やがて賑々しいシーフードプレートが運ばれてきた。ありがとう、とウエイトレスに目で言ったとき、手洗いのサインの方へ入っていく一人の女が目に入った。
あの女。
確かにあの女だ。
祥平は混乱した。どうしてあの女がここにいるのだ。偶然にしてはあまりにおかしい。
そうか…。そうなんだ。
数分後、再び女は戻ってきた。
視界の端で見るともなく女の様子を探ると、女もときおり視界の端で祥平の方を見ている。
祥平は急いで料理を平らげ、女がスパゲティらしい料理を食べ終わるのを待った。女は半分ほど食べたところでフォークを置いて皿を押しやり、見つめられているのを知っているかのように、ゆっくりを顔を上げ、祥平を見た。
拝平は立ち上がり、女のテーブルの方へ歩いていった。
女はそんな祥平から目を逸らさなかった。
「すわってもよろしいですか?」
女は頷いた。腰かけると祥平はできるだけ心を落ち着けようとした。
「三度目です、私が今日あなたに気がついたのは。まずは、ある駅前の歩道橋の上でお会いしました。私が歩道橋の上でひどくぼんやりしていると、やはりぼんやりしているあなたがいましてね、大丈夫かなと心配したほどです。でも、近くのカフェで再びあなたを見かけ少し安心しました。ここまででしたら、単なる偶然、さほど不自然でもないでしょう。けれど、またここにあなたがいるとあっては、考えられることは一つです。あなたは私をご存知ですよね」
「富岡さんですね」
女は慌てるふうでもなく言った。
「あなたは?」
「三原といいます」
「三原さんですか。無駄足をさせては悪いから言いますよ。私は場所なんか知りませんよ」
「は?」
「あなた、私が友達からある物の場所を聞いたと思っているんでしょう。無駄な時間を取らせては申し訳ないですからね、言っときますが、神に誓って私は知りませんよ」
三原は祥平を見つめた。
「それにあなた、テールが下手すぎますよ」
「はい?」
「ずっとつけてたんでしょ。ここまでついて入ってきちゃ、誰だって気づきますよ。この仕事始めて間もないんですか?」
「い…いえ」
「私の友人の調査の一環ですよね。それとも私のような人間にはしばらく見張りがつくってわけですか? なんせ初めてのことでよくわからないんですがね」
祥平はだんだん皮肉っぽくなっていった。
「まあ。いいか。とにかく私は知りませんよ。私をつけてたってドラマみたいに地面を堀りおこしたりはしませんよ」
「あの…桂から…何も聞いてないのでしょうか」
桂、と言う女の目が鋭くなった。
「ええ、事件のことはね。いくら私たちが親しく見えてもそんなことは話しませんよ。あなたもプロだったら、それぐらいわかるでしょう。ま、上からの命令なら仕方ありませんがね」
三原はしばらく黙っていたが「今日、誕生日ですね」と言った。
「そうか、それも知ってるわけですね。出所の日が誕生日っていう馬鹿げた偶然です。…あなた、私のことどれほど知ってますか。…離婚した妻のことも知ってますか?」
そう言ってから祥平は馬鹿馬鹿しくなった。この女が知りたいのは桂に関することだ。自分の別れた妻のことなど知るはずもない。
「狩野遥子さんですね」
祥平は思わず目を見開いた。体が一瞬動かなくなった。思ってもみない答だった。
「元気にしてらっしやいます」
「元気…ですか。遥子のことを知ってるんですね」
祥平は混乱した。と同時に怖くなった。遥子が今どうしているか、何よりも知りたかったが、知るのはどうしようもなく恐かった。
「遥子は…一人ですか」
「一人…というか…。あの…お子さんがいらっしゃいます。一才になったばかりの」
えっ…。
祥平は耳を疑った。いろんなことを想像していたが、なぜかそれだけは思わなかった。七年間の結婚生活で子供は出来なかった。どちらからも検査しようという話は出ず、祥平は遥子には子供が出来ないのだ、と漠然と思っていた。自分に欠陥があるとは思わなかった。
1才か…。あの男の子供だ。祥平の子である可能性はない。
「未婚の母ですか」
「ええ」
三原は頷いた。祥平の中で激しく感情が渦巻いた。遥子への想い、この二年間ずっと抑えてきたやり場のない遥子への想いが渦巻いて、一つの決心となってストンと落ちた。
誰の子でもかまわない。俺が守る。幸せにする。表立って出来ないのなら、陰で見守る。遥子が許してくれるまでずっと。
そうだ、懇願して面倒を見させてもらおう。あまり体が強いとはいえぬ遥子が一人で子供を育てるのは大変だ。自分がどれだけ後悔し、遥子のことを思い続けていたか、正直に話そう。自分自身に正直になれるとき、遥子に対して正直になれるときがあるとしたら、今しかない。遥子の子なら自分の子のように愛そう。愛せると思う。いや、必ず愛せる。あの男の子だってかまやしない。七年近く自分のことを愛してくれた遥子じゃないか、あの男の出現まで。
けれど……。祥平は肩を落とした。子供の父親にあんなことをした男を遥子は許せるだろうか。予供が大きくなり事情を知ったとき、父親気取りだった自分を憎みはしないだろうか。
無理な話か…。
あの日、祥平は男の横っつらを張りとばした。遥子を泣かせた男の横っつらを。
「遥子さん、やっぱり君の言うとおり彼ってデリカシーのない野蛮人だね」
嘲るように男が言った。我に返った瞬間、祥平は男の首ねっこを捕まえ、壁に叩き付けていた。
「やめて!やめてよ!」
遥子が叫んだ。が、祥平の手は止まらなかった。通子の声に重なって自分の声とは思えぬ声が聞こえた。
「殺してやる!」
男はパニックで飛び出し、マンションの螺旋階段で足がもつれ、転がり落ちた。後頭部を打ち、意識不明。
長期に渡るリハビリが必要な怪我を負った。実際祥平が殴って与えた怪我はそれほど大きくなかった。しかし祥平の暴力が原因で階段を転げ落ち、生死に関わる大怪我をしたこと、殺してやる!という凄みのある声を聞いていた者がいた、などの点が重なり、一年半の実刑になった。
遥子は客観的に証言してくれた。涙を浮かべ、決して祥平の顔を見ようとはしなかったにしても。
北田に対しすまないと思っているだろうか、自虐的な気分の時など、ことさら問ってみた。が、答えはいつも同じだった。殺してたら後悔しただろう、すまないと思っただろう。だが、祥平が男に与えたくらいの肉体的痛みは当然だ。大怪我は自分でしたんだぞ。自分で転げ落ちたんだぞ。それを何だ。殺されると思って夢中だった、逃げなかったら殺されたに違いない、とは。肝の坐ってないやつだ。ばちだよ。ばちがあたったんだよ。
あんな北田の子でも本当に可愛がれるのか。まだ、心に痛みがある。いつになっても消えない傷がある。傷は乾くことを知らない。けれど、出来るはずだ。出来なければ…。
それが男気ってもんだろう。桂の言った男気ってもんだろう。
遥子を愛している。別れてからの時間は遥子に対する愛情の再確認の時間だった。愛情は植物を育てるように育まなければいけないとも悟った。遥子が淋しそうな顔をしたとき、興味の違いから会話がなくなったとき、祥平は何もしなかった。
男気だけでは駄目だったんだ。自分には繊細さが欠けていた。
遥子…。子供を生み、育てているというのなら、親戚に恵まれぬ遥子のこと、自分が助けなくて誰が助ける。自分ほど彼女を愛しているものはない。遥子に会うきっかけを作ってくれるのなら、あの男の子でも感謝しよう。遥子と自分を再び引き合わせる口実を作ってくれるなら、それだけでまだ会わぬ幼い命に感謝しよう。
祥平は涙ぐんでいた。
「今、どこにいるんですか、彼女は」
「知ってどうするんです?」
三原という女は聞いた。
「会いたいと思います。でもご心配なく。彼女に迷感かけるようなことはしませんから」
「あの…お会いにならない方がいいと思います」
「どうしてですか?」
「今度、結婚されるんです」
結婚…。結婚…か…。…そんなこともある…わけか…。
どこか淋しげな目をした遥子。可憐な遥子。子供がいたって彼女なら好きになる男がいても不思議はない。
「そうですか…」
祥平は大きく溜息をついた。体中からエネルギーが抜け出て、小さく小さくひからびてパリンと割れてしまいそうだった。
三原が祥平を見つめていた。女の前で泣くなんて…。けれど、泣けてきた。急に出現した可能性、希望に有頂天になっていたときだけに、一旦、流れ出すと涙はとまらなかった。一年半、思い出の中に生きてきた。そんな毎日の中、心だけが妙にもろくなっていった。遥か昔、大人の体型に達したとき、自分の中の感傷的部分を捨てた。そうすることで大人になったつもりだった。しかしもともとは泣き虫だったのだ。
「そうですか。相手は? どんな男ですか? そこまでは三原さんもご存知ないですよね。それに…どんな男か聞いても意味ないですね」
三原が見つめていた。何とも気の毒そうに見つめていた。
「キタダです」
キタダ…。
「北田…ですか」
祥平は一瞬にして憔悴した。塀の中では誰も遥子のことを教えてくれなかった。面会に来てくれたものもいない。遥子と同じ世界に出ても彼女には近づくまい、そう決心していた。ただ、幸せかどうかは確かめたい、それだけは思っていた。
遥子が北田の子を産み、北田と結婚する…。
祥平は呆然と宙を見ていた。
「富岡さん」
三原の穏やかな目が見つめている。その瞳が何か言いたげだ。
「私、あなたが思っているようなものではありません」
「え?」
「私、以前は林と言いました。林あさみです」
「桂の…アサミさん…ですか?」
「はい」
「でも三原と言いましたよね。…ああ、結婚なさったんですね」
「いいえ」
「違いますか?」
「離婚したんです」
離婚…。
「前の夫の姓が林でした」
桂はアサミが結婚していたことなど言わなかった。
「少し前、桂から手紙をもらいました。最初で最後の手紙だろう、と書いてありました」
アサミは封筒を差し出した。差出人は高坂真由美となっている。
「高坂?」
「ええ、彼、私か離婚していること知らないので女の名前の方がいいと思ったんでしょう。私は字からすぐ桂からだとわかりましたけど…。どうぞ、読んで下さい」
「いいんですか?」
「ええ、富岡さんなら構わないと思います」
アサミは封筒から手紙を取り出し、最初の一枚だけ渡した。達筆だった。
お元気ですか。
変な書き出しですが、他にどう書いていいのかわかりません。
迷感だと思い、今まで連絡しませんでした。あなたの方も事情があることですから、連絡がなくても不思議はありません。
ただ、こんな生活だと同じことを繰り返し繰り返し思ってしまいます。そしてあなたがどういうふうに毎日を過ごしているのか、何より幸せなのか、気になります。
私がこうなったあと、あなたは一度だけ会いに来てくれました。そして、もう一度ご主人と頑張ってみると言いました。
でも最近時々、あなたが幸せではないのではないか、そんな気がするのです。私はあの時、ひどいことを言いました。君のためにやったのに、君はご主人の元に帰るというのか。もう二度と僕の前に顔を出さないでほしい、と。
でも今の私にはわかります。あれは自分のためにやったのです。誰のためでもありません。そして失敗し人を傷つけました。あなたには心から謝りたいと思っています。
今の私はあなたにひどい言葉を吐いた男と同じ人間ではありません。もちろん、あなたのことを恨んでもいません。ただあなたの幸せを心から祈っています。それだけ知ってもらいたくてこの手紙を書きました。
あなたが今、幸せに結婚生活を送っているなら、この手紙はすぐ破って捨てて下さい。
万が一あなたが今幸福でなく、私のことを知りたいと思っているならば、富岡祥平という男をたずねて下さい。11月14日にフリーになる男です。彼に私のことを聞いて下さい。私の様子を聞いて下さい。彼は私がここで唯一信頼した男です。
ただ、私に会いには来ないで下さい。もし会える時があれば、私があなたのいる世界に出れたときです。私は普通の人間として会いたいのです。
読み終わった祥平は顔を上げた。
「二枚目に富岡さんのことが書いてありました。だから…」
「それで、私のことも知ったわけですか…」
「ええ…。富岡さん、私は卑怯な人間です。彼があんなことになったとき、私は無関係でいたかったのです。何があっても一緒にいたいと思ったはずの人でしたのに…。私は自分を偽りました。彼とのことはちょっとした不倫だったのだと…。そして主人との生活を続けようと決心しました。でも世間の目はごまかせても自分はごまかせません。結局一年前に離婚しました。今はなんとか自活しています。慰謝料ももちろん貰いませんでした。私の方に非がありますから」
アサミはうつむいたが、気を取り直したように顔を上げた。
「それで、桂が言うとおり、富岡さんに会いたいと思いました。桂は富岡さんもこれから本当に幸せになってほしいと思っています。手紙からでも、その気持ちがわかります。で、私、富岡さんにお会いするからには、私の方からも富岡さんのためになる何かをお知らせすることができないか、と思って…。勝手に調べたりして、すみませんでした」
「いいんです。感謝したいくらいです。あなたから聞かなければ、遥子のことも知ることが出来なかったでしようし…」
「知らなかった方がよかったってことありませんか」
「いいえ」
祥平はきっぱり言った。
「落ち着かれてから、桂が書いてきた住所にお尋ねするっていうことも考えました。でも、できるだけ早く桂のことを聞きたかったんです。だから、今朝起きると心は決まってました。で、富岡さんのことずっとつけていました。いつ声をおかけしようかと思いながら、ずっと後をつけて…。機会を見つけられず尾行みたいになってしまって…でもここで食事が終わったとき、声をおかけするつもりでした」
「このレストランでやっと気づくなんて、こっちも鈍いですよね」
二人は顔を見合わせ、微笑んだが、祥平はすぐに真面目な顔になった。
「あの…遥子に実際会われましたか?」
「面と向かって話したわけではないんです。でも、それこそ調査員のように調べました」
「元気そうでしたか」
「とても。それと…可愛らしい、健康そうな赤ちゃんでした」
「そうですか…」
北田は心を入れ替えていい人間になったと思いますか、聞いてみたかったがやめておいた。人間そんなに本質が変われるものじゃない、それにこの人とは関係ない話なのだ。
「桂は幸せです。ついてない愚か者にしても幸せな男です。待ってくれる人がいるんですから」
アサミは少し淋しそうに微笑んだ。
「桂は馬鹿です。大馬鹿者です。運動神経あまりよくないのに…。車の運転だっていつも慎重にって私、口を酸っぱくして言ってましたのに…。その彼がバイクですから。バイクなんですから」
一匹狼で、あるところから金を盗んだ。かなりの金額だった。念入りに計画を練った甲斐あって金を手に入れるところまではうまくいったが、バイクで逃げる途中、人をはねた。そのまま逃げたが、そのことから足がついた。三日後、捕まったとき既に金は手元になく、逃げる途中落としたと言い張った。
「愚かですよね、人間って」
「いや、賢い人間もいます。愚かな人間もいますが、損をする人間もいれば得をする人間もいて、何でも両方向あるもんですね」
話しながら、これは桂の話し方だと思った。普通ならこんな話し方はしない。祥平はアサミを前に、桂の話し方をしている自分に気づいて可笑しくなった。
「富岡さん」
アサミが見つめた。
「彼、お金どうしたか、言いました?」
「いや、それだけは言いませんでしたよ。まだどっかに隠しているのかな。それともほんとに落としたのかな。誰もそんなこと信じちゃいないみたいですが」
「…彼のこと、もっと知ってもらうためにはこれだけは言わなければなりませんね。桂は逃げる途中落としたと言い張りましたよね。でも、そうではないんです。だけど、もう持っていません。しかるべきところに匿名で寄付したんです。もともと盗んだ金はそこにあるべきではないお金で、盗るのは義賊としての役目だって言ってました。金を返すのはしゃくだったんでしょう。捕まるまでに三日ありました。その間、彼なりに考えて役立つところに寄付したって言ってました」
「じゃ、手元には少しも残してないんですか」
「ええ、一銭も。全く何のためにやったのか…。あ、こんな言い方不謹慎ですよね」
「アサミさん、あなたはそれを信じてますか」
「ええ」
アサミは静寂ともいえる目を向けた。人生を知りつくしたようで、それでいて世間知らずのような不思議な目をしていた。
「彼は一体何のために事件を起こしたんですか?」
「最初はやはり、私と一緒になるためだったのかもしれません。夫が資産家でしたから、自分もある程度の金がなければ私と一緒になる資格がないとでも思ったようでした。桂は銀行員っていっても地方銀行の中途採用で、雑用のようなことしかしてないしお給料もエリートコースとは雲泥の差だと言ってました。誰も傷つけることなく、もちろん私にも知られず完全犯罪を決行するつもりでいたんです。私の踏ん切りの悪さがそうさせたわけですけど…。けれどそれだけの理由で人間あんな大それたことしないと思います。桂には危うい何かがあるって感じることがありました。計画が狂い、捕まるのは時間の問題になったとき、金を戻すよりどうせなら有効に…変な言い方でしょうか、有効に使いたいと思ったようです」
「それで寄付ですか…」
「ええ」
アサミはそれを信じている。
祥平は桂の少し語尾を引く癖のある話し方を思い出した。
トミさん、馬鹿とはさみは使いようっていうけど、違うね。馬鹿と金は使いようさ。ある馬鹿が金を盗って隠した。その金はちょっと曰くのある金でね。馬鹿は捕まって檻に閉じ込められるが、その間に馬鹿は考えるのさ。どうやって金を使おうか、どうやったら有意義に使えるか。もし、その金を意味ある使い方できたら、馬鹿は馬鹿でなくなるのさ。
桂はまだ金を持っている。どこかに隠している。祥平を信じて、馬鹿と金の話をした。
その話をした時、桂はそれまで見せたことのない顔をしていた。その時はカラカルには変身していなかった。その瞳が僅かに揺れて光っていた。あれが何だったのか祥平にはわからない。ただ、このアサミも知らないだろう桂の影の部分が揺らめいていたのかもしれない。
トミさんが出たら、きっと尾行がつくよ。僕がトミさんにしゃべったと思ってるのさ。身内でちょっと金が必要な事情があるのも事実だからね、家族への金渡しを誰かに頼むと思ってるのさ。ま、適当にエンジョイしてくれよ。いきなり地面を掘ったりしてみるのも面白いかもしれないな。そう言い、彼にしては珍しくむせるように笑った。
「あの、アサミさんはカラカルって知っていますか?」
「カラカル? 何ですか、それ」
アサミは知らないのだ。やはり自分は特殊か…。
「ちょっとすみません」
アサミが席を立った。その後ろ姿に思う。桂、おまえの方が幸せだぞ。出れるまでにしばらくあるとしてもさ。
「あちらからお移りになったんですね。コーヒーカップ新しいのお持ちいたしました」
さっきのアルバイトの子が、持ってきたコーヒーカップに新しくコーヒーをなみなみと注いでくれた。
しばらくしてアサミが戻ってきた。
祥平は目を見開いた。
アサミが両手で大きなケーキを持っている。デザートメニューに載っていたちっぽけなサービスケーキではなく、大きな見事な丸いケーキだ。祥平の体が硬くなる。いや心が硬くなる。硬くしなければ、自分の中で渦巻いた爆発寸前の感情が溢れ出る、そんな気がした。
アサミはゆっくりとケーキを祥平の前に置き、祥平の目を覗き込んだ。
「富岡さん、お誕生日おめでとうございます」
温かく静かな声だった。
「あ…」
ありがとう、は声にならなかった。
「お誕生日ならお店の人たち全員で歌を歌いましょうかって言われたんですけど、お断りしましたよ」
アサミはにっこりすると、マッチを擦りろうそくに火をつけた。大きめのろうそく四本、小さなろうそく二本、一本ずつ灯していく。
そして、祥平にだけ聞こえる小さな声で歌い始めた。
ハツピーバースデイ ツゥーユー
ハッピーバースデイ ツゥーユー
ハッピーバースデイ ディア しょうへいサン
ハッピーバースデイ ツゥーユー
少し音程の外れた、けれども優しい歌声だった。
祥平はおそるおそる火を消した。
大きいろうそくが一本だけしぶとく揺らめいていたが、それもなんとか消えた。
「願いを唱えましたか?」
「あ…」
「もう一度つけましょうか?」
アサミが再びマッチを擦ろうとする。
「い、いいですから…」
祥平はかすれた声で言った。いいですから、ほんとに…。
「はい」
アサミは手をとめた。
願いったってなんて言っていいかわからない…。
「さあ、食べましようか。ケーキなんて久しぶりだ」
祥平は陽気を装った声を出しながら、キャンドルを抜いた。大きいキャンドル四本、小さいキャンドル二本…。
最後の一本を抜きながら、祥平は心でつぶやいた。
ハッピーバースディ ツゥー........ミー......
