるらしい宗一郎ではなく!

「テーマは<夜空を見上げて>だったよね?」

誇らしさを感じると同時に、仕事だったという認識で緊張が解けた。心臓は平静を取り戻し、顔の筋肉もリラックスしている。

「そうなの。本が被らないように連絡取り合ってるんだけど、迷ってるうちに、知ってる本はほかのひとに決まっちゃって……」

まつ毛が長いんだなあ……なんて考えていることに気付かれてはいけない。顔を上げた彼女に「なるほど」とうなずいてみせ、どうやって選ぶのか尋ねる。

「連想」

彼女が楽しそうに答えた。

「ブレーンストーミング的な感じかな」

それはちょっと面白そうだ。

「最初に思い付いたのは『夜のピクニック』っていう本。ある高校の歩行祭っていう二十四時間歩き続ける行事のお話」
「二十四時間歩く。すごい行事だね」
「でしょ? 主人公たちは高三で、最後の歩行祭なの。途中でちょっとした謎が解けたり、思っていたよりも深い友情に気付いたり、今までの思い出とか……いろんなことを考えて、最後に新しい決意をするの。キツいんだけど、星空の下を歩きながら思い浮かべる言葉が印象的でね」
「ふうん。夜も歩くからそのタイトルなんだね」
「そう。過酷な行事だけど、この学校の生徒には特別なの。まあ、これは有名な本で、すぐに紹介者が決まっちゃったんだ」

有名だと言われても、俺は知らなかった。本好きの間では知られている――ということか。でも、俺もちょっと興味がわいた。いつか読んでみよう。

しぃちゃんに促されて空いている席に向かい合って座る。

「で、次に思い付いたのは『銀河鉄道の夜』」

机越しに身を乗り出して彼女が言った。正面から距離が近付いて、思わず照れてしまった自分を隠した。

「あ、それは知ってる。宮沢賢治だ」
「そう。でも、それもほかのひとに決まっちゃった」
「そうだよなあ……」

俺が知ってるほどの作品だから、誰でも思い付くだろう。

「あと、ほかに決まってるのが銀河系を舞台にしたSFと竹取物語」
「竹取物語って、古典の?」
「そう」

たしかにかぐや姫は月を見上げて淋しそうにしていたんだっけ。よく思い付いたな。

「それから花火師の仕事紹介と夏の星座、それにギリシア神話」

しぃちゃんが指を折りながら教えてくれる。仕事紹介と星座なんて、小説以外も選択肢に入るのだと今さら気付いた。

「俺、やっぱり飾り付け担当になっておいてよかったよ。本の知識が足りないから選べないもん」

思わずつぶやくと、しぃちゃんが「何言ってるの」と、呆れた顔をした。

「今、あたしだって決まってないでしょう?」
「そうだけど、仕事紹介とか星座の本とか、みんなすごいよ」
「それはテーマから連想して、あとは雪見さんに手伝ってもらってるんだよ。最初から仕事紹介の本を知っていたわけじゃなくて」
「あ、そうなんだ?」

<夜空を見上げて>から花火を連想して、花火関連の本を雪見さんに教えてもらうってことか。

「最終手段として、雪見さんに連想も手伝ってもらうっていう方法もあるの。でも、まずは景ちゃんに聞いてみようと思って」

しぃちゃんの瞳がきらりと輝く。

「だって、相棒でしょ? 頼ってもいいよね?」
「も、もちろん」

頼ってくれた? 彼女が俺を。こんなふうに親し気に微笑んで。

めちゃくちゃ嬉しいぞ!

「なるべく雰囲気が偏らないようにしたいんだよね……」

椅子の背にもたれながらしぃちゃんが言う。

「夜空っていうと宇宙を思い浮かべるけど、銀河系と星座が入ってるでしょう? ギリシア神話も星座関連だから、宇宙からは離れたいなって」
「じゃあ、ガリレオはダメか」

俺の言葉にしぃちゃんが目をぱちくりさせた。

「ほら、天体観測して地動説を唱えたんだよね? まさに夜空を見上げてるなって。でも、宇宙から離れるなら――」
「いや、でも、ガリレオなら伝記だし、ありだよ」
「そういう括りでいいんだ?」

それほど悪いアイデアではなかったらしい。小学生のときに読んだ漫画版の伝記がこんなところで役に立った。しぃちゃんは机に肘をついて考え始めている。

「天体観測なら望遠鏡もあり? たしか、すばる望遠鏡の本があったような……。ああ、だけど、それじゃあまた宇宙? でも技術系の話なら……」
「『星の王子さま』って空は見上げないのかな?」
「え?」

彼女が俺を見る。

「いや、なんとなくしか知らないけど、小さい星に住んでるイメージが……」
「うん、そうだ。そうだったよ。あたしも紹介文しか読んでないけど、宇宙の中の孤独な王子さま――」

しぃちゃんが立ち上がった。

「見に行こう」
「あ、うん」

文学のコーナーに向かう彼女に慌てて続く。

ところが、彼女も俺も、作者の名前が思い出せない。小説は原作の言語別に作者の苗字順で並んでいる。仕方がないから手分けして端から見ていったけれど、どうしても見つからない。

あきらめて雪見さんのところに行くと、呆気なく「ああ、サン=テグジュペリだね」と教えてくれた。

「フランス文学だから953だよ。ハードカバーと文庫本、両方あるよ」

追加でもらった情報に、「フランスか」と顔を見合わせた。さっきは外国文学の中で一番多い英文学の場所を探していたのだ。

再び書架に向かいながら、いつの間にかにこにこしている自分に気が付いた。

「楽しいなあ」

すごく楽しい。しぃちゃんと一緒にあたふたしていることが。同じことを分かち合っていることが。

ぽろりと出た言葉はしぃちゃんに聞こえたらしい。俺を見上げてにっこりした。

「うん。ほんとにね」

――そうか。しぃちゃんも同じなんだ。

胸がきゅーんとした。彼女も俺と一緒で楽しいなんて!

「あたし、こうやってテーマを決めて本を探すのって大好きなんだ。連想するのも探すのも楽しいし、新しい本に出会えるのも嬉しい。景ちゃんも楽しいって思ってくれて嬉しいな」

――あれ……?

「あ……うん、うん、もちろん」

違ってる。勘違いだった。俺の早とちり。

しぃちゃんが楽しいのは本を探すこと。俺と一緒にいることではなくて。

胸の中でそっとため息をつく。だよな、と思う。けれど。

俺に笑いかけてくれるしぃちゃんが隣にいる。これは勘違いでも早とちりでもなく、事実だ。

それに、“俺と一緒にいても”楽しいってことは、俺が一緒にいてもいいってことに違いない。

 

しぃちゃんが図書室に誘ってくれたのは朝のできごとが原因では――?

そう気付いたのは夜になってからだった。

午後はずっと、一緒に過ごした時間を何度も頭の中で再生して幸せな気分に浸っていた。けれど、ふと我に返った。彼女はほんとうに俺が必要だったのだろうか、と。

考えれば考えるほど、しぃちゃんならひとりでも十分にやれたのではないかと思えてくる。だって、締め切りはまだ先だし、彼女はテーマで本を探すことが好きだと言っていたのだから。

もちろん、俺がまったく役に立たなかったわけではない。ちゃんと感謝してくれたし、「自分と違う連想が出てくるって面白い」と言ってくれたのは本心だと思う。だとしても、俺が必要だったかと問えば――それほどではなかったのではないだろうか。

だったら、なぜ彼女は俺に声をかけたのか。思い当たるのは朝のことだ。

宗一郎といちごに、俺の存在感が薄いことを、まるで俺がずるをしているみたいに言われたこと。ほんの二言三言だったけれど、胸に刺さって後を引いた。存在感が薄いことは俺のコンプレックスの一つだから。

あのとき、いちごと一緒に離れて行くしぃちゃんが振り返ったのを覚えている。そこに浮かんだ表情も思い出せる。気遣わしげな表情は同情か憐みか……。

――慰めようと思ってくれたんだろうな……。

隠したつもりだったけれど、顔に出ていたのかも知れない。でなければ、雰囲気で察したのか。どちらにしても、心配してくれたのだろうし、彼女の目論見は成功した。なにしろ昼休みの約束をした時点から、宗一郎たちに言われたことなど忘れてしまっていたのだから。

――なんだかなあ……。

自分の単純さが笑える。まるでしぃちゃんの手の上で自在に転がされているみたいだ。彼女は俺の性格なんかお見通しで、いい気分にさせるのも落ち込ませるのもちょちょいのちょい……なんて。

「ふ」

やっぱりしぃちゃんは俺にとっては魔法使いだ。でも、俺を幸せな気分にさせる仕事なんて、簡単すぎるかな?

――あれ?

電話の着信音。画面には――礼央だ。

「よう、礼央――」
『くぅちゃんと会う約束した! 景のおかげだよ! ありがとう』

俺の声に被さって興奮気味の喜びの声が聞こえてきた。

「そうか。よかったなあ。おめでとう」

朝のアドバイスが役に立ったらしい。女子に慣れているはずの礼央が俺なんかのアドバイスにしたがうというのも変な気がするけれど。

『昼休みに景としぃちゃんを見てて、やっぱり会って話すっていいなあって思って。スマホ越しじゃ、いろいろ足りないよね』
「ん?」

俺のアドバイスにしたがったわけじゃない? 昼休みの俺としぃちゃんを見てて……って。

「なんだよそれ。なんか恥ずかしいよ」

照れてしまう。だって、それはつまり俺たちが……何というか、いい感じに見えたということだ。照れくさいけれど、胸の底から笑いがこみ上げてくる。

『恥ずかしい? あはは、でも楽しそうだったよ、すごく』

まあ、たしかにすごく楽しかった。他人に見られていることを忘れるくらい。いや、恥ずかしいけど。

『景たちってなんて言うか、自然なんだよね。一緒にいることが特別に見えない――って言ったらがっかりする?』
「全然」

それって、俺たちがお似合いだって言われているようなものじゃないか。しかも、バランスが取れているということなら、俺だけじゃなく、しぃちゃんも同じくらい俺のことを……なんて?

