初日に俺を「背が高いだけが取り柄」と紹介したことを有り難く思えと? まさか、その後の展開を読んでいたとでも言うのか?
「それ、本気で言ってるのか?」
呆れる俺に、いちごは「どうかな」とニヤリと笑った。そして、いったん背を向けてから、ちらりと振り返った。
「でも、いい感じかもね」
――え?
「その怖い顔をどうにかすればね」
訊き返す間もなく遠ざかるいちごの後ろ姿。声は小さかったし、聞き間違えたのかも知れない。でも……。
「あれ?」
後ろから聞こえた声。はっと振り返ると大鷹のきれいな立ち姿。
「まだ息が切れてるの? 運動部なのに」
からかう口調が妙に嬉しい……ような気がするだけだ!
女子にからかわれたことなんて、今までだってあったはずだ。こんなのは特別じゃないし、大鷹だって深い意味があって言っているわけじゃない。そんなことを考えること自体、不必要だ。
「実はトレーニングのために足首に重りを巻いてるんだ」
「えっ? うそっ?」
驚いた彼女が俺の足元を見た。ほら見ろ! 俺の方が上手くからかったぞ!
「うん。うそだよ」
「やだもう。あははは」
一緒に教室へと歩きながら、いちごの声が頭の隅から響いてくる。「いい感じかもね」「その怖い顔をどうにかすればね」――。
たしかに俺は目つきが鋭いと言われたことはある。目尻が上がり気味だからだ。それに、女子に愛想良くしたりもしない。だけど。
大鷹は怖がっていない。
それでいいじゃないか。
図書新聞の編集長の仕事が甘くないと実感する出来事がそれからすぐに起きた。問題は『先生のおすすめ本』の原稿だ。
図書新聞には一号おきに『先生のおすすめ本』というコーナーがある。その名のとおり、先生が生徒に読ませたい本を紹介するコーナーで、本のタイトルと紹介文から成っている。紹介文の文字数は二百から三百字。
俺はその依頼用の原稿用紙を持って、編集会議の翌日に担任に頼みに行った。すると、
「最近忙しくて、本読んでないんだよねー」
と、やんわりと断られた。次に放課後にバレー部の顧問のところに行くと、同じ答えが返ってきた。そこで嫌な予感がした。
俺はもともと先生たちと気軽に仲良くなるようなタイプではない。担任とバレー部顧問で人選的にはストック切れだ。でも、これは仕事だからどうにかしなくちゃならない。
一晩明けた今日、一時間目から授業のあとにそれぞれの教科の先生に当たってみた。でも、「読んでいない」「いい本を知らない」「この前やった」と立て続けに断られ、気持ちが折れかけた。
「景? 大丈夫?」
廊下で呆然としている俺を心配してくれたのは礼央だ。昨日の帰りに話してあったので、気にしてくれていたのだ。
「もしも誰も引き受けてくれなかったらどうしよう?」
弱気な言葉が口をついて出る。
編集会議で紙面の割り付けも決まっている。誰も引き受けてくれなかったら、この部分だけ大きな挿し絵で埋めるのか? でも、そんなこと前代未聞じゃないだろうか。みんなは俺の努力が足りないと思うかも知れない。これは定番の記事なのに……。
礼央が「ちょっと待ってて」と言って教室に戻っていく。そしてすぐに大鷹と一緒に戻って来た。彼女を見た途端、結局、ダメな俺を見られることになってしまった、とますます落ち込む。
「先生が引き受けてくれないんだって?」
大鷹が心配そうに尋ねた。心配なのは俺のこと? それとも記事が抜けることだろうか。
「うん、まあ……、まだ五人目だけど」
「五人? そんなに断られちゃうなんて」
五人を「そんなに」と言ってくれた。それだけでも少し報われた気がする。
「忙しくて読む暇がないとか、いろいろ……」
「そんなことを?」
眉をひそめる大鷹。礼央は「俺たちには『本を読め』って言うくせにね」と憤慨している。
「こうなったら景が適当に作っちゃえば?」
「さすがに先生の名前出すのにでっち上げはできないよ」
ずるい道に入り込みそうになっている俺たちに、大鷹が昼休みに対策を練ろうと言ってくれた。その言葉で俺の肩の荷が少し軽くなった。
締め切りまであと一週間。これが短いのか十分なのかさえ、よく分からない……。
昼休みになり、大鷹がコーラス部に所属している伝手で、一緒に音楽の先生に頼みに行ってくれた。でも、やっぱりダメ。そこで彼女が図書館の雪見さんに訊いてみようと言った。雪見さんは『先生のおすすめ本』のない月に本の紹介をしているから、今回は頼むことはできない。でも、書いてくれそうな先生を知っている可能性があると、彼女が思い付いたのだ。
「ああ、あのコーナーね」
雪見さんはすぐに事情を理解してくれた。
「困ってる図書委員さんがときどきいるんだよね。先生たちも忙しいのは分かるけど……、まあ、読んでないっていうのが本当だったりもするから、図書委員さんも苦労するよね」
ふわんとした微笑みを浮かべて労ってくれる。こんなふうに言ってもらえると本当にほっとする。雪見さんっていいひとだ!
ほっとしたら不意に、雪見さんと俺の間にはさまれている大鷹の小ささに気付いた。俺と、たぶん雪見さんは、身長が180センチ以上ある。その間で真面目な顔で俺たちを交互に見上げている大鷹という構図が妙に可笑しい。彼女は俺の仕事を手伝ってくれているのだから、笑うなんて失礼だけど……。
「ここを利用してくれてるのは理科の箱根先生と英語の七沢先生、あと、養護の明石先生あたりかな。……あ、ちょうどいらしたよ。訊いてみたら?」
振り向くと、カウンターで本を返している女の先生がいた。一年のときに英語を教わっていた七沢先生だ!
書架へ向かう先生に突進気味に駆け寄って事情を説明すると、少し考えてから「ああ、あるよ」とにっこりした。隣で大鷹もほっと息をついている。ああ、雪見さん、感謝します!
「宮本武蔵の『五輪書』。知ってる?」
英語の先生の口から宮本武蔵という名前が出てきて、少しばかり面食らった。
「あ、ええと、名前だけは……」
「兵法書って言われてて……あ、もちろん、読んだのは現代語版だけど、剣の道の心構えとか極意とかを五つの視点に分けて説いてる感じかな」
「そ、そうなんですか」
この口調だと、本当におすすめらしい。それに、英語の先生と宮本武蔵の本という組み合わせも、意外性があっていいのではないだろうか。
「あたしは技術的なことは分からないんだけど、教えの中に、とにかく練習して習得しろっていう言葉が書いてあるの。何度も何度も。たぶん、宮本武蔵自身がそうやって剣豪って言われるほど強くなったんじゃないかと思うの」
「ひとすじに努力して」
「そう。すごいよね?」
「はい。ストイックなひとだったんですね」
「うん。そういうところがきっと、何かを目指したり、頑張ってるひとの心の支えになると思うんだよね」
「なるほど。――って、いうような話をこの用紙に書いていただきたいんですけど」
原稿用の紙を差し出すと、七沢先生は「あらやだ」と笑った。
「鵜之崎くんが今の話を適当に書いてくれればいいよ」
「え……?」
「ほら、インタビューってことで」
固まった俺の手元の紙を先生がのぞき込む。
「そうだね、この文字数だったら今の話で足りると思うよ。多少盛ってくれても構わないし」
「え、でも」
「先生ご本人の言葉で薦めていただく方が効果が高いと思うんですけど……」
隣から大鷹の援護射撃。でも、先生の方が俺たちよりも一枚上手で、結局、「大丈夫、大丈夫!」と逃げられてしまった。
「仕方ない。こうなったらやるしかないよ。今の話、忘れないうちにメモしよう」
ショックで言葉を失っている俺の耳に大鷹の力強い声が届いた。
「あ、そ、そうか」
たしかにそのとおりだ。話を聞いてしまった以上、今さらほかの先生には頼めない。内容を忘れてしまったら、それこそでっち上げるしかなくなってしまう。
大鷹って、なんて頼もしいんだろう! 一緒に来てくれて、ほんとうに有り難い!
