「で、『あ な た の 心 の 支 え に な る と 思 い ま す まる』と……。できた」
息をついてシャーペンを置き、やっとのことでマス目を埋めた紙を手に取る。図書新聞4月号の「先生のおすすめ本」の原稿だ。机の上にはインタビュー直後に書いたメモと『五輪書』。一緒に来た礼央は館内のどこかにいるはずだ。
原稿の締め切りが明日に迫り、2年2組のふたり組から今朝、気合の入った原稿を受け取った。俺も本を読み終わっていたので、昼休みを使って書こうと図書館に来たのだ。
閲覧・学習コーナーの机はほどよく埋まっていて、ほどよく静か。雑誌コーナーやカウンターのあたりから聞こえる和やかな声が、リラックスしながら集中するのにちょうどいい。とは言っても、それで文章が上手くなるわけではない。
「うーん……」
書いてみて分かったのは、他人が言ったことを文章にするのも、やっぱり文才が必要だということ。俺の文章はどうにも味気なく、これで七沢先生の伝えたいことが伝わるのかどうか、はなはだ疑問だ。
そして、インタビューのあとに作ったメモを使えば本を読まなくても原稿が書けただろう、ということも分かった。大鷹が言ったとおりだった。俺はずいぶん遠回りをしてしまった。
「景、できた?」
戻って来た礼央が声を落として尋ねた。
「うん、とりあえずね」
下手だと分かっていても、自分ではこれ以上どうしようもない。ただ、これが印刷されて全生徒に配られると思うと、図書委員のみんなに申し訳ない気持ちになる。努力はしたのだけれど。
「これでいいことにする。本を返してくるよ」
立ち上がって振り向くと、カウンター前に大鷹がいた。向こうも俺たちに気付いて笑顔を見せた。
「あ」
俺も微笑み返そうとして……迷う。
彼女と俺はどのくらいの関係なんだろう? この前は相棒だと言ってくれたけど、あれ以来、挨拶しかしていない。もしかしたら、あの笑顔だって礼央に向けたものかも知れないし……。
足は前に進むけれど、心は足踏み状態だ。
「ここで原稿書いてたの? もう完成?」
近付く俺の手元に目をやってから、大鷹が俺を見上げた。いつものようにまっすぐ見上げる瞳と明るい表情がそよ風のように俺の迷いを吹き散らす。
――いいんだ、笑顔を返しても。
大鷹は俺を友だちだと考えている。でなきゃ、こんなふうに俺を見たりするものか。こんなふうに素直に、楽しそうに。
「一応書き終わった。でも俺、文章が苦手で全然ダメだ」
言いながら、思わずため息が出た。すると彼女は「そうなの?」と小さく首を傾げた。ちょっと小鳥みたいだ。
「……見てもいい?」
「うん。どこが悪いか言ってくれると助かる」
大鷹に原稿を渡し、自分は『五輪書』を返しにカウンターへ――行こうとすると、「あ、待って」と彼女の声。
「その本、返すの? それならあたしが借りたい」
「え? これ?」
「うん」
彼女がうなずいた。
「鵜之崎くん、それ、最後まで読んだんでしょ?」
「うん、読んだ」
「だったらあたしも読む」
どこか決然とした表情で見上げる彼女。なぜそんなに真剣な顔をしているんだろうと考えていたら、隣で礼央が小さく笑った。
「なんだか景と張り合ってるみたい」
たしかにそうだ。彼女の目付きはまるで俺に挑むようで。
礼央の指摘に、大鷹は少し恥ずかしそうにうつむいた。
「だって、ちょっと悔しいんだもん」
「悔しい?」
「うん」
そしてまた挑むような目を俺に向ける。
「鵜之崎くん、本はあんまり読まないって言ったでしょ? それなのに、名著って言われてる作品を読み切った」
「まあ、仕事だから……」
「あたしはもともと本を読むのが好きで、結構いろんな本を読んでいるのに、その本はまだ読んでない。それが悔しい」
「悔しいって……、悔しい?」
きっぱりと言い切られて戸惑いを感じている俺の隣で礼央がまたくすくす笑う。それを見て彼女も肩の力を抜いた。
「その本、あたしが返却手続きして、自分で借りる。いい?」
「うん。……ありがとう」
差し出された手に『五輪書』を乗せると、彼女はにっこりして受け取った。「ちょっと待っててね」とカウンターに向かう後ろ姿がいそいそと嬉しそうだ。一冊の本を読んだか読まないかが、彼女にとってはそれほど重要らしい。
「意外と負けず嫌いなんだね」
礼央がつぶやいた。もしかしたら、あれが本好きのプライドというやつか。だとしても。
「『悔しい』って、本人に言っちゃうんだなあ」
心の中で闘志を燃やすのではなく、ダイレクトに言うなんて。挑むような表情を向けてくるところも、しっかり者でおとなしそうな見た目とはちょっと違う。そう言えば。
図書委員会の初会合の日、彼女は俺がいちごの彼氏なのかどうか悩んだ末に、直接俺に尋ねたのだった。あれこれ悩むよりも、訊いてはっきりさせてしまおうと思ったと言っていた。あのときも、驚いたけれど勝手に気を使われるよりはずっといいと思ったのだった。
でも、それはそれとして。
気付いてしまった。大鷹にはちゃんとあるのだということが。自分の道が。
本が好きでたくさん読む、という道。ほかの誰かよりもたくさん読んでいるという自負。これからも読んでいくという意志。
俺は何も見付けられないでいるのに……。
貸し出し手続きを終えた彼女が俺の原稿を読みながら戻って来る。
「ねえ、この原稿だけど……」
「うん」
彼女が原稿を差し出して俺を見上げた。
「これ、全然悪くないよ? このままで大丈夫だと思うけど」
「え? そう?」
思いがけない言葉。気を使っているのだろうか。
半ば疑いながら原稿を受け取った俺に彼女が続ける。
「七沢先生が言ったことはちゃんと書いてあるし、文章もすっきりしてる。どこか気になるところがあるの?」
「どこかって……、なんて言うか、事務的な感じ?」
「んー、そうかな?」
自分でもう一度確かめようと、視線を手元に向ける。すると、礼央と大鷹が両側から一緒に原稿をのぞき込んできた。
不意に近付いた大鷹との距離。滑らかな髪をかけた耳が間近に見えて、照れくささと気まずさが湧き上がる。でも、故意に距離をとるのは失礼だし、そもそも反対側には礼央がいる。ここはこのままでいるしかない。ただ、原稿を持つ手が緊張してきたのがバレないといいけれど……。
「前から思ってたけど、景って字が上手いよね」
「うん。読みやすくてきれいな字だね」
礼央と大鷹が俺をはさんでしゃべり始めた。自分が話題に上っていると口をはさみにくい。
「景は何かのたびに、文章が苦手だって言うんだよ」
「そうなんだ? 本人の思い込み? 染井くんはこれ、どう思う?」
「ん、ああ、俺のことは『礼央』でいいよ。みんなそうだから」
――ん?
会話に混じった気になるフレーズ。礼央の笑顔はいつもと変わりない。大鷹は?
「あ、そう……? うん、分かった」
ちょっと恥ずかしそう? 嬉しそう? そうするってこと? じゃあ、俺は? 俺のことは?
「ねえ、鵜之崎くん?」
――……だよな。
俺が自分から言わなきゃ、苗字で呼ぶに決まってる。今までどおりってことだ。
「これね、文法的に間違ってるところはないし、先生のお薦め本だから、このくらいのテンションでいいと思うよ?」
「……そう?」
「うん。最初の内容紹介のところも、読んだだけあって分かりやすく書けてるし」
「え、そうかな?」
読んだ甲斐があった? ほんとに?
