意外なことが意外な時に起きる…。

 こんなことが起ろうとは思ってもみなかった。

 うっすら目を開けると、梅雨明けの陽射しがまぶしかった。レースのカーテン越しに薄緑色のモミジの葉が揺れている。



 目が覚めた時はほんのきしみ程度の変化だった。

 体の中のどこかがジジ、ジジと音をたてている。

 微かではあったが毅然としたきしみだった。目を開けると、部屋の隅に自分で脱いだのか、着ていたはずの下着とパジャマがくしゃっと固まっているのが見えた。

 次の瞬間仰天した。タオルケットのかけられていない自分の膝から上が目に入って仰天した。
 
 まさに…仰天した。

 自分の慣れ親しんだ体ではない。それどころか、理解不能な物体になっている。頭がぐるぐる回りだしたとき、「マモル。そろそろ起きたほうがいいわよ」
カサカサした妻の声がした。冷たい、というよりカサカサした声。

 マスター・オブ・ザ・ユニバース。トム・ウルフの小説の主人公が言う。マスター・オブ・ザ・ユニーバース…。世界、いや宇宙をも支配しているかのごとくの達成感。そして支配感。高揚した気持ち…。

 昨日まではそんな気持ちを抱えていたはずだ。

 思い切って転職してから、収入はうなぎのぼりだった。5、6年前の機械メーカー勤めだったころが嘘のようだった。毎日、妻のお弁当を持って通っていたころ、妻は今より15キロは細く、皮肉と冷たい視線とも無縁で、僕は平凡さにそこそこ満足していた。

「もう起きないとだめなんじゃない? お客さんが来るんでしょ」

 妻の声が響く。

 な、なんなのだ。このきしみと、この不思議な体は。

 目を閉じてみる。夢から覚めることを願う。体のきしみは続いている。特に首と背中と脚の関節と…。体の遠くで感じた小さなきしみは、今、体の表面全体に広がっていた。確実にきしみが広く深く進行している。

 夢の中で夢だったらどんなにいいだろうと思い、手をつねってみるがやはり現実で…ひどく落ち込んでいると目が覚める。そんなことが何度もあった。これだってそうに違いない。現実だとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しい。

 妻が階段を上がってくる足音がする。妻が物置にしていた小さな部屋を自分の書斎と称して寝室を分けてから四年になる。

 触れる回数で親愛の度合いが決まるなら、冷蔵庫は極めて親愛なものとなる。電子レンジもかなりのものだ。コーヒーメーカー、トースター、テーブル、椅子。便器のカバー。しかし触れないにしては妻の存在感は圧倒的だった。最近の彼女は無関心を装った批判と諦めに満ちた視線で空気をぐいぐい押してきた。

 妻とは入社五年目に出会った。麻子は総務課の雑用をしていたが、3人官女の一人のようなこじんまりした顔に何気ない愛らしさがあった。エリート大卒の社員に人気が集中する中、どこといって取り柄のない僕を少し気に入ったようだった。あとで聞くとゴキブリ事件のとき毅然としていたからだという。

 ゴキブリ事件…それは社内の飲み会の後のことだった。翌日に控えたプレゼンの資料を忘れたという同僚に付き合って、皆でぞろぞろと会社の大部屋に入っていった。電気をつけると、10数匹のゴキブリが一斉に飛んできた。ゴキブリの奇襲。暗闇に隠れて時が熟するのを待っていたかのごとく入ってきた人間を一斉に襲う…。実際は明かりと人間が発する臭いなのか熱なのかに刺激を受け、一斉に飛んできというのが正解なのだろう。

 皆、ゴキブリが一匹たりとも飛んだところを見たことないものだから、その時の混沌といったらなかった。

 あ~~~~~! 
 お~~~~~~!

 確か男六人と女四人だったが、点数主義のカズキも、爽やか好青年系のジュンヤも血相を変えて逃げまどった。シュンヤは鼻を机の角にぶつけ、大げさなほどの鼻血をポタポタまき散らした。

 その中で僕だけが落ち着いていたらしい。1、2匹、僕のところへ来たゴキブリを軽く手で振り払い、麻子の方を見て、大丈夫だよ、と仏のごとく微笑んだという。よだれを垂らさんばかりに大声で叫び続ける他の男どもに比べ、凛々しい僕からは後光が差して見えたのだそうだ。

 それから1年ばかりあとの結婚式では、ゴキブリの取り持つ縁という有難くもないスピーチで盛り上がった。



 麻子の階段を上がる足音が近づいてきた。ラスト三段くらいか…。今にもドアが、と思ったとき、「あら!」とパタパタ階段を下りていく。ケトルがピーピー鳴り始めた。

 とりあえず僕は起き上がってみることにした。この体ではとても無理なのでは、と思ったが、勢いをつけるとコロッという感じで起き上がることができた。

 見れば見るほどグロテスクだった。硬くてひだのようになった腹。体全体が茶色だ。中古車の車体のような色褪せた茶色。

 手のひらを上にして腕をあげてみた。体の割に細い腕、小さな手、細い指。ウゥッと声にならない声をあげそうになったが、その割に妙に落ち着いている。何なのだ?この妙に落ち着いて観察している自分は…。虫のようにぎざぎざではなく、5本の指、細くて節々っぽく体と同じ色ではあるが、5本の指がある手。指を曲げようとすると、普段とさほど変わらず一本一本曲げることができた。

 そしてガニ股気味な茶色の奇妙な脚。質感、細さ、色は虫であるが、形は人間らしさを残している。昆虫の足に人間の足のエッセンスをふりかけたような脚だ。足の先はあの昆虫独特のぎざぎざではなく、何かの動物、爬虫類か?のようで指すらきちんと5本ある。普段は27センチの靴を履くのだが、今では20センチあるかないかに見える。脚全体の長さは60センチくらいか。小さな脚でころりとしたかなり重たげな体を支えている。

 そのとき、脇腹からなにかがぶらぶらしているのに気がついた。な、なんだ、これは…。

 そうか、昆虫なら足は6本か。左右の脇腹についているその二本の物体は、動かそうとするが感覚がなく、仮装大会の衣装のように形だけつけたようだった。足のような、手のような…その奇妙な物体はぶらぶらしているだけで、動こうとはしない。不思議なもので、自分の意思で動く手と足に関しては、見かけにかかわらず僅かながら親しみに似た感情でその存在を認めつつあるのに、脇腹から出ているそのぶらんとしたやつだけは不気味だった。ひっこぬきたい衝動にすらかられた。

 なんとか状況を把握しようと、しばらく立っていた。細い脚が丸い大きな体を支えていることが不思議だったが、立っていて違和感はない。一歩二歩と前後に脚を動かしてみる。

 やはりこれは夢だ。この状況にもかかわらずこんなに冷静でいられるのは夢だからだ。自分は裸なのか。すっぽんぽんってことか。何かを腰に巻くべきか…など思ったりできるのも、やはりいつかは覚める夢だからだろう。

 けれどピーピーケトルをとめた妻は現実味を帯びた足音で再び階段を上がってきている。

 麻子が僕を見たら、どうなるんだ。顔を見て僕だとわかるのか。顔… そうだ顔は? 体は確認できたが顔は? くるっと見回すが、この部屋には鏡がない。前足、いや手で顔を触ってみる。硬質…。顔があるべきところを触っているのに全く未知なものに触っている。自分の顔であって顔でない。妻が見たら、妻が見たら…なんというだろう。
 ああ~~~~~! 
 きゃ~~~~!
 皆が飛んできたゴキブリに大パニックの中、一人微笑みを浮かべ立っていた妻。田舎育ちで、蝉、てんとう虫、バッタ、イナゴ、バナナ虫、ナナフシ、すべての虫が好きだと言っていた妻。ゴキブリってカブトムシのメスと大して見かけかわらないのに、行動パターンが違って不潔だからって人間に嫌われてかわいそうね、とすら言っていた妻。ゴキブリにさえ優しいコメントをしていたくらいだから、巨大だとしても僕はゴキブリよりましなはずだ。何かの虫には違いないが、頭を触ってみるが触覚もないし、ギザギザの足もない。ぶらんとした脇腹から出た足以外は大丈夫だ。大した根拠もないのに、大丈夫だ!と自分に言い聞かせた。

 あの微笑みを浮かべ立っていた妻は二十年を経て変わっただろうか。



 麻子も自分も確かに変わった。二人の関係も変わった。

 香澄の顔が浮かんだ。可憐で人懐っい香澄。女性に格付けなどしたくないが、もしするとしたらトップシェルフにおかれるだろう香澄。

 では麻子はどこに置くべきか。

 麻子は階段の最後の数段をひどく重い足取りで上がってきた。小鹿のように駆け上がっていた時もあったが、今はポテポテとしている。

「起きてるの?」

「あ…うん」
 
 声が…出た。少し金属音がかっているが声が出せた。そもそも虫は羽をこすり合わせて鳴くのだ。虫は口から音を発することがあるのか。食べ物を噛み砕く以外に口を使うことはあるのか。

 戸が開く。その瞬間、僕はころんと後ろ向きに倒れた。大きな虫が立っているより横になっていた方が威圧感が少ないと思ったのだ。

 倒れた瞬間、目をつぶった。夢であるように祈った。目を開けると目が覚めていますように。

 目を開ける。…パジャマの上にエプロンをつけた麻子が立っている。ファッション度外視のメガネをかけ、髪をひっつめた麻子はいつもより大きく見えた。夜ひとりでスィーツを食べるのがここ数年のくせになっている麻子は一段と丸々してむくんで見えた。

 目が合った。

 うっとしたように妻はひるんだ。顎をひいて僕を凝視する。僕は怖がらせないようにできるだけじっとする。1ミリたりとも動かぬように。しかしどうしても目だけがぐりぐり動くのをとめられない。

「どしたの?」

 驚いたことに麻子は意外に静かな、それでいてすぱんとした声で言った。

「どしちゃったの?」

 近くにきてすとんと膝をついた。夢だ。夢でしかない。僕は安堵した。現実だったら虫になった夫を見て「どしちゃったの」で済ます妻はいない。

「ねえ、どしちゃったの?」

 麻子は僕が登校拒否ならぬ登社拒否をしてぐずっているかのように言った。

「わからないんだ」

 やはりちょっと金属音だった。

「あら、しゃべれるのね」

「僕だってわかる?」

「わかるわよ」

「なぜ?」

 麻子はナイトテーブルの引き出しを開けた。まだ寝室が一緒だったころ、妻が使っていたナイトテーブル。そこから小さな手鏡を取り出し、僕に差し出した。

 僕はそれを手にとり、覗き込んだ。恐る恐る…。

 昆虫をアニメにしたときのような顔だった。擬人化。バグズライフにしてもアンツにしても、出てくる虫たちは決してぎざぎざした口を持っていない。僕の顔は人間と昆虫の中間だった。いや、中間より…人間よりだ。ハエの遺伝子が入った男がどんどんハエになっていくという映画があったが、その主人公よりはずっと愛嬌がある顔だ。目だけはそっくり僕のものだし。僕の目が硬質の顔の中に埋め込まれ、ぱちぱちしている。

「ね、マモルでしょ」

 僕はうなづいた。

「で、大丈夫なの? 具合は悪くないの? 息が苦しいとか」

「いや、気分は悪くない」

 もちろん気分は最悪だったが、体調は悪くはないと思った。

「それはよかった」

 夢以外の何物でもない。虫になった僕の体調を心配しているのだ。僕たちはしばし見つめ合った。じっと見つめ合うなんて何年ぶりだろう。毎日会っているはずの麻子は記憶の中より優しく見えた。すっぴんの肌にそばかすが浮き上がっていた。香澄と違い、生活臭に満ちた妻の顔をまじまじ見て変わったなと思い、おかしくなった。今まさに大きく変わったのは僕の方なのだ。



 数日前、荘太が「変身」の本を読んでいた。

「へーえ、カフカ読んでんのか」

「指定図書なんだよ。仕方ねえよ」

 荘太ちゃんはなんて品よくって可愛いんでしょ、それに比べたらうちのは野生のアライグマよっなんて二軒隣の米沢さんが言うのよ、と妻から聞かされたのはいつのことだったか。

 荘太は自分によく似ている。そう思わないでもなかった。僕の顔は意外に整っているのだ。高1になった荘太は前髪を伸ばし妙に身なりに気を使うようになっていた。不良とは程遠く歳の割には扱いやすいのだろうが、父と子としての関係は以前より遠くなったように感じていた。

「ヘンシン、ヘンシン」

 本のタイトルを翔太が繰り返した。

「ヘンシン、ヘンシン」

 意味というより音を楽しんでいるようだった。

 翔太は、声変わりする前は、男の子にしても甲高い声だったが、声変わりをした今は僕より低く、声を聞いたらその幼い話し方が意味することは明らかだった。

 ヘンシン、ヘンシン。そう言いながらテーブルの周りを翔太は回りだした。独り言のようでもあり、周りからの働きかけを待っているようでもあった。

 翔太にどう接していいのか、ひどく悩んだ。翔太の話しかけに一生懸命答えたつもりでも「あー、それ、ただの独り言なの」と麻子に言われることもあれば、独り言だとほっておいたとき、「どうして答えてやらないの」となじられたこともあった。

 翔太は体は随分大きくなったが、顔は麻子に似て丸く幼い感じだった。時折、彼の世界に僕が存在しているとわかるときがあった。笑いかけるとにっこり笑い返してくれた。手を差し出すと指先にちょんちょんと触れてくれることもあった。

「ねえ、お母さんがいきなり虫になっちゃったらどうする?」

 麻子が翔太に聞いた。

「虫って大きいやつ? 小さいやつ?」

「うん、小さめ」

「蚊くらい? 昨日そこの壁にいた蜘蛛くらい?それともカナワ君が飼っていたカブトムシくらい?」

「う~~ん」

「2センチくらい?」

「それよりさ、この本みたいに、そのままの大きさで虫になるってのがいいんじゃないかな」 荘太が言う。

「そのままって幅が? それとも長さ?」

「そうだよな、翔太、いいとこに気がついたよな。長さ、身長がそのままで虫になるってことはさ、しかも甲虫系だったらさ、すごーくヒュージだよな」

「ヒュージ、ヒュージ、ヒュージ!」

「それじゃ、ドラえもんも顔負けの迫力だわね」

 麻子が笑った。これだけは若い頃と変わらない。ころころとした笑い声。

「でも家族が虫になるってやっかいだよな。だんだん面倒になるのわかるよ。なんたって虫だからさ」

 荘太が言う。

「虫になったのママだ。ママと同じ。ママと変わりない」

 翔太が少し怒ったように言った。

 虫か、虫になってこの家から逃げてしまいたい。そのときふとそんなことを思った。逃げて香澄のところへ飛んでいく。香澄の住むマンションへ。



 妻は虫人間の僕の目を覗き込んでいる。

「今日は松川さんって方が来る日よね」

 麻子の言葉に心臓がコトンとなった。焦るといつもコトンとなる。虫人間になってもコトンとなった。

 奥様に会ってみたいの、初めて香澄にそう言われたのは何カ月も前だ。一年以上前か? これ以上断ると香澄が離れていってしまう。香澄を失ってしまう。追いつめられて、うん、とうなづいた。どれほどの数の男が同じような状況に同じようにうなづいたのだろう。

「でも僕からまず話すからさ。実質夫婦であってないようなものだから、妻は逆上したりしないと思うよ。ただ子供がいるしさ」

「いいの、取りあえず会って存在を知っていただくの。奥様に会ってみたいだけなの」

「ちょっとだけ待ってくれるかな」

「どうしようかなあ」

 香澄はくすっと笑った。

 マモルの部下の松川さんが会いたいんですって、と麻子に告げられたのは、それから数日後だった。

「ああ、仲人を頼まれたからね。君にも会っておきたいいんだろう」

 なんて下手な言い訳だろう。

 そして今日がその日だった。

「何時だったっけ? 松川君が来るのは?」
 
 口は動かしにくかったが、何とか人間らしい声が出せている。それにしても薄い金属の膜を何枚も通ったかのごとくどこか不自然な声だ。

「11時よ」

 11時? 時計を見ると10時45分を指している。

 どうする? どうする? どうするんだ。

 僕の頭の中では、妻と愛人が出会うという月並みにドラマチックな事態より、いったいこのままでいいのか服を着るべきなのか、今のこの状態は裸なのか、というひどく基本的な問題がきしきし音をたてていた。裸だとするとひどく恥かしいわけだ。



 ディール、商談をまとめる。自分にそんな才能があるとは思わなかった。

 機械メーカーに勤務して10年を過ぎたころ、頭に fed up with という文字がフラッシュし始めた。

 特に英語が得意だったわけでもない。しかしその時、クリアに驚くほどの確かさで fed up with の文字がフラッシュしたのだ。フラッシュした文字は頭の中の広い空間にアクロバット飛行機で描いた文字のようにしばらく浮かび漂ったあとぼやけてていった。

 その時、僕は確信した。自分は fed up  飽き飽きしていると。はっきりしないのはそのあとのwith につながるものだった。何に飽き飽きし、うんざりしたのか。仕事になのか。妻なのか。家族になのか。今の状況全てになのか。

 そして転職のチャンスが訪れた。自分でも思わぬ隠された才能だった。収入は増え、周りの人間も流れるがごとく一掃され、新しい顔ぶれの中、自己イメージも変化した。新しい自己イメージの構築だった。


「いつもアールグレイですね」 

 松川という入社数年目の子が言った。クライエントの会社からの帰り、チームで寄ったレストランでのことだった。天井をアンティークのファンが回っていた。壁は天然石なのか人工石なのかと考えていた。そろそろ家も建てたかった。今の中古マンションはメゾネットタイプにしてはお買い得だったが、やはり一から自分の好みに合った家を建ててみたかった。

「香りがいいからね」

 僕は微笑んだ。いつもはそんなこと気にしないのに、この微笑みにはえくぼが出ているだろうかと思った。幼いころよりチャームポイントと言われたえくぼだ。

 恋愛感情などとは長い間無縁だった。根が真面目なのだ。結婚したら他の女性に興味を持つのはいかがなものか、など古臭い考えを持っていた。

 日常生活の水面は平穏だった。平穏さは落ち着きから退屈へと移り、雨を期待し始めていた。水面に揺らぎが欲しかった。その気配を感じさせたのが「いつもアールグレイですね」の言葉だった。

 松川香澄との親密さが増すころには、求めていたのは水面の揺らぎだったのか、彼女の微笑みそのものだったのかなどどうでもよくなっていた。幸せ度合いが増したかどうかはわからないが、確かに生活には張りがでていた。

 水面の揺らぎは表面だけがさざめいているときは美しい。水の中へ入っていこうとすると水面はそれを受けとめるだけの余裕はあるのかが問題だ。

 海ならあるだろう。

 湖なら。

 池なら。

 水たまりなら。

 ちっぽけなちっぽけな泥水だったら?



 麻子と自分との違和感…。

 それはいつ頃始まったんだろう。

 麻子にとって重要なことが自分にとっては大したことでなく、自分にとって大事なことが麻子にはどうでもよく、その違いが意外な驚きとして楽しさを与えていた時期を過ぎると、どこまでも続くレールのごとき無味乾燥な平行線へと変化していった。

 けれど今は麻子との違和感について考えてている余裕などないはずだ。自分自身の違和感について考えるべきなのだ。



 子供には昆虫派と犬猫派があると思う。虫に興味を持つ子と犬猫を代表とする哺乳類に興味を持つ子。もちろん両方に興味を持つものもいれば、どちらにも興味を持たないものもいる。年齢によって興味の対象が変わっていくこともある。

 僕は圧倒的に虫派だった。虫の世界は面白かった。兜をまとい毎日戦っているように見えた。掌に虫をのせて観察するのが好きだった。たいていは必死で僕の小さい掌から脱出しようと動きまわったり、跳んだりするのだが、中には僕をじっと見つめるものもいた。彼らにとって僕がどのように見えていたのか今でも理解できないが、その瞬間はお互いの存在を認め合っているように思えた。

 犬猫が嫌いだったわけじゃない。ハムスターだってリスだって飼ったし、かわいがった。けれど触れて常に温かい生き物は自分と同じ仲間で驚異の対象ではない。それに対して虫は宇宙生物のごとく僕を魅了した。

 だからか多数のゴキブリが飛んできた時も特に驚かなかった。もちろんゴキブリは嫌いだ。けれど騒ぐには値しない。そして今、通常な精神を持つ大人だったら、自分が虫になったと知ったとき、僕のように落ち着いてはいられなかったと思う。その点では自慢していいのでは、など悠長なことも思った。

 麻子も虫が苦手ではないのは、今の状況では幸いだった。ケーブルテレビの虫の番組も翔太と一緒に楽しげに見ていた。

「あら、足が一本取れててかわいそう。痛くないのかしら。治せないないものかしらね」

 麻子は夫が虫になっていた、というシチュエーションをさほど動揺せずに受け止められる稀有な人物だと思う。虫人間になって麻子の良さに気付かされたわけだ。

 それにしてもこの状態が僕に降りかかってきたということは、何か必然性があったのだろうか。



「松川さんがいらっしゃったわよ」

 麻子が言った。僕が焦るか見てやろう、という意地の悪い声でもなければ、虫になった夫の妻としての動揺も感じられない。「あなた、クリーニングはワイシャツ一枚でしたっけ、二枚でしたっけ」くらいの何気なさだった。

 僕は薄手のタオルケットを腰に巻いた。そんなことをしたって香澄の前に顔を出せるはずもないのに、おたおたと短く細い足で部屋の中をぐるぐるした。バネをまくとかたかたを動く夜店で売っていたおもちゃを思い出した。ウサギか? ネズミか? 虫ではなかったと思う。

 麻子が入ると、タオルを巻いた僕を見た。吹き出すわけでもなく馬鹿にするでもなく穏やかな視線だった。

「松川さんに会わないわよね」

「会えるわけない…」

「そうよね。それより病院行く?」

「何科に?」

 二人で困ったように笑った。

「麻子…。実は松川くんの用ってのは」

「わかってるわよ。大体のところ」

 麻子は淡々としていた。

「とりあえず話を聞いておくわね」

「ありがとう」

 金属音のビブラートがかった声で、僕は感謝した。僕は本当にありがたい…と感謝した。



 麻子が出ていき、僕は布団にころんと横になった。むくんだときによくするように、足を上げてトントンと踵を合わせようとしたが、茶色の硬くて細い足の異様さにやる気が失せてしまった。

 目をつぶる。香澄の笑顔が浮かんでくる。香澄と生活する…。何度も思い描いたが、その度になぜだかわからないが必ず翔太の「ユウビン、ユウビン」という声が頭に響いてきた。翔太は郵便物が好きだった。テーブルに並べて切手や印刷された文字を飽きもせず見つめていた。自分には荘太と翔太という子供がいる。特に翔太には一生守ってやる親が必要だ。妻以外に好きな人が出来たからといって家を出るわけにはいかない…。

 急に麻子と香澄の会話が気になってきた。僕はなんとか立ちあがろうとした。

 よっこいしょ…。丸っこい腹。細い足でふんばる。立ちあがってはみたが歩こうとするとひょこひょこする。客間に行くには階段を下りなければならないが、そんなことができるのだろうか。

 階段を下りるなんて最初は不可能に思えた。階段を前にそれでも恐る恐る足を出してみた。体の割にバランスの悪い細い脚。チッ。細すぎるだろうが。虫になった自分の脚に悪態をついてみる。

 一段目はうまく下りれた。二段目、三段目、なんとかオッケー。ところが四段目で足がぐらっときた。手すりをつかもうにも慣れない腕の長さのせいか、つかみ損ねる。次の瞬間、ごろっごろっと体が階段を転がった。

 何とか三段を残したことろで足を広げて止めることができた。麻子や香澄が音と振動に驚いて出てくるのではと息を殺したが、特に動きはないようだ。なんとか立ち上がりながら、虫人間の僕に青あざはできないのだろうな、など思っていた。ただ、打った肘や膝や腰は外見が人間のときと同じくひどく痛んだ。

 用心してゆっくり確実に客間のドアに近づき、耳をあててみる。少し興奮気味の香澄の声が聞こえてきた。

「マモルさんはどこなんですか? どうしてここにいらっしゃらないんですか? 二人で奥さんに話すって約束しましたのに」

「すみませんね。本人、ちょっと顔を出せない事情があって」

「私がお話すべきことは聞いていただきましたので、あとはマモルさんと一緒でないと…。これからのこと決めなくちゃなりませんし」

「ええ…。そのうち本人も交えて…。でも今日はちょっと無理なんですよ」

「ご在宅なんですよね。仮病とか使ってるわけじゃありませんよね」

「仮病…。病気といえば病気、といえるのかもしれませんけど」

「どこが悪いんですか?」

「あの…。松川さん…虫は好きですか?」

「虫? なんで虫なんですか? 虫は大嫌いです。それにしてもなんで虫! 虫なんですか!」

 香澄の苛々した声が響いた。香澄はたいていは穏やかなのだが、緊張すると声高に攻撃的になる。

 僕は耳をドアに押し当てていたが、耳たぶがあるわけではないので、押し当てた場所に耳があるのかもわからなかった。ただ声はよく聞こえてきた。

「あ、ちょ、ちょっとお待ちください」

 麻子の声がしたかと思うと、戸が開き、僕はぐいっと戸に押された。突然開いたので、耳を押しあてていた僕はバランスを失って後ろに倒れた。

 僕の倒れる音と香澄のきゃあぁぁぁぁぁ!という声が同時だった。

 僕は必死で起き上がろうとした。両手両足をバタバタさせ、脇腹から出た二本の脚をぶらぶらさせ、なんとか必死で起き上がろうとしたが起き上がれない。

 そんな僕を香澄は廊下に立ててあったモップ用の棒を手にもの凄い形相で殴りつけてきた。殴りながら、ありょ~~!ともおりゃ~~!ともつかない声をあげる。

 そしてジャンプすらしそうな勢いで思いっきり殴りつけた。

 脳天に衝撃が走った。正に電気を帯びた大きな石を頭に振り下ろされたような衝撃だった。

「ちょ!ちょっと待って! やめて! 主人なんですから! 主人なんですよ!」

 香澄はその声にも躊躇することなく、廊下の隅に追いつめられ痛みに動きをとめた僕を何度も殴りつけ、さらに突こうとする。

 はっ!
 