筆記用具を探して俺があたふたしているうちに、彼女がカウンターから紙と鉛筆を持ってきてくれた。あいている席に座って、一緒に先生の話を思い出してはメモをする。
「ええと、剣の道の極意」
「ひとすじに努力って言ってた」
「あとは、頑張っているひとの支えに……と」
キーワードが出揃って来たところで、ふと、俺の手と並ぶように置かれている彼女の手に気付いた。指のほっそりした小さな手で、まるで彼女の化身のようだ。
「こんな感じでいけそう?」
ぱっと向けられた顔が視界をふさぐ。色の濃い瞳、小さな鼻、淡いピンク色の唇、なめらかな頬。今日は何度も見ているはずなのに、もっとじっくり見たいと思ってしまう。
「……うん。一応、本があったら借りてくる」
さり気なく視線をはずして席を立つ。後ろで彼女が「あ、そうか」と言った声を聞きながら、自分の鼓動を感じている……。
――剣の道か……。
ベッドにごろんと横たわり、天井を見上げる。文庫本の『五輪書』に人差し指をはさんだまま。
昼休みに学校の図書館で借りてきた『五輪書』。原文と現代語訳が載ったその本は、思っていたよりも読みやすかった。と言っても、まだ最初の「地の巻」だけど。
剣豪と言われた宮本武蔵は、一部で失われつつあった真正の武士としての生き方や研究の末にたどり着いた剣の極意を伝えようとこの書を著したらしい。地、水、火、風、空と五つに分けられた巻はそれぞれ兵法の道、二天一流の基本、戦い、他流派との違い、心の有りようを説いている。
まだ少ししか読んでいない俺にも伝わってくるのは、この宮本武蔵という人物の迷いのなさだ。武士として生きる覚悟。
当時の身分制度による考え方があるにしろ、武蔵は武士の道をただ歩むだけじゃなく、究めようと生きてきた。独自の二天一流――二刀流――を編み出したのもその一環だ。あくまでも勝つことにこだわったのは、武士の戦いは命のやりとりだからだ。戦の現場では負けたら死んでしまう。中途半端な気持ちで刀を抜くことは――まして、金儲けの種にするなど――あり得ない。
読みながら頭に浮かんだのは諒のことだ。小さいころからあらゆることを知りたがっていた諒は、だから勉強が好きで、今では宇宙の謎に挑む研究の道に進もうとしている。武蔵とは道は違うけれど、ひとすじに進み続けているのは同じだと思う。
じゃあ、俺は? ――そう思ってしまった。
俺がひとすじに進みたい道とは何だろう?
勉強? べつに嫌いではないけれど、ピンと来ない。
バレーボール? 中学から続けてきたし、好きだ。でも、ひとすじに打ち込めるかと問われたら……、受験もあるし……。
ほかに何がある? これから何が見付かる? 見つかる可能性はあるのか?
「はあ……」
腹の底からため息が出てしまった。自分の未来がつまらないもののような気がして。自分が何者にもなれないような気がして。
諒には進みたい道がある。そして才能があり、自らの力で扉を開けてきた。でも、俺にはやりたいことも才能もない。
何かを見つけようと思うと、浮かんでくるのは濃い霧が渦巻く中に立ちすくんでいる自分。この真っ白な中を手探りでうろうろするしかないのか。
こうやって考えているあいだにも時間は流れていく。明日になり、明後日になり、やがて一か月、一年……。止まらない時間に、将来のことを早く決めろと急かされている気がする。
俺はいったい何をやりたいんだろう? 何ができるんだろう? 悩まずに「スポーツ選手」などと答えていた小学生時代はなんて気楽だったんだろう……。
朝になってみると、昨夜の悩みは少し薄らいでいるような気がした。けれど本が目に入った途端、悲しい気分が静かに戻って来た。カーテンを開けると小雨が降っていて、薄暗い空と音のない雨がまるで俺の胸の中を映し出しているようだ。
小さいころから、俺は朝の日差しを浴びるのが好きだった。透明な光が世界も俺も新しくピカピカにしてくれるような気がするから。でも、今朝はピカピカにはなれない。
朝食を食べていると諒が起きてきて、「おはよう」と言いながら俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。俺も笑顔で「おはよう」と返す。
諒が俺を撫でるのは小さいころから続いている朝の儀式のようなもの。高校生になった今は少し照れくさいけれど、ないと淋しい。今みたいに複雑な気分になるとしても。
まだ眠そうな諒が電子レンジで牛乳を温めているあいだに俺は食べ終わり、支度をして家を出る。最寄り駅まで徒歩十分。傘をさして歩いているあいだも、胸の中に悲しさがひんやりと居座っている。
学校のある椿ケ丘駅はうちの駅から五つ目だ。上り方面の電車はそこそこ混んでいて、部名入りのエナメルバッグと濡れた傘に気を使う。場所を確保してつり革につかまると、ほっとしたと同時にポケットの重みが気になりだす。
――どうしようかな。
学生服のポケットに入っているのは『五輪書』。時間も限られていることだし、少しでも読み進めておいた方がいいと思って入れてきた。でも、道を見つけられない自分に駄目出しをされているような気がして、続きを読むのが気が重い。わざわざ大鷹に手伝ってもらったのに。……大鷹?
そうだ。手伝ってもらった。
自分の仕事じゃないのに、昼休みを使って一緒に考えてくれた。
それだけじゃない。委員会初日に、俺が彼女に言ったんだ。「できることならちゃんとやる」って。
あのとき彼女は少し驚いたような顔で俺を見た。それからにっこりして、自分も頑張るって言ったのだった。なのに、偉そうなことを言った俺が途中であきらめるなんてあり得ない。口ばっかりの意気地なしだ。そんな俺を見せるわけにはいかない。それに、そもそも時間がないのだ。
傘の柄を腕にかけ、ポケットから本を取り出す。周囲に気を使いながら、「水の巻」を開く。ここには実際の動き方や技術が書いてあるらしい。
――……え? あれ?
「序」の終わり部分から、心持ち、身なり……と続く具体的な教え。たどる文章がするすると体へと広がっていくような気がする。
――分かる。なんとなく分かる、これ。
教えをただなぞるだけじゃなく、自分のものにすること。心のありようと求めるべきもの。姿勢。周囲を見る方法。
書かれていることが分かるし、バレーにも通じる部分がある。すべてじゃないけれど納得できる。
驚いた。俺にも宮本武蔵の教えが分かるなんて。
そして、七沢先生が言っていた部分。それぞれの技の説明の最後に必ずある「よくよく鍛錬すべき」「よくよく稽古すべし」などという言葉。これらが予想外に効いてくる。
練習しなければ上手くならない、という当たり前のこと。なのに、ここで読むとお説教っぽさがないのが不思議だ。ほかのひとはどうか分からないけれど、「鍛錬」や「稽古」という言葉には、どこか自発的なイメージを感じる。本人がやるかやらないか。自分が「キミはやるのか?」と問われている気がする。
やるかやらないか。
そうだった。あの日、俺の言葉を大鷹が「やるかやらないか、だよね」と言い換えた。できるかできないかを考える前に、やるかやらないか。そこが肝心だと。
納得して思わずうなずいたら、前に座っているおじさんと目が合ってしまった。気まずい――と思いかけた瞬間、おじさんが俺に向かって力強くうなずいた。
――なんとなく、「頑張りなさい」って言われたような気がする……。
表紙がむき出しだから、『五輪書』を読んでいるなんて感心だって思われたのかも。しかもうなずきながら読んでいたわけだし。ちょっと恥ずかしい。でも。
嬉しいという気持ちもある。知らないおじさんに応援されたこと。昨日の晩にはあれほど俺を悩ませた宮本武蔵の言葉に、今度は励まされたこと。
悪くない。いや、読んでよかった。最初だけでやめないでよかった。
この感じなら、あのインタビュー原稿もどうにか書けそうだ。心配してくれた大鷹と礼央にも報告しておこう。大鷹には原稿チェックもしてもらわないと。
――それにしても、結構面白いな。
文章に慣れてきたせいか、読むだけなら、わりとすらすら読める。剣術のことはよく分からないけれど、親と一緒に見ていた大河ドラマの記憶が役に立っている。
こういう本を自分が楽しめるとは思わなかった。図書委員になって、ちょっと得した気分だ。
この発見を誰かに――大鷹に話したら、一緒に喜んでくれるような気がする。教室に着いたら話せるかな? ちゃんと説明できるように、もう少ししっかり読んでおこう。
電車の中では自分の発見を大鷹に話すのは当然のような気がしていたけれど、教室に着いてみたら、それはなんだか大袈裟な気がしてきた。彼女は女子同士で話しているし。
昼休みに手伝ってもらったことには、きのうのうちにちゃんとお礼を言ったし、『五輪書』もまだ途中だ。当然、原稿も着手前で、報告できることなど何もない。それに、気軽に話せるほど仲良くなったかという点で確信がない。俺が急に親し気に話しかけたら、戸惑いの表情を向けられるかも知れない。……要するに自信がないのだ。
まあ、今日は緊急の用事じゃないから、様子を見ながら機会を待とう。同じクラスなのだから、これから何度かはあるはずだ。
女子に話しかけるって、どうしてこう難しいのだろう。
やるかやらないか、ということなら、余程のことがない限り「やらない」を選ぶ。特に、女子がグループで話しているときには目も合わせないようにする。中学のときに睨まれたことがあるのだ。
もしも俺がもっとイケメンだとか話し上手だとか、何かいいところがあれば違うのだと思う。だって、礼央はよく女子グループから「礼央くーん」なんて呼ばれて手を振られたりしている。俺が一緒に歩いていても、声がかかるのは礼央だけだ。俺はまさに“お呼びじゃない”。
「景! おっはよぅっ」
「ぐぁっ」
後ろから締められた! 油断してた!