商店街に入るといつもホッとする。古き良き街という、それこそ古くさい形容がよく似合う石畳の商店街。各停しかとまらぬ駅から南北に続くその商店街に入ると、夕暮れどき、人通りが多い時でも、自然に歩調がゆったりとなるのは不思議だ。この商店街の魅力だと思う。
この店も閉店か。以前は梅干し専門店があった。間口が2.5メートルほどの小さな店だった。一粒千円の梅干しもあった。上に金箔がのっていてどっしりとした柔らかそうな梅干しだった。深みのある色をしていた。
店員は愛想がなかったが、桂は2個セットを2000円で買って、アサミに渡した。アサミは微笑み、これなあに?というように四角い小さな包みをくるくる回してみた。
桂アキトにはフォトグラフィックメモリーがあった。一度見たものはその気になれば細部まで思い返すことができた。いつだったか自閉症のサバン症候群でフォトグラフィックメモリーを持っている青年のドキュメンタリーを見た。本の内容を一字一句違わず瞬時に覚えられるものもいれば、難解な式を一瞬で計算できるものもいる。見たものそっくりに細部まで絵を描けるものもいる。
アキトの記憶力はそれには及ばないが、その気になれば細部までかなり正確に思い起こすことができた。数学、化学、統計、物理、これらの理系科目において瞬時にて理解できるという特殊能力を持っていた。
ただ入試では失敗した。科目による差が大きすぎた。結果、中の中の国立に入った。大学だけは出て欲しいという母の願いにしたがった。アキトはすぐに自力で稼ぎたいと思っていたし、また稼ぐアイデアも湧いてきていた。そしてハッカー仲間では名が通っていた。しかし、母の手前、大学だけは卒業し、就職もした。
商店街が大きな基幹道路とぶつかる手前にあるペットショップ、そこでアサミと出会った。アキトは犬が好きだった。無口な店長は買う気がないアキトを好きなだけ居させてくれた。
アサミは銀行勤めだったが、土曜日だけ数時間、ペットショップを手伝っていた。あらゆる動物が好きだったのだ。
そのペットショップだった場所は今ではブランドもの買取の店に変わっている。そして「ペットショップのんた」はルネビルに移った。
アキトはルネビルのインテグリティグループの一員となった。
インテグリティに入るきっかけは刑務官の山岸だった。アキトと同じくレイヤー族だった山岸とは刑務官と受刑者の間柄だった。出所の日、彼は言った。「桂さんなら、お金には困らないでしょう。でも人間、道標なしではどんな賢者でも迷子になります。ここを訪れてみてください。あなたが住んでいた街にあります」
彼が差し出した紙に書かれていたのは
カフェ ハーヴィ
アキトがカフェ ハーヴィの鐘を鳴らしたのは、今から6年ほど前のことだった。銀髪の目の鋭い女性が5、6歳の女の子とスパゲティを食べていた。カウンターの向こうには緑色のエプロンをつけた、銀色の毛並みが美しいウルフ系レイヤー族がいた。
「いらっしゃい」
ソフトなテナーだった。
ルネビルのブルースカイ調査事務所。アキトは今ここのIT顧問として働いている。一般的調査案件も取り扱うが、インテグリティへのリクルーターも担っている。今はとにかく人材が必要だった。
ここ数年、人の意識下の差別と憎悪感情が増幅している。民族問題、宗教問題だけをとっても世界中のあらゆる地域で爆弾を抱えている。そこに今まで静かに内在していたレイヤー族の存在の顕在化が進んだら、どうなるのだろう。急に件数が増え出したメタモルフォーシス。メタ族への対応も急がれる。
刑務所でただ一人だけ友人になった男、冨岡はフィーラーだった。彼も山岸からカフェ ハーヴィのことを聞き、インテグリティの一員となった。ルネビルのテナントと必要に応じ個人事業主として契約を結び、いわば何でも屋的に動く。器用な男だ。自分の中に押し込めていたフィーラーとしての感性も鋭くなり、リクルーターとしても尽力している。人生において絶望感を味わった冨岡だが、今は男として、いや、人間として、いい顔をしているとアキトは思う。
冨岡とはしょっちゅう会うわけではないが、たまに見かけるとお互い敬礼するかのように額に手をあてる。その瞬間、ふっとほんの一瞬お互い口元が緩む。
アキトは今、アサミと雑種のジャスパーと暮らしている。彼らのためにも、世の中はより公平でより寛容でより優しくあってほしい。アキトは時折突き動かされるように祈る。祈る。そしてまた祈る。
ベランダには小さな蔦のプラントが置かれていた。蔦は灰色のマンションのベランダから垂れさがり、風に揺れていた。先端は枯れて茶色になっている葉もあった。
一瞬自分がどうしてここに立っているのかを忘れた。空白状態の頭で、蔦の葉をカッパの水かきのようだと思った。小さな鉢。小さな葉。並んで連なる水かきのような葉っぱ。蔦の先はひょろりと伸びて下がり、空中で揺れていた。巻きつくものも見つからず、ひょろりと揺れていた。壁にぶつかる微風に揺れていた。
なぜかそんな蔦に共感して僕は立っていた。
もっと素直に言おう。僕はしょんぼり立っていた。何とも頼りない気持ちで立っていた。ここまで抱えていた怒りやどうしようもない腹立ち、苛々がシュッと消えたような味気なさで立っていた。僕に残ったのはその蔓のような、頼りない、よりどころのない気持ちだった。
僕はズボンのポケットを探った。右手で右のポケットを、左手で左のポケットを探った。同時に左右対称の動作で探った。
左手に紙の感覚があった。取り出してみると探していたものではなく、何かのレシートだった。
本屋のレシートか…。日付は8月27日だった。8月27日…。暑い日だった。暑い暑い暑い日だった。朝と夕方、二度雨が降ったが、暑さは少しもやわらがなかった。
忘れようにも忘れられない日だった。その日を境に僕の時間は性格を変えた。カチッカチッと威勢よく響きながら両腕を大きく振りきっぱりと過ぎて行っていた時間は、その日を境にどんより糸を引きながら這うなんとも薄気味悪いものに姿を変えた。僕自身が時間の中でその得体の知れない物体のように過ぎていくのか、時間自体が僕の周りで過ぎていくのか、僕には区別がつかなかった。
塩を撒けたらどんなに楽だろう。昔祖母が威勢よく塩を撒いたように、パアッと。祖母にとっては消滅させるべく物体がはっきりしていた。壁に貼りついたナメクジども。僕も小さな手で塩を振りかけたものだ。手いっぱいに塩をつかみ、振りかけた。するとナメクジはしゅるしゅると小さくなった。
あの頃の僕には善と悪、美と醜がはっきりしていた。世の中はもっとシンプルだった。未知のことだらけにしてもシンプルだった。そして、まだ何かを「失う」という恐れも虚しさも知らなかった。
消滅させたい物体がはっきりしない今の僕には、どれだけの塩があっても役に立たない。コントロールを失った僕自身なのか、僕の周りで澱みながら過ぎてゆく時間なのか、それともあの蒸し暑い日を境に、僕の目の前から消えた京子の思い出なのか。京子そのものなのか…。今から会おうとしている男なのか。
本屋のレシートをくしゃっと丸めてポケットに戻し、右のポケットをもう一度探ったが、やはり何も手にあたらない。そこで胸ポケットを探ってみた。あった。ちぎってメモを書いたクリネックスの箱の一部。ハツキコーポ202とある。頭にしっかり貼りついている住所だったが、なぜかもう一度確かめたかった。
202。外階段で2階に上がり、2つ目のドアだった。僕は頭がくらっとして、階段を降り、再びベランダの蔦を見上げた。
ブルースカイ調査事務所のキツネから連絡があったのは朝5時半だった。わかったら真夜中でも時間に関係なく連絡してくれ、そう言う僕を、ほとんど無表情の目で見ていたキツネだったが、時間に関係なく連絡、の部分だけはしっかり聞いていたようだった。目が鋭く細面のこの男をキツネと心の中で呼んでいたが、決して醜いわけではなく、整った精悍な顔をしていた。キツネの部下は目の丸いキツネよりは若い男で、実際に動くのはこっちだろう。害のなさそうな雰囲気を全身から出している、どこといって特徴のない男だった。彼のような男こそ尾行や聞き込みの成功率が高いのかもしれない。キツネの横で、うなづきながら、僕の話を真摯な感じで聞いてくれていた。フリだけだったのかもしれないが。
そのキツネの声を聞きながら僕は携帯を握りしめ、二度ほど言ったのだ。わかりました、と。携帯を力いっぱい握りしめる僕の大きな四角い爪が巨大に見えた。
京子は僕の手が好きだった。特に僕の四角い爪が好きだった。ピキュリアーな爪をしている、彼女はそう言った。ピキュリアー、それは彼女がいともたやすく口にする横文字の一つだった。ピキュリアー…僕はしばらくの間、その意味を知らないままだった。何度か辞書で引こうとしたがスペルが分からなかった。だからカオルがピキュリアーと口にするたび、僕は不自然でない笑いを口元に浮かべるのに必死だった。
ピキュリアーがpeculiarだと教えてくれたのはマコトだ。海外教育組の彼は垢ぬけした顔の配置をしていた。留学帰りは顔の配置まで違うのかと思った。そのとき、京子はこんな顔の男との方が似合うのではないか、と思ったりした。
僕はpeculiarなものを考えてみた。たとえば、テレビのトークショーに出ていた監督のかぶっていた帽子。たとえば、前衛彫刻のようなウエディングケーキ。たとえば角のCDショップの店員の左右形が違う世紀末の武器のようなイアリング。たとえば…僕と京子の関係…。
キツネとの会話は一語一句はっきり覚えている。キツネのかすかな訛りのある息遣いすら。
これは確かな情報です。男について詳しいことはまだ調査中ですが、どんな僅かなことでもわかったら、たとえ夜中の何時であっても連絡するように、との言葉通り、電話をとりあえず差し上げました。
男について住所以外にわかったことはありませんか?
今のところ居場所だけです。その住所に行けば住んでいるのは、マルヤマリュウジロウという男とあなたの奥様のキョウコさんです。
わかりました…。
心を決めて2階に上がった。202号室の呼び鈴を押す指にためらいがあった。深呼吸をした。マルヤマリュウジロウの顔を想像してみた。帰国組のような整った顔か。マルヤマリュウジロウ…。なんとも間が抜けて聞こえる気もしたし、颯爽とした名前のようにも思えた。
ドアを前にして気がついた。自分がマルヤマリュウジロウに対しては意外なほど何の感情も持っていない、ということに。
不思議なことだった。京子の恋人だから憎いはずだろう。けれど、顔も体つきも職業も、何一つ情報がないのだ。マルヤマリュウジロウという名前以外。マルヤマリュウジロウ、マルヤマジュウジロウ、と繰り返しているうちに、アルマジロ、アルマジロと言いそうになり、バカバカしさに、ふん、と鼻を鳴らした。
心配と心労の中、真実がわかる直前、奇妙な安堵感と高揚が、交互に顔を見せることがある。怒涛のようなパニックと不安の間であらわれる不思議なユーフォリア。僕も一瞬だけど、すべてどうでもいい気がして心が解放される気すらした。それでもやはり緊張からか、呼吸は早かった。
呼び鈴を鳴らした。返答がない。もう一度鳴らす。留守なのか?
ドアに耳をつけると中でことこと音がするようだった。
ドアが開いて、姿を見せたのはひょろりと高い、長髪の男だった。
マルヤマさんですか?
あっ、そうです。
ちょっと話ができますか?
男は、あ、話ですか。と言い、ちょっと待って下さいと一旦ドアを閉めた。再び開けたときにはマスクをしていた。そして手にも一枚マスクを持ち、僕に差し出した。
すみません。どうも、ノロウィルスに感染しちゃったらしくて、けっこう胃腸症状がひどくて、体にもきちゃいまして…。うつったら大変ですから。
僕は改めて男を見た。マスクで顔半分が隠れてしまったが、眉と目元はすっきりしている。けれどなんとなくイメージしていた顔とは大きく違っていた。その顔はあっさりしすぎていた。ぼんやりとも言えた。
確かに男の顔色は悪かった。腰を少しかがめ気味なのも腹に力が入らないからかもしれない。
僕はマスクをつけた。そしてマスクつけたまま、京子の夫です、と言った。
男は目を丸くした。小さかった目が柴犬のようになり、あ、そうですか。そうですよね。と言った。
中に入っていいですか?
あ、構いませんが、ノロウィルスが…。
男を無視して、僕は2DKと見られる住みかに入っていった。ダイニングキッチンは狭くて、物が積み重なっている。二つあるドアのうち一つが開け放しになっており、そこには京子の送ったと思われる段ボールが3つばかりあった。中身が散在している。そこにあったのは京子の最近のおしゃれ着、バッグ、靴、などではなかった。古いトレーナーや昔の制服、手作りのように見えるぬいぐるみに古い手芸品や木彫りの人形。
京子は生活用品を持って出たのではなかった。自分の過去の思い出だけ箱に詰め込み出ていったのだ。
キッチンにしても部屋にしてもその荒れ方に僕は驚いた。僕たちのマンションはいつも整然としていた。
京子も病気なのか? 気配を感じないが、ここにいるのか?
京子も具合悪いんですか?
ええ、僕がうつしちゃったみたいなんですけど…。僕、看護師してますから、気をつけてるつもりなんですけど、ウィルスが強すぎたのか、彼女もかかっちゃって…。めったにこんなことないんですけど、今年は僕の免疫力も下がってたみたいで、キョウコさんにもうつしてしまったんです。僕より症状がひどくて、点滴もした方がいいと思うんですが、大丈夫だってけっこう頑固なものですから。本当にすみません。
男は、京子を僕から奪ったことより、京子にノロウィルスをうつしたことを真剣に謝っていた。僕は振り上げた拳を下ろせないでいた。いや、もともと振り上げてもいなかったのかもしれない。
で、京子は?
トイレです。上からも下からも出ちゃって脱水状態なので、心配しているんです。
マスクをつけているのが原因でもないのだろうが、なんだか息苦しくなった。この展開は何なのだ…。
ノロウィルスって空気感染しないはずじゃありませんでしたっけ? 僕は聞いた。
ええ、ノロウイルスは埃にのって漂い、口に入ると感染するんです。だから、患者の触ったものを触らなければいいっていう人もいますが、それは間違いなんです。
マルヤマは男にしては高い声で、弱々しげに言ったが、病気だからというより、もともとそんな話し方なのだろう。
トイレを流す音がした。男は、キョウコちゃん、大丈夫? ご主人が来てるよ。とそっと戸に口を当てるようにして言った。
あの~、宅急便が来てるんだけど、とでも言う口調に僕はむかっときた。
中からは声がしなかったが、数分後に、京子が胃と腹を押さえて出てきた。
ほら、キョウコちゃんもマスクして、男はマスクを差しだした。
京子はマスクを持ったまま、もう一つの閉じていたドアを開けながら、ごめん、横にならせてもらうわ、と言って、青白い顔で腰を曲げながら、ベッドルームに入っていった。
ベッドの周りには服や本やスナックなどが散らばっていた。
大丈夫かい? 点滴した方がいいんじゃないか? 僕は言った。
まだ、大丈夫。吐き気がとまらないようだったら、点滴に行かなきゃね。タイミングはリュウジンがついてるから大丈夫。
うん。思わず、それはよかったと言いそうになった。
ポカリスエットがきれちゃって…。濃度の高いイオンバランスの飲み物が薬局で買えるんですよ。ちょっと出かけますが、一緒に行きませんか。どこかでお話も聞けますし。それとも、カオルさんと話しますか?
ごめん、私、今、話せない。ごめんね。だるくて痛くて、もうぎりぎり。
なんで出てったきり連絡もしないんだよ。心配しないでって書き置きすればいいってもんじゃないだろ。僕は何度も心で繰り返していた言葉を結局言えず、じゃ、病院いけよって強めに言った。
行くわよ。そのうち。
彼女は弱々しく言った。消えそうに小さな声だった。
僕とマルヤマは、カフェに入った。カウンターとテーブル席が4つばかりの小さな店だ。
丸いテーブルだけが、パリのサイドカフェしてる一昔前の趣の店だった。オーナーなのだろうか、緑色のエプロンをつけた銀髪の小柄な男が、マルヤマに、久しぶりですね、と声をかけた。そして僕に、こんな日は強いコーヒーも悪くないですね、と僅かばかり微笑んだ。僕はなぜか、全ての事情を彼に悟られてしまった気がした。僕はハウスブレンド、マルヤマはカモミールティをオーダーした。
マルヤマは僕を真っ直ぐに見た。ご心配かけて申し訳ありませんでした。深々と頭を下げた。膝に両手をのせている。
ご心配かけて、っていうのは表現が違うだろ、と思ったが、黙ってうなづいた。
僕が看護師をしている病院の売店にキョウコさんが来て、休み時間とかに話すようになって、結構興味とか読んでる本とか、共通点があって、なんだか、きょうだいみたいに居心地いいねって笑ったりするようになって…で、お付き合いとかしていないんですが、ある日、キョウコさんが荷物を持ってうちに来たんです。
何も約束もしないのに突然に?
ええ、突然でした。なんだか、すごーく疲れたって言って、しばらく置いてほしいっていったんです。
何にそんなに疲れたって言いましたか?
