――よし。やっぱり連絡してみよう。

ようやく心が決まったのは夜になってからだった。

劇の主人公に決まったしぃちゃんのことが心配になったのは部活が始まる前。部活が終わり、帰り道でまた思い出し、それからずっと迷いに迷って、やっと今だ。

もしかしたら、もう彼女の中では気持ちの整理がついているかも知れない。でも、そうじゃないかも知れない。俺が役に立つことだってあるかも知れないじゃないか。彼女のためになるのなら、俺の弱気など後回しだ。

ということで、少々遅い時間だけれど、電話してみることにした。メッセージでは大事なことを伝えきれないような気がしたから。

『……景ちゃん?』

探るような気配を含んだ声がした。

「うん。ごめんね、夜に」

鼓動が少し早くなっている。でも、今日はちゃんと最初の言葉を考えてあるから、以前よりは余裕がある。

「今日のホームルームのこと、大丈夫かな、と思って。劇の主役に指名されたこと」
『ああ……』

一呼吸置いてから、『ありがとう』と声がした。

『心配してくれたんだね』
「うん、まあ……。主役おめでとう……じゃない、よね?」
『全然おめでとうじゃないよ~!』

ためらいつつ発した質問に、勢いよく答えが返ってきた。やっぱり言えずに溜めこんでいたことがいっぱいあるのだ。

『なんであたしなの? 声なんて、運動部のひとだって出るでしょう? やりたいひと、絶対いるでしょ? 舞台映えする子だっているでしょ? そういうひとが練習頑張ればいいじゃない。あたしである必要、ある?』

一気に言って、そこでひと息。

『――って感じのことを、いちごに散々聞いてもらった』
「あ、そうか」

しぃちゃんにはいちごがついているんだった。俺に礼央がいるように。俺が慰めなくても――。

『でもね、ちっとも心が晴れない。ひとりになると、あのときのこと思い出しちゃって』
「そうか。じゃあ、電話してみてよかったかな」
『うん、もちろん』

彼女は嬉しそう――と思うのは都合が良すぎるだろうか。

「名前が出たとき、びっくりしたよね」
『うん……』

あのときの景色は俺の記憶にも焼き付いている。

名前を呼ばれた瞬間、こわばったしぃちゃんの背中。集まる視線と、おろおろと断ろうとする彼女の声。黒板の前では九重祭委員と理久と大和が期待や不安の表情で注目している。そして、横からかかった宗一郎の声。それを聞いた彼女が数秒、動きを止めて、その後、力の抜けた肩ががっくりと下がった……。

「事前に何もなかったんだ?」
『そう。若葉がシナリオを書くっていうのは知ってたけど、今日のホームルームまでは案が三つあったでしょう? だから言わなかったんだと思うけど……』

ため息が聞こえた。

『いろんな声が頭を駆けめぐった。みんながきっと思ってるに違いないこと。『なんでコイツ?』とか、『断るなんてカッコつけてるだけ』とか、『どうでもいいじゃん』とか。自分でも、素直に引き受けたら『いい気になってる』って思われそうだし、逆に断っても反感買いそうで、頭の中ぐちゃぐちゃだった』
「苦しかったね」
『うん』

しみじみした声。突然、肩を抱いてなぐさめたい、という思いがこみ上げる。でも、俺の隣はからっぽだ。

『まあ、よく考えてみれば、あそこで指名された時点で、もう断っちゃダメなんだよね。盛り上がってる雰囲気に水を差すことになるし、選んでくれた若葉たちにも悪いしね』
「うーん……、それはそうかも知れないけど……」
『ね? びっくりして『無理』って言っちゃったけど、あのとき、相模くんが声かけてくれてよかったよ。あきらめがついたから』
「そうか……」

宗一郎のあのひとこと。それが「よかった」?

俺はそんな意味にはとらえていなかった。彼女の逃げ道を塞いだように感じていた。でも、あれがしぃちゃんを落ち着かせるための言葉だったとしたら……。

――有り得る。

いつも余裕のある態度の宗一郎は、一段上から状況を見ているようなところがある。だから生徒会にも向いているわけで。

たしかに、あそこで宗一郎が「やろうよ」と言わなかったら、話し合いが混乱して、彼女が非難されるような雰囲気が生まれたかも知れない……。

「じゃあ……、覚悟ができてるんだね」
『覚悟か……。ふふ、うん、そうだね。まさに覚悟って感じ。まな板の上の鯉的な?』
「あはは、でも俺は」

一瞬迷う。でも。

「あー…、似合ってると思うけど」

思い切って口に出した瞬間、心臓がひときわ大きくドン、と打った。思わず止めた息をゆっくりと吐く。

『えぇ? ほんとう? 命がけの恋をする少女役が?』

心底驚いた声。

『ふふふ、そっか。どうもありがとう』

俺が勇気を出した言葉を、彼女は単なる慰めのお世辞と受け取ったらしい。その可能性は予測していたけれど、やっぱりがっくりくる。

『ねえ? 景ちゃんも一緒に出ようよ、劇』

彼女の声が明るくなった。と思ったら、早速、俺をからかい始めた。

「そんな。無理だよ、俺には」
『そんなことないよ。そしたら一緒に練習できるじゃない。ね?』

――一緒に……?