すぐに腕を解いた礼央を振り向いて「おはよう」と返す。にこにこしている礼央を思わずしみじみと見てしまう。こんな笑顔、俺には無理だ……。
「図書新聞の原稿はどう?」
そして、礼央は友だち思いだ。困っている気持ちに寄り添おうとしてくれる。きのうだって、すぐに大鷹を呼んできてくれた。
「まだ書き始めてないんだ。借りた本を先に読もうと思って」
「そうなんだ? どんな感じ?」
「うん、意外に読めるよ。思ってたより面白いし」
今朝の出来事を話そうと、ポケットから本を取り出す――と。
「あ、その本、読んでるんだ? どう?」
本を持った右手の横にひょっこりと現れた横顔。俺の手元からこちらへと視線が移り、大きな瞳が俺を見上げる。
「お、大鷹……」
「おはよう」
大鷹が俺と礼央に笑顔を向ける。予期していなかった登場にうろたえているうちに、その隣にいちごも現れて俺の本をのぞき込む。
「それがきのう紫蘭が話してた本? ええと誰だっけ? あ、そうそう宮本武蔵だ。景ちゃん、そんな昔の人の本なんて、ちゃんと読めるの?」
ガチャガチャと失礼な質問を投げかけてくるいちごに「読めてるよ」と返す。礼央と大鷹がそれを見て小さく笑った。
「じゃあ言ってみて。何が書いてあるの?」
偉そうな態度でいちごが尋ねる。これは受けて立たなきゃならない。
「そうだな、たとえば……ここ」
電車の中で読んだ「水の巻」の最初に出てくる「兵法の心持ちのこと」を開く。
「『兵法の道において、心のもちやうはつねの心に変ることなかれ。つねにも、兵法のときにも少しも変らずして、心を広く、直にして』……つまり、戦いのときにも普段も、同じ心持ちでいろってことだよ。不用意に慌てたり緊張したりしないで――」
「平常心ってやつだね。試合のときと同じだ」
続きを礼央が引き取ってうなずいてくれた。
「な? そうなんだよ。あとは「見」と「観」の違いとか。視界を広くして見ることが大事だって」
「ああ。言いたいことは分かるね」
「だろ? まあ、刀の持ち方は俺たちにはどうしようもないけど」
「あはは、そうだよね」
礼央と笑う俺を大鷹がにこにこして見ている。いちごだけが不満気な顔をして大鷹の方を向いた。
「ほんとだ、紫蘭。景ちゃん、結構真面目だわ」
「でしょう? だから言ったじゃない」
「うーん。小さいときから一緒に遊んでるのに、今初めて知ったよ」
ふたりの会話が聞こえてくる。どうやら大鷹が俺を真面目だと評価し、いちごはそれを不満に思っているらしい。まったく、いちごは腹が立つヤツだ。だとしても……。
「俺は知ってたよ、景が真面目だって」
「それ、褒めてる?」
胸を張る礼央に言葉を返す。
「めんどくさいヤツ、とか、融通利かないとかの意味じゃなくて?」
「やだなあ、褒め言葉だよ」
「景ちゃん、ひねくれてるよ! 紫蘭は簡単に悪口なんか言わないよ」
いちごの指摘で、自分が大鷹に失礼なことを言ってしまったと気付いた。謝る俺に、彼女は「気にしてないよ」と微笑んだ。
「鵜之崎くんがきのう、その本を借りたでしょう? それ、実はびっくりしてね、偉いねっていちごに話したの」
大鷹が説明してくれた。見上げる表情は優しげで、俺を馬鹿にする気配は微塵もない。
「きのうの七沢先生のインタビューね、あれだけで記事をどうにか書くこともできたと思うんだ。だけど、鵜之崎くんは迷わずに本を借りに行ったでしょう? ちょっと感動しちゃったの」
「だって、間違ったことを書いたら困るし……」
実のところ、書く自信がなかったからだ。でも、感動したなんて言われると……。
「うん、そういうところね、すごいなって思ったの」
こんな笑顔で言われると、もしかしたら俺はすごいのかも知れないと思ってしまいそうだ。
「去年の先輩には、図書委員の仕事をわりとやっつけ仕事でやってる感じのひともいたの。楽だと思って図書委員になった先輩は特にね」
楽だと思って……というところに少しばかりドキッとする。
「本の紹介の原稿に文庫本の裏表紙の紹介文をそのまま書いてきた先輩もいたんだよ。雪見さんにバレて、『他人の文章を自分が書いたように発表したらだめ』って注意されてね」
それはさすがにやらないな。最初からルール違反だって感じるし、バレたときのことを想像してしまうから、小心者の俺には無理だ。
「紫蘭ってば、図書館から戻ってから景ちゃんのことやたらと褒めるんだもん。『そんなにすごいヤツじゃないよ』って言ったの」
「ふっ」
隣で礼央が思わずといった様子で笑った。俺が渋い顔をしているのを見て、「ごめんごめん」と言いながらまた笑う。
「なんだか家族を褒められて謙遜してるみたいだなあ、と思って。景といちごちゃんはきょうだいみたいなんだね」
「まあ……それはそうかもな」
礼央がさらっと「いちごちゃん」と言ったのに気付いたけれど、誰も気にしていないようだ。礼央のキャラクターのなせる業か。だとすると、大鷹のことは何て呼ぶのだろう。
それも気になるけれど、それよりも。
大鷹が俺を褒めてくれた――。
去年のやる気のない先輩との比較で、ということではあるけれど、彼女が俺を認めてくれたというのが嬉しい。さらに嬉しいのは、そのことを彼女がストーレートに口に出してくれること。
この調子で原稿も頑張ろう! ……まあ、張り切ったからと言って、文章作りが突然上達するわけないか。
「鵜之崎くん、今日のお昼休みのお当番、よろしくね?」
「えっ、今日だっけ!?」
「まさか、忘れてた?」
そういえば、当番スケジュールを携帯に入れようと思ったまま忘れていた。
ああ、大鷹ががっかりしている。せっかく褒めてくれたのに!