僕は聞きながら、驚いていた。京子は突然置き手紙を置いて家を出た。どこへ行くかも書いてなかった。
熱にうかされたような恋をしたのか、歳をとっていくことに対する焦りで魔がさしたのか、平凡な僕がつまらなくなったのか…いろいろ原因を考えた。
しかし、疲れていたっていうのは驚きだった。
今、この男のアパートの乱雑な空間に住んでいるのだ。京子と僕のマンションは品よくイタリアンモチーフに北欧のシンプリシティを取り入れ、それは居心地のいい空間のはずだった。整理が苦手なの、という度に、僕は君はやればできるさ、と言った。そして出来たときは、ほら君はやればできるんだ、と褒めた。
何にそんなに疲れたんでしょうか。
僕が思いますに、男は膝に手をのせたまま言った。木谷さんとの生活じゃないかなって思うんです。キョウコさんの話からは木谷さんは正義感に満ちた、物事をきっちりこなしていく、計画性も常識もあり、博識で、とてもいい方だということがわかりました。でも、キョウコさんは木谷さんの奥さんならこれくらいはすべきだっていう、きちんと主婦するっていうのを、自分でも気づかないうちに無理してやろうとしてたんですね。だから、家に入ろうとするとひどく動悸がする、とか不安になる、とか言っていました。
そんなことを…言っていましたか。
僕は、ずぼらですから、筋ってものがなくふらふらしてますし、あ、もちろん看護師の仕事の時は責任感を持ってしっかりやってますけど、その他のときはこっちにふらふらあっちにふらふら風に吹かれる雑草のごとくです。このいい加減なところがキョウコさんは気が楽で、まあ話が合うってこともありますが…避難所として僕のところを選んだんじゃないでしょうか。
じゃ、マルヤマさんは単に泊めているだけだというんですか。
僕は、キョウコが案外民宿がわりに使っているだけだったら、と少し期待を持った。
男はうつむいた。マスクをしたままうつむいた。
最初は、同じベッドで寝ていても、きょうだいのように、添い寝っていいますか、そんな感じで、それ以上はありませんでした。けっこう長い間です。でも、正直に申しあげて今は違います。あ、ノロウィルスにかかるちょっと前くらいからのことなんですが。
僕は溜息をついた。怒れたらどんなにいいだろう。罵倒できたらどんなにすっきりするだろう。人間としての常識をとくべきか、いかに二人の行動が僕をふみにじったかを言いきかせるべきか…いろんな思いがあったのに、どれも実行する気にはならなかった。
それより男の言うことが本当ならば、非は自分にある気がした。謝らなければいけないのは自分なのか。
京子はお宅ではどんな様子ですか? 家事とかもするんですか?
あ、まったくしないです。でも、それで、僕は構いません。キョウコさん、今はリハビリの時期だと思うんです。
じゃ、これからどうするべきですか。
今度は男を心理リハビリ士として扱っている自分に呆れた。
ストレスをかけないように、見守ることでしょうか。まずは感染症を治さないと。健全な体があっての心ですから。
そうですね…。僕は苦いコーヒーを飲みほした。
僕の携帯の番号です。いつでもご連絡下さい。勤務中はとれないことありますけど、留守電残せますから。こちらからもキョウコさんの様子ご報告しましょうか。
そうですね。お願いします。
僕は頭を下げながら、やっぱなんかちがうんじゃないかって思った。
僕は自分の番号を教えた。
で、マルヤマさんはこれからどうするつもりですか? キョウコとのこと。キョウコのこと好きですか?
好きです。自然体のキョウコさんが好きです。今のままのキョウコさんが好きです。
ぼんやり顔のマルヤマが少しきりっとなった。
京子はマルヤマさんのこと真剣に好きなのでしょうか。
好きかどうか本人でなければわかりませんが、僕といると楽なのだと思います。僕はキョウコさんが嬉しそうな笑顔を見せたり、ちょっと様子がよかったりすると、本当に嬉しいんで。単なる少し見かけがいい女の人がおしかけてきたから、調子に乗って利用している、なんてこと決してありません。これからふたりで話し合って決めていきたいと思います。木谷さんには本当にご心配をおかけしたと思います。申し訳ありませんでした。
マルヤマはテーブルにつくほど頭を下げた。
わかりました。
僕は大きく息を吐いた。マルヤマが穏やかな目で僕を見ていた。相変わらず顔色は悪い。ティを飲むときも、マスクの下をわずかにあけてすするように飲んでいる。
勝ち組ではないかもしれないが、よい男なのだろう。いやそもそも、勝ち組、負け組って一体、誰が何の基準で決めるんだ。マルヤマはマルヤマらしく生きているというスケールでは勝ち組なのかもしれない。
カフェを出ると、じゃ、僕、薬局に行きますから、というマルヤマに、よろしくお願いします、と頭を下げた。以前、母を介護ヘルパーに頼んだ時の気持ちに似ていた。
僕は京子を疲れさせたのだ。ぼくはきちんとするのを好んだから。物はあるべきところにないと落ち着かない。食器の入れ場所が違っていると注意しているつもりはないけれど、口にした。京子はその度、そうね、ひろ君、気をつけるわね、と言った。プレゼントもし、ときどきディナーにも行った。でも確かに京子は少しずつ元気がなくなっていた。
ちょっとしらばく家を出ます。心配しないで下さい。探さないで下さいね。ちょっとリハビリが必要です。
なんのリハビリかと思った。ドラッグとアルコールは考えられなった。だから、恋人ができたんだと思った。
僕はもう一度ハツキコーポに戻り、京子が腹痛で寝ているだろう2階の部屋、2階のバルコニーを見上げた。蔦は相変わらず風に揺れていた。あの蔦、自分かと思ったけど、京子だったんだ。
どこかくっつくところ見つけられるといい、足場が見つかるといい…ぼんやりそう思った。
蔦だった京子を季節になると花を咲かせる観賞用植物と勘違いしていたのかもしれない。京子は随分長い間僕に合わせてくれていたのだ。やればできるじゃないか、の言葉がどれほどプレッシャーになっていたのだろう。
もう、京子は戻ってこない。
僕は仕事もそこそこうまくこなしているし、友人もいる。京子が戻らなくても、持ち前のきっちり度で生活に大きな変化はないのかもしれない。
僕にとって京子はそこまで必要じゃなかったのかもしれない。恋愛結婚だったしいないと淋しい。京子は優しく、よい人間だった。英語は出来たが、勤めは長く続かなかった。どこかふわふわ、時おり落ち込んだ。僕にとって京子はいて当然だったが、京子にとって僕は一緒にいて心地よい存在じゃなかったのだ。だから、京子の精神は揺らいだ。その結果、非難所がマルヤマの家だったってわけだ。
早く治るといい。マルヤマとは連絡を取り合おう。蔦の行く先はどこなのか。あのアパートに根をはるならそれでもいい、僕にもう一度からませてくれるなら、それは凄く嬉しい。けれどもうそれはないだろう。けれど、二度目のチャンスがあるなら、僕はもう二度と、やればできるじゃないか、なんて言わない。彼女を見てただただ微笑もう。僕だってやればできるんだ。あ、今度は自分に言っている。人間、やればできることだけじゃないはずだ。でもまあ、それはそれでいいだろう。僕はこれで頑張ってきたわけだし。
僕はハズキコーポを後にゆっくり歩き始めたが、ふっと振り返った。誰かに見られている気がしたのだ。いや、見守られている気か…。
誰だ…? しかし誰もいなかった。
不思議な、とても不思議なことなのだが、キツネ、丸山、そしてさっきのカフェのマスター、何故かこの何の繋がりもない三人が僕を見守っている気がした。まさに藁にでもすがりたいくらい、僕はよりどころを失っているってわけか。ただ人が放つ静かな佇まいというのがあるなら、今回の京子の蒸発を通じて感じたのかもしれない。キツネから。丸山から。カフェのマスターから。
empathy...
英語が苦手なはずの僕に浮かんできたこの単語。日本語で言うと何だっけ。共感? 共感か。いや、ちょっとニュアンスが違うか…。
そうだ。そうだ。そうだった。いつか、京子が教えてくれた。今、人に必要なのってempathyよね。日本で言う単なる共感っていうのじゃないのよ。empathyってもっと心の中心、奥底からわいてくる感情だと思うの。今、私たちに必要なのってempathyよね。
僕はどう答えたんだろう。一体何の話をしていた時に京子は言いだしたんだろう。はあ?とでも答えたんだろうか。
丸山からの連絡を待とう。こちらからも丸山に電話しよう。そして二人が早く良くなることを祈ろう。そして、またあのカフェに行ってみるのも悪くないかもしれない。あのハウスブレンドのコーヒーを頼もう。苦かったコーヒーだが、コクがあったし悪くなかったのかもしれない。
いわし雲か…。いや、ひつじ雲だ。
荘介は首をがたんと後ろに倒し、空を見上げた。秋晴れだ。昨日の夕方まで降っていた雨は地面に心地よい湿り気を残している。
正真正銘の紛れもない秋晴れだった。
秋晴れの運動会なんて久しぶりだ。随分…随分…久しぶりだ。
大きく息を吸ってみる。空気に香が漂っている。独特な香。清々しい雨上がりの匂い。葉を少しずつ散らし始めた木の匂い。秋そのものの匂い…。
荘介は大空を見上げたまま、その香を味わった。自分の体がすっと空高く上がり、周りの雑音が下へ下へと遠ざかる…そんな錯覚の中、声が聞こえた。
「いい天気になってよかったですね」
白髪混じりの品のよい男が笑いかけている。
「ほんとうに」
荘介も気さくな父親を装って答える。両親が揃っている父兄が多い中、父親のみというのは少数派で、同じ立場の親近感からか、男はひどく愛想よかった。
「桜田です。三年二組の」
言葉を待つ桜田に、荘介も仕方なく口を開いた。
「玉井です。やはり三年二組です」
「玉井さんですか。譲二くんですね」
「ご存知ですか?」
「そりゃ、知ってますよ。譲二くんは有名人ですからね」
どう有名人なんだ? 荘介は戸惑い、「ほお、そうですか」 老人のように少しスローに微笑んでみせた。桜田の様子は、家庭の事情を知っているようには見えなかった。
「ミドリが、よく譲二くんのことを話すんですよ。安心ですね、ああいう息子さんを持つと」
どういう息子だというのだ?
荘介にできるのは、やはりスローに微笑むことだけだった。
三年前、運動会の季節に家を出た。それ以来、家には帰っていない。家と呼ぶのもおかしいか…。もう自分の居場所はない。譲二に電話をすることも手紙を書くこともなかった。会いに行ったこともない。荘介が会いたいと言えば、良美は駄目だとは言わなかっただろう。それどころか望んでいたと思う。
私たちのことは別として、あなたが譲二の父親であることには変わりはないわ。良美が言った確かな響きがまだ耳に残っている。
けれど、やはり、後ろめたかった。どの面下げて息子に会えるというのだ。
後ろめたさか…。本当にそれだけか。面倒だっただけじゃないのか、自分に問ってみる。
新しい生活に足を踏み入れた自分にとって、取りたてて素晴らしいこともなかった平々凡々としたそれまでの生活が全て面倒だったんじゃないのか。煩わしかったんじゃないのか。真由子のためにも、それまでの生活を忘れ去りたかったんじゃないのか。
真由子のため?
荘介は、今朝の真由子の嘲るような視線を思い出した。
真由子のためか…。真由子との生活を壊さないためだったとしても、それは、やはり自分のためだった。真由子との生活の方が良美と譲二との生活より素晴らしい、価値があるものだ、と決めた自分のためだった。
ただ、ごく最近、しきりに譲二のことを思う。
大きくなっただろうな…。写真の一枚も持って出なかったことを悔やんだ。
良美のことも思った。あの、柔らかい笑い声は相変わらずだろうか。
家を出たきり思い出すことも面倒だと決め込んでいた二人のことを最近とみに思い出すようになった理由…それが分かっているだけに荘介の思いは複雑だった。
女々しいようだが、真由子の冷たさが原因だった。追えば逃げる。ゲームの論理はわかっている。だから、荘介は冷静を装った。しかし、彼女の冷たさは過去の温かさを思い出させるきっかけになり、それが荘介の心を波立てた。
二週間ほど前、郵便受けに入っていた一通の手紙。
拝啓
父さん、十月十四日の体育の日は僕たちの中学校の運動会です。母は、仕事で来れません。僕は父さんが来てくれると嬉しいです。都合がついたら、来て下さい。場所は青葉北中学校の校庭です。
敬具
玉井荘介様、白い封筒の表に見慣れぬ字を見たとき、予感がした。これは大切な手紙だ、そんな予感がした。漠然と、真由子関係か…とも思った。真由子の新しい恋人か、嫌がらせか、今の生活を壊す何か…そんな予感もした。
しかし裏返すと書かれていたのは玉井譲二という文字だった。荘介はしばらく頭の動きが止まったように、その文字を見つめた。
封を切って短い手紙を読んだあと、荘介は手に握りしめたまま、喜べばいいのか、煩わしく思えばいいのか、ごく自然に受け止めればいいのか…どう反応していいのかわからなかった。
「あら、お帰りなさい。じゃ、行ってくるわね。久しぶりの集まりだから、遅くなるわ。どこか泊まるかもしれないから待ってないでね。どうかした? なんだかぼんやりしてるわよ」
玄関で手紙を握り立ちつくす荘介に、ドレスアップした真由子が言った。
どこかよそ者を見る視線で真由子は出て行った。その視線の余韻の中、荘介はしばらくそこに立っていた。
譲二か…。
今日、荘介は開会式より少し遅れてきた。譲二に声をかけられるのが恐かった。こっそり行って後ろの方で隠れるように立って見よう。譲二には帰る時に声をかけよう。頑張ったな、応援したんだぞ…。もし話すチャンスがなかったら、後で手紙を書けばいい。そうだ。それがいい…。
ところが、席は十分すぎるくらいあった。案内係の学生に、どちらの組のお父様でいらっしゃいますか?と聞かれて当惑した。三年です。三年何組ですか? あ、玉井くんのお父様ですか。じゃ二組ですね。二組はあちらです。あちらにおかけになって下さい。
否応なしに坐らされ石のように固くなる。譲二は?とさがしてみたが、視線だけが泳いだ。
「次ですよ」
桜田が言う。
はいっ?
「三年生の百メートル走です」
「あ、そうですか。いやあ、教えていただいて助かります。プログラム忘れちゃったものですから」
「それじゃ、譲二くんの順番が来るたびお教えしますよ。ご安心を」
桜田は親しげに笑った。
緊張が荘介の体に走った。百メートル走…。譲二の走るのを見るのは五年生以来だ。
荘介は必死で譲二をさがした。
まだ這い這いしている頃から、譲二は荘介によく似ていると言われた。確かに顔の造作が似ていた。ただ、体型は違っていた。荘介の記憶にある限り自分は背が常に後ろから二、三番目だったが、譲二はひどく小柄だった。私に似ちゃったのね、良美が言った。でもね、可愛い顔に小柄な体型でしょ、小学校ではチビドルくんって呼ばれてるのよ、良美は笑った。
荘介は身長に関しては大して気にしなかった。自分の兄がそうだったように、そのうち伸びるだろうと思っていた。荘介の親戚で背の低い者は一人もいない。
チビドルも随分大きくなっただろう。
「あっ、譲二くんいましたよ。ミドリはあそこだ!」
「目が悪いもんですから、ちょっとわかりにくいんですよ」
「あそこですよ。三列目の右から四番目」
三列目…。右から四番目…。必死で譲二らしき子をさがす。
あれ…か…。
「向かって四番目ですか?」
「そうですよ」
「ああ、そうだ、そうだ、わかりましたよ」
荘介はわざとほっとしたように大声を出した。
「どきどきしますよね、親ってのは」
桜田の声が遠くに感じた。
百メートル走の一組目がスタート。六人の男の子が走ってこっちへ来る。ゴールは斜め横だ。ゴールする瞬間は顔がかなり間近に見える。
二組目がスタート!
荘介の鼓動が速くなった。
次が三組目。
「次ですね」 桜田が言う。
ドン!
走ってくる。五人の男の子が走ってくる。
譲二! 譲二!
