思ってもいない展開になっていた。クロイス家の総本山と言うべき、皇后の居館への侵入には成功した。しかし考えていた形とはあまりにもかけ離れている。ルコット皇后の正式な客人として、皇后の手ずからの歓迎を受けるなんて、どうして予測できる? どうやってこの応接室から動き、各部屋を一つずつ確認していく? まさか彼女に直接頼むわけにも行くまい。

「フフ~ン♪ フンフンフ~~ン♪」

 皇后は呑気に鼻歌を歌いながら、もてなしの茶を入れていた。ガラスのポットにお湯を注ぐと、まるで花が咲くように茶葉が開き、豊かな香りが部屋中に広がる。

「どうぞ。東洋より取り寄せた最高級の茶葉ですの」

 そう言ってニコニコしながら、湯気の立つガラスカップをアンナの前に差し出してきた。

「…………」

 アンナがそれに手を付けないでいると、ルコット皇后は怪訝(けげん)そうな顔をする。

「あら? 毒なんて入ってませんよ? それとも、お茶は苦手だったかしら。やはり殿方の集まりのように、珈琲をいれましょうか?」

 入ってる可能性を考えないわけにいかないだろう。アンナは胸の奥でつぶやく。……しかし、それは権力闘争に明け暮れる男の世界にいた者の論理なのか? この方にはまったく縁のない考え方なのか? この笑顔を見ているとそんな気もしてきた。

「……本当に、私が憎くないのですか?」
「あら? どうして?」

 きょとんとした顔。この方が本当に、官僚派が潜在的に敵と思い定め、出し抜こうと考え続けてきた、貴族派の最重要人物だというのか?

「私は……あなたからアルディス陛下を奪った人物なのですよ? 今でこそ、私の立場は変わりましたが、あなたから恨まれているという思いは常にございました……」
「怒りの感情を持ち続けて、それが何になります?」

 ルコット皇后は、アンナの目の前においたばかりのカップを手に取り、一口その中身を含んだ。ほんの僅かでも毒の可能性を疑った自分を恥じずにはいられない。

「もしかしたら、政治や戦争で他者と戦わなければならない殿方には、その感情が必要なのかもしれません。けど妻の役割とは、そんな感情に振り回された最愛の人を笑って出迎えることではないですか? 私は政治に疎く、侯爵夫人のようなご活躍が出来る頭脳も持ち合わせておりません。けど、笑うことで陛下に協力できる。ずっとそう考えているんです」
「陛下……」

 自らを卑下する言葉が含まれているにも関わらず、卑屈さや悲壮感は欠片ほどもなかった。心の底から夫である皇帝陛下の事を想い、彼のために自分ができることをなんて考え続けている女性の言葉だ。なんて美しい人だろう。かなわない。素直にそう思った。

「失礼しました。いただきます」

 アンナは、皇后が手元に置いていたカップに手を伸ばし、それを飲んだ。お互いのカップを交換する形で喫茶の時間は始まった。


 実際に話してみれば、皇后陛下は本当に天真爛漫な人だった。明るく気さくで、笑うことが何よりも好きな太陽のような女性。

「特にここの所、父の陛下に対する干渉が大きくなっています。それについて心を痛めておられるので、責任を感じているのです」
「そうでしたか……」
「もし父とアルディスが協力し、そこにあなたとリーンが力を合わせれば素晴らしい国になると思うのです。父が外交を、あなたが内政と戦争を、そしてリーンが文化芸術の奨励をになうの。いかがかしら、私の改革案は?」

 政治には疎いと言いながら、父クロイス公爵と陛下の関係を的確に見抜き、心を痛めている。この国の主要人物を得意分野を肌で理解し、理想の未来を描ける。リーン皇弟は彼女の事を、聡明さのないつまらない女性と評したが、とんでもない誤解だ。

「そうだ! もしよろしければ、アルディス=レクスに会っていきません? まだアルディスの息子と会ったことはないでしょう?」
「…………」

 悪意のまったくない言葉に、さすがに言葉が詰まった。まさか皇太子と会っていけ、とは……。天真爛漫は時に人を傷つける。聡明であっても、人の闇を知らない方なのだ。

 アンナは子供を産む事ができない。それは陛下に見初められた後、すぐに分かった事だった。陛下はそれでも構わないと言ってくれたが、アンナは思い悩んだ。
 結果、彼女が歩き始めたのは政治の道だ。もともと陛下が掲げる身分制度改革が、平民出身のアンナには好ましく思えたというのもあり、その理想に協力することにした。必死で勉強をし、必死でそれを実践してきた。
 陛下との間に子がなせないのであれば、せめて国家を二人の子として(いつく)しもう。そう決めたのだ。