「行く。ちゃんと行くから大丈夫」
これ以上減点されないようにしなくちゃ。当番の仕事も早く覚えて、大鷹の負担が軽くなるようにしっかりやろう。
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参考図書
『五輪書』宮本武蔵/著 佐藤正英/校注・訳 2009年 筑摩書房(ちくま学芸文庫)
昼休みに図書委員の仕事をするために、弁当を大急ぎで食べた。そんな俺の姿を、礼央は自分の席から見て笑っていた。
弁当箱を片付けて立ち上がると、まだ5分しか経っていない。椅子を後ろに向けていちごと向かい合って食べていた大鷹が、立ち上がった俺を見て目を丸くした。
「図書館開いてるかな?」
大鷹に尋ねると、彼女は食べているものを急いで飲み込もうと慌てた。いちごはわざとらしく大きなため息をついている。
「雪見さんがいるから開いてるけど、開館まであと10分くらいあるよ? あたし、もう少し――」
「あ、急がなくていいよ。俺、開館前に中を少し見ておこうと思って」
「そうなの……?」
朝、大鷹に当番のことを言われてしばらくしてから気付いた。俺はこの学校の図書館のことをほとんど知らないって。
授業や課題で図書館は利用している。でも、いつも必要最低限で、目的のもの以外はまったく見てこなかった。どの場所にどんな本があるのかくらいは知っておかないと図書委員として恥ずかしい気がするし、大鷹に申し訳ない。
「じゃあ、とりあえず、分からないことは雪見さんに訊いてみて。あたしも急ぐから」
「いいよ、いつもどおりで。じゃ、あとで」
廊下はまだひと気が無い。階段を下りながら、雪見さんと話ができるのは楽しみだ、と思った。
きのうは俺が困っていることを分かってくれて、それだけでもすごくほっとした。あんなふうに相談に乗ってもらえるのだから、図書委員が頼りにしているというのもうなずける。
図書館に着くと、雪見さんが「早いね」と少し驚きながら迎えてくれた。黒いエプロンをかけた雪見さんは、今日も穏やかな微笑みを浮かべている。
この学校の図書館は中学に比べてだいぶ広い。南北に長い部屋の北側三分の一くらいが机の並んだ学習・閲覧スペースで、南側が書架スペースとなっている。カウンターはその境目あたりの廊下側にあり、館内を一望できる。カウンターのちょうど向かいの窓際が雑誌コーナーになっていて、そばに配置されたカラフルなスツールが明るい雰囲気を醸しだしている。
図書委員を初めて務める俺に、雪見さんは図書館システムの操作方法や館内の案内図など、基本的な仕事を簡単に説明してくれた。
「昼休みは80人くらい来るかな。まだこの時期はどの教科もレポート課題が出ていないから、それほど混まないと思うよ」
「80人?! めっちゃ忙しくないですか?」
昼休みは20分ほどだ。80人をさばくとなると……。
「ああ、全員がカウンターに用事があるわけじゃないから大丈夫」
思わず固まった俺に雪見さんが笑って言った。
「返却本は箱に入れてもらうし、勉強とか閲覧だけとか単なる時間つぶしとか、カウンターに寄らないひともいるからね」
「そうなんですか」
「もしも並んじゃっても、落ち着いてやってくれればいいよ。早くやることよりも、正しく処理することが大事なんだ」
確かにそのとおりだ。返したのに処理漏れだったり、別人に貸し出し登録してしまったら大変だ。
混雑の不安と「正しく」のプレッシャーを感じているところに大鷹が到着した。雪見さんは大鷹に「やる気のある相棒でよかったね」と言い、大鷹は「はい」と微笑んだ。雪見さんの目には俺がやる気がある図書委員として映ったらしい。
「鵜之崎くんは貸し出しと返却をお願いね。バーコードリーダーは使ったことあるんでしょう?」
大鷹が茶目っ気のある視線を俺に向ける。俺の小学校時代の話を覚えていてくれたのだ。それに無言でうなずいて、バーコードリーダーを手に取った。俺の緊張を感じ取ったらしい彼女はくすっと笑った。
それからすぐ、来館者が次々とやってきた。
返却箱には俺がバーコードを読み込むよりも早いペースで本が積み重ねられた。焦る俺に大鷹は「急がなくて平気」と言い、読み取りやすいように本を並べたり、一緒にパソコン画面を確認してくれたりした。貸し出しも何件かやり、俺が少し慣れたころを見計らって、彼女は返却本を棚に戻しに行った。
並んでしまった貸し出し希望者をどうにかさばいている途中で、さっきは館内を見回っていた雪見さんがカウンターのそばにいることに気付いた。やってくる生徒ににこやかに「こんにちは」と声をかけている。
――そうか。
雪見さんも俺のフォローをするために控えてくれているんだ。
そう気付いたら、すうっと肩の力が抜けた。視線が上滑りしがちだったパソコン画面もしっかり見られるようになった。
返却箱の本のバーコードを読み取って後ろの箱へ。借りたい人の名前を確認し、本のバーコードを読み取り、返却期限を書いたしおりを渡す。まだスムーズとは言えないけれど、一つの仕事をこなすたび、気持ちがどんどん落ち着いてくる。
「雪見さーん。新しいアニメワールドは入ったー?」
女子生徒の元気な声。雪見さんと言葉を交わし、友だちといそいそと雑誌コーナーへ進んで行く。作業の合間に顔を上げると、雑誌コーナーの前の椅子は運動部系からお洒落系まで、さまざまなタイプの生徒がのんびりと本を開いている。学習・閲覧席は半分くらい埋まっていた。雪見さんの話のとおり、カウンターに用のない利用者もかなりいるようだ。
「大丈夫みたいだね」
戻って来た大鷹が一声かけて、また新たな返却本をカゴに入れて戻しに行く。雪見さんが一人の生徒を連れてきて「検索お願いします」と言った。
「はい」
さっき教わった検索画面への移行、検索ワードの入力。目的の本を見つけ、ラベル番号と書架の位置を伝える。ほっとして生徒を見送る俺に、雪見さんが笑顔でうなずいてくれた。
「終了5分前でーす。本を借りたいひとは貸し出しの手続きをお願いしまーす」
大鷹の声がした。それを合図に座っていた生徒たちが動き出す。本を手に小走りにやってくる生徒が数人いるけれど、もう焦らずにいられる。
最後の貸し出しをしているあいだに大鷹が日誌をつける。入り口のあたりを確認していた雪見さんが来館者数は85人だと言った。人数をカウントする装置があるのだ。
「お疲れさま」
笑顔の雪見さんに見送られ、今日の仕事は終了。大鷹もにっこり笑いかけてくれて、充実感がこみあげてきた。
「やる気のある相棒って言ってたね」
階段を上りながら彼女が言った。
「まだ一件ずつは時間がかかっちゃうけどね」
認めてもらえたのは嬉しいけれど、まだ一人前とは言えない。
「それでも一人でカウンターできたじゃない? 行列もそこそこさばけてたし。お陰で返却本の棚戻しができたから、終了後もこうやって早く帰れたもんね。鵜之崎くんは優秀だよ」
「はは、そんなに複雑な仕事じゃないから」
たぶん、分からなかったり来館者が多かったりすれば、雪見さんが手伝ってくれるのだろう。でも、とりあえず今日は何事もなく終わってほっとした。
「真面目な鵜之崎くんが相棒でよかったな」
隣から満足げな表情が俺を見上げる。
「……そう? じゃあ、これからも失望させないように頑張らないと」
ふざけ気味に返してみたけれど、胸の中がくすぐったい。
「そう言えば、あたし、ちょっと考えたんだけど」
「なに?」
「先生のおすすめ本の記事なんだけどね」
彼女の瞳がきらめく。
「『先生のおすすめ本を読んでみた』っていうコーナーにしたらどうかな? 鵜之崎くん、せっかく読んでるんだから、自分の感想を書いてみたら?」
「だめ。それはやだ」
反射的に答えた。いくら頑張ると言っても、俺の感想文を公開するなんて絶対嫌だ! 短くても、だ。
大鷹が「即答だね!」と言って笑った。提案を拒否したことに気を悪くした様子がなくて良かった。俺があまりにもきっぱり断ったことがずいぶん面白かったらしい。そういうところは一緒にいて気が楽だ。
でも、どんなに頼まれても、自分の気持ちを文章にするなんてほんとうに無理だから!