見えた。譲二の顔が見えた。確かに譲二だ。最後から二人目だ。いったいどういう組み分けだ? 身長順じゃないだろう。譲二だけとびぬけて低い。その小さい譲二が転がるように走ってくる。頑張れ!荘介は以前のように大声で叫ぼうとしたが、声にならなかった。
「まあ、頑張りましたな」
桜田が言った。
「はあ」
荘介は呆然としていた。自分の気持ちをどうとらえていいのかわからなかった。荘介が思い描いていた三年ぶりに見る息子とは、かなり違っていた。小柄なら小柄なりに逞しくそれなりに成長していると信じて、そんな息子を見ることにひどく感傷的になるだろう自分を想像していた。
しかし実際の譲二は、バランス悪くずんぐりと小太りだった。ゴールにとびこんで来る顔、転がるような走り方、丸々とした身体が左右に揺れる。女体型だ、ひどく客観的に荘介は思った。
「譲二君のおかげで、クラスがどれほど明るくなるか、よくミドリが話してくれるんです。出しゃばらないけど、ここぞというときのまとめ役っていうんですか、いいお子さんですね」
荘介の知っている譲二はひどく恥ずかしがりやだった。引っ込み思案だった。
荘介はなんだか肩すかしをくらったような気分だった。譲二はもう自分が知っている譲二じゃない・・・。そんな風に感じている自分に気づき、その気持ちをふるい落とそうと、肩をぶるっと震わせた。
興ざめか…。自分を嘲笑いたくなった。確かに荘介は興ざめしていた。朝から高ぶっていた気持ちが急速に冷めていく。
「ミドリ! 頑張れ!ミドリ~!頑張れ!! やった! 一位ですよ。ミドリが一位ですよ」
隣で桜田が騒いでいた。
「悪いけど、今日は出かけるよ」
昨夜、何時に帰ったのか、今朝まだ寝ている真由子に声をかけると、真由子は目を開け、少しぴくんとして、一瞬ここはどこだったっけというように周りを見たが、荘介を見るとどこか不自然な笑みを作った。
「あら、そうなの、久々の晴れだっていうから、どっかに行こうと思ってたのに」
言葉とは裏腹にホッとしたような機嫌のいい声を出した。
真由子の機嫌のいい声は久しぶりだった。明らかにその機嫌のよさが休日の自分の不在がもたらすものだと感じ、荘介は皮肉な笑いを浮かべた。
「どこにって聞かないのかい?」
以前の真由子だったら、どこに?どこに? と何度も聞いたものだ。
はいはい、というように、あくびをしながら真由子は聞いた。
「どこ?」
「譲二の運動会なんだ」
「えっ?」
「息子の譲二だよ」
「ああ、譲二くんね。でも、どうして急に?」
「手紙が来たんだ。運動会に来てくれって」
「そうなの」
「うん、三年ぶりだ」
「三年ぶりか…。じゃ、あたしたち三年間もってる…ってことか…」
「…ま、そうだな」
「…ねえ」
「何?」
「あ、うん…別に…」
「何か言おうとしただろ。言えよ」
「…うん…ただ、もう、そろそろだと思ってないかなって…」
「そろそろって何がだよ」
荘介は声を荒げたかったが、出来るだけ平淡に言った。
「うん…。そろそろって思ってないかな…って」
「真由子が思ってるんだろう?」
「え。あたし? 思ってないわよ」
そのあと真由子は小さく笑った。ふふふふふ…鼻に抜けるように小声で笑い、荘介を見た。
「何が言いたいんだ」
「別に…。そっちこそ何か言いたいの? たまには思ってること言ってみたら?」
真由子の目が険しくなった。その視線に、自分が我慢してつないできた小さな糸がぷつん、と切れた。
思わず手が出そうだった。溜まっていた真由子への疑いと怒りが膨れ上がり、想像の中で真由子を叩く自分が見えた。
真由子を叩く…実際に実行に移さないにしてもそんなことを考えるのは初めてだった。
何すんのよ。馬鹿男! 想像の中で頬をぶたれた真由子が頬に手をあて、荘介を睨みつけている。ほんとに馬鹿男なんだから!馬鹿男!もう一度言ってみろ! 荘介が真由子にのりかかり、その肩を揺すぶる。栗色に染まったセミロングの髪が床に広がり、その中で真由子の顔が青ざめていく。
「どうしたの?」
真由子が怪訝そうに荘介を見ていた。
「伸二とはどれくらいになる?」
「あ…知ってた…?」
「真由子が思ってるほど馬鹿男じゃないからね」
「そんなこと思ってないわよ」
ひどく冷たい口調だった。
出る準備をする荘介を、真由子はじっと見ていた。そして口だけ動かす、そんな感じで言った。
「話はもう少し後でと思ってたんだけど、今こんな話になったなら仕方ないわ。…少し、距離を置いてみましょう。よかったらしばらく他に移ってくれるとありがたいわ。もちろんあたしが出てもいいんだけど…荷物あたしのものが多いし…」
実際の真由子は言っていなかったが、荘介の頭の中の真由子は言う。
ここ、あたしの名義だしね…。
終わった…。
荘介は思った。
真由子に誠意のないのはわかっていた。三年も暮しているのだ。自分と別れるきっかけを待っているのも感じていた。ただ、男の家庭を壊して一緒になった仲だ。男をたぶらかすだけたぶらかし捨てた、と思われたくなかったのだろう。自分名義のマンションのローンを払わせるだけ払わせるのも悪くないと思ったのかもしれない。延ばせるだけ延ばして、荘介の方に別れるきっかけを作らせよう、それが彼女の策略のようにも思えてきた。
これまでも喧嘩はした。真由子は泣きじゃくって見せた。ろくでなし! そうも言ったが、それには甘えのトーンがあった。真由子が言うろくでなしは、シャンソンに出てくるろくでなしだった。けれど、今日は違った。真由子はろくでなし、という代わりに、その目で、馬鹿男と言ったのだ。
終わりだ…。
晴天下、万国旗翻る中、真由子との一連の出来事を考えると、この三年間のことが遠いところで起きたことのようにも思えてくる。何夢見てんのよ、と良美に揺り動かしてもらったら、真由子とのことは夢の中のことと忘れられたら、一瞬そんなことも思った。譲二はまだ5年生のままで…。
良美…。
良美を思った。親不孝息子が母を思う懐かしさで良美を想った。
素朴で優しい女だったと思う。驚きや称賛の目で見たことはないが、存在そのものが優しかった。彼女に何の不足があったわけじゃない。ただ……。
あの頃、真由子を取り巻くすべてが新鮮で美しく思えた。洒落たカフェで真由子がつまむ薄っぺらなピザ。真由子の美しい指先が、身なりに構わぬ妻の洗剤負けした手を見慣れていた荘介にはまぶしかった。
真由子の好むなんとかというブランドの靴、繊細なラインを描くドレスを着て微笑む真由子、流れるような視線。見せるためのナイトウェア。荘介はときめいでいる自分を感じた。
荘介にとって真由子は何だったのか。真由子は荘介の満たされぬ思いに入り込み、そのまま居座った何かだった。良美は誠実で子供はそこそこ健康で…それゆえエキサイトメントがなかった。贅沢な話にしても…。
荘介は若い頃、都会的な暮しに憧れてきた。小さい頃から漠然と。都会的な暮しとはいっても幼稚な想像の域を出なかった。ハイウェイのテールライト。高層ビルのイルミネーション。北欧製のシンプルにエレガントなインテリアグッズ。クリスマスシーズンが持つ華やいたエキサイトメントと、フィルムノワールが持つ冷めたスタイリッシュさ。
都会暮しにはそんなイメージがあった。荘ちゃん、田舎に置いとくにはもったいないねえ。おばちゃんがもう二十才若かったら荘ちゃんに惚れちゃうよ。親戚のおばさんの言葉を聞きながら、自分には都会的な容貌とセンスがあると信じていた。
天才ではなくとも秀才だった。だから、漠然とした夢があった。漠然としたドリームがあった。しかし実際の都会暮しの中、計画性のない夢はファンタジーで終わり、輝きはいつしか失われた。昼は会社に努めながら、夜は税理士の勉強をし始めた。
都会暮し十年目、ひなびた独身寮暮し四年目にして良美に会った。会社の運動会に関連会社のOLとして参加していたのだ。小柄な体に空色のトレーニングウエア、真っ白のサンバイザーが清々しかった。ストレートな視線、弾けるように動く瞳。「召し上がる?」ぎっしりと色よく詰められたお弁当に箸を伸ばし、「うまいね、君が作ったの?」と聞くと、「いいえ、ほとんど姉が」と答えたその素直さが気に入った。
良美と会って荘介は落ち着きを取り戻した。当時荘介は疲れていた。心が潤いを失い、蓮根のように穴空き状態。そこを心無い言葉や視線や状況という名の都合屋がヒューヒュー通り抜けていく。そんな荘介に良美は水を与えてくれた。荘ちゃん、目が輝いてきたよ、叔母が言い、玉井くん、何かいいことでもあったのかい、上司が聞いた。
結婚は自然のなりゆきだった。激しい恋愛感情はなかったとしても。良美への思いは、植物が水を欲しがる、魚が水面に顔を出し、酸素を求めてパクパクするのに似ていた。
なのに、時が経つと、何かが不足して思えた。良美は荘介に陽を降り注いだが、それだけては物足りなくなった。水と陽光でそこそこ素朴な葉をつけた植物は、落ち着くだけ落ち着くと魔力の一滴を渇望し始めた。
そうだ、満たされた生活が十年以上続き、荘介は自分を輝かせる何かに飢えていた。もう光と水だけではだめだった。自分を輝かす妖しい輝きが必要だった。良美は一年一年肉付きがよくなり、瞳の美しさに変わりはなかったが、二人の間にときめきは残されていなかった。譲二は顔こそ荘介に似ているが、どこか愚鈍に思えた。自分のような繊細な感覚がない。何をやっても目立たない。自分はもう少し可能性を秘めた子だった。それが今では普通、平凡を絵に描いたような生活をしている。じゃ、この子はどうなるのだ。自分への失望を妻と息子に向け、生活はつやを失い、荘介の苛立ちは高まった。
そんなとき真由子が現れた。少年時代のようなときめき。華やかなシーズン再来の可能性を感じさせた。どこかしらクールな香りも鼻腔に漂い始め…荘介は傍から見ればおかしいほど真由子に魅了されていった。
良美は荘介の浮気を知っても取り乱すことはなかった。問い詰められたら浮気じゃなくて本気だ、と言ってやろうと思っていた荘介は拍子抜けした。どうして? とか、私たちの生活費はどうするの? など聞くことなく、「運動会には行ってやって下さいね」と彼女は言った。荘介は肩すかしをくらったように良美を見た。
「荘ちゃんの心が私や譲二から離れていくの、感じてたわ。でも、どうしようもないわね。私は私なんだし、私じゃないものを欲しがってる荘ちゃんをどうしようもないわよね。だから私はいいの。でも譲二は傷つけてほしくない。父親の心が離れてくって耐えられないと思うの。譲二には何の罪もないんだし…。それにあなた、あの子のヒーローなんだから。運動会にあなたの声援がないとあの子気落ちするわ。あなたはあの子のヒーローなんだから」
ヒーロー…か。「頑張れ!頑張れ!」と、運動会で譲二を応援する自分の声が聞こえ、自分がヒーローになりたいのか、譲二にヒーローになってほしいのか、混乱した。「行ってやってね」 良美が見つめた。しかし、荘介は首を縱に振ることができなかった。
真由子との時間…。ほろ酔い気分で肩を抱き、眠らぬ街を歩く時間…。灯りを消したマンションの中での真由子との時間…。彼女との様々な時間に酔っていた荘介には、運動会での子供の応援は過去のものに思えた。正直、したくなかった。人知れず潜ろうとしている輝きのある世界から摘み上げられ、炎天下にほおりだされるような気分になりたくなかった。
「出来ないかもしれない…」
その言葉に、良美は泣いた。その時初めて泣いた。涙を頬に伝わせ、静かに泣いた。
そんな良美を置いて、荘介は出ていった。人間冷たくなればなれるもんだ、と思った。「ごめん」とも言わず、フィルムノワール気取で出ていった。家庭を捨てるのも大したことではない、と思おうとしたし、実際大したことだとも思わなかった。真由子のこととは関係なく心は既に離れていたのだ。ここは自分にふさわしくない場所だ。馴れ合いだけでいる場所ではない。人生一度しかない。心の中で都合のいい言葉を並べ立てて出ていった。良美が涙あふれる目でじっと見つめて立っていた。それが良美の唯一の抵抗だった。
家を出て三ヶ月目には給料の振り込み先を自分の新しい口座に変えた。良美に残した通帳には数百万の金が残っている、マンションのローンだけは払い続けよう、これで良美たちは住むところには困らないはず。最初の数ケ月こそ生活費を送金したが、そのあとストップした。真由子を喜ばせるに金はいくらあっても悪くはない。いつまでも真由子のマンションに居候するわけにいかない。新しいマンションを借りるにも、時折のプレゼントにも、洒落たレストランでの食事にも、金は多い方がいい。
良美には電話はした。「こっちもいろいろ入用なんでね」そう言う荘介に、良美は小さなため息をついたが、そのあと比較的明るい声で言った。「大丈夫よ。出来る範囲でしてくれればいいわ」
荘介はそれを信じた。心から信じたわけではないが、その都合のよさに甘えた。良美の実家はスーパーを二店経営している小金持ちだ。これまでもいろいろ援助してもらっている。良美と譲二くらいどうにでもなるはずだ。良美に残したマンションのローンだけでも毎月かなりの額になる。払い続けた後は、良美たちの財産となるのだから、それで許してもらおう。そうだ、それでいい。荘介は良美の「大丈夫よ」の言葉をビンに入れ、固く固く蓋を閉めた。
いろいろ反芻しているうちに、荘介は息苦しくなってきた。吸って吐いて吸って吐いて…。こんなことは初めてだ。もう若くはないのだ。ここで急に倒れても不思議はない。
荘介に何かあっても誰が悲しんでくれるわけでもない。しかし、少なくとも真由子より、良美と譲二の方が悲しんでくれるだろう、そんな気がした。なのに、真由子のために二人を捨てた。実のない「何か」のため二人を捨てたのだ。
時計は十一時をさしていた。昼の休憩は何時からだろう。譲二は声をかけてくるのだろうか。荘介は急にパニックに陥った。どんな顔をして譲二に会うというのだ。もう、荘介の知っているあの幼い譲二ではない。はちきれそうな顔と体をした譲二、いつの間にかクラスのまとめ役になった譲二なのだ。
荘介はいたたまれなくなって立ち上がった。
「すみません。ちょっと急用を思い出して…」
「戻ってこられますか? 譲二くんが探しに来たら、どう言いましょうか」
「あ、はあ。多分戻ります」
もつれる舌でそう言い、荘介は門へと急いだ。
中学校の周りは閑静な住宅街だった。一つ一つの家は小ぶりだが、それぞれ品よく建ててある。建て売りではないな、荘介は思った。
良美とマンション探しをしたのは、譲二が生れて数年目だった。二人とも社宅暮しに嫌気がさし、そろそろマンションを買うのもいいと思ったのだ。さすがに良美の親には頼めず、一軒家には手が出なかった。
良美は週末になると新聞に挟まれた不動産の広告を見てはため息をついた。買える買えないにかかわらず、一つ一つを丁寧に見てはため息をつく良美。そんな良実に愛情を感じていた。いい暮らしをさせてやりたい、譲二をいい環境で育てたい、そう思っていた。
何が変わってしまったんだ。
わからない。理由なんてない。今は考えたくない。しかし……。
自分以外責める対象は見つからなかった。妻への愛情のみならず、息子への愛情も無くした自分を責めるしかない。無くしたのだろうか、それとも常に存在していたが、他に目がくらみ相対的に無に思えたのか。馬鹿な…。相対的に無に思える愛情なんて真の愛情じゃない。今だって良美や譲二のことを思うのは、真由子に捨てられたからだ。淋しいからだ。それは愛情じゃなく、身勝手な淋しさでしかない。
真由子…。
未練があるのか…。
ある、と思った。真由子の人間性はともかく、未練はあった。いや、真由子といることで自分につく付加価値に未練があった。真由子がいなくなれば、自分は結婚に失敗し、女に捨てられた駄目男だ。惨めじゃないか…。
しばらく荘介は真由子に夢中だった。自分には手に入らないと思っていた美しく洗練された雰囲気をまとった女…。
真由子に何かをしてもらおうと思ったことはない。ただ、真由子と一緒にいる自分が前より価値ある男に思えた。真由子は安心感を与えるかわりに張りを与えてくれた。家庭とはほど違い、永遠に続くとはとても思えない刹那の感覚がクールだった。そしてその感覚に荘介は酔った。
しかし、真由子は自分に飽きてしまった。妻子持ちの憂いある男と恋におちたつもりだったが、男はいつの間にか平凡な取り柄のない中年男になっていた。思えば、真由子が長く愛用しているものなんて何一つないじゃないか。自分は飽きられずにいた方だ。一体、この三年間は何だったんだ。真由子に対するのは愛などではなく錯覚だったとわかったところで、前より利口になったと誉められるものでもない…。
運動会には戻りたくなかった。荘介は小さな公園のベンチで置物のように腰掛けたまま動かなかった。このまま、固まってしまいたかった。真由子と暮し始めたときに転職した会社での先も見えている。税理士の勉強も途中で辞めてしまった。父方の叔父が税理士になるなら自分の税理士事務所で働け、後を継いでもいいしなどと有難いオファーをしてくれたが、試験に受からなければしょうがない。
うぉぉぉぉ・…・。小さな呻き声がもれた。
名義は真由子でも実際に頭金とローンは荘介が払ってきたあのマンションから自分は追い出されるのだ。
貯金なんてもうほとんどない。ワンルームマンションでも借りて住むにしても、もう若くはないのだ。もう一度、新しく女を探して一緒に暮らす自信も意欲もない。
時計は一時をさしていた。二時間も感傷に浸っていたのか…。
戻らなければ、と思った。あなた、譲二のヒーローなのよ、良美の声が聞こえてくる。ヒーローはともかく、あの手紙を譲二がどんな思いで書いたのか。何を無責任な父親に言いたかったのか。戻って、声をかけることが、今自分に出来る唯一のことだ…。
会場は午前より活気づいていた。明るい歓声があがっている。
「やあ。お帰りなさい」
桜田は古くからの友人を迎えるように言った。
「譲二くん、障害物では活躍しましたよ」
「そうですか」
「ええ。なかなか頑張ってました」
詳しく言わないところをみると、順位的には大したことなかったのだろう。
荘介は運動会ではいつも一位だった。何をやっても一位だった。運動会の日はいつも心地よい緊張感で満ちていた。走り出すと、自分が大きく感じた。胸でテープを切る気持ちよさ。玉井くーん、という女子生徒の歓声。最高だったな、あの頃は…。
「今度が譲二くんの最後の種目ですよ」
カップルで走る二人三脚だった。譲二は彼より十センチは背が高いすらりとした女の子と組んでいた。
「かおりくんです。いわば二組のマドンナですよ」
荘介は頷いた。
譲二とマドンナの組がアンカーだった。どうしてよりにもよってアンカーなのだ。荘介ははらはらもしたし苛々もした。
譲二たちにバトンが渡ったとき、僅差でトップだった。その譲二たちを三組が追っている。
最悪だ。トップでバトンをもらい、抜かれてゴールするほど格好悪いものはない。
荘介は目をつぶった。見てられないとはこのことだ。
大きな歓声が上がった。目を開ける。譲二たちが抜かれようとしている。
あ・あ・あ・あ……
荘介は立ち上がった。
「じょうじぃぃぃーーー、頑張れーー!」
叫んだ。立ち上がり叫んだ。
叫びながら、どうにでもなれ、と思った。勝ち負けじゃない。自分のことだ。どうにでもなれ。真由子が別れたいならそれもいい。一人で暮すことになればそれもいい。もう、どうにでもなれだ。
「頑張れぇぇぇぇー!! 頑張れ、頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れぇぇぇぇぇ!!!」
のどか張り裂けんばかりに叫んだ。溜まっていた体の淀みを吐き出すように叫んだ。狂ったように叫んだ。
と、その瞬間、譲二が揺らいだ。譲二の周りの空気が揺らいだ。譲二が変化した。変化…? 変身…? ウォンバットに似た毛の短い動物の顔…。
は…? 頭が狂ったのか? マドンナと二人三脚しているのは顔中にみっちりと焦茶の毛を生やした小さな目をした生き物だった。体型は人間なのだが…。
な、なんなのだ…?ついに頭が狂ったか?