「ん、あ、それで、いつ会うんだ?」
『ああ、それなんだけど……』

ここまでの良い調子が少し鈍った。

『景も一緒にどう?』
「え? 俺?」
『うん』
「なんで……?」

ふたりで会うんじゃないのか?

「俺、邪魔じゃね?」

学校で俺としぃちゃんと一緒に礼央がいても楽しいのは、しぃちゃんが俺の気持ちを知らないからだ。要するに、友だち付き合いという前提だってこと。でも、くぅちゃんと礼央は――。

『邪魔じゃないよ。邪魔どころか、くぅちゃんもお願いしたいって』
「ああ、もしかしてスキャンダル回避とか? くぅちゃん、恋愛禁止だったり?」
『それはくぅちゃんはそんなに心配してなかった。それよりも……俺たちまだ不安なんだよね』
「不安?」
『ふたりだけっていうのが』

礼央でも……?

「礼央って……今まで彼女って……?」
『うーん、中学のときにそれらしい相手はいたけど……、一緒に帰ったり、バレンタインにチョコもらったり。でも、今思うと、なんだか学校生活の一部みたいな感じだったなあ。高校が別になってそれっきり』
「ふうん……」

俺はもちろん経験はないけれど、しぃちゃんに対して慎重になっているのは、終わってしまったあとの気まずさを想像してしまうからだ。その場で断られるにしても、一旦付き合ってから別れるにしても――って、ダメなことが前提って、俺らしいよな。

『くぅちゃんとはまだ一度しか会ってないから、お互いに相手の性格を勘違いしてるかも、なんて考えちゃうんだよね。会わないあいだに想像で理想のタイプに仕上げちゃってるとかさ。それに気付いたときに気まずくならないように、景たちにも一緒にいてもらいたいんだけど』
「え? 俺だけじゃないのか?」

今、「景たち」って聞こえた。

『あれ? そうだよ。くぅちゃんがしぃちゃんに頼んでる。四人で行く計画』
「!」

そりゃそうだ! くぅちゃんだって俺には礼央以上に気を使うだろうから。

でも、ということは、礼央とくぅちゃんが上手くいけば、しぃちゃんと俺ももっと仲良くなれるチャンス……?

「ああ……、そうなんだ?」

ガツガツしちゃダメだ。落ち着いて。でもにやにやしてしまう!

「しぃちゃん、OKするかなあ?」

声が微かに震えた。弱気になってると思われてしまうかな。もっと喜びを出しちゃってもいいだろうか? 相手は礼央なんだし。

『え? 俺、まったく疑ってなかったけど』
「あ、そう? そうか。へえー」

疑ってなかったのか。つまり、しぃちゃんは俺と一緒に出かけること――ふたりで、ではないが――を了承すると、礼央は信じている。これはやっぱり――。

『んー、景、気が進まない?』
「あ?」
『景は人見知り激しいもんね。よく知らないひとと出かけるのはハードル高いよね』
「いっ、いや、そんなことない。くぅちゃんは大丈夫。大丈夫だよ。この前、電話でしゃべったし。知らないひとじゃないから。それに礼央は――」
『やーい、引っかかったー♪ そんなに慌てなくても分かってるよ』

礼央が笑ってる。

『ちょっとからかっただけ。景が感情を出さないこと分かってる。ほんとうは喜んでるってことも知ってるよ』
「なんだよ、それ?」

「喜んでる」なんて明言されたら恥ずかしいじゃないか。誰も聞いていなくても。

『ねぇ、行くよね、景? もちろん、しぃちゃんも行くことが前提だけど』
「うん、いいよ。行き先は?」
『くぅちゃんがしぃちゃんと相談するって』
「そうか」

つまり、くぅちゃんも、しぃちゃんは断らないと思っているということだ。

「じゃあ、予定が決まったら教えて」
『うん。ありがとう、景。また明日』
「うん、明日な。おやすみ」

スマホを置いたら、妙に心が静かになった。さっきはドキドキしていたのに。

――礼央とくぅちゃんか……。

上手くいってほしい。純粋に礼央のために。

そして、できれば俺も――あれ?

スマホにメッセージが。しぃちゃんからだ!

くぅちゃんと話したのだろうか。画面に触れる指が滑って、自分の焦り具合に苦笑する。

『景ちゃん、『星の王子さま』大正解! 読んでよかったよ。』

――ん?

出かける話じゃない……?

『まだ途中だけど、全部の言葉がまるで贈り物みたいなの! テーマにもぴったりで。景ちゃんのおかげだよ。どうもありがとう!』

昼休みのお礼だ。すごく喜んでる。それは間違いない。けど……、俺はどう返すべき?

――本のことだけ、だよな。

この様子だと、出かける話はまだ知らないみたいだ。一緒に住んでいるからといって、すぐに話せるとは限らないもんな。返信は本のことだけで。

『よかった。『言葉が贈り物』ってきれいな言葉だね。紹介文に使えそう。さすが!』
『ほんとう? 褒められたら、なんだか自分に文才があるような気がしてきた。どうもありがとう! 夜にごめんね。また明日。おやすみなさい』

すぐに返ってきてちょっとびっくり。でも、「おやすみなさい」だ。これでお終いってこと。

『うん、また明日。おやすみ』

最後の「おやすみ」は入れるかどうか迷った末に入れた。でも、入力した文字にはためらいは表れない。文字の上では俺は決断力のあるしっかり者かも。

――今日はふたりから感謝されちゃったなあ……。

礼央もしぃちゃんも“俺のおかげ”だと言ってくれた。

大切に思う相手の役に立てたことが純粋に嬉しい。俺がふたりからいろいろなことを学んだりもらったりしているように、俺からもふたりに何かを提供できているということが、少しずつ心の中に積み重なって俺という存在を確かなものにしてくれる。

――そうだ……。

ずっと、俺は存在感の薄い自分に合わせて、自分が思う自分も削ってきた。それは、他人に忘れられていても傷つかないようにするため。仕方ないよ、とあきらめやすくするため。

けれど、今は違う気がしている。

自分を削ってきたのは、いろいろな良いものを吸収するためだったのかも知れない――と。

礼央やしぃちゃんや、諒からも、いろんな思いや言葉をもらって、自分が編み上げられていくような、そんな気がする。宮本武蔵の本や、嬉しそうに本を紹介してくれる雪見さんからも。

これから俺にどんな出会いがあって、どんな俺が出来上がっていくのか……。

想像するとわくわくする。



次の日、朝練から教室に行く途中、一年生部員二人が俺の名を呼んで追いかけてきた。しぃちゃんの様子を確認するために早く教室に行きたかったけれど、真剣な顔のふたりを見たら「あとで」とは言えない。

礼央は気を利かせて先に教室に行った。ところが、なかなか言い出せない様子のまま時間が過ぎていく。いったいどれほど重い相談なのか、いやそれよりも、これではしぃちゃんどころか遅刻になってしまうかもと不安になってきたころ、やっと伝えられたのは、

「高砂先輩は僕たちの何が気に入らないんでしょう?」

だった。一年生全員が同じように不安を感じていて、このふたりが代表で話に来たという。

なるほど、高砂は部活中は不機嫌に見える。太い眉とぎょろりとした目が迫力があるし、男だけのときには笑わないからだ。だけど、べつに怒っているわけじゃない。ただ、顔が怖くて真面目なだけだ。高砂から一年生に対する不満を聞いたこともないし。

難しい相談じゃなくてよかったとほっと――というよりも脱力――しながら説明すると、尚も一年生は食い下がった。彼らのクラスの女子が高砂のことを「面白い先輩」と言ったと。なのに、入部して一か月、ほぼ毎日顔を合わせている自分たちはまだ親しく話したことも、笑顔を見たこともない。それは自分たちが嫌われているからではないか?

――高砂め。

女子の前でだけ態度が変わるなどと説明したら、高砂の人間性に問題があるように思われそうだ。先輩としての威厳にも関わるだろうし。こういうとき、礼央が一緒にいてくれたらフォローしてもらえるのに。

とりあえず、高砂は俺たちにも笑顔は滅多に見せないのだと話して納得してもらうしかない。笑顔は女子のために温存しているとは後輩には言えない。歯切れの悪い説明に疑惑の表情を向けながらも、ふたりは一応了承して戻って行った。

なんだか疲れた気分で教室に着くとちょうどチャイムが鳴り、しぃちゃんに「おはよう」を言う暇もなかった。

休み時間に理科室へと移動しながら礼央に一年生の相談の内容を話すと景気よく笑ってくれた。そして「たいへんだったねえ」と労ってくれた。

「でも、景だから相談しに来れたんだと思うよ。ツッキーはバレーにストイックなところがあるから、バレー以外の相談はしづらいよね」

ツッキーというのはうちのエースで部長の津久井のことだ。礼央が言うとおり、バレーボールに文字どおり青春をかけている津久井には、同学年の俺でも同じレベルで話すことに気後れを感じることがある。同じくバレーに熱心でも少し抜けたところのある高砂とは違うのだ。礼央は持ち前の人懐こさで「ツッキー」なんてニックネームを付けてしまったけれど。

「高砂に、一年生ともう少し話すように言ったほうがいいかなあ?」

考えながらつぶやくと、礼央は「そこまでしなくてもいいんじゃない?」と明るく答えてくれた。

「俺たちが高砂を適当にコントロールしようよ。そのうち、一年生にも分かると思うよ。それにしても、高砂を面白いって言った一年の女子って、あの図書委員の子たちかなあ? ほら、電車で会ったって話したよね?」
「あ! 今朝のふたりって何組だっけ? そういえば1組だったような……」

その可能性が高い。どうもあの図書委員の一年生コンビは俺の日常に小さな波を立てるめぐり合わせのようだ。

ため息をつきながら、胸の中ではほっとしていた。礼央が今回の件について一緒にフォローしてくれると分かったから。持つべきものは礼央のような友だちだ!