* * *
ドン――と、体育館にレシーブの音が反響した。白いボールがネットの向こうでセッターの手に吸い込まれ、シュッと放たれる。大きな孤を描くボールに向かって走り込むアタッカー。レフトから狙うコースは――ストレート!
ジャンプして伸ばした両腕を右に振ったと同時にバン! という音と衝撃。跳ね返ったボールは勢いをそのままに、相手コートのラインを叩いた。
「ナイスブロック!」
「景! やったな!」
後ろからチームメイトの声がする。並んで跳んでいた先輩が俺の腰をぽん、と叩いた。
部活の後半、試合形式の練習。俺が止めたのはうちの学校の2番手のアタッカーだ。
サーブのために後ろに下がり、ボールを左手に乗せる。相手チームのポジションを確認し、狙いを定める。今日は調子がいい。体が思いどおりに動く。この調子なら、5月の大会でベンチ入りできるかも……。
「景、今日はずいぶん動けてたな」
帰り道で高砂が言った。朝の雨は止んでいるけれど、空気がまだ重苦しい。
「宮本武蔵効果かもねー」
礼央がからかい気味に言うと、高砂が「なにそれ?」と眉をひそめた。女子がいない今は、高砂はただの不愛想な男だ。ここぞというときのために笑顔を溜めているに違いない。
「景が今、読んでるんだよ。宮本武蔵の『五輪書』」
「武蔵って剣豪の? なんで急に?」
「図書委員の仕事なんだ」
かなり端折った説明に、高砂は「へえ」と真剣な顔を俺に向けた。
「それがバレーとつながってるのか?」
「そんな部分もあるかなって感じ。人それぞれじゃないかな。まだ半分も読んでないんだ」
「バレーが上達するなら俺も読むぞ。あ、委員会と言えばさあ」
去年の委員会の話に移ったので、相槌を打ちながら、今日の部活のことを思い返してみる。
練習の途中で『五輪書』のことを思い出したというのは当たっている。ただ、すぐに使えそうだったのは「観」の目で全体を広く見るようにすることくらいで、それは多少は効果があったように思う。あとは、「よくよく稽古」のお陰で一つひとつの練習を丁寧に、心を配ってやってみたというところか。
でも、それよりも頻繁に頭に浮かんできたのは大鷹の言葉だった。
あの本を借りたことに「感動しちゃった」と言ってくれたこと。昼の当番のあとに「鵜之崎くんが相棒で良かった」と言ってくれたこと。そして、そう言ったときの笑顔も。
今まで、同年代の女子からあんなふうに言ってもらった記憶はない。
もしかしたら過大に評価されているのかも知れない。何か勘違いされているのかも知れない。そんな可能性が浮かぶけれど、それなら努力してそのギャップを埋めればいいじゃないか、なんていう気持ちがわいてくる。そんな前向きな思考がすぐに出てくることが自分でも不思議だ。
――“相棒”って、ちょうどいい言葉だな。
“仲間”よりも事務的な感じというか……。
感情面の結びつきはほど強くなくて。でも、“いい相棒”っていうのは、お互いへの信頼で結びついている気がする。同じ目標に向かって一緒に、任せられるところは任せて、それぞれの足りないところは協力して埋めながら進んで行く。
今のところは俺が助けられているだけだけど、いつか俺が手助けできることもあるんじゃないかな。図書委員の仕事以外でも、助け合うことができるような関係になれたらいいな。
いちごが、大鷹はいい子だって言っていたし。
そのとおり、彼女は困っている俺に手を貸してくれたし、頑張りを認めてくれて、それを言葉で伝えてくれた。たぶん、親切で素直な性格なのだ。口に出さないときでも、けっこう気持ちが表情に表れていたりもする。しっかり者だけど、そういうところはちょっとかわいい。
――い、いや、かわいいって。
べつに特別な意味じゃない。俺の気持ちというのじゃなく、もっと客観的に、だ。子どもっぽいと言うか……。
たしかに大鷹と話していると、胸の中がざわざわすることはある。でも、それは単に大鷹が女子だからかも知れない。彼女になってほしいくらい特別なのか……特別になるのかは、まだ分からない。ただ、相棒から、礼央みたいに“友だちとして気が合う”というところまでは行けるような予感はあるのだけれど。
――俺だけの問題じゃないからなあ。
彼氏と彼女となるには、お互いに好きじゃないとダメだ。大鷹は俺を恋愛対象として好きになってくれるだろうか。顔も性格も凡庸で得意なこともない、ただ背が高いだけの俺を……いや、待て。
たった今、俺が彼女を好きになるかどうか分からないと考えていたばっかりじゃないか。自分の条件を気にしてどうする?
でも……。
大鷹は性格はいいぞ。いちごの保証付きだ。で、見た目だって悪くない。背は小さいけれど、なによりあの姿勢がいい。笑顔も感じがいいし。成績……も良さそうだよな。まあ、学校の成績だけでは測れない部分だってあるけど、そもそもこの学校に入ったということは、基本的には勉強はできるのだ。
大鷹は高値の花かも知れないな……。
「あ、町田先輩だ」
高砂の視線を追うと、駅前のコンビニからバレー部の先輩が出てきたところ。隣には俺たちと同学年の女子がいる。半年ほど前に町田先輩から申し込んだというウワサだった。
「仲良さそうだな」
「うん。いい感じだよな」
笑いながら駅の階段を上っていくふたりは、ほんとうに楽しそうだ。部活終わりの時間でうちの生徒も多く、知り合いに声をかけられたり、手を振ったりしている。自分たちだけの世界に入り込まず、それでも当たり前のように一緒にいる様子はさわやかで、まるで青春映画の主人公みたいだ。
「なんで俺には彼女がいないんだ?」
高砂は本気で不思議に思っているらしい。
「不思議な人気があるのにね」
礼央がくすくす笑いながら言った。高砂は「不思議は余計だ」と抗議する。
「高砂は二重人格だからダメなんじゃないのか?」
「二重人格とは違う。サービス精神が旺盛だと言ってくれ」
俺の指摘を高砂が否定する。でも、そのサービスが極端すぎるのではないかと俺は思う。女子が恋の相手として求めていることとずれているのではないか、と。
とは言っても。
俺だって、女子が何を求めているのかはっきりとは分からない。それに、もしも分かったとしても、自分がそれに近付けるのかどうかは別な話だ。
で、結局、考えても仕方がないから、今の俺そのままを好きになってくれる誰かが現れるといいな、と思うだけ。町田先輩たちみたいに自然な雰囲気のカップルになりたい。
――と。
町田先輩たちの後ろ姿に自分が被る。俺の隣にいるのはしなやかなポニーテール。けっこうお似合いなんじゃないかな?
――いや、待て!
