いわし雲か…。いや、ひつじ雲だ。

 荘介は首をがたんと後ろに倒し、空を見上げた。秋晴れだ。昨日の夕方まで降っていた雨は地面に心地よい湿り気を残している。

 正真正銘の紛れもない秋晴れだった。

 秋晴れの運動会なんて久しぶりだ。随分…随分…久しぶりだ。

 大きく息を吸ってみる。空気に香が漂っている。独特な香。清々しい雨上がりの匂い。葉を少しずつ散らし始めた木の匂い。秋そのものの匂い…。

 荘介は大空を見上げたまま、その香を味わった。自分の体がすっと空高く上がり、周りの雑音が下へ下へと遠ざかる…そんな錯覚の中、声が聞こえた。

「いい天気になってよかったですね」

 白髪混じりの品のよい男が笑いかけている。

「ほんとうに」  

 荘介も気さくな父親を装って答える。両親が揃っている父兄が多い中、父親のみというのは少数派で、同じ立場の親近感からか、男はひどく愛想よかった。

「桜田です。三年二組の」

 言葉を待つ桜田に、荘介も仕方なく口を開いた。

「玉井です。やはり三年二組です」

「玉井さんですか。譲二くんですね」

「ご存知ですか?」

「そりゃ、知ってますよ。譲二くんは有名人ですからね」
 
 どう有名人なんだ? 荘介は戸惑い、「ほお、そうですか」 老人のように少しスローに微笑んでみせた。桜田の様子は、家庭の事情を知っているようには見えなかった。

「ミドリが、よく譲二くんのことを話すんですよ。安心ですね、ああいう息子さんを持つと」

 どういう息子だというのだ? 

 荘介にできるのは、やはりスローに微笑むことだけだった。



 三年前、運動会の季節に家を出た。それ以来、家には帰っていない。家と呼ぶのもおかしいか…。もう自分の居場所はない。譲二に電話をすることも手紙を書くこともなかった。会いに行ったこともない。荘介が会いたいと言えば、良美は駄目だとは言わなかっただろう。それどころか望んでいたと思う。

 私たちのことは別として、あなたが譲二の父親であることには変わりはないわ。良美が言った確かな響きがまだ耳に残っている。

 けれど、やはり、後ろめたかった。どの面下げて息子に会えるというのだ。

 後ろめたさか…。本当にそれだけか。面倒だっただけじゃないのか、自分に問ってみる。

 新しい生活に足を踏み入れた自分にとって、取りたてて素晴らしいこともなかった平々凡々としたそれまでの生活が全て面倒だったんじゃないのか。煩わしかったんじゃないのか。真由子のためにも、それまでの生活を忘れ去りたかったんじゃないのか。

 真由子のため? 
         
 荘介は、今朝の真由子の嘲るような視線を思い出した。

 真由子のためか…。真由子との生活を壊さないためだったとしても、それは、やはり自分のためだった。真由子との生活の方が良美と譲二との生活より素晴らしい、価値があるものだ、と決めた自分のためだった。

 ただ、ごく最近、しきりに譲二のことを思う。

 大きくなっただろうな…。写真の一枚も持って出なかったことを悔やんだ。

 良美のことも思った。あの、柔らかい笑い声は相変わらずだろうか。

 家を出たきり思い出すことも面倒だと決め込んでいた二人のことを最近とみに思い出すようになった理由…それが分かっているだけに荘介の思いは複雑だった。
   
 女々しいようだが、真由子の冷たさが原因だった。追えば逃げる。ゲームの論理はわかっている。だから、荘介は冷静を装った。しかし、彼女の冷たさは過去の温かさを思い出させるきっかけになり、それが荘介の心を波立てた。


      
 二週間ほど前、郵便受けに入っていた一通の手紙。

拝啓   
 父さん、十月十四日の体育の日は僕たちの中学校の運動会です。母は、仕事で来れません。僕は父さんが来てくれると嬉しいです。都合がついたら、来て下さい。場所は青葉北中学校の校庭です。
                                                            敬具