 香澄は棒を力いっぱい僕に向かって突いた。

 ガリっ!とも ボリッ! ともつかぬ音がした。

 その瞬間、脇腹がずーんと痛んだ。

 棒が刺さった…。

 香澄は今度は棒を勢いよく引き抜いた。

 さらなる激しい痛みが僕を襲う。香澄はさらに剣道の構えをすると僕の頭めがけて振り下ろした。

「やめて! やめて下さい! 主人なんですから!」

 麻子の声も耳に入らぬようで、ギョェッ!という声とともに面!とばかりに、僕の頭に強打をあびせた。

 失いつつある意識の中で一瞬、香澄と目が合ったように思う。香澄は殺気じみた目で再び剣道の構えをしていた。



 頭が痛かった。体も痛かった。気がつくと廊下に一人転がっていた。麻子も香澄もいない。

 廊下の隅にはさまったようになっている頭をかろうじて動かし、何とか起き上がろうとした。いたたたたたっ! 思わず声が出た。それでもゆっくり立ちあがろうとすると、ことっと何かが落ちた。

 脚だ……。

 落ちたのは脚だった。脇腹から出ていた形だけの脚がくの字形になって落ちている。

 脇腹を見ると、香澄に棒で突かれたところに7センチほどの穴があき、その横に10センチばかりの縦長の傷があった。ここから脚が抜けたのだ。

 血が出ている。少し色が薄い気もするが赤い血だ。虫なら緑色の血のはずだ。とすると、この硬い皮膚の下は人間なのか。哺乳類のままなのか。

 僕は50センチばかりの脚を拾い上げ、脇腹に差し込もうとしたが、やめた。痛そうだし、もともと機能していなかった脚だ。もう片方も引っこ抜きたい衝動にかられたが止めておいた。

「マモル、大丈夫?」

 麻子が小走りにやってきた。

「松川さん追い出すのどれどけ大変だったか。凄いわね。カンフー並みの棒使いね。奇声も凄かったわ。嫌がらせですか!嫌がらせですか!!って」

「えっ?」

「どうやら嫌がらせで大きな虫を用意したと思ったらしいわ」

「・・・・・・」

「痛いでしょ。病院に行かなきゃね」

「何科に?」

 僕たちは笑った。ハハッ ハハッと大笑いした。脇腹がひどく痛んだ。頭も痛い。肩も胸も、体じゅう痛かった。

「とりあえずリビングのソファで横になってね。階段上がるの無理でしょ。わたし、どこに相談したらいいか考えるわ」



 結局どこにも相談しないまま夕方になった。こんなことを相談する場所なんて見つかるはずもない。

 頭痛は少し楽になったが脇腹の痛みは時間とともひどくなっていた。

「ロキソニン効くのかな」

 麻子が水の入ったコップとロキソニン錠を持ってきた。

 痛みをこらえながら、リビングのソファに横になっていた。太い体はソファから半分くらいはみ出しているが、どうにか落ちずにいられた。脇腹は麻子が消毒し、大きめのガーゼを何重にも貼ってくれた。



「ただいま!」

 翔太だ。どうしよう、と目で問う僕に、麻子は「大丈夫よ。動かないで」と言う。

「翔太、お帰り! おやつ、買う時間なかったんだけど、昨日のシュークリームならあるわよ。夕ご飯の準備もちょっとわけがあってまだなんだけど、簡単に作れるものすぐに用意してあげましょうね。それよりね翔太、ちょっと大切な話なんだけど」

「なに、ママ、なに?」

「あのね、パパが虫になったの。ううん、パパはパパだけど、見かけがちょっと虫っぽくなったの。でもパパに変わりはないの」

「ふーん、虫だ。パパ、虫になった?」

 翔太はそう言いながらリビングに入ってきた。そして少しはなれたところで僕をしばらく見ていたが、近づいてきて顔を覗き込んだ。

「パパ、虫になっちゃった?」

「うん。ま、そんなとこだ」

「声、変った。でも虫じゃない。話せる。脚も違う。目はパパ。色は虫。皮膚も虫。でもパパ。口もパパ」

 僕はなんだか嬉しくなった。同時にひどく情けなくもあった。

「そうだ!」

 翔太はそう言い、自分の部屋に行くと封筒を持ってきた。翔太の集めている郵便物の中から一つの封筒を持ってきた。

「ほら!」

 それは保険会社からの内容説明の手紙が入っていた封筒だった。

「ほら!」

 翔太が指差したのは切手だった。虫の切手だ。蛍のような長細い虫の切手だ。

「ほら、顔、ない。目はあるけど顔ない」

 そういって僕の顔をのぞきこんでいたが、再び「そうだ!」っと言って駆け出した。

 次に翔太が持ってきたのはごきぶりホイホイだった。台所の隅に随分長い間しかけっぱなしにしていたものだ。

「見て!」

 翔太は開けて見せた。一匹、かなりの大きさのゴキブリがかかっている。随分前にかかったのか、水分が抜け乾燥し、平たくなって形が崩れかけている。足が一本とれて2センチほどはなれたところについている。

「ほら、顔ない。人間の顔ない。パパと違う」

 そう言って、ごきぶりホイホイを僕の顔に近づける。

「パパは顔ある。パパはパパ」

 僕は切なかった。涙はこぼれなかったが、本当は涙を流して泣きたかった。そんな僕たちを麻子は少し離れた椅子にすわって見ている。

 やがて荘太も帰ってくるだろう。荘太はどう言うだろう。そして僕はいつまでこのままなのだ。

 片手に虫の切手の封筒、片手にごきぶりホイホイを持ちながら、僕は心から夢であることを願った。

 目が覚めたら、僕は昨日とは違った日を過ごしていきたいと思った。

 ただ、漠然と、これは夢ではないと感じている。

 その漠然とした確かさはどんどんはっきりとした確かさへ形を変えていき、僕の丸々とした体を満たしつつあった。
 
 




 事務所への階段を急いで上った。三階なので、急いでいるときはエレベータより駆け上がる方がはやい。

 山岸さんのことが急を要する。

 マンションの隣に住む山岸さん一家。ミクが小さい頃はよく上のお兄ちゃんに遊んでもらった。山岸さんの奥さんとは時折一緒にコーヒーを飲む。大抵はどちらかのダイニングでだが。大昔、もしも学生時代に会っていたら、親友になれたのかもしれない。いや、無理か。あの頃の自分は誰とも友達になれなかった。

 最近、ちょっと気になるのはそのお兄ちゃん、荘太くんのことだ。ここ一年で急に背が伸びた彼、数日前、チッと舌打ちしながらコンビニから出てきたが、その様子が気になった。以前の自分に重なったのかもしれない。大した理由もなくイライラしていた大昔の自分に。

 そんな自分を思い出すたび、必ず母を思い出す。

 階段途中で足をとめた。

 お母さん…。

 


 あの日、私は小さなアパートにたたずんでいた。洗面所の鏡は右下に細かい割れ目が入っている。

 鏡をじっくり見るのなど久しぶりだった。左手にはハサミ。

 まずはオレンジの部分を切った。次にピンクのところ。パープルの前髪も切る。染め直す、という手もあったが、伸びすぎていたので、色の着いたところを切ることにした。色を全部取り去ると、かなりのショートになった。床にはカラフルに髪が散らばっている。

 次に爪を切った。マニュキュアは剥げていて、でこぼこで白っぽくつやがない。痛くないぎりぎりの長さに切った。

 次に眉を丁寧に、ごく普通の人、という感じで描いてみた。穏やかな感じに。顔色は悪く、肌は荒れていた。

 そしてベージュのシンプルなワンピースに手を通した。

 鏡を見ると、別人だった。自分であって自分でない。手をパン!と打った。なぜかわからないけれど、手をパン!と打った。心がざわざわした。

 アパートの鍵を閉めるときには、心のざわざわは痛いほどになっていた。




 病院に着くと、パピーが教えてくれた階と部屋番号を頭で復唱した。

 仔犬のように可愛かったので、私は妹をパピーと呼んだ。お姉ちゃん、と呼び、どこでもついてくる、小さい頃は本当に可愛い子だった。  

 私が家を出て長かった。限りなく長かった。今考えると、親はさほど理不尽でもなく、パピーも良すぎる子だった。なのに家を出た。一人で荒れて家を出た。父はそれから数年後事故で亡くなった。

 家を出てからも荒れたままだった。生活が荒れていた。心が荒れていた。態度が荒れていた。時の流れにも、荒れて対処した。荒れが似合う歳を過ぎても、荒れる以外、術を知らなかった。

 エレベータで七階まで上がった。教えられた番号の部屋の前には四つの札があった。三つの札に三つの名前。どれも違う。四つ目は空欄だった。通りかかった看護師に、患者の名前を告げると、ご家族ですか?と聞かれ、私は口ごもった。

 緊急集中ユニットに移されたと聞き、三階まで降りた。ユニットのガラス戸の前で私は動けなくなった。

 一瞬、何で、髪切ったり、爪切ったり、いつもは着ない服を着てここにいるんだろ、ってわからなくなった。そうしなければって思ったわけを考えた。母が「下品」な感じが嫌いだったからだろうか。

 電話でパピーは母の病状がよくないと言った。会うなら今会っておかないと、と。

 パピー…。

 母とパピーのことを考え、胸の圧迫が強くなったとき、緊急治療ユニットのガラス戸の向こうにパピーが見えた。こちらに歩いてくる。

 確かにパピーだった。隣にいるのはパピーの旦那だろうか。

 私は焦って、少し後ずさりをした。そしてくるっと反対を向き、トイレのある細い通路に隠れた。

「こんなに急だなんて」

 声が聞こえてきた。パピーの声だ。泣いている。

「心の準備できてないよな」  パピーの旦那らしき者の声…。

 胸が早く打ち始めた。壊れた機械みたいだった。私は壊れていた。



 病院を出て向かいのファミレスに入った。

 頭も心も真っ白だった。真っ白ではなく濁った灰色か…。オーダーしたつもりもないのに、パンケーキとコーヒーが運ばれてきた。

 パンケーキにフォークを突き刺しながら、なぜか、「グロリア」という映画を思い出した。古い方だ。リメイクじゃない方だ。その中で主役の訳ありの中年の女が、ギャングに家族を殺された男の子を墓地に連れて行き、こう言うのだ。どのお墓でもいいから、家族のだと思って話してごらん。祈ってごらん。

 なんで、グロリアを思い出したのかわからない。その中で男の子が父親をパピーって呼んでいたからか。

 何しに来たんだろ。謝りに来たのか。ただ生きてるうちに会いたかったのか。母が誇りに思っていたのはパピーであって私ではない。一度たりとも母は私のことを誇りに思ったことがあったのだろうか。でも、愛してくれた、とは思う。事故で亡くなった父も愛してくれたと思う。パピーも慕ってくれていた。少なくともそんな頃があった。

 ファミレスを出ると、再び、病院のエレベータに乗った。指は緊急 ユニットのある3階ではなく7階を押していた。母が何日も過ごしただろう7階の部屋へ足が向いていた。

 面会時間だからか、カーテンで仕切られたベッドの周りから声が聞こえてくる。一つだけシーツがはぎ取られ、カーテンで隠されていないベッド。ここに母は横たわっていたのだ。

 触れてみた。ベッドの端に触れてみた。左手で。私は左利きだった。左手で字の練習をする私を心配そうに見つめていた母の顔を思い出した。

 お母さん、家を出てから、私はずっと荒れていました。変えたいとはずっと思っていました。でも変えれませんでした。お酒も飲み過ぎています。家を出てから、私はずっと荒れています。自分でもなぜパピーと自分がこんなに違うのかわかりませんでした。今でもわかりません。

 今度は右手で母の枕があったであろうところを触った。

 祈ろうとしていた…と思う。でも祈れなかった。何に祈るのか、祈りの意味さえわからないまま、シーツのないベッドのマットレスを見つめていた。

 あら。その声に振り向くと、丸顔の看護師が私を見ていた。

 あ、すみません。間違えたみたいで。  

 もごもご言って部屋を出た。

 母に会いたかった…のか。パピーに会いたいのか。でもやっぱり会えない。荒れた私は会えない。母が亡くなった今、会えない。パピーと二人で母の手を握るというシナリオは消失してしまった。

  病院から出ると、心が冷たく固まっていた。心の乱れはさほど感じていない…。悲しみが強すぎたわけでもないと思う。ただ心が冷たく固く固く…。

 頭の中で、映画の男の子が叫ぶ。パピーに会いたい。ママに会いたい。

 私は誰に会いたいのだろう。会いたかったのだろう。

 しばらくあてもなく歩いた。短髪、短爪、ローヒール、姿を変えても、中身は同じだった。

 ポケットに手を入れると、ファミレスの勘定書が出てきた。どうやら払わずに出てしまったようだ。

 戻るか… そうつぶやいた。

 レジで支払っていると、道路を隔てた病院の門からパピーと旦那とそれにさっきはいなかった男の子が出てくるのが見えた。パピーは泣いている。男の子は何かの模型を持っている。グロリアに出ていた男の子と同じくらいの年齢だろうか…。

 私は動きをとめ、どうしたものか、と考えた。荒れている、ではなく、荒れていた、の自分だったら会えるのに…そんなふうに思った。

 荒れていました、以前は荒れていました…荒れています、でなくて荒れていました、って言えるようになれたら…まずはそこから始められるだろうか…。

 目をつぶると幼い自分が見える…そんな気がした。グロリアの中の男の子のように、手を合わせ、うなだれて祈る幼い自分が見える…そんな気がした。

 必要なのは、祈る場所ではなく祈りそのものなのだ。そう思ったら、涙がこぼれてきた。

            ☆

 あの日を思い出すと今でも胸が熱くなる。あの時、私は震えていた。くちびるが震えていた。肩が震えていた。

 そして気づいたのだ。震えているのはくちびるではなく心だ、と。

 それ以来、何度も何度も繰り返したこの気づき。




 あの日、ファミレスを出たところで声をかけられた。

「落とされましたよ」 ビブラートのかかったハスキーな声だった。

 振り向くと、ハサミを手に私よりさらに短髪の女が立っていた。

 ハサミ? ハサミなどバックに入れていたのか? 

 その人物が手にしていたのは確かに私が髪を切った左利き用のハサミだった。


 それがシルバとの出会いだった。


 山岸さんのとこの下の子はショウタくん、という。小さい頃からかわいらしい知的な顔をしていた。「言葉の発達が遅くて」山岸さんはさほど気にしてるふうもなく言った。数日前会ったショウタくんは少し流れるような視線で「こんにちは!」と言った。その声が随分低くなっていたのに驚き、わあ!すっかりお兄ちゃんになったね!と言いたかったが、ゆっくり「こんにちは。ショウくん」と言うにとどめておいた。

「この子、大きな刺激が苦手なんです。ヘッドライトにあたった鹿って英語があるでしょ、その言葉聞いたとき、そんな感じだなって思ったんです。鹿が急に車のヘッドライトに照らされちゃったら、目を真ん丸にして驚いて固まるでしょ。この子、小さな刺激でもそんな顔になるんです」

 よりによって大きな刺激が苦手なショウタくんのお父さんがメタか……。急に眼差しが大人びてきたお兄ちゃんのソウタくんの方はどう受け止めているんだろう。



 メタ。メタモルフォーシス。変身。これは私たちが最も気を使わなければならない現象だ。一つのレイヤーだけに具現化するものなら、扱う方法は種々ある。けれど、メタだけは別だ。すべての層、レイヤーにさらされる。

 私がメタを目の当たりにしたケースは多くはない。まさか隣の山岸さんのご主人に起こるとは思ってもみなかった。

「山岸さぁん」買い物から帰ってきたとき、ドア越しにゴミ袋をガサガサいわせるような音がしたので、声をかけた。小学校の南班のプリントをなくしてしまったので見せてもらえればと思ったのだ。

 少しだけドアを開けた山岸さんは、いつもは、あーら!と元気に笑いかけてくるのだが、少し息をのみ、恐る恐るといった表情で私を見た。

 どうしたんですか? ドアの隙間から、血らしきものが床についているのが見えた。点々、というより、かなりの量で、直径20センチほどもある血だまりも見えた。

「誰か怪我なさったんですか?」

 そのとき、床に落ちている不思議な物体に目がとまった。山岸さんのところは角部屋のメゾネットタイプで入口の玄関扉こそうちの扉の隣に並んでついているが、中の広さは全然違う。吹き抜けもあるし、階段もある。

 その物体は階段の近く、玄関から比較的近いところに転がるように存在していた。

 緩やかな「くの字型」に曲がった子供の腕のような形だった。ただ色は薄い銅色、というかカッパー色というか…。

 メタで似たケースを以前一度だけ見たことがあった。シルバに付いてメタの人の安全確認についていったときのことだ。メタモルフォーシスしたのは40代の妻で、夫は「身長は半分になってしまいました、でも、顔は妻のままです」と笑顔で言い、すーっと涙を流した。奥の部屋に座っていた妻は少し緑がかった薄銅色をしていた。
 
 その経験もあったので、メタだ、と確信した。甲虫類のメタに違いない。

 もしかしたら、ご主人の体に何らかの変化があって、あそこに落ちているのは彼の体の一部分ではないか…。単刀直入に聞いてみた。もし、そうなら、そのようなケースに私は少し経験があるので、安全対策に協力させてもらえないだろうか、と。

 山岸さんは目を見開き、大きく息を吐くと言った。「お願い…します」
 

 シルバに伝えなければ。今すぐ。
 


               ☆


 シルバと出会ったのは、もう何年も前だ。限りなく昔のことのことのようであり、たった今のようでもある。

 私がジョウと出会って2年程経ったころだっただろうか。

 あの頃の私は若すぎないアル中で、ジョウはまだ若いアル中だった。ジョウと私は似たような年だったが、ジョウは男だからまだ若く、私は女だからそうともいかず…と不公平な話だ。

 ジョウと私は酒がいける口で、それが不幸の始まりだった。酒がいけるとアル中にならない体質は同意ではない、それどころか反対だ、と気づいたときには既に遅しで、私もジョウもアル中だった。

 私は顔にも態度にも出ないドリンカー。一杯、二杯、三杯、四杯…八杯、九杯…いくら飲んでも一向に平気。醜態もさらさず、泣き上戸にもならず、しらふのときとほとんど変わらない。

 酒が飲めると知ったときひどく嬉しかった。自分の隠された才能を見出したようで嬉しかった。得意にさえなった。それまで何をやっても平凡の域を出なかった私だったから、不良少女になったときさえ、ちょうどいいあんばいの不良少女だった私だったから、女なのに酒が飲める、ひどく飲める、いくら飲んでもしらふのまま…この事実は私を有頂天にした。

 ジョウは14で飲み始め、あたしは15だった。

 最初はビール。口の中で線香花火がパチバチ弾けた感じは、初めてコーラを飲んだときに似ていた。酒が好きになるだろう…予感がした。すると、自分が大人びて思えた。

 それから数カ月後にはウイスキーをロックで飲んで平気だった。酒を飲み始めた私の中には池ができた。いったん池ができると干上がらせるのが恐かった。だから、体に池を飼った。

 アルコールの味が好きだった。自分の変化が好きだった。どんなに緊張していてもリラックスできる。度胸らしきものもついてくる。雄弁にもなれる。

 お酒を飲むとね、体がふわっとなるのよ、そういう子もいたが、私は違った。酒を注ぎ込み池の水位が上がると、私の安定感は増した。体と頭のねじがほんの少しだけ緩んだが、緩んだ分だけ、物事の衝撃は少なくなった。

 酒に強い女だと評判になった。酒が強いからといって、誰に迷惑かけるわけでもない。可愛げのない女だと思う男たちがいたが、そういう男はどちらにしても趣味じゃなかった。不良少女はとうに卒業し、一見普通のOLになった時期も数年あったが飲み続けた。

 人並にデートもしたが、酒ねらいだった。彼らの前で、底無し沼のように飲んだ。ワイン、ウイスキー、ジン、ウオッカ、テキーラ、ラム、何でもこいだった。勘定を払うころには怒りで顔が引きつっている男も一人や二人ではなかった。家まで送るよ、という男たちの申し出を丁重に断り、しゃきっと一人で電車に乗った。女らしくないやつだ、陰口を叩かれた。山姥だ、面と向かって言ったものもいたが、私は鼻で笑い、気にもとめなかった。

 長い間、酒の弊害は全くなかった。酒を飲むと食欲が落ちたから太りもしなかった。ただ、体の濃度が少しずつ薄くなるようで…それが多少気になった。

 ある時、巨大な水袋になった夢を見た。動こうにも動けない。ごろごろ寝返りうって目が覚めた。

 もともといたようでいなかった友達もいつの間にか完全消滅した。女友達は結婚し、少しずれて男友達も年貢を納めていった。恋人らしきものはできては消え、男運は悪かった。しまいには満足いく飲み友達さえ見つけられなくなった。そして残されたのは完全なるホームドリンカーの道だ。

 店で飲む男たちに比べれば、私が酒に費やす金はずっと少なかった。それでもある日、ざっと計算したら五百万になった。五百万……。

 その数字は私を愕然とさせた。

 酒に費やさなくとも何かに使っていたには違いない。履きもしないパンプス、流行ブランドの擬似ファッション、自己満足のための小洒落た物……。

 けれど案外有効に使っていたかもしれないのだ。貯金として残っていたかもしれない。焦りを感じた。何かしなければ…。五百万も使ってアル中になっただけだったら何とも淋しいじゃない。だから毎月少しばかり寄付する手続きを取った。特別な時以外は、もう酒は飲まない、と決心もした。前者は続いたが、後者は数日後には消滅した。

 名前だけ夢々しい安普請のマンションに帰ると、取りあえず目に入ったリカーに手を伸ばす、それが日課だった。私へのレッテルは酒が強いから大酒飲みへととうの昔に変わっており、その違いもわからぬまま、数年が経っていた。そしてマンションからアパートに移るころには、仕事は飲み屋の給仕だけになり、髪に一色ずつメッシュを加えるのだけが楽しみになった。レインボーカラーの髪の私に真剣に同情するやつはいないだろう。憐れまれるのはいい。馬鹿にされるのもいい。だけど同情だけはされたくなかった。

 ある日、シェフのレイコが妊娠した。子供を待ち望んでいた彼女だったから、満面笑みで仲間に報告した。もうつわりがひどくってね、と言いながら、レイコは満足そうな笑みを浮かべた。みなレイコの周りに集まってきた。タエコは自分の事細かな経験談を披露し、エリはうらやましいわ、とレイコの肩を抱き、カヨコにいたっては「こんにちは赤ちゃん」をハミングしでみせた。

 私は、何か言わなければ……と手を止めた。

 ねえ、つわりって二目酔いに似てるのかしら?