一つ事件が片付いて、やっとしぃちゃんと話せる――と思ったら、次の休み時間に声をかけてきた田原(たはら)理久(りく)。後ろに半分隠れるように大和若葉(やまとわかば)の姿が。九重祭の劇担当の組み合わせに、嫌な予感が一気に膨れあがる。

「景と礼央も劇に出てほしいんだよ」

見事に予感的中だった。よろけそうになって、礼央の肩につかまった。

「ほら、主役のふたり、引き受けてくれたけど、大鷹はちょっと困ってただろ? だから今度は事前に伝えた方がいいってことになって」
「それ、断っても……?」
「断るのはなしにしてほしい」

理久がきっぱりと言った。

「希望を聞いてるときりがないし、大和がそれぞれのイメージでシナリオ書いてくれてるんだ。それに、相模と大鷹は断れない状況で引き受けてくれたわけだからね」
「うん、そうだね」

礼央が返事をしてくれた。それを胸の中で繰り返す。うん、そうだ。あそこで断るわけにはいかなかった。そのとおり。

「俺たち、どんな役?」

動揺が収まらない俺のために礼央が尋ねる。そうだ。役が大事だ。もしかしたらナレーションとか――。

「染井くんは呂海雄(ろみお)の友人で、鵜之崎くんは珠璃(じゅり)のお父さん」

半分隠れていた大和が前に出てきてきっぱりと言った。メガネ越しの瞳の真剣さに、思わず体を引いてしまう。でも、お父さん……?

「染井くんの役は呂海雄を悪ふざけに誘ったりするお金持ちの友だちなの。医学生で勉強ばっかりしてる呂海雄を遊びに連れ出して、そこで珠璃と会うの」

なるほど。それは礼央向きの役だ。でも……。

「鵜之崎くんは厳格なお父さん。明治維新のあと商売を始めた元武士の家を継いでいるけれど、商売は上手くいっていなくて、家を守るために娘を羽振りのいい家に嫁がせたいと思ってるの」
「ひでぇ父親……」

俺の役はそれか……。

俺、そんなキャラに見られていたのか……。しかもおじさんだし……。

「あ、あの、べつに鵜之崎くんがこういうひとだと思ってるわけじゃないよ? これは誰かがやらなくちゃいけなくて、鵜之崎くんの背の高さなら厳格なお父さんの雰囲気でるなあって」
「劇だからさあ、いい役も悪役もあるんだよ。見る方も分かって見てるわけだから、嫌なキャラクターを演じても、本人がそうだなんて誰も思わないよ」

大和と理久の説明が単なる言い訳にしか聞こえない。頭では理解しているけれど、最初に「イメージでシナリオを書いている」と言ったじゃないか。それがどうしても引っかかってしまう。

「分かってる」

納得しきれていなくても、笑ってこう言うしかない。ここで俺がゴネたら、頑張っているこのふたりがかわいそうだ。でも、舞台に上がる覚悟は簡単にはできなくて、「大丈夫」も「頑張るよ」も言えなかった。

次のターゲットに向かうふたりを見送りながら、礼央にとりあえず宣言してみる。

「俺、『ロミオとジュリエット』を読んでみる」
「ああ、それいいかもね」

うなずいた礼央が笑いをこらえているのを感じる。だから思い切って。

「礼央ぉ、俺、おっさんっぽいかなあ……?」
「えぇ? 景、何言ってんの?」

驚き方がわざとらしい。でも、それも俺を笑わせるためだ。

「景のどこがおっさんだって? 顔かな? いや、皺ないし。髪には……白髪なし。もしかして加齢臭とか?」
「うわ、それはダメだ。それはないから! 絶対ない!」
「あははは、当然だよ。十代は臭くても加齢臭って言わないもんね」
「え、俺、臭い? 汗臭い? スプレー使ってるけど」

急いで自分のシャツの匂いを嗅いでみる。でも、よく分からない。しぃちゃんに臭いなんて思われたら困るのに!

「大丈夫。一緒にいて、今まで気になったことないよ」

落ち着いた礼央の答えに、とりあえず気分が静まった。まあ、焦ってもすぐにどうにかなるものでもない。

「俺は、劇に出るのは面白そうだなって思ってるよ」

礼央がにやりと俺を見る。

「ま、俺はおっさん役じゃないけどね」
「だよなあ?」

でも、だいぶ受け入れられそうな気分になってきた。よく考えると、別な人間になるのは面白いかも知れないし、礼央やしぃちゃんと一緒に練習するのも楽しいだろう。劇に出るなんて、俺の人生で一度きりのことだろうし。

「シナリオ書くのって大変だろうなあ」

受け入れられそうだと感じたら、大和の仕事に思い至った。セリフに個々のキャラクターの性格を出す必要があるだろうから、モデルがいた方が書きやすいというのはそのとおりなのだろう。

――いや、だけど……。

だからって、俺をおじさん役に当てはめようと思われたショックはやっぱりあるわけで。大和は俺の背の高さのことだけしか言わなかったけれど。どうしても出なくちゃならないのなら、もう少し若い役がよかったな……。

「景ちゃんも劇に出るんだってね?」

昼休みに『ロミオとジュリエット』を借りて教室に戻るとしぃちゃんが駆け寄ってきて言った。

「あ、うん」

礼央がこっそり笑いながら俺から離れて行く。遠くから見守ってくれるつもりらしい。

「あたしのお父さんの役なんだって?」
「うん……、そうらしいよ」
「面白いね。どんなお父さんになるんだろう? ね?」
「そう……だね」
「厳しいっていう設定だから、あたしのこと怒るのかな? 大きな声で」

なんだか想像と違う。しぃちゃんは楽しそうだ。ちょっとはしゃいでいるようにも見えるけど……?

「景ちゃん、もっと胸を張らないと! 元武士の家系なんだから」
「え? え? こんな感じ?」
「そうそう」

点検するように眺められて、どんな顔をしたらいいのか困ってしまう。

「あのね、楽しんでやろうね」

その口調にはっとした。彼女の表情は静かで、向けられた瞳はやさしげで……。

「嫌だって思ったままじゃもったいないって思ったんだ。最初はショックで、いちごと景ちゃんに心配かけちゃったけど」

そうだ。主役の彼女は俺よりももっと大きなショックだったはずだ。

「今はだんだんキャストが決まってきて落ち着いてきた。一人じゃないって分かったから」

そこでちらりと俺を見た表情が――。

「景ちゃんもいるし」

自分が特別だと思ってしまいそうだ……。

「あ……、これを読んでみようと思って」

後ろポケットから借りてきた文庫本を取り出す。

「なに? あ、『ロミオとジュリエット』! すごい。えらい」

彼女が目を丸くした。

「いや、まあ、原作を知りたいと思って……」
「原作って戯曲でしょう? じゃあ、中は」
「うん。セリフになってる」

実はこんな本があるとは思っていなかったのだ。雪見さんに見せられてびっくりした。

「景ちゃん、やっぱり真面目」

笑われてしまったけれど、しぃちゃんの笑顔を見ると、心がリラックスして大きく翼が広がるような気がする。これも彼女の魔法の効果だ。

彼女に礼央たちと出かける話を確認しなかったことを思い出したのは、ベッドに入ってからだった。でも、礼央から中止の連絡もないし、きっとしぃちゃんもOKなのだろう。



「……のさきくん!」

あ、俺か――と思ったのは数歩進んでからだった。立ち止まると同時に隣に現れたメガネの女子――大和若葉だ。駅から出てくるうちの生徒たちが左右を通り越していく。

「あ……と、おはよう」

教室でも小さなあいさつしか交わしたことがない大和が今朝はわざわざ声をかけてきた。それくらい大事な――彼女にとって――用があるということか。一瞬、俺に輪をかけて社交的ではなさそうな大和と上手く話せるか不安がよぎったけれど、用事があるのは彼女の方なのだから、と思い直す。

「あの、劇の役のことなんだけど」

歩き出してすぐに用件を切り出されてほっとする。

「びっくりしたよね? ごめんね」

うつむいたまま、大和は言った。きのうの熱心さは影をひそめ、視線を落としている様子は教室で見慣れた姿だ。

「そうだね。びっくりした」

自然な声が出て、自分が思いのほかリラックスしていることに気付いた。

「自分に声がかかるとはまったく思ってなかったから。はは」

宗一郎に指摘されたように、他人事だと思っていた。俺を見ている誰かがいるなんてほんとうにびっくりだ。

そっと大和が顔を上げた。その視線が何かを確認するように俺に据えられたと思ったら、また下がった。

「鵜之崎くん……、たぶん苦手だよね、舞台に上がることとか」
「ああ……、まあ、そうだけど……、もう覚悟ができたから大丈夫だよ。やることはちゃんとやるから」

笑顔をつくって答えたのに、彼女は驚いたように見返してきた。俺の答えが予想と違っていたのか? 謝罪しにきてくれたのかと思ったけれど、この反応は、何か別な用事があるということか。

――あ。

もしかしたら。

俺が舞台に上がるのが苦手だということを確認されたということは、それが前提の話だ。

「あ、あのさ」

期待で少し早口になる。しぃちゃんと話していくらか前向きな気分になったとは言え、やっぱり。

「もしかして、俺、出なくてよくなった? あの役、誰かほかのヤツがやってくれるのかな?」

きっとそうに違いない。なのに俺が覚悟ができたなんて言ったから、「やっぱりほかの人に」とは言い出しにくくて困っているんだ。

「それなら全然気にしなくていいよ。俺、恨んだりしないし。たぶん、誰でも俺なんかよりもずっと上手くやれるんじゃないかな。絶対そうだよ。うんうん」

しゃべっているあいだに大和の目がだんだん見開かれて――。

「ごめんなさいっ」
「お?!」

思い切り頭を下げられて驚いた。思わず身構えた俺を見上げた表情がきのうとダブる。大和はいつも真剣で一生懸命だ……。

「ごめんなさい。やりたくないのは分かっているけど、役のチェンジはないんです。ただ謝ろうと思っただけで。きのうは無理強いする形になっちゃったから」
「あ、そう……? そうなんだ? そうかー……」