 玉井荘介様、白い封筒の表に見慣れぬ字を見たとき、予感がした。これは大切な手紙だ、そんな予感がした。漠然と、真由子関係か…とも思った。真由子の新しい恋人か、嫌がらせか、今の生活を壊す何か…そんな予感もした。

 しかし裏返すと書かれていたのは玉井譲二という文字だった。荘介はしばらく頭の動きが止まったように、その文字を見つめた。

 封を切って短い手紙を読んだあと、荘介は手に握りしめたまま、喜べばいいのか、煩わしく思えばいいのか、ごく自然に受け止めればいいのか…どう反応していいのかわからなかった。

「あら、お帰りなさい。じゃ、行ってくるわね。久しぶりの集まりだから、遅くなるわ。どこか泊まるかもしれないから待ってないでね。どうかした? なんだかぼんやりしてるわよ」

 玄関で手紙を握り立ちつくす荘介に、ドレスアップした真由子が言った。

 どこかよそ者を見る視線で真由子は出て行った。その視線の余韻の中、荘介はしばらくそこに立っていた。

 譲二か…。
        

                  
 今日、荘介は開会式より少し遅れてきた。譲二に声をかけられるのが恐かった。こっそり行って後ろの方で隠れるように立って見よう。譲二には帰る時に声をかけよう。頑張ったな、応援したんだぞ…。もし話すチャンスがなかったら、後で手紙を書けばいい。そうだ。それがいい…。
  
 ところが、席は十分すぎるくらいあった。案内係の学生に、どちらの組のお父様でいらっしゃいますか?と聞かれて当惑した。三年です。三年何組ですか? あ、玉井くんのお父様ですか。じゃ二組ですね。二組はあちらです。あちらにおかけになって下さい。
                                  否応なしに坐らされ石のように固くなる。譲二は?とさがしてみたが、視線だけが泳いだ。

「次ですよ」

 桜田が言う。

 はいっ?

「三年生の百メートル走です」

「あ、そうですか。いやあ、教えていただいて助かります。プログラム忘れちゃったものですから」

「それじゃ、譲二くんの順番が来るたびお教えしますよ。ご安心を」

 桜田は親しげに笑った。

 緊張が荘介の体に走った。百メートル走…。譲二の走るのを見るのは五年生以来だ。

 荘介は必死で譲二をさがした。

 まだ這い這いしている頃から、譲二は荘介によく似ていると言われた。確かに顔の造作が似ていた。ただ、体型は違っていた。荘介の記憶にある限り自分は背が常に後ろから二、三番目だったが、譲二はひどく小柄だった。私に似ちゃったのね、良美が言った。でもね、可愛い顔に小柄な体型でしょ、小学校ではチビドルくんって呼ばれてるのよ、良美は笑った。

 荘介は身長に関しては大して気にしなかった。自分の兄がそうだったように、そのうち伸びるだろうと思っていた。荘介の親戚で背の低い者は一人もいない。

 チビドルも随分大きくなっただろう。

「あっ、譲二くんいましたよ。ミドリはあそこだ!」

「目が悪いもんですから、ちょっとわかりにくいんですよ」

「あそこですよ。三列目の右から四番目」

 三列目…。右から四番目…。必死で譲二らしき子をさがす。

 あれ…か…。

「向かって四番目ですか?」

「そうですよ」

「ああ、そうだ、そうだ、わかりましたよ」

 荘介はわざとほっとしたように大声を出した。

「どきどきしますよね、親ってのは」

 桜田の声が遠くに感じた。

 百メートル走の一組目がスタート。六人の男の子が走ってこっちへ来る。ゴールは斜め横だ。ゴールする瞬間は顔がかなり間近に見える。

 二組目がスタート!