 みな私を見た。一斉に私を見た。居心地悪さに私は続けた。あたしね、二目酔いなんて滅多にならないんだけど、ときおり朝起きるとね、むかむかして何も食べれないことがあるの。それってつわりに似てんのかな。

 二目酔いですってさ、カヨコが眉をひそめた。神聖な妊娠と二日酔いを比べるのは徹底的に悪趣味のようだった。飲み屋をやっていてもだ。私ににまったく悪気はなかったにしてもだ。

 レイコが臨月に入るころ、私も体調の変化を感じ始めた。もちろんこっちはおめでたくはない。アルコールに対する反応の変化だ。飲みすぎた翌日にとみに疲れを感じるようになった。吐き気や、めまいに立っているのさえ苦しい朝もあった。

 ある朝、バスルームでふらりとしゃがみこんだ。ドクッドクッ。心臓。腹、こめかみ、首、あらゆる血管が波うっていた。私はゆっくり立ち上がり、冷たい水で顔を洗った。若さにまかせてお酒をがぶ飲みし、不安や焦りや怒り、全てを酒で薄めていく…そんな日々が去っていく…そう思うと泣けてきた。

 その日、アルコールには手をつけず部屋をくるりと見まわした。

 女にしては殺風景な部屋。タンスをわけもなく開けては閉じたあと、机の引き出しを一つ一つ開けてみた。三段目の引き出しを開けたとき、もう随分前に母が送ってきた見合い写真が目に入った。何年も会っていない母が送ってきた、田舎の親戚のマッチメーカーからの男性の写真。見合いせぬまま終わった見合い話。男はえんじのタイをして青みがかった灰色のスーツを着ていた。丹頂鶴みたいな顔だと思った。しばらく見つめたあと、写真を閉じた。そもそも今の時代見合いなど化石みたいなものなのだ。

 パピーが大学時代から付き合っていた男性と結婚したと聞いたのはそれからしばらくしてからだった。結婚式はしたのだろうが、私は呼ばれなかった。

 酒が体に害を与えている、この事実を認めぬわけにいかなくなった。そう、ひずみが出てきていた。予感はしていたが、予想はしていなかった。ひずみが出たのはジョウの場合は肝臓で、私の場合は盲腸だった。

 盲腸と酒が関係があるなど思っちゃいない。けれど酒さえやめていたら盲腸にならなかった……そんな気がしてならなかった。酒さえ飲まなかったら、私の盲腸は痛みだしたりせず、取り出されることもなく、今だにあるべき場所にある……そんな気がしてならなかった。

 手術のあと、私の中の池は干上がった。干上がった池は空洞になった。そして時とともに大きくなった。その空洞は酒をいくら飲んでもごまかせなかった。体中が酒づけになってもそこだけは酒をはじいて……それだけに始末が悪かった。

 それは以前経験した或る空間に似ていた。私の中に視覚聴覚何もよせつけない一つの空間がある……そんな感覚。ほとんど悟りに似た感覚。皆もそれを持ってるのかそれを感じたことあるのか聞いてみたかったが、変人扱いされそうで恐かった。

 誰にも言えなかった。なぜか、いつかあひるの夢見ていた私が寝ぽけて「水かきをよく洗っといてちょうだい」と言ったときの、パピーの何ともスイートで困った様子を思い出したりした。



 ジョウに会ったのは、その急性盲腸でかつぎこまれた病院でだった。

 手術も無事終わり、翌日には退院の予定だった。私はトイレの帰り、スリッパの音をぺ夕ぺ夕響かせながら、ロビーへの階段を下りていった。週刊誌でもあるのでは、と思ったのだ。階段を一段降りるたび右腹がつったが、手摺をつたわりながらどうにか降りていった。一日中うとうとしていたので、時間の感覚はなかったが、真夜中といっていい時間のはずだった。

 ロビーに入るなり、人の気配を感じた。男が一人ソファに坐っていた。背を向けて煙草を吸っている。ぷふぁ……頭の上から煙が上がっていた。

 禁煙でしょ、病院だし・・・。

 あたしはソファの横のマガジンラックから、雑誌名も確かめずファッション雑誌らしきものを取った。腹にピピッと痛みが走った。手に取りながら男をちらりと見ると、男も横目であたしを見た。

 奇妙な風貌だった。ちりちりの髪を頭の上だけ5、6センチ立たせ、サイドと後ろはほとんど刈り上げていた。

 髪型を除いては特に変わったところは見られなかった。色は黒かったが顔立ちは日本人に見えた。それでもその髪型と浅黒さで、ハーフは無理でもクォーターくらいに見えなくもなかった。

 男はうまそうに煙草を吸っていた。煙草を挟む男の指はひどく骨ばって見えた。

 立ち去ろうとする私に男が声をかけた。

「あの……。これ、飲みますか?」
 
 男が差し出しだのは、りんごジュースだった。

「はあ」

 なぜか私は受け取った。露を持った缶は冷たかった。私はそれを不思議な物体のように手のひらに転がした。

「あのぉ、こんな時間に面会ですか?」

「いや、患者ですよ、僕も」

 どこかやけっぱちな響きだった。
 
 男は死んでも病院になど来たがらないタイプに見えた。口でもよじり、それこそ酒でもクイックイッと飮んでいるのが似合うタイプ。

「入院してるんですか?]

「そんなとこです。あなたは?」

「盲腸です」

 男はああ、とうなづいた。

 男は白地に黄色い太陽の描かれたティーシャツ、その上にブルゾンをはおっていた。胸の模様は、見方によっては電球のようにも見えた。

 男は真っ白なスニーカーを履いていた。細い体の割に大きなスニーカーだった。真っ白で、力強い、大きなスニーカーだった。そのスニーカーを見ていると、重力に向かって巨大な手で思いっきり肩を押されたような気になった。

「入院患者には見えませんね」

「そうですか?」

「どこが悪いんですか?」

「ぱたりですよ」

「ぱたり?」

「わけがわからぬまま痛みがきてぱたり。…で、救急車です」

 男は煙草の煙を吹き上げたが、途中でむせて、グリーンのブルゾンを揺らし咳き込んだ。

「どこが悪いんですか?」

 私はもう一度聞いた。

「肝臓でしょう。ここのあたりです。とにかくぱたりだから参りました。不思議だな。今までこんなことなかったのに。いくら飲んでも帰るまでぶっ倒れなかったのに。それが五杯飲んだところでぱたりなんですよ。突然ぱたり。気づいたらここだったってわけです」

 男は近視らしい目を少し細めて、あたしを見た。そして急にかしこまった様子になった。

「タマイジョウジです。みなジョウって呼びます」 男はジョージでもジョーでもなく、ジョウジ、と、ウを強調した。

 私は少しだけ体を曲げお辞儀をした。
 
「川野タキです。…あのじょうじってカタカナですか?」
 
「いや、漢字ですよ」
 
「どんな漢字でしょう?」
 
「譲るの譲に一、二の二で譲二、タマイはお手玉の玉に井戸の井です」
 
「日本人なんですよね」
 
「そうです。全くの日本人です」
 
 ジョウはチリチリした髪を撫でた。

 ふと見えない手で頭から背中から触れられた気がした。周りの空気がスッと流れた。なぜか目をつぶらずにいられず、しばし固く目をつぶって開けた私は唖然とした。

 夢なのか…。今は夢の中にいるのか…。案外死んでしまったのか、あたしは…。

 目の前にいたジョウは大きなウォンバットに似た動物になっていた。黒々とした丸い小さな目がかたそうな毛に埋まっている。身長はそのままで、Tシャツ、ブルゾンもそのままウォンバットになっていた。

 再びまばたきをすると、もとのジョウに戻っていた。

 幻影か。飲みすぎの幻視? いや、飲んでない。手術もしたし、何日も飲んでない。麻酔の影響? アルコール脳症? そんなのがあっただろうか。

 まさに固まっていたと思う。そんな私にジョウは言った。

「今、一瞬見えませんでした?」

「え?」

「一瞬、僕が何か違うものに見えたでしょう?」

「ウォンバットみたいでした」 言うかどうか考える前に口が動いていた。

「はははは」

 ジョウは言った。

「大丈夫ですよ。一瞬こっちのレイヤーが見えたんです。あなたみたいな人、フィーラーっていうんです」

 フィーラー?

 ジョウの微笑みは優しかった。もしさっきのウォンバットだったとしても優しい微笑みを浮かべていただろう。

 異様な状態のはずだった。シチュエーションもこの男も私も、何かおかしい。けれど突き止める気になれず、なぜか納得した。頭でなく心で納得した。



「川野さん、お目覚めですか」

 退院の日、ナースがやってきた。
 
「おはようございます。看護婦さん。あの…一つ聞いていいですか?」

「どうぞ」
 
「あたし、どういう患者扱いなんでしょう。ただの急性盲腸患者でしょうか、それとも……」
 
「ああ、胃洗浄のことですね」

 ナースはブラインドを上げながら言った。

 あの川野って患者はね、ちょいと変わってんのよ。睡眠薬を飲んで自殺しようとしてたところ急性虫垂炎になっちゃってさ。で、思わぬ痛みで寝ていられなくって119番したのよ。

 こんなふうにナースからナースに伝わってるのかもしれない。けれど、事実は少し違っていた。どうにも眠れず酒を飲んだがやはり眠れない。もう立っていられないくらい酔っ払っているのにやはり眠れない。そこで睡眠薬を数粒のんだ。けれどやはり眠れない。そこでまた数粒。

 これを二、三度繰り返した。いや三、四度、……案外五、六度だったのかもしれない。覚えてない。まったく覚えていないのだ。お腹が痛くなったのも、自分で119番したのも、何も覚えていない。

 担架を持って駆け込んできた男たちはさぞかし首を傾げたことだろう。腹が痛い!と通報が入ったはずなのに、酒に睡眠薬、状況は自殺未遂だ。

 運び込まれ、胃洗浄が行われた。そして盲腸の手術。白血球の数は爆発寸前だった。




 盲腸プラス自殺未遂容疑の私と、五杯でぱたり、肝臓をやられたジョウは、入院仲間から友人になった。

 あの時、ジョウが病院のロビーでぷかりと煙を吸いながら何を考えていたのかは今だに謎だ。彼が病院を抜け出して帰ってきたところだったのか、それともあの時間からふらりと出かけるつもりだったのかも聞かずじまいだ。ウォンバットに見えたことも詳しくは聞かなかった。フィーラーが何かも聞かなかった。
 
 ジーザス!ことある度にジョウは言った。怒っても、驚いても、悲しくても、最初の一言がこのジーザス。

 ジィーーーザス、時々あまりにジーをのばしすぎるものだから、もう少し短めでもいいんじゃない、と思った。

「驚いたときゴッド!って言うの知ってるけど、ジーザスってのもよく使うの?」

 ジョウは少し考えるような目つきをして、うん、そうだなと答えた。一年ほどアメリカをふらふらしていただけだから、取り分け英語ができるわけでもなけりゃ、アメリカ通というわけでもないらしい。どうやらあまり楽しい思い出ばかりじゃないようだった。いろいろ聞かれると、早く話題を終わらせようとナーバスになる。

 ジョウも私もこれ以上酒を続けると保証はないとの忠告を受けた。改めての忠告に私はさすがにビクッとした。血液成分の数値はいくつもが正常値を割っているかオーバーしているかで、もう酒には適してない体なのですよ、医者は言った。

 医者は、禁酒セラピーを勧めた。グループで集まり互いの禁酒を励ましあうグループセッションがあるという。何より意志の強さが必要になりますからね、医者は顎のくぼみをこすりながら、言った。

 何とかしなければ、と思いはした。気休めにジョーと時々会おうと決めたが、それは意外にも効果をもたらした。ジョウと話した後は、少しだけ気分がよくなった。

 けれど、会う回数は次第に減っていき…三ヶ月ぶりにジョウから電話があったのは、初秋にしては冷え冷えした朝だった。受話器の奥から聞こえる声は干からびていた。

 元気かい?元気よ。そのあとしばらくどちらも話さなかった。その沈黙に互いに元気にはほど遠い状況だと察した。



 ファミリーレストランでジョウと会った。デイリーランチを頼んだあと、ジョウは水を一気に飲んだ。のどは乾いていなかったが私も一気に飲んだ。

 ジョウは禁酒の二目目だと言った。禁酒の二目日と三日目は数え切れないほど経験したが、四日目を経験したのは数えるほどしかないとも言った。

「どうして電話しなかったのよ。互いに励まそうって言ったじゃないの」
 
「タキこそどうしてさ」

 ジョウはマヨネーズに溺れそうなコールスローをフォークの先でつついた。
 
「うん…」
 
 ジョウは運ばれてきたコーヒーを目をつぶり音をたてて飲んだ。目をつぶったジョーの顔は痩せた大仏みたいだった。病院で見たあのウォンバットのジョウをもう一度見たかった。そのことについて聞きたいことは山ほどあったが、聞いたら、ジョウの何から何まで、すべて消えてしまいそうな気がした。そうしたら、私はもう自分の記憶さえ信用できなくなるだろう。

「ねえ、ジョウって付き合ってる人いるの」
 
「人並みにいたような気がするけど…」
 
「気がするけどって、やーね。記憶がないみたいな言い方してさ」
 
「うん」
 
「じゃ、一番印象に残る子の話して」

「ま、今のとこタキかな」

「それは光栄だ」

「今さ、考えてるんだけど、会社辞めようかなって」

「ベンチャーの会社だったよね。経理だっけ」

「うん。でも税理士の資格も取ってる。で、父がやってる小さな税理士事務所、つがないかっていうんだ」
 
「そうなんだ」
 
「うん。親父、自分が結構はちゃめちゃやってたから、僕にはレールにのっかってほしいんだろうな。酒もやめて」
 
 ああ、そういうこと…。髪型まともにし、仕事も安全に、そういうことなのね、ジョウ。

 でも、それ何が悪いっての?幸せな光景じゃないの。ジョウの禁酒だって成功するかもしれない。

 ひゅー…。

 ジョウの溜息が風になった。

 私はジョウを見た。

 ジョウも私を見た。

「いいじゃない、レールにのっかるのは脱線よりずっといいわよ。あたし脱線って蟻地獄に似てると思うの」

 何、言ってんだろ。

 私たちはどちらからともなく目をそらし……しばらくジョウは空のコーヒーカップを、私は空の皿を見つめていた。


 店を出て街を歩くと、どこからかラップが流れてきた。
 
 わかるか、わかるか、キミにないもの、なんだかわかるか。
 それは、それは それは 
 ア、ア、ア、ア、アティチュード。
 ア、ア、ア、ア、アティチュード。
 
「ねえアティチュードって何だっけ?」
 
「アティチュードさ。わかるだろ」
 
「熊度ってことだよね?」

「うん、一般的にはね。でも僕はちょっと違うって思うんだ。アティチュードってのはさ、目的と存在が一致したとき生まれるんだと思う」

「わかんないわ」

「アティチュード……。僕はさ、物には何でもアティチュードがあると思うんだ。人間だけでなくって何にでもあるって思うんだ。皿みたいな物体がアティチュードを持つと灰皿になれる。一枚の布もアティチュード持つとマントやテーブルクロスになれる。わかるかな」

「わかんない」
 
「とにかくさ、アティチュードがなくなったとき、存在の意味がなくなるのさ」
 
「わかんないわ。じゃ、ぼろきれみたいな人間はアティチュードがないってこと?」
 
「違うな。ボロきれでいようと心を決める。それはそれでアティチュードさ」
 
「…ねえ…」
 
「うん」
 
「ねえ…あたしもできるかな。アティチュード持つっての」
 
 あたしだって持ちたいじゃない、ジョウの言うそのアティチュード。

 アティチュードを持つ、それは飛躍的なことに思えた。やればできる、そんな力がほんの少し頭をもたげたような気もしたが、くしゃみの予感程度のたよりなさだった。


 ある日ジョウが猫の話をしてくれた。

「いつかしっぽの先だけ白い猫が三階の窓からアスファルトに突き落とされるの見た。そりゃもう凄いもんだった。命をかけたウルトラ宙返り…」

 ジョウは悲しげだった。酒をくいっと胃に流し込めないのは、窓から突き落とされた猫どころじゃない苦しさなのだ。命をかけてのウルトラ宙返りもできないまま、ジョウはスローモーにときおり息を吐く。

 ウルトラ宙返りのその猫は足を二本折ったけれど命に別状はなかったとジョウは話す。

「そいつさ、六才の誕生日の二日前に死んだんだってさ」

「えっ?」

「猫さ。ウルトラの猫さ。猫では早いほうなのかな」

「さあ……」

「チャーリー・パーカーはさ、死んだときには68才の体だったんだってさ」

「実際は何才だったの?」

「34才」

 ジィーザス。あたしは言った。

 ジィィザス…。ジョウは言った。

「彼、ジャズメンだったわよね」

「サックスさ」

「彼、ドラッグだったわね」

「うん」

「彼はドラッグだったのよね」

「うん」

「あたしね。わからないことだらけだわ。うん。わかんないことだらけよ」

「たとえば?」

「そう、たとえばね、ドラマ見てもらい泣きできても実生活では泣けないわけとか…。いつになったら何かに対するやる気が出てくるのか…とか」
 
「それから?」

「それから……」

 沈黙のあと、あたしは話した。ジョウに話した。体に抱えた池の話……。いつの間にかそれが空洞になった話……。

 話し終わると、虚しさがほんの少しだけ和らいだ。

 

 冬が過ぎ春が来て…夏も過ぎ…紅葉の季節も終わった。そしてまた冬がやってきた。

 その日は何だかひどく疲れていた。郵便受けを覗くと、家具屋のチラシの下に一枚の葉書が入っていた。

 元気かい? 僕はとりあえず頑張ってる。タキに近いうちに会える、そんな気がする。

 それは、サンタがクビから「ただいま禁酒中」という紙をかけた絵の絵葉書だった。

 ジョウ……。




その夜、ベッドに横になると二つの言葉が浮かんできた。

 再生と復活。

 どちらもその時に私には、難しく、遠く、に思えた。

 私に必要なのは何?奇跡では実態がなさすぎ…成長では優等生過ぎ……。

 必要なのはもっと魔力のある言葉。限りなく奇跡に近く、それでいて現実味ある言葉。そんな言葉があったら教えてもらいたいもんだわ。

 と、突然、ア、ア、ア、ア、アティチュードとラップっていた男の顔を思い出した。
 
 アティチュードか…。

 キッチンに行き、ウオッカのビンを撫でた。ウィスキーのビンを撫でた。禁酒二日目と三日目は数えられないほど経験したが四日目はなかなか来ない、ジョウは言っていた。

 ボトルの蓋を開けて、閉める。

 蓋を開けて、閉める…。

 リビングに戻り、窓を少しだけ開けてみた。風が冷たい。
 
 ベッドに戻り毛布に包まると、病院の待合室にいたジョウを思い出した。ジョウに会いたいと思った。恋愛感情などではない。寒さでぶるぶる震えている小動物が仲間の誰かに会って温もりを感じたい、そんな感情に似ていた。

 ほとんど眠れぬまま、空が白んでいった。




 母が危ないと、妹からの電話をもらったのはその日のことだった。




 そしてシルバに会った。母が亡くなったあの日シルバに会った。

 シルバは拾ったハサミを手渡すと言った。「サウスポーなのね」

「サウスポーのフィーラーね」

 フィーラー。ジョウから一度だけ聞いた言葉だ。

「私もそうなの。あ、サウスポーではないけどね」

 一瞬男か女かわからなかったのは、彼女が全くの銀髪で、中性的で、年齢も判断しかねたからからだろう。彼女は老齢には決して達していないだろうが、一見若さからは遠くかけはなれた容貌だった。それでいて俊敏さとひたひたとしたエネルギーを感じた。

「まずは依存症なおさなくちゃね」

 シルバの声は低く穏やかで、ビブラートがかかっていた。



 あの時、シルバは言った。

「大丈夫だから」

 私は固まった。現状に一番ふさわしくない言葉…。

 大丈夫だから。

 だけど、あのとき私は、足先を少しだけ「大丈夫」の方向に向けたのかもしれない。




 それからどれだけシルバに助けられたことだろう。シルバは道しるべになった。古い言葉だが、道しるべ。

 そして、時間が経った。その間には結婚もして、ミチとの出会いもあった。


⭐️

 ミチとの出会いはありふれてはいないにしてもとりわけ衝撃的でもなかった。

 ある日、夫が抱っこして帰ってきたのだ。

 ミチの第一印象はコアラだった。

 顔が似てるとか、耳が大きいとか、そういうわけではない。夫に抱っこされている様子がコアラみたいだったのだ。強いていえば、目から鼻にかけて少し似ていたかもしれない。

 赤いセーターに黒いズボン。髪は短かったので、男の子か女の子かもわからなかった。ただただコアラみたいだと思った。いつか赤いベストを着たコアラのぬいぐるを貰ったが、そんな感じだった。


 私はあまり表情がない、言葉の抑揚も少ないとも言われる。自分では正直なだけだと思っている。喜んでないのにむやみに笑顔を見せられない。悲しくもないのに、言葉に抑揚をつけられない。

 それでも世間の感情表現の平均値よりかなりずれていると子供のころから学んできたので、社会適応はかなりできるようになったと自負していた。けれど、気を抜くと素になった。人が楽しそうに話している中、黙々と箸を動かし無表情で食べたりする。別につまらないわけではない。興味がない会話のときは、話しかけられれば答えるが、自分から積極的には話さない。箸を動かしながら愛想で微笑むこともしない。おかしかったら笑う。そんな感じだ。

 夫はそんな私の奇妙さ(周りから見たらであって、私にとってはあくまで自然な状態なのだが)を全くと言っていいほど気にしなかった。見栄とか、変な自負とかなく、飄々としてた。「おんなおんなしてる人は苦手なんだよなー」と言ったので、じゃあ、わたしは何なんじゃい、とツッコミたくなった。そして自分がツッコミたくなる人に出会えたということに密かに感動した。夫は私の友人ジョウの紹介だった。その頃は、私もジョウも断酒に成功しつつあり、自分に対する自信と目的意識を少しずつ構築しようとしているところだった。

 恋愛、恋心、夫婦になって添い遂げる、愛情深いつれあい。私たち二人はこんな言葉とは全く違ったレールにのって、それぞれの存在を認め合い、それを心地よいと思い、一緒に住みだし、ある日ふらっと籍をいれた。

 わたしたちは友達のようだった。お互いにしてもらって当然ってことが皆無に近かったので、無理をすることもなく、楽だった。ひとりでいたときより、ずっと落ち着いていられる、一人より二人がいい、それが私たちの共通の思いだった。



 ある日、夫がコアラのようなミチを連れて帰ったとき、そのバランスがゆらり、と揺らいだ。

 それでも、どうしたの? とさほど驚きもせずに私は聞いた。

 マキがちょっと精神的にみられなくなってさぁ、一緒にしておくと何がおきるかわからないから、連れてきた。

 マキって誰? 