何を考えているんだ。まだ好きになるかどうか分からないって、さっきから何度も思っているのに。
ちょっと仲良くなっただけでこんなに大鷹とのことを考えてしまうなんて、今まで女子との接点がなかったせいかも知れないな。
あんまり考え過ぎると、身構えてうまく話せなくなりそうだ。せっかくいい相棒って認められているのだから、今の状態が維持できるように気を付けなくちゃ。
「で、『あ な た の 心 の 支 え に な る と 思 い ま す まる』と……。できた」
息をついてシャーペンを置き、やっとのことでマス目を埋めた紙を手に取る。図書新聞4月号の「先生のおすすめ本」の原稿だ。机の上にはインタビュー直後に書いたメモと『五輪書』。一緒に来た礼央は館内のどこかにいるはずだ。
原稿の締め切りが明日に迫り、2年2組のふたり組から今朝、気合の入った原稿を受け取った。俺も本を読み終わっていたので、昼休みを使って書こうと図書館に来たのだ。
閲覧・学習コーナーの机はほどよく埋まっていて、ほどよく静か。雑誌コーナーやカウンターのあたりから聞こえる和やかな声が、リラックスしながら集中するのにちょうどいい。とは言っても、それで文章が上手くなるわけではない。
「うーん……」
書いてみて分かったのは、他人が言ったことを文章にするのも、やっぱり文才が必要だということ。俺の文章はどうにも味気なく、これで七沢先生の伝えたいことが伝わるのかどうか、はなはだ疑問だ。
そして、インタビューのあとに作ったメモを使えば本を読まなくても原稿が書けただろう、ということも分かった。大鷹が言ったとおりだった。俺はずいぶん遠回りをしてしまった。
「景、できた?」
戻って来た礼央が声を落として尋ねた。
「うん、とりあえずね」
下手だと分かっていても、自分ではこれ以上どうしようもない。ただ、これが印刷されて全生徒に配られると思うと、図書委員のみんなに申し訳ない気持ちになる。努力はしたのだけれど。
「これでいいことにする。本を返してくるよ」
立ち上がって振り向くと、カウンター前に大鷹がいた。向こうも俺たちに気付いて笑顔を見せた。
「あ」
俺も微笑み返そうとして……迷う。
彼女と俺はどのくらいの関係なんだろう? この前は相棒だと言ってくれたけど、あれ以来、挨拶しかしていない。もしかしたら、あの笑顔だって礼央に向けたものかも知れないし……。
足は前に進むけれど、心は足踏み状態だ。
「ここで原稿書いてたの? もう完成?」
近付く俺の手元に目をやってから、大鷹が俺を見上げた。いつものようにまっすぐ見上げる瞳と明るい表情がそよ風のように俺の迷いを吹き散らす。
――いいんだ、笑顔を返しても。
大鷹は俺を友だちだと考えている。でなきゃ、こんなふうに俺を見たりするものか。こんなふうに素直に、楽しそうに。
「一応書き終わった。でも俺、文章が苦手で全然ダメだ」
言いながら、思わずため息が出た。すると彼女は「そうなの?」と小さく首を傾げた。ちょっと小鳥みたいだ。
「……見てもいい?」
「うん。どこが悪いか言ってくれると助かる」
大鷹に原稿を渡し、自分は『五輪書』を返しにカウンターへ――行こうとすると、「あ、待って」と彼女の声。
「その本、返すの? それならあたしが借りたい」
「え? これ?」
「うん」
彼女がうなずいた。
「鵜之崎くん、それ、最後まで読んだんでしょ?」
「うん、読んだ」
「だったらあたしも読む」
どこか決然とした表情で見上げる彼女。なぜそんなに真剣な顔をしているんだろうと考えていたら、隣で礼央が小さく笑った。
「なんだか景と張り合ってるみたい」
たしかにそうだ。彼女の目付きはまるで俺に挑むようで。
礼央の指摘に、大鷹は少し恥ずかしそうにうつむいた。
「だって、ちょっと悔しいんだもん」
「悔しい?」
「うん」
そしてまた挑むような目を俺に向ける。
「鵜之崎くん、本はあんまり読まないって言ったでしょ? それなのに、名著って言われてる作品を読み切った」
「まあ、仕事だから……」
「あたしはもともと本を読むのが好きで、結構いろんな本を読んでいるのに、その本はまだ読んでない。それが悔しい」
「悔しいって……、悔しい?」
きっぱりと言い切られて戸惑いを感じている俺の隣で礼央がまたくすくす笑う。それを見て彼女も肩の力を抜いた。
「その本、あたしが返却手続きして、自分で借りる。いい?」
「うん。……ありがとう」
差し出された手に『五輪書』を乗せると、彼女はにっこりして受け取った。「ちょっと待っててね」とカウンターに向かう後ろ姿がいそいそと嬉しそうだ。一冊の本を読んだか読まないかが、彼女にとってはそれほど重要らしい。
「意外と負けず嫌いなんだね」
礼央がつぶやいた。もしかしたら、あれが本好きのプライドというやつか。だとしても。
「『悔しい』って、本人に言っちゃうんだなあ」
心の中で闘志を燃やすのではなく、ダイレクトに言うなんて。挑むような表情を向けてくるところも、しっかり者でおとなしそうな見た目とはちょっと違う。そう言えば。
図書委員会の初会合の日、彼女は俺がいちごの彼氏なのかどうか悩んだ末に、直接俺に尋ねたのだった。あれこれ悩むよりも、訊いてはっきりさせてしまおうと思ったと言っていた。あのときも、驚いたけれど勝手に気を使われるよりはずっといいと思ったのだった。
でも、それはそれとして。
気付いてしまった。大鷹にはちゃんとあるのだということが。自分の道が。
本が好きでたくさん読む、という道。ほかの誰かよりもたくさん読んでいるという自負。これからも読んでいくという意志。
俺は何も見付けられないでいるのに……。
貸し出し手続きを終えた彼女が俺の原稿を読みながら戻って来る。
「ねえ、この原稿だけど……」
「うん」
彼女が原稿を差し出して俺を見上げた。
「これ、全然悪くないよ? このままで大丈夫だと思うけど」
「え? そう?」
思いがけない言葉。気を使っているのだろうか。
半ば疑いながら原稿を受け取った俺に彼女が続ける。
「七沢先生が言ったことはちゃんと書いてあるし、文章もすっきりしてる。どこか気になるところがあるの?」
「どこかって……、なんて言うか、事務的な感じ?」
「んー、そうかな?」
自分でもう一度確かめようと、視線を手元に向ける。すると、礼央と大鷹が両側から一緒に原稿をのぞき込んできた。
不意に近付いた大鷹との距離。滑らかな髪をかけた耳が間近に見えて、照れくささと気まずさが湧き上がる。でも、故意に距離をとるのは失礼だし、そもそも反対側には礼央がいる。ここはこのままでいるしかない。ただ、原稿を持つ手が緊張してきたのがバレないといいけれど……。
「前から思ってたけど、景って字が上手いよね」
「うん。読みやすくてきれいな字だね」
礼央と大鷹が俺をはさんでしゃべり始めた。自分が話題に上っていると口をはさみにくい。
「景は何かのたびに、文章が苦手だって言うんだよ」
「そうなんだ? 本人の思い込み? 染井くんはこれ、どう思う?」
「ん、ああ、俺のことは『礼央』でいいよ。みんなそうだから」
――ん?
会話に混じった気になるフレーズ。礼央の笑顔はいつもと変わりない。大鷹は?
「あ、そう……? うん、分かった」
ちょっと恥ずかしそう? 嬉しそう? そうするってこと? じゃあ、俺は? 俺のことは?
「ねえ、鵜之崎くん?」
――……だよな。
俺が自分から言わなきゃ、苗字で呼ぶに決まってる。今までどおりってことだ。
「これね、文法的に間違ってるところはないし、先生のお薦め本だから、このくらいのテンションでいいと思うよ?」
「……そう?」
「うん。最初の内容紹介のところも、読んだだけあって分かりやすく書けてるし」
「え、そうかな?」
読んだ甲斐があった? ほんとに?