そうだよな。きのうの今日で変更にはならないよな。でも、ほんとうに変更でもよかったんだけどなあ……。

「きのう話したとき、鵜之崎くん、青天の霹靂って顔してたから……。言葉が出ないほどショック……って感じで」
「うん、まあ……」
「喜んで引き受けてくれるひとばかりじゃないって分かっていたんです。でも、予想していたよりもずっと鵜之崎くんはショックが大きかったように見えたので……申し訳なかったな、と思って」
「いや。いいよ」

がっかりだけど、それ以外答えようがない。あのとき理久が言ったように、本人の希望を聞いていたらきりがないと分かっているから。理久と大和が一人ずつ出演交渉するなんて負担が大きすぎる。

それでも大和は俺の反応を気にしていてくれたのだ。

「わざわざありがとう。気を使ってくれて」

一応、笑顔で言ったのに、彼女は探るように俺の顔を見た。嫌味を言っていると思われたのだろうか。数秒後、ようやく納得した様子でうなずくと、おずおずと微笑んで。

「紫蘭が言ってました。鵜之崎くんは大丈夫だって」
「しぃちゃんが?」
「はい。気が進まないことでも、一旦引き受けたら『ちゃんとやる』って言ってくれるよって」

しぃちゃんが……。

――やばい。

鼻の奥がつーんとする。気を抜くと涙が出そうだ。俺ってこんなに涙腺ゆるかったっけ? こんな……、ほんの少しの言葉で感動したりして。

「そうかー」

急いで向きを変え、歩き出す。慌ててついてきた大和は下を向いているから気付かないだろう。こちらを向かないことを祈りながらこっそり洟をすすり、ゆっくりまばたきして涙をひっこめる。

「さっき……」

視線を上げないまま大和が話し始めた。

「ちょっと驚きました。鵜之崎くんが紫蘭が言ったとおりの言葉を使ったから」
「言ったとおりの言葉?」

それであんな顔をしたのか。

「はい」

大和が俺を見上げた。涙の名残がないか不安ではあるものの、彼女は気付かないようだ。

「『やることはちゃんとやる』って」
「……ああ」

そうだ。たぶん、あのとき。

最初の図書委員会の日。図書委員の仕事に不安になった俺に、しぃちゃんが難しいわけではないと言ってくれて、それなら……と口にしたような気がする。

そういえば、あのときのしぃちゃんも驚いた顔をした。俺がやる気を出すことが意外だったのだろうか。それほど期待されていなかったのか。それも情けないけれど……、今はかなり挽回できている気がするからいいかな。

「紫蘭は鵜之崎くんのこと、とっても信頼してます」
「あはは、そう? それならよかった」

第三者にそう見えるのなら信憑性が高い。

「“相棒”って言ってました。うらやましいです。そういう相手がいるって」
「そう?」
「はい。わたしはなかなか……」

彼女が言い淀んだ内容がなんとなく分かる。教室での様子からの想像だけど、彼女はあまり対人関係を築くのが得意ではないのだと思う。理由はたぶん、自信がないから。要するに、俺と同じだ。

「そんなことないよ」

俺の言葉に彼女が抗議のこもった表情を向ける。でも。

「そんなことないよ。きのう、理久が、大和の言いたいこと、ちゃんと伝えてくれてたじゃん」
「それは……、ええ……」

彼女は視線を逸らし、もどかし気に片手を胸に当てた。

「配役のこと、ふたりで話し合ったんじゃないの?」
「そう……ですけど」

またうつむいてしまう。

「わたし、自分の都合で役を頼むことになったのに、みんなに自分の責任で頼めなかったことが申し訳ないんです。田原くんが前に出て大事なことを言ってくれたから、わたしも説明できたっていうだけで……」
「それでいいんじゃないかな」

きのうの大和と理久を思い出す。きっぱりと「断るのはなしにしてほしい」と言った理久、そして、どんな役かを懸命に説明した大和。

「しぃちゃんが俺を“相棒”って言ったのは、目標に向かって協力し合える相手っていう意味だよ。苦手なこととかできないことはカバーし合って、ふたりで一つのことをさ。きのうの大和と理久も、俺にはそう見えたけど」
「わたしと田原くん? ……そうですか?」
「うん。理久は理久ができることをやって、大和は大和ができることをやってるって、俺は思ったけど」
「でも、田原くんの方がきのうはたくさん……」

彼女の思考過程が手に取るように分かる。なぜなら俺も同じだからだ。俺も、自分は役に立たない、自分には足りないところばかりだと思っていた。できなかったことばかりを考えていた。

けれど、相棒のことなら彼女よりも俺の方が少しだけ余分に知っている。

「きのうだけを見たら、たしかに理久の方が目立つよ。だけど、シナリオを書いてるのは大和だよね? その方が時間がたくさんかかってるよ? きのうの放課後だけで終わる仕事じゃないよね」

彼女が目を瞠る。

「ああ、やっぱり」

思ったとおりだ。

「自分がやってることはたいしたことないって思ってるんじゃない? でもさ、シナリオを書くなんて誰にでもできることじゃないよ。しかも、原作があるって言ってもオリジナルだし」
「でも。そうかも知れないけど、わたしは好きなことをやってるだけですよ?」
「うん。そうだろうけど、だから、少なくとも理久は、それをやらないで済んでるってことだよ?」

彼女が狐につままれたような顔でまばたきをした。

「もしかしたら、理久はそれが申し訳ないって思ってて、きのうは自分が前に出たんじゃないかなあ?」
「田原くんが……?」

うん。きっとそうだ。

たぶん、理久も普段の大和を見ていて、対人関係が苦手そうだと気付いていたに違いない。そして、監督と演出を担う理久は劇全体のリーダーとも言えるのだ。

「理久はきっと、大和といい相棒になりたいと思ってると思うな」

だからきのう、大和の決めた配役をみんなにきっぱりと伝えたのだと思う。彼女の案を指示すると態度で示すために。あとは大和が理久を信じるかどうかだけだ。

「分担をきっぱり分けなくてもいいんじゃないかな。得意なことと不得意なことで分担のラインがでこぼこになっても、ふたりで協力できていれば」
「……ありがとう」

つぶやくような声。けれど、俺に向けた表情はやわらかく微笑んでいて。

「鵜之崎くん、やさしいですね。紫蘭が大丈夫って言った意味が分かります。嫌な父親役でごめんなさい。もっとやさしいお父さんだったらよかったんだけど」
「いや、それはもういいよ」

俺が気にしているのは“嫌な”父親だからじゃない。父親役とはつまり、“おじさん”だからだ。嫌な役でも若ければあんなにショックじゃなかった。

そこのところ、察してほしいんだけどなあ……。

でも、まあ、いいか。

しぃちゃんが俺を信じてくれていると分かった。これからはもう少し自信をもって一緒にいられそうだ。



五月最後の週に、二度目の図書委員の昼休み当番がまわってきた。利用者が多くて忙しい昼休みの当番だけれど、しぃちゃんとの時間を確保できる大事な機会だ。

仕事に慣れて少し手際が良くなり、気持ちの余裕も生まれている。今回はどんな話ができるかとわくわくしながら、じれったい思いでお客が途切れるのを待った。

「景ちゃんは前転って得意?」

先に質問したのは彼女だった。返却本をかごに移しながら、「前転って、でんぐりがえしのこと?」と確認すると「そう」と彼女は言った。

「特に得意でも苦手でもないけど……」

前転のことで何かを考えたことはないと思う。どうして突然、前転の話なのだろう? と考えて、思い当たった。

「女子の体育、マット運動なの?」
「今日からね。で、首をぐきっとやっちゃって」
「ああ、それは痛いね」

うなずいたしぃちゃんが顔をしかめて首に手を当てる。そう言えば、さっきから首を気にしているようだった。

「無理しなくていいよ。仕事はだいたい分かるから、しぃちゃんはじっとしてて」
「ありがとう。でも大丈夫。仕事はできるから」
「だけど捻挫みたいなものだよね? あんまり動かさない方がいいよ」

貸出を1件さばいてから彼女がゆっくり振り返る。体ごと向きを変えたのは首を動かさないために違いない。

「あたし、年に何回かは首を痛めてるの。マット運動だと必ずだし、朝起きたときとか、うがいでもやっちゃうときがある。だから慣れてるんだ」
「慣れてるっていっても、痛いよね?」
「うん……、まあ、そうなんだけどね。それに、前転でやっちゃうのは初めてで、ちょっと落ち込んでる。いつもは後転なのに」

頭を動かした拍子にまた痛そうに手を当てた。前転でも後転でも寝起きでも首を捻挫した記憶がない俺には、その痛みを想像することしかできないけれど。

「誰でもやるものだと思ってたんだけど、前にお医者さんに行ったとき、『年に三、四回』って言ったら『多いですね?!』って驚かれて……、みんなはならないんだってね?」

尋ねた拍子にまた首が動いたらしい。「いたたた……」と顔をしかめている。大丈夫だと言われても、痛々しくて見ていられない。

「もう座ってなよ。俺、本戻してくるから」

椅子を向けてあげると、「ありがとう。ごめんね」と素直に腰掛けてくれた。カウンターの椅子はキャスター付きだから、少しは楽だといいけれど。

――保健室に行くように言おうかな。

本を書架に戻しながら考える。

保健室には湿布があるはずだ。当番の仕事は最初のラッシュが終わって落ち着いている。サボるわけじゃないし、いざとなれば雪見さんが手伝ってくれるだろう。

「せーんぱい」
「景先輩。こんにちは」
「ん」

今回はすぐに分かった。一年生の図書委員コンビだ。たしか名前は……。

「こっちが絵島で、背が高い方が見浦」
「そうでーす」
「お当番、ご苦労さまでーす」

この子たちの楽しげな押しの強さにもだいぶ慣れてきた気がする。

「先輩、やっぱりやさしいですね」
「委員長、具合悪いんですか?」

カウンターの中の俺たちを見ていたらしい。俺を冷やかしつつもしぃちゃんに向けたふたりの表情は真面目で、心配しているのは本心のようだ。賑やかなだけじゃなく、やさしいところもあるらしい。