 どうやら私との結婚前につき合ってた人で、子供が生まれたと結婚後に知ったそうだ。自分の子なのは確かだ、とも言う。マキって名前聞いたような気もしたが、どうだったんだろう、私は記憶をさかのぼったが、ジェラシーとか無縁の性格だったので、聞いたとしても忘れていたのだろう。

 そう、確かなのね、と、リビングのソファに置かれ、きょろきょろしているミチを見ながら言った。見るというより、観察に近い感じだった。ミチは首をカクッカクッと90度ずつ動かした。その様子が小鳥みたいだと思った。

 その顔をじっと見てみると、やはり似ていた。小鳥にではなく、夫にだ。

 結婚前のことなら仕方ないか、と思った。もっとも結婚後であったにしてもさほど動揺しなかった気もした。

 えっと、服や食べ物や、知っとくことは? あたし、育てたことないし、子供って。

 ミチを抱き上げながら、パピーがペットのカメをこっそり買ってきたときや、捨て猫を拾ってきたときのことなどを思い出し、それとは違うでしょ、ちょっと不謹慎だと思ったりした。

 その日から、猛勉強プラス実地訓練だ。本もネットもいろいろ調べ、基本的情報は得た。あとはとにかく安全第一に1才2カ月の子供の世話をする、これにつきる。

 夫は翌朝からけっこう安心して会社に出ていった。凄く信頼されているのだと、かなり呆れた。

 子供にはとにかく愛されている、存在を無条件に受け入れられている、という安心感を与えること、をモットーに育てることにした。

 そこで、何があっても、「大丈夫だから」と言うことにした。私がシルバに言われて、わけもないのに心に少しだけ温かいものが流れた言葉。道しるべより以前に旅の前に書いてあってほしかった言葉。

 子供ながらの好奇心から失敗しても物を壊しても、その他もろもろの不都合なことが起きても、必ず最後に「大丈夫だから」と言ってみた。

 危ないことをしたときだけは別で、肩のところを強めにきゅっと両手で挟み、「危ないわよ!怪我をしたり、させたり、病気になるようなことはしてはだめよ!」と注意した。

 それ以外はミチが不安そうになるたび「大丈夫だから」を繰り返した。時を変え、場所を変え、ミチに「大丈夫だから」と言った。ある時は抱きしめ、ある時はしっかり見つめ、ある時は一緒に床に転がり、ある時は並んで歩きながら言った。

 最初の頃は、好奇心、責任感、観察の楽しさ、生き物の成長を見るワクワク感…そんないろんなものが混ざっていた。その中に、幼い無防備なものに対する愛情、母性本能はどれくらいあったのか…。

 ただ、少しずつ変化していった。ミチが視界に入っていなくても、あれれ、どこにいったのだろ、くらいだったのから、どこ?どこ?大丈夫かな?何してんの?へ直線上をゆっくりと動いていった。

 私は、しっかり抱きしめて、目をみて「大丈夫だから」ということをルールとし、悦に浸った。きちっと母親できてる感に満足した。


 夫は正式にミチを引き取った。

 私はごくごく普通の親になり、普通の親がすることはした。しすぎるわけでもないが、しなさすぎるわけでもない。丁度いいあたり、にいる平均的に良い親でいようとした。

 顔は全く似てなかったので、あら、お母さん似ね、と言われることはなかった。夫に似ていたので、みな父親似で満足して、母親と血がつながっていないのでは、と思う人はいないようだった。

 冷静な親、模範的な親、と言われた。凄くいい意味で使われたのではないな、と感じたけれど、冷静や模範的で悪いはずはなかった。



「ママ、目が見えにくい。見えない」
 
 突然ミチが言ったのは4才になった頃だった。私は焦った。動転した。こんなに動転したのは初めてだった。

 検査をすると、視力はかなり悪くなっていた。視野も狭い。しかしMRIや眼球の検査では、異常は見つからなかった。

「精神的なことが原因の可能性もあります」

 若い柔和な医師は言った。子供は下の子ができて自分に注意を向けられてないと感じたり、以前より愛されてないと感じたり、ストレスや不安があったりすると、視力が落ち、視野が狭くなることがあるのだという。

「最近、何か変わったことはありませんか?」

 産みの母親から離れて連れてこられたのは随分前だし、本人は覚えていない。じゃ、自分が本当の母親でないって言うべきだろうか、とふと思ったが言わずにおいた。

「特に思い当たりませんが・・・」

「とにかくしばらく不安を与えないよう、注意を向けてあげて下さい。それでいて神経質ではなく、大らかにしてください。必要なのは…」

 医師がそこまで言ったとき、「優しい感情表現」とか「理屈でない無条件の愛」が続くのではないかと思ってひやっとしたが、「親まで必要以上に神経質にならないことです」だった。

 その夜、ひどく暗い気持ちになった。悲しい気持ちにもなった。焦りもした。

 アルコールに溺れて苦しんでいたときとも、どうにも心が通じないと私が一方的に思い込んでいた親がいなくなった切なさに心がちぎれそうになったときとも、まったくちがう感情だった。胸が上から押し付けられ、身動きがとれなくなるような切ない感情だった。自分はミチを守りたいのだ、と気づいたとき、パニックの中でも何かがはっきりと動いた。

 夜、小さく、大丈夫だから、と声がする気がして目が覚めた。大丈夫だから。大丈夫だからね。

 「大丈夫だから」って言ってもらいたかったのは、ずっと自分だったのだ。私はずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。シルバが言ったときはまだそれに気づいていなかっただけだったのだ。



 ミチの視力は回復せぬまま、しばらく続き、私は、「大丈夫だから」をほおりなげた。

 私は医師の言う「おおらかに」の逆を行っていた。言葉は少なくなり、気がつくと涙ぐみながら、わけもなくミチを抱きしめていたりした。ミチはもともと口数の少ない方で、黙って少し首を傾げながら、私を見たりした。


 明日は病院で心理検査という前の日、公園へ出かけた。雲が三つ浮かんでいた。気持ちのよい日だった。私はミチの手をしっかり握り、少しだけ振りながら、無理してハミングして、木々の間を歩いた。ときどき、とりとめない言葉をミチにかけたりした。

 公園内にあるバーガー屋でチキンを二本にお茶を二つ買い、ミチとチキンを一本ずつ持って食べた。

「明日、病院なのね?」

 ミチが聞いた。

「そうよ」

「お目目の?」

「そうよ」

 私はできるだけにっこり笑い、「大丈夫だからね」と言った。

 久しぶりに言った「大丈夫だから」だった。

 ミチはしばらくその丸い目で私を見ていたが、急にチキンをほおばる手をとめると言った。

「大丈夫だから」

「えっ?」

「大丈夫は大丈夫だから」

「うん?」

「ママ、大丈夫だから」

「うん…」

 私のチキンを持つ手が少し震えた。涙があふれそうになるのをぐっと抑えた。

「大丈夫だから、は大丈夫よ、ママ」

 ミチはわざとらしいほどの笑顔を見せた。幼いながら、私のために作ってくれた笑顔だった。

「それにね、ミチ、明日は見える気がするんだ」

 うん、うん。私はチキンに落ちる涙ごとチキンをほおばった。

 そうだといいね、そうだと。

 大丈夫だから、と心の中でつぶやいた。幼い頃の自分につぶやいた。大人になった自分につぶやいた。お母さんもこの言葉、私から聞きたかったんじゃないかな。私もお母さんから言ってもらいたかったんじゃないかな。

 世の中、大丈夫でないこと多いけど、大丈夫よ、ってつぶやくこと、言ってくれる誰かがいること、それって大切なんだと思う。そうすると、大丈夫じゃないときでも少しだけ希望が持てる。

 希望って道しるべと同じですごく大切だと思う。

 あの時、シルバが言った「大丈夫だから」は私からミチへ流れ、そして最近、ミチはよく友達に口にしてる。「大丈夫だからってさ! とりあえずそう思おうよ」 彼女の楽天的性格はこのままでいいのか、とも思ったりするが、まあ大丈夫。そう思いたい。

 大丈夫だから、と言い聞かせ続けたミチも今11歳になっている。





 
 

 タキさんからの連絡を受けて大急ぎで事務所に向かった。メタに関するアクションが必要だという。今回は甲虫系だ。
 
 僕の能力は凡庸だが、僕は僕なりにやるしかない。

 駆け足になりながら、もう何年も前のことが頭をよぎる。

 それまで勤めていた会社を辞めて、「インテグリティ」に入るきっかけになった出会い…。それはルネビルに入っていた調査事務所に興味を持ったことから始まった。
 
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 自分を見失うことないですか?

 えっ? 見失うなんて馬鹿らしい? 

 そんなにおかしいことですか? ケタケタと笑うようなことですか?

 そんなに馬鹿げたことじゃないと僕は思うんです。自分で自分を見失うわけでしょ。ありそうな話ですよ。

 いえ、別に超自然現象とか、そんなこと言ってんじゃないんです。

 自分が自分から離脱していく自己離脱感? そんな心理学的なことでもないんです。

 突然、自分のこと、あれっ、誰だっけ?っていうような軽い感覚なんですよ。ケロッグのコーンフレーク食べながら、あれ、これオートブランだったっけっていうような一瞬のラップなんですよ。つまりですね、一瞬のあれっ?てな感覚なんです。ただ一瞬のあれってな感覚が積み重なると非常に重くなるもんで・・・。そうなんです。かるーい感覚で、1、2秒自分を見失っていたつもりだったのに、気がつくと完全に自分を見失ってんです。

 おわかりでしょう? それが自分を見失うってことなんです。まだ財布の中に金が残ってると思ってたのに、気がつくとなくなってた、ってように、きっとそうなるべくしてなったんでしょうけど、あれぇって感覚なんですよ。

 ことはラジオで聞いた脳天気なアナウンサーの言葉で始まりました。

「暑い日が続きますね」

(はん、別に)

「雨も降りそうで降りませんね」

(はん、そうかい)

「今週末あたり、パアーっとパーティでもやりたいですね」

(みんながみんなじゃねえだろよ。部屋の隅で膝を抱えて顎を膝にくっつけたりしてさ、ちっちゃくちっちゃく死んだ蜘蛛さんみたいになってしまいたいやつだっているんだよ)

「ところで最近、こんな奇妙なことが案外奇妙でなくなってきてるんですよ」

 僕は機嫌が悪かったもんですから、いちいちアナウンサーの言葉にかみついてたわけなんですが、「奇妙な」ってとこで、はたと興味を持ってしまったんです。悪態をつき続けてればよかったんでしょうが、突然、えっ?って興味を持ってしまったんです。

「自分の素姓調査を自分で頼むんですよ」

(自分で自分の?)

「就職や結婚を控え、ふと不安になるんですよ。はたして自分は他人様の目から見てどう見えているのだろうと」

(自分で自分の?)

「何でも予行練習のある世の中ですから、自分で自分が調べられることへの予行練習をやり、改善できるものなら改善しようというんです。考えようによっては全くシャープなアイデアじゃないですか」

(自分で自分の?)

 その瞬間、僕はそのアイデアに全くとりつかれてしまったんです。



 そう、僕は自分で自分の素行調査を頼むと言うアイデアにまったく取りつかれてしまったんです。そしてちょっとした後ろめたさとバカバカしさも感じました。自分で自分の影を踏もうとするような・・・鼻の先についた汗を舌でなめようとして出来なかったところを人に見られてしまったような、エスカレーターで横の鏡に映った自分をナルシスト的に見つめているような、なんとなくちょっと気恥ずかしいような後ろめたいような感覚です。

 僕は正直言ってもう若いとは言えない歳です。何歳かは皆さんの想像におまかせしましょう。女なら結構開き直っている歳です。けれど男にとっては曖昧な歳というカテゴリーなのかもしれません。

 そういえばおふくろが僕を産んだとき、10才は老けたといいます。もともと5才は若く見えたおふくろでしたから、10才老けてもそれほどひどくやつれたという感じはしなかったでしょうけど・・・。歳をとると人は落ち着きが出てきたとか、大人っぽくなったとか言いますが、それはちょっとやつれたわねの裏返しですよね。そんなにおふくろに重労働を強いて生まれてきた僕でしたが、この歳になっても自分の存在感の希薄さに悩むとは何とも悲しい話です。

 とにかくラジオがきっかけで僕は調査屋さん、つまり興信所に行くことにしたのです。
 
 興信所という言葉はもう古いですよね。調査事務所・・・これも古くなってきています。探偵事務所? インフォメーションサービス? パーソナル情報サービス? 

 けれど僕はあえて古い言葉の興信所を探したいって思ったのです。でも困りました。人が普通に生活していたのではどこの興信所がいい、なんてという評判は聞かないからです。そこでイエローページを引いてみました。笑うなら笑って下さい。僕はパソコンのキーを叩くより、紙媒体のイエローページの方が心地よいし、落ち着く、そんな人間なのです。

 名は体を表すと言いますが、はたして名は興信所の良しあしをあらわすのでしょうか。

 僕は一つの興信所の名前に目を留めました。「ブルースカイ調査事務所」 ちょっと笑ってしまうでしょう。僕は横文字言葉は好きじゃないのですが、流石に「青空興信所」だったら、もっと威勢よく大声で笑ってしまったかもしれません。けれど、「ブルースカイ調査事務所」はオッケーだと思ったのです。それどころか、ここに行ってみよう!とかなりの確信さえ持ったのです。

 「ブルースカイ調査事務所」のコピーには、「パーソナルなサービス。親密に調査させていただきます」とシンプルに書いてありました。おいおい、おかしいんじゃないか、僕は思いました。親密に調査させていただきます、はどうにもおかしい、と思ったんです。でも、その「親密に」というところに少しばかりの甘さを感じないわけでもありませんでした。ちょっとした甘さをです。そこで、僕はそのオフィスの入っているビルに行き、もう少しきちんと掃除をしたらいいだろうに、という小さなエレベータに乗り、もう少しきれいに拭いたらどうだい、というドアをノックしてみたというわけです。

 入るなり、ああ、来なきゃよかった・・・って思いました。まるでテレビのギャグの一こまのような感じだったんです。どうしてそんな感じを受けたかというと、やっぱりあれでしょう。妙に物が少なく、薄っぺらなんです。いかにもセット用に作ったかのようで、ファイルケースだって、旧式のパソコンだって、コピー機だって、ソファもテーブルも何だか無理によそからもってきたようで、どうにもマッチしていないんです。けれど空気だけが、部屋に閉じ込められた空気だけが、どこか澱んでいて、テレビギャグのような底抜けのいい加減さや軽さとはずいぶん違うんです。

「どんなご用件でいらっしゃいますか?」

 声がしたとき、僕はびくっとしました。人の気配を感じてなかったからです。その女の事務員(調査員という感じではかったので、僕は当然事務員だと思ったわけですが)は、どうやら机に突っ伏して昼寝でもしていたようですが、突然頭をぴょこんと起し、べっこうの丸メガネの奥で目をパチパチさせながら、僕を見ているじゃありませんか。どうして気づかなかったんだろう、僕は自分の目を疑いました。けれど女はモグラたたきのすばしこさで頭を起こしたにもかかわらず、モグラたたきのモグラほどの存在感もなかったわけです。

 その机にはりついていたときは薄っぺらだった女は、すぐにしっかりした存在感で「どんなご用件でしょう?」と話しかけていました。突然の声の出現だったので、その存在感は少しばかりテンポがずれたにしても、次第にみしっみしっと僕に伝わってきました。

「調査のお願いにあがったのですが」

 僕が言うと、女は驚くほどの笑みを浮かべて立ち上がりました。営業用の笑みにしても驚くほどの変わり身の早さでした。立ち上がった女は「まあおかけ下さい」とねずみ色のソファを指しました。エンジの絨毯にねずみ色のソファはどうにも趣味が悪く、僕にはこたえましたが、それでも言われる通り、大人しく腰掛けました。腰がどわんとソファに沈みこみました。

 女は今度はいそいそとお茶を入れだしました。オフィスの端には、昔どこの家にでもあったような水屋があり、それもどうにも場違いでしたが、とりあえず物を集めて置いたセットという一貫性には貢献していたわけです。

 女は確かな手さばきでお茶を入れ始めました。するとさっきまで、ねずみ色のソファさながら活気のない事務員だったのが、鼻歌でも歌いだしそうな陽気なウエイトレス風に見えてきたから不思議じゃありませんか。

 もっとも、ほんの錯覚ってやつで、よくよく見れば女は相変わらずべっ甲の丸メガネをかけ、どこか曖昧であることに変わりありませんでした。うっすらと鼻の下に毛も見えそうな気もしてきました。身なりにかまわない女のようでした。

 お茶をポンと僕の前に置いた女は、そのままお盆をソファの横に立てかけて、僕の前にすわり、「さて」と言いました。いや、女は実際には言わなかったかもしれません。ただ女の目も眉も手も体中が「さて」と言っていたのです。女は「わたし、こういうものです」と言って胸ポケットから名刺を一枚取り出しました。

 「わたくし」と言わずに「わたし」と言ったところに、それも「あたし」に近い「わたし」と言ったところが何とも僕には艶っぽく感じました。ここしばらく僕の目の前でも平気で便秘の話をする会社の女の子以外とは身体的接触はもちろん話すことも全くといっていいほどなかった僕でしたから、目の前にいる彼女に思わず女を感じてしまったというわけです。けれど、じっくり、体を少し後ろにひいて見れば、やはりべっ甲の丸メガネをかけたまあどちらかというと冴えない女がいるわけで、けれど受け取った名刺はまだ彼女の胸のあたたかさが残っているようで、そして胸の曲線に沿ってか、名刺の斜めにすっと一本寄った線はまさにイエローページにあった「パーソナル」というのにふさわしく感じました。
 
 じーっと名刺を見つめている僕に彼女の「さて」の雰囲気は段々苛々したものに変わってきました。
 
 だから彼女は全身で「さて」を表すのをやめ、「ご用件はどのようなものですか?」と普通に聞いてきました。ふと彼女の名前は何だろうと思いました。名刺の皺ばかり見ていて肝心の名前を見ていなかったのです。名刺を見直すと今度は字が浮き上がって見えました。

 川野タキ、とありました。相手の名前を知ると、いやそのときの僕はきちんと把握した、という気持ちになり、なんだかゆったりと優越感まで持てたようで、顎をひき、胸を張り、「川野さんですか」を ほぉ~、川野さんというんですか、なるほどぉ~というニュアンスをこめ、言いました。

 川野さんは微笑んでいました。むっとする様子もありませんでした。よく口元は笑っていても目は怒っている人がいます。そんな器用なこと、僕にはできないと思うのですが、口で笑い、目で怒ることのできる人は結構いるんです。けれど川野さんは目も笑っていました。それは僕をひどく安心させました。

 川野さんはどうやら、このときまでに僕のタイプをつかんだようでした。

 僕はいわゆる曖昧人間です。なかなか要点を言わない、いや要点が言えないんです。要点が何かがよくわかっていないこともしょっちゅうです。

 北川さんはまるでウエイトレスがメニューを置くように、僕の前に一枚の紙を置いたのです。アイボリーの和紙に印刷した料金表というか、まさに探偵メニュー、調書メニューといったものでした。信用調査、浮気調査、ストーカー調査など、いくつかのメニューがありましたが、僕はいい紙を使っていることに、ひどく感銘を受けました。だから男にしては細く美しいといわれる指で、ゆっくりなでてみました。

すると和紙の感覚が指先に伝わり、ひどく何か懐かしい気になったのです。

「この紙、どこで購入なさったのですか?」
 
 僕はまるで紙職人でもあるかのように真剣なまなざしで川野さんに尋ねました。すると川野さんはさすがに少し苛々した様子もありましたが、口元の笑みはそのまま目元に少しだけ苛々の残光のようなものを浮かべ「すぐそこの文房具屋です」と言いました。

「こんないい紙を使うんですか? コピー用紙で十分じゃないですか?」と僕が言うと「DMにして何百人、何千人に配るわけではありませんから、ほんの数部作っただけですし、今残っているのはこれだけです」と奇妙な誠実さで教えてくれました。

 そうか、これは僕にくれるパンフレットというわけではなく、あくまで調査メニューなのだ、と気がつきました。喫茶店で注文したら「メニューおさげしてよろしいですか?」とウエイトレスが持っていってしまうあのメニューと同じなのです。友人でレストランのメニューを集めてるやつがいて、押し入れから何十枚も出してみせてくれましたが、何だか虚しいものでした。メニューというのはやはりあるべき場所になければならないのです。押し入れの中に押し込まれた下着の入った紙ダンスの横に挟んで置かれるべきものではないのです。

 僕は調査メニューに目を走らせました。どれを注文するのか決めなければなりません。ファミリーレストランにその日のランチスペシャルが終わる3時直前に駆け込み、「すみません、もうランチは終わってしまいました」と言われ、チェッと心で舌打ちし、「じゃ、いいです」と少し憤慨して出たことが何度かありますが、そのたびに後悔しました。別にその日のグラタンコロッケと唐揚げ、豚肉しょうが焼と餃子、白身魚のあんかけと海老フライのどれかが真剣に欲しかったわけではないのです。ただ、「え、ないのか~~~」というわけのわからない不満を誰かにぶつけたかっただけなのです。「じゃ、いいです!」と店を出た後、必ず後悔しました。そして結局違う店で割にあわない勘定を払うはめになり、そんなときは心の中ではなく、ほんとに舌うちしたりしました。スペシャルランチがない日曜日などは、何度もメニューを見直し、裏返したりもしますが、今日はなにぶん川野さんの目もあり、裏返してまで見る気にはなりませんでした。それでもじっとメニューを見つめずにはいられませんでした。メニューから最適なものを選ぶことがとてもとても大切なことに思えたからです。