「うん。あのメモだけだったらこうは書けなかったと思う。読んだ成果が出てると思うよ」
しっかりと俺を見上げ、真面目な顔でうなずく。これを信じない理由などあるだろうか。
「それにね」
そこで彼女がにっこりした。
「あんまり名文を書かれたら、あたしが困っちゃう。だからこのくらいにしておいて?」
「え……」
こんな言い方ってあるだろうか。こんなふうに、お願いするみたいに可愛らしく……。
「ん……、じゃあいいや。これで完成」
彼女が悪くない文章だって言うなら、ほんとうにそうなのかも知れない。得意とは言わないまでも、苦手からは脱出できていたのかも。それなら図書新聞に載るのも、さっきほど気が重くない。
もしかしたら、彼女はものすごい褒め上手なのではないだろうか。
だとしても。
ここで大鷹に会えて良かった。彼女の笑顔はかなり大きな効果がある。
翌日の昼休みから、図書館で図書新聞の入力作業を始めることにした。
雪見さんに図書委員会用のノートパソコンとUSBメモリーを出してもらい、カウンターに近い机で開いてみる。一緒に来た大鷹の指示にしたがって入力用のファイルを開き、以前のデータを参考にしながら、まずは自分の担当コーナーから打ち込んでいく。
「鵜之崎くん、ブラインドタッチ? パソコン得意なのね」
キーボードを打つ俺の手を見て、大鷹が少し驚いた様子で言った。感心してくれたらしいことに気分が上がる。
「中学生のころに兄貴と勝負するために練習したんだ。何度やっても勝てなかったけど」
「そうなんだ? お兄さんとはいくつ離れてるの?」
「4つ」
「じゃあ、勝てなくても仕方ないね」
思わず手が止まった。上がりかけていた気分がゆっくりと下降していく。
「うちの場合はちょっと違うんだ」
言いながら苦い笑いが浮かんできた。
「俺がそのときの兄貴の年齢になっても追いつけない。全然」
「そんなことないよ、きっと」
彼女の軽く励ます口調が胸の中を微かにひっかいた。
このままスルーすることもできるし、普段はそうしている。諒のことを説明するときに自分の中に生じる苦味を味わわないために。
けれど今は話したい気がする。彼女なら分かってくれるかも知れないから。似た境遇にある彼女なら。
だから手を膝におろし、そっと息を吐いて椅子の背に寄りかかった。
「うちの兄貴は特別なんだ。ものすごく優秀で」
大鷹ははっと目を見開いた。
「小さいころからずっとそう。大学でも。勉強ができて、みんなから頼りにされて。この学校に通ってたから、今でも兄貴のこと覚えてる先生もいる。当時の全国規模のコンクールの賞状も飾ってあるし、生徒会長も務めてたんだ」
「そのひと、いちごの……だよね?」
「そう。だからいちごも諒――兄貴のことはあんまり話さなくて済むようにしてるって言ってた。自慢してると思われると困るからって。俺たちにとってはただの兄貴なんだけど、周りにとっては “すごいひと” だから」
「そうなんだ……」
彼女は静かに視線を落とした。深刻になるつもりはなかったから、急いで笑顔をつくってフォローする。
「でも俺、兄貴のことは好きなんだ。仲もいいよ。ただ、自分が情けないっていうか、どうして俺には何もないんだろうって、ときどき勝手に落ち込んじゃうだけで」
「あ! あたしも同じ!」
勢いよく彼女が顔を上げた。すぐにバツが悪そうに周囲を見回し、微笑んで肩をすくめると静かに話し出した。
「鵜之崎くんも聞いてるかも知れないけど、あたし双子で――似てないんだけどね、片割れはモデルやってるの。中学のときからで、結構人気あるんだ」
「聞いたことあるよ。クラスでもときどき名前出てるよね?」
「そうなの。この学校に入ってすぐに知れ渡っちゃって……、雑誌で見たよって言ってくれるひともいるし、知らないひとから声をかけられることもあるの。そういうとき、みんな、あたしのことは “モデルのKuranの片割れ”って思ってるんだなって思うんだ」
「それ! 俺もあるよ」
思わず人差し指を向けてしまった。けれど、彼女が言ったことはまさに俺が感じていたことで。
「みんなきっと、すごいのは俺の兄貴で、俺は影みたいな、おまけみたいな……どうでもいい存在って思われてるんだなって」
「うん。Kuranがいなければ、あたしは普通の生徒にもなれないのかなって思ったりね」
まさにそのとおり。
深くうなずく俺を見て彼女が微笑む。分かり合えた仲間の微笑みだ。
「でもね、今はちょっと変えていこうと思ってるの」
彼女が明るい瞳を向ける。
「きのう借りた『五輪書』ね、あれの最初のところ。鵜之崎くんも読んだはずだよ」
「最初のところ? 十代から剣の勝負で負けたことがないって……」
「そうそう! そのあとに、自分が本当に強いから勝ったのか、相手が練習不足とか問題があったから自分が勝てたのか分からないって書いてあった」
「ああ」
そうだ。だから、もう剣の試合をするのはやめたと。
「あれって他人と自分を比べても、ほんとうの自分の強さは分からないってことだよね? だからもう比べるのはやめて、自分で精進しようって考えたわけでしょう? そこのところではっとしたの。あたしも比べてるんだって」
「比べてる……」
大鷹の言いたいことがおぼろげに見えてきた。
「自分がダメだと思うときって、たいてい誰かと比べてる。で、落ち込んだり、諦めたり。でも、思ったの。比べることから自分を解放してみようかなって」
「解放」
「そう。まあ、勝ち続けても自分の強さに確信が持てなかった宮本武蔵とは大違いだけどね」
にっこりして彼女は続ける。
「『解放』って、いい響きじゃない? 一気に自由になったような気がする」
「そうだね」
晴ればれとした笑顔を浮かべる大鷹。なんだかまぶしくて、思わずまばたきをした。
「他人が勝手に比べるのは仕方ない。止められない。でも、自分で比べるのは決心次第でやめられるでしょう? で、レベルが低い自分に落ち込む代わりに、何を頑張るか考えるの」
「何を頑張るか? 落ち込む原因をなくすように頑張るんじゃなくて?」
「ふふふ、そうなの。だって、背が低いとか運動音痴だとか、努力してもどうにもならないことはあるよ」
たしかにそうだ。俺がイケメンになりたいと思っても……金をかければできるのか?
「だからその分、ほかのことで自信を持てるように努力するの」
「なるほど。平均点で勝負するわけだな」
「あ、たしかにそういうことかも!」
一緒に笑ってから思い出した。
「まあ、大鷹には本を読むことがあるからな」
ため息をつく俺を見て、彼女が不思議そうな顔をした。
「ちゃんと頑張りたいことがあるじゃん? でも、俺は何も見つからないんだ」
彼女は小さく首を傾げた……と思ったらニヤリと笑った。
「鵜之崎くん、もう比べてる」
「え?」
「頑張りたいことがあるかどうかであたしと比べて落ち込んでる」
「あ」
たしかに比較してる!
「そんなことを比べる必要なんてないよ、人それぞれだし。それにね、あたしの読書は頑張りたいこととは違うから」
「違うって?」
「本を読むことはね、なんて言うか……」
言葉を探して視線をさまよわせる。それからにっこりした。
「息をするのと同じ。生きることに付随するもの。頑張るものではないんだよね」
「ふうん」
「ってことで」
俺にひたと視線を合わせ。
「一緒に頑張ろう」
「え?」
「比べるのをやめる同盟。お互いに注意し合えば上手くいきそうじゃない?」
「あ、なるほど」
一緒になんて……俺でいいのか? そんなに簡単に俺と一緒にやるって決めていいのか、大鷹?
「あのう……」
後ろから控えめな声が。振り向くと1年生がふたり立っている。図書新聞担当の1年生だ。
「1年生の分の原稿を持って来たんですけど……」
おずおずと差し出された原稿を確認してみる。予定より紙が大きいと思ったら、館内の見取り図入りで利用案内が出来上がっていた。これならもう入力せずに貼り付ければよさそうだ。
「ありがとう。この見取り図、よくできてるね」
「あ、それは雪見さんにもらったんです」
「それに必要なことを書きこんで」
ほっとした様子でふたりが顔を見合わせる。
「それじゃ、失礼しました」
「お邪魔しました」
妙に丁寧にあいさつをしてふたりが去っていく。直後に「閉館5分前でーす」と声がかかった。今日はこれまでだ。
「あんまり進まなかったね。おしゃべりしちゃってごめんね」
大鷹が申し訳なさそうな顔をした。
「全然。しゃべってたのは同じだから。それに、1年生の分は入力しなくて良さそうだし」
「そっか」
雪見さんに一式を返し、一緒に図書館を出た。階段を上りながらの会話が今までよりも滑らかになって、自分の笑い声が大きくなっているのを感じた。
――同盟、か。
午後の授業の準備をしながら彼女の後ろ姿をそっと窺う。
比べることから自分を解放するという彼女の考え方にとても励まされた。彼女と話したあとはいつも明るい気分になる。だから……。
もっと話したいと思うのは当然のことだよな?
夜、机に向かっているときに、昼休みのことを思い出した。
諒の弟であることについての俺の微妙な感情を、大鷹はちゃんと理解してくれた。理解したというよりも、共通した思いだったというべきか。
同い年か兄と弟かという違いはあるけれど、どちらも相手と良好な関係であることとか、他人から言われることに怒りや反発を感じているわけじゃないとか……、考え方も似ている気がする。
話せてよかった。分かり合える相手がいるとこんなにほっとする。
いちごも立場は似ているけれど、諒とは血がつながっていないという点で、大鷹や俺とは大きく違う。まあ、恋人として他人から期待される姿というプレッシャーはあるのかも知れないけれど。
そう言えば、大鷹とはお互いに慰めの言葉が出なかった。
今までの経験では、友人たちに諒の話をするとたいてい「景だって十分○○だよ!」などとフォローの言葉をもらった。そういう相手の気持ちは有り難いから、その場では気を取り直したふりをする。でも、根本的にコンプレックスが消えるわけじゃない。たぶん彼女も同じような経験をしていて、慰めの言葉が役に立たないことを知っているのだろう。
それにしても「比べることをやめる」という思い付きはさすがだ。俺は「比べても仕方ない」と思ったことはあるけれど、やめられないとあきらめていた。「やめる」と言い切るところは潔くて、いかにも彼女らしい感じがする。しかも、比べるのをやめるだけじゃなくて、伸ばせる部分は伸ばしていこうという前向きな中止なのだ。なんてポジティブなんだろう!
俺も同じ本を読んだのに、あの最初の章で落ち込んで……って、これは大鷹と比べてるんだな。ストップストップ。
でも……そうか。
比べないっていうよりも、たとえ比べても、自分を卑下するのをやめるってことかも知れない。
落ち込まない。そこで立ち止まらない。あきらめない。自分にできることを探す。自分を信じる。そういうことじゃないだろうか。
明日、彼女と話してみよう。昼休みにまた一緒に仕事をするのだから。
それにしても……。
大鷹って、いい子だよなぁ。こんなことを誰かに言ったらからかわれそうだけど。
ポジティブだし、親切だし、意外な思い切りの良さもあって。
姿勢がいいのは見ていて気持ちがいいし、小鳥みたいな首の傾げかたとか、何かを言う前にたまに見せる意味ありげな目つきとか。ときどき驚かされることもあるけれど、一緒にいると楽しい。
女子と一緒にいて純粋に楽しいという経験は初めてかも知れない。小学校高学年のころから女子といると――いちご以外は――気疲れしてしまって、その場では盛り上がったと思っていても、後でひとりになってからほっとするという状態だった。大鷹に対してはそれがない。また話せることを楽しみに思うだけ。
“相棒”で“同志”だからかな。
同じ図書委員で、比べるのをやめる同盟。「一緒に頑張ろう」と言った彼女の声と瞳は今でもはっきりと浮かんでくる。
あれはほんとうに驚いた。彼女が俺に対して感じている距離が、思っていたよりも近いのかも知れないと気付いて。
そして嬉しくなった。彼女が内面的にも俺を相棒として選んでくれたことが。きょうだいが有名人という共通の背景があるからに過ぎないかも知れないけれど。
彼女が俺に恋愛めいた気持ちを持っているわけじゃないということは、十分に分かっている。それは彼女の態度を見ていればちゃんと分かる。
そもそも俺は彼女にいいところを見せられていないのだ。俺に恋心を抱いてくれる要素が何もない。
今はそれでいい。まだ知り合ったばかりだし、友人として話ができるだけで楽しいから。でも、もしかしたら……?