 荘介の鼓動が速くなった。

 次が三組目。

「次ですね」 桜田が言う。

 ドン!

 走ってくる。五人の男の子が走ってくる。

 譲二! 譲二!

 見えた。譲二の顔が見えた。確かに譲二だ。最後から二人目だ。いったいどういう組み分けだ? 身長順じゃないだろう。譲二だけとびぬけて低い。その小さい譲二が転がるように走ってくる。頑張れ!荘介は以前のように大声で叫ぼうとしたが、声にならなかった。

「まあ、頑張りましたな」

 桜田が言った。

「はあ」

 荘介は呆然としていた。自分の気持ちをどうとらえていいのかわからなかった。荘介が思い描いていた三年ぶりに見る息子とは、かなり違っていた。小柄なら小柄なりに逞しくそれなりに成長していると信じて、そんな息子を見ることにひどく感傷的になるだろう自分を想像していた。

 しかし実際の譲二は、バランス悪くずんぐりと小太りだった。ゴールにとびこんで来る顔、転がるような走り方、丸々とした身体が左右に揺れる。女体型だ、ひどく客観的に荘介は思った。

「譲二君のおかげで、クラスがどれほど明るくなるか、よくミドリが話してくれるんです。出しゃばらないけど、ここぞというときのまとめ役っていうんですか、いいお子さんですね」

 荘介の知っている譲二はひどく恥ずかしがりやだった。引っ込み思案だった。

 荘介はなんだか肩すかしをくらったような気分だった。譲二はもう自分が知っている譲二じゃない・・・。そんな風に感じている自分に気づき、その気持ちをふるい落とそうと、肩をぶるっと震わせた。

 興ざめか…。自分を嘲笑いたくなった。確かに荘介は興ざめしていた。朝から高ぶっていた気持ちが急速に冷めていく。

「ミドリ! 頑張れ!ミドリ~!頑張れ!! やった! 一位ですよ。ミドリが一位ですよ」

 隣で桜田が騒いでいた。



「悪いけど、今日は出かけるよ」

 昨夜、何時に帰ったのか、今朝まだ寝ている真由子に声をかけると、真由子は目を開け、少しぴくんとして、一瞬ここはどこだったっけというように周りを見たが、荘介を見るとどこか不自然な笑みを作った。