 信用調査、浮気調査、財務調査など幾つかある中で、「尾行」というメニューがありました。

 尾行・・・。それはひどく具体的でも生々しくもありますが、なんだか爽やかな感じすら受けました。信用調査、浮気調査、結婚調査、就職調査、と目的がはっきりしている中、「尾行」というのは行為そのもので、so what? の世界だったのです。何のために尾行なのでしょう。

「尾行、というのは、つまり、尾行だけですか?」

 すると川野さんは、ああ、そのご質問ですか?というように大きくうなづきました。

 僕はそのとき川野さんの瞳の色が淡いのに気がつきました。まあ日本人にしては、ってことなんですが・・・茶色は茶色だけど薄茶色でした。けれど髪の色は真っ黒で、そこがアンバランスで普通と反対だと思いました。今はみんな髪、染めてるじゃないですか。茶色に。男でもかなりいるくらいですから、女ではほとんど100パーセントって言いたいぐらい、何らかの方法で色を抜いているのです。生え際が黒くなってくるのが嫌だったり、はやいピッチで染めるのが面倒ではないのかな、なんて思ったりしますが、それはおしゃれ心のない男の言うことでしょう。

 川野さんのような茶色い目を持った女性なら当然髪も色を抜いてくると思うのですが、彼女は真っ黒な髪のまま、後ろで一つに結んでいてなんの飾り気もないのです。川野さんって何才だろう、僕はふと思いました。そう思ったってことは、つまり、彼女に興味を持ったってわけです。僕より若いのだろうか。髪にリボンをつけるのはちょっとおかしいにしても、それなりに流行りの格好をしたら似合うだろうに、と思ったりしました。

「この、尾行、というのはですね、お客様のプライバシーを大切にするという意味なんです」

「プライバシーですか?」

「ええ、ご理由は言いたくないけれど、とにかく尾行してほしい、そいうお客様が結構いらっしゃるんです。従来のメニューですと、それにお答えできませんので」

「ただ尾行だけお願いできるのですか? 理由を言わなくても」

「ええ」

 川野さんは頷きました。できますね、とその顔は自信にみなぎっていました。

「ただ・・・」

 川野さんは笑みをさらに強めました。

「もちろん、ご理由を伺った方がやりやすいのは確かです。そこにさらなる注意を払えるっていうんでしょうか。たとえば…もし、ご主人が浮気しているのでは、とお考えのご婦人がいたとします。けれど、浮気調査をお願いします、とは言いづらい。そこで単に尾行を、と依頼されたとします。もちろん、我々といたしましたらそれでもお受けいたします。御依頼人様のお気持ちを一番に考えておりますので…。けれど、何にフォーカスして尾行すればいいのかわからないところがやりづらいのです。ドラッグをしているのではないか、の調査なら、尾行対象が人とすれ違うたび何かを手渡していないか、と見なければなりませんし、万引きの癖があるのでは、と心配している場合は、対象が店に入るたび細かい手の動きに注目しなければなりません。けれど浮気のための尾行と目的がはっきりしていれば、そんな細かい手先の動きには注意しなくてよくなります。つまり…目的をお聞きした方がより効率のよい尾行ができるわけなんです」

 川野さんはそう言って、僕を見つめました。その目は僕の目的が何なのか、まだつかみかねているようでした。

「僕は、やはりその尾行、というのを頼みたいと思います」

「どなたの?」

 川野さんは少しいたわるような口調で尋ねました。

 僕のです、僕は自分について知りたいのです。客観的に自分を見てみたいのです。おかしいですか。

「僕の……兄のです」

「お兄様ですか」

 川野さんは少し意外そうなトーンでしたが、すぐに自分の気持ちは外に表さないぞ、という営業用のスマイルになっていました。

「わかりました。特にどこか焦点をあてて、ということがありますか?」

「いいえ…特に…。なんとなく…いや、全体的に尾行してほしいのです」

 僕はとっさに「兄の」と言った自分の言葉に驚きました。僕自身のです、と胸を張って言うつもりでいたような気がしますが、兄の、と言ったあとはもともと僕自身などという気などなかったのではないか、そんな気にもなったのです。

 兄か…。兄などいない。

 そのとき、ドアが開き、一人の男が入ってきました。タキさんが何もいわず少し微笑んだように見えたところを見ると知り合いだろうと思いました。

「連絡は?」

 男は僕をちらっと見て軽く会釈したあと、川野さんに声をかけました。かすれた声でした。蛙の声をさらにすりつぶしたような声でした。だからといって魅力のない声というわけではありませんでした。それどころか、その男の容姿と同じく、ひどく心惹く声でした。

「まだありません」

 川野さんはそう言い、僕に視線を移しました。

「所長のフルセです」

 男は「古瀬流」と書かれた名刺を僕に差し出しました。

「ながれ?と読むんですか?」

「リュウです」

 所長は答えました。

 古瀬所長は決して若くはありませんでしたが、さびれた魅力がありました。それも、ひどく、とか、抜群に、をつけたいくらい魅力的な男でした。上背もありました。184センチはあるでしょう。握手をしようと立ち上がった僕より7、8センチは目の高さが上にありましたから。

 所長は僕の手を握りました。なんだかSF映画の中で善いエイリアンと握手しているような気になり、なんでだろう、と思ったりしました。

「お話はこちらの部屋で伺いましょう」

 所長は無理やりにパティションで仕切って作った部屋ごとき場所に僕を連れていきました。そこにはコバルトブルーのソファと小さなガラスのテーブルがありました。

「お待ちください」

 所長はそう言ってすぐにパティション部屋から出ていきました。

 本当に稀に見る魅力的な男でした。デザイナースーツでも着せて髪に手を入れ、それなりの表情を作り、小道具も活かして写真でも撮れば、十分にモデルとして通用するのではないでしょうか。顔には渋みに似た人生疲労のようなものが伺えましたが、それもこの所長の場合プラスに働いていました。所長は自分の魅力を知っているのだろうか、僕は思いました。

 所長は僕のことを川野さんからどのように聞くのだろう、と少し落ち着かなくなりました。

 戻ってきた所長は柔らかな笑みを浮かべていました。

「川野から聞きましたが、お兄様の尾行をということで」

「はい…。実は兄がおりまして、ちょっと問題を起こしたものですから、尾行をお願いしようかと思ったのですが、やはり弟がそんなことをしていいものかと二の足を踏んでいるところです」

「そうですか」

 所長はそう言ったきり、セールストークのようなことは言わず、心優しい教師のような視線で僕を見ました。

「迷っていらっしゃるようでしたら、今はいろいろ進んでましてね、顔を合わせることなく、自分の名を知らせることなく、調査を依頼することもできるんですよ。ネットで調査会社のサイトにアクセスし、依頼内容をインプットするだけで依頼ができるんです。もちろん何らかの名前を記入しますが、偽名でもいいですし…。先日の依頼者は『真夏の猫』と名乗っていました」

 僕はアナログ人間です。この言葉自身が滑稽なほど古いのはもちろん自覚しています。女の子なら、わたしアナログだから~~~で済むのかもしれませんが、男の子がパソコンもスマホもSNSも苦手とあれば、まじ!??の世界でほんとうに目を覆いたくなるのです。

 僕は決して数字やサイエンスが苦手なわけではありません。ただ数字以外のものが好きなんです。時も、数字で1から2、2から3に唐突に変わるのではなくきちんとチッタチッタと刻んでほしいんです。唐突なチェンジでなく滑らかな流れであってほしいんです。だって世の中、ぶつぶつ切れたものだらけじゃないですか。ぶつぶつ切れた切れっぱしだらけ見てると、何だか息切れしてしまいます。

 ちょっとしたいざこざで父と話をしなくなって随分になりますが、父は退職前はやり手のサラリーマンで専務まで出世しました。でも、家ではひどく無口な人でした。父のことを思い出すとき、なぜかバックグラウンドミュージックが流れるのです。ほら、ご存知ないかもしれませんが大昔、鶴田浩二という俳優が歌っていたあの歌です。ミュージックというより、セリフですね。セリフつきの歌ってやつです。

古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか。

 このあと、歌になるんです。何か~ら何ま~で 真っ暗ぁ~闇よぉ~  と続くんですが、IT企業に勤めていたにもかかわらず、父はこの古臭い歌が大好きでした。カラオケでよく歌いました。歌う姿は真剣そのものでした。

 父の心の奥底の世界観の中では数字も漢数字だったような気がします。でも数学は得意でデータ処理に長けていました。人間って誰でもそんな矛盾を抱えた存在なのかもしれませんね。母はきっぷのいい人でしたから、僕が数学が出来ないのを決して責めたりせず、カズトはカズトだから、とほとんど気にしていませんでした。

 ま、それほど数学ができなかったわけじゃないのですが、僕がより興味があるのはものの描写、そしてそれに内在するものなのです。僕にとっては、皆の愛情を一身に受けているスマホもどこか不気味な存在なのです。本なら一字一字の積み重ねで意味を織りなしていくじゃないですか。なのにスマホは唐突なんです。突然なんです。そうabruptです。何もなかった画面から一瞬にして、僕の周りの空間はもちろん世界のあらゆるところを満たし溢れる情報を流出させるのです。情報を惜しげもなく投げつけてくるのです。もういいよって行っても聞かないんです。確かに困ったとき、情報を得たり、日常を豊かに楽にするアプリは便利だし、もちろん僕も一目置いています。へぇ~~、ほぉ~~、と感心します。

 僕は昭和初期に生まれていたらよかったのかもしれません。手紙と電話がコミュニケーション手段だったころのペースの中だと呼吸が楽だったのかもしれません。そんな時代は人は今とは違ったある種の感性で繋がっていた、そんな気がするのです。

 話がそれてしまいましたか? とにかくネットだと自分の素姓を隠して依頼できますよ、とその格好よすぎる所長に言われても、「そうだったのか! それは素晴らしい考えだ」とは思えず、もしそうしていたら、この奇妙なオフィスにも、川野さんにも、所長にも会えなかったじゃないか、とネットに頼らなかった自分のチョイスが妙に正しかった、優れていた、という確信を得ました。



 小さなワンルームのマンションに帰った僕の頭には、オフィスのねずみ色のソファとエンジの絨毯の空間が広がったままでした。消えないどころか、それは石膏さながらの頑固さで僕の頭をかたどっていました。

 所長の存在もどんどん大きくなっていました。僕は所長にかなり興味を持ってしまいました。所長のルックスがよかったから…それだけのことと思われるかもしれません。けれどそれだけであってそれだけでないのです。

 僕がつきあいたいと思うのは女の子です。それは小さいころから変わりありませんし、いくらかは行動に移してきました。もちろんあまり成功しとは言えませんが。

 けれど僕は時々、ひどくひどく男性に惹き付けられるのです。事実ですから否定はしません。なんせ、僕は正直なアナログ人間ですから。すみません、どこか僕の中で  正直=アナログ ってなっているところがあります。もちろんアナログな人間にも嘘つきが多いと思いますので、ま、そこのところは聞き流して下さい。

 僕が男の人に惹きつけられるときは決してつきあいたいとかではなく、その男になりたい、という同一化願望なのです。どうしてあのさびれた事務所にいたルックスはいいにしてもどこかうらぶれた印象の所長になりたいのか、どこが魅力的だったかと聞かれますと確かに困ります。ルックスは確かにいいのですが、ルックスのいいだけの男なんて五万といるじゃありませんか。ただ、所長がもっと洗練された事務所でもっとスマートに登場したら、もっと惹かれたかと言われれば、はっきりノーと答えられます。ここに鍵があるのかもしれません。
 
 あまりに高尚な存在だと浮力でふわーんと飛び上がってしまい、僕との接点が無くなってしまいます。接点がないものには感情は流れていかないのです。電流と同じですね。所長の適度にくたびれたスーツも靴も、親しみを感じさせました。僕も何年かすると、この所長くらい憂いを含んだ、どこか謎めいた魅力のある存在になれるのかもしれないという希望と錯覚をもたらしたのです。もちろん10年経とうが身長が7、8センチ低いのには変わりなく、顔の彫は所長にははるか及ばず、髪だって僕の家系からするとすっかりなくなっているかもしれないのです。

 いろいろ考えては見ましたが、所長の魅力は、風もないのに決して落ちずに舞う埃のように、僕の頭に漂っていました。

 ネットで依頼し、報告書もネットで受け取ることもできるわけですが、ネットで報告される僕って一体何なのでしょう。頭でっかちなアバターになるようでまっぴらでした。

 報告書は紙でもらいたい。その方がずっと実体があるように思えたのです。

 問題は誰が僕を尾行するか、ということでした。所長が「今日、申し込まれるようでしたら、具体的な手続きは川野が説明いたします」と言い、消えて行ったあと、川野さんに尋ねました。

「あの・・・尾行は誰がなさるのですか?」

「はい、尾行ですね」

 川野さんは僕をじっと見ました。じっとと思ったけれど、それは今までより、少しだけ長めだったのにすぎなかったのかもしれません。でも、川野さんがちょっと考えたのだけはわかりました。

「尾行は大体所長がいたします」 

 北川さんは答えました。

 そして川野さんは目を左右に動かしました。そんな動きは僕が事務所に入ってきてから初めてだったので、僕はちょっと考えてしまいました。目はきょろきょろするとき左右には動くが上下にはうごかない。上下に忙しく動かしたら、宇宙人ぽくなってしまう、などと思ってから、そんなこと今どんな関係があるのだろう、とおかしくなりました。

 川野さんは和紙のメニューカードを一度持ちあげ、トンとテーブルに立てるようにしました。そしてそのあと少し息を吐き、メニューを置きました。実際は落とした、という感じでもありました。そしてもう一度言ったのです。今度はしっかりと僕を見て、目も動かしませんでした。

「今申し込まれたら、尾行は所長が責任を持ってチームを作り、指揮いたします」

 なんと大げさな、と思わないわけではありませんでしたが、

 決めた、

 僕は思いました。

 所長が僕が尾行する。そのことに僕はときめきすら覚えました。所長が尾行することで何だか自分の価値が棒高跳び並みに持ち上がるような気になったのです。

 それって案外タレントに似てるのかもしれません。スターというべきでしょうか。今、スターは不在だけど、スターとタレントの中間くらにならいるかもしれませんよね。タレントはファンがいるから光を放てるわけです。ファン一人一人の小さな光がタレントに当たり、結果として輝やいている錯覚を与えるのです。ファンがいないタレントなんて動きを止めたマリオネット、指をはずされた指人形、無人島の石像、みたいなものです。

 見る者、見られる者、ここにある種の関係が成立します。光を与える者、与えられる者。パワーをもらう者、与える者。

 ファン一人一人小さな発光体を持ってタレントに向ける。光の数が多いほど輝く。光が消えれば、パワーも消える。

 もっとも以前はこの構図だったかもしれませんが、今は一人一人が光を投げかけるわけではなく、たくさん集まった動く物体を興味をもって懐中電灯で照らしてみる程度かもしれません。暗いとこでなんか動いてる、どれどれ光を当ててみるか、お、意外におもしろいことやってるな、ま、見てみよう、あはははは。そしてしばらくすると興味もなくなり、光も消えていく…。

 タレント評論家ではないので、これくらいにしておきましょう。話がまたまたそれてしまいましたが、僕が言いたいのは、物でも者でも光源に照らされなければ光を放てない、ということなのです。僕の場合、光源が所長です。所長が僕を尾行してくれれば、僕そのものが輝けるような錯覚を持ったのです。

 僕はろくすっぽ人に見られたことがありません。まして賛美なんて縁がありません。人に見られなければ輝きもない、と感じたのです。けれど、所長が僕を尾行し、僕の報告書を作る…このアイデアは僕に小さな希望というか期待の芽を植え付けたのです。まさに小さな光です。
 


 僕は三カ月プランをたてました。三カ月で外見を、容貌を変える、そう決めたとき、とても清々しい気持ちとともに目的設定に満足して力がみなぎるのを感じました。ドーパミン? アドレナリン? 何かわからないけど、脳内物質が流れ出したのは確かでした。

 所長には、あの事務所へ行った僕ではなく、未知の僕、を尾行してほしいと思いました。そのためには、やはり僕が僕とわからないくらい変化するしかないと思いました。

 痩せるか太るか…。どちらも健康には悪いでしょう。クリスチャン・ベールは役のために骨と皮ばかりになったのですが、ひどく健康を害したそうです。ロバート・デ・ニーロ、ヴィンセント・ドノフリオ、ジャレット・レトは太りました。これも体に悪そうです。ウルブリン役のヒュー・ジャックマンは筋肉質の体を作るため、脂肪の少ない鶏肉を常に食べ続けてると言っていました。

 僕はもともと痩せ形です。だから、10キロも20キロも痩せることは不可能だし、もし頑張って少しばかり痩せても、到底別人には見えないでしょう。もとの僕が少し痩せた僕になるだけです。

 では太るというのはどうでしょう。痩せるのが駄目なら太るしかないのですが、それもため息です。僕は太れない体質なのです。普段の体重より2、3キロ重くなると、なぜか胃が悪くなり吐いてしまうのです。太るのが嫌だとか太ってしまったという強迫観念にかられるとか、そんなわけではないのです。もう少し体重は重い方がいいと思ってるわけですから。なのに太れないのです。

 変装をする、というのは問題外でした。そんなことをすればもう僕ではないのです。あくまで小道具は使わず、僕自身を変えることで、外見が今の僕とわからないくらいにならなければ意味がないのです。

 いろいろ悩み……いろいろな方法を模索し…実行し……

 そして3か月が経ちました。

 いよいよその日がやってきました。僕はブルースカイ調査事務所に電話をし、3か月前に事務所をたずねたものだと伝えました。そのとき尾行のことで川野さんと所長に相談したのだが、尾行をやはりお願いしたいと伝えました。兄が、実際には血のつながりはないが兄と思っている人間が東京に戻ってきたので、しばらく尾行をお願いしたい、と言い、住所と写真は調査事務所のポストに既に入れておいた旨、伝えました。川野さんはきっと僕のことを覚えていたと思いますが、事務的でいながら感じよく、金の支払い方法、その他の手続きなど、電話で対応してくれました。

 さあ、いよいよ尾行の始まりです。

 

 僕は長期滞在できるカプセルホテルにチェックインしていました。

 寝泊まりはカプセルホテルと決め、実際にカプセルに入ってみて、しまった!と思いました。自分が閉所恐怖症の気があるのを忘れていたのです。今までもエレベータの中や狭い収納部屋、小さな窓のない部屋、などで言いようのない落ち着きなさや不安感を感じたことがあります。

 カプセルで寝ころんでいると、自分が手も足もない蜂の幼虫になった気がしました。蜂の幼虫ってどんなんだったっけ? 種類によって違うんだっけ? 蝶や蛾の幼虫は幼虫の時も成虫になったときと共通するもの、たとえば色とか角とかあったようだけど、蜂の幼虫ってどうだろう、なんて思いました。

 けれど僕は蜂の幼虫ではないのです。このカプセルを出たら、所長が尾行してくれるわけですから。尾行は所長にお願いしたいと、僕はきっぱりと言い、川野さんは了解しました、ときっぱり答えたわけですから。

 仕事は2週間休みを取りました。自己研修期間として2週間、無給ですが休みが取れました。貴重な2週間をこんなことに使っていいのか、と思わないでもありませんでしたが、僕の意志は固いものでした。そして心のどこかでこれは本当に、まさに、芯からの、自己研修だと思っていました。自分を知るために尾行をしてもらうわけですから。

 3カ月前に事務所に行ったとき、僕は所長にも川野さんにも名前も住所も教えませんでした。来客名簿に記するのも断りました。そしてこの度告げた名前は偽名です。野本栄三。これが僕の偽名です。なぜこんな名を選んだのか自分でもわかりません。頭に最初に浮かんできたのがこの名前だったのです。そして、尾行をしてもらう人物の名前は「片野秋太郎」としました。

 つまりカプセルで横たわる僕は、片野秋太郎ってわけです。

 僕は黒いシャツに黒いズボンに灰色のニットキャップをかぶり、スタバの紙袋を持ってカプセルホテルを出ました。蜂の子が陽の目を見たというわけです。ホテルから出た僕はすでに尾行されているはずでした。振り返ってみたい気がしました。尾行の気配を感じてみたい、と思ったのです。が、もちろんそんなことはしませんでした。片野秋太郎は尾行されていることなど知っているはずはないのですから。

 何がしたいのだろう、僕は歩きながら考えました。所長が尾行をしている、そう思っても別に緊張するわけでもありませんでした。それに気づいたときその事実は僕を驚かせました。誰かの注目を浴びるといつもどきどきしていた自分がありましたから。

 何がしたいのだろう、再び真剣に考えました。したいことを頭の中で箇条書きしてみたいと思ったのです。

 そして、何もしたいことが思い浮かばなかったとき、ひどく乾いた驚きが襲ってきました。尾行されている、されてないにかかわらず、僕にはしたいと思えることがなかったのです。

 何一つなかったのです。

 そこで仕方なく思いつくまま、適当に過ごすことにしました。

 ラーメン屋に入ってゆっくりとラーメンを食べました。もやしを一本一本箸でゆっくりつまんで食べました。鼻ひげと顎鬚が湯気で濡れました。僕は顔だけは毛深かったので、髭はたやすく生えました。髭を生やしてメガネをかけてみるとこれだけですっかり別人に見えました。ほとんどノンストップでのトレーニングも効を奏してか、ぴったりのTシャツを着て鏡で見ると、僕とはそれまで無縁だった怪しい男が立っていました。

 すれ違う女たちをじっくり見つめたり、時々は振り返ったりもしてみました。もちろん、僕が僕であったときはしない行動です。

 気にくわなさそうに口を大きくゆがめてはチッと言ったりもしました。郵便局の前で、足をとめ、ポケットにさも何か持っていそうに手をつっこんで確認しているふりもしました。

 全く知らない老人を追いかけていって、「もしかして村上さんではないですか?」と真剣な声で聞いてみたりもしました。戸惑った老人は僕を見て「わしゃ、そんな名前ではないような気がするな」と答えただけでした。

 ある時は細い路地にある電柱の前に立ち、ゆっくりと煙草を吸いました。煙草を吸ったのは大学生の時以来でした。むせそうになるのを必死にこらえ吸い続けました。「肺が真っ黒」という言葉が急にメロディをつけて僕の頭にポップアップしたので、慌てて煙草を捨て、つま先で火を消しながら、この動作は女っぽいのではないかとちょっと気にしました。そのあと数歩歩いたのですが、煙草のポイ捨てやめましょう、というポスターで見たにこやかな女の子の顔を浮かんできて、小走りで戻って煙草を拾いたくなりました。もちろん、それはしませんでしたけど。

 また、ある時は、繁華街で、「おい兄ちゃん、何ガンつけとんねん」と因縁をつけられました。いつもだったら、「いや、すみません」と困ったような笑みを浮かべてこそこそ逃げ出すのですが、そのときは「そっちこそ、何見とるんじゃ~~~!」と腹の底から声が出ました。僕はもともと声が低いのですが、対人が苦手だからでしょうか、人と話す時は声はかすれるかワンオクターブ上がるかなのです。しかしその時の驚くほどの低音の怒声は自分でも心底驚きました。