* * *
大鷹と仲良くなれたら……なんて考え始めたら想像が尽きなくて、寝るのが遅くなってしまった。まだ俺が彼女を好きになるかどうか分からないのに、一緒にいる場面をあんなにたくさん考えていたら、自分で自分を暗示にかけてしまいそうで危険だ。
俺が想像で創りあげた大鷹はあくまでも俺に都合のよい大鷹で、本物の大鷹と同じじゃない。だから、本物の大鷹をもっとよく知るまでは――。
――あれ?
朝、教室に到着すると、俺の席の前で話している大鷹と……礼央。礼央の言葉に楽しげに笑う大鷹のポニーテールが揺れる。
「やだもう、礼央くん」
教室のざわめきを背景に、彼女の声がくっきりと聞こえた。
「あ、景!」
入り口で立ち止まっていた俺に気付いた礼央が駆け寄ってくる。
「おっはよう! 元気?」
「ぐ……っ」
礼央の剛力ハグに拘束された俺をくすっと笑って、大鷹はいちごのところに行ってしまった。朝のあいさつくらいしてくれてもいいのに……。
「あれ? 行っちゃった」
礼央が振り向いて言った。
「景が来るまで引き留めておいたのに」
「ん?」
礼央の言葉が意味するのは――。
「景って奥手だからさあ、そこで話していれば、景が自然に話に加われると思ったんだけどなあ。どうしてさっさと入って来なかったの?」
待て待て待て。俺のために大鷹を足止めしておいたってことか? つまりそれは。
「何言ってんだよ?」
熱くなってきた顔を礼央に見られないように、机に乗せたカバンを開けてのぞき込む。ここで顔が赤くなるなんて、これじゃあ、まるで俺が大鷹を……。
「俺はっ、まだその大鷹に、そういう……つもりはない、けど? だからべつに」
「ふうん、いいんだ?」
念押しするような口調に思わず顔を上げた。礼央は真面目な顔をしているけれど、本気なのか冗談なのか分からないことがよくある。もしかしたら、礼央はライバル宣言をするつもりだったりするのか? さっきだって、やけに楽しそうだったし。
「……まだ、今のところは」
とにかく、可能性がないわけじゃない、ということだけは伝えておいた方がいい。気持ちは確定していないけれど、気になっているのは間違いないのだから。
礼央は「ふうん」とうなずいてからニコッと笑った。
「じゃあ、これからも一応、協力しておくから。いざというときのために」
「お、おう」
つられてうなずいてしまった。これは同意したということになるのか? 協力、というのはつまり、俺と大鷹の接点が増えるようにということに? ということは、礼央はライバルじゃないと? そして俺は礼央の言うとおり“奥手”なのか?
ああ、混乱している。これも自分の気持ちがはっきりしないからだ。
しかも、こんな状況も、俺に暗示をかけてしまうような気がする。ほんとうに好きなのか、暗示で思い込んでいるのか、いざとなったらちゃんと区別がつくのだろうか?
まあ、とりあえず礼央に手伝ってもらわなくても、俺には図書委員の仕事というチャンスがある。今日だって昼休みになったら――。
「鵜之崎くん。図書新聞の原稿入力、あたしがいない方がよくない?」
「え?! どうして?!」
休み時間に大鷹から声をかけられたと思ったら、一緒に仕事をするのをやめようという相談だ。俺のためみたいな言い方をしているけれど、ほんとうは俺と一緒にいるのが嫌なのでは……。
自分の頬が引きつっているのが分かる。
「ほら、きのうはあたしのおしゃべりで仕事の邪魔しちゃったでしょう? 鵜之崎くんひとりの方が捗るんじゃないかと思って」
「いや、そんなことないよ」
ここは速攻で否定だ。
「きのうの話は俺から始めたんだし、それに、分からないことが出てくる可能性もあるから、一緒にいてほしいな」
――一緒にいてほしい……って。
言ってしまった。まるで恋の告白みたいな言葉じゃないか。彼女がいるのは迷惑じゃないと伝えたかっただけなのに。
かっと頬が熱くなった。
「そう? お邪魔じゃないならよかった」
にっこりする彼女は俺の言葉づかいには頓着していないようだ。ほっとしたけれど、頭の片隅には彼女の反応にがっかりしている部分もあって、なんとなくもやもやする。
でも、俺と一緒にいることが嫌なわけではいらしいから、それでよしとしなくちゃ。そして、どうか頬の熱さを見破られませんように!
「じゃあ、お昼休みにね」
「うん、よろしく」
彼女の後姿を見送りながら、暗示の影響について考える。俺は彼女に惹かれているのか、それとも友だちとして気に入っているのか、もしくは単に女子と親しくなれて嬉しいだけなのか……。
どうしたら分かるのだろう?
暗示の効果については、とりあえずは悩むのはやめようと決めた。
分からないものはいくら考えても分からないし、きっと、好きになったときには心でそうだと分かるだろう。ほんとうに恋をしたら……きっと分かると信じたい。
それまでは昨日までと同じでいい。相棒で同志。図書委員の仲間で、比較ストップ同盟。せっかく楽しくて心地よい関係なのだから、今はそれでいいじゃないか。急いでその先を考える必要はない。
「あ、そうだ! きのうの比べる話なんだけど」
昼休みに図書館に向かいながら彼女が話し出した。数人の男子が賑やかに俺たちを追い越して階段を下りて行く。
「比べるのをやめようって言ったでしょ? でもね、落ち込みそうになったときに効果がある比較があることに気が付いたの」
「効果がある比較? 必ず?」
「そう。何だと思う?」
楽し気に瞳をきらめかせている彼女はやけに魅力的に見える。目を合わせているのが気恥ずかしくて、考えるのを口実にさり気なく視線をはずした。
「落ち込まないで済む……ってこと? つまり自信がつく?」
彼女が大きくうなずく。それに促されてまた考える。
「自信がつく。自分の方が優っていることが確実な比較。つまり……サルと比べるとか?」
「え? サル?」
驚いた様子で目を瞠り、それから笑い出した。
「それは思い付かなかった! 確かに自分の方が優ってるよね。けど違うよ。サルに勝っても嬉しくないでしょう? 鵜之崎くん、面白いこと言うんだね」
明るい声が階段スペースに広がる。その声で俺の中の気後れがすうっと消えていった。
「うーん、そうか。嬉しくないね。じゃあ、何?」
「あのね」
少し得意げに微笑んで、彼女は俺を見上げた。
「過去の自分」
「過去の自分?」
「そう」
ぽん、と踊り場に飛び降りた彼女が振り返る。俺が階段を下りて追いつくと、また並んで足を踏み出した。
「例えばね、いくら頑張っても上手にできないって思うことってあるでしょう? そういうときって、たいていまわりの人とか平均値とかと比べて自分はレベルが低いって思ってるよね?」
「そうだね」
「そこで、比べる対象を過去の自分に変えるわけ。そうするとね、絶対にプラスになってるはずなんだよ」
「おお、なるほど!」
彼女の言うとおりだ。どんなことでも、続けていれば上達しているはず。
「ね? で、そこまで頑張った自分を認めてあげて、苦手なことでも積み重ねれば上達するんだって納得できたら、きっとまたやる気が出るよね?」
「うんうんうん。これからも続けようって思える」
彼女が俺を見つめてにっこりした。俺もつられて笑顔になる。下の方から聞こえてくるパタパタいう足音や誰かを呼ぶ声が、なんとなくバックミュージックのようだ。
「大鷹って偉いなぁ。ほんとうに感心する」
前を向こうと思うこと自体が前向きだと思う。
「んー……、あのね」
彼女が視線を落とした。
「ほんとうはあたし、劣等感でいっぱいなの。自分のダメなところのこと、いつも頭から離れない。だから、あの宮本武蔵の言葉は画期的だと思った。どんなに勝っても強いことの証明にはならないなんて……。で、いろいろ考えてみたってわけ」
そう言って小さく肩をすくめる。
劣等感の塊――。
たぶん、双子のきょうだいのことも原因の一つに違いない。
俺も同じだ。諒のことを筆頭に、苦手なことや部活のこと、容姿やモテないことなど、たくさんのコンプレックスを抱えている。そして、今まではただあきらめてきた。それはもしかしたら、自分で限界を決めるようなものだったのかも知れない。
「でもさ、」
今度は俺が彼女を笑顔にできる気がする。一緒に笑えると気持ちがいいし。
「過去の自分と比べるっていうのはすごくいいよ」
「ね? そうでしょう?」
嬉しそうに答える彼女。それを確認して。
「うん。だって、何があっても身長は伸び続けるもんな? 大鷹だってちゃんと伸びてるはずだし、もしかしたら、そのうち俺を追い越すかもよ?」
「え? 身長?」
目を丸くした大鷹が立ち止まった。
「うん。気にしてるんだよね? きのう言ってたじゃん?」
「言ったけど……」
1、2秒黙ったあと大きく息をつき、口を引き結ぶ彼女。そのまま大股で俺を追い越し、ととととん、と階段を下りていく。もしかしたら触れてはいけない話題だったのだろうか。笑ってくれると思ったのだけど、調子に乗りすぎたかも。
「あの、ごめん。言い過ぎた。ごめん」
彼女は追いついた俺をちらりと見て、すぐに視線を階段に戻す。
「謝らなくてもいいけど」
「そう?」
でも怒ってるみたいだよ――とは声に出さない。
図書館の入り口の手前で彼女は止まった。
「あのねぇ」
まるで言い聞かせるみたいに俺を見上げる。
「あたしの身長、中3から2ミリしか伸びてないの。どう思う?」
「え」
2ミリ? 中3から? 2ミリって、誤差の範囲って言われても……。
「今、『誤差の範囲』って思ったでしょう」
「う、いや、そんなこと……。でもほら、小学生のときと比べれば――」
「いくら過去の自分と比べるって言ったって、小学生の身長とは比べたくないよ」
それはそうだ。
「でもでも! これから伸びるかも知れないじゃん」
「まあね」
苦々しい表情で答える彼女。これから伸びるなんて、まったく信じていないようだ。
「うーん……、背が低いと困るのかな……?」
そうっと尋ねてみた。すると彼女は呆れたような視線を俺に向け、大きくため息をついた。「そんなことも分からないの?」と顔に書いてある。
「不便なんだよ、いろいろと」
「そうなんだ?」
「でも、いいや」
ようやく機嫌を直してくれたみたいだ。ニヤりと思惑あり気な笑顔を見せた。
「あたしに足りない身長が鵜之崎くんにはあるみたいだから、あたしの分も頑張ってもらうことにする」
「うんうん、もちろん! 俺の身長が役に立つならいくらでも言って」
「よしよし。うふふ」
図書館の戸を開けて、満足げに含み笑いをする彼女を先に通す。俺たちに気付いた雪見さんが「パソコン出しておいたよ」ときのうと同じ席を指差した。
大鷹と並んで座りながら、学年初日にいちごに「背が高いだけが取り柄」と言われたことを思い出した。
まさにそういう会話の流れになっているけれど、それが大鷹とのコミュニケーションにも役立っているのだから、背が高いだけでも取り柄があってよかった。しかも、大鷹の足りないところを俺が補うというのは特別感がある。
「そう言えば」
朝のことを思い出した。
「礼央とずいぶん仲良くなったんだね」
礼央には俺ほど彼女との接点はないはずなのに、もう立ち話ができるほど親しくなっっていることに驚いた。礼央が人懐っこいことは分かっていたけれど。俺は彼女との距離について考え過ぎて、しかも答えが出ないままなのに。
「ああ。礼央くんは誰にでもフレンドリーだから」
微笑んで答えた彼女が、何かに気付いたように俺を見た。それから小さく首を傾げて。
「もしかして、妬いてるのかな?」
「え?!」
や、妬いてる? ってことは、俺が大鷹を……って言ってるのか?! 俺の気持ち?!