「あら、そうなの、久々の晴れだっていうから、どっかに行こうと思ってたのに」

 言葉とは裏腹にホッとしたような機嫌のいい声を出した。

 真由子の機嫌のいい声は久しぶりだった。明らかにその機嫌のよさが休日の自分の不在がもたらすものだと感じ、荘介は皮肉な笑いを浮かべた。

「どこにって聞かないのかい?」

 以前の真由子だったら、どこに?どこに? と何度も聞いたものだ。

 はいはい、というように、あくびをしながら真由子は聞いた。

「どこ?」

「譲二の運動会なんだ」

「えっ?」

「息子の譲二だよ」

「ああ、譲二くんね。でも、どうして急に?」

「手紙が来たんだ。運動会に来てくれって」

「そうなの」

「うん、三年ぶりだ」

「三年ぶりか…。じゃ、あたしたち三年間もってる…ってことか…」

「…ま、そうだな」

「…ねえ」

「何?」

「あ、うん…別に…」

「何か言おうとしただろ。言えよ」

「…うん…ただ、もう、そろそろだと思ってないかなって…」

「そろそろって何がだよ」

 荘介は声を荒げたかったが、出来るだけ平淡に言った。

「うん…。そろそろって思ってないかな…って」

「真由子が思ってるんだろう?」

「え。あたし? 思ってないわよ」

 そのあと真由子は小さく笑った。ふふふふふ…鼻に抜けるように小声で笑い、荘介を見た。

「何が言いたいんだ」

「別に…。そっちこそ何か言いたいの? たまには思ってること言ってみたら?」

 真由子の目が険しくなった。その視線に、自分が我慢してつないできた小さな糸がぷつん、と切れた。

 思わず手が出そうだった。溜まっていた真由子への疑いと怒りが膨れ上がり、想像の中で真由子を叩く自分が見えた。

 真由子を叩く…実際に実行に移さないにしてもそんなことを考えるのは初めてだった。

 何すんのよ。馬鹿男! 想像の中で頬をぶたれた真由子が頬に手をあて、荘介を睨みつけている。ほんとに馬鹿男なんだから!馬鹿男!もう一度言ってみろ! 荘介が真由子にのりかかり、その肩を揺すぶる。栗色に染まったセミロングの髪が床に広がり、その中で真由子の顔が青ざめていく。

「どうしたの?」

 真由子が怪訝そうに荘介を見ていた。

「伸二とはどれくらいになる?」

「あ…知ってた…?」

「真由子が思ってるほど馬鹿男じゃないからね」

「そんなこと思ってないわよ」

 ひどく冷たい口調だった。

 出る準備をする荘介を、真由子はじっと見ていた。そして口だけ動かす、そんな感じで言った。

「話はもう少し後でと思ってたんだけど、今こんな話になったなら仕方ないわ。…少し、距離を置いてみましょう。よかったらしばらく他に移ってくれるとありがたいわ。もちろんあたしが出てもいいんだけど…荷物あたしのものが多いし…」

 実際の真由子は言っていなかったが、荘介の頭の中の真由子は言う。
 
 ここ、あたしの名義だしね…。

 終わった…。

 荘介は思った。

 真由子に誠意のないのはわかっていた。三年も暮しているのだ。自分と別れるきっかけを待っているのも感じていた。ただ、男の家庭を壊して一緒になった仲だ。男をたぶらかすだけたぶらかし捨てた、と思われたくなかったのだろう。自分名義のマンションのローンを払わせるだけ払わせるのも悪くないと思ったのかもしれない。延ばせるだけ延ばして、荘介の方に別れるきっかけを作らせよう、それが彼女の策略のようにも思えてきた。

 これまでも喧嘩はした。真由子は泣きじゃくって見せた。ろくでなし! そうも言ったが、それには甘えのトーンがあった。真由子が言うろくでなしは、シャンソンに出てくるろくでなしだった。けれど、今日は違った。真由子はろくでなし、という代わりに、その目で、馬鹿男と言ったのだ。

 終わりだ…。



 晴天下、万国旗翻る中、真由子との一連の出来事を考えると、この三年間のことが遠いところで起きたことのようにも思えてくる。何夢見てんのよ、と良美に揺り動かしてもらったら、真由子とのことは夢の中のことと忘れられたら、一瞬そんなことも思った。譲二はまだ5年生のままで…。

 良美…。

 良美を思った。親不孝息子が母を思う懐かしさで良美を想った。

 素朴で優しい女だったと思う。驚きや称賛の目で見たことはないが、存在そのものが優しかった。彼女に何の不足があったわけじゃない。ただ……。

 あの頃、真由子を取り巻くすべてが新鮮で美しく思えた。洒落たカフェで真由子がつまむ薄っぺらなピザ。真由子の美しい指先が、身なりに構わぬ妻の洗剤負けした手を見慣れていた荘介にはまぶしかった。

 真由子の好むなんとかというブランドの靴、繊細なラインを描くドレスを着て微笑む真由子、流れるような視線。見せるためのナイトウェア。荘介はときめいでいる自分を感じた。

 荘介にとって真由子は何だったのか。真由子は荘介の満たされぬ思いに入り込み、そのまま居座った何かだった。良美は誠実で子供はそこそこ健康で…それゆえエキサイトメントがなかった。贅沢な話にしても…。

 荘介は若い頃、都会的な暮しに憧れてきた。小さい頃から漠然と。都会的な暮しとはいっても幼稚な想像の域を出なかった。ハイウェイのテールライト。高層ビルのイルミネーション。北欧製のシンプルにエレガントなインテリアグッズ。クリスマスシーズンが持つ華やいたエキサイトメントと、フィルムノワールが持つ冷めたスタイリッシュさ。