次の瞬間、コーナーをまわる譲二は人間の顔に戻っていた。
結局、譲二たちは三位だった。遠目にみる譲二は、別に負けて悔しそうな様子にも見えなかった。足のロープを解きながら、組んだ女の子と談笑している。
ロープを解き終わって立ち上がった譲二がこちらを見た。荘介を見た。さがす様子なく、真っ直ぐに見たところを見ると、荘介のいる場所を知っていたに違いない。
荘介は手を振った。手を振りながら涙が出てきた。荘介は笑いながら泣いた。涙の栓をポンと弾き跳ばされたかのように、荘介の涙は止まらなかった。ありがたいことに、そんな荘介に異様なものを感じたのか、桜田は話しかけてこなかった。
閉会式が終わり、譲二が近づいてきたとき、良美に似ていると思った。三年前までは自分にそっくりだと思っていた譲二が、良美によく似ていた。
「ほおー、譲二くんはお父さん、そっくりだね、こうやってみると」
桜田が声をかけた。
「似てますか?」
譲二が言った。声変わりしたその声は、もはや荘介の知らないものだった。
片づけが終わったら行くから待ってて、と譲二は喫茶店の名を言った。カフェ・ハーヴィという歩いて十分ばかりのカフェだった。中学よりは小学校に近いところで、以前、譲二を何度か連れていったことがある店だった。
「ああ、いいよ。父さん、今日は一日空けてあるから」
父さんという言葉がのどにひっかかった。
譲二は少し照れたような目で荘介を見た。と小さい頃の譲二の顔に重なり、荘介は動揺した。
☆
どこにでもありそうなウッディな雰囲気で統一された店だった。荘介は奥まったテーブルを選んですわった。かなり大きな金魚鉢が角のテーブルに置いてあった。中には水草しか見えない。
真由子のマンションに初めて泊まった夜、暗い部屋で熱帯魚の水槽だけが輝いていた。
明るく透明感のある水槽がひどく輝いて見えた。それは真由子との関係を象徴しているように思えた。良美とのマンションの玄関脇に置かれた餌のこびりついた水槽の中で、どこか不格好に泳ぐ金魚に比べ、真由子の熱帯魚はキラキラと尾を揺らめかせ、美しかった。
けれど真由子は育てていたのではなく、飾っていたのだ。サービス期間だけ水槽ごとレンタルしていたと後で知った。
飾っていた…か。育てるのではなく飾る…。
自分だ。真由子を責める資格はない。自分もそうだ。愛情を持って家庭を育てる。子供を育てる。妻との愛情を育てる。真由子との生活を育てる。自分は全てに失敗した。飾り物に目がくらみ、育てるのに失敗した。
荘介がぼんやり金魚鉢を見つめていると、カランカランとドアが開いた。
逆光を受け、譲二が入ってきた。譲二はすぐに荘介を見つけ、少し頭を下げ、荘介の前にすわった。
「ほんとにいい天気だったなあ」
譲二がすわるなり、荘介は言った。沈黙が恐かった。
「うん。天気予報が違ってよかった」
譲二は答えたが、笑顔ではなかった。緊張したようなどこか顔の一部が痺れているかのような不自然な表情だった。
「何にする?」
「コーヒー…かな」
「コーヒー飲むのか」
「飲むよ」
譲二は小声で言った。目は伏せたままで、首を傾け肩を上げてすとんと下ろした。小さい頃から緊張するとよくやっていた仕草だ。
「今日は呼んでくれてありがとう。父さん、嬉しかったぞ」
「うん…」
譲二は少し顎を上げ、荘介と目を合わせた。
体重が増え、顔がふっくらしたからか、以前より目が寄って見えた。睫毛の濃い目を神経質そうにパチパチさせる譲二を見ていると、どことなく狸に似ていると思った。以前、良美と行ったペンションの山道でとび出してきてライトにあたってびっくりした狸に。
久しぶりに息子に会って思うことか…。荘介も気がつくと肩を上げてはすとんと下ろしていた。それにしてもあの時一瞬見えたウォンバットのような顔…。あれはなんだったのか…。深い焦げ茶色の毛に埋まった小さな黒豆のような目。自分の心の揺らぎが見せた一瞬の幻だったのか。
譲二はそんな荘介をしばらく見ていたが、「この席さ、よく来るんだ。友達と」と視線を合わせず言った。
「ふーん。そうなのか」
「その子といつ来てもなんとなくここにすわるんだ」
「いつ来ても…って、そんなに何度も来てるのか」
まだ、中学生だろ、出かけた言葉をのみこんだ。
「うん。塾のある日はさ、母さん、ここで食べなさいって」
そうか。そういうわけか。
譲二と顔なじみらしきマスターがやってきたが、コーヒーお願いします、と言う譲二に続いて同じものをと荘介が言うと、わかりました、と譲二に微笑んで、荘助をチラリと見た。視線の鋭い男だった。半分ほど白髪になっているが、まだ若いだろう。少なくとも自分よりは。荘助は思った。
「普段は自分で作って食べるんだけどさ、塾の日は時間がないから。ここのドリアうまいんだ」
「自分で作るって、料理好きなのか、譲二は?」
「ま…まあね」
「母さんが作ってくれるだろ」
譲二はそれには答えなかった。
「で、その一緒に来る子ってガールフレンドかい?」
荘介は真面目すぎず、茶化しすぎず、聞いた。
「うん…まあね。水泳部なんだ。いつまででも潜ってられる。だから、人魚って言われてる。ほんとはアルパカに似てるんだけどね」
譲二は笑った。あたたかい笑い声だった。そして荘助を見た。僕がウォンバットに似てるみたいにね、そんな譲二の声が聞こえた気がした。
「二人三脚組んだ子かい?」
「えっ? ああ、あの子は違うよ」
そう言って、譲二は額を掻いた。そのまま髪に手を入れ、しゃりしゃりと頭も掻く。その音に、荘介は少し苛立った。一体何のために譲二は自分を呼んだんだ。
「高校決めたのか?」
「うん、まあね」
譲二はそう言い、受験校の中でも難易度の高い高校の名をあげた。入れるのか?驚きの声をあげそうになったが、「すごいな。譲二は父さんよりずっと頭がいいんだな」と、嬉しそうに声を出し、それ以上は聞かなかった。
「父さん、今日はありがとう。父さんにいつ会ったらいいかなって思ったとき、やっぱ運動会だろって思ったんだ」
「そうか…」
「僕さ、ずっと父さんに会わなきゃって思ってたんだ」
譲二の真剣な眼差しに、荘介はできるだけ軽く、どうしてかな?というように視線を返した。
「…でも…会ったら、もっとにこやかにすらすら言おうって、何度も頭の中でシュミレートしてたのにうまくいかない…」
譲二は自分に対してつぶやくように言い、小さく頭を振った。
「どんなことでも言ってごらん」
「ルーザーにはならない」
「えっ?」
「父さん、僕が小さい頃、何かあると言ってただろ。ルーザーにはなっちゃだめだって」
ルーザーか…。そういえば、そんなことを言っていた…。
「Don't be a loser」 英語弁論大会での荘介のスピーチのタイトルだった。何を書いたのか、はっきりは覚えていないが、人間には二種類ある、ルーザーかファイターかで、ファイターであることを止めたとき、ルーザーになる、だからじっとしていては駄目なんだ、努力を続けるべきなんだ、ルーザーであってはいけない、努力をストップしてはいけない、そんな内容だった。ちと観念的すぎるな、英会話部の教師が言った。
「そう言えば言ってたかもしれないな」
「うん、しょっちゅうね。運動会のときも、譲二、ルーザーになっちゃだめだぞ、頑張れ!頑張ればいいんだ。だめだと思って立ち止まる、そしたらルーザーだぞ、ビリでもいい、最後まで走れ、そしたら勝ちだ。自分に勝つんだ。相手なんかどうでもいい。自分に勝てって…。あの頃はよくわからなかったよ、父さんの言うことが。でも今ではわかる。わかるようになったよ」
譲二は今はしっかりと荘介を見ていた。目の形は荘介に似ているが、瞳のもつ陽気さは母親似だ。パッと見には母親の目とは似ていないが、荘介を見つめる瞳の陰りのない明るさは、まぎれもなく良美のものだった。
「譲二、大きくなったんだな。そんなにしっかり考えるようになったのか…」
「うん…。でも…父さんがいなくなって、僕さ、少しぐれたんだよ。小学六年でどうぐれるんだって思うだろ。でも十分、りっぱにぐれたよ。…タバコも吸ったし、行っちゃいけないって言われるとこにもいっぱい行った。毎日毎日さ。自分でもどうでもよくなってさ、なんだか、何をしても駄目だ…みたいなそんな気がして…。でも、ある時さ、父さんの声が聞こえてきたんだ。Don't be a loser っていうあれだよ。日本語では「負け犬になるな」だろ。でも Don't be a loser ってのはすごくカッコイイんだよな。変だろ。父さんがいなくなってぐれてんのに、父さんの声が聞こえて立ち直るってのもさ」
真摯な真剣さで譲二は続けた。
「そうなんだよ。父さんのその言葉思い出して、止めたんだ。ぐれてみるってのをね。それから、どうしたらルーザーにならなくてすむか考えた。僕なりにね。父さんの言ってた自分に勝つって何かなって…。それでさ、まず自分を責めるのをやめるって決めたんだ」
「自分を責めるって…何責めるんだ?」
「…僕のせいだ…って思ったんだ」
「何が?」
「母さん、いい母さんだったろ。父さんに対してもいつもすごく優しい母さんだったよね。だから、父さんが家を出る、家に魅力がなくなるってのは僕のせいだって思った。もちろん理屈ではわかるさ、父さんは女の人のために家を出たんだって。直接の理由はそうでもさ、僕小さい頃からずっと感じてたんだ。僕は父さんをがっかりさせてるんじゃないかって」
荘介は息をのんだ。譲二に見破られていたのだ。今日だって、荘介は久々に見た譲二に自分勝手にがっかりしたのだ。譲二は気づいていた。小さい頃からずっと気づいていたのだ。荘介の気持ちを見抜いていたのだ。
「だけどやめたんだ。どうしたらルーザーにならなくてすむかって考えて止めたんだ。父さんが英語なら僕も英語だ。僕はまずポジティヴにって思った。もっと前向きに気楽にって。そしたら、ほんとに気が楽になった。しばらくかかったけどね。嫌なことの中にもポジティヴなこと、いいこと探そうって思った」
マスターがコーヒーを二つ持ってきて置いた。譲二の前にはクッキーが数枚のった皿も置いた。
「僕、思ったんだ。父さんが出ていった…。嫌われるのを怖れてた父さんがいないってことだ。それならそれでいいじゃないか。父さんが出てったとしてもそれは僕のせいじゃない。僕は僕らしくいればいい」
うん…。
「ほんとうに、僕までぐれたら、母さん、可哀相だ。母さんは無条件なんだ。父さんがいなくなっても母さん優しくてさ。母さんは無条件に…」
無条件に自分を愛してくれる。自分を受け入れてくれる。譲二はそう言いたいのだ。父さんと違ってさ、と。
「元気かい、母さんは?」
「うん、元気だよ」
譲二はそれだけ言い、しばらくどうしようかと考えているようだった。
「ある晩、ふと起きてキッチンのぞくと、母さんがテーブルの一点見つめて坐ってたんだ。テーブルには一本、ビンに入ったカクテルがあってさ。ほら、カクテルバーとかってシリーズのあれさ。メロン色だったから、何なのかな。酒に弱い母さんだから、半分しか飲んでないのにもうかなり酔ってるんだ。その母さんが僕の手をとって言うんだ。ジョウジィ、細かいこと気にしちゃ駄目、図太く生きるのよ。そう、図太く、ってそう母さん言ったんだ。ずぶとく。母さんはその言葉、ずっと自分に言い聞かせて頑張ってきたんじゃないかな。いい言葉だって思った。すごくいい言葉だって」
「図太く…か」
「うん…。父さんのDon't be a loser ってスマートさはないけど、すごくいい言葉だって思った。その日から父さんのDon't be a loserって言葉を思い出すたび、「ずぶとく」って言った母さんを思ってさ。母さんの「ずぶとく」にはなんだか凄いパワーがあるんだ。……祈りかな」
「祈り…か…」
「うん、僕の中にも母さんへの無条件の何かがあるって感じて、そしたら、僕の中からこだわりが消えた。父さんの「ルーザーになるな」にはないパワーってのにそのとき気づいたんだ。そしたら、僕の中で重要なことの順番が変った。父さんに気に入られなくたっていいじゃないか。父さんが気に入ってくれなかったって大した問題じゃない、って心から思えるようになった。だから、ここ数年はね、何でも一生懸命にやってきたよ。びくびくせず思いっきり。図太くね。結構きつかったし、何度もやめようかと思ったけど。でも…少しずつだけど、毎日が少しずつ素敵になった」
そこまで言うと譲二は大きく息を吐いた。緊張していたのか、肩を小さく上げ下げした。
荘介は譲二を見つめ、微笑もうとした。しかし顔の表面がぴくぴくしただけだった。
中学三年、十五才の子がこんなにも必死に自分の心を語らなけれぱならないのは自分のせいなのだ。自分を責めながらも荘介は息子の成長に目を見張った。早く話だけ聞いて帰りたいと思っていた自分の横っつらを張り倒したくなった。
「そうなんだ、父さん。少しずつだけど素敵なことが起きてきた。すごくゆっくりだったけど…。人魚とも友達になれたし、盆踊り大会で優勝したり、アイデアコンクールで一等とったり、くだんないことだろうけど、僕にとっては快挙なんだ。母さんのずぶとくって言葉を聞く前の僕だったら、考えもしないことだよ。今日の運動会だって、前の僕だったらチビだし、一等取れないから格好悪いって、父さんに来てもらうなんて考えもしなかったと思うよ。でもだからこそ今日は父さんに来てもらいたかったんだ。どうしてもね。以前なら、格好悪い自分見せるの嫌だったよ。今日の運動会での僕、前だったらきっとかっこ悪い、恥ずかしいって父さんに見てもらいたくなかったと思うよ」
「かっこ悪くなんかなかったぞ。二人三脚なんかなかなかのもんだったぞ」
口ごもったように言う荘介を譲二は静かな目をして見ていた。もうさほど緊張しているようにも見えなかった。ただその目は少しだけ潤んで見えた。
「いいんだよ。父さん、無理しなくても。もう父さんの知ってる僕じゃないんだ。だから今日は父さんに来て話を聞いてもらいたかった。来てもらって、僕は今の自分をちっともかっこ悪いと思ってないってこと、父さんが僕のこと気に入らなくても仕方がないってこと、はっきり言っておきたかったんだ。…父さん、僕はね、父さんの前ではいつも父さんの理想の子でいたかったよ。父さんかっこよくて、自慢のパパだったからね。だから父さんの前ではいつもびくついて本心を言ったことがなかった気がする。だから一度でいいから、父さんに本当に思っていることを自分の言葉で言いたいって思った。そうすることが僕にとっては父さんのいうルーザーにならないことだって思ったんだ。もしそれが、父さんのいうルーザーになるな、と意味が違っても仕方がないよ。僕は僕なりにルーザーにならないことで、応援してくれた父さんに返すしかない」
うん、うん、荘介は声に出さずに頷いた。
「だから、言うよ。父さん言うよ。僕は僕なりに一生懸命生きてるんだ。だから父さんが僕のこと気に入らなくても僕のせいじゃない。僕がかっこよく一等取れなくっても、そんなの問題じゃない。僕は僕なんだから。体裁なんか気にして努力やめたら、それってルーザーだ。僕はルーザーにはならないよ。父さんが出ていったって、ルーザーにはならないよ」
「すまない…すまない…」
荘介は涙が出そうになるのを抑え、下を向いた。
「父さん、僕、ちょっと前までは父さんに感謝してたんだ」
感謝?
「大人のことはまだ僕にはわからないよ。ただ、母さんは、父さんが譲二の父さんであることは変わりない、だから譲二が困らないようにって、それはきっちり考えてくれてるのよって、いつも言うんだ」
「母さんが…そう言うのかい?」
「うん。母さん働き出したときもさ、母さんが働くのはね、自分に甘えちゃいけないからなのって。父さんがちゃんと困らないようにしてくれてる。でも、父さんには父さんの生活があるし、いつまでも甘えてちゃいられないわねって。おじいちゃんのスーパーが倒産してからは母さん、危機感っての持っててさ」
「倒産…したのかい?」
「うん。父さんが出てった翌年だよ」
荘介は言葉を失った。良美は…どうやって生活して来たのだ。
「父さんがお給料ほとんど全額送ってくれるのって、母さん、ずっと言ってきた。だから、父さんが出ていったの最初つらかったけど、父さんも出来る限りやってくれてるんだろうって思ってた」
「……」
「でも、父さん。最近では僕もさすがにわかるよ。父さんがお給料のほとんど送ってくれてるんなら、母さん、あんなに朝から晩まで働くことないだろうって。父さんが…僕のこと、考えてくれるんなら、会いに来なくても、手紙でも電話でも、何でもいいから、忘れてないぞって言う方法はあるだろうって。母さんは僕のために、父さんのために嘘をついてたんだなって今ならわかるよ」
…すまない……。
荘介はどうにも顔を上げられなかったが、出来るだけ譲二を見ようとして、譲二と自分の間の空間を見た。
「僕も母さんもしっかり前に進むには、とにかく会って自分の気持ちを父さんに伝えなきゃって思ったんだ」
「…うん、わかった。譲二の言うことよくわかった。父さんは譲二のことプラウドだよ。すごく成長したんだな。父さんが知らないうちに」
荘介は早口でうなづきながら言ったが、自分の言葉がどうにも虚しかった。ライトに当たって逃げ出さなければいけない狸は自分なのだ。
言うべきことを言い終えた譲二は、コーヒーカップに手を伸ばした。
話し終わるのを待っていたのか、マスターが空になったグラスに水を入れに来た。
「マスター、おいしいね、このコーヒー。マスターが仕入れた何とか農園のコーヒーってやつ?」
そう言う譲二にマスターはにこやかに頷いたが、荘介を見る視線は鋭かった。
そのあと、二人はゆっくりとコーヒーを飲んだ。どちらも、ほとんど話さなかった。ただただ、コーヒーをゆっくり飲んだ。
カップが空になると、譲二は真っ直ぐに荘介を見た。
「父さん。今までかっこいいことだけ言ったけど、今からはちょっと違うことも言うね。父さん、僕はアル中になりかけてるんだ。母さんの買ったアルコール飲料、母さんの代わりに全部飲まなきゃって気になって。母さん、飲めないのに無理して飲んで、ベッドにいく前に倒れてたりするから。捨てればいいんだろうけど、母さんの代わりに自分が全部飲んでやるって気になってさ。そしたら、どんどん飲めて、顔も赤くならなくって。自分はアルコール飲める体質なんだって知った。母さん、もう買ってこないけど、自分で買って飲んでしまう。あと…さ…父さん…今日見えたよね」
「えっ?」
「僕が見えたよね。僕が一瞬、見えたよね。人ってさ、時々、いつもは見えないものが見えるんだ」
「じゃ…父さんが…狂ってたわけじゃないんだ」
「違うよ。ただ、父さんの感覚がとても研ぎ澄まされてる状態だったんじゃないかな」
「譲二みたいな子は結構いるのかい?」
「子だけじゃないくて大人もいるよ」
荘助の頭にいくつもの疑問がボール球のように弾け合い、ぶつかり合いった。
「じゃ!」
そう言い、譲二は立ち上がった。荘介も立ち上がった。
荘介より二十センチは低いだろう譲二が大きく見えた。いや、自分が小さくなったのだ。
「今日は来てくれてありがとう」
譲二は言った。
立場が逆転していた。譲二の方が人間が大きい。のんびり者で愚鈍ですらあると思ってきた譲二の方が、ずっと大きい。のんびり者じゃなかったんだ。愚鈍じゃなかったんだ。器が大きいんだ。これから、大きな大きな人間になっていく強さを持っている。幼くして愛情の意味を知っている。良美のずぶとくの言葉を受けとめ、自分を強くさせる心の厚みを持っている。そして譲二は何か不思議な力と形で存在しているのだ。
わけがわからない。わけが…。
もう何がなんだかわからなかった。
荘介は泣けてきた。泣けてきたが、涙は出すまいと必死でこらえた。
薄っぺらな父親だ。本質よりイメージに躍らされた愚か者だ。
ごめん。譲二。ごめん。荘介は心の中でつぶやいた。
「じゃ、人魚って彼女によろしくな。今日は父さん嬉しかったぞ。お酒はやめられそうかい?」
「やめてみせるよ。僕、まだ15歳なんだから」
「そうだな。15歳だ。まだ15歳だ…」
そういい、荘介は少しすすりあげて泣いた。自分でも止められなかった。みっともないと思ったがどうにも止められなかった。
それでも力の限り明るい声で言ってみた。
「近いうちに会おうな。父さん、もう少しまとまな人間になる努力するよ。母さんにも会うよ。ごめんな。ごめん…」
譲二は少し青ざめていて、笑顔はなかった。荘介も微笑むことが出来なかった。
譲二は出て行き、荘介は深く椅子に体を静めた。顔がこわばっていた。体がこわばっていた。心がこわばっていた。ぼんやり藻のような水草だけが頼りなげにゆらゆら揺れている大きな金魚鉢を見つめた。そうか、人魚というガールフレンドが出来たのか…。
譲二を連れていった祭りでの金魚すくいを思った。小さな手で恐る恐る金魚をすくう。紙はすぐに破れ、譲二は泣きべそだ。一匹だけもらった色の悪い金魚を、良美と譲二はザリガニ用の水槽で大切に飼い始めた。金魚は次第に大きくなり色つやもよくなって時々ぴしゃりと跳ねて、水面に顔をのぞかせたりした。淋しいでしょうね、良美はペットショップで三匹百五十円で友達を買ってきた。一匹は死んだが残りの三匹で仲良く泳ぎ、そのうち卵も産み、小さな金魚が生まれた。譲二が友達に金魚を分けるのに忙しかった時期もある。「いやー、金魚が増えましてね」荘介も会社で満面笑みで言ったものだ。金魚と良美と幼い譲二…。あの頃幸せだった。今、思っても幸せだった。なのに、いつの日からか、水槽にこびりついた金魚の餌の放つ臭いのように、荘介の心ににおいが充満し始め、それを振り払おうと必死になった。
あの金魚、まだ生きているのかな。一番最初に家に来たあいつだ。今度会えたなら譲二に聞いてみよう。
荘介は額に手をあてた。泣けた。芯から泣けてきた。自分の馬鹿さ加減に泣けてきた。
馬鹿者だ。愚か者だ。哀れなやつだ。想像の中の真由子が吐き捨てたように、馬鹿男だ。一番のルーザーは自分自身だ。
僕は僕だから、譲二が言った。
私は私なの。違うものにはなれないわ、良美が言った。
じゃ、荘介、おまえは何だ。何者だ。いったい何者なんだ。
ビッグルーザー、大馬鹿者か…。
虚無感の中、目をつぶる。運動会の喧騒が蘇ってくる。頑張れ! 走るんだ!譲二! 頑張れ~!抜かれんなあぁ!
頑張れ!頑張れ!頑張れ!頑張れぇぇぇ!!!