「うん。あのメモだけだったらこうは書けなかったと思う。読んだ成果が出てると思うよ」
しっかりと俺を見上げ、真面目な顔でうなずく。これを信じない理由などあるだろうか。
「それにね」
そこで彼女がにっこりした。
「あんまり名文を書かれたら、あたしが困っちゃう。だからこのくらいにしておいて?」
「え……」
こんな言い方ってあるだろうか。こんなふうに、お願いするみたいに可愛らしく……。
「ん……、じゃあいいや。これで完成」
彼女が悪くない文章だって言うなら、ほんとうにそうなのかも知れない。得意とは言わないまでも、苦手からは脱出できていたのかも。それなら図書新聞に載るのも、さっきほど気が重くない。
もしかしたら、彼女はものすごい褒め上手なのではないだろうか。
だとしても。
ここで大鷹に会えて良かった。彼女の笑顔はかなり大きな効果がある。
翌日の昼休みから、図書館で図書新聞の入力作業を始めることにした。
雪見さんに図書委員会用のノートパソコンとUSBメモリーを出してもらい、カウンターに近い机で開いてみる。一緒に来た大鷹の指示にしたがって入力用のファイルを開き、以前のデータを参考にしながら、まずは自分の担当コーナーから打ち込んでいく。
「鵜之崎くん、ブラインドタッチ? パソコン得意なのね」
キーボードを打つ俺の手を見て、大鷹が少し驚いた様子で言った。感心してくれたらしいことに気分が上がる。
「中学生のころに兄貴と勝負するために練習したんだ。何度やっても勝てなかったけど」
「そうなんだ? お兄さんとはいくつ離れてるの?」
「4つ」
「じゃあ、勝てなくても仕方ないね」
思わず手が止まった。上がりかけていた気分がゆっくりと下降していく。
「うちの場合はちょっと違うんだ」
言いながら苦い笑いが浮かんできた。
「俺がそのときの兄貴の年齢になっても追いつけない。全然」
「そんなことないよ、きっと」
彼女の軽く励ます口調が胸の中を微かにひっかいた。
このままスルーすることもできるし、普段はそうしている。諒のことを説明するときに自分の中に生じる苦味を味わわないために。
けれど今は話したい気がする。彼女なら分かってくれるかも知れないから。似た境遇にある彼女なら。
だから手を膝におろし、そっと息を吐いて椅子の背に寄りかかった。
「うちの兄貴は特別なんだ。ものすごく優秀で」
大鷹ははっと目を見開いた。
「小さいころからずっとそう。大学でも。勉強ができて、みんなから頼りにされて。この学校に通ってたから、今でも兄貴のこと覚えてる先生もいる。当時の全国規模のコンクールの賞状も飾ってあるし、生徒会長も務めてたんだ」
「そのひと、いちごの……だよね?」
「そう。だからいちごも諒――兄貴のことはあんまり話さなくて済むようにしてるって言ってた。自慢してると思われると困るからって。俺たちにとってはただの兄貴なんだけど、周りにとっては “すごいひと” だから」
「そうなんだ……」
彼女は静かに視線を落とした。深刻になるつもりはなかったから、急いで笑顔をつくってフォローする。
「でも俺、兄貴のことは好きなんだ。仲もいいよ。ただ、自分が情けないっていうか、どうして俺には何もないんだろうって、ときどき勝手に落ち込んじゃうだけで」
「あ! あたしも同じ!」
勢いよく彼女が顔を上げた。すぐにバツが悪そうに周囲を見回し、微笑んで肩をすくめると静かに話し出した。
「鵜之崎くんも聞いてるかも知れないけど、あたし双子で――似てないんだけどね、片割れはモデルやってるの。中学のときからで、結構人気あるんだ」
「聞いたことあるよ。クラスでもときどき名前出てるよね?」
「そうなの。この学校に入ってすぐに知れ渡っちゃって……、雑誌で見たよって言ってくれるひともいるし、知らないひとから声をかけられることもあるの。そういうとき、みんな、あたしのことは “モデルのKuranの片割れ”って思ってるんだなって思うんだ」
「それ! 俺もあるよ」
思わず人差し指を向けてしまった。けれど、彼女が言ったことはまさに俺が感じていたことで。
「みんなきっと、すごいのは俺の兄貴で、俺は影みたいな、おまけみたいな……どうでもいい存在って思われてるんだなって」
「うん。Kuranがいなければ、あたしは普通の生徒にもなれないのかなって思ったりね」
まさにそのとおり。
深くうなずく俺を見て彼女が微笑む。分かり合えた仲間の微笑みだ。
「でもね、今はちょっと変えていこうと思ってるの」
彼女が明るい瞳を向ける。
「きのう借りた『五輪書』ね、あれの最初のところ。鵜之崎くんも読んだはずだよ」
「最初のところ? 十代から剣の勝負で負けたことがないって……」
「そうそう! そのあとに、自分が本当に強いから勝ったのか、相手が練習不足とか問題があったから自分が勝てたのか分からないって書いてあった」
「ああ」
そうだ。だから、もう剣の試合をするのはやめたと。
「あれって他人と自分を比べても、ほんとうの自分の強さは分からないってことだよね? だからもう比べるのはやめて、自分で精進しようって考えたわけでしょう? そこのところではっとしたの。あたしも比べてるんだって」
「比べてる……」
大鷹の言いたいことがおぼろげに見えてきた。
「自分がダメだと思うときって、たいてい誰かと比べてる。で、落ち込んだり、諦めたり。でも、思ったの。比べることから自分を解放してみようかなって」
「解放」
「そう。まあ、勝ち続けても自分の強さに確信が持てなかった宮本武蔵とは大違いだけどね」
にっこりして彼女は続ける。
「『解放』って、いい響きじゃない? 一気に自由になったような気がする」
「そうだね」
晴ればれとした笑顔を浮かべる大鷹。なんだかまぶしくて、思わずまばたきをした。
「他人が勝手に比べるのは仕方ない。止められない。でも、自分で比べるのは決心次第でやめられるでしょう? で、レベルが低い自分に落ち込む代わりに、何を頑張るか考えるの」
「何を頑張るか? 落ち込む原因をなくすように頑張るんじゃなくて?」
「ふふふ、そうなの。だって、背が低いとか運動音痴だとか、努力してもどうにもならないことはあるよ」
たしかにそうだ。俺がイケメンになりたいと思っても……金をかければできるのか?
「だからその分、ほかのことで自信を持てるように努力するの」
「なるほど。平均点で勝負するわけだな」
「あ、たしかにそういうことかも!」
一緒に笑ってから思い出した。
「まあ、大鷹には本を読むことがあるからな」
ため息をつく俺を見て、彼女が不思議そうな顔をした。
「ちゃんと頑張りたいことがあるじゃん? でも、俺は何も見つからないんだ」
彼女は小さく首を傾げた……と思ったらニヤリと笑った。
「鵜之崎くん、もう比べてる」
「え?」
「頑張りたいことがあるかどうかであたしと比べて落ち込んでる」
「あ」
たしかに比較してる!
「そんなことを比べる必要なんてないよ、人それぞれだし。それにね、あたしの読書は頑張りたいこととは違うから」
「違うって?」
「本を読むことはね、なんて言うか……」
言葉を探して視線をさまよわせる。それからにっこりした。
「息をするのと同じ。生きることに付随するもの。頑張るものではないんだよね」
「ふうん」
「ってことで」
俺にひたと視線を合わせ。
「一緒に頑張ろう」
「え?」
「比べるのをやめる同盟。お互いに注意し合えば上手くいきそうじゃない?」
「あ、なるほど」
一緒になんて……俺でいいのか? そんなに簡単に俺と一緒にやるって決めていいのか、大鷹?
「あのう……」
後ろから控えめな声が。振り向くと1年生がふたり立っている。図書新聞担当の1年生だ。
「1年生の分の原稿を持って来たんですけど……」
おずおずと差し出された原稿を確認してみる。予定より紙が大きいと思ったら、館内の見取り図入りで利用案内が出来上がっていた。これならもう入力せずに貼り付ければよさそうだ。
「ありがとう。この見取り図、よくできてるね」
「あ、それは雪見さんにもらったんです」
「それに必要なことを書きこんで」
ほっとした様子でふたりが顔を見合わせる。
「それじゃ、失礼しました」
「お邪魔しました」
妙に丁寧にあいさつをしてふたりが去っていく。直後に「閉館5分前でーす」と声がかかった。今日はこれまでだ。
「あんまり進まなかったね。おしゃべりしちゃってごめんね」
大鷹が申し訳なさそうな顔をした。
「全然。しゃべってたのは同じだから。それに、1年生の分は入力しなくて良さそうだし」
「そっか」
雪見さんに一式を返し、一緒に図書館を出た。階段を上りながらの会話が今までよりも滑らかになって、自分の笑い声が大きくなっているのを感じた。
――同盟、か。
午後の授業の準備をしながら彼女の後ろ姿をそっと窺う。
比べることから自分を解放するという彼女の考え方にとても励まされた。彼女と話したあとはいつも明るい気分になる。だから……。
もっと話したいと思うのは当然のことだよな?