 都会暮しにはそんなイメージがあった。荘ちゃん、田舎に置いとくにはもったいないねえ。おばちゃんがもう二十才若かったら荘ちゃんに惚れちゃうよ。親戚のおばさんの言葉を聞きながら、自分には都会的な容貌とセンスがあると信じていた。
 
 天才ではなくとも秀才だった。だから、漠然とした夢があった。漠然としたドリームがあった。しかし実際の都会暮しの中、計画性のない夢はファンタジーで終わり、輝きはいつしか失われた。昼は会社に努めながら、夜は税理士の勉強をし始めた。

 都会暮し十年目、ひなびた独身寮暮し四年目にして良美に会った。会社の運動会に関連会社のOLとして参加していたのだ。小柄な体に空色のトレーニングウエア、真っ白のサンバイザーが清々しかった。ストレートな視線、弾けるように動く瞳。「召し上がる?」ぎっしりと色よく詰められたお弁当に箸を伸ばし、「うまいね、君が作ったの?」と聞くと、「いいえ、ほとんど姉が」と答えたその素直さが気に入った。

 良美と会って荘介は落ち着きを取り戻した。当時荘介は疲れていた。心が潤いを失い、蓮根のように穴空き状態。そこを心無い言葉や視線や状況という名の都合屋がヒューヒュー通り抜けていく。そんな荘介に良美は水を与えてくれた。荘ちゃん、目が輝いてきたよ、叔母が言い、玉井くん、何かいいことでもあったのかい、上司が聞いた。

 結婚は自然のなりゆきだった。激しい恋愛感情はなかったとしても。良美への思いは、植物が水を欲しがる、魚が水面に顔を出し、酸素を求めてパクパクするのに似ていた。

 なのに、時が経つと、何かが不足して思えた。良美は荘介に陽を降り注いだが、それだけては物足りなくなった。水と陽光でそこそこ素朴な葉をつけた植物は、落ち着くだけ落ち着くと魔力の一滴を渇望し始めた。

 そうだ、満たされた生活が十年以上続き、荘介は自分を輝かせる何かに飢えていた。もう光と水だけではだめだった。自分を輝かす妖しい輝きが必要だった。良美は一年一年肉付きがよくなり、瞳の美しさに変わりはなかったが、二人の間にときめきは残されていなかった。譲二は顔こそ荘介に似ているが、どこか愚鈍に思えた。自分のような繊細な感覚がない。何をやっても目立たない。自分はもう少し可能性を秘めた子だった。それが今では普通、平凡を絵に描いたような生活をしている。じゃ、この子はどうなるのだ。自分への失望を妻と息子に向け、生活はつやを失い、荘介の苛立ちは高まった。   
                
 そんなとき真由子が現れた。少年時代のようなときめき。華やかなシーズン再来の可能性を感じさせた。どこかしらクールな香りも鼻腔に漂い始め…荘介は傍から見ればおかしいほど真由子に魅了されていった。

 良美は荘介の浮気を知っても取り乱すことはなかった。問い詰められたら浮気じゃなくて本気だ、と言ってやろうと思っていた荘介は拍子抜けした。どうして? とか、私たちの生活費はどうするの? など聞くことなく、「運動会には行ってやって下さいね」と彼女は言った。荘介は肩すかしをくらったように良美を見た。

「荘ちゃんの心が私や譲二から離れていくの、感じてたわ。でも、どうしようもないわね。私は私なんだし、私じゃないものを欲しがってる荘ちゃんをどうしようもないわよね。だから私はいいの。でも譲二は傷つけてほしくない。父親の心が離れてくって耐えられないと思うの。譲二には何の罪もないんだし…。それにあなた、あの子のヒーローなんだから。運動会にあなたの声援がないとあの子気落ちするわ。あなたはあの子のヒーローなんだから」