「首を痛めてるんだよ。本人は大丈夫って言ってるけど、動くとだいぶ痛そうだよ」

俺が言うと、ふたりは「痛いの嫌だよね」と顔を見合わせた。と、すぐに俺に笑いかけて。

「でも、景先輩がついてるから」
「ね?」

そしてまた、ふたりでうなずき合う。

「俺がついてても、痛いものは痛いよ」
「でも、心は癒されます」
「景先輩、やさしいから」
「ほめてくれてありがとう」

どうしても俺をからかいたいようだけれど、今日は受け流せる心の余裕がある。

それにしても、最近、「やさしい」と言われる回数が増えた気がする。俺自身は特別に変わったわけではないのに。

「委員長にお見舞い言ってこようか」
「そだね。お手伝いしてもいいし」

ふたりがうなずき合う。しぃちゃんが後輩に慕われていることで、胸の中がほんのり温かくなる。

「あ、ちょっと待って」

歩き出そうとしたふたりを呼び止めた。実は、この前から少しばかり気になっていたことがあるのだ。

「『委員長』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んであげてくれるかな?」

思いがけない内容だったらしい。ふたりは目をぱちくりさせて俺の顔を見上げた。

それはそうだろう。「委員長」という呼び方は当たり前に使われている。そして、ふたりはこの言葉を使うことには何の悪意もない。それにあの日、俺もみんなの前ではっきりと、しぃちゃんを「委員長」と言ったのだ。なのに今度は名前で呼べなんて。

「ごめんな。そんなにたいしたことじゃないんだけど」

そうだ。たいしたことじゃない。それでも。

俺はしぃちゃんが傷付いたという事実を忘れられない。俺のせいで傷付いてしまったことを。彼女は今でも否定するだろうけれど。

「細かいこと言ってごめん」
「いいえ、そんなことないです。たしかに、『委員長』って固有名詞じゃないですもんね」
「うんうん。何て呼ぶ? 『大鷹先輩』?」
「そうだねえ……、訊いてみようか」
「うん、そうしよ!」

カウンターに向かう背中を見ながら、素直に受け入れてくれてありがたいと思った。俺の中の漠然とした理由を上手く説明できそうにないから。

ひと通り本を戻してカウンターに戻ると、さっきのふたりがカウンターの両脇に立ってしぃちゃんと話していた。人が来ると声かけをして、しぃちゃんの手伝いをしているらしい。

新たな返却本をかごに移しながら、ふたりがしぃちゃんを「紫蘭先輩」と呼ぶのを聞いた。本の話で盛り上がっている彼女たちの間に変な遠慮は感じられない。本が好きな者同士の楽しい雰囲気がほんわりと漂っているだけ。

「あ、そう言えば」

少し前の出来事を思い出した。

「バレー部の一年に、高砂の話をしなかった?」

一瞬きょとんとした見浦と絵島が「ああ!」とうなずいた。

「しました。面白い先輩がいるよね? って言ったら通じなくて」
「高砂先輩、全然笑わないって言うから、そんなはずないよって言いました。そうですよね? オモシロいこといっぱい言って、電車の中で笑いが止まらなかったんですよ?」
「あのときあたしたち、礼央先輩にあいさつしたんです。景先輩のお友だちだから。そしたら一緒にいた高砂先輩がたくさんおしゃべりしてくれて」
「そうそう」

その情景が目に見えるようだ。

「なのに男子が高砂先輩は笑わないって言うから、あんたたちが何か失礼なことしたんでしょって言ったんです」
「もしかして、何か困ったことになったりしました?」
「いや。揉めたりはしてないよ。この前、一年生が俺のところに相談に来たから」

ふたりが顔を見合わせる。そしてうなずいた。

「やっぱり景先輩なんだ」
「うん。そうなんだね」
「何が?」

俺の名前が突然出て不安になる。しぃちゃんがにっこりした意味もよくわからないし。

「景ちゃんのところに相談に行ったこと、だよね?」

しぃちゃんの言葉にふたりが大きくうなずく。

「特別な意味なんかないよ。俺が副部長だからだよ」
「そうじゃありません」
「それだけじゃないと思います」

見浦と絵島が妙にきっぱり言いきる。

「じゃあ、怖くないからだろ」

自分で言うのもなんだけど、俺には誰かを怖がらせる要素はまったくない。それが必要な場合でも出てこない。中学時代は部活でよく「闘志がない」と言われたものだ。自分でもそうかも知れないと思う。

「まあ、それはそうですけど」
「景先輩はそれだけじゃなくて、ちゃんと受け止めてくれるっていうか」
「ちゃんと考えてくれそうっていうか」
「そうです。安心して相談できる雰囲気」

まあ、それはあるかも知れない。とは言っても、解決できるかどうかとなると話は別だ。けれど、三人はまるで安心感さえあれば十分みたいな顔でにこにこしている。

こんなに全面的に俺を肯定してくれるなんて、三人は何か大きな勘違いをしているのではないだろうか。戸惑いしか湧いてこないし、背中がむずむずする。

で、返却本第二弾をかごに入れ、その場を離れることにした。



「今日はありがとう」

閉館後、教室へと階段を上りながらしぃちゃんがお礼を言ってくれた。首のことをほんの少し気遣っただけなのに。

「いつもと同じことしかしてないよ。あ、そうだ」

今ごろ思い出しても遅いけれど。

「保健室に行ったらって言おうと思ったんだった。すっかり忘れてたよ。湿布もらえると思うよ?」
「ありがとう。でも大丈夫」

また「大丈夫」って言った。動いた拍子に「いたたたた……」と首を押さえて。

「首の湿布って目立つんだもん」
「恥ずかしいってこと? 痛いのに」
「見た目もそうだけど、みんな気を使って『どうしたの?』って訊いてくれるでしょ? そうしたら、原因を説明しなくちゃならないでしょ? 単なる前転だよ? どれだけ不器用なのかって、自分でもあきれちゃうもん。もう少し難しい技ならまだしも、前転じゃあ……」

なるほど。前転が原因というところが彼女なりにショックなのか。

「足首の捻挫なら恥ずかしくないのに」

そう言ってため息をつき、また「いたた」と首に手を当てる。痛いだけじゃなく、気分も落ち込んでいるようだ。

「足首だったら、この階段は俺がおぶってあげるんだけどなあ。治るまで、朝と帰り、毎日」
「え? ほんとう?」

ぱっと顔を上げた彼女が「うっ、いたっ」と顔をしかめた。でも、すぐに瞳が楽しげにきらめいて。

「じゃあ、次は頑張って足首の捻挫にする」
「いいよ。いつでもどうぞ」
「背が高いから、おんぶされたら景色が変わるよね、きっと」

彼女は冗談だと思っているだろうけれど、俺は半分は本気でやってもいいと思っている。と言っても、たぶん断られるだろうな。

「で、景ちゃんが捻挫したら、あたしがおんぶする」
「え? いや、それはいいよ」
「遠慮しないで。あたし、景ちゃんが思ってるよりも力持ちかもよ?」
「そうかなあ?」

こんなふうに言い合えることがとても楽しい。

「ただね、」

と、にやりとしたしぃちゃん。

「景ちゃんは背が高いから、床に足を引きずっちゃうかも知れない」

その途端、赤いマントを床に引きずって歩く王さまの絵が頭に浮かんだ。そして、肩にしがみついた俺を引きずって階段を上るしぃちゃんの姿が。

「教室に着くのが三時間目くらいになりそうだなあ」
「上りはいいけど下りはかなり危ないね」

こんなくだらない話を楽しく話せるってことは、やっぱりしぃちゃんと俺は上手くいくんじゃないだろうか。

もうすぐ礼央とくぅちゃんが会う日だ。付き添いの俺たちも、一歩進めるかも?



「ねえねえ、次はなんだろう? 何だと思う?」

礼央が目を輝かせて俺たちを追い越して行く。そのうきうきした表情と足取りは、礼央の弟の太河にそっくりだ。

しぃちゃんとくぅちゃん、そして礼央と俺の四人が集まったのは6月の最初の日曜日。しぃちゃんたちが訪問先に選んだのは動物園。

今、四人の中で一番はしゃいでいるのは礼央だ。朝まではそれほど動物に興味はなさそうだったのに、入園して最初にオオアリクイを目にした途端、豹変した。

「なにこれ?! しっぽが箒みたい!」

そう言ったきり、目を丸くして見入ってしまったのだ。そこから礼央のスイッチが入った。

どの動物も礼央には驚くべき存在で、魅力的に映るらしい。それぞれの解説を丹念に読み、うっとりと見つめている。中でも大型のネコ科動物と猛禽類が気に入ったらしく、「さわりたい~!」とガラスごしに残念がった。

そろそろ梅雨入りかという空は厚い雲で覆われていて、気温はさほどではない割に蒸し暑い。四人とも折り畳み傘を持ち物に加え、朝のあいさつは「とりあえず、降らなくてよかったね」だった。

くぅちゃんは今回も男の子みたいな服装で来た。前回と同じように黒いキャップにジーンズ、違うのはシャツが淡いグリーンということくらい。しぃちゃんは白いワンピースに薄い色のジーンズを合わせ、清楚で可愛らしい。

待ち合わせた駅で、明るい表情で「礼央!」と手を振ったくぅちゃんは、友だちとの久しぶりの再会を喜ぶ姿そのもの。それを見た礼央は嬉しそうでもあり、照れくさそうでもあり、困惑気味でもあり……、複雑な表情を浮かべた。まあ、私服のしぃちゃんとあいさつを交わしたときの俺もきっと同じだな。

バスに乗って動物園に到着すると、駐車場はかなり埋まっていた。入り口からも家族連れやカップルがどんどん入っていく。

混んでいるかと覚悟したが、中に入ってみるとそれほどではなかった。敷地が広大なので、来園者がばらけてしまうらしい。子ども時代にこの動物園に来た思い出が、動物ではなく、たくさん歩いた、という印象だけだったことに今さらながら納得した。礼央がそこそこはしゃいでいてもあんまり恥ずかしくない。

「フクロウだ! めっちゃカワイイよ!」

礼央が大きなケージの前で振り返って呼んでいる。くぅちゃんがどちらかというと礼央を笑いながら走り寄って隣に並んだ。一緒にケージをのぞき込んでいる後ろ姿が微笑ましい。

そこにぶらぶら歩いて近付いていく俺の隣には穏やかに微笑むしぃちゃんがいる。

ああ、なんて完璧なシチュエーション!