エールはいつしか対象を変えていく。一人断トツに速い少年、胸でゴールを切る少年。両手を広げ歓声に答える顔がスローモーに頭をよぎる。
あったんだ。自分にもあんな頃があったんだ。
もう一度、あの栄光には遠いかもしれないが、一歩ずつ人生やり直すしかない。
「サービスですよ」
目をあげると目の鋭い小柄なマスターがモンブランのケーキとフレッシュなコーヒーをトレイにのせたまま置いた。
「譲二君が父さんはモンブランには目がないって言ってたんですよ」
「ありがとうございます」
荘介は頭を下げたが、堪えきれずに、ぼろぼろと涙がテーブルの上に落ちていった。
澄江さんと二人で食事をすることになったとき、別に嫌ではなかった。決して楽しみではなかったけれど、別に嫌ではなかった。
どうしたものか…とは思った。
澄江さんのことをまだよく知らなかった。型どおりの情報はあったけれど、私の中でまだ澄江さんははっきりとした形になっていなかった。小さい頃、食卓の上であやとりの紐でいろんな形を作ってみたけれど、たとえば犬とかキリンとか、難しいところではオウムとか…澄江さんの形は、紐で描いた形くらいにしか出来あがっていなかった。
スミエ、と初めて聞いた時、墨絵、を思った。祖母の家の土壁にかけてあった墨絵。実際に墨絵に何が描かれていたのかは覚えていない。ただ、筆でかかれた濃淡の絵として記憶にある。
スミエってどんな字ですか?
澄んだ空気の「澄む」に揚子江の「江」よ、ほらサンズイに片仮名のエの…。
ああ、澄江…。いい名前ですね。
澄江さんは、この年齢の人特有のあたたかいながらも詮索じみた視線、というのをもっていなかった。澄江さんはほとんど平坦な無表情に近い顔で私を見た。ごくごく平均的長さの視線…というのがあるとしたら、それよりはかなり長かった。
ほぉーーーーーら、あのじ~~~~っとした無表情な視線、あれが苦手なのよ。まったく何考えてんだか。どっかおかしいんじゃないかしら。
たまちゃんは言った。
たまちゃんは数少ない私の友達だ。いや、友達ではないか。私には友達がいない。
たまちゃんは数少ない知り合いで、知り合いの割には話す人だった。そして、これからは親戚になる。スズキくんを紹介してくれたのがたまちゃんだった。
友達の友達の友達でいい人がいるからと紹介してくれた。
私がごく最近まで大酒飲みでアルコール依存症から回復する努力をしていることなど、たまちゃんは知らなかった。私も言わなかった。たまちゃんは私のことを、めんどくさくないさっぱり系女子と思ったらしい。
たまちゃんが、スズキくんだよ、って紹介してくれたスズキくんは、実際は鈴木という名字ではなかった。
たまちゃんがニックネームはスズキくん、と言ったとき、それって名字でしょ、という私に、ううん、顔がスズキに似ているのよ、ほら、魚のスズキと言った。スズキの写真をネット画像で見てみたけど、特に個性的な顔の魚とも思えなかった。
なぜ、スズキなんだろう、どんなふうにスズキなんだろう、と疑問を抱えながら会ったスズキくんは、ほんとうにニックネーム、スズキ君なんですか、と聞く私に、いや若干一名、これがたまちゃんなんですけど、それ以外にはミュウと呼ばれてます。
ミュウ?ポケモンのミュウですか?
と聞くと、そう、そうですよ、ととても無邪気な顔で笑った。
私は、スズキにもミュウにも大して似ていないけれど、この聡介という人物が気に入った。
澄江さんの前で、たまちゃんが聡介くんのことを思わずスズキくんと言ったとき、澄江さんは、どうしてスズキくんなの?と聞いた。
たまちゃんは、にっこり笑って、あ、それは…最初鈴木さんって人と間違えて覚えてしまったので、ふざけて呼んでるうちにスズキ君になっちゃったんです、と言った。澄江さんは特におもしろくも不快にも思わなかったのか表情を変えなかった。
友達の友達の友達なのに、どうしていい人だって言えるの? にっこりよりにやりに近いだろう顔で聞いた私に、友達も友達の友達もそう言うからよ、と真顔で答えたたまちゃんは、たまちゃんワールドを持っていて、たまちゃんのルールに外れた人には少しばかりきびしい性格だった。私はそのたまちゃんワールドに弾かれなかったたみたいで、たまちゃんから相談を受けたり、たまちゃんのショッピングに付き合ったり、まあ私にしては無理をしてなかったとは言わないけれど、アルコール漬けの世界からもがいて抜け出し、少しでも普通ってのに近づきたい動機が強かった時だけに、その頑張りが実ってたまちゃんの友達してカウントされるまでになった。
もう、無理。澄江さんとは無理。あ~~~憂鬱だ。
たまちゃんは髪をかきむしった。かきむしるたまちゃんを見ながら、あ~~~たまちゃんとはもう無理!と言った共通の知人の顔が浮かんできたけれど、なかなか名前がでてこなかった。
まあとにかく、無理!というたまちゃんのかわりに私が澄江さんと食事をすることになった。たまちゃんはいろいろあって、円形が出来たというので、少しでもストレスになることはやめたいというたまちゃんに代わって私が澄江さんと会うことになった。
待ち合わせ場所に5分早めに着いたのだけれど、澄江さんは既に来ていて、黒っぽい傘をたたんでいるところだった。明け方からゆっくりと、けれど着々と振り続けた初雪は5センチ近く積もっており、今は一応止んでいたが空の具合を見るとまだまだ降るかもしれなかった。
けれど澄江さんはきっぱりとした様子で明らかに湿っている傘をたたんでいた。傘はちゃんと広げて乾かしてからたたむのですよ、小さい頃に言われた母の言葉を思い出した。
澄江さんは、私を見て、あら、タキさん、と微笑んだ。実際口角も上がってなければ、目の形もいわゆる笑っている形ではなかったけれど、私は澄江さんが微笑んだ、と思った。澄江さんに初めて会ってから半年ばかり経っていて、私は少しだけ澄江さんがわかってきたような、少なくとも澄江さんが微笑むときがわかるような気になっていた。
お昼を回っているとあり、スズキくん兄弟の名付け親の方の喜寿のお祝いを買う前にどこかでランチをしましょう、ということになった。どこにしましょう、さあ、どこがいいんでしょう、そんな風に言いながらしばらく歩いていたが、「ここは?」と指さす澄江さんに「あ、韓国料理好きなんです!」と私が声をはずませ、まだ客がまばらな店に入ることになった。
案内されたのは窓際のテーブルで、窓ガラスと隣のビルとの間が一メートルほどだったが、そこは小さな無国籍風空間に仕上げてあった。石と竹、ヤシっぽい人工の緑の間に小さな石像がおかれており、モアイ像のミニチュアのようにも見えた。
澄江さんと私はお茶をすすって金属の箸で一つ二つと小皿を空にし、メインが運ばれるまでまたお茶をすすったが、澄江さんと私の間に会話は進まなかった。
考えてみれば私と澄江さんの間に会話が進んだことなどなかったし、不思議なことに、ほんとうに不思議のなことなのだけれど、普段は気のおける人との沈黙が苦手で無理に話したはいいが空回りをしてしまう私なのだけれど、澄江さんといて私の居心地は決して悪くなかった。
確かに普段の私なら、ははっと無理に笑ってみたり、そわそわ肩を回してみたり、指を組んでみたり、妙にくちびるをなめたりするのだけれど、澄江さんといてもそんなふうにならず、肩も動かさずくちびるもなめず静かにすわっていることができた。
思えば澄江さんと二人になるのは短い間を除いて初めてのことかもしれなかった。
「あなたはどうしていつもそうなの? もうちょっと愛想よくできなかったの? ゆうくんママ困ってたでしょ!」
一つ離れたテーブルから大きくはないのだけれどキーンと通る声がし、私と澄江さんは思わずその方向に目をやった。
声の主は二人の子を連れた母親だった。肩にかかる手入れの届いたカールが美しく、ネイビーブルーのワンピースが上品だった。
叱られている子は、ほとんど無表情に斜め下を見ていた。無表情だったが、怒っているように見えた。どちらの女の子も7、8歳に見えたが、もう一人の子は、母親と怒られた子を交互に見ながら、なんとかこの場を取り繕えないか、という感じだった。
「もっと人の気持ちになりなさい。失礼でしょうが!無表情でぼんやりしちゃってお礼を言うわけでもなく有難そうな様子もせずで。ゆうくんママがどれだけミユのこと考えて今日招待して下さったかわかってるの? リナだって困ってたわよ。妹がこうじゃ、リナだって安心して遊べないでしょ」
「大丈夫だよ。リナは別になんともないよ」
小さな声でそのリナちゃんは言ったが、怒られているミユちゃんの方は口を固く結んでテーブルの一点を見つめていた。
ウエイターが来て母親は笑顔を作り、間のテーブルには大学生風の3人組が案内されてすわり、私たちから親子の姿は遮られた。
それからも私と澄江さんは耳を澄ませていたが、大学生の声ばかり響き、親子連れの声は聞こえなかった。
私は、叱られているその子に、昔の自分を思い出していた。だから両手を組み、顎のところにあて目をつぶった。何かに祈らなれければと思ったが、できたのは大きく息を吐くことだけだった。
やがて2種類のビビンバが運ばれてきた。
澄江さんは二つを見比べて、何か言いたそうに口を開いたが、結局言わずに閉じてしまった。
「美味しそうですね」
「え、ええ…そうね」
どうやら澄江さんにはあまり美味しそうに見えないようだった。
「ちょっと思ってたのと違うわね。ほら写真とも違うし」
澄江さんはそう言ってメニューを開いた。
「そう言われればそうですよね。こっちの方が美味しそうですよね」
「なぜだと思う?」
「えっと。なんだろ…」
「肉の分量と玉子のここんとことそれに器も随分高級そうじゃない? この写真の方が」
「そういえばそうですよね」
澄江さんは説明責任を果たして安心したようにメニューをパタッと閉じた。私は間違いさがしのようにもう少し比べていたかったが、唐突に閉じられたメニューを再び開ける気にもならなかった。
「でも、私のの方がまだ美味しそうね。あなたのは違いすぎるわよね。残念ね」
澄江さんはもう一度メニューを開いた。今度こそしっかりと間違いさがし、と意気込み私は写真を見た。
すると「あ、ごめんなさいね」そう言って澄江さんはメニューを閉じた。
「え、何がですか?」
私はフレームレスの中の澄江さんの目を見た。その目が誰かに似ていると思った。少し考えると誰でもないスズキくんの目に似ているのだ。やだ、今まで気がつかなかったのかしら。でも似てても当たり前だ。親子なのだから。だけど気づかなかった…。思えば面と向かってしっかりと澄江さんを見たことがなかったのだ。
「思ったことを口にする癖がこの歳になっても治らないの。気をつけるようにはしてるんだけど。うまく失礼のないように言えないのよ。思ったことしか言えないのね」
澄江さんは言った。
「嘘がつけないってことですよね。それっていいですよね」
「よくはないわね。嘘がつけないと、会話に苦労するわ。だから必要無ければできるだけ話さないようにしてるの」
澄江さんはもともと口数が少ないわけではなかったのだ。話さないようにしているのだ。
「でも…私には思ったこと言って下さい。私もそうですから。私も会話っていうか、コミュニュケーション、苦手なんです。実は石みたいにぶっきらぼうなのが私の素なんです」
澄江さんは静かにうなづいた。私は何か言わなければと思った。焦ってその場をとりつくろうというより、自分の気持ちをうまく伝えなければと思ったのだ。
「あ、人から見たら石みたいにぶっきらぼうに見えるってだけで、もちろん私は自分が石みたいだ、なんて思ってませんけど」
賢明かはわからなかったが、私は自分が言いたいことに関連した過去の出来ごとをさがそうとした。
「あの、つい正直に言ってしまう人に対して怒る人ってたくさんいて、まあ、その気持ちもわかりますけど、私は自分がそうですから、怒らせるほうの人が全く悪気がないってのもわかったりして…。そういえば、スズキくんの…あ、聡介さんの友達に松原さんっていて、彼、随分周りの人怒らせたりするって聞いていたんですけど、聡介さんは悪気のないいいやつだって言ってて…。ある日その彼がふらりやってきて、私を見て、あ、パジャマですよね、すみません、寝てたんですかって。私、パジャマじゃなくて一応部屋着ですし、これで買い物にも行くんですって言ったんですけど、でも、どう見てもパジャマですよって言われて、そうかなって。で、聡介さんと松原さん、飲み始めたんで適当におつまみ作って出したんですけど、抹茶をまぶした肉団子をしげしげと見つめていたんですけど、これって、何とかっていう、あれ、なんだったかなって考えた末なんだか長い横文字の学名っぽい昆虫の名前言って、それの卵にそっくりだっていうんです。私はへえ、そうなのってしげしげと見つめて、これが昆虫の卵に見えるってなんだかユニークだなって思って…で、小さい頃マッチ箱にアマガエルやポケットにてんとう虫を入れて大切にした話ってのをしてみたんですけど、なんか共通性があるかなって思って、でも受けなかったんです。帰りがけに、その彼、聡介さんに大声で言うんです。いやぁぁぁ、聡介、許容範囲だよ、いい奥さん見つけたな、十分許容範囲だよって。私、ありがとうございますって笑いながら頭を下げて、彼にとって許容範囲ってすごい褒め言葉なんだなって思ったんです」
澄江さんは特別に表情を変えずに時々小さくうなづきながら聞いていたが、「で、聡介はどう言ったの?」と言ったときには少しだけ頬が緩んでいた。
「彼が帰ったあと、言ったんです。タキなら、母さんとも話し友達になれるかもって」
これって言ってよかったのかな、と言ってしまってから思った。
澄江さんの頬の柔らかさはそのままだったので、私はちょっと嬉しくなった。で、話し続けた。
「高校時代の友達なんですけど、その子といると何もしゃべらなくても大丈夫って思える子がいて、なんかとても居心地のいい子だったんです。6人ぐらいでお弁当を食べる仲間がいて、彼女は軽く微笑んではいるんですけどほとんどしゃべらなくて、私はもっぱらうなづいてそうなんだ~とかへえ~とかいうのに徹していて、よく話す子たちがわいわい楽しそうな雰囲気を作り出してくれていて…。ところがある日、インフルエンザでよく話す子たちが一斉に休んじゃって、私とその子と二人でお弁当食べたんです。驚くほど二人とも何も話さなかったけれど、なんだか全然気づまりじゃなかったんです。話したことは、今でも覚えているんですけど、彼女が私のお弁当見て、あ、梅干しが入ってるね、って。私も、うんって、彼女のお弁当見て何かコメントしようとしたんですけど、特に言うことも見つからなくて…。普段だったらそこでもっと努力すると思うんですけど、その時は、ま、いいかって思って頭の動きを止めてもなんか気にならなくって…。お弁当食べたあとは二人横に並んで椅子の背にもたれてすわっていて…何も言わずに。それがなんだか、今でもとってもくつろいだひと時だったって覚えてるんです。それと彼女が言ったことがとっても印象的だったんですけど、ある時、帰りの電車の中で、私たち二人とも無口だよねって私が言ったら、違う種類の無口だよねって。どう違うのって言ったら、私は人に気を使おうと思えばできる能力のある無口、彼女は口を開くと本音しか言えないから言わない無口、って言うんです。そうなんだって。社会人になってからなんだかいろんな人と話してて合わせるの疲れたなって思うとき、彼女のことよく思うんです。どうしてるかな、って」
澄江さんはちょっと考えていたが、「そうなの」とだけ言ってうなづいた。そしてしばらくして「珠美さんはよく話すタイプね。タイプが違う二人でも友達になれたの?」
「たまちゃんは…いい友達です。ええ、タイプ違いますけど」
「一緒にいてくつろぐ?」
「くつろぐ…ですか」
たまちゃんと一緒にいてくつろぐか? そんなに疲れないのは確かだ。よく話してくれるし、たまちゃんの考えもよくわかるから、たまちゃんを怒らせないようにすることもできるし…。
「くつろぎますよ」
言ってしまってから、なぜか嘘をついてしまったような気になった。
「それはいいわね。義理のきょうだいだしね。翔にはとても合っているって主人が言っているわ」
澄江さんは嘘がつけないから自分が思っていると言えないのだ、と思った。
思いながら、ふと翔くんの方がスズキに似ているのでは、と思った。そりゃ兄弟だから、スズキくんが似ていたら翔くんが似ていても不思議はないわけだけど、そもそも私は聡介くんがスズキに似ていると思わないし、未だに心の中でスズキくんと呼んでいるわけは、会う前にたまちゃんがスズキくん、スズキくん、スズキくんと言い続けたので、初めて会ったときにはすでにスズキくんだと頭に刻まれていたからだ。未だに自分の夫の名がすぐには聡介と出てこない。
客観的に見たら翔くんの方がハンサムだろう。背も高い。愛想もいい。より社交的である。でも、私はスズキくんが好きだ。寛大であり、嘘がない。優しいふりはしないが根が優しい。
「なぜ、聡介はスズキくんなの?」
えっ…。
「それは…」
私は本当のことを言おうかと考えた。言いたくなった。けれどたまちゃんは困るだろうか。言っても澄江さんは怒らないと思う。
「魚のスズキ?」
「え…」
「スズキと言えば魚のスズキを思うんだけど、なぜ聡介が魚のスズキなの?」
「よく私もわからないんですけど…」
「スズキに似てるのかしら、聡介が…」
「さあ…」
「珠美さん、大したものよ。スズキって人にニックネームつけられるほど魚の顔を見分けられるとしたら」
澄江さんは皮肉を言っているようでもなく、ほんとうに感心しているように見えた。
「たまちゃんがつけたわけでもないかもしれません」
「でも聡介が言っていたわ。スズキくんって呼ぶのは珠美さんだけだって。あ、それとその影響であなたもって。会ったときにはすでにスズキくんだって思われてたって」
澄江さんはククッと笑った。はっきりとククッと笑った。
「スズキの画像だせる?」
「はい?」
「スズキの画像。携帯で」
「あ、はい・・・」
「じゃ、食べてから見せてね」
澄江さんと私は、ビビンバを食べ始めた。お腹も空いていたし、見かけはメニューと違うとしても、とっても美味しいと思った。澄江さんも満足げに小刻みにうなづきながら食べていた。
私たちはほとんど同時に食べ終わり、ほとんど同時に少し反りかえり、ふーっと息を吐いた。澄江さんはとても無防備に見えた。なんだか子供のように見えた。
澄江さんはしばらく私を見ていたが、あ、そうそう、と言うように口を開いた。
「タキさんはハーヴェイって映画知ってるかしら?」
ハーヴェイ?
