寝坊した。気づいたら目覚まし時計が止まっていた。就寝時間が遅くなったせいだ。

昨晩は結月ちゃんと電話していた。ついつい恋バナが白熱し、日付をまたぐほど長引いてしまった。それでも話は尽きず、今日の夕方にカフェで電話の続きをする約束もちゃっかり取り付けた。


今日が登校日じゃなかったら、倍以上の時間、電話していた。次に電話するときは、深夜じゃなく昼ごろからすることにしよう。夜更かししすぎるのはよくない。こういう目にあってしまう。とほほ。


寝ぼけ眼のまま家を出た。あくびをしながら走っていくと、校門前で二階堂先生が仁王立ちしていた。しまった、避けようがない。




「お、おはようございます、センセ……」


「田中。ぎりぎりだぞ」


「はい、すみません……」




寝坊しつつも、身だしなみはしっかり整えてきた。コーラルピンクのフード付きパーカーで、病み上がりの顔色を明るく見せる。ついでにヘアピンも、似た色彩のものをチョイスしてみた。

って、これじゃあ、また派手だって注意されてしまうのでは? ああだこうだ言い合っているうちにチャイムが鳴って、遅刻決定。担任は二階堂先生だし、言い訳が通用しない。詰んだ。


今日に限っては、完全にわたしがわるい。ため息まじりに、受けて立つ気満々で身がまえる。しかし、いくら待っても、つばを飛ばされる気配がない。




「体調はどうだ」




長い間を持たせ、問われたのは、体調。……え? 体調? 生活指導じゃなくて?

珍しいこともあるものだ。おどろきすぎて、今度はわたしが長い間を持たせてしまった。先生は小難しい顔をして催促する。




「どうなんだ田中。良くなったのか」


「あ、は、はい! このとおり、元気になりました!」


「……そうか」




二階堂先生とは夏祭り以来の対面だ。暑中見舞いのハガキは送ったものの、健康状態についてはこうして直接会わないとなかなか把握できない。重症で倒れたところに立ち会ったこともあり、なおさら心配してくれていたんだろう。


もしかして……校門前にいたのは、それで?

……いいや、ちがうな。二階堂先生は生活指導担当として、毎日校門前であいさつしながら風紀チェックをしていた。普段厳しい人にやさしくされると、フィルターがかかりそうになることあるよね。あれ、わたしだけ?




「元気ならそれでいい。遅刻する前に教室に行きなさい」


「え……。い、いいんですか? 身だしなみがどうの言わなくて」


「なんだ、言ってほしいのか?」


「ち、ちがいます!」


「冗談だ」


「……に、二階堂先生も冗談とか言うんですね。意外です」


「田中はわたしをなんだと思っているんだ」


「……堅物教師?」


「ほーう?」




はっ。やば。口がすべった。

あわてて口を両手で覆い隠しても、ときすでに遅し。二階堂先生は右の眉毛と口角をぴくりと持ち上げ、眼光をすぼめている。自ら進んで雷を落とされに行くバカがどこにいるんだ。はい、ここです。


しまったー! やっちまったー! わたしとしたことがー! だってうそつけませんし! 正直さが取り柄なもので! つい! 悪口のつもりじゃなかったんです!

びっくりマークの多さからも、わたしのあわてっぷりが読み取れると思う。夏休み気分と寝不足と体質がたたっている。堅物教師を上回る、インパクト大なほめ言葉はないだろうか。急募。




「まあ、いい」


「……へ?」


「夏休み中だからな。今日のところは特別に見逃してやろう」




イッツミラクル。

わーい! やったー! ラッキー! 遅刻をまぬがれた!


1学期中には考えられなかった奇跡を体感している。二階堂先生が超絶やさしい。どうしちゃったんだ。長期休暇は人の毒気を抜くのか。そういうものなのか。夏休みバンザイ。




「だが」


「っ!?」


「2学期からはまた厳しく指導していくからな。覚悟しておきなさい」




二階堂先生の横を過ぎると、悪寒が走った。ぶるりと身震いする。怖くて振り返れなかった。夏休みの延長はどこに申請を出せばいいんだろう。こちらも急募。



半ば駆け足で校舎に入った。教室に行くと、肌の焼けたクラスメイトがそろっていた。わたしが着席するとすべての席が埋まる。思い出と今後の遊び計画にあちこち盛り上がっていた。


うしろの席のひよりんは、念入りに日焼け止めクリームを塗りたくっていた。天パの髪は三つ編みとくるりんぱをたくみに駆使してまとめられ、露出された首根にも紫外線防止対策をおこたらない。あいさつがてら、UVカット素材のシャツを紹介された。ぬかりない。




「まひるん、来るの遅かったね。二階堂先生に捕まらなかった?」


「それがね、奇跡的におとがめなしだったの!」


「えええ!? あたしにはばっちり注意してきたくせに~!!」


「ひよりんは見逃されなかったの!?」


「……やっぱ、まひるんはお気になんだねえ。ちょっぴりショック」




お気に? わたしが? ……ないない。


むうっとふくらんだひよりんの両方のほっぺを、わたしはかぶりを振りながら手で押さえる。ちがうよ、それはちがうよ、と洗脳するように、とんがったうるうるリップから空気を抜いていく。

ひよりんはわたしの手を引っぺがし、おとなりさんに賛同を求める。塗ったばかりの日焼け止めクリームが、手のひらにべっとりついていた。




「朝也も、まひるんは愛されてるって思うよね~?」


「…………」


「朝也?」


「……奇跡、か……」




小野寺くんは放心していた。ぼうっと上の空で、ぶつぶつ独り言をつぶやいている。机に置きっ放しのリュックを片づけようともしない。

目を開けたまま寝ているのではないかと、顔の前で手を振ってみる。だめだ。飛んでる。

変だな。試合続きで疲労がたまってるのかも。




「……奇跡……」


「? 起きてる?」


「朝也~? なんかあった?」


「……奇跡って、起こるもんなんだな……」




脈絡なくにやけた小野寺くんに、わたしとひよりんは顔を見合わせて不審がる。夢見心地な雰囲気が、汗だくな坊主頭を取り囲んでいる。謎が深まるばかりだ。


その奇跡とやらに、小野寺くんの意識が集中している。それほど幸福感に満ちた奇跡だったってこと? うーむ、気になる……。


するとひよりんが、あたしに任せなさい、と言わんばかりに胸を張った。隣の席に身を寄せ、口も寄せ、耳元めがけて叫んだ。




「朝也にも奇跡があったの!?」


「……っ、ふへ?」




ひよりん渾身の大音量の余韻が、こちらにまでじんじん響く。小野寺くんは、はっと息を吹き返した。おはよう。いい夢を見てたみたいだね。




「え……あれ? お、おれ……声に出てた?」


「うん! 思いっきりね!」


「まじか……」


「奇跡って、何~?」


「あ、ああ……。実はさ! さっき、朱里のやつが……」




――キーンコーンカーンコーン。



え!? なに!?
朱里くんがどうしたって!?


とっても気になるところで、チャイムにさえぎられた。タイミングがわるすぎる。

二階堂先生が入室し、一気に私語が減る。おあずけを食らった気分。気をもみながら、しぶしぶ前に向き直した。