 ある時は高級スーツ売り場で、スパイさながらのストイックさでブラックのスーツを調達しました。

 無意味に気の向くまま過ごす、僕は次第に自分はこれがしたかったのだ、と思うようになりました。けれど、そう思い満足しようとすればするほど、焦ってきました。それは歩けば歩くほど道に迷っていく、のと同じ原理でした。

 もう、誰が尾行しているのかなんて気になりませんでした。最初は所長のくずれた美しさの横顔を思いだしたりし、所長が尾けているのか、と少しだけうわついた気になりましたが、次第に、ほんとうに不思議なことに、訳のわからないほど不思議なことに、誰がつけていようが構わなくなったのです。気にならなくなったのです。



 一週間が経ちました。

 僕はもうくたくたでした。

 疲労感が心と体に満ちていました。

 なぜだか昔飼っていたハムスターを思い出しました。カラカラカラカラ…ひっきりなしに回し車を回すハムスターでした。カラカラカラカラ、それはよく回したものです。カラカラカラカラ……その音を夜聞くたび、決して苛々はしませんでしたが、虚しくなりました。小さいケージの中で、小さい回し車にのってカラカラカラカラ回すハムスターの存在が夜眠れない自分と重なり、ゴースト的に思えたのです。意味がない、虚しい、そんな意味でのゴースト的です。

 ハムスターのことを思い出しながら、僕は、自分がいつのまにかゴーストになっていたのかも…と感じていました。



 報告書は一週間ごとのはずでした。それを読んで継続かどうかを決めることになっていました。一週間の尾行は安いものではありませんでした。

 私設私書箱宛てに届いた紙媒体の報告書。

 手にした僕は思っていたより冷静でした。もっとわくわくしたり、どきどきしたりするのではないかと思っていたのですが、休日の新聞に挟まれたチラシの束を手にするぐらいの素っ気ない無関心さでした。3か月もかけ尾行してもらうための準備をして臨んだ一大プロジェクトのはずでした。その目的もわからぬまま、何かに突き動かされたプロジェクトでしたのに、今その報告書を手にして、すっかりその突き動かしていたものがなくなっているのに直面せざるえを得ませんでした。

 報告書。

 行動に変化があった時間ごとに場所、行動が記し、写真がつけてありました。調査の目的をはっきり告げぬままでの、いわゆる尾行のための尾行であったわけですから、かなり細かい報告書になっていました。通った道、入った店、その様子、言葉を交わした人。

 確かに自分の行動が詳細に記されていました。写真もかなりの量でした。写真を見ていると、別人であって自分であって、やはり別人であって…。見れば見るほどわからなくなってきました。

 詳細な報告書。その最後の最後に数行、尾行責任者のコメントが、ほんのおまけのように載っていました。

 読んでみて、僕は大きな石を投げつけられたような衝撃に襲われました。発泡スチロールかと思っていたら、本当の岩だった…そんな感じで頭と…そして心に…衝撃を受けたのです。



 被調査人は落ち着きがなく、なんらかの人格障害に近い気質である可能性が否定できない。時として幻影を見たり、聞こえぬ声に耳を傾けたりしている様子がみられる。仕事をすることはなく、一日中街をぶらついている。人に危害を加えることはなかったが、どなり声をあげたことが3回あり、その声は常軌を逸した怒声であった。
 外見は動かずにいると特に異様というほどではないが、動き出すと、どこか不器用で挙動不審の人物に見える。多動であるが、時に一時間単位で微動だにせぬこともある。
 被調査人の行動の原因と特性を明らかにするためには、さらなる調査が望まれる。



 何だか一粒一粒積み上げた山が一瞬にして崩れ落ちたような、カラカラカラカラ回してきた回し車が一瞬にして砕け散ったような、とにかく、何かひどくひどくショックというか衝撃を受けたのだけは確かでした。

 しばらく瞬きすら億劫なくらい口を開けてじっとしていました。

 どれだけ時間が経ったのでしょう。そのあと、少しうとうとしたようにも思います。

 それから、ゆっくりコーヒーを入れて飲みました。久々のマンションで飲むコーヒーは記憶にあるより薄っぺらい味がしました。

 その日の夜からほとんど一週間、僕は鬱状態に陥りました。夜は少しだけ眠れましたが、昼間は何も手につきませんでした。何だか自分がひどく卑しめられたような、存在そのものが虐げられたような、不安と焦燥感と空虚感に動けなくなったのです。

 けれど何事にも変化は訪れるものです。休みを一日残した雨の日の午後、救いが訪れました。きっかけは一つの言葉でした。コーヒーを飲む僕の頭に一つの言葉がフラッシュして、心にじりじりと焼きついたのです。

 それは「作り屋」でした。

 「作り屋」に惑わされてはいけない、そのシンプルな事実に始めて気がついたのです。

 「作り屋」はいろいろなことを言います。たいていの「作り屋」が作るのは実体のないものかもしれません。なのに作り屋の言うことを気にし、作り屋の作り上げるものに一喜一憂します。

 自分自身が自分の作り屋になってはならないのだ、僕は思いました。

 人がどんなに自分の作り屋になって語ろうと、自分から自分の作り屋になってはいけないのだ……。

 そんな単純なことに僕はそのとき始めて気がついたのです。

 正直、自分でも「作り屋」の意味はまだよくわかっていませんでしたが、「作り屋」という言葉が僕に語りかけ、カラカラと回り始めていました。

 いいえ、語りかけているのも回っているのも僕で、僕が「作り屋」について、僕自身に語りかけていたのかもしれません。ときおり父の声で「古いやつだとお思いでしょうが…」というのも聞こえたりして、父は世の中で「作り屋」でなく過ごす大切さがわかっていたのだろうか、今度会ったら聞いてみたいと思いました。

 もう僕には、川野さんも所長も野本栄三も片野秋太郎も、どこか遠い存在に思えていました。ブルースカイ調査事務所に行ったことも、尾行をお願いし街を歩き回ったことも、カプセルの中で過ごしたことも、液晶かプラズマか、どちらにしてもフラットな画面の中で起こったことに思えてきました。人間的なタッチとして紙媒体で報告書をもらったことも、全く意味がなく、的外れだったわけです。

 紙媒体であろうとネットでであろうと、もともと関係なかったのです。

 僕は紙媒体の報告書を縦にいくつかに破ってゴミ袋にいれ、輪ゴムでしっかり縛りました。

 ゴミ袋を翌日の朝出すため、玄関ドアの手前まで運ぶと、なんだかここしばらくなかった心の安らぎを感じました。

 心からほっとしたのです。

 そして、時間があればゆっくり考えてみたいものだと思いました。

 「ゴースト」と「作り屋」、そして「僕」のことを。

 報告書が送られてきてから3か月ばかり経ったときのことだった。カズトがマンションの階段下までゴミを持っていくと、道を隔てて女が立っていた。

 視線を感じたが、そのまま向きを変えてマンションに入ろうとしたとき、その女はカズトに近づいてきた。

 髪を帽子に入れていたし、メガネがべっ甲ではなくフレームレスなのでぱっと見にはわからなかったが、それはブルースカイ調査事務所の川野さんだった。

「ちょっとお話できますか?」 川野さんは言った。



 ファミリーレストランに入って隅のテーブルで川野さんと向かい合った。

「あの、僕、ちゃんと振り込んでますよね」

「ええ、もちろんです。お代はいただきました。今日のお話はそれとは全く別の話なんです。いえ、もちろん、お会いしたことがあったから、今日のお話に発展したわけなんですけど」

 川野さんはカズトをしっかり見た。意思の強い目だった。表情豊かな女の子たちは、困った目、楽しい目、ウルウルの目、怒った目の使い分けを上下まぶたの調節でしている。けれど、川野さんの上下まぶたはほとんど動かずすっきりしている。そのぶん茶色がかった瞳がものを言う。

 川野さんは女性にしてはひどく無表情なのだろうが、それがカズトを落ち着かせた。雑音のある場所から静かな場所に来た、そんなふうに感じさせた。

「石巻カズトさんですね。カズトさんの本当の名前は私たち知らないことになっていたと思いますが、もちろん知っていました。調査事務所ですから。それで今日はその石巻さんに私たちの会社に入ってほしくてお願いに来たんです」

 カズトは思わずコーヒーカップを落としそうになった。


           ☆

 ブルースカイ調査事務所のビルが建てられたのはいつだろう。

 4、50年か? かなり古いそのビルはひっそりと立っていた。

 一階の右側のドアには「ネイル May」 左側は「ペットショップ のんた」とある。間口が狭いビルだから当然どちらの店のドアも小ぶりだが、その間にアルミ色のドアがあり、次のように案内が貼ってあった。

2階 201号室 雨訪税理士事務所 202号室 ブルースカイ調査事務所

3階 301号室 アンディ個別指導塾 302号室 humain

 その案内板の貼ってあるドアを開けると細い階段と細い通路があり、通路の奥がエレベーターだ。

 川野さんは言った。

 このビルは3番33号に建ってるんです。サンサンサンで、太陽がいっぱいじゃないですか。だから「太陽がいっぱいビル」って呼ぶ人もいるけど、ちょっと長すぎるから、「ルネクレマンビル」短くして「ルネビル」って呼ぶ人もいるんです。

 ああ、太陽がいっぱいは監督がルネクレマンだった、犯人が頑張るんだけど最後に逃げきれない衝撃のシーンがあった。あれはパトリシア・ハイスミスの原作とはラストが違っていたと思う。ルネクレマンといえば禁じられた遊びもそうだ。他に何かあったかな、など思いながら、カズトは太陽がいっぱいのイメージとは程遠いビルを見上げた。屋上にカラスが一羽とまって、アーコワーと鳴いた。

 川野さんは言った。

「つながってるんです」

「えっ?」

「つながってるんです。全てのテナントが、インテグリティのもとに」

「インテグリティ…ですか?」

 カズトはインテグリティの意味を漠然と頭で検索した。

「組織っていっても、オーガナイゼーションっていっても、ぴんとこないと思いますが、ある人間たちの集まりがあり、それぞれの役割を果たしている、と思ってください。ブルースカイ調査事務所もその一つですし、このビルのテナントもみなそうなんです。そしてその集まりに必要な人の素質、そのキーワードがインテグリティなんです」

 インテグリティ・・・

「人にはインテグリティの芽を持つ人もいれば、インテグリティが具現化したような人もいます。私たちが声をかけるのは少なくともその芽をもっているだろうと確信できた場合のみです」

 僕にその芽があるのか? カズトが考えこんだとき、二つの声が重なるように聞こえてきた。

 ママァァ!
 ミキちゃんママ!

 振り向くと銀髪のショートヘアの女性が二人の6、7歳の女の子の手を引いていた。

 髪を日本人形みたいにした女の子が川野さんに抱きついた。どうやら、川野さんの子らしい。

「娘のミキです」

 川野さんが誇らしげに言った。

 ショートカットのもう一人の子は賢そうな目で僕の様子をうかがっている。

「あ、シルバ、こっちが石巻さん。ご存じよね」

 川野さんにシルバと呼ばれた銀髪の女性はうなづいた。

「初めまして。石巻さんですね。お話聞いてます。三好です。みんなにシルバって呼ばれてます。川野はタキって呼ばれてます。このこはひろ子、ロコです」

 そう言い、シルバは少し微笑んだ。鋭かったシルバの目はロコを引き寄せたときだけ柔和になった。


「おにいさんもここで働くの?」
 
 川野さんの子のミキが聞いた。おじさんではなくお兄さんと呼ばれたことになぜかほっとした。若く見られたいとかじゃなくて、おじさん、と呼ばれるほど自分には経験がないと思ったのだ。

「あ、どうかな」

 口ごもっていると、「ネイル May」と書かれたドアから、大柄な女性が出てきた。

「メイさーん」 ミキとロコが抱きついた。

 メイさんと呼ばれた女性は二人を両脇に抱え上げた。かなりの力だ。よく見ると、どうやら元々は男性のようだった。小さい動物柄のスカーフを頭に纏っている。

「今日はウエディングネイルの注文が入ったのよ。結構素敵にできたわ」

 メイさんは嬉しそうに言った。





 








 タウンハウスを引き払い、田舎へ・・・しかもほとんど人なんか見ずにすむくらいの田舎へ引っ越そうと言ったのはミサだった。

 髪はいつもスタイリッシュにショートで決め、汗ばむくらい暑い日でも自分だけはクールよとばかり、1ダースは持っているサングラスの一つを小粋にかけ、足取り軽く街を闊歩するミサが、田舎へ越したいと言い出したので、洋司は思わず鶏のように首を突き出した。

 ミサはジュエリーや最新のファッションに多大な意味を見出す女だった。大都会の気まぐれ族が作りだすぜいたく品を刹那的に愛することができる女だった。その気まぐれさゆえ、不安も感じたし愛していると信じたい洋司にとって、田舎に住むミサというのは、水田にほおり投げられたマニュキュアの瓶みたいに思えた。

「子供ができたみたいなの」

 子供・・・。

 洋司は一瞬無表情になった。嬉しくないわけではない。子供は自分でも好きだと思う。ただ、ミサと赤ん坊というのは、どうにも結びつかなかった。もともと温かい家庭を築きたくて一緒になったわけじゃない。ミサに魅せられた洋司が結婚してもらった、という出だしだった。

「聞いているの? 子供ができたのよ」

 ミサは浮かない顔で、こめかみの髪をぐいぐい引っぱった。ミサは苛立つと爪を噛む。さらに事態が悪くなると、絶望の中、目の前にある物に突っ伏し、声をたてずに泣く。本でもテーブルでも男の肩でもティッシュの箱でも突っ伏す対象に意味を見出すことはない。そして絶望が深い諦めの淵に沈むと、決まってこめかみの髪を引っぱりだすのだった。

 洋司は慌てた。これは重症だ。いつもと様子が違う。実際に髪抜きが止まらなくなった妻を見たことがない。そんなミサを見ずに済んだらそれにこしたことはない。洋司はどうにも怖かった。

 洋司自身、今、子供は無理だと思う。エプロン姿の妻が目立ち始めたお腹を揺らし、ハミングしながら幸せそうにキッチンに立つ姿なんて、グッディグッディのドラマの世界、洋司には縁のないものに思えた。料理嫌いのミサにとって洒落たディッシュにしてもケーキにしても、ファンシーなカフェで足を組み、上品に口に運ぶものであり、小麦粉その他と格闘しオーブンで焼いたりする代物ではなかった。

 ミサと赤ん坊か・・・。

 親戚の三才の子供の頭一つ撫でるでもないミサ。

 ミサと赤ん坊か・・・。

 スリムな服を横目に鏡を前に大きなため息をつくだろうミサ。

 ミサと赤ん坊か・・・。

 お腹が大きくなって全体的に浮腫み、荒れ狂うだろうミサ。

 洋司が思いをめぐらしているうちにもミサはこめかみの髪を抜き続け、大理石を模したテーブルには既に数十本の髪が散らばっていた。

 ミサの髪抜きが止まらなくて困ったというのは過去二回だと聞いた。一度目は大学受験に失敗したとき。第一志望に見事に落ち、右のこめかみの横に10円玉の禿げができた。

 それから5年後の、ミサいわくとんだ裏切り者のチンピラへの失恋騒動のときはもっとひどく、二つの500円玉の不毛地帯ができた。

 ミサにそんなことがあったと聞かされたとき、洋司は限りなく完璧に近いと信じていた宝石に小さな傷を発見したような気になった。同時に、ミサを人間として愛しているのかと不安にもなった。しかし、洋司は愛だと決めつけた。結婚を決めた理由は愛と言う方が何にしても爽やか・・・に思えたのだ。

 自己責任・・・。最近、やけにこの堅苦しい言葉が頭に浮かぶ。

 洋司、大人になるってことは自己責任をとるってことだ、父がしょっちゅう言っていた。

 金遣いが荒く、明日のこともろくに考えず、服を粋に着こなすことでは天才・・・そんなミサを洋司は愛しているはずだった。

 しかし、ほんとうに愛しているのだろうか、そう心に問うたび、なぜか父の「自己責任」という言葉を思い出した。ミサと父が「自己責任」という言葉で結びつくようになろうとは、思ってもみなかった。

「どうして田舎へ行きたいのさ?」

「去年のクリスマスにくれたイアリング覚えてる?」

「うん」

「じゃ、リキエルのブルーのドレスは?」

「覚えてるけど・・・」

「買ったときはみんな大好きで大切にするの。でもね、今はもう飽きてる」

「・・・うん?」

「つまりね、ここにいると新しいものが目につきすぎるの。古いものにすぐ飽きちゃうの。刺激が多すぎるの。ほしいものが多すぎるの」

「うん・・・」

「だからね、ここに住んでる限り、あたし子供産んでも途中で飽きてしまいそうな気がするのよ。ねえ、わかる?」

「馬鹿なこというんじゃないよ。物と赤ん坊じゃ違うさ」

「そうかしら。ユキの子なんて、生まれてすぐユキの着せ替え人形よ。彼女、これで泣いておしっこしなけりゃいいって言ってるわ」

「冗談だよ。本気じゃないさ」

「本気よ。彼女、いつだって本音を言うわ」

「そうかな」

「マユミは子供さえいなけりゃってぽろっと言うわ。子供さえいなけりゃ働きに出れるって」

「言ってるだけさ。あんなに仕事止めたがってたじゃないか。仕事止めるためなら牛とだって結婚したよ」

「ひどいわね」

 洋司はミサの髪をむしる手をゆっくり押さえ、握った。もっと強く握りしめたかったが、大きな石のついた指輪が邪魔だった。洋司はミサの手を握ることで、自分の気持ちも落ち着かせたかった。ミサを以前のように愛していると確信したかった。

「怖いの。自分が生臭くなののが怖いの」

「生臭く?」

「そう。あたし、美しく生きたいの。生臭さはごめんなの。一度しかない人生なんだし・・・」

「子供を産んで育てるのは美しいこと・・・だろ」

「ううん、あたしを地に落とす・・・そんな気がする」

 地に落とす、か・・・。どこかで読んだ主人公の台詞だ。洋司は笑いたくなった。・・・が気を取り直して言ってみた。

「それは地に足が着くって言うんだよ」

「まだ地に足なんか着けたくないのよ!」

 ミサは怒鳴った。いや、吠えた。

 洋司は焦った。空回りだ。ミサの頭の中で、洋司の頭の中で、からからからから何かが空回りしている。洋司とミサの関係もだ。

 彼女が心の平静を保てるというのなら、田舎へ行くのも悪くはないのかもしれない。ありがたきミサの両親のおかげで結婚当初には驚くほどの桁数だったミサの通帳が、今はほとんど空になっている。ミサが頼めばまた桁数は増えるだろう。けれどこの街にいたのでは、金は千枚の翼を持っているがごとくだ。

 ただ、この街を出てどこへ行くというのだ。どこで働くというのだ。洋司は自分の職を思った。やっと少し上がった給料を思った。

 夢のような解決策なんてどこにもない。ありゃしない。もちろんこの街から出てもいい。彼女の心穏やかなる処があるなら行きたい。でもそんな場所なんてありゃしない。あるとしたら、混乱したミサの頭の中でひらひら飛ぶ蝶のように、それもまた夢物語だ。

 せわしなげにこめかみから額にかけての髪を引っぱり続けるミサを見て、ひどく動物的だと思った。

 ミサが動物的?

 そんなことを思ったのは初めてだった。しかし、今のミサは飼い主のバスケットから野にほおり出されたのはいいが、陽のまぶしさに隠れ場所を探してバタバタする小動物のようだった。

 ミサ・・・。

 洋司は疲れを感じた。自分の中で今まで誰も触れなかったネジがギュウッと回されたようで、頭が混乱した。そんな中、一つの事実が見えてきた。ミサとの生活に疲れている・・・。父の言う「自己責任」の意味がずっとクリアには見えなかったように、今はミサとの未来が見えない。

 ぼんやりミサを見ていると、頭の中で一つの声が聞こえてきた。

 あなた、幸せなの?

 聞き覚えのある声だった。

 誰だい?

 思い出せなかった。

 あなた、幸せなの? 今、幸せなの?

 そうか・・・。

 ふっくらとした手。犬を抱き上げる手。猫の頭をくしゃくしゃする手。野良猫の臭いなどものともせず、抱き上げるその手。

 ふっくらとしたその手を思い出しながら、心でつぶやいた。

 ノンタ・・・。君だね。君の声だ。



 誰もノリコとは呼ばずノンタと呼んだ。ノンタでいいよ、会って数分後には彼女が口にする台詞。だから、パン屋の女主人も安コーポのオーナーも「やあ、ノンタ」と声をかけた。

 そう言えば一人だけ遠慮深げな花屋の店主が「ノンタさん」と呼んでいた。ノンタはその花屋の常連で、萎れかけて二束三文で売られている花束を買っていた。よい客とは言えないノンタだが、店主はいつも愛想よかった。ノンタに連れられて寄ったとき、店主が言った。

「ノンタさんは珍しいグリーンサムだよ」

 グリーンサム、緑の親指。植物を育てる天性があるという。「あんたは果報者だ」という店主に洋司はしぶしぶ微笑んだ。ノンタはそのとき、小菊の小さな鉢を自分用に、小さな花束を洋司に買い、はいっ!と渡してくれた。

 何の花束だったんだろう。黄色と橙色が混ざったような小さな花だった。

「気分が沈んだときは花を見るといいよ。蕾で買って、花瓶にさして、花が開くの見てると何だか体中の淀みがきれいになる気がするよ」

 そんなノンタの言葉に、大の男に言うことかよ、と気恥ずかしくなったのを覚えている。

 そのころ洋司は沈んでいた。何で沈んでいたのだろう。思うようにならない生活に沈んでいた。ルックスもよく、才能もある。こんな下町でいつまでもくすぶっている器じゃない。トップクラスとはいえなくても、かなりいい大学だって出た。なのにとんだ就職難で、思いもかけぬちっぽけな会社に拾ってもらうのがやっとだった。洋司はスマートに生きたかった。そうじゃない暮らしなら田舎でいくらでもできる。なのにここにいながら、この生活はない・・・。

 花を買って差し出すノンタの手はふっくらと丸かった。体は貧弱といっていいほど細かったが、手だけは柔らかく丸かった。「これはこれは」彼は茶化したように受け取った。恥ずかしかったにしても内心嬉しかったし、安らぎも感じた。しかしこんなことで感動しては男がすたる、こんなことでは目標とする生活から離れるばかりじゃないか・・・そんな風にノンタがおこした小さな感傷を吹き飛ばした。

 ノンタか・・・。

 彼女のことは、ここしばらく思い出さなかった。しばらくどころか、ずっとなかった。ずっとずっとなかった。



 ノンタのことで今思い出すのは、その奇妙な存在感だ。

 ノンタとつき合ってまだ間もない冬の日のこと。二人は散歩をしていた。ロマンチックな雰囲気はなかったと思う。思えばノンタとロマンチックに歩いたことなどなかった。

 ゆっくり歩く洋司の横をノンタはふわふわ歩く。そう、ふわふわ歩く子だった。肩のラインがふわふわ揺れる。時おり腕を組んできては、その垂れ加減の茶色の目で洋司を見つめた。

 その視線をどう受け止めていいかわからず、甘い視線や無垢な優しさを見せることができなかった。だから、いつも少しうるさそうにノンタを見た。

 けれど、ノンタの瞳は曇らなかった。ノンタには不思議な明るさがあった。温かな陽気さ。それが憂いを含んだ存在に恋をしたいと漠然と感じていた洋司にはうっとおしかった。

 当初からつき合うべくしてつき合ったとは思ってなかった。腐れ縁というにはノンタの陽気さが邪魔したが、安コーポの隣どうし、一人の日曜を重ねていた者どうし、なんとなく、一緒に出かけるようになった。

 あっ、お出かけですか?