「な、なんで? どうして? どういう――」
「うふふ、大丈夫だよ」
そんな顔で「大丈夫」って、いったいどういう意味? もしかして、大鷹は俺を……ってこと?
「礼央くんの一番の友だちは鵜之崎くんだから。あたしは取ったりしないから大丈夫。心配しないで」
――ん?
礼央? 取ったりしない?
……そうか。礼央か。俺はからかわれたんだな。身長話の仕返しか。
「そんなこと心配してないよ」
「そう?」
妬いてるなんて言うから慌ててしまった。自分の気持ちが決まるまではのんびりしていようと決めたのに。俺の反応は怪しくなかっただろうか。
でも……。
こんなふうにからかうなんて、彼女はちゃんと俺に馴染んでくれているのだ。そう思うと胸のあたりがくすぐったくて、くすくす笑いがこみあげてくる。
図書新聞の原稿入力は間もなく完了し、松木先生のチェックでOKが出た。俺が書いた文章も、そろったフォントで印刷されると上手そうに見えるから不思議だ。
上手そうに見えるのは活字の効果と言ってしまえばそれだけかも知れない。でも、もしかしたら、大鷹が褒めてくれたせいかも、と、ふと思った。
あのとき、彼女は具体的に良いと思うところを伝えてくれた。今、印刷されたものを読んでも、確かにそのとおりのような気がする。あくまで気がするだけだし、その評価がほんとうに正しいかどうかは分からない。けれど、彼女のおかげで俺の文章コンプレックスが少し減ったのは間違いない。
新聞の印刷作業は放課後に担当みんなで集まってやった。印刷とクラスごとに分ける作業は8人いればどんどん進む。
集まって作業をすると、それぞれの性格が出たりして面白い。まだあまり親しくなかったメンバーが、作業が終わるころには冗談がちらほら出るくらいになっている。
「え? やだ! 違うよ!」
小さな作業部屋に大鷹の声が響き渡った。「え~、違うんですか~?」という不満そうな声は1年生の女子たちだ。
「どうした?」
手を止めて尋ねると、大鷹と1年生ふたりが振り返った。俺の顔を見て三人とも後ろめたそうに口をつぐむ。もしかして、誰かの悪口でも言っていたのだろうか?
微妙な表情で目を伏せる大鷹と、こそこそと合図を送り合っている1年生。これはいったいどういう意味だろう? 小さな部屋の中に緊張感が薄く広がっていく。もしかしたら、悪口のターゲットは俺だったりして……。
「だから早とちりするなって言ったのに」
1年生唯一の男子、飯山くんが呆れた調子で言い放つと、大鷹の隣の女子ふたりが身を縮めた。どうやら彼は事前に話を聞いていたらしい。小さくなっている女子たちにため息をついてみせたあと、俺の視線に気付いて姿勢をあらためた。説明できないでいる女子たちに代わって、何の話か教えてくれるようだ。
「鵜之崎先輩と大鷹先輩は恋人同士に違いないって、ふたりが言ってたんです」
はっ――と息を詰めたけれど、飯山くんの飄々とした話しぶりに救われた。あまりにも落ち着いていて、俺が取り乱す余地がない。
「先輩たち、昼休みに図書館で入力作業をしていたじゃないですか。それが仲が良さそうだからって、絶対そうだって言い出して……。俺は、解釈が一気に跳び過ぎだし、違ってたら失礼だって言ったんですけど、ふたりは勝手に盛り上がっちゃって」
「だって、見つめ合ってるように見えたから……」
「へ、へえ……、そうだったっけ?」
そんなふうに観察されていたとは気付かなかった。
まあ、見つめ合っていたというのはかなりの拡大解釈だろう。ただ、楽しかったのは本当だから、仲が良さそうに見えたのは間違ってはいないと思う。
でも、大鷹はきっぱりと否定した……ということだ。彼女にはそんなつもりはまったくなかったのだ。
「悪かったねえ、勘違いさせちゃって」
恐縮して小さくなっているふたりに向けて言う。へらへらした態度はあまり格好良くないけれど、この場を丸く収めるにはこのくらいがいいだろう。
「俺が図書委員初心者だったから、心細くて委員長にたくさん頼っちゃってさ。委員長、面倒見がいいから、入力のあいだずっと付き合ってくれて。誤解されちゃってごめんな、委員長」
これはほんとうの話だから大鷹が困ることはない。なのに彼女は、まるで俺がウソをついたみたいに目を見開いて見返してきた。
「う、ううん。気にしてないよ」
すぐに笑顔をつくって答えた大鷹に、1年生の女子が頭を下げる。それにも笑顔で首を横に振る彼女。
「よし、じゃあ、配布物ボックスに入れに行こう。それで完了だよな?」
「うん」
大鷹がうなずくと、2年2組のふたりが手際よく1年生に指示を出して図書新聞の束を持たせていく。
「ボックスにはあたしたちが入れておくから、鵜之崎くんと紫蘭は消灯と戸締りお願い」
「分かった。じゃあ、そのまま解散で」
「はーい。みんな、自分の荷物も持ってね」
「お疲れさまでしたー」
配布物ボックスに向かう6人を見送り、窓や印刷機など室内を点検する。電気を消して鍵を閉め、そこで初めて彼女と向き合った。
「忘れ物、ないよね?」
「うん。全部持ってる」
もう一度、自分たちの荷物を確認。
「鍵は俺が返してくる。大鷹も部活行っていいよ」
俺を見上げた大鷹の唇が小さく開いた。けれど、言葉が出ないまま小さく息を吐いただけ。
「……ありがとう。じゃあ、行くね。お疲れさま」
ただ下を向いたのか、俺に頭を下げてくれたのか、よく分からなかった。歩いていく彼女がどんな表情をしているのかも、まったく分からなかった……。
遅れて参加した部活の休憩中、高砂が怖い顔で近付いてきた。
「景、聞いたぞ」
「何を?」
今日はいろいろな話が出てくる日らしい。
高砂を不機嫌にさせるような話って何だろう。もしかしたら、次の試合のメンバーが決まったのかも。で、俺だけがスタメンに選ばれたとか? それだったら嬉しいけれど。
「お前、彼女ができたんだって?」
「んん?!」
危うく麦茶を噴き出すところだった! またその話だなんて!