このまま一日が無事に終わったら、別れ際に俺の気持ちを伝えちゃったりできるかも。そうしたら、これからはふたりで出かけることもできるし、学校で話すときだってもっと……うわ、ドキドキする!

でも、考えてみたら今だってチャンスかな。礼央とくぅちゃんは俺たちのことなど気にしていない。何を話しても――。

「あ、あの花」

しぃちゃんの声。視線は植え込みの下のあたりに向いている。

「どれ?」
「あの細い葉っぱの中に咲いてる紫色の」

たしかに細い葉っぱがわさわさと茂ったところから何本もの細い茎が伸び、五センチくらいの赤紫色の花が数個ずつついている。

「あれ、あたしたちの花」
「しぃちゃんたちの?」
「そう。シランっていう名前の花。で、別名がコウラン。漢字があたしたちと同じ、紫の蘭と紅色(べにいろ)の蘭なの」
「へぇ。しぃちゃんとくぅちゃんって同じ花の名前なんだ?」

アピールするような豪華さはないけれど、濃い緑色の葉の中に花の赤紫がよく映えて、とても目を引く。じっくり見ていても飽きない不思議な魅力がある。

「地味な花でしょう?」

そう言ったしぃちゃんの横顔にはっとした。なぜか淋しそうに見えて。

「地味っていうのとはちょっと違うかな。何か、強さを感じる」
「強さ?」

見上げた彼女にうなずく。

「うん。自分はここにいるって……静かに主張してる感じ?」
「静かに主張……」

つぶやいて、しぃちゃんが視線を花に戻した。

「でも、俺が思ってたのとは違うな」
「え?」

彼女の視線が戻って来る。

「俺、しぃちゃんを見たとき別な花を思い浮かべた。菖蒲(しょうぶ)の花」
「菖蒲?」
「そう。アヤメと似てるやつ。本当の名前は花菖蒲らしいけど。うちのじいちゃんちに咲くんだ。俺の好きな花――」

――しまった!

好きな花に似てるなんて言ってしまった。引かれちゃったら……いや、大丈夫みたいだ。不思議そうな顔はしているけれど。

さっさと話を進めてしまおう。恥ずかしいし。

「しぃちゃんの姿勢のよさが似てるなあって。きれいな立ち姿でさ、こう……凛としてて」
「あ……りがとう」

面食らった表情をされてしまった。あんまり嬉しくなかったのかな。

褒めるところが間違っていたのかも知れない。やっぱりダメだな、俺は。……でも?

「びっくりしっちゃったな」

彼女が笑い出した。くすくすと楽しそうに。

「自分が何かの花に似てるって言われるなんて思ってもみなかった。そんなひとがいるなんて。それに、景ちゃんが花の名前を知ってることが意外」
「ああ、そこね」

自分が花に――という部分は触れないことにする。そんなことを語らせる必要はない。

「うちのじいちゃんち、庭に池があってさ、和風の庭になってるんだ。そこに生えてる」
「和風庭園……」
「あ、もしかして京都の寺みたいなの想像してる? 違う違う、普通の家の庭より少し広い程度だから。じいちゃんち農家でさ、家の敷地は広そうでも半分以上は作業とか車置いたりで使ってるし。その端っこに池と築山がある感じ」
「へえ……」

しぃちゃんが曖昧にうなずく。見たことがないと、よく分からないだろう。

ドラマなどでは庭に池があるのは金持ちの家と決まっていて、そういうのは手入れが行き届いている。けれど、じいちゃんちの庭は古くて、まさにただ“ある”というだけ。

地面は土がむき出しのところがほとんどで、大きな石と植え込みがちょっとある程度。子どものころ、俺と諒はじいちゃんちに行くたびに、二メートルくらいに盛られた築山の石と木の間を登ったり降りたりして遊んだ。乾いた土で埃だらけになるし、池に足を入れてしまったことだってある。

「ねえ?」

いつの間にか思い出に浸っていた耳にしぃちゃんの声が聞こえた。

「くぅちゃんはどんな花を思い浮かべる?」

彼女の瞳が楽し気にきらめく。俺が花菖蒲以外の花を知っているのか試しているのかも知れない。

「そうだなあ……」

礼央と並んでにこにこしているくぅちゃんを確認してみる。彼女のイメージは?

一重(ひとえ)のバラかな」
「バラ? 一重の?」

しぃちゃんが意外そうな顔をした。

「うん。色は白……じゃなくて赤かピンクかな。最初の印象ほどクールじゃないから」
「景ちゃん、意外と知ってるんだね。バラって言ったら、一般的に思うのは花屋さんで売ってる花びらが重なってる方なのに」
「ああ、うちに咲いてるからね」

すぐに種明かしをしてしまう。

「うちの母親がバラを育てるのが趣味でさ。だからバラだけはたくさん見てるよ。個別の名前はよく分からないけどね」
「そうなんだ……? バラがたくさんあるお家なんて、なんだか素敵」
「そう? じゃあ、そのうち見においでよ」

――と。

また口が滑った! 家に遊びに来いだなんて!

「うん……、そうね、機会があれば」

これはたぶん困っている笑顔だ。そんなに仲良くしてるつもりはなかったんだ。ああ、失敗した!

「い、いちごが遊びに来たときには、よくお土産にあげるんだよ」

これでどうか、バラを見に来るのは何でもないことだと思ってくれますように!

「お土産に? バラを?」
「うん。だって、たいてい大量に咲いてるんだもん。そんなに大きな庭じゃないのにさ」

彼女が感心した様子でうなずいた。どうにか納得してくれたようでよかった。

でも……。

この様子だと、俺の気持ちを伝えるのはまだ早いかな……。




「あー……、動物園がこんなに楽しいなんて思わなかったー……」

空になったトレイの乗ったピクニックテーブルで、礼央が大きな伸びをした。雨は降らずに午前が過ぎ、今は昼ご飯の休憩中。

隣で頬杖をついたくぅちゃんが、そんな礼央にからかうように声をかける。

「最初は馬鹿にしてたくせに」
「ごめん。反省してます」

素直に頭を下げる礼央を三人の笑い声が取り囲んだ。

「お土産欲しいなあ。ぬいぐるみ」

つぶやいた礼央に「太河に?」と尋ねると「え? あ、そうか」としゃっきりした。考えていたのは自分用だったようだ。

ペットボトルを買いに行くとことわって立ち上がると、礼央が一緒についてきた。売店でぬいぐるみを見つけた礼央のテンションがまた上がり、つい俺も足を止めてしまう。

思ったよりも時間が経ったらしく、園内マップを持ったくぅちゃんが「遅いよ!」とやって来た。謝る俺たちと一緒に店を出ながら「こっちの売店にぬいぐるみがたくさんあるらしいよ」とマップを指し示す。

「だから、これからこの道を行って……」
「あれ? 礼央くん!」
「わあ、ほんとだ! 景ちゃんも」

いきなり名前が呼ばれた。あっという間に駆け寄ってきた女子数人。見覚えのある顔はうちのクラスの――。

「あ、このみちゃんたち……」

道中(みちなか)このみと元山(もとやま)泉美(いずみ)。あとのふたりは俺は知らないが、顔の広い礼央は名前も知っているらしい。いかにも道中たちの友だちという雰囲気の、賑やかで、おしゃれにも気を配っていますというメンバーがそろっている。

俺の苦手なタイプ……と思いながら不安で体温が下がった気がした。

しぃちゃんたちと一緒に来ていることを知られるのはまずいのではないだろうか。特に道中と元山はくぅちゃんに会わせてもらえないことに陰で文句を言っていたし、もしかしたらあとのふたりも、あのとき一緒にいた相手かも知れない……などと考えている間にくぅちゃんは静かに離れていった。

大丈夫だろうか。このまま切り抜けられるのか?

そっと礼央の様子をうかがうと、めずらしく緊張した顔をしている……。



「偶然だよねー、こんなところで会うなんてー」

嬉しそうにはしゃぐ女子たちに、礼央が「そうだね」と笑顔で調子を合わせる。俺もなんとか笑顔をつくって、こくこくとうなずいてみせた。

――どうかしぃちゃんたちが見つかりませんように。

見つかる前に隠れたほうがいいよ、と伝えたいけれど、少し先のテーブルでパンフレットに見入っているしぃちゃんは気付いていない。くぅちゃんは俺たちをはさんで彼女の反対側だ。

「バレー部で来たの? あれ? もうひとりいたよね?」
「ええと、いや、バレー部じゃないよ」
「そうなんだ? 誰?」

俺たちが言葉を濁している周りで、四人がきょろきょろする。一緒に行動しようとでも言うつもりなのだろうか? くぅちゃんは隠れたのか?

