――やっぱり俺なんかダメだよな……。

夕食後、部屋でひとりになると、放課後の出来事がほかの思考を押し退けて記憶の表面に出てきた。あのことはさっさと片づけて、俺にとって重要じゃないと思い込もうとしてきたのに、こんなに広がってしまったらそれができない。

大鷹の驚いた声から始まり、廊下で彼女を見送るまで。時間にすれば10分かかったかどうかというところだろう。そのあいだの彼女の姿が繰り返し頭に浮かんでくる。

――そんなに嫌だったのかな……。

「やだ、違うよ!」と彼女は言った。それからしばらく、俺の方は見なかった。きっと、不愉快な気持ちを俺に見せないように気を遣ったのだ。それと、俺と話してまた誤解されないように。

――そもそも特別な仲じゃなかったし……。

図書委員会での相棒で、他人との比較をやめようという同志。それ以上ではないと分かっていたし、納得もしていた。それで十分嬉しかった。なのに、彼女が1年生の勘違いを正した言葉でこんなにショックを受けるなんて。

――だけど……。

ただ、気になるのは俺が1年生に説明したときに驚いたような顔をしたこと。そして、最後に何か言おうとしてやめたこと。……いや、やめよう。こんなふうに気にしているのは、単に希望を捨てたくないからに過ぎない。

「はは、希望って、なんだよ?」

思わず声に出てしまった。

彼女のことを好きなわけじゃないって何度も自分で確認してきた。好きになっていないって……いや、ほんとうはそうじゃない。

彼女に惹かれていたのだ。どんどんどんどん。でも、自分に自信がないから……断られるのが怖くて、それを認めないように理屈をこねていただけ。単なる防衛本能。

「はぁ……」

認めてしまったら力が抜けた。もう意地を張る必要はない。結果も分かってしまったし。

まあ、今の時点で彼女にその気はないと分かったのはラッキーだった。もっと一途に好きになっていたり、さらに進んでうっかり告白したりしていたら、間違いなく彼女との関係は変わるか終わるかしてしまっただろう。でも今なら、これからも今までと同じ関係を維持できる。ただの同級生として。

そうだ。何も変わらない。これからも――。

「あれ?」

スマホから聞こえる着信音。メッセージじゃない。電話だ。

「え?」

画面には『大鷹 紫蘭』と。図書委員になったときに連絡先を交換したのだった。あのときは、いや、今日はなおさら使う事態は想定していなかったけれど……。

とにかく出なくては! 考えているうちに切れたら困る。

「はい。ええと……」
『あ、鵜之崎くん。よかった』

ほっとした様子が伝わってくる。たったそれだけのことに俺もほっとする。

『夜にごめんね。勉強中じゃなかった?』
「ああ、いや、大丈夫」

大鷹のことを考えていたところだから……なんて言えない。

不安と警戒の中、彼女の声があまり弾んでいないことだけは認識できた。楽しい話ではなさそうなのに、電話をもらえたことで期待が忍び込んでくるなんて、俺はやっぱり――。

『あの、今日のこと、なんだけど……』
「うん」

それ以外に彼女が電話をかけてくる理由はないだろう。

『あたし、嫌な態度だったよね? ごめんね』
「え……?」

謝罪されるという展開は想定外だ。驚きでなんだかあわててしまう。

『あたし、ああいう勘違いとかされたの…初めてで、びっくりしちゃって。鵜之崎くんは何も悪くないのに、すごく失礼な態度とっちゃったなって思って……』
「い、いや、失礼なんて俺はべつに……」

勘違いされてびっくりした? 怒ってたわけじゃない? びっくりしたって……気まずかったとか? 恥ずかしかったとか? 俺が嫌なわけじゃない?

どくん、と、胸が大きく鳴った。

『ほんとうは顔を見て謝った方がいいと思ったんだ。でも、学校だとタイミングとか、いろいろあって言えないかも知れないから、思い切って電話したの。ほんとうにごめんね』
「大鷹……」

そうだ。これだ。潔い謝罪。思い切って行動。潔さと思い切りこそが彼女の本質。でも、それだけじゃない。彼女が今まで示してくれた小さな信頼や友情を、さっきまでの俺は否定しようとしていたのだ。

『あの、それだけ。じゃあ――』
「あ、待って!」

さすがの潔さ! 言うことだけ言って終わりだなんて。それに引き換え引き留める話題が簡単に出てこない、鈍くさい俺。

「あの、俺、べつに失礼だなんて思わなかった」

勘違いして落ち込んだけど、それは別の話だ。

「だから大鷹は謝る必要ないよ。逆に俺が頼ったせいで誤解されちゃって申し訳なかったと思ってる。ごめん」
『ううん、それは謝る必要、ない。あれは仕事だもん。それを1年生が勝手に勘違いしただけでしょう? 鵜之崎くんのせいじゃないよ』

そう言われればそうだ。あれは仕事。

「じゃあ……、俺たちはどっちも悪くなかったってことで」
『だめだめ。あたしは悪かったもん』
「でも、俺は大鷹の態度のことなんて気付かなかったよ?」

そう。落ち込んだことなんか忘れた!