夜、机に向かっているときに、昼休みのことを思い出した。
諒の弟であることについての俺の微妙な感情を、大鷹はちゃんと理解してくれた。理解したというよりも、共通した思いだったというべきか。
同い年か兄と弟かという違いはあるけれど、どちらも相手と良好な関係であることとか、他人から言われることに怒りや反発を感じているわけじゃないとか……、考え方も似ている気がする。
話せてよかった。分かり合える相手がいるとこんなにほっとする。
いちごも立場は似ているけれど、諒とは血がつながっていないという点で、大鷹や俺とは大きく違う。まあ、恋人として他人から期待される姿というプレッシャーはあるのかも知れないけれど。
そう言えば、大鷹とはお互いに慰めの言葉が出なかった。
今までの経験では、友人たちに諒の話をするとたいてい「景だって十分○○だよ!」などとフォローの言葉をもらった。そういう相手の気持ちは有り難いから、その場では気を取り直したふりをする。でも、根本的にコンプレックスが消えるわけじゃない。たぶん彼女も同じような経験をしていて、慰めの言葉が役に立たないことを知っているのだろう。
それにしても「比べることをやめる」という思い付きはさすがだ。俺は「比べても仕方ない」と思ったことはあるけれど、やめられないとあきらめていた。「やめる」と言い切るところは潔くて、いかにも彼女らしい感じがする。しかも、比べるのをやめるだけじゃなくて、伸ばせる部分は伸ばしていこうという前向きな中止なのだ。なんてポジティブなんだろう!
俺も同じ本を読んだのに、あの最初の章で落ち込んで……って、これは大鷹と比べてるんだな。ストップストップ。
でも……そうか。
比べないっていうよりも、たとえ比べても、自分を卑下するのをやめるってことかも知れない。
落ち込まない。そこで立ち止まらない。あきらめない。自分にできることを探す。自分を信じる。そういうことじゃないだろうか。
明日、彼女と話してみよう。昼休みにまた一緒に仕事をするのだから。
それにしても……。
大鷹って、いい子だよなぁ。こんなことを誰かに言ったらからかわれそうだけど。
ポジティブだし、親切だし、意外な思い切りの良さもあって。
姿勢がいいのは見ていて気持ちがいいし、小鳥みたいな首の傾げかたとか、何かを言う前にたまに見せる意味ありげな目つきとか。ときどき驚かされることもあるけれど、一緒にいると楽しい。
女子と一緒にいて純粋に楽しいという経験は初めてかも知れない。小学校高学年のころから女子といると――いちご以外は――気疲れしてしまって、その場では盛り上がったと思っていても、後でひとりになってからほっとするという状態だった。大鷹に対してはそれがない。また話せることを楽しみに思うだけ。
“相棒”で“同志”だからかな。
同じ図書委員で、比べるのをやめる同盟。「一緒に頑張ろう」と言った彼女の声と瞳は今でもはっきりと浮かんでくる。
あれはほんとうに驚いた。彼女が俺に対して感じている距離が、思っていたよりも近いのかも知れないと気付いて。
そして嬉しくなった。彼女が内面的にも俺を相棒として選んでくれたことが。きょうだいが有名人という共通の背景があるからに過ぎないかも知れないけれど。
彼女が俺に恋愛めいた気持ちを持っているわけじゃないということは、十分に分かっている。それは彼女の態度を見ていればちゃんと分かる。
そもそも俺は彼女にいいところを見せられていないのだ。俺に恋心を抱いてくれる要素が何もない。
今はそれでいい。まだ知り合ったばかりだし、友人として話ができるだけで楽しいから。でも、もしかしたら……?
* * *
大鷹と仲良くなれたら……なんて考え始めたら想像が尽きなくて、寝るのが遅くなってしまった。まだ俺が彼女を好きになるかどうか分からないのに、一緒にいる場面をあんなにたくさん考えていたら、自分で自分を暗示にかけてしまいそうで危険だ。
俺が想像で創りあげた大鷹はあくまでも俺に都合のよい大鷹で、本物の大鷹と同じじゃない。だから、本物の大鷹をもっとよく知るまでは――。
――あれ?
朝、教室に到着すると、俺の席の前で話している大鷹と……礼央。礼央の言葉に楽しげに笑う大鷹のポニーテールが揺れる。
「やだもう、礼央くん」
教室のざわめきを背景に、彼女の声がくっきりと聞こえた。
「あ、景!」
入り口で立ち止まっていた俺に気付いた礼央が駆け寄ってくる。
「おっはよう! 元気?」
「ぐ……っ」
礼央の剛力ハグに拘束された俺をくすっと笑って、大鷹はいちごのところに行ってしまった。朝のあいさつくらいしてくれてもいいのに……。
「あれ? 行っちゃった」
礼央が振り向いて言った。
「景が来るまで引き留めておいたのに」
「ん?」
礼央の言葉が意味するのは――。
「景って奥手だからさあ、そこで話していれば、景が自然に話に加われると思ったんだけどなあ。どうしてさっさと入って来なかったの?」
待て待て待て。俺のために大鷹を足止めしておいたってことか? つまりそれは。
「何言ってんだよ?」
熱くなってきた顔を礼央に見られないように、机に乗せたカバンを開けてのぞき込む。ここで顔が赤くなるなんて、これじゃあ、まるで俺が大鷹を……。
「俺はっ、まだその大鷹に、そういう……つもりはない、けど? だからべつに」
「ふうん、いいんだ?」
念押しするような口調に思わず顔を上げた。礼央は真面目な顔をしているけれど、本気なのか冗談なのか分からないことがよくある。もしかしたら、礼央はライバル宣言をするつもりだったりするのか? さっきだって、やけに楽しそうだったし。
「……まだ、今のところは」
とにかく、可能性がないわけじゃない、ということだけは伝えておいた方がいい。気持ちは確定していないけれど、気になっているのは間違いないのだから。
礼央は「ふうん」とうなずいてからニコッと笑った。
「じゃあ、これからも一応、協力しておくから。いざというときのために」
「お、おう」
つられてうなずいてしまった。これは同意したということになるのか? 協力、というのはつまり、俺と大鷹の接点が増えるようにということに? ということは、礼央はライバルじゃないと? そして俺は礼央の言うとおり“奥手”なのか?
ああ、混乱している。これも自分の気持ちがはっきりしないからだ。
しかも、こんな状況も、俺に暗示をかけてしまうような気がする。ほんとうに好きなのか、暗示で思い込んでいるのか、いざとなったらちゃんと区別がつくのだろうか?
まあ、とりあえず礼央に手伝ってもらわなくても、俺には図書委員の仕事というチャンスがある。今日だって昼休みになったら――。
「鵜之崎くん。図書新聞の原稿入力、あたしがいない方がよくない?」
「え?! どうして?!」
休み時間に大鷹から声をかけられたと思ったら、一緒に仕事をするのをやめようという相談だ。俺のためみたいな言い方をしているけれど、ほんとうは俺と一緒にいるのが嫌なのでは……。
自分の頬が引きつっているのが分かる。
「ほら、きのうはあたしのおしゃべりで仕事の邪魔しちゃったでしょう? 鵜之崎くんひとりの方が捗るんじゃないかと思って」
「いや、そんなことないよ」
ここは速攻で否定だ。
「きのうの話は俺から始めたんだし、それに、分からないことが出てくる可能性もあるから、一緒にいてほしいな」
――一緒にいてほしい……って。
言ってしまった。まるで恋の告白みたいな言葉じゃないか。彼女がいるのは迷惑じゃないと伝えたかっただけなのに。
かっと頬が熱くなった。
「そう? お邪魔じゃないならよかった」
にっこりする彼女は俺の言葉づかいには頓着していないようだ。ほっとしたけれど、頭の片隅には彼女の反応にがっかりしている部分もあって、なんとなくもやもやする。
でも、俺と一緒にいることが嫌なわけではいらしいから、それでよしとしなくちゃ。そして、どうか頬の熱さを見破られませんように!
「じゃあ、お昼休みにね」
「うん、よろしく」
彼女の後姿を見送りながら、暗示の影響について考える。俺は彼女に惹かれているのか、それとも友だちとして気に入っているのか、もしくは単に女子と親しくなれて嬉しいだけなのか……。
どうしたら分かるのだろう?