「古い映画だから知らないでしょうね。ジェームズスチュアートさんって俳優が出てるの。善良な市民の役をさせたら、彼の右に出るものはないでしょうね。でもその映画ではちょっととぼけたいい感じを出してるの。大きなウサギのプーカが常に彼と一緒にいて彼にだけ見えるの。プーカってね、元はケルトの伝説とかに出てくるいたずら妖精って感じかしらね。映画ではその姿は見えないけれど、ハーヴェイって名付けれられたその大きなウサギの形をしたプーカは常にジェームズスチュアートさんが演じるエルウッドさんと行動を共にしてるの。エルウッドさんは大酒飲みだけど、とっても紳士的な人なの。映画を見てるとね、人には見えないウサギが見えるのは風変わりだけど、見えてないいわゆる普通の人の中にずっと性悪な人もいるんじゃないかって思えてくるの。人によって見えるものが違ったっていいんじゃないかなって思える、そんなちょっと風変わりなコメディなの」
「おもしろそう…。私、見てみます。ジェームズスチュアートさん好きだし。歳をとってから飼い犬のことを詩にして朗読するジミーさんの映像テレビで見たことあるけど、とってもあたたかい気持ちになりました。そりゃ裏窓とかカッコイイ役も素敵だけど、素晴らしい哉、人生!It’s a wonderful life なんかの善人を絵に描いたような役も素敵だけど、その大きなウサギの映画見てみたいです。ハーヴェイ?ですね」
「そう、ハーヴェイ。タキさん、映画好きなのね」
「大好きです。どっちかっていうと、ハリウッド系大作じゃなくって、インディーズ系の映画とかオープンエンドの映画とか好きです。より人生に近い映画って、夢はそんなにないかもしれないけど、好きです」
好きな映画の話になり、思わず早口になった。澄江さんはそんな私を少し口角を上げて嬉しそうに見ていた。
そういえばカフェ ハーヴィの名前の由来、聞いたことがない。もしかしたらハーヴェイって映画から名付けたのかもしれない。今度マスターに聞いてみよう。
映画の中でジミースチュアートさんはハーヴェイっていう大きなウサギが見えるのだ。誰にも見えないものが。これって普通の人に見えない人の姿が見える者と通じるものがある。
「澄江さん、あ、お母さんはハーヴェイ的なもの見えたりすることあります?」
「ハーヴェイ的?」
「ええ、人に見えなくても自分には見えるものとか人とか」
「あるかもね。…あったかもね。タキさんはどう?」
「あるんじゃないかって思います」
「そうなのね」
「私の友達で時々ウォンバットに見える人がいるんです。大好きな友達です」
「そう、そういう人がいると世の中、より素敵になるわね。どう見えようと品格がある限り問題ないわね」
澄江さんは、それ以上何も聞かず、うなづきながら静かに私を見つめた。
その後、澄江さんと私は韓国のお菓子とお茶を追加注文して、ゆったりと時を過ごした。ほとんど話さなかった。
「そうだ!そうだわ。」
突然、澄江さんが大声で言った。
「見てみましょうよ。スズキを」
澄江さんは珍しく満面の笑みを浮かべていた。
私はうなづきアイフォンを取り出した。
画像検索のアイコンを押し、スズキ、魚、と打った。
何枚も出てきた画像のうち、一番顔の分かりやすい写真を拡大し、澄江さんに見せた。
「これ…なの? 似てるかしら?」
澄江さんはじーっと画面を見つめた。頭を横に振りながら
「真正面からの写真ある? 真正面からなら似てるかしら?」
スズキ、魚、真正面、と打った。
何枚か出てきた。どれを見せるか迷ったので、つぎつぎと見せた。
「似てないわね。正面からのも」
「ええ、目が離れすぎてますし、口が大きすぎますし…」
「もう一度横からのに戻して」
「はい」
再び前の写真に戻すと澄江さんに見せた。
「やっぱり似てないわね。聡介下くちびる出てないし。だいたい聡介、魚顔じゃないわよね」
「そうですよね。わたしもそう思います」
「でも珠美さんは似てるって思ってるのね」
「ええ、何度聞いても、だって似てるじゃないって」
「珠美さん、翔にもニックネームつけた?」
「翔さんにはつけてないと思います」
これは嘘だった。スズキくんの弟の翔くんに一目惚れしたたまちゃんは、シャッチー、ステキ!とその後かなりの長期間に渡って私に叫び続けた。シャチに似ているというのだ。とてもよい意味でだ。精悍な海のエリート。シャッチー。たまちゃんのことをそこそこ面白いと思っていたスズキくんは翔くんと彼女の中をとりもち、たまちゃんは婚約にまでこぎつけた。
「もう一度見せて」
澄江さんはアイフォンを手にとりじっくり魚のスズキくんと対面した。
「どうやって画面動かすの?」
「こうやると横に動いて次の写真が見れるんです」
澄江さんは指先を動かしてスズキの写真を何枚も見続けた。わたしも一緒に見た。
澄江さんは飽きずに見た。指先の動きもスムーズになってきた。
気がつくと澄江さんの頭と私の頭はくっつきそうになっていたが、私はとてもリラックスしてそのまま、澄江さんとスズキの写真を見続けた。ちがうわね~と言ったり、ときどき同時にふふっと笑ったりもした。
これなんか目の感じ、ちょっと似てるかもね。今度珠美さんに見せてみましょう。似てるわって。
そういうと澄江さんはいたずらっぽい口元になり、ふふ、と、くくの中間のような声で笑い、私もつられてははははと大声で笑ってしまった。
私は澄江さんのとのランチを楽しんでいる、ということに気づき、嬉しくなった。帰ったらスズキ君に報告しよう。スズキ君の写真もいっぱい見たって。
私はなんだかとても愉快な気分になっていた。
Kさんが入ってきたのは、いい加減紫陽花の花を見過ぎた感がある梅雨の終わりだった。テレビでもカレンダーでもいたるところに紫陽花があった。
Kさんは総白髪だったが、顔は若々しかった。皺など結構あるのだが、目に光があった。目は心の窓とはよく言ったものだ。ここにいる人たちの目を見ると、その人がまだどれくらいその人らしI状態なのかがわかった。
Kさんが車椅子に座っていたのもほっとさせた。変な話だが、体が不自由で入ってきたのであり、認知レベルが下がっているからでない、という可能性を高めるから、車椅子を見て安心したのかもしれない。
私はかなり退屈していた。入居者の中に話相手もいなく、毎日がスリーピーに過ぎていた。
そうスリーピー。
それはスリーピーというのがぴったりな街だった。
町というより、街。小集落でもいいかもしれない。村っていう感じではないし、一応商店街もあるようだ。
けれど、足を踏み入れたとき、実際は膝を悪くしているから、車で入ったわけだけれど、スリーピーという言葉が頭に浮かんだ。
その建物もスリーピーな感じだった。医師も介護士も、のろのろしているわけではなく、仕事のときは愛想もいいし、きぴきぴと動いているのだが、背中を向けて何かの準備をしているときなど、どこかスリーピーだった。スリーピーさが蔓延していた。
都会の時の流れに慣れてしまっているといえば、それまでかもしれない。子供のころは田舎で育った。全てのペースがのんびりしていたと思う。18で都会に出た。そのとき、都会時間にセットした。セットして働いた。働いたけれど結果は出なかかった。膝を痛め、手も思うように動かなくなったとき、家族として世話をしようと名乗りをあげるものはいなかった。
結果、このスリーピーな街のこのスリーピーな建物でしばらく暮らすことになった。いつまでかわからないが、この建物で。
部屋は二人部屋だ。しばらくは一人だと言う。けれど、実際は希望者がいたら、明日からでもルームメイトができるらしい。
18で都会時間に合わせた自分をスリーピー時間に直さなければな、と思った。
久しぶりに孤独を感じた。胸の中にぷつっと点ができてじわーっと広がる孤独ではなく、心の底一面に広がって、地盤がぼこっぼこっと上がってくるような孤独だ。
人は孤独で泣くのだろうか。人は孤独で死ぬのだろうか。二つの問いが浮かんでは消えた。
孤独死の方は直接的な原因ではなければありえる。孤独泣きの方はいつでもできるだろう。けれど、涙は記憶にある限り、出たことがなかったし、まだまだしばらくは出そうもなかった。アレルギーで右目からだけ涙が出るが、物理的要因と心理的要因をミックスしてはいけない。
午後に1時半から3時までは、「ゆったり時間」と名がつけられていた。ゆったりとホールで過ごして下さいというのだ。ホールというのはソファーがコの字型に置かれている殺風景な空間で、時々、野草じみた花や、入居者の家族が作った折り紙のかごとか、リハビリで膨らませ、段々小さくなってきている風船やらがあって「温かな」空間を演出しようとしていた。
私が入った時、入居者は12人だった。介護度でいうなら、介護度1や2の、要支援よりは重たいけれど、重度とはいえない人たちが集まっていた。約半分は生き生きとはいかないが、認知度の障害はみられないようだった。受け答えも悪くはない。ただ、立ち上がったりが不自由でところどころで人の手が必要だ。約半分は認知症初期のようだった。体は健常者と同じだが、話すことがちぐはぐだった。
ゆったり時間の過ごし方は決まっているわけではなかった。ゆったり時間というのは名目で本当は掃除の時間なのだ。入居者を一せいにホールに集めて、その間に個室や二人部屋や4人部屋を掃除するのだ。
ゆったり時間ではスタッフは掃除で忙しいので、たいていスタッフの一人が「さあ、皆さん、歌を聞いて過ごしましょう」といって、みなが良く知っている演歌歌手のCDをかけるか、録画してあった懐メロ番組や昔の紅白やらのビデオをつけるか、その月のカレンダー作りの塗り絵の紙を配ったりする。
そのあとのフォローアップはないので、1時間半、みな大抵ぼんやり坐っている。たまに大声を上げたり、「せんせい!」と呼んだりするものもいる。
その日は新参者のKさんが初めて参加していたわけだ。車椅子にすわっていたので正確な身長はわからないが、180センチ近くあるのではないかと思われた。白狼、そんな言葉が浮かんだ。頭髪が真っ白だったのと、目の色の茶色で薄かったのと、彫が深く、この年齢にしては顎がシャープなところが白狼という言葉を思い浮かべさせたのだろう。
スタッフに車椅子にのせてもらってホールに来たkさんは最初、体が弛緩しているように見えた。だが、スタッフがいなくなると、ゆっくりとメンバーを眺めた。入居者を眺める、というより、集まったメンバーを値踏みしているようにも見えた。一人一人を見ていたが、私と目が合った。私たちはほとんど無表情でしばらく見つめ合った。認知力に衰えがない二人が、お互いを認知し合ったのだ。
「今日はお話の時間にしてはどうでしょう。思ったことを話す時間にしては」
CDをかけるのもビデオをかけるのも、塗り絵の紙を探すのも面倒に思ったのか、それとも急に病院に搬送された人の手続きやらのごたごたで余裕がなかったのか、丸顔でいつもは丁寧で愛想のいい女性スタッフがいつもより2割増しの早口で言った。
「じゃ、今日初めて参加なさる樺山さんに最初お話をしていただきましょう。どうぞ」
最後のどうぞの ぞ を言うか言わないかのうちに調理場からガシャンと瀬戸物の割れる音がしたので、彼女は慌てて走っていった。
Kさんはおもむろに話し始めた。
「実は私、若い頃、強盗をしたことがあるんです」
Kさんを囲んでいる人は驚くほど静かだった。Kさんが投げた石に反応し、揺らぎを見せたのはほんの数人だった。私はといえば固まっていたと思う。そしてKさんをまじまじと眺めた。
「ある時、ある街で、金に困った私は周到に、もっともそのときはまだ人生経験が浅かった私ですから、周到だ、と思っただけで、ちっとも周到ではなかったわけですが、でも自分なりに計画をたてたつもりだったんです。防犯ビデオなどもなかった時代ですし、窓口にいる人物のことも把握していたし、金があるところも知っていた。顔を見られないようにナイフをつきつけ、金を袋に入れてもらう。それだけの計画だったんです」
「ところが一歩郵便局に入った瞬間、もう計画は狂い始めてたんです」
Kさんへの注目度は少しだけ増えた。下を見て自分の手を見つめ、ぶつぶつ言っていたものも、口でぽっぽっぽっと鳩のような音を出し続けていたものも、ゆったりのったりではあっても、まるで大学教授がレクチャーするかのようなKさんの静かな口調にKさんの存在を感じ始めていた。
「もともと大した意味もなかったんですよ」Kさんは言った。「そりゃ、金には困っていたでしょうけれど、今から思うと強盗しなければならないほどでもなかったと思うんです。あのときのことはそれこそスローモーションで覚えています。鼓動もドクッドクッはなく、ドドックァッドクァッって感じなんです。リズムがおかしいんですよね」
そういってKさんは私たちをゆっくりと見回した。聴講している生徒の様子をうかがうようだった。口元には穏やかな笑みさえを浮かべている。
かなり長い間黙って私たちを見ていたが、その沈黙が微妙に落ち着きなさを与え始めたとき、パンと軽く手をうつと下をカクッと向き、そのまま話をやめてしまった。
「どう狂い始めたんですか?」私は聞いた。
「えっ? ああ、そこが問題なんです」Kさんは私をその薄い茶色の目で見た。さっきよりさらに微笑みを強くしたKさんの口元にはくっきりとえくぼができた。
「思えば狂いべくして狂ったんでしょう」
Kさんがさらに語ろうとしたとき、声が響いた。
「みなさーん。今、えんどう幼稚園の皆さんが急に来て下さいました。お歌を聞かせて下さるそうです。さあ、少し移動して、こちら側に移動して歌のステージを作ってあげましょう」
10日ほど前に入ったパートのスタッフが甲高い声をあげて、さかさかと動き回る。
Kさんは額のところに手をもっていくとひゅっと顔にベールをかけるような動作をして、私を見た。その顔は無表情になっていた。ショーは終わりとでもいうのか。Kさんはゆったりと目をつぶった。
そんなkさんを見て、なぜか石灰石のようだ、と思った。石灰石のはっきりした定義を知らないが、なぜかそう思った。本当か嘘か郵便局を襲おうとした人間臭さのゆらぎは消滅し、Kさんは石灰石になっていた。もっともここにいる入居者の多くや、私もかなりの時間、石灰石になる。
なんで失敗したんだ。疑問が頭でくるくる回った。
子供たちの歌が響いていた。かわいい子たちだ。子供はいい。嫌いじゃない。
私は半分口をあけ、子供たちの小さい秋みつけた、の歌を聞いていた。
その日は起きると体中痛かった。なぜ? しばらくぼやっとした頭で考えていると、落ちたことを思い出した。
落ちたのは地下鉄の階段だ。ごろごろ転びながら、スカートでなくてパンツスーツでよかったとぼんやり思った。階段下では若い男が壁に手をつき腰を折り曲げて吐いていた。
帰ったとき家は森閑としていた。深夜一時半ともなれば仕方ない。お風呂も入らず顔も洗わずベッドにもぐりこんだ。
パンツスーツだけは脱いだらしい。起きた時、上はインナー、下はショーツだけだった。パンツスーツがベッドと反対の壁の近くでくしゃっと丸まっているところを見ると、脱いで思いっきり投げつけたようだ。うっすらとした記憶の中で投げつけている自分がフラッシュした。
洗面所へ行く。鏡を見ると目が充血している。顔も腫れている。
鏡には私のアルパカ顔は映らない。手足や体は見れるが、顔だけは自分で見れないのだ。顔の白い毛は視界に入るが、鏡に映るのはコモン族層の姿だ。写真に映るのもそう。だから自分ではレイヤー族としての顔を見ることができない。レイヤー族として纏っている外見は物理的外見ではないから、物には反映されない。
フェルルの知り合いに似顔絵を描いてもらったことがある。優しそうなアルパカ顔。ちょうどアルパカと人間の半分半分だろうか。知り合いはプロの似顔絵描きというわけではなかったけれど、一生懸命描いてくれた。
鏡に映る私の顔。女性としてごくごく普通の部類だろう。ちょっと目が離れている気もする。
近くにあった輪ゴムで髪をくくると、顔を洗い、上下合わぬスエットスーツを着て下のリビングに下りていった。
壁の時計を見ると11時だった。11時。日曜日の11時。父母が仲人をした結婚式の引き出物の掛け時計。しばらくは時を打つたび、鼓笛隊のような人形が出てきて時間ごとに違う音楽を奏でていたが、いつの間にか人形たちは時々飛び出すが音楽はなくすぐに引っ込むようになり、やがて引っ込んだきりになり、時を告げるものはいなくなった。
この家みたい…。私は思った。明るく楽しく笑い声に満ちていたときもあったと思う。母もまだ今のようではなく…
おー、起きていたのか、日曜くらいゆっくりしたらいいのに。夕べ遅かったんだろ。
父がリビングのドアから顔をのぞかせて言った。私しかいないことを確かめ、安心したように笑顔で入ってきた。お父さん、コーヒー入れようか。それとも何か食べる? お味噌汁作ろうか?
そうだな。まずコーヒーを飲むか。そこの商店街にコーヒー豆屋さんができてね。ふらっと入ったら…。
けっこう買う羽目になったんでしょ、お父さんのことだから。私は笑った。
うん、まあな。でも美味しそうだぞ。ってかいい匂いなんだ。グアテマラかなんかで賞を取った農園のコーヒーらしい。
そう言い、父は大きいコーヒー豆の袋を出した。500gはある。これだけ買ったならけっこう高かっただろう。
やだ、そんなに買ったの? キンキンした母の声が聞こえるような気がした。けれど打ち消す。せっかくの日曜の父とのひと時を、母のイメージでぶちこわすことはないのだ。どちらにしてももうすぐ本物が出てくるわけだし。それまでの短い時間を父と楽しみたい。
お父さん、それ豆だよね。コーヒーマシンだとけっこう音がするよね。
父と私との間にサイレンスが広がった。母はコーヒーマシンの音が嫌いだった。
そうだ、そうだ、父さん、忘れてた。これを買ってたんだよ。なんだか風情があってね。買ってくだしゃれ、そう言ってるようでね。
父はにっこりしながら、くしゃっとした紙の包みを持ってきて、目の前で開いた。ほーらぁ。
最近はいつもひどく疲れたように見える父の目がきらっと嬉しそうに輝いたので、私も嬉しくなった。その紙包みが何であれ、父が喜んでいるものならコーヒー豆一個でも大豆一個でも嬉しいと思った。かなりの共感型、っていうんだよね、私のようなのは。
父が開いた紙包みには手で挽くタイプの木製のコーヒーミルが入っていた。下に小さな引き出しがついていて、そこにコーヒーの粉がたまるようになっている。ハンドルのところはアンティーク風の銅色だ。
いいね、これ。
いいだろ。
挽いてみようか。
うん。
豆を挽き始めると香りが部屋に広がった。
いいね。
グアテマラの香りだ。
いいねぇ。グアテマーラァ!
