遥人は、桜に寄り添う少女を背中越しに抱き締めた。
 自分でも、何故、少女を抱きたいと思ったかは分からない。
 だが、これで少しは、ずっと抱え続けてきた少女の孤独を癒せるのでは、などと都合の良いことを考えた。

 遥人に包まれた瞬間、少女の身体がピクリと反応した。
 突き放されるかと不安になったが、そんなことはなく、むしろ、遥人に自らの身体を預けてくる。

 頬を触れられた時も思ったが、身体も温かさを感じない。
 そして、あまりにも小さくて、腕の力を籠めると、遥人の中で粉々に砕けてしまいそうだ。

「――憶えていらっしゃらないでしょうね」

 周りの風音にかき消されそうな囁き声で、少女がゆったりと口を開いた。

「あなたは昔、私をその力強い腕で抱き締めて下さったのです、今と同じように。あの頃のことは、はっきりと想い出せます」

 少女は身じろぎした。
 もしかしたら、苦しくなったのだろうかと思って、遥人は腕の力を弱めた。

「悪い。ちょっと強引過ぎたか?」

 恐る恐る訊ねると、少女は、「いいえ」と頭を振って体を反転させた。
 少女の濡れた瞳が、真っ直ぐに遥人を見つめてくる。

「ひとつ、お願いがございます」

「お願い?」

「ええ」

 不思議に思いながら遥人が目を瞬かせると、少女は首を縦に動かし、続けた。

「わたくしの名を、呼んで下さいませんか?」

「あんたの、名前を?」

「はい」

 名前を呼んでほしいと望まれても、遥人は少女の名前を知らない。
 そもそも、少女の名を口にすることにどんな意味があるのか。
 だが、少女は真剣だ。
 声に出して呼んでほしい、と強く目で訴えてくる。

「――名前、教えてくれないと……」

 少女に根負けし、遥人は口を開いた。

 少女は眩しそうに目を細める。
 そして、そのほんのりと紅い唇から、「トキネ」と名前が紡がれた。

「わたくしの名は〈トキネ〉です」

「トキネ……?」

「はい」

 少女が小首を傾げながら破顔させているのを見つめながら、遥人は、〈トキネ〉はどんな字なのだろうかと考えた。