「俺の前では女子に興味がないような顔してたくせに! 陰でちゃっかり彼女持ちになってるとは何事だ!」
ゲホゲホと咳込んで答えられない俺に、礼央が「大丈夫?」と声をかけてくれた。それに手を上げて応えているあいだに、高砂がさっきの言葉を礼央に繰り返した。
「ああ、その話。俺も知ってる」
咳が収まった耳に礼央の声が聞こえた。タオルで口を押さえて礼央を見ると、笑顔をこちらに向けた。
「景と大鷹ちゃんのこと、うわさになっちゃったみたいだね。1年生のあいだで」
なるほど。バレー部の1年生にも伝わっていたのだ。昼休みの作業はほんの3日だったのに、情報のスピードのなんと速いことか。ついでにさっき否定された情報も高速で伝わっていればよかったのに。
「あれは勘違いなのに……」
ため息交じりにつぶやくと、「え? そうなのか?」と高砂の眉間のしわが消えた。
「昼休みに図書委員の仕事をしてたのを見た1年生が勘違いしたんだよ。さっき、その話の出どころに『違う』って言ってきたんだけど」
「その前に広まってたね」
礼央がさわやかに笑って続ける。
「俺はきのう聞いたけど、景にわざわざ教える必要はないと思って」
「教えてくれればよかったのに……」
「それを知ってどうなるの? もう大鷹ちゃんとはしゃべらない? それともうわさを訂正してまわる? どっちも非現実的だよ」
「それはそうだけど……」
不意に大鷹の否定する声が頭の中でよみがえった。俺の視線を避けるような態度も。鳩尾のあたりが重苦しくなる。でも――。
「その話、礼央がちゃんと否定しといてくれたんだよな?」
こんなところで落ち込んでちゃダメだ。まるで失恋したみたいじゃないか。
「まあ、一応ね」
「なんだよ、一応って! 勘違いだって知ってたくせに。これで俺に憧れてた誰かがあきらめちゃったらどうするんだよ?」
そうだ。俺はまだ彼女のことを好きなわけじゃなかった。好きになるかも知れないって思っただけで。
「うわーん、高砂、助けて! 景が暴力に訴えようとするよぅ」
「待て、礼央」
大鷹にはまったくそんな気持ちがないって、早く分かって良かったじゃないか。これでもう恋かどうかなんて悩まなくて済むのだから。これからはすっきりと “友だち” として付き合える。
なのに――。
胸に広がる暗い空間は……。
喪失感、だろうか。
――やっぱり俺なんかダメだよな……。
夕食後、部屋でひとりになると、放課後の出来事がほかの思考を押し退けて記憶の表面に出てきた。あのことはさっさと片づけて、俺にとって重要じゃないと思い込もうとしてきたのに、こんなに広がってしまったらそれができない。
大鷹の驚いた声から始まり、廊下で彼女を見送るまで。時間にすれば10分かかったかどうかというところだろう。そのあいだの彼女の姿が繰り返し頭に浮かんでくる。
――そんなに嫌だったのかな……。
「やだ、違うよ!」と彼女は言った。それからしばらく、俺の方は見なかった。きっと、不愉快な気持ちを俺に見せないように気を遣ったのだ。それと、俺と話してまた誤解されないように。
――そもそも特別な仲じゃなかったし……。
図書委員会での相棒で、他人との比較をやめようという同志。それ以上ではないと分かっていたし、納得もしていた。それで十分嬉しかった。なのに、彼女が1年生の勘違いを正した言葉でこんなにショックを受けるなんて。
――だけど……。
ただ、気になるのは俺が1年生に説明したときに驚いたような顔をしたこと。そして、最後に何か言おうとしてやめたこと。……いや、やめよう。こんなふうに気にしているのは、単に希望を捨てたくないからに過ぎない。
「はは、希望って、なんだよ?」
思わず声に出てしまった。
彼女のことを好きなわけじゃないって何度も自分で確認してきた。好きになっていないって……いや、ほんとうはそうじゃない。
彼女に惹かれていたのだ。どんどんどんどん。でも、自分に自信がないから……断られるのが怖くて、それを認めないように理屈をこねていただけ。単なる防衛本能。
「はぁ……」
認めてしまったら力が抜けた。もう意地を張る必要はない。結果も分かってしまったし。
まあ、今の時点で彼女にその気はないと分かったのはラッキーだった。もっと一途に好きになっていたり、さらに進んでうっかり告白したりしていたら、間違いなく彼女との関係は変わるか終わるかしてしまっただろう。でも今なら、これからも今までと同じ関係を維持できる。ただの同級生として。
そうだ。何も変わらない。これからも――。
「あれ?」
スマホから聞こえる着信音。メッセージじゃない。電話だ。
「え?」
画面には『大鷹 紫蘭』と。図書委員になったときに連絡先を交換したのだった。あのときは、いや、今日はなおさら使う事態は想定していなかったけれど……。
とにかく出なくては! 考えているうちに切れたら困る。
「はい。ええと……」
『あ、鵜之崎くん。よかった』
ほっとした様子が伝わってくる。たったそれだけのことに俺もほっとする。
『夜にごめんね。勉強中じゃなかった?』
「ああ、いや、大丈夫」
大鷹のことを考えていたところだから……なんて言えない。
不安と警戒の中、彼女の声があまり弾んでいないことだけは認識できた。楽しい話ではなさそうなのに、電話をもらえたことで期待が忍び込んでくるなんて、俺はやっぱり――。
『あの、今日のこと、なんだけど……』
「うん」
それ以外に彼女が電話をかけてくる理由はないだろう。
『あたし、嫌な態度だったよね? ごめんね』
「え……?」
謝罪されるという展開は想定外だ。驚きでなんだかあわててしまう。
『あたし、ああいう勘違いとかされたの…初めてで、びっくりしちゃって。鵜之崎くんは何も悪くないのに、すごく失礼な態度とっちゃったなって思って……』
「い、いや、失礼なんて俺はべつに……」
勘違いされてびっくりした? 怒ってたわけじゃない? びっくりしたって……気まずかったとか? 恥ずかしかったとか? 俺が嫌なわけじゃない?
どくん、と、胸が大きく鳴った。
『ほんとうは顔を見て謝った方がいいと思ったんだ。でも、学校だとタイミングとか、いろいろあって言えないかも知れないから、思い切って電話したの。ほんとうにごめんね』
「大鷹……」
そうだ。これだ。潔い謝罪。思い切って行動。潔さと思い切りこそが彼女の本質。でも、それだけじゃない。彼女が今まで示してくれた小さな信頼や友情を、さっきまでの俺は否定しようとしていたのだ。
『あの、それだけ。じゃあ――』
「あ、待って!」
さすがの潔さ! 言うことだけ言って終わりだなんて。それに引き換え引き留める話題が簡単に出てこない、鈍くさい俺。
「あの、俺、べつに失礼だなんて思わなかった」
勘違いして落ち込んだけど、それは別の話だ。
「だから大鷹は謝る必要ないよ。逆に俺が頼ったせいで誤解されちゃって申し訳なかったと思ってる。ごめん」
『ううん、それは謝る必要、ない。あれは仕事だもん。それを1年生が勝手に勘違いしただけでしょう? 鵜之崎くんのせいじゃないよ』
そう言われればそうだ。あれは仕事。
「じゃあ……、俺たちはどっちも悪くなかったってことで」
『だめだめ。あたしは悪かったもん』
「でも、俺は大鷹の態度のことなんて気付かなかったよ?」
そう。落ち込んだことなんか忘れた!
『鵜之崎くんが気付かなくても、変な態度はほんとうだもん。だから謝るの』
思わず微笑んでしまう。彼女には頑固なところもあるらしい。ここは俺が折れないと決着が付きそうにない。
「……分かった。謝罪は受け入れた」
『うん。ありがとう』
満足そうな声のすぐあとに、ほっと息をついた気配。それからふたりで同時にくすくすと笑って。
彼女は俺と距離を置こうと考えたわけではなかった。そして、俺たちのずれかけた関係を元に戻すために、わざわざ電話をくれた。彼女の心遣いが俺の胸を温めてくれる。
「じゃあ、これからも今までどおり……ってことで」
『もちろん』
「ありがとう」
『うん。これからもよろしくね』
彼女の笑顔が目に浮かぶ。
ふと、会いたい、という言葉が心に浮かんだ。今、隣に彼女がいたら――。
「あ、そうだ」
会えない分、会話を続ける話題を見つけた。訊いてみるとすれば、たぶん今だ。
「俺……、気になってることあった。訊いてもいい?」
『なに?』
「俺が1年生に一緒にいた説明をしたとき、大鷹、びっくりしてたような気がして。それが……どうしてかなって」
『あ……』
これは心当たりがありそう?
『気付かなかったと思ったのに』
「ああ、まあ、なんとなく」
気の進まなそうな口調だ。訊いちゃいけないことだったのかも。
俺はよくこんなふうに気の利かないことをしてしまう。でも、もう口に出してしまった。撤回した方がいいのだろうか?
『あれはねぇ……、ちょっとショックだったから……』
迷っているうちに彼女が答えてくれた。でも「ショック」だなんて。今度は俺が驚く番。
「ごめん。俺、何か変なこと言ったんだね?」
『あ、べつに変なことじゃないよ。あたしだけの問題で、鵜之崎くんにもみんなにも、当たり前で普通のこと。だから気にしなくていいの』
「それじゃおかしいよ。さっきは俺が気にしてないって言ったのに、大鷹は謝ったじゃないか。今は大鷹がショックを受けたのに気にしなくていいなんて、そんなのおかしい」
『ごめん。使った言葉が良くなかった。ショックなんて受けてない。大丈夫』
「うそだ。そういう否定の仕方が変だよ。俺に気を使う必要なんてないのに」
『ご、ごめん』
謝らせてしまった! 大鷹は悪くないのに!
「……ごめん。言いたくないなら仕方ないけど……、ただ、これから改められることならって思ったから」
そう。誰かを傷付けるようなことはしたくない。大鷹が嫌だと感じるなら、それは二度としたくない。
沈黙のあと、小さく『あのね……』と聞こえた。気まずそうな口調。続くのは言いたくない理由か、それともショックの原因か。
『鵜之崎くん、『委員長』って言ったでしょ? それでびっくりした』
「え? 委員長?」
言われてみると、確かに言った。彼女と俺の関係を事務的に見せるためにその言葉を使ったのだ。
『鵜之崎くんには『委員長』って呼ばれたことなかったから。いつも苗字で……。『委員長』ってなんだかこう……いつもと違ってて、べつに当たり前なのにびっくりしちゃったの。それだけ』
いつもと違っていてびっくりした……?