 ええ、そこまで。

 そうですか・・・。

 一緒に歩きましょうか。

 そうですね。

 地味な子だと思った。センスのない子だと思った。けれど、懐かしい匂いがした。

 都会の一人暮らしも10年目になれば、昔駆け抜けた砂利道の水たまりの底で輝いていた太陽や、秋のひだまりに綿毛がふんわり浮かんでいる様子などが、時おりセンチメンタルなスローモーションで浮かんできた。そしてノスタルジックな思いには匂いがつきものだ。目をつぶって大きく吸い込みたいような匂い・・・。

 ノンタはその存在が匂いだった。甘さや華麗さはなかったにしても、素朴な優しい匂いがあった。時おり夕食を食べに行ったり、映画や祭りに行く。一人でいるよりずっと楽しい。恋してる気分ではないが、気を遣わなくてすむ。ノンタといて洋司はくつろいだ。

 ある日、彼女は言った。

「ピクニックに行かない?」

 手には妙に大きい水筒と弁当らしきものの入った袋を提げている。

 勘弁してくれよ、洋司は思った。

「ピクニックってどこへさ?」

「すぐ近くなの。時間はとらせないわ」

 洋司はほとんど当惑していた。どぶ川沿いのコーポの周りはごみごみした低い建物が密集しており、ほんの近くにピクニックなんて行きようがなかった。

「行きましょうよ」

 ノンタは洋司の手を取った。温かい手だった。温かい瞳だった。とても確かなあたたかさだった。何かしら不確かな毎日の中、とても確かなあたたかさに触れ、その瞬間、彼女を美しいと思った。そうだ、あの時、彼女を美しい、と思ったのだ。

「行きましょうよ」

 すぐそこよ、の言葉通り、それは確かにコーポから歩いてすぐだった。

「どう、ここだけ野原を切り取ってポンと置いたみたいでしょう」
 
 二つのビルの間に挟まれた空き地、それは不思議な一角だった。少し前まで、雑貨屋があったような気がする。手芸店だっただろうか。立ち退きせずだいぶ頑張っていたようだが、いつの間にか建物はなくなり、空き地になっていた。両脇の二つの建物が時代ものの煉瓦風のつくりだったので、そこは奇妙に風情ある空間となっていた。

「建物の間でしょ。陽が射している時間はあまり長くないの。それにしては頑張ってるでしょ、この花たち」

 ノンタは、空き地の所々に咲いている白や紫の花を両手を広げて誇らしげに示した。

「種蒔いたんだ。野草に近い丈夫な花です、土を選ばず可憐な花を咲かせますって袋に書いてあったの。種買ったのはいいけど、鉢に蒔くのもぴんと来なくて、そしたらここが目に入って。こっそり、でも思いっきりぱぁーって蒔いたんだ。冬になる前よ。五つの袋、ぜーんぶ蒔いたの。一種の賭けだったんだけど、冬の間じーっと地面の中で芽が出る準備してたのね。暖かくなって芽が出たの。普通どこにでもある雑草とちょっと違うでしょ。野草でもあたしが蒔いた種から出たんだから」

 土を選ばず可憐な花を咲かせますか・・・。ノンタみたいだ、洋司は思った。自分は卑下していつもしおれてるのに、ノンタは強い。

 ノンタの種まきは効を奏し、確かにその四角いスペースだけ唐突に春だった。

「ここね、児童公園になるらしわ。この両脇の建物もそのうち倒されるって」

「児童たってこの辺、子供いないぞ」

「児童公園って何も子供のためだけじゃないわ。そこへ行くと子供の心になって安らぐって児童公園でもいいわけじゃない」

 小さなビニールシートを広げておにぎりを食べた。最初恥ずかしかったが、面した道路が袋小路なので、人の通る気配もなく、両脇は古い建物、後ろはどぶ川沿いの低木や雑草に囲まれ、誰の目を気にすることもなかった。

 三個目のおにぎりを食べるころには、洋司もひどくのんびりした気分になっていた。羽のやぶれた紋白蝶がひらひらよたよた周りを飛んで、侵入者を恐がる様子もなかった。

 のどかだった。異性というという緊張感はなく、小さい頃、近所の女の子と縁側で一緒にお煎餅をかじってるような安らぎがあった。

 返り道、ノンタが手をつないできたとき、洋司は普段のように戸惑わなかった。そればかりか、ハミングしながら、つないだ手を揺らす、というサービスまでやってのけた。

 何を歌ったんだろう。まさか童謡ではなかったはずだ。

 歌が途切れるとノンタが言った。

「ね、どうして聞かないの?」

「えっ?」

「どうしてあたしのこともっと聞かないの? 知りたくない?」

 洋司は質問の意味がわからぬ振りをして、ハミングを続けた。続けながら、やばい…と思った。

「聞けば、場違いなところに閉じ込められた、そんな気になる? 今日のピクニックみたいに」

 ノンタはそうつぶやいた。なぜか心にぎゅうっと圧力がかかったけれど、それを無視し、洋司は再びハミングを始めた。

 その夜、ノックがあった。少しやっかいな予感がした。ドアを開けると、やはりノンタだった。湯上りなのか頬が上気し、こざっぱりして見えた。

 ノンタは洋司を見た。十時は回っていた。こんな時間にやってきたノンタをやっかいに思ったにしても、何しに来たのさ、なんて追い返す勇気もなかった。ときめきはなかったが、愛しさはあった。そして彼女の瞳の優しさに心が揺れた。

 だから、ノンタの肩を抱いた。しっかりと抱いた。

 香水の匂いがした。湯上りに香水をふった彼女の気持ちを思うと、その気になれない、なんて言えなかった。

 それ以来、何度か肌を重ねたが、今、洋司が思い浮かぶのは、あの感覚だ。メイクラブの後、彼女のふっくらした手を握るとひどく落ち着いた、あの安らぎの感覚だ。静かな安らぎ。静かで穏やかな感覚だ。

 そしてあの温かな静けさ・・・。

 しばらくノンタとの穏やかな時間は続いた。そう、ミサに出会うまで。

 

 ミサに会ったとき、その美しさに圧倒された。華奢にバランスとれた体に繊細に彫りこんだような顔。表情が乏しいような気もしたが、会話にはウイットがあり、一つ一つのしぐさが美しく品があった。そう、品があった。

 そして驚いたことに、ミサも洋司に好意をもった。

 ウワォ!

 彼は思った。

 ウワォ!

 そう思った。

 まるで宝くじにでも当たった気分だった。跳び上がって、ひゃっほう!と叫びたかった。ただ宝くじのように、その喜びや幸運をノンタとシェアするわけにはいかなかった。

 そして洋司はノンタを邪魔に思い始めた。つき合っているものがいる、とミサに知られるのが怖かったわけじゃない。ノンタを見て、センスないと呆れられるのが怖かったのだ。

 邪魔に思い始めると止まらなかった。安らぎに感じたその笑顔さえうっとおしくなった。

 そんな自分を冷たいと思った。思いはしたが、仕方ないとも思った。

 あの時は欲しいものがしっかりわかっていた。ミサだ。ミサしかいない。ノンタの存在は邪魔でしかなかった。ノンタの春のミストのような優しい存在感は、ミサの出現ではかなく消えた。

 ノンタとの関係は必然性のない関係だったのだ。必然性のない・・・。

 しばらく、細心の注意を払って顔を合わせぬようにしていたが、やはりちょっとした罪の意識を感じ、ノンタの部屋を訪れた。ミサとの出会いから一カ月ばかり経っていた。

 もうノンタも悟っているだろう。悟っていてくれた方が都合いい。

 あら、とノンタは微笑んだ。どこか淋しげな微笑みだった。その笑顔に洋司は焦った。早く片づけなければ、と焦った。ノンタのそんな顔はやはり苦手だった。

 素焼きのマグカップでコーヒーをすすり、二人はしばし沈黙した。ノンタは決心したように顔を勢いよく上げた。陽の光では茶色に見える大きな瞳が、そのとき電球の下では真っ黒に見えた。

「隣は何をする人ぞ・・・」

「えっ?」

「戻りたいんでしょ。そんな感じに・・・。隣は何をする人ぞって感じのご近所さんに。そうでしょ?」

「ごめん・・・」

「どうして?」

「どうしてって・・・」

「理由なんていいわよね。大丈夫。怒ってないわ。気にしないで。もともと恋人どうしだったわけでもないし・・・」

「じゃ、何だったのかな」

「同士よ」

 同士・・・。

「そう、淋しさを紛らす同士よ。淋しいときに触れ合う・・・。時を過ごす。それは恋でなくてもいいものよ」

 うん、洋司はうなづいた。自分の立場がよくなったのか悪くなったのかわからなかった。

「大丈夫。洋司がいなくてもしょげたりしない。そりゃ、もうしばらくはしょげてるでしょうけど・・・」

「うん・・・」

「あたし、夢が好きなの。あたし、夢見つけるのうまいの。夢っていってもかなわぬ夢じゃないわよ。現実の上にいつの間にかちょこんとのっかってそうな夢のこと。そうそう、今日ね、写真雑誌のグラビアで読んだの。ブラジルに住む女の人たちのこと。海沿いのとっても貧しいところに住んでる人たちなんだけど、彼女たちの一人の長年の夢がね、そりゃ素敵なのよ。将来の夢・・・。小さな農園持って肩にオウムをとまらせてね、風にあたりながら眠ること。ねえ、ステキな夢だと思わない? こんな夢ならあたしいっぱい持ってるから大丈夫。洋司とつき合うって夢より現実離れしてるようで、ほんとはぐっと近い、そんな不思議で素敵なあたしなりの夢をね。うん、夢いっぱい持っているから大丈夫」

 そこまで少し早口でノンタは言い・・・言葉につまった。そしてうつむいた。

「でもね、洋司はあたしにとって夢だった。現実の上にのっかっていながら、いつか羽が生えて飛んでってしまいそうな夢だった。・・・でも気にしないで。洋司が悪いんじゃない。歯ブラシや、着古したセーターや・・・そんなのみたいに洋司の日常のかけらにはなれても、洋司の夢にはなれなかったあたしが悪い」

 どれくらい時間が流れたのだろう。ほんの数秒だったのかもしれない。ノンタは微笑み、視線をあげ、洋司を見つめた。今度は洋司がうつむく番だった。

 洋司の手をとってノンタは言った。

「大丈夫。あたし肩にいっぱいね、オウムとまらせるから。ドリームバードとまらせるから」

 洋司は自分が卑怯に思えた。ひどく薄っぺらく思えた。

 けれどミサのためだ。そう、ミサというドリームガールのため。迷いはないはずだった。

「ありがとう。ノンタといて楽しかったよ。ありがとう。君はほんとうに・・・」

 そのあと何といっていいかわからなかった。ノンタを褒めたかった。今までの感謝をその一言にこめたかった。

 何て言ったらいいんだろう。

 何? という瞳でノンタは洋司を見つめていた。

 君はほんとに・・・

「あたたかい・・・」

 うん・・・その言葉をかみしめるようにノンタは小さくうなづいた。

 部屋を出ながら、ノンタの言葉を思い出した。肩にオウムをとまらせる・・・。ドリームバード。夢の鳥。夢をかなえた鳥なのか、夢をかなえる鳥なのか・・・。

 ノンタらしいな。

 洋司は両方の肩に一羽ずつオウム大の鳥をとまらせたノンタを思った。しかし、なぜかモノクロだった。モノクロの写真のように、ノンタは時をこえた懐かしい笑顔で微笑んでいる。もう、ノンタを遠くに感じていた。いや、遠くに感じようとしていた。ノンタを過去のものにしたかった。

 それでもモノクロの写真は油断をすると少しずつ色をつけていく。ノンタの肩にとまった鳥はどこか神々しい。

 ノンタの夢鳥は何色だろう、ふとそんなことを思った。



 その日こそ後味悪かったが、次の日には洋司は晴れ晴れした気持ちだった。これですっきりかたがついた。なんて果報者だ。ミサがいる。僕には美しいミサがいる。

 そして、洋司は引っ越した。引越しの日、ノンタはいなかった。

 その後、ノンタとは一度だけ偶然出会った。別れた翌年、今から三年前のクリスマスイブのことだった。洋司はミサと腕を組んで歩いていた。洋司の頭はその夜の計画でいっぱいだった。レストラン、プレゼント、ジャズに夜景に・・・洒落た夜を素敵なミサに・・・。洋司は全くミサに夢中だった。

 だから、他の女なんか目にも入らなかった。しかし、目には入らなくても声は聞こえる。

「中谷さん、元気?」

 気がつくと見覚えのある顔が洋司を見つめていた。

 ノンタだ。

 中谷さん、と名字で呼んだノンタはひどく具合が悪そうだった。くちびるはひび割れ、素顔の肌はつやがない。年季の入った革のブルゾンに黒のブーツ。分厚い毛糸の手袋をしていた。首に巻いたストライプのスカーフはいかにも寒さよけという感じだった。

「よお、どうしてる?」

 洋司はできるだけからりと言った。

「うん、まあまあよ」

 そう言ってノンタは微笑んだ。笑うと洋司の知っているノンタに少し近づいた。

「偶然だな。何してるんだい」

「病院行ってきたとこなの」

「病院?どうかしたの?」

「もう大体よくなったの。薬だけもらいにね」

「どうしたのさ」

「風邪こじらせてね。でももうほぼよくなったの。あたたかい私でも肺炎になるんだね」

 ノンタはくすりと笑った。

「そうか・・・。大変だったんだね。勤めは同じ?」

「うん、同じとこ。去年、ちょっとだけ偉くなったよ」

 そういっておどけたように肩をすくめた。

 そばで微笑みながらもミサが苛ついているのを感じ、洋司はきっぱり言った。

「じゃ! 気をつけろよ。元気で」

「うん、中谷さんこそね」

 そう言い、ノンタはミサにも軽く会釈して背を向けた。

 洋司は、なぜかその背から目が離せなかった。腕にミサの手を感じながらも、どうしても背を向けて歩きだせなかった。その瞬間、ひどく不思議なことに、視界がスッとぼやけた。
 
 え?

 ノンタが銀色の毛皮の帽子をかぶっている? さっきまではかぶっていなかったのに。

 ノンタが振り向いた。その顔はノンタじゃない・・・。人間ですらない。いや表情は人間だ。着ぐるみとかではない。

 キツネと犬の間のような顔・・・。茶色い目はさらに茶色く琥珀色で・・・。

 ノンタ?

 ノンタは笑った。確かにノンタだ。温かい笑顔だ。

 ノンタの瞳は明るかった。寒風に充血気味だったが、明るかった。あたたかかった。その瞳に何かを思い出さなければ、と思った。ひどく漠然とした懐かしさのようなものを。

「あ、あの・・・」

「何?」

 ノンタは少し近づいた。相変わらず、不思議な生き物の顔をしていた。

「オウムの調子、どうか・・・と思ってさ」

 ああ、ノンタの顔がほころんだ。大きく開いた口から八重歯が見えた。人間の顔をしていた時のノンタの歯並びを思い出させた。ノンタだね。やっぱり、どんなに変わった風貌でも僕には君だってわかる・・・。ミサの整った歯を見慣れていた洋司には唐突なほどの笑顔だった。

「絶好調よ」
 
 ミサが腕を引っ張った。

「ミサ、大川さんさ、あ、彼女大川さん、なんだけど、オウムを飼っててね」

 僕はできるだけ自然に楽しげに言った。

 ノンタは微笑んだ。

「この前までね、二羽ほどとまってたの」

 ノンタは今もとまっているかのように両肩を目で示した。

「何色?」

「一羽は白よ」

「真っ白?」

「そうよ。夢には自分で色をつけなきゃね」

「そうか、白なんだね」

「でもね、もう一羽は青よ。真っ青なの」

 ノンタは笑った。ハハッと洋司も笑った。ノンタの顔の細かい銀色の毛が風に吹かれた。頭全体を覆う毛も波のようにうねって揺れた。

 真っ青か・・・。海の色か・・・。空の色か・・・。

「じゃ!」

 ノンタは洋司に再び微笑むと、くるりと背を向け、今度はもう振り向かなかった。ブルゾンの長めの袖から出た手袋は指先しか見えない。その指先が揺れている。一瞬、その手を握りたいと思ったが、その感覚も「変わった人ね」というミサの声に消えていった。



 ノンタ、君は美しかったんだね。今の僕にはあのとき感じれなかった君の美しさがわかるよ。あのとき僕に見えた君はなんだったんだろう。でも存在の優しさはそのままだった。君がどう姿を変えても。

 その後、洋司は自分の頭も目も疑わなかった。心配もしなかった。見るべきものが見えた、それだけのことだ、と不思議なほどの確信があった。思えば奇妙なことだけど・・・。

 ノンタ、君は美しかったんだ。存在が美しかったんだ。

 今ね、肩に二羽とまってる、そう言うノンタの瞳の絶対的な優しさを今でもしっかり覚えている。

 こんなにはっきり覚えているのに、なぜノンタを思い出さなかったんだろう。

 なぜ、ここ数年、ノンタのことを忘れていたんだろう。

 それより、なぜ今、思い出すんだろう。

 ・・・ないものねだりか・・・。

 ノンタと一緒に暮らし始めていたら、どれくらい続いたというのだ。そもそもノンタはいたのか・・・。実在したのか・・・。

 もともとルックスのよい女に弱いのだ。今、ノンタを思い出すのも、ミサを手に入れたからできること・・・。あのクリスマスイヴのことだって、ほんとにあったことなのか・・・。

 ただ一つわかっているのはないものねだりだってことだ。

 そうさ、ないものねだりだ・・・。

 「時」のせいだ、洋司は思った。時、は人を疲れさせ、丸みをつけ、そして何より怖いのは・・・価値観を変えてしまう。

 価値観か・・・。価値観が変わっただけだというのか・・・。

 洋司は疲れていた。

 ないものねだりだ・・・。

 でも・・・・・・。

 洋司は思った。

 僕のオウムはなんなんだ。

 ノンタに会いたかった。三年の間、思い出しもしなかったノンタに会いたかった。利己的なとんでもないやつだ、と思いつつ、ノンタに会いたかった。あの優しい目のノンタに。ふさふさの銀色の毛で覆われたノンタでもいい。あの存在の優しいノンタに会いたかった。

 それがだめなら・・・・・・目をつぶる。

 オウムになりたい。

 オウムになり、ノンタの肩にとまる。とまって風に吹かれよう。ノンタと風に吹かれよう。穏やかで暖かい午後の風に吹かれよう。

 「自己責任」の意味など考えることもなく、妻を愛しているか、など戸惑うことなく、しばらくぐっすり眠りたい、洋司は思った。

 シャッシャッシャ・・・・・・乾いた音がした。

 気がつくと両手の爪をすりあわせている自分がいた。随分前になおったはずの癖だった。

 シャッシャッシャ、シャッシャッシャ・・・・・・。

 ひどくこせこせとした小動物になった気がした。奥まった目をせかせか動かす小さな生き物。

 髪を引っぱり続けるミサの横で、洋司は爪を擦り合わせ続けた。

 二匹の小動物。

 ひどく自虐的な気分だった。

 いやだ、こんなの。洋司は思った。

 ノンタ。

 ノンタ・・・。

 洋司はオウムになりたかった。心底オウムになりたかった。



 




 カラーンと音をたて磁石が床に転がった。ボタンのようなプラスティックのついたその磁石、ワインを買ったとき、サービスでついてきた。「磁石になってますから、写真でもメモでも冷蔵庫にくっつけたりするのに便利です」バイトらしきその子は人懐っこく笑い、赤、黄、青、三つの磁石を私の手のひらにころんとのせた。片手におつり、片手に磁石、どうしたものかと戸惑ったのを覚えている。

 ボタン状の磁石、冷蔵庫に近づけるとペタッともカチッともいえぬ音をたてて威勢よく貼りついた。赤、黄、青、信号のように三つ並べた。長い間、何も挟まずにそのままにしておいたが、エリーから写真が三枚送られてきたとき、思い出した。

 一枚目は赤の磁石で貼り付けた。ファミリーレストランで撮ったエリーとサチの写真。窓から入る光が二人に降り注ぎ、エリーは高い高いをしてサチを抱え上げ、弾けたように笑っている。

 二枚目は黄色の磁石で。赤い髪飾りをつけたサチのクローズアップ。口をすぼめた表情が愛らしい。

 三枚目は青の磁石。プールサイドのテーブルの上に寝かされたサチの写真。目をつぶったまま両手をパアッと開いている。

 磁石と共にキッチンフロアに落ちたのは、その三枚目の写真だった。

 私は写真を拾い上げ、キッチンテーブルの上に置いた。

 おーい、ここに置いた茶封筒知らないか? リビングでデニスが呼んだ。さあぁ、答えながら、その写真の中の大きく開いたサチの手を見つめた。

 デニスがやってきてプシューと缶ビールを開ける。少し薄くなった髪をかき上げ、写真を取り上げ、「幾つだったっけ?」と聞いた。

「今、二才とちょっとかな。大きくなってると思うわ」

「父親似だよな」

「そう? 目はエリー似じゃない?」

「ふん…」

 デニスは急に興味を失って欠伸をしてビールをごくりと飲んだ。髭についたビールの泡がプシュンと弾けた。手の甲で口を拭きながら出ていくその後ろ姿、また、一回り大きくなったようだ。

 私は椅子に腰を下ろし、テーブルに置いた写真に目を近づけたり離したりしてみるが、目の焦点が合うようには頭の焦点は合わなかった。




 はい笑って! エリーが言う。サチは口をきっと閉じ、少し不機嫌な顔をする。はい、サチ笑って!サチ笑ってよ! やっとのことで口元が緩み、柔らかな表情になる。

 二年前の夏、三人でプールに行った。交替でサチを見ながら、エリーと私は代わる代わるプールに浮かんだ。目を閉じ、背中で浮かんだ。瞼に光が弾け、目を開けると一面の光だった。
 
 太陽は真上にあった。目を細めると太陽の輪郭が ぼんやり見えた。パシャパシャパシャ…目にしぶきが入るたび、太陽は気ままに細胞分裂を繰り返す。青い空だと思った。できすぎたような青い空だと。浮かびながら空の数を数えた。イチ、二、サン、シ…空は八つに仕切られていた。灰色のフレームがガラスの屋根を仕切っていた。

 パシャパシャパシャ……隣を男が泳いでいく。レイモンドかレスリーかウェスリーか、エリーの顔見知りの男はそんな名だった。笑うと顔の部品がくしゃっと真ん中により、老けているのか若いのかわからなくなった。その男がパシャパシャパシャ、水を跳ね上げ、泳いでいく。ぜいぜいぜい…ぜいぜいぜい…水面に息をエコーさせながら。