恐る恐る振り向くと、売店の棚をながめているくぅちゃんの背中が見えた。もしかしたら、俺たちの横をすり抜けてしぃちゃんのところに戻ろうと様子をうかがっていたのかも知れない。

「うちの学校のひと? 脚長いね」
「同じ学年? こんにちはー」
「よかったら午後は一緒にまわらない? たくさんの方が楽しいと思うけど」

彼女たちは間違いなく、俺たちが男同士で来たと思っている。

「ああ、うちの学校の生徒じゃないんだ。久しぶりに会ったからできれば――」

礼央があわてて説明するけれど、四人の視線はくぅちゃんに向いたままだ。

くぅちゃんはこちらの気配で、このままでは済まないと思ったらしい。キャップのつばに手をかけ、うつむき加減に振り向いて会釈した。それを隠すように礼央が「あのさあ」と、間に割り込む。

「え?! もしかして?!」

元山が叫ぶような声をあげた。その勢いで礼央を押し退け、一気にくぅちゃんに迫る。

Kuran(クラン)ちゃん?! Kuranちゃんだよね?!」

「えっ?!」という声が残った三人からあがる。通りかかったひとたちが何事かと視線を向けた。向こうのテーブルでしぃちゃんがはっと顔を上げたのも見えた。

あっという間に四人は俺たちから離れ、黄色い声をあげてくぅちゃんを取り囲んだ。

「Kuranちゃん! すごい! 本物!」
「カッコいい! いつも応援してるよ~」
「男の子かと思った! でもすごいカワイイ!」

仕事で慣れているのだろうか。くぅちゃんが屈託のない笑顔で話を合わせているのはさすがだ。

振り返ると、しぃちゃんが慌てた様子でテーブルの上を片付けている。俺はその姿をおろおろした気分で見ているだけで、どうすべきなのか決められないし、彼女がどうするつもりなのかも分からない。

――どうしたらこのハプニングをやり過ごせる?

あの子たちはくぅちゃんに会って満足したら、いなくなってくれるのか? それともますます「一緒に」と言われる? しぃちゃんはどうなる?

ああ、何もかもごちゃごちゃだ!

「でも、どうして礼央くんたちと一緒にいるの?」

耳に飛び込んできた質問。一番訊かれたくなかったやつだ。

俺と礼央が覚悟を決める前に、女子たちがさっとあたりを見回した。そして。

「紫蘭」

道中が鋭い声で呼びかけた。その視線を追って、あとの三人も近付いてくるしぃちゃんを見つけた。しぃちゃんは微笑みを返したけれど、その笑顔が普段よりも弱々しく見えるのは思い違いじゃないと思う

「偶然だね。四人で来たの?」

しぃちゃんも、四人とも顔見知りらしい。

「まあね。紫蘭たちも四人で?」

元山の声の調子に胃のあたりがざわりとした。そう言えば、さっきまで聞こえていたほかの三人の声が消えている。

一、二秒の間のあと、しぃちゃんが「うん」と小さくうなずいた。

「へえ。あたしたちとはいつも日程が会わなかったのにね?」

しぃちゃんに向けられたわざとらしい表情と言葉が俺の胸にも突き刺さる。

元山を取り巻く三人は多少の戸惑いを見せつつも、しぃちゃんに向ける視線は責めるような色をたたえている。

「あ……、ごめんね」

しぃちゃんがうつむいてしまう。

――どうしよう?

女子たちの尊大で不機嫌な態度が怖い。不安で息苦しさも感じる。

こんなふうに怖じ気づいている自分が情けないけれど、何を言っても反撃されそうだし……。

「あ、あのさ」

礼央が軽い口調と笑顔で割って入った。

「これは、俺から頼んだんだよ。しぃちゃんは仕方なく――」
「へえ、そうなんだ?」

元山が勝ち誇ったような顔をしぃちゃんに向けた。説明した礼央ではなく。

「男子の頼みだったらきいてあげるんだね。なんかさあ、下心見え見え」

ぱっとしぃちゃんが顔を上げた。そこに広がっているのは驚愕の表情。

「べつに男子とか女子とかは――」
「関係あるでしょ? あたしたちが何度頼んでも会わせてくれなかったのに、礼央くんはOKなんだから」

しぃちゃんの言葉は最後まで聞いてもらえなかった。口を封じられたようなしぃちゃんに、ほかの三人も厳しい目を向ける。

「そうだよねぇ。あたしたちにはいつも『都合が悪い』って即答で」
「毎回じゃ、嘘だって分かるよね?」
「そうそう。あたしたちのこと、馬鹿にしてる証拠」
「適当にあしらっておけばいいやって思ってるよね?」
「あの……そういう言い方、やめようよ」

ようやく声を出せた。心臓がバクバクして汗が噴きだしてくるけれど、これではあまりにもしぃちゃんがかわいそうだ。

「もともとは偶然で――」
「景ちゃんも礼央くんもやさしいからね」

強い視線と声が今度は俺に向けられる。思わず“怖い”と思って、言葉が止まってしまう。

「紫蘭の真面目そうな雰囲気に騙されてるんだよ。『あたしは男の子に興味ありません』って顔して、こっそり(こび)売ってんじゃん。あたしたちよりよっぽどしたたか」

勢いに飲まれてしまった俺の前で、名前の分からない女子が元山の腕にそっと手をかけた。ちらりと周囲に向けた視線の様子では、もうこの辺でやめた方がいいと思ってくれたようだ。通りかかる人たちがさり気なく俺たちを見ているから。

元山は一瞬、その子に怒った目を向けたものの、すぐに力を抜いてうなずいた。少しは言い過ぎたと思ってくれただろうか。

礼央と俺に気まずそうにうなずいて、四人は足早に去っていった。

「……ごめんね」

しぃちゃんの声。弱々しい、悲しげな声だ。

「あたしがもっとみんなと上手に付き合えてたら……」
「しぃちゃんのせいじゃないよ」

これだけはちゃんと言わなくちゃ。さっきは何の助けにもならなかったのだから、今は。

「向こうだって、くぅちゃんに会いたくてしぃちゃんを利用しようとしたんだろ? それを断ったからって、文句を言われる筋合いはないよ」

言いたいことはほかにあるような気がするのに、言葉にできたのはこんな分かり切ったことだけ。

後ろから「しぃちゃん」と声がして、くぅちゃんがしぃちゃんの前に進み出た。

きらきらと光る瞳とその決然とした表情は見覚えがある。初めて会ったあの日、それは礼央に向けられていた……。

「どうしてあんなこと言われて黙ってるの? しぃちゃんは悪くなんかないよね? ボクを守ってくれてたんでしょ?」

――やっぱり怒ってるみたいだ……。

だけど、その対象はしぃちゃん? さっきの女子たちじゃなくて?

驚いているのは礼央も同じらしい。呆気にとられた様子でくぅちゃんを見ている。

「正しいことならちゃんと言い返してよ。男子に媚売ってるなんて言われて黙ってるしぃちゃんなんて嫌だ。ボクのために我慢なんかしてほしくない。ボクは覚悟できてるんだから。間違ったこと言われてるのに怒りもしないで謝るだけのしぃちゃんなんか見たくないよ」

息継ぎで、くぅちゃんの言葉が途切れた。

我に返った礼央と視線を交わす。お互いにいい考えが浮かんでいないことが判明し、急いで考えなくちゃと思ったそのとき、礼央の腕をくぅちゃんがつかんだ。

「行こう、礼央」
「え?」

展開について行けずにあわてる礼央。その腕を、くぅちゃんが「早く」と引っ張る。

転びそうになって向きを変えながら、礼央が俺に向かってうなずいた。俺も心の中で「分かった」とうなずく。礼央はくぅちゃん、俺はしぃちゃん。ふたりが落ち着くまで話さなくちゃ。

園路を曲がってふたりが見えなくなり振り向くと、しぃちゃんはうつむいて肩を落としていた。力なく下がった腕の下でワンピースの輝くような白さが悲しい。

「ごめん、景ちゃん」
「俺に謝る必要なんてないよ」

少し先のベンチに彼女を誘導する。そのあいだも彼女は顔を上げなかった。

「気にしないほうがいいよ」

ベンチに落ち着いてからそっと伝えた。けれど、しぃちゃんはうつむいたまま動かない。

「元山たちはしぃちゃんを傷付けようとして、わざと酷い言い方をしてるんだから」

そう。あれは悪意で捻じ曲げられた言葉だ。

言葉は怖い。ひとつの事実をどんなふうにでも表現することができる。あるときは大袈裟に。あるときは裏の意味を滲ませて。

傷付けることも、怖がらせることも、疑惑を植え付けることも可能だ。

「ん……、そうかも知れないけど」

しぃちゃんがつぶやくように言った。

「やっぱりあたし、ダメなんだよね。いくら頑張っても、ちゃんとみんなに馴染めなくて。だからあんなふうに言いたくなるんだと思う」

深い深いため息をついてから、ようやく彼女が俺を見てくれた。そこに浮かんだ微笑みは、穏やかなのに空っぽに見える。

「ごめんね、変なことに巻き込んじゃって。景ちゃんも礼央くんも、……くぅちゃんだって悪くないし、関係ないのにね」

もう一つため息をついて、視線を遠くに向けた。

「あたしがダメで、弱虫なだけなんだ。結局、自分のことしか考えてないんだよ。ほんと、やなヤツ。なのに男の子と出かけるなんて、図々しいよね、ふふふ」

苦々しく笑うしぃちゃんを見ていると胸が痛くなる。

頭に浮かぶ励ましの言葉は彼女を癒すには不十分な気がして、片っ端から却下している――。




頭の中を整理するために深呼吸をしてみる。脳にたくさん酸素を送って、しっかり働いてもらわないと。

とにかく何か言わなければ始まらない。

「しぃちゃんはダメじゃないよ」

沈黙があまり長くならないうちに声を出す。安っぽくても不十分でも、黙っていたら何も伝わらない。

「それに、関係なくなんかないよ。友達だし、仲間だもん。関係ないわけないじゃん」

大丈夫だ。しっかりしゃべれている。これならどうにか行けそうだ。

彼女が言ったことは間違っていると、しっかりと伝えなければ。

「しぃちゃんは俺が困ってるときにちゃんと助けてくれたよ? だから、自分を嫌なヤツだなんて言っちゃダメだよ」
「……うん。ありがとう」

ありがとうと言っていながら、しぃちゃんが俺と距離をとっているように感じる。並んで歩いていたさっきまでと、実際の距離は変わらないのに。俺の言葉がブロックされているようでもどかしい。