はは。はは。二人で笑った。
グアテマラってどこだったっけ、と笑いながら、私はとても嬉しくなった。二日酔いも忘れて嬉しくなった。
あら、あんたたち起きてたの。
突然の声に父も私もびくっとした。体が目に見えてびくっとするわけではないが、心の中でびくっとした。
母はすたすたとやってきて「こんなに買ったの?買い過ぎでしょ」とコーヒーの袋を指先でつまみあげた。500gのコーヒー袋を指先で異様な物体のように。ひどく役に立たないもの、いやそれ以下のなんだか汚れたもののように。
父も私もなんだか意気消沈してしまった。spirit crusher スピリットクラッシャー…私はひそかに母のことをそう呼んでいる。やる気やいい気持ちを文字通り crush、潰してしまうのだ。
ま、いいわ。私にも一杯入れておいて。
母はそう言い、またリビングを出ていき、パシッとドアを閉めた。
いつからだろう。母のことを恐れるようになったのは。物心つくころから苦手ではあったと思う。
なんなんだろう。共感力のなさ、だろうか。裏、表だろうか…。
顔はよく似ていると言われた。コモン族層での私の顔。父も母もコモン族だ。そっくりねえ、言われるたびにひどく居心地悪く感じた。母と私はひどく違う。根本的に。ひどくひどく違う。そう思っていたからかもしれない。
うぉ~、よく寝たぁ。
その声にびっくりして顔を上げた。兄が瞬間移動のようにそこにいた。
わぁ~お兄ちゃん、帰ってたんだ。私は兄に抱きついた。
兄が大好きだ。陽気で細かいことを気にせず、問題が起きると解決点を探し、人の醜いところを理解しながらも良いところがあればそこにライトをあてる。私もアルファーも随分かわいがってもらった。兄もコモン族だが、私とアルファーをあるがまま受け止めてくれているようにいつも感じた。
おー、急にみんな休みをとれ~ってことになってさ~。なんだかよくわかんないんだけどさ、かわいい妹と愛する父さんの顔を見に帰ったってわけよ。
そう言い、私の頭を撫で、父さんの肩をぽんぽんと叩いた。
タクヤ兄さんって大きなもしゃもしゃとした犬みたいだ。人懐っこくて頭がよくて、温かくて優しくて誠実で忠実、私の自慢の兄だ。就職は狙っていた大手には入れず中堅会社に入った。そして大阪支店に配属になった。もともと人を和ませる兄の技に大阪弁と言うのが加わった。
兄が家にいるとそれだけで随分雰囲気が和らいだ。
母は兄を盲目的にかわいがった。兄は小さい頃から素直で可愛らしかったし、怒ってもすねても全てが愛らしかった。笑顔も抜群で面倒みもよかった。
学校で兄を見ると純粋に嬉しかて駆け寄りたくなった。兄の周りが輝いているように思えた。
母は兄には特別目をかけて大切にした。アルファーと私は双子で、兄とは4つ離れている。
母は私ともアルファーとも合わなかった。それは育てていく中で、育てられていく中ではっきりしてきた。親子にも相性は確かに存在した。
二人いっぺんに生まれて嬉しかったのよ。母は言った。
母が嘘をついているとは思わなかった。嬉しかったのは確かだろう。けれど兄があまりにパーフェクトに可愛く育てやすかった割に、私たちは期待に沿わなかったようだった。
アルファーは素直だ。兄とは違った意味で素直だ。嬉しくないのに嬉しがったり、悲しくないのに悲しがったり、申し訳なくないのに申し訳ながったりすることができない。アルファーは心の状態を偽って、行動や態度、顔に出すことが苦手だった。
socially awkward というのだと後で知った。
日本語で、社会性がない、とか空気が読めない、とかいうのには抵抗があった。私はアルファーを心から大切に思っていたのでそういうふうに淡々と日本語でアルファーのことを言うことができなかった。
けれどsocially awkwardと英語で言えばなんだか客観的というか第三者化したみたいだった。
小さい頃のアルファーは、たいてい自分の興味のあることに没頭しすぎるあまり周りが見えなかった。私はいつもアルファーのそばで周りをキョロキョロ見ながら立っていた。危険からアルファーを守っていた、というと大袈裟かもしれないが、アルファーを不快な何かが起きることから守っていた。
アルファーは小さな模型が好きだった。動物でも乗り物でも小さな模型が好きだった。アルファーの部屋はおまけでついてきたのか、誰からかもらったのか、そっとどこからか取ってきたのか、とにかく小さな模型で足の踏み場もなかった。それは母をひどく苛々させた。「ちょっとぉ、いい加減にしなさいよぉ!」「あんた、どっか変なんじゃないのぉ」と時には甲高く、時にはドスの効いた声で怒鳴った。その度に私は身をすくめた。そんなとき大抵アルファーは口をきっと結んで、きりっとした目で母を睨んでいた。
なんなの、その顔は!
母はアルファーの肩を揺すった。けれどアルファーは表情を変えなかった。
母は兄がいるときはそんなにひどい怒り方はしなかった。兄のことが大好きだった母は兄にはいい母親だと思われたかったのだろう。
ほらほら、ちゃんと片づけて。アツシくんはこんなものばっかり集めてほんとに面白い子なんだから、ねえ、タクちゃん。
そう言ってアルファーのことも愛おしげに抱きしめようとしたりもしたが、アルファーはすごい勢いで母を押しのけた。
あらあら。母は傷ついたようにさも困ったように兄を見た。
そんなとき兄は、わあ、アッシー、これすごいなあ、本物そっくりだよ。ここのドア開くんだよな。すごいなあ。など、模型の一つをとり、感嘆したようにアルファーに話しかけた。アルファーの表情が少し和らいだ。
母さんもこれだけ買ってあげるんだからほんと、優しいよな。ね、母さん。すると母の顔も和らぎ、満足したように兄に微笑むのだった。
こんなことがどれだけあっただろう。数え切れないほどだ。
おかんは? 兄が聞く。大阪に行ってから母のいないところでは、兄は母のことをおかんと呼ぶようになった。そう呼ぶと私や父の緊張度が和らぐのを知っていた。
さっき、一度入ってきた。
私は答える。父は黙っている。
いい匂いだな。なんかすごくいい匂いだだよな。
兄が思いっきりコーヒーの香りを吸い込む。
父は、おー、タクヤは良さがわかるか。さすがたっくんだなあ~。と幼い頃の呼び名で呼んた。
よし、たっくんにも挽きたてコーヒーを入れてしんぜよう。
笑い声がコーヒーの香りのようにふんわり広がった。アルファーもいたらいいのに、私が思ったところに母が入ってきた。
コーヒー入ったの?
あ、母さん、ちょうど入ったよ。ほら。どうぞ。
あ、タクちゃん、ありがとう。
四人でテーブルを囲んだ。肩がこったように首を回す母はを見て、母さん、肩こってるんだ、とすぐ母の後ろに周り、兄は肩を揉み出した。
ほんとにタクちゃんは気が利くわ、
これでアツシが帰ったら家族が揃うな。
父がぼそりと言った。母の顔が一瞬険しくなった。
アルファーが一人暮らしを始めて3、4年になる。アルファーは極々普通…何をもって普通というのかよくわからないが…の子がたどる平均的成長からは大きくはずれていた。3、4歳まではほとんどしゃべらなかった。小学校のころはじっと虫や魚や動物を見つめていることが多かった。けれど高校も終わりに近づく頃、いきなり目覚めたかのように、人と会話を始め、時としてそれなりに愛想をよくする術を身につけた。
私は、それが、いきなり、ではないのを知っていた。アルファーは長い間、努力していたのだ。学び、自分にインプットしてきたのだ。それがうまく出せるようになったのが、大学に入る前だったというだけのことだ。私の前ではアルファーはそれまでとほとんど変わりがなかったが、人前でのアルファーは確かに変わった。
口数が少なかったアルファーは雄弁なほど自分の言葉で話すようになり、その表現がストレート過ぎることもあったが、独創的でウィットに富んでいたりもした。
もともと長身で顔も整っていたが、どちらかといえば暗い固い印象を与えていたアルファーだった。けれど、自信に満ち、外向きの顔をしているとき、私はカッコいい、美しい、とすら思った。
アルファーは翼族だった。翼族はレイヤー族の中でもかなり珍しい。肩から大きな翼が生えていて、翼の先に大抵5本の指がついていた。他の翼族はクチバシや鳥に似た目をしているものが多かったが、アルファーは違った。アルファーはレイヤー族層での顔とコモン族層での顔がほとんど変わらなかった。レイヤー族層での方が目が鋭く鼻が細く口が大きかったが、全体の印象はさほど変わらなかった。
私達レイヤー族は心で強く願う時、相手のコモン族層での姿を見ることができた。それは見る、というより脳裏に直接投影されるような感じだった。レイヤー族層で見える外見はスピリチュアルで精巧な3Dの絵のようで、物理的には存在していない。だから角のあるものが帽子を被るのに邪魔になったり、トカゲ風の尻尾があるものがズボンを履くのに邪魔になることはない。アルファーも翼が日常生活の邪魔をすることはない。
アルファー、頑張ったね、私は思った。
父は優しかったが、母のもとで育つのはアルファーにはつらかったと思う。いつも耐えているのが私にはわかった。
アルファーというニックネームは、アルファーが小さい頃、私がつけた。
野菜のアルファルファーを見て、アルファルファアルファ、アルファルファ、と何度もアルファーが繰り返しすのに苛々した母が爆発した。
あんた、このアルファルファみたいに変なんじゃないの。このしなびたアルファルファみたいに!
母は、パックに残っていたしなびたアルファルファを両手に握ってギュッと潰した。
アルファー、アルファーってバカの一つ覚えみたいに!
母はその日、いつもより輪をかけて、一段と、機嫌が悪かった。
そんなに好きなら、あんたのことこれからアルファーって呼んであげるわよ。アルファーってね!
ひどく憎々しげに母は言った。
アルファーは一見表情を変えずに母を見た。けれど顔は青ざめていた。私はアルファーが倒れるのではないかと思った。
アルファーは小声で 「アルファーアルファーアルファーアルファー」とつぶやき、母を睨み続けた。
私はアルファーという言葉が一生彼を傷つけるのではないか、と幼くして恐れた。そんな言葉があってはいけない、と本能的に感じた。だから言った。
アルファーってかわいい感じだよね。アルファルファは長すぎだけどアルファーは可愛いよね。アルファーちゃんって呼んでいい?
私はアルファーの手を取って、アルファーちゃん、と優しく呼んだ。母の憎々しげなアルファーの響きの上に優しい響きを貼り直したかったのだ。アルファーがアツシという自分の名前を気に入って愛ないのも知っていた。
私はアルファーの手を取って両手を広げた。美しいグレイ色の翼が広がった。アルファーが翼を広げると、私は心底嬉しくなった。翼を広げたアルファーは自信に満ちて見え、美しかった。映画で見た天使ガブリエルのようだと思った。
アルファーはうなづいた。
ふん。母はそう言い、出て行った。
アルファーには創作の才能があった。絵の才能。美術の才能。アルファーは美大に入り、今まで閉じていた心の翼をぱあっと広げた。アルファーの「翼」という絵を見て、私は涙ぐんだ。アルファーは翼を持ってたのに広げられなかったんだ。
父がこの家にいなければアルファーのように家を出たい。母とはできれば、というかかなり真剣に一緒にいたくない。けれど、自分までいいなくなれば父が寂しがるだろう。
兄の肩もみに目を閉じている母を見て、母にもアルファーの真の姿が見れたらと思った。
アルファーが手を広げた時の翼の見事さ。手を広げたアルファーの翼、その薄灰色の翼は角度のよっては銀色に見える。もし母がアルファーの翼を見たらどんな顔をするのだろう。家族で行った観光地で翼の絵が壁に描いてある写真スポットがあった。その前に立ってポーズをとると、まるで翼が生えているように見えるのだ。そこでかなりの時間をとって何度も写真を撮りたがった母だ。実際の翼族のアルファーを見たらどう思うのだろう。少なくともアルパカの顔をした私によりは、魅了されるだろう。
母にアルファーの人としての真の価値を知ってもらえたら、と思う。翼族としての翼を広げたアルファーでなく、普通にアルファーとしてのアルファー。母が思っているより、ずっと深く、優しく、複雑で、美しいアルファー。
母のエッセンスは変えずに、ある部分だけを変えれたらどんなにいいだろう。人を傷つけるところだけを変えられたら。悪気がなく結果として傷つけてしまう場合は仕方ない、そのままでいい。お互い理解し合える可能性があるなら変える必要はない。ただ傷つけようと思って傷つける場合、悪意のある場合、その部分だけ変えられたら……
メグ、コーヒーおかわりは? 父が聞く。わぁ、お願いできる?
本当にいい香りだ。グラテマラ産のコーヒー。ハーヴィのマスターのところでも中南米産のブレンドコーヒーはいつも美味しい。今度、兄を連れて行こう。兄がフィーラーかフェルルならいいのにって思ったこともあるけれど、兄は兄のままで素晴らしい。
Beauty is only skin-deep.
人の美しさ、価値は見かけとは関係ないものだ。もちろん、外見を自分なりにどう見せようとしているかで、人の内面が現れることも多いけれど。外見は元々生まれつきのものなのだ。そして人によって見えるもの、見えないもの、できること、できないこと、皆違う…。
知って損はないよね。私は思う。知ろうとして損はないよね。母がもっとアルファーを知ろうとしてくれたら。見ようとしてくれたら。skin-deepの下のアルファーが見えていたら。その未来への可能性を、見てくれたら。
でも母は母なのだ。母なりの心と限界をもって母なりに頑張ってきたのだろう。
ふー…。私はため息をついた。
ほぉーら、何だか知らないけどさー、たいていは気は楽にもって損はないぞぉ。兄が微笑む。
うん、そうだよね。
私は部屋に広がるコーヒーの匂いを思いっきり吸い込んだ。
何度も。何度も。
深く。
深く。
僕は石巻カズトという。現在ルネビルのオフィスに勤めているが、以前は小さなメディア関係の会社で働いていた。
その会社に入るのはなかなか大変だった。かなり真剣に就職活動にも取り組んだ。そのころは父はまだ退職前で都内に勤めていた。母は日々不思議感を増していたが、まだ父母の間に会話が成立していたと思う。
ある日、僕は立て続けに不合格通知をもらい落ち込んでいた。一次は合格した会社七つのうち、三つは二次面接に進んだが、最終面接の前に二つ落ち、残っているのはたった一社だけだった。その面接を翌日に控え、僕はどうにも落ち着かなかった。
もっとどっしり構えろ、子供の頃から父にしょっちゅう言われてきた。僕は父が理想とする物事に動じないタイプとは大きくかけ離れているようだった。
父は、古いタイプの人間だったが、二度の転職の後、同世代の中では抜きんでた成果を残していた。新卒のリクルーターをしていた経験もあり、その日は夕食後、面接の練習をしてくれた。聞かれそうな質問をいろんな角度から投げかけ、模範的答え方も教えてくれた。
これで心配ないな、父は機嫌よさそうにビールを飲み始めた。
あがり症の僕は練習ではうまくいっても本番では焦って早口になったり、自信なさそうにぱちぱち瞬きをする癖がある。大丈夫だろうか…内心ひどく不安だった。
父はおいしそうにビールを飲んでいたが、僕の不安はつのるばかりだった。
その時、それまでじっと黙って椅子の上で膝を抱えてすわっていた母が口を開いた。無表情で、時々丸まった猫のように欠伸をしていた母が、かなり元気よく言ったのだ。
ねー、カズ君、ダイオウグソクムシって知ってる?
それってこの前死んだやつ?
僕は弱々しく聞いた。
そう、それ!
母はまたまた勢いよく言った。
写真見たんだけどね、シャコとダンゴ虫の中間みたいよね。50グラムのアジを食べて以来、5年1カ月の間、何も食べなかったんだって。体調29センチっていうから結構大きいわよね。
父と母は同じ空間にいてもその頃はほとんど接点がなかった。食事も二人の時は別々のようだ。僕がいると母は、全く気儘に、たとえば酢豚にうどんにヒレステーキに苺スフレとかをいっぺんに並べたりしてくれた。
いきなりダイオウグソクムシの話をしだした母を、父は異星人でも見るような目で見た。少しびくついているようにも見えた。
目は複眼でね、3500もの個眼からなりたってるっていうけど、近くで見るとすごい迫力らしいわよ。写真、見る?
いや、いいよ。だいたいグソクムシの形知ってるし。
ダイオウグソクムシをほんとに知ってる? オオグソクムシと間違えてたりしてない?
オオグソクムシもいるんだ。
いるのよ。それは15センチくらいにしかならないの。
うん…。
もしね、ママが朝起きるとダイオウグソクムシになってたら、どうする?
父がビールを口から吹いた。
母はちらっと見ただけで、
ねえ、カズ君、もし朝起きるとママがダイオウグソクムシになってたら、どうする?
母とは物心つくころから、この「もしも」ゲームをよくやった。
もし、カズ君が蝉になっちゃったら、どうする?
もし、カズ君が頭は犬で体は猫になっちゃったら、どうする?
もし、カズ君が足が6本になって、そのうち1本とれちゃったら、どうする?
僕は自分のことをカズ君と呼び、思いつく限りの「もしも」を母に投げかけた。
母はどんなときでも、丁寧に答えてくれた。
そうね、蝉になっちゃったら、蝉さんの生態を調べて、カズ君が弱らないようにして、どうしたら人間に戻るか真剣に考えるわね。
そうね、頭が犬で体が猫なら、食事は犬用か猫用かって真剣に考えるわね。それから、どうしたら、人間のかわいいカズ君に戻るか研究するわ。
そうね、足が取れたところが傷になってたら消毒して、そのあとで、どうして足が6本になっちゃったんだろう、どうしたら、もとに戻るか考えるわね。
もし、そのままで一生もとのカズ君に戻れなかったら?と聞くと、
そうね、じゃあ、そのままのカズ君を大切にしましょうね、と母はにっこりしたものだった。
思春期になると僕はふさぎこみ、母とあまり話をしなくなった。僕と母との「もしも」ゲームはなりを潜めた。けれど、思春期を脱した僕は自他共に認める好青年になり、この頃になると、母が「もしも」と聞く方になった。
もしも、お風呂に水が張ってあって、そこにタコがいて、刺身にして食べちゃったら、それが変身したママだって分かったら、どうする?
など、かんべんしてくれよっていう「もしも」もあったが、好青年になった僕は、時間があるときは、昔母がつきあってくれたように、母の「もしも」に辛抱強くつきあった。
そうだね、ダイオウグソクムシがママだって分かったら、生態を調べて大切にするよ。食べなくても長い間生きるわけだから、食べ物のことは心配しなくていいよね。
でもダイオウグソクムシは深海にいるのよ。それが朝起きるとママのベッドにいるわけよ。死ぬでしょ。
じゃあ、深海の生き物をよく知っている人に相談するよ。
そんな時間はないわよ。で、カズ君が見てると、殻がメリメリって割れて中から何か出てくるわけ。
うん。
僕はここでちょっと興味を持った。父もメガネを拭いていた手をとめた。
中から出てきたのは一回り小さくなった、やっぱりダイオウグソクムシなわけ。
うん…。
でもね、輝きが違うの。ちょっと前のダイオウグソクムシより輝いてる感じがするの。そして「ママよ」って確かにママの声がするの。
じゃあ、確かにママなんだ。
そう! それで、さらに見てるとね、出てきたばかりのダイオウグソクムシの殻がまたメリメリって割れて、また一回り小さなダイオウグソクムシが出てくるの。輝きはさらに強くなっているの。で、また「ママよ」って言うんだけど、声がちょっと小さくなってるわけ。
うん…。
ダイオウグソクムシはメリメリってやつを何度も繰り返すの。しまいには米粒くらいの大きさになって、「ママよ」って声も耳を近づけないと聞こえないくらい小さくなって、それでも脱皮を続けてもっと小さくなって、脱皮をしてるのかすらわかんなくなって、ピカって輝きは強くなってるんだけど、最後は塩の一粒くらいになって、でも輝きは物凄いわけ。「ママよ」って声は聞こえるような気もするけどほとんど聞こえなくって、で、最後は目に見えないくらいになってパシュってフラッシュのような輝きを残して、存在が消えるの。そしたら、どうする?
父も僕も一瞬動きをとめて、一見無表情だけど結構楽しそうに話す母の口元を見ていたが、父はグラスを持って台所へ立ち去り、僕は、凄いね、ママ、その話、久しぶりの傑作だよね、と言った。
でしょ。人間の存在を問う傑作でしょ。
母は誇らしげだった。
でね、もし、そういう結果が分かっているとして、朝起きるとほんとうにママがダイオウグソクムシになってたらどうする?
その夜は結構よく眠れた。一人になってから、自然にくくくくっと笑ったからだろうか。母のその日の「もしも」は母と僕の長い「もしも」ゲームの歴史の中でも最高傑作だった。
翌日、面接の番を待つ時間、どんどん緊張し、呼吸が浅くなり、動悸がし始めた僕はどうにかリラックスしようとした。母の「もしも」って話を思い出したら、少しはましになるかもって思った。だからダイオウグソクムシになった母が次々脱皮していく様を思い描いた。名前を呼ばれて、部屋に入っていく僕の頭には、父の想定質問とダイオウグソクムになった母とがごちゃ混ぜに存在していた。
最近、僕はこのダイオウグソクムシの話をよく思い出す。あり得ないと思っていた母との「もしも話」がルネビルに勤め始めてから実際に起こりえることなのだと知った。どのように姿を変えるかは様々にしても…。
姿は変わっても人としての本質は変わらないし、中身はより崇高になることだってあるだろう。けれど直面する身の危険…。メタモルフォーシスするメタ族のことを考えるとき、その存在を考えるとき、「ねえーカズ君」の母の「もしも」を思い出す。