いや、びっくりだけじゃない。否定していたけれど、ショックだったのだ。
もしかしたら、俺が彼女と距離を置こうとしたように感じたのか? 一年生にわざとそう見せようとしたのだけど、でも、彼女はそれがショックだった? だとしたら――。
思わず緩む口許を手で覆う。胸の中には彼女への想いがどんどん湧き上がってくる。
「分かった。これからはちゃんと名前で呼ぶ」
ちょっとカッコつけてしまった。彼女には見えないけれど。
『あ、いいんだよ! あたし、委員長で間違いないもん』
「うん、でも、俺は大鷹が委員長になる前からの知り合いだから、名前で呼ぶ方が慣れているのは確かだし」
話したのは委員長になった日が最初だから、慣れるもなにもないけれど。
『んー……、そう? 気を使ってくれてありがとう』
「はは、気を使うんじゃなくて、いつもどおりにするだけだから」
俺の方こそ、それを気にしてくれたことが嬉しい。
電話のあと、ベッドの上で天井をながめながら、一連の会話を何度も再生した。鼻歌も出そうな気分でそうしていると、ふと、電話が来る前にどれほど気分が沈んでいたか思い出した。
――こんなに変わっちゃうなんて。
彼女の声が、言葉が、表情が、そして行動が、俺の心を大きく揺らす。まるで嵐みたいに。そして今は……。
彼女も俺を好きになってくれそうな気がして落ち着かない。
大鷹と電話で話したあと、俺の中に小さな期待が育ち始めた。彼女と俺がいい関係になれるのではないかという期待。
けれど、翌日もその次の日も、俺は彼女に話しかけることができなかった。育ち始めた期待が、逆にプレッシャーになってしまったのだ。自分で自分にがっかりする。
結局、何もできないままゴールデンウィークに突入した。
「ああ、面白かったー。やっぱSF映画はいいなあ」
映画館のロビーで伸びをすると、礼央の弟、太河がにこにこしながら振り向いた。
「テレビとはやっぱりスケールが違うよね! 映像も音も、映画館の方が何倍もドキドキする」
中学2年生になった太河は前に会ったときよりも背が伸びて、声も低くなってきた。でも、はしゃぐ姿はまだ子どもっぽい。ステップを踏むように歩く太河を、礼央が目を細めて見ている。
ゴールデンウィークの初日、礼央兄弟と俺の三人で臨海部の観光スポットに遊びに来た。映画館にショッピングモール、ホテル、芝生広場に遊歩道、観覧車などが並ぶ、一日中遊べる場所だ。俺たちは映画を見て、昼メシのあとは辺りをぶらぶらする予定。
少し離れた親戚の家で暮らしている礼央と太河は、それほどしょっちゅう会えるわけじゃない。でも、こんなふうに一緒にいるときはお互いに思い合っているのがよく分かる。だから、礼央が太河と暮らすために高卒で就職すると決めている気持ちも理解できる。ただ、俺は礼央と違う立場になってしまうことに淋しさを感じているのだけれど。
「昼メシ、どこにする?」
「あ、その前にトイレ!」
「そうか。ええと……」
トイレは通路の先、エスカレーターの奥だ。周囲の客はエスカレーターを過ぎるとぐっと減り、トイレ前には連れを待っているらしい数人の男女がいるだけ。女子トイレから出てきた一人が「お待たせ」と黒いキャップをかぶった男に声をかけた。見るともなしに見た俺の目に映った姿に思わず足が止まった。
「あれ?」
立ち止まった俺に気付いたカップルが視線を向けてくる。すぐに「あ」と声を出したのはデニムのワンピース姿の――。
「鵜之崎くん! わあ、偶然」
やっぱり大鷹だ。
ゴールデンウィーク中に会えたらいいな、と思っていた。でも、何もできなくてあきらめていた。なのに会えた。嬉しい……けど、彼女は男と一緒?
たしか、男とうわさになったことがないって言ってなかったっけ? 男のきょうだいがいるなんて聞いた覚えはないし、だとすると、相手の年齢的にデートの確率は90%以上か。しかも、相手は俺がどんなに頑張ってもなれないであろうイケメンだ。
「あれ? 大鷹ちゃん?」
礼央が俺の隣に立った。その笑顔はいつもと変わらず柔らかい。俺の複雑な気持ちを察してくれているのだろうか……と、なんとなくハラハラする。
「デート?」
突然尋ねた礼央の声に心臓が跳ね上がった。
――それを訊いちゃうか、今!?
驚きつつも、確認するために大鷹に視線を移す。
彼女はキャップ男と顔を見合わせて、視線で何かを確認している様子。それはかなりの親密さを表わすしぐさだ。答える前に確認しているということは、初デートか秘密の関係か。
太河もふたりをじっと見つめていることに気付いた。中学生には高校生のカップルをじっくり見るチャンスなどなかなかないだろうけれど、目をまん丸にしてなんて、ちょっと見過ぎじゃないだろうか?
「あ、あの、あの」
太河があわあわした様子で口を開いた。
「あの、あの、おれ、見ました。雑誌で。髪を――」
え?――と思う暇もなく、大鷹たちがいきなり真剣な顔になって近付いてくると、太河の肩に両側から手をかけた。
「え? え? え?」
「こっち来て。早く」
「ダメなんだ、ここじゃ」
太河の背中を通路の奥へと押しながら、大鷹が「一緒に来て」と振り返る。訝しげな視線を向ける周囲の客から逃れ、礼央と顔を見合わせてからあとを追った。
トイレ横の階段を上って到着したのは屋上庭園。海が見える広いデッキには散策路の間にベンチや花壇が設置されている。あまり存在が知られていないらしく――俺も知らなかったし――俺たちのほかには二組の姿だけ。
「すぐに分かった? ボクのこと」
太河から手を離し、キャップ男が尋ねた。襟足長めの髪と、ゆったりした白シャツに細身のジーンズがさり気ないのに決まっている。苦笑を浮かべた顔は肌が驚くほど綺麗だ。腰に手を当てている立ち姿は男の俺でも見惚れてしまうほどカッコいい。
さっき太河は「雑誌で」と言った。もしかしたら芸能界関係者かも知れない。大鷹の双子の知り合いか何かで――。
「は、はい、分かりました。くらんさんですよね? モデルの」
「え?」
太河は大真面目だ。真面目というか、頬を上気させて目を輝かせている。ふざけているわけではない。でも、くらん――「Kuran」っていったら……。
「え? 大鷹の双子って、男だったの?」
「景くん、違うよ!」
太河が俺に非難の目を向ける。同時に目の前のふたりが噴き出した!
「かなり成功」
「だね」
――意味が分からない。
助けを求めて礼央を見ると、肩をぽん、と叩いてくれただけ。礼央は理解したらしい。混乱している俺の髪を潮風がやさしく撫でていく。
「ごめんね、鵜之崎くん。この子、女の子なの。前に話したあたしの双子。紅色の蘭って書いて紅蘭っていうの」
「大鷹紅蘭です」
キャップ男、いや、紅蘭さんに頭を下げられて、思わず「ぅえええええ」とうなってしまった。自分が男と女の区別がつかないなんて思わなかった!
「Kuranちゃん、俺、ファンなんです。いつもいとこが買ってる雑誌で見かけてて。今月は表紙でしたよね? すごくよかったです」
太河に「ありがとう」と微笑む様子は、女子だと思って見れば女子にも見える。そして、やっぱりカッコいい。
「俺、ファッション誌のモデルって聞いてたから、もっと……髪が長いイメージを持ってた」
まだ驚きから抜けきれないままつぶやくと、大鷹がにっこりした。それを見たら頭がはっきりしてきて、体と心が現実の世界に着地した。
「髪を切ったのは最近なの。ずっと伸ばしていたんだけど、お仕事の関係でね」
大鷹が教えてくれた。嬉しそうな太河と話している紅蘭さんを見ながらほっとしているようにも見えるのは気のせいだろうか。大鷹の落ち着いた態度のお陰で俺の驚きも徐々に去り、今度は彼女に会えた幸運が俺の中に広がっていく。
デニムのワンピースにポニーテールの彼女はいつものセーラー服よりもずっと軽やかで明るい雰囲気。でも、着飾らない感じがいかにも彼女らしくて、俺にとっては新鮮でありつつ気後れせずに済むちょうどよさ。
「あたしたち、ほんとうに似てないでしょう?」
紅蘭さんを振り返って彼女が言う。
「背の高さも15センチも違うの。くぅちゃん……紅蘭のことね?」
そう言って俺を見上げる瞳はいつもと変わらない。
「くぅちゃんは女の子の服装だとけっこう目立つの。顔とか身体つきだけじゃなくて、身のこなしとか、やっぱり訓練してるから。最近は顔が売れてきちゃったりもして、街を歩いていると、声かけられたり写真撮られたりすることも多くなってきて」
「そうか。プライベートでも気を抜けなくなっちゃうね」
「それで男装して世間を騙して楽しんでるってわけか」
不意に聞こえた尖った声。びっくりして隣を見ると、礼央が冷たい視線を紅蘭さんに向けていた。
紅蘭さんにも礼央の声が聞こえたらしい。太河と一緒にぱっとこちらに顔を向けた。
「騙して楽しむなんて、礼央、それは」
違うと思う――と続ける前に礼央がこちらを向いた。その体から発せられる冷たい反感に、舌の上で言葉が消えた。いつもふわふわと明るい礼央が、こんなふうに攻撃的な態度を表に出すなんて――。
「モデルなんて人を騙すのが仕事だと思ってたけど、プライベートでも同じなんだ?」
「れ、礼央?」
おろおろするだけの俺の前で、紅蘭さんが口を引き結んだ。そして。
「じゃあ、あんたは」
太河の前から紅蘭さんが一歩踏み出した。たぶん本気で怒っている。
「誰のことも騙してないって言えんの? 親にも友だちにも、ありのままの自分だって言えるわけ?」
「ちょっと待って!」
慌てて彼女と礼央の間に割って入った。でも……遅かった。
「太河」
駆け寄って肩に手をかけ、うつむいた顔をのぞき込む。さっきまであんなに上気していた頬が今は真っ白だ。やっぱりキツいひと言だったのだ。
「礼央」
振り向くと、礼央もうつむいていた。握り締めた手は怒りのためか後悔か。ゆっくりと上げた視線が俺で止まった。
「ちょっと……時間もらうね。太河と一緒にいてくれるかな」
「もちろん」
黙ってうつむく太河とその肩を抱く俺、何が起きたか分からずに戸惑いの表情を浮かべている大鷹姉妹。俺たちを残し、礼央が足早に建物の中へと消えていく……。
「太河、ちょっとトイレ行こうか」
そう声をかけると太河がうなずいた。
大鷹たちはこのまま待っていると言った。俺は、今日はもう別れてしまっても仕方ないと思ったのだけど。
「傷付けてしまったなら謝りたいから。もう会う機会がないかも知れないし」
まっすぐな瞳で紅蘭さんが言った。覚悟したような表情は思いのほか大鷹に似ていた。
まだ硬い表情の太河と一緒に建物内のトイレに行った。礼央の姿は――誰の姿もそこにはなく、手を洗い終わったところで太河に「大丈夫か?」と尋ねた。