一緒にって言った? つまり、一緒に練習できたら嬉しいってこと……でいいんだよね?

「そりゃあ、やってみたら面白いかも知れないけど……」
『そうだよ! きっとそう。やってみたら面白いよ、きっと』
「うーん……」

練習風景が目に浮かぶ。しぃちゃんは宗一郎と恋人同士の役をやるわけだけど、その場に俺もいれば、彼女と一緒の時間を確保できる。宗一郎が劇の中以外で彼女に近付くのを阻止することも。

だけど。

「やっぱり無理だ、俺には」
『え~? どうして?』

断る俺を不満に思ってくれるのは嬉しい。嬉しいけど。

「舞台の上でしゃべるなんて絶対無理。考えただけで気が遠くなりそう」
『そんな。でも、景ちゃん、バレー部で試合に出るでしょう? 同じようなものじゃない』
「いや。バレーにはセリフなんかないもん。ボールに集中して動いていればいいだけで」
『むぅ』

あれれ。もしかして、ふくれてる?

いつもと違うしぃちゃんを見てみたい。やっぱり電話じゃ物足りないな。

物思いの隙に電話の向こうで『あ』という声。それから『ちょっと待ってて』の数秒後。

『もしもし? 紅蘭です。景くん、元気?』
「わ!」

しぃちゃん以外がいることを想定していなかった! 思わずスマホを耳から離して見つめ、あわてて戻した。

「あ、ああ、くぅちゃん? 久しぶり。びっくりしたよ」
『えへへ。ボクたち、同じ部屋だから。今、居間から戻ってきたの……って、ダジャレのつもりじゃなくて』
『くぅちゃん、恥ずかしいからやめてよ、へんなダジャレ。あ、ごめんね、景ちゃん。ちょっとあいさつする? って言ったら……』
「ううん、いいよ。くぅちゃん、元気そうだね」

俺の言葉はよく聞いていないようで、なにやらごにょごにょ話し声が聞こえる。ふざけ気味のくぅちゃんをしぃちゃんが諫めているようだ。すぐにくぅちゃんの『分かった分かった』という声がして、今度ははっきり『ねえ、景くん』と聞こえた。

『副部長になったんだって? バレー部の。すごいね』
『え? あたし聞いてない』

しぃちゃんの責めるような声。たしかに俺は誰にも言っていない。

「どうしてくぅちゃんが――って、礼央か」
『うん。景くんなら適任だって、礼央が言ってたよ』
「あはは、適任なんていう言葉を使うほど複雑な仕事はないみたいだけどね」

くぅちゃんは礼央との電話でもこんなふうに話すのだろうか。だとしたら楽しそうだ。

『景ちゃん、どうして教えてくれなかったの?』

今度はしぃちゃんだ。やっぱり少し不満らしい。

電話で聞くと、ふたりの声が似ていることが分かる。でも、くぅちゃんの方が勢いのある話し方だ。

「べつに報告するほどのことじゃないと思って」
『教えてくれてもいいのに』
「んー、ごめん」

最近、話す回数が減っていたことに、しぃちゃんは気付いてないのかな。でも、それでも俺との関係が変わっていないと思っているのは喜ぶべきことなのかも――。

『こんなふうに拗ねてるけどね』

今度はくぅちゃんの声がした。

『しぃちゃん、さっきまではため息ばっかりで、もう暗くて暗くてしょうがなかったんだから』
『くぅちゃん!』
「うわ」

叫ぶような声のあとはごそごそ音がする。スマホの取り合いでもしてるのか?

『それで一旦部屋を出て、戻ってきたらにこにこで。ほんと、景くんのお陰』
『くぅちゃん!』

――そうなんだ……?

俺の電話でしぃちゃんが笑顔になった? 俺がしぃちゃんを笑顔にした?

『もうっ』

憤慨した声に続いて遠ざかる笑い声。それから『ごめんね、景ちゃん』としぃちゃんが言った。どうやらくぅちゃんは部屋から出たらしい。

「いや、俺の方こそ、こんな時間にごめん。明日、また学校で」
『うん。劇のこと気にしてくれてありがとう。また明日ね』
「うん、じゃあ……」
『おやすみなさい』

電話を切るまでいつもより時間がかかったのは俺だけだろうか……。