 ヒーロー…か。「頑張れ!頑張れ!」と、運動会で譲二を応援する自分の声が聞こえ、自分がヒーローになりたいのか、譲二にヒーローになってほしいのか、混乱した。「行ってやってね」 良美が見つめた。しかし、荘介は首を縱に振ることができなかった。

 真由子との時間…。ほろ酔い気分で肩を抱き、眠らぬ街を歩く時間…。灯りを消したマンションの中での真由子との時間…。彼女との様々な時間に酔っていた荘介には、運動会での子供の応援は過去のものに思えた。正直、したくなかった。人知れず潜ろうとしている輝きのある世界から摘み上げられ、炎天下にほおりだされるような気分になりたくなかった。

「出来ないかもしれない…」

 その言葉に、良美は泣いた。その時初めて泣いた。涙を頬に伝わせ、静かに泣いた。

 そんな良美を置いて、荘介は出ていった。人間冷たくなればなれるもんだ、と思った。「ごめん」とも言わず、フィルムノワール気取で出ていった。家庭を捨てるのも大したことではない、と思おうとしたし、実際大したことだとも思わなかった。真由子のこととは関係なく心は既に離れていたのだ。ここは自分にふさわしくない場所だ。馴れ合いだけでいる場所ではない。人生一度しかない。心の中で都合のいい言葉を並べ立てて出ていった。良美が涙あふれる目でじっと見つめて立っていた。それが良美の唯一の抵抗だった。

 家を出て三ヶ月目には給料の振り込み先を自分の新しい口座に変えた。良美に残した通帳には数百万の金が残っている、マンションのローンだけは払い続けよう、これで良美たちは住むところには困らないはず。最初の数ケ月こそ生活費を送金したが、そのあとストップした。真由子を喜ばせるに金はいくらあっても悪くはない。いつまでも真由子のマンションに居候するわけにいかない。新しいマンションを借りるにも、時折のプレゼントにも、洒落たレストランでの食事にも、金は多い方がいい。

 良美には電話はした。「こっちもいろいろ入用なんでね」そう言う荘介に、良美は小さなため息をついたが、そのあと比較的明るい声で言った。「大丈夫よ。出来る範囲でしてくれればいいわ」

 荘介はそれを信じた。心から信じたわけではないが、その都合のよさに甘えた。良美の実家はスーパーを二店経営している小金持ちだ。これまでもいろいろ援助してもらっている。良美と譲二くらいどうにでもなるはずだ。良美に残したマンションのローンだけでも毎月かなりの額になる。払い続けた後は、良美たちの財産となるのだから、それで許してもらおう。そうだ、それでいい。荘介は良美の「大丈夫よ」の言葉をビンに入れ、固く固く蓋を閉めた。

 いろいろ反芻しているうちに、荘介は息苦しくなってきた。吸って吐いて吸って吐いて…。こんなことは初めてだ。もう若くはないのだ。ここで急に倒れても不思議はない。
 
 荘介に何かあっても誰が悲しんでくれるわけでもない。しかし、少なくとも真由子より、良美と譲二の方が悲しんでくれるだろう、そんな気がした。なのに、真由子のために二人を捨てた。実のない「何か」のため二人を捨てたのだ。

 時計は十一時をさしていた。昼の休憩は何時からだろう。譲二は声をかけてくるのだろうか。荘介は急にパニックに陥った。どんな顔をして譲二に会うというのだ。もう、荘介の知っているあの幼い譲二ではない。はちきれそうな顔と体をした譲二、いつの間にかクラスのまとめ役になった譲二なのだ。