「うん」
しっかりとうなずいた太河。でも、すぐに視線が揺れ、力なく下を向いてしまった。
「兄ちゃんがあんなこと言うなんて……」
「うん。俺もびっくりした」
思ったとおり、太河がショックだったのは紅蘭さんの言葉よりも礼央の態度の方だった。俺も同じだったし、同時に、伝わってきた。礼央の悲しみが。
親を亡くしたことだけじゃない。高校卒業後に就職することも、ほんとうは悲しいのだ。
大学の勉強は通信制や夜間など、仕事をしながらでも可能だ。礼央はその道を歩むつもりだ。けれど、道はあっても自分ができるかどうか不安になることもあるだろう。それに、俺が淋しいように、いや、今の仲間たちと同じ道を進まない礼央は俺よりももっと、淋しいはずだ。
礼央には就職せずに進学する道もある。ご両親の残したお金にアルバイトをすれば、親戚の家を出るのも可能だと言っていた。でも太河と一緒に、太河の保護者として暮らすために、親戚を説得するためにも就職が必要だと礼央は結論を出したのだ。
目指すのは不景気にも強いと言われている公務員。中でも、転勤がほぼ市内に限られる地元の市役所だ。自分が興味のある仕事を選ぶのではない。それほど礼央には太河が大切なのだ。
けれど、気持ちは簡単に整理できるものではないと思う。
“好きなこと” で仕事を選ばない決意をした礼央が、モデルという仕事のマイナス面さえも楽しんでいる紅蘭さんに対して反感を、そして羨望を抱いたとしても無理はない。それを太河も感じ取ったのだろう。
「俺、兄ちゃんに甘えてるのかな? 兄ちゃん、ほんとうは無理してるんじゃないかな? 景くんが感じてること、正直に話して」
すがるような瞳で尋ねる太河に胸が痛くなる。俺にできるのは、俺が信じていることを伝えることだ。
「礼央はたぶん……いろいろ我慢をしてると思う」
太河がぐっと息を詰めた。苦しさを隠そうとする太河にそっと問う。
「だけど、じゃあ、太河は? 何も我慢してないのか?」
「あ……」
「俺も……まあ、こんな感じに生きてるけど、あるよ。そういうのって、たぶん何かを……自分のプライドとか家族とか、大切なものを守るために必要なんじゃないかな。そりゃあ、我慢し過ぎて無理になったらダメだけど」
太河がゆっくりうなずいた。それを確認して続ける。
「我慢は無理とは違う。我慢は……その先に何かが、希望が、あるからできるんじゃないかな」
太河がもう一度、今度はしっかりとうなずいた。きっと、太河にも思い当たることがあるのだ。
「礼央にはたぶん、紅蘭さんがすごく気楽に生きているように見えたんだと思う。それで……自分と比べてみて、ちょっと取り乱しちゃったんだよ、きっと」
礼央が紅蘭さんと自分を比べた――。
自分の言葉にはっとする。比べることが礼央の悲しみを増幅させたのだ。
「だけど、礼央は太河を重荷に思ったりはしないよ。逆。礼央が頑張れるのは太河がいるから。太河がとっても大事だってこと、礼央の顔見てれば分かるもん、俺。太河だって、礼央のこと大事だろ?」
「うん」
「それとおんなじだよ。きっと同じくらい」
「うん……、そっか」
太河の頬に血の気が戻って来た。弱々しいけれど微笑みも。
「礼央が無理しないように、俺がちゃんと見てるから。太河は礼央が余計な心配しなくて済むようにするんだぞ?」
「うん、分かった」
「紅蘭さんのことも、礼央は絶対大丈夫。ちゃんと自分の気持ちを修正できるから。たぶん今ごろ、言い過ぎたって反省してるよ」
「そうかな……?」
「もちろん!」
少し強く肩を叩くと、太河はほっとした様子で「そうだよね」と言った。
「よし。じゃあ、戻ろうか」
「うん」
すっきりした顔でうなずいた太河が、歩きながら、一緒に住んでいる従妹が買ってくる雑誌に紅蘭さんが載っているのだと教えてくれた。ほかの同じようなモデルとはどこか違っていて、一番輝いて見えるのだと。
もしかしたら……いや、きっと、紅蘭さんにも俺たちからは見えない我慢があるのだろう。でも、それを見せないのが――見せないだけじゃなく、我慢しながらでもより幸せに見せるのがモデルという仕事なのかも知れない。
屋上に戻ると、大鷹たちは柵にもたれて無言で海をながめていた。初夏の光が降り注ぐ海を前になにやら深刻そうなカップルに見えるふたりに、少し増えてきた客は遠慮して距離を置いているようだ。プライバシーを保つための男装はきちんと効果を発揮している。
「お待たせ」という声に振り向いたふたりは、俺が微笑んでうなずくとほっとした様子で緊張を解いた。と思ったら、紅蘭さんが太河に頭を下げた。
「あの、ごめんねっ。ボク、いけないこと言っちゃったみたいで。ほんとうにゴメンなさい!」
「あ、い、いいえ。そんな」
照れて慌てる太河を見ながら、俺は紅蘭さんの「ボク」はデフォルトなんだなあ、などと思った。
「あたしからもごめんなさい」
謝り合う太河と紅蘭さんを見ていた俺に大鷹がそっと言った。
「せっかくの休日に、あたしたちのせいで変なことになっちゃって」
「いや。大丈夫だよ」
そう。礼央も太河も大丈夫だ。俺には分かる。
「礼央も失礼なこと言ったよね。反省して戻って来ると思うよ」
建物の方を見たけれど、礼央はまだ現れない。そこに「えぇっ?!」という紅蘭さんの声が聞こえた。
「ご、ごめん。ほんとうにごめん。どうしよう? ボク、ほんとうに酷いこと――」
取り乱した様子に太河と俺が驚いているうちに、紅蘭さんの目から涙が落ちた。女子に目の前で泣かれた経験のない俺――たぶん太河も――は何もできずに立ち尽くすだけ。
大鷹も驚きつつも、そこは姉妹だけあって、「ちょっとごめんね」と俺たちにことわって紅蘭さんをベンチへと導いて行った。それからひとりで戻って来ると、また「ごめんね、びっくりさせて」と謝った。
「びっくりさせたのは僕の方なんです」
太河が言った。
「僕たちには親がいないって話したので、それで――」
「え?! そうなの?!」
大鷹が確認するように俺を見た。それに応えてうなずくと、彼女は「そうだったんだね」と労わる表情を太河に向けた。
「ごめんなさい。そういうひとがいるということは頭では分かっていたけれど、自分の身近にあることだとは気付いていなかった。もしかしたら、あたしもどこかで礼央くんを悲しませたり傷付けたりしていたかも知れない」
「俺も、礼央から事情を聞くまでは同じだったから」
「あ、べつに気を使ってもらわなくてもいいんです」
太河が明るい表情を向ける。
「ただ知っててもらえれば。僕には兄がいるし、世話してくれてる親戚も優しいし、それに、あと2年すれば兄と一緒に暮らせるから」
カッコいいぞ、太河! と、心の中で言った。
「え? あと2年すればって、じゃあ今は? 別々に暮らしてるの?」
大鷹がまた目を丸くした。
「そうなんです。施設に入れるのは可哀想だって親戚が。でも、みんな子どもがいるから一人ずつ別々に」
「そうだったんだ……」
ため息をつくように彼女が言った。
「じゃあ今日は大事なお出かけの日だったのね。それなのに、お兄さんと一緒の時間を減らすようなことをして、ほんとうにごめんなさい。あたしたちと会ったばっかりに……」
「まあ、お互いさまじゃないかな。礼央だって紅蘭さんに失礼なこと言ったし」
元はと言えば、そっちが先だった。太河も隣でうなずいた。
ちょうどそこで礼央が建物から出てきた。
花壇の間を歩いてくる姿からはどんな気分なのか分からない。近付くにつれて見えてきた表情は硬い。まだ気持ちが収まっていないのだろうか。
紅蘭さんも気付いてベンチから戻って来た。きっと礼央に謝るつもりなのだろう。赤くなった鼻の頭に泣いていた気配が残っている。
「景、ありがとう」
礼央の最初のひと言は俺に向けてだった。太河を頼んだからなのだろうけれど、俺のことなんか後回しでいいのに。
俺がうなずくと、ようやく礼央は紅蘭さんに視線を向けた。その表情は挑むようにもにらむようにも見えて、俺は息をひそめて太河の肩にそっと手を掛けた。
「これ」
礼央は紅蘭さんに向かって無造作に拳を差し出した。何かを渡そうとしているらしい。
ためらいがちに差し出される紅蘭さんの手を見ながら、どうか嫌がらせではありませんように、と祈る。礼央を信じてはいるけれど。
手のひらにぽとん、と落とされたものを見て、紅蘭さんが小さく首を傾げた。と、その表情がみるみる変わった。まるで雲が晴れて太陽が顔を出したように明るく。言葉が少なくても、行為がそれを補った例を目の当たりにした、と思った。
「ケンカを売ってごめん。すごく失礼なことを言いました」
ほっとする俺たちの前で礼央が頭を下げた。紅蘭さんが首を横に振る。綺麗な爪の指先でつまみあげたのは黒猫の形をした……アクセサリーだろうか。
「こちらこそ、酷いことを言いました。ごめんなさい」
紅蘭さんも頭を下げた。同時に全員がほっと息をついたように感じた。
お詫びにプレゼントだなんて気取ったことをする礼央を軽くつつくと、ニヤッと笑った。それから。
「落ち着こうと思ってガチャガチャやったら出てきた。これ、みんなの分」
そう言って広げたバッグの中には丸い玉がいくつも……。
「礼央! 何回やったんだよ?!」
礼央が後ろめたそうな顔をして、俺の耳に。
「実はお金、あと500円しか残ってないんだ」
なんてこった! これから昼メシなのに。
「分かった。俺がそのカバンから、必要な分のガチャガチャをやってやるから」
少しお金がかかったけれど、礼央はちゃんと苦しさを乗り越えてくれた。仲直りの方法も礼央らしくて、こういうところが好きだし、尊敬もしている。
仲直りの結果、大鷹たちも一緒に昼メシを食べることになり、紅蘭さんのファンだった太河は喜んだ。俺も……かな。
昼はテイクアウトのホットドッグを買って、海に面した広場で食べた。海風で紙や袋が飛ばされるので、みんなで追いかけたり拾ったりしては笑い合った。
紅蘭さんは自分を「くぅちゃん」と呼んでほしいと言った。彼女たち自身が紅蘭=「くぅちゃん」、紫蘭=「しぃちゃん」と呼び合っているそうだ。今日、紅蘭さんが男みたいな服装をしているのはKuranであることを隠すためだから、その頼みは当然だろう。
太河は年上の――しかも憧れの――相手をちゃん付けで呼ぶことに戸惑いはあったようだったけれど、「いとこ同士だと思えば」と言われて納得するとたちまち慣れてしまった。しかも大鷹のことも「しぃちゃん」と呼んでいる。気付いたら礼央も「しぃちゃん」を使っていた。「大鷹」がふたりいるのだから、流れとしておかしくはない。けれど。
そこで迷ってしまうのが俺だ。俺は大鷹を何て呼ぶ?
