次の日、朝練から教室に行く途中、一年生部員二人が俺の名を呼んで追いかけてきた。しぃちゃんの様子を確認するために早く教室に行きたかったけれど、真剣な顔のふたりを見たら「あとで」とは言えない。

礼央は気を利かせて先に教室に行った。ところが、なかなか言い出せない様子のまま時間が過ぎていく。いったいどれほど重い相談なのか、いやそれよりも、これではしぃちゃんどころか遅刻になってしまうかもと不安になってきたころ、やっと伝えられたのは、

「高砂先輩は僕たちの何が気に入らないんでしょう?」

だった。一年生全員が同じように不安を感じていて、このふたりが代表で話に来たという。

なるほど、高砂は部活中は不機嫌に見える。太い眉とぎょろりとした目が迫力があるし、男だけのときには笑わないからだ。だけど、べつに怒っているわけじゃない。ただ、顔が怖くて真面目なだけだ。高砂から一年生に対する不満を聞いたこともないし。

難しい相談じゃなくてよかったとほっと――というよりも脱力――しながら説明すると、尚も一年生は食い下がった。彼らのクラスの女子が高砂のことを「面白い先輩」と言ったと。なのに、入部して一か月、ほぼ毎日顔を合わせている自分たちはまだ親しく話したことも、笑顔を見たこともない。それは自分たちが嫌われているからではないか?

――高砂め。

女子の前でだけ態度が変わるなどと説明したら、高砂の人間性に問題があるように思われそうだ。先輩としての威厳にも関わるだろうし。こういうとき、礼央が一緒にいてくれたらフォローしてもらえるのに。

とりあえず、高砂は俺たちにも笑顔は滅多に見せないのだと話して納得してもらうしかない。笑顔は女子のために温存しているとは後輩には言えない。歯切れの悪い説明に疑惑の表情を向けながらも、ふたりは一応了承して戻って行った。

なんだか疲れた気分で教室に着くとちょうどチャイムが鳴り、しぃちゃんに「おはよう」を言う暇もなかった。

休み時間に理科室へと移動しながら礼央に一年生の相談の内容を話すと景気よく笑ってくれた。そして「たいへんだったねえ」と労ってくれた。

「でも、景だから相談しに来れたんだと思うよ。ツッキーはバレーにストイックなところがあるから、バレー以外の相談はしづらいよね」

ツッキーというのはうちのエースで部長の津久井のことだ。礼央が言うとおり、バレーボールに文字どおり青春をかけている津久井には、同学年の俺でも同じレベルで話すことに気後れを感じることがある。同じくバレーに熱心でも少し抜けたところのある高砂とは違うのだ。礼央は持ち前の人懐こさで「ツッキー」なんてニックネームを付けてしまったけれど。

「高砂に、一年生ともう少し話すように言ったほうがいいかなあ?」

考えながらつぶやくと、礼央は「そこまでしなくてもいいんじゃない?」と明るく答えてくれた。

「俺たちが高砂を適当にコントロールしようよ。そのうち、一年生にも分かると思うよ。それにしても、高砂を面白いって言った一年の女子って、あの図書委員の子たちかなあ? ほら、電車で会ったって話したよね?」
「あ! 今朝のふたりって何組だっけ? そういえば1組だったような……」

その可能性が高い。どうもあの図書委員の一年生コンビは俺の日常に小さな波を立てるめぐり合わせのようだ。

ため息をつきながら、胸の中ではほっとしていた。礼央が今回の件について一緒にフォローしてくれると分かったから。持つべきものは礼央のような友だちだ!

一つ事件が片付いて、やっとしぃちゃんと話せる――と思ったら、次の休み時間に声をかけてきた田原(たはら)理久(りく)。後ろに半分隠れるように大和若葉(やまとわかば)の姿が。九重祭の劇担当の組み合わせに、嫌な予感が一気に膨れあがる。

「景と礼央も劇に出てほしいんだよ」

見事に予感的中だった。よろけそうになって、礼央の肩につかまった。

「ほら、主役のふたり、引き受けてくれたけど、大鷹はちょっと困ってただろ? だから今度は事前に伝えた方がいいってことになって」
「それ、断っても……?」
「断るのはなしにしてほしい」

理久がきっぱりと言った。

「希望を聞いてるときりがないし、大和がそれぞれのイメージでシナリオ書いてくれてるんだ。それに、相模と大鷹は断れない状況で引き受けてくれたわけだからね」
「うん、そうだね」

礼央が返事をしてくれた。それを胸の中で繰り返す。うん、そうだ。あそこで断るわけにはいかなかった。そのとおり。

「俺たち、どんな役?」

動揺が収まらない俺のために礼央が尋ねる。そうだ。役が大事だ。もしかしたらナレーションとか――。

「染井くんは呂海雄(ろみお)の友人で、鵜之崎くんは珠璃(じゅり)のお父さん」

半分隠れていた大和が前に出てきてきっぱりと言った。メガネ越しの瞳の真剣さに、思わず体を引いてしまう。でも、お父さん……?