 荘介はいたたまれなくなって立ち上がった。

「すみません。ちょっと急用を思い出して…」

「戻ってこられますか? 譲二くんが探しに来たら、どう言いましょうか」

「あ、はあ。多分戻ります」

 もつれる舌でそう言い、荘介は門へと急いだ。



 中学校の周りは閑静な住宅街だった。一つ一つの家は小ぶりだが、それぞれ品よく建ててある。建て売りではないな、荘介は思った。

 良美とマンション探しをしたのは、譲二が生れて数年目だった。二人とも社宅暮しに嫌気がさし、そろそろマンションを買うのもいいと思ったのだ。さすがに良美の親には頼めず、一軒家には手が出なかった。

 良美は週末になると新聞に挟まれた不動産の広告を見てはため息をついた。買える買えないにかかわらず、一つ一つを丁寧に見てはため息をつく良美。そんな良実に愛情を感じていた。いい暮らしをさせてやりたい、譲二をいい環境で育てたい、そう思っていた。

 何が変わってしまったんだ。

 わからない。理由なんてない。今は考えたくない。しかし……。

 自分以外責める対象は見つからなかった。妻への愛情のみならず、息子への愛情も無くした自分を責めるしかない。無くしたのだろうか、それとも常に存在していたが、他に目がくらみ相対的に無に思えたのか。馬鹿な…。相対的に無に思える愛情なんて真の愛情じゃない。今だって良美や譲二のことを思うのは、真由子に捨てられたからだ。淋しいからだ。それは愛情じゃなく、身勝手な淋しさでしかない。

 真由子…。

 未練があるのか…。

 ある、と思った。真由子の人間性はともかく、未練はあった。いや、真由子といることで自分につく付加価値に未練があった。真由子がいなくなれば、自分は結婚に失敗し、女に捨てられた駄目男だ。惨めじゃないか…。

 しばらく荘介は真由子に夢中だった。自分には手に入らないと思っていた美しく洗練された雰囲気をまとった女…。

 真由子に何かをしてもらおうと思ったことはない。ただ、真由子と一緒にいる自分が前より価値ある男に思えた。真由子は安心感を与えるかわりに張りを与えてくれた。家庭とはほど違い、永遠に続くとはとても思えない刹那の感覚がクールだった。そしてその感覚に荘介は酔った。
 
 しかし、真由子は自分に飽きてしまった。妻子持ちの憂いある男と恋におちたつもりだったが、男はいつの間にか平凡な取り柄のない中年男になっていた。思えば、真由子が長く愛用しているものなんて何一つないじゃないか。自分は飽きられずにいた方だ。一体、この三年間は何だったんだ。真由子に対するのは愛などではなく錯覚だったとわかったところで、前より利口になったと誉められるものでもない…。

 運動会には戻りたくなかった。荘介は小さな公園のベンチで置物のように腰掛けたまま動かなかった。このまま、固まってしまいたかった。真由子と暮し始めたときに転職した会社での先も見えている。税理士の勉強も途中で辞めてしまった。父方の叔父が税理士になるなら自分の税理士事務所で働け、後を継いでもいいしなどと有難いオファーをしてくれたが、試験に受からなければしょうがない。

 うぉぉぉぉ・…・。小さな呻き声がもれた。

 名義は真由子でも実際に頭金とローンは荘介が払ってきたあのマンションから自分は追い出されるのだ。

 貯金なんてもうほとんどない。ワンルームマンションでも借りて住むにしても、もう若くはないのだ。もう一度、新しく女を探して一緒に暮らす自信も意欲もない。

 時計は一時をさしていた。二時間も感傷に浸っていたのか…。

 戻らなければ、と思った。あなた、譲二のヒーローなのよ、良美の声が聞こえてくる。ヒーローはともかく、あの手紙を譲二がどんな思いで書いたのか。何を無責任な父親に言いたかったのか。戻って、声をかけることが、今自分に出来る唯一のことだ…。



