(時音か、朱鷺音。それとも、平仮名か……)

 平仮名はともかく、〈時音〉と〈朱鷺音〉は、どちらもトキネのイメージではない。
 ふんわりと儚いトキネは、もっと優しい字が合っている。
 とはいえ、遥人の貧困な思考では限度があった。

 だが、トキネ自身は名前さえ呼んでくれたら満足のようだから、わざわざ、どのような字を書くのか、なんてことを訊く必要もないと思う。

 ふと、手の甲にひんやりとした感触を覚えた。
 トキネの手が、遥人のそれをそっと取っている。

「もう一度、呼んで下さいませんか?」

 澄んだ双眸を真っ直ぐに向けてくるトキネ。
 そんな彼女に戸惑いつつ、しかし、遥人は、「トキネ」と名前を口にした。

「ああ……」

 トキネは吐息を漏らし、また、はらはらと瞳から透明なものを零してゆく。

 名前を呼ばれるのがそれほど嬉しいのだろうか。
 どう呼ばれようと全く気にしたことのない遥人には理解出来なかったが、もしかしたら、トキネには特別なものなのだろう。
 考えてみたら、トキネはずっと、名前を呼んでもらうどころか、単なる怪談の語り草にされていたのだ。
 それを、トキネが気付いていないわけがない。

(可哀想な子だよな……)

 トキネの泣いている姿を目の当たりにしながら、遥人の中で沸々と怒りが湧いてくる。
 トキネのことをを面白おかしく話し、キャアキャアと黄色い悲鳴を上げる女達に、そして何より、心の中でとはいえ、トキネに対して、『呪え! 祟れ!』などと暴言を吐いてしまった自分自身に。

「――ごめん……」

 こんな簡単な謝罪で済むようなことではないと思う。
 しかし、謝罪以外に何も言葉が出てこない。

 唇を噛み締め、神妙な面持ちの遥人に対し、トキネはしばらく瞠目したままだったが、やがて、少しずつ口元を綻ばせた。

「変わらないのですね」

 トキネの手に、わずかに力が入った。
 だが、氷のように脆い手では、握っているトキネの手の方が壊れてしまいそうだ。