「染井くんの役は呂海雄を悪ふざけに誘ったりするお金持ちの友だちなの。医学生で勉強ばっかりしてる呂海雄を遊びに連れ出して、そこで珠璃と会うの」

なるほど。それは礼央向きの役だ。でも……。

「鵜之崎くんは厳格なお父さん。明治維新のあと商売を始めた元武士の家を継いでいるけれど、商売は上手くいっていなくて、家を守るために娘を羽振りのいい家に嫁がせたいと思ってるの」
「ひでぇ父親……」

俺の役はそれか……。

俺、そんなキャラに見られていたのか……。しかもおじさんだし……。

「あ、あの、べつに鵜之崎くんがこういうひとだと思ってるわけじゃないよ? これは誰かがやらなくちゃいけなくて、鵜之崎くんの背の高さなら厳格なお父さんの雰囲気でるなあって」
「劇だからさあ、いい役も悪役もあるんだよ。見る方も分かって見てるわけだから、嫌なキャラクターを演じても、本人がそうだなんて誰も思わないよ」

大和と理久の説明が単なる言い訳にしか聞こえない。頭では理解しているけれど、最初に「イメージでシナリオを書いている」と言ったじゃないか。それがどうしても引っかかってしまう。

「分かってる」

納得しきれていなくても、笑ってこう言うしかない。ここで俺がゴネたら、頑張っているこのふたりがかわいそうだ。でも、舞台に上がる覚悟は簡単にはできなくて、「大丈夫」も「頑張るよ」も言えなかった。

次のターゲットに向かうふたりを見送りながら、礼央にとりあえず宣言してみる。

「俺、『ロミオとジュリエット』を読んでみる」
「ああ、それいいかもね」

うなずいた礼央が笑いをこらえているのを感じる。だから思い切って。

「礼央ぉ、俺、おっさんっぽいかなあ……?」
「えぇ? 景、何言ってんの?」

驚き方がわざとらしい。でも、それも俺を笑わせるためだ。

「景のどこがおっさんだって? 顔かな? いや、皺ないし。髪には……白髪なし。もしかして加齢臭とか?」
「うわ、それはダメだ。それはないから! 絶対ない!」
「あははは、当然だよ。十代は臭くても加齢臭って言わないもんね」
「え、俺、臭い? 汗臭い? スプレー使ってるけど」

急いで自分のシャツの匂いを嗅いでみる。でも、よく分からない。しぃちゃんに臭いなんて思われたら困るのに!

「大丈夫。一緒にいて、今まで気になったことないよ」

落ち着いた礼央の答えに、とりあえず気分が静まった。まあ、焦ってもすぐにどうにかなるものでもない。

「俺は、劇に出るのは面白そうだなって思ってるよ」

礼央がにやりと俺を見る。

「ま、俺はおっさん役じゃないけどね」
「だよなあ?」

でも、だいぶ受け入れられそうな気分になってきた。よく考えると、別な人間になるのは面白いかも知れないし、礼央やしぃちゃんと一緒に練習するのも楽しいだろう。劇に出るなんて、俺の人生で一度きりのことだろうし。

「シナリオ書くのって大変だろうなあ」

受け入れられそうだと感じたら、大和の仕事に思い至った。セリフに個々のキャラクターの性格を出す必要があるだろうから、モデルがいた方が書きやすいというのはそのとおりなのだろう。

――いや、だけど……。

だからって、俺をおじさん役に当てはめようと思われたショックはやっぱりあるわけで。大和は俺の背の高さのことだけしか言わなかったけれど。どうしても出なくちゃならないのなら、もう少し若い役がよかったな……。

「景ちゃんも劇に出るんだってね?」

昼休みに『ロミオとジュリエット』を借りて教室に戻るとしぃちゃんが駆け寄ってきて言った。

「あ、うん」

礼央がこっそり笑いながら俺から離れて行く。遠くから見守ってくれるつもりらしい。

「あたしのお父さんの役なんだって?」
「うん……、そうらしいよ」
「面白いね。どんなお父さんになるんだろう? ね?」
「そう……だね」
「厳しいっていう設定だから、あたしのこと怒るのかな? 大きな声で」

なんだか想像と違う。しぃちゃんは楽しそうだ。ちょっとはしゃいでいるようにも見えるけど……?

「景ちゃん、もっと胸を張らないと! 元武士の家系なんだから」
「え? え? こんな感じ?」
「そうそう」

点検するように眺められて、どんな顔をしたらいいのか困ってしまう。

「あのね、楽しんでやろうね」

その口調にはっとした。彼女の表情は静かで、向けられた瞳はやさしげで……。

「嫌だって思ったままじゃもったいないって思ったんだ。最初はショックで、いちごと景ちゃんに心配かけちゃったけど」

そうだ。主役の彼女は俺よりももっと大きなショックだったはずだ。

「今はだんだんキャストが決まってきて落ち着いてきた。一人じゃないって分かったから」

そこでちらりと俺を見た表情が――。

「景ちゃんもいるし」

自分が特別だと思ってしまいそうだ……。

「あ……、これを読んでみようと思って」

後ろポケットから借りてきた文庫本を取り出す。

「なに? あ、『ロミオとジュリエット』! すごい。えらい」

彼女が目を丸くした。

「いや、まあ、原作を知りたいと思って……」
「原作って戯曲でしょう? じゃあ、中は」
「うん。セリフになってる」

実はこんな本があるとは思っていなかったのだ。雪見さんに見せられてびっくりした。

「景ちゃん、やっぱり真面目」

笑われてしまったけれど、しぃちゃんの笑顔を見ると、心がリラックスして大きく翼が広がるような気がする。これも彼女の魔法の効果だ。

彼女に礼央たちと出かける話を確認しなかったことを思い出したのは、ベッドに入ってからだった。でも、礼央から中止の連絡もないし、きっとしぃちゃんもOKなのだろう。