 会場は午前より活気づいていた。明るい歓声があがっている。

「やあ。お帰りなさい」

 桜田は古くからの友人を迎えるように言った。

「譲二くん、障害物では活躍しましたよ」

「そうですか」

「ええ。なかなか頑張ってました」

 詳しく言わないところをみると、順位的には大したことなかったのだろう。

 荘介は運動会ではいつも一位だった。何をやっても一位だった。運動会の日はいつも心地よい緊張感で満ちていた。走り出すと、自分が大きく感じた。胸でテープを切る気持ちよさ。玉井くーん、という女子生徒の歓声。最高だったな、あの頃は…。

「今度が譲二くんの最後の種目ですよ」

 カップルで走る二人三脚だった。譲二は彼より十センチは背が高いすらりとした女の子と組んでいた。

「かおりくんです。いわば二組のマドンナですよ」

 荘介は頷いた。

 譲二とマドンナの組がアンカーだった。どうしてよりにもよってアンカーなのだ。荘介ははらはらもしたし苛々もした。

 譲二たちにバトンが渡ったとき、僅差でトップだった。その譲二たちを三組が追っている。

 最悪だ。トップでバトンをもらい、抜かれてゴールするほど格好悪いものはない。
 
 荘介は目をつぶった。見てられないとはこのことだ。
 
 大きな歓声が上がった。目を開ける。譲二たちが抜かれようとしている。

 あ・あ・あ・あ……

 荘介は立ち上がった。

「じょうじぃぃぃーーー、頑張れーー!」

 叫んだ。立ち上がり叫んだ。

 叫びながら、どうにでもなれ、と思った。勝ち負けじゃない。自分のことだ。どうにでもなれ。真由子が別れたいならそれもいい。一人で暮すことになればそれもいい。もう、どうにでもなれだ。

「頑張れぇぇぇぇー!! 頑張れ、頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れぇぇぇぇぇ!!!」

 のどか張り裂けんばかりに叫んだ。溜まっていた体の淀みを吐き出すように叫んだ。狂ったように叫んだ。

 と、その瞬間、譲二が揺らいだ。譲二の周りの空気が揺らいだ。譲二が変化した。変化…? 変身…? ウォンバットに似た毛の短い動物の顔…。

 は…? 頭が狂ったのか? マドンナと二人三脚しているのは顔中にみっちりと焦茶の毛を生やした小さな目をした生き物だった。体型は人間なのだが…。

 な、なんなのだ…?ついに頭が狂ったか? 

 次の瞬間、コーナーをまわる譲二は人間の顔に戻っていた。



 結局、譲二たちは三位だった。遠目にみる譲二は、別に負けて悔しそうな様子にも見えなかった。足のロープを解きながら、組んだ女の子と談笑している。

 ロープを解き終わって立ち上がった譲二がこちらを見た。荘介を見た。さがす様子なく、真っ直ぐに見たところを見ると、荘介のいる場所を知っていたに違いない。

 荘介は手を振った。手を振りながら涙が出てきた。荘介は笑いながら泣いた。涙の栓をポンと弾き跳ばされたかのように、荘介の涙は止まらなかった。ありがたいことに、そんな荘介に異様なものを感じたのか、桜田は話しかけてこなかった。



 閉会式が終わり、譲二が近づいてきたとき、良美に似ていると思った。三年前までは自分にそっくりだと思っていた譲二が、良美によく似ていた。

「ほおー、譲二くんはお父さん、そっくりだね、こうやってみると」

 桜田が声をかけた。

「似てますか?」

 譲二が言った。声変わりしたその声は、もはや荘介の知らないものだった。

 片づけが終わったら行くから待ってて、と譲二は喫茶店の名を言った。カフェ・ハーヴィという歩いて十分ばかりのカフェだった。中学よりは小学校に近いところで、以前、譲二を何度か連れていったことがある店だった。

「ああ、いいよ。父さん、今日は一日空けてあるから」

 父さんという言葉がのどにひっかかった。

 譲二は少し照れたような目で荘介を見た。と小さい頃の譲二の顔に重なり、荘介は動揺した。