「それにさ」

負けちゃダメだ。しぃちゃんの心のドアが閉じてしまったら簡単には開けられない気がする。

「元山たちって、俺も苦手だよ。ああいうタイプと馴染めないのはしぃちゃんだけじゃなくて、俺も同じだよ。気にする必要ないって」
「景ちゃんは男の子だから……、あたしとは違うよ」
「それは……」

言葉に詰まってしまった。性別を、理解できない理由に挙げられると反論のしようがない。

彼女が顔を上げた。そこに浮かんだ微笑みは弱々しくて、まるで何もかもあきらめてしまったように見える。

「泉美たちは普通だよ? 仲良くしてる子たくさんいるし、いつも楽しそうで、一緒にいると盛り上がるし、みんな泉美たちといるの好きだもん。だけど、あたしは……上手くいかない」

ふっと息をついて、彼女は視線をはずしてしまう。

「あの子たちとだけじゃないんだよね。ほかのひとと話しててもしょっちゅう感じる。その場の雰囲気を壊しちゃったり、受け答えが普通の枠からはみ出しちゃったりして、周りが困っちゃうこと、よくあるの。またやっちゃったなあって思うんだけど、ちっとも直らなくて……」

またため息。

「要するに、あたしが変だってこと。だから、話に相槌を打つだけにするとか、当たり障りのないことを答えるとか気を付けていたんだけど……。そうやって話を合わせてることが、馬鹿にしてるって思われちゃったのかもね」
「話を合わせることなんて、誰でもするよ」
「でも、あたしはそれが下手だったってこと。やっぱり普通の範囲には入れていない」
「それは……」
「そんなあたしが男の子と出かけたりしちゃいけなかったんだよね……」
「そんなこと……」

その理屈は絶対におかしい。

「たしかにしぃちゃんはほかの女子たちとは違うかも知れない。違うかも知れないけど、だからって“変”だなんてことにはならないよね? それに、なんで男と仲良くなっちゃいけないんだよ? そのルール、相手にも適用されるの?」
「それは……」
「俺や礼央が誰と仲良くなるかは、俺たちが自分で判断することだよ。周りがどう思うかなんて、それこそ関係ないじゃん」

彼女は反論できないのだろう。唇をきゅっと結んで黙ってしまった。

「しぃちゃんは変じゃないよ。いちごだってしぃちゃんのこと、ちゃんと認めてるよ? 礼央も、しぃちゃんが変だなんて思ってないし」

そう言えば……。

しぃちゃんは、女子に苦手意識のある俺が異例のスピードで仲良くなれた女の子だ。いちごのお陰もあるとしても、だ。それはつまり、彼女が一般的な女子とは違うということを示していると言えなくもない。

だとしても。

それは断じて悪いことではない。しぃちゃんがしぃちゃんであることに意味があるということだ。

そうだ。それを伝えないと。

「俺だって――今のしぃちゃんのこと、いいと思ってる。ほかの女子とは違うからこそたくさん話したいって思うんだよ」
「今のあたし……ね」

懸命に伝えたのに、しぃちゃんはなぜかなげやりな表情で「ふふっ」と笑った。

「景ちゃんが見てるのはあたしが創ったあたしだよ」

笑っているのに、向けられた瞳は暗い。

「いつもにこにこして前向きなことを言って。でも、それは単なる自己防衛なの。周りから攻撃されないように、いい子になっていただけ。いい子に見えるように振る舞っていただけ。ほんとうのあたしじゃないの」
「しぃちゃん……、そんなことないよ」

俺の言葉が届いていない。こんなにも俺は無力なのか。

「あたし、弱虫なんだ。みんなに文句言われないようにってことばっかり考えてるの。ずるいんだよね」
「そんなことない。違うよ。そうじゃない」
「景ちゃんは善意のひとだから、創りもののあたしをそのまま信じてくれたんだね。ごめんね」

俺の心は彼女の言葉が間違いだと知っている。けれど、彼女の表情から、俺が何を言っても跳ね返すつもりだと分かってしまう。

どうして俺の言葉を信じてくれないのか。もどかしさで胸が詰まる。

「くぅちゃんは勘違いしちゃったみたいだだけど……」

静かに言ってうつむく彼女。

「優しいんだよね。でも、さっき黙ってたのだって、自分の身を守るためだもん。反論したらもっとたくさん言われると思って怖かったの。くぅちゃんのためじゃないって、あとでちゃんと説明して謝らなきゃ」

そして顔を上げ、にっこりした。

「ね?」

――彼女の扉が閉まってしまった……。

間に合わなかった。俺の言葉では足りなかった。俺では役に立たなかった。

しぃちゃんはすっかり決めてしまった……。

「ごめんね、景ちゃん。せっかく仲良くしてくれたのに、なんか……本物じゃなくて」

肩をすくめて笑う彼女。でも、俺は笑えない。

「しぃちゃん。本物じゃないなんて俺は」
「ということで」

しぃちゃんが素早く立ち上がる。振り返った表情はあまりにもさっぱりしていて。

「あたし、帰るね」
「え?」

膝がまるでばね仕掛けのように伸びた。

「じゃあ俺も」

俺を見上げる瞳は今までと変わらないように見えるのに。

「ごめん。ひとりで帰るから」
「でも」
「ごめんね。その方がいいんだ。少し、ひとりで歩きたいの」
「だけど――」

もし自分だったら……、と頭をかすめた。

もし俺がしぃちゃんの立場だったら、きっと、ひとりになりたいと思うだろう。ひとりになって、いろいろなことを考えて、たくさん考えて。だけど……。

「大丈夫」

しぃちゃんが明るく言った。俺が何を心配しているか、彼女はちゃんと分かっているのだ。聡明な彼女だから。

「気を付けて帰るから。途中で事故に遭ったりしないし、明日はちゃんと学校に行く。帰ったらくぅちゃんと仲直りもする。だから心配しないで。それにね」

いたずらを打ち明けるような上目遣いで微笑む。さっきまでならときめいたであろうこんな表情も、俺に心配させないためだと思うと寂しさを感じるだけ。

「くぅちゃんの荷物、渡してもらいたいんだ。テーブルに置きっぱなしだったから」
「え……」
「これ」

差し出された布製のバッグはたしかにくぅちゃんのものだ。そう言えば、俺たちを売店に迎えに来たくぅちゃんは地図しか持っていなかったかも……。

「お財布もスマホも入ってるの。だから、あたしが持って帰るわけにはいかないんだ。悪いけど、景ちゃんから渡してもらえる?」
「それは……」

礼央に連絡したら、すぐに戻って来るだろうか? でも、くぅちゃんがまだ落ち着いていなかったら気がつかないかも知れない……。

「お願い」

嫌だと言えば、彼女は帰れない。それなら……。

「……そうだね。分かった」

ひとりになりたいという彼女の気持ちを思うと断れない。

「ありがとう」

礼央たちが戻って来ないかと、望みを託して見回してみる。けれど見当たらない。

「じゃあ、あたし行くね。景ちゃん、ほんとうにごめんなさい。礼央くんにもちゃんと謝るから。じゃあ……、明日ね」
「うん……、明日」

ワンピースの裾が翻る。

遠ざかっていくしぃちゃんのうしろ姿にそっと「絶対だよ」と声をかけた。

――明日、絶対に、いつもと同じように笑顔で「おはよう」って言おうね。

彼女は振り返らないまま見えなくなった。

俺の手にはくぅちゃんのバッグ。胸の中には虚しさと不安と……バランスをとるために練り上げた期待。

彼女はきっと気持ちを整理できる。明日にはまた元の関係に戻れるはずだ。閉じてしまった扉もきっと開く。

礼央に連絡するためにスマホを取り出してからベンチに戻った。メッセージには、ここで待っていることだけを書いた。

しぃちゃんが帰ったことはふたりに直接話した方がいい。くぅちゃんの荷物がここにあるのだから、落ち着いたら戻って来るのは間違いない。

ふたりが戻ったら、俺もすぐに帰ろう。急げばどこかでしぃちゃんに追いつくかも知れないし。

それにしても……。

しぃちゃんがあんな悩みを抱えていたなんて。

みんなと違うこと。“普通”からはみ出していること。

悩んで、傷付いていたのだ。ずっと、ひとりで密かに。

悩みが深くて傷付いていたからこそ、俺には――おそらく誰にも――言わなかったのだ。俺もそうだから分かる。本当に深く傷付いたときには礼央にだって話さない。

そんな中で彼女は『五輪書』と出会った。そして、俺が気付かなかった「比べることの無意味さ」というエッセンスをキャッチした。彼女には“みんなと違う”という悩みがあったから。

俺に「比べるのをやめる」と宣言したときは嬉しそうだった。あんなふうにきっぱり言ったのは、自分に言い聞かせるためでもあったのかも知れない。

俺は、そんな彼女の一面しか見ていなかった。

前向きに努力する理由を自分と似たようなものだと思って、彼女を理解したつもりになっていた。もっと深い悩みがあることに気付かなかった。

――やっぱり俺って……甘いのかな。

家族や経済的な心配があるわけじゃない。他人から攻撃されたりもしていない。存在感が薄いことなんて、そう度々問題になるわけではない。礼央やしぃちゃんの状況を考えると、自分は恵まれていると思えてくる。

――あ。俺、今、比べてる。

比べるって……。

劣っていると悲しいのは当然だけど、恵まれているからといって嬉しいとは限らないんだな……。