くぅちゃんは俺たちを「礼央」「太河」「景くん」と呼ぶことにしたらしい。礼央と俺に差が出たところに彼女の心の距離が見える。最初の言い合いと仲直りが礼央との友情につながったのかと思うと感心してしまう。
それは礼央も同じらしい。礼央はくぅちゃんに対して、もう意地の悪いことは言わない。でも、優しいわけでもなくて、少し挑戦的なからかいや揚げ足取りをする。
対するくぅちゃんはそれを楽しんでいるようで、遠慮のない言葉を返している。最初に礼央に向かってまるで啖呵を切るように言い返したあの気性を思えば、少し厳しいやり取りもちょうどいいのかも知れない。
俺は礼央の様子を見ながらじんわりと「よかったなあ」と思っている。学校での礼央の明るさや人懐っこさには、漠然とだけれど、自分を隠して周囲を楽しませようという自己犠牲的なところがあるのではないかと心配していたから。もしかしたらそれは、「親戚の家に住んでいて、卒業後はそこを出るつもりだ」という事情を知っている俺の取り越し苦労かも知れない。でも、午前中にくぅちゃんの言葉に不意を衝かれた様子が俺の推測を裏付けているように思えるのだ。
二十四時間、他人の中で暮らしている礼央には、心を許せる相手を一人でも多く見つけてほしい。だからくぅちゃんとキツいことを言い合っている礼央を見るのが嬉しい。太河もそんなふたりの間で爆笑していたりするから、心配はなさそうだ。後ろから見ていると、まるで男の子が3人でふざけあっているみたい。
それはそれとして。
問題は、俺が大鷹をどう呼ぶか、だ。
大鷹はと言えば、「礼央くん」「太河くん」そして「鵜之崎くん」だ。俺だけ苗字。
慣れてしまったから、というのが最大の理由だと思う。そして、どんな呼び名で呼ばれようが、俺自身は何も変わらない。
でも、関係はいくらか変わる気がする。
俺は「しぃちゃん」と呼びたい。その呼び名を聞いた瞬間に彼女にぴったりだと思った。そして、呼び方を変えるなら今日のうちだと分かっている。けれど、その勇気が出ない。
彼女はどう思っているのだろう。どうでもいいのかな……。
頭の中で「しぃちゃん」と言ってみる。なかなかいい響きだ。しぃちゃん、しぃちゃん、しぃちゃん――。
「バレー部は、連休中は?」
隣からの声ではっとした。せっかく並んで歩いているのに、ぼんやりしていたなんてもったいない!
「練習があるのは後半だけ。……コーラス部は?」
「しぃちゃんは?」と口に出す決心がつかなくて、それを使わない方法を選択している俺。ああ、情けない。
「うちは無し。家で自主練」
「じゃあ、ゆっくりできるね。家族の予定とか?」
「ううん、うちは両親ともずっと仕事で。今日はくぅちゃんが久しぶりに何もない休日で、前から行きたかったお店に行こうってことになって」
「あれ? そうだったの? じゃあ、俺たち邪魔――」
「ああ、いいのいいの」
彼女が笑いながら言った。
「もう午前中に行ったの。そうしたら、どのお店もすごい行列で、今日はあきらめたんだ」
「午前中から行列って……何の店?」
「パンケーキとアップルパイとピザ!」
楽しいことを打ち明けるように彼女が言った。親しみのこもった笑顔に、やっぱり「しぃちゃん」と呼んでも大丈夫かな、と少し勇気が湧く。
「どの店もってことは、それ、もしかして別々の店? 1軒じゃなくて? それが全部行列?」
「そうなの。3軒ともまわるつもりだったの。でも、どこも開店前から大行列! くぅちゃんが雑誌の記者さんに教えてもらったところなの。さすが話題のお店だよね」
「へぇ……」
ファミレスとファーストフードにしか馴染みがない俺には、食べ物屋を目指して遊びに来るということも驚きだ。しかも3軒まわるつもりだったとは。
いや、それよりも。
今の会話、すごくいい流れだった。俺たち、やっぱり仲良しなんじゃないだろうか。だったらこの流れでどうだろう?
――よし。言っちゃおう。
やっと決心がついた。はっきり宣言してしまえば俺の中でもすっきりする。
「ええと、あのさぁ」
「ん? なあに?」
小鳥みたいに首を傾げる彼女。俺にとっては彼女らしさの一つであるその仕草を見たら、ほっとして笑いがこみ上げてきた。同時に肩の力が抜けて、のどから楽に声が出た。
「俺も『しぃちゃん』って呼ぼうかと思うんだけど」
「ああ! もちろん!」
即答と笑顔が返ってきた。よっしゃ!
「あたしも『景ちゃん』って呼んでいい?」
――ん?
俺の予定と違う言葉が聞こえた。
「景、『ちゃん』?」
「ふふっ、そう」
「もちろん構わないけど……」
まあ、考えてみれば、「しぃちゃん」と「景ちゃん」なら両方とも「ちゃん」付けでバランスが取れていると言えば言える……けど。礼央は「礼央くん」なのに、俺は「景ちゃん」?
「本当はね」
俺の腑に落ちない様子に気付いたのか、大鷹――しぃちゃんがにこにこ顔で説明してくれた。
「クラス替え初日にいちごが『景ちゃん』って呼んでるのを聞いて、あの時点であたしの頭の中には『景ちゃん』がインプットされちゃったんだよね」
なんと! 初日からすでに「景ちゃん」認定されていたなんて!
「でも、たいした知り合いじゃないのに名前で呼ぶなんて馴れ馴れしいかな、と思って。だからいつも、頭の中で『ええと、鵜之崎くんだよね』って確認してから話しかけてたの」
「なんだ。そうだったんだ」
思わず笑ってしまった。
礼央が彼女に自分の呼び方を指定したとき以来、俺はあれこれ気にしてきた。でも、彼女はきっかけがなくて遠慮していただけだったのだ。
彼女のことが、また少し分かった。
はきはきしていて潔いところがある一方で、心の中ではいろいろなことに迷ったり遠慮したりしている。委員会初日のようにフレンドリーな態度の裏側で、個人的な部分の距離は簡単には縮めてこない。その辺は俺と結構似ている気がする。
そんな彼女が今、俺を「景ちゃん」と呼んでくれると言っている。これは大進歩じゃないだろうか。――いや、そうじゃなくて、先に「しぃちゃん」と呼ぶと言えた俺が進歩したのかな?
「ねえ! アップルパイの店、もう一回見に行ってみない?」
くぅちゃんが笑顔で振り向いた。
「中に入れなくてもテイクアウトで2個くらい買って、みんなで味見しようよ。それならお金がない礼央も一緒に食べられるでしょ?」
そう言ってニヤリと礼央を見たくぅちゃんのキャップには黒猫のピンがついている。礼央の所持金が少ないことはくぅちゃんにバレてしまったらしい。
「景、聞いた? ふたりは今日、食べ物の店をはしごする予定だったって」
「うん、聞いたよ。3軒だってね」
笑って答えた俺の隣からしぃちゃんが「どこも美味しいんだって」と元気に付け足した。俺たちの前ではくぅちゃんと太河がデザートの話で盛り上がっている。
青空に薄く刷いたような雲がかかる春の終わりの穏やかな日。一緒にいる全員が楽しい気分でいられることがこんなに嬉しいなんて、俺はちょっと感激し過ぎだろうか……。