『鵜之崎くんが気付かなくても、変な態度はほんとうだもん。だから謝るの』

思わず微笑んでしまう。彼女には頑固なところもあるらしい。ここは俺が折れないと決着が付きそうにない。

「……分かった。謝罪は受け入れた」
『うん。ありがとう』

満足そうな声のすぐあとに、ほっと息をついた気配。それからふたりで同時にくすくすと笑って。

彼女は俺と距離を置こうと考えたわけではなかった。そして、俺たちのずれかけた関係を元に戻すために、わざわざ電話をくれた。彼女の心遣いが俺の胸を温めてくれる。

「じゃあ、これからも今までどおり……ってことで」
『もちろん』
「ありがとう」
『うん。これからもよろしくね』

彼女の笑顔が目に浮かぶ。

ふと、会いたい、という言葉が心に浮かんだ。今、隣に彼女がいたら――。

「あ、そうだ」

会えない分、会話を続ける話題を見つけた。訊いてみるとすれば、たぶん今だ。

「俺……、気になってることあった。訊いてもいい?」
『なに?』
「俺が1年生に一緒にいた説明をしたとき、大鷹、びっくりしてたような気がして。それが……どうしてかなって」
『あ……』

これは心当たりがありそう?

『気付かなかったと思ったのに』
「ああ、まあ、なんとなく」

気の進まなそうな口調だ。訊いちゃいけないことだったのかも。

俺はよくこんなふうに気の利かないことをしてしまう。でも、もう口に出してしまった。撤回した方がいいのだろうか?

『あれはねぇ……、ちょっとショックだったから……』

迷っているうちに彼女が答えてくれた。でも「ショック」だなんて。今度は俺が驚く番。

「ごめん。俺、何か変なこと言ったんだね?」
『あ、べつに変なことじゃないよ。あたしだけの問題で、鵜之崎くんにもみんなにも、当たり前で普通のこと。だから気にしなくていいの』
「それじゃおかしいよ。さっきは俺が気にしてないって言ったのに、大鷹は謝ったじゃないか。今は大鷹がショックを受けたのに気にしなくていいなんて、そんなのおかしい」
『ごめん。使った言葉が良くなかった。ショックなんて受けてない。大丈夫』
「うそだ。そういう否定の仕方が変だよ。俺に気を使う必要なんてないのに」
『ご、ごめん』

謝らせてしまった! 大鷹は悪くないのに!

「……ごめん。言いたくないなら仕方ないけど……、ただ、これから改められることならって思ったから」

そう。誰かを傷付けるようなことはしたくない。大鷹が嫌だと感じるなら、それは二度としたくない。

沈黙のあと、小さく『あのね……』と聞こえた。気まずそうな口調。続くのは言いたくない理由か、それともショックの原因か。

『鵜之崎くん、『委員長』って言ったでしょ? それでびっくりした』
「え? 委員長?」

言われてみると、確かに言った。彼女と俺の関係を事務的に見せるためにその言葉を使ったのだ。

『鵜之崎くんには『委員長』って呼ばれたことなかったから。いつも苗字で……。『委員長』ってなんだかこう……いつもと違ってて、べつに当たり前なのにびっくりしちゃったの。それだけ』

いつもと違っていてびっくりした……?

いや、びっくりだけじゃない。否定していたけれど、ショックだったのだ。

もしかしたら、俺が彼女と距離を置こうとしたように感じたのか? 一年生にわざとそう見せようとしたのだけど、でも、彼女はそれがショックだった? だとしたら――。

思わず緩む口許を手で覆う。胸の中には彼女への想いがどんどん湧き上がってくる。

「分かった。これからはちゃんと名前で呼ぶ」

ちょっとカッコつけてしまった。彼女には見えないけれど。

『あ、いいんだよ! あたし、委員長で間違いないもん』
「うん、でも、俺は大鷹が委員長になる前からの知り合いだから、名前で呼ぶ方が慣れているのは確かだし」

話したのは委員長になった日が最初だから、慣れるもなにもないけれど。

『んー……、そう? 気を使ってくれてありがとう』
「はは、気を使うんじゃなくて、いつもどおりにするだけだから」

俺の方こそ、それを気にしてくれたことが嬉しい。

電話のあと、ベッドの上で天井をながめながら、一連の会話を何度も再生した。鼻歌も出そうな気分でそうしていると、ふと、電話が来る前にどれほど気分が沈んでいたか思い出した。

――こんなに変わっちゃうなんて。

彼女の声が、言葉が、表情が、そして行動が、俺の心を大きく揺らす。まるで嵐みたいに。そして今は……。

彼女も俺を好きになってくれそうな気がして落ち着かない。