 市民プール。木曜の昼を少し回ったばかりの閑散とした市民プール。ガラスでできている屋根の他は何の取り柄もない屋内プール。そこに立てられた波模様の二つのパラソルが妙に場違いで…。そのプールでエリーは、サチの生まれる二日前まで泳いだという。大きなお腹をゆらりゆらり、水に浮かせて。
 
「水に入るとね、ふわっと軽くなるの。体だけじゃなくってね、すべての重圧がよ」

 重圧を軽くさせるため、エリーは味気ない市民プールで、来る日も来る日も泳いだ。自分の中にサチを浮かせ、自分はプールに浮かんだ。十五キロはしっかり増えたの、という体をプールに浮かせた。

 そして、あの日、私もプールに浮かんでいた。私の中にも生があった。私も小さな生も水の中だった。

 水に入るとね、ふわっと軽くなるのよ。体だけじゃなくってね、すべての、すべての重圧がなの…その言葉が私の中でゆらりと揺れた。




 エリーは髪も瞳も黒かった。イタリア系アメリカ人を父に、日系二世を母に持つ小柄で浅黒いエリーはお世辞にも目立つ容姿とは言えなかった。キャンパスでは気のいいエリーと言われ続け、ビューティフルエリー、プリティエリー、とは縁がなかった。

 エリーというのはミドルネームで、ファーストネームはスーザンだった。彼女はミドルネームで呼ばれるのを好んだ。日本語はほとんど話せなかったし 、もちろん書く方はてんで駄目だったけれど、自分の名前、恵理衣だけはきちんと書けた。彼女が三つの感字をけっこうバランスよく並べて書いてみせたとき、私は少なからず驚いた。

 クイックイッ…エリーは水と一体化して泳いだ。頭だけ水面から上げ、滑るように泳いだ。

 「水に入ってるとね、お尻が大きすぎるのわからないでしよ」ククッと笑い、すぐに少し真剣な眼差しでこう言った。「水ってのはね、すべてを和らげるのよね。大き過ぎるものは小さく、重いものは軽く、醜いものは美しく…」

 二人でキャンパスの近くの湖に泳ぎに行ったことがある。エリーは水に潜ったまま長い間出てこなかった。あまりの長さに私がパニックに陥ったとき、ザパッ!と潔い音とともに勢いよく水面から頭を出した。夕陽に照らされた大きな丸い目が輝いていた。

 うわあ…アザラシの赤ちゃんみたい…。ポスターで人気ものの何とかってアザラシの赤ちゃん…。真っ白なつるりとした輪郭の中でまあるい二つの目が光っているアザラシの赤ちゃん…。そのときのエリーはそんな目をしていた。私はなぜかひどく感動した。涙が出てきた。エリーに幸が訪れますように、私は祈った。

 エリーとは大学の寮でルームメイトになって以来の付き合いだ。時にエキセントリックな行動をしたが、とても温かい人間だった。その温かさが異国の地にいる私には心地よく、ありがたかった。笑うと三倍になる口、濃いまつげに縁取られた丸い目、つるりと赤ん坊のようなおでこ…その優しい表情が好きだった。

 卒業して会う回数がめっきり減ってからも、水面にザパッと頭だけ出したエリーをよく思い出した。するととても優しい気持ちになれた。少々落ち込んでいても心が和らいだ。春の陽射しに心の水たまりが少しだけ揺らめいて、水面に小さな泡がぷつぷつできる…そんな気持ちになれた。エリーには懐かしい「陽」の匂いがあった。

 エリーは男運が悪かった。エリーの優しさを男たちは理解しようとせず利用した。彼女との関係には緊張感がないんだよ、そう言った男がいる。確かにエリーは男女間の「ゲーム」のタクティックスに欠けていた。駆け引きをしながら自分の魅力を最大限に見せるなんて思いもしなかった。それをいいことに男たちは利用するだけ利用すると、早送りのアクション映画の慌ただしさで去っていった。エリーを気のいいだけの退屈な女と決め込み去っていった。

 そんな男たちには一つの共通点があった。それは「コーティング」のわざだ。「ずるさ」を優しさで「コーティング]してみせるわざ。それが皆そろってあまりにうまかったものだから、一見エリーに劣らずピュアな人間に見えた。勘のいい者なら「ずるさ」が棘のようにあちこちに出ているのに気づいただろうが、エリーには自分にとって損な人間を見分ける能力が欠けていた。ウィルスへの抵抗力がないものが病にふすように、その能力を欠いたため、彼女はいつも損な役割を強いられた。無理もない。自分の中に「ずるさ」のないエリーは他人のずるさに気づきようがなかった。手を差し出されれば手を差し出し、微笑みかけられれば微笑み返す…エリーの無条件の優しさ…その優しさを誰一人高く抱いて愛おしむことなく、去っていった。

 その度にエリーは泣いた。愚かだったと泣いた。そのとおりよ、もっと気をつけなければ、と私は言い、付け加えたものだ。あなたは人が良すぎるのよ、と。

 人が良すぎる、思えば不思議な表現だ。良すぎて損をするなんておかしいはず…。けれど、この世の人間のずるさの平均に達しないエリーは、人が良すぎるという結果に陥り、アザラシの子に似た大きな目から涙を流す羽目になった。

 エリーと比べ、私は男たちとの付き合いにうまく対処してきた。人にだまされるくらいならだましたい、ずっと思ってきた。傷つくのが恐かった。利用されるのが恐かった。自分には手が届かないと思える男、自分に興味を示すはずがない、と思える男からは目をそらした。

  小さい頃から、しっかりしてはいた。でも夢少なき子だったと思う。理想と現実をしっかり把握していた。でも面白味のない子だったと思う。その性格はボーイフレンド選びにも反映した。二、三、試行錯誤はしたが、確率はひどくよく、自分に興味をもつ男たちをきちんと見分け、その中で一番良さそうなのを選んだ。デニスだ。彼はルックスもよく、比較的穏やかな性格で、何より私をえらく気に入っていた。

 彼とは寮のパーティで知り合った。心が膨らんでポーンと体ごと宙に浮かんでしまいそう、そこまで気持ちは盛り上がらなかったにしても、恋に彩られ、すべてが光輝いて見えた時期もあった。ポップコーンを食べる指先、サングラスを人差し指で押し上げる横顔、ボンバージャケットからはみ出したタータンチェックのシャツ、かかとを摺るように歩くスニーカー、無造作にカールした長めの髪…。顎はまだ二重ではなく、はにかみの表情が得意だった。

 一つ一つのときめきはたわいないもので、ほんの一過性のときめき、アイスクリームトッピングのようなものだった。私たちからそんなアイスクリームトッピングの時代が過ぎ去って久しい。

 結婚して四年目の秋、私とデニスとの関係に変化が訪れた。きっかけは私の妊娠だった。




 エリーに会いに行ったのは、安定期に入りしばらく経った時だ。最初の二日間はほとんどエリーのアパートにこもって話をした。話は尽きずどれだけ時間があっても足りないように思われた。エリーが話し、私が聞いた。私が話し、エリーが聞いた。笑い、泣き、サチにミルクをやり、語り、笑い、泣き、サチにミルクをやり、笑い、泣き、歌を歌った。何年かぶりに私はリラックスした。心からうちとけて話をした。

 三日目になると、私たちは少し落ち着いた。ゆったりした沈黙が心地よかった。そうだ、泳ぎにいかない、エリーが言った。えっ、泳ぐってどこに? 近くにプールがあるのよ、市民プールが。市民プール?

 そんなわけでサチをつれて、私たちは市民プールへやってきた。八つに仕切られた空を持つ市民プールに。その日は初夏にしては気温が上がらなかったが、室内プールの水は温かく、心地よかった。

 プールから上がったエリーはプールサイドのパラソルの下でハミングしていた。テーブルの上にサチを寝かせ、その手を握って何やらハミングしていた。

 サチは半分目をつぶり、うとうとしていた。エリーが離すと、その手は花びらが開くようにふわりと開いた。小さな手だった。頼りないほど小さな手だった。私はその小さな指先にそっと触れた。

 もうすぐ女の子が生まれるの。名付け親になってよ。サチが生れる数日前にエリーは電話をかけてきた。私は電話口で唖然とした。エリーがママに? サムどうしてるの? 疑問が頭に飛び交ったが、結局、何も聞かなかった。エリーが私に名付け親になってくれと言っている、その事実だけで十分じゃない、そう思ったのだ。

 子供の父親はやはりサムだった。結婚していたのだから当然といえば当然のこと。けれど、私にはサムがエリーの子供に父親になる、というのがどうにも釈然としなかった。

 サムは細身のハンサムで手足が長かった。初めてサムを見たとき、彼はエリーの肩に手を回していた。その手が妙に長く見え、エリーにまとわりついているように感じた。サムはどこか媚びるように話し、笑う声は一オクターブ高くなった。この男も彼女を利用しようとしている、私は恐れた。サムの目はエリーに負けないくらい丸くて大きかったが、その目は決してエリーのようなアザラシの赤ちゃんの目にはなれないと感じた。

 私がデニスと結婚して半年も経たない頃、エリーもサムと結婚した。二人はエリーの母親の住むオハイオのシンシナティで小さなセレモニーを挙げた。親しい者だけが集まった手作りの式だった。胸元に花の刺繍のある白いウェディングドレスを着たエリーは、とても穏やかな顔をしていた。優しい笑顔だった。彼女の幼馴染み三人がそれぞれの夫を連れ、出席していた。類は友を呼ぶのか、みな清々しい目をしていた。けれどやはりエリーの目は逸品だった。

 エリーの結婚はやはりうまくいくはずない結婚だった。サムはある理由があって結婚を望んでいたのだ。私がそれを確信したときはすでに遅かった。

 妊娠を知ったとき、エリーは嘆願した。もう少し腰を落ち着けてちょうだいと。オー、オーケイ、サムは間延びしたように答えたという。数ヶ月後、急用が出来たとメッセージを残し、サムは消えた。エリーのお腹はどんどん大きくなり、そのお腹を抱え、彼女は市民プールに浮かんだ。水に入るとね、軽くなるような気がするの。体だけじゃないのよ。全てが、全ての重圧がよ。

 サ厶がいなくなり、エリーはとてもナーバスになった。どうして? どうして? どうして私っていつもこうなの? くらくらするまで考え続け、ギリギリギリと神経が巻かれ、巻かれる神経もなくなったとき、パキュッと自分の正気が弾けとぶ、そんな気がしたという。

「けどね、それもサチが生まれる一週間前までだったの」にっこり笑ってエリーは言った。
 
「あるとき突然ね、一日一日、ううん、一刻一刻と巻かれていた神経のコイルがシュルシュルシュルと緩んで、脱力感が体に広がったのよ。脱力感というより諦め、諦めというより諦めに似た悟りだったわね」

 サムが子を宿した自分をいとも簡単に捨てた、というその事実、それにどうもがいても直面せざるを得なくなったとき、エリーは脱力した。

 生まれてくるエリーの子供のため、私は三つ名前を考えた。そして最終決定をエリーにゆだね、責任を回避した。シンシアとヴィクトリア、最初の二つは割と簡単に決まった。三つ目をと、いくつか考えたが、どれもぴんとこなかった。そこで私は生まれてくる子の顔を想像してみた。その子がサムの目でなくエリーの目を、サムの心でなくエリーの心をもって生まれることを祈った。すると一つのフレーズが浮かんできた。

 ここに幸あり。

 その響きは祈りに似た希望をもたらした。ここに幸あり…そうだ、サチにしよう、そう決めながら、ここに幸ありのここってどこだろう、と考えた。

 シンシア、ヴィクトリア、サチ、と三つの名を告げたとき、エリーは「シャチ」と聞き返した。受話器を握り首を傾けてる彼女が見えた。「サチよ」と言うと、「シャ…サチ、サチ」何度か繰り返し、「どういう意味?」と聞いた。「ハピネス」と答えると、エリーはしばらく黙っていた。エリーを怒らせたのではないか、そんな気がして私はどきりとした。けれどエリーは言ったのだ。「それに決まりね」

 エリーがバックパックから哺乳ビンを取り出しながら聞いた。

「つわりはあったの?」

「少しね」

「食は進むの?」

「今はね、でもなぜか肉が食べれなくなったの。おかげで草食動物のような生活よ。牛乳はできるだけ飲むようにしてるんだけど」

 そのとき私はエリーに話してみたくなった。妊娠して以来、感じているあることを。エリーならわかってくれる、そう感じた。

「エリー、あたしね、自分が変化してるって感じるの」
 
「そりゃそうでしよ」
 
「ううん、外見や体の変化だけじゃないの」
 
「うん?」
 
「うん、どう言ったらいいのかな」

 変化はゆっくりと訪れた。最初はわからないくらいの変化だった。名づけがたい変化だった。窓の外で葉がかさりと鳴るくらいの何気なさだった。けれど、それは次第に私に入り込み、そして染み込んだ。

 まず攻撃的だといわれた私の運転が変わった。後ろから急かされるのでもない限り、制限時速を超えて運転することはなくなったし、突然入り込んでくる無礼ものの車に立て続けにクラクションを鳴らしたりもなくなった。そんな私をデニスはどこかスローになった、と言った。

 それから、物思いにふけることが多くなった。考え込むというより「憂い」…そして「恐れ」だ。

 最初は何を恐れているのかわからなかった。次第に漠然とながら死を恐れているのかもしれないと思った。車に跳ねられた老婦人、池で溺死した子供、連続殺人の犠牲者、遠い国での戦死者…全てのニュースに敏感に反応した。
 
「死は誰でも恐いものよ」
 
「そうね。でも、そのうち恐れているのは死というよりあるものに対してだって気がついたの」
 
「あるもの?」
 
「そう」
 
「何?」
 
「残虐…さ…とでもいうのかしら」
 
「残虐?」
 
「そう…。人の中に見え隠れする残虐性…そして攻撃性…」

 私はデニスの中の攻撃性にも敏感になった。

 デニスがリビングでテレビを見ていた。以前アメリカがある国を攻撃をしたときの映像が映し出され…。空軍が空から攻撃している様子が映し出される。花火のように夜空に光が弾けている。デニスは拳をつくり、スポーツ観戦ののりと熱気で画面に食いついて見ている。

 いけ!いけ!いけ! デニスが言っているように感じた。その横顔…。それは、以前よく彼と行ったアメフトの試合のときの顔と同じはずだった。スクールカラーに合わせての声援。青、いけえ! 緑、いけえ! 青、いけえ! 緑、いけえ! 敵の応接団に負けじとばかり声を張り上ける。青なんてくそくらえだ! やっちまえぇ! 荒々しい言葉の投げ合いもゲームを盛り上げる小遊具で…。

 ビデオゲームさながらの爆撃の様子を見ながらテレビを見ているデニスと、緑、いけえ!と叫んでいた彼は、長い睫毛もこめかみにうっすら浮かんだ血管も同じはずだった。けれど、そのときのデニスが全く見知らぬ男に思えた。 

 私は無言でサイドテーブルにあったビールの缶をつぶした。ビールが少し手の甲にこぼれた。私はリビングを出たが、急な吐き気におそわれた。ひどく汚いものが胃に流れこんだ、そんな感じがしてバスルームに駆け込んだ。どうしたのよ、自分に苛立ちながら顔を上げると、鏡に映った私の顔はひどく青ざめていた。

 少しずつデニスと私の関係は変わっていった。それまでは気にならなかったデニスの行動が気になりだした。たとえばバーでの隣のテーブルの男とデニスの何気ない口論。次第にエスカレートしていき、二人は声を荒げる。今にもつかみあいを始めそうになる。気がつくと私は叫んでいた。やめて!やめて!やめてちょうだいよ! デニスは唖然と私を見た。白けたように私を見た。
 
「それって感情を抑えられなくなったってことかしら」
 
「そう言ってしまえばそれまでのことだけど…」
 
「男ってのはね、理解しがたいのよ、どっちにしたって」

 私はハリーのことも話した。
 
「あたしたちのアパートの隣にハリーってちょっと不気味な男が住んでるの。少なくとも不気味な男だって、ここ数年思ってたの」
 
「ハリー?」
 
「そう。何と名前がハリー・カラハン。クリントイーストウッドのダーティハリーの刑事の名前と同じなのよ」
 
「そのハリーさんがどうしたの?」
 
「うん、彼、ダーティハリーとは似ても似つかぬ容貌でね。痩せてて、猫背で、小さな声でぼそぼそ話すの」
 
「奥さんは?」
 
「結婚したことあるのかな。今は一人よ」

 そのハリーがある日、買い物から帰ってきた私に声をかけた。お茶でも飲みに来ませんか?と。ヘエッ? 私はびっくりして、ハリーを見た。隣同志になって三年、挨拶以外、話などしたことなかったのだ。私は誘われるまま、ハリーの部屋に入った。なぜか不思議な力が働くようで、それまで薄気味悪いと思っていたハリーの部屋に何の抵抗もなく入ったのだ。

 部屋にはたくさんのプラントがあり、まるで小さなジャングルに入り込んだようだった。水々しい葉が部屋中に広がっている。テーブルの上には金魚鉢があった。その中にはメダカのような、どう見ても冴えない魚が数匹泳いでいた。

 ハリーはジャスミンティを入れてくれた。一口すすると、ハリーがのぞき込んでいるのに気づき、どうかしましたか?私は聞いた。どうかしましたか、と聞きたいのは僕の方ですよ、ハリーは微笑んだ。不気味だとしか思えなかったハリーが泣きたいほど優しい目をして私を見ていた。

「顔色がよくなくて何だか思いつめてるみたいでしたよ、ってハリーは言ったの。ああ、それでお茶を入れてくれたのねって…とてもありがたかったわ。その時、彼といてあたし、妙な安らぎを感じたの。それまでだったら決して感じることできなかった安らぎをよ。背びれのがたがたのちっぽけな魚見ながら、ハリーカラハンなんて似つかわしくない名を持つ男…それまで幽霊みたいって敬遠してた男の入れてくれるジャスミンティ飲みながら、あたしとても温かい気持ちになってたの。ハリーの静かな優しさってのは、なんだか、植物や水が持ってるようなそんな優しさでね…それがあたしには何よりの安らぎだったの。わかるかしら」

「うん…」
 
「わからないかしらね。あたし、何だかちょっと恐いの。自分らしくない自分が恐いの。自分の価値観や好き嫌いをも変えてしまうような変化が少しずつ自分の中で起こってるって何だか恐いの」

 わかるわよ、というようにエリーは頷いたが、少し困った様子だった。

 その時、ハリーが一瞬不思議な外見に変化したことも言いたかったが、言えなかった。私の精神状態をエリーに心配させてしまうと思ったのだ。

 一瞬だったけれど、ハリーが薄灰色のとても痩せた馬とラクダの中間の顔に見えた。体のバランスも一般的人間とは違って見えた。背がとても高くなり、手と肘と関節の感じがどうにも不思議に形作られていた。

 けれど、ちっとも怖くなかった。何度か私の見る角度によって、ハリーは姿を変えた。少なくともそんな気がした。昔、お菓子のおまけについていた光る絵。角度によって違う絵が浮かび上がる。そんな感じが現実目の前で起こったのに、怖くなかった。自分の精神状態も疑わなかった。それどころか、とても心が静かだった。野原で柔らかい風を浴びている時、目の前に野生の馬が静かに歩いて来て止まって私を見た。そんな不思議な瞬間があったら、感じただろう静けさだった。緑のプラントに囲まれ、ハリーは静かに佇んでいた。仙人のような存在感だった。

 エリーは水色にオレンジの花模様のワンピース水着を着ていた。古きよき時代という言葉を思い出させる水着だった。

 エリーはパラソルの下、テーブルの上のサチの手をそっと撫でた。
 
「サチはね、自分の手を見るのが好きなのよ。指先の動きを見るのが好きなの。あたしもね、サチの手を見るのが好きよ。小さな指と指との閧に何だか素晴らしい予感を感じるの」

「サチの世界ってどんなのかしら」
 
「自分の指…いつも一緒にいるあたしがいて…ミルクの匂い、陽の匂い…まだ父親が存在するってことも知らないサチの世界…。その世界に色をつけるのは何なのかな」

 プファファファファファ…サチは伸びをした。その瞬間小さな掌がパアッと開いた。サチの小さな掌、汗ばんでキラキラ光っていた。くっきりと三本線が刻まれた小さな掌、光を弾いて光っていた。

「どうして裏切りや戦争って起こるのかしらね」

 裏切りは個人レベル、戦争は国レベル。随分次元は違うにしてもエリーと私にとって理解できないのは同じだった。

「あたしね、この子にどうやって善と悪を説明したらいいのかわかんない。人の迷惑になることが「悪」なんて、そんな時代遅れのきれい事言ってられないしね。…小さい頃から、ずっと不思議だったの。神がほんとにいるのなら、どうして悲しいこと、つらいこと、不公平なことが山ほどあるんだろうって。大人になってからだってずっとわかんなかった。でもね、どのくらい前かしら、あたし映画を見たの。神様が人間の姿になって現れるコメディよ。その中で小さな女の子が神様に聞くの。神様がほんとにいるんなら、どうしてこの世に不幸や悲しいことがあるんですかって。病気に苦しむ子供や貧しい人や惨めな人がいるんですかって。すると神様は言うのよ。僕の失敗は片方だけを創造することができなかったことだなって」
 
「片方だけ?」
 
「うん、悲しみがあるから喜びがある。不幸があるから幸福が存在する、僕は片方に偏らせることが出来なかったってね。そういやそうだけど、不幸をふっかけられた人間はたまんないわよね。一人一人同じだけの幸せと不幸を配られるんならいいけど、ひどく幸福な人もいれば、ひどく不幸な人もいるんだもんね。あたしはやっばり片方だけ創造してもらいたかったと思うのよね。マイナスがなくゼロかプラスってふうにね。どう間違っても普通か幸福かってふうにせいぜい普通で止めて欲しかった。悲しみや不幸はなくね。もしそうだったら、世の中ってもっとサチの世界に近づくわ。ミルク色したね。単純ではあっても平和なはずよ」

 エリーは一泳ぎし、そのあと私も再びプールに背中で浮いた。

 もう誰の泳ぐ音も聞こえてこなかった。水しぶきもかからない。だから太陽は一つのままだった。

 目を閉じれば、場所と時間の感覚がなくなった。流される…そんな気になったけれど、プールの中では流されてもしれていた。プールを出ればパラソルの下に、エリーとサチの小さな世界がある。

 明日はデニスのところに戻っていく。デニスの中の見知らぬ男が再び私の中の見知らぬ私を当惑させ恐れさせたら、私も言うだろう。男って理解できないわ…と。けれど私は知っている。私が理解できないのは男じゃなくって人間の中にある何かだってこと。

 私は浮かぶのをやめ、立とうとしたが、足がつかなかった。どうやらプールの一番深い辺に浮かんでいるらしい。沈みそうになって再び背中で浮いた。目に水が入り、太陽はまた分裂し始める。あたしはまばたきをした。太陽が一つになるまでまばたきをした。目に入ったプールの水をまばたきして追い出そうとした。何度もまばたきをしていて気がついた。泣いている…と。サチを一人きりで生んだエリーを思って泣いていた。先日見たデニスの殺気だった目を思って泣いていた。パアッと開いたサチの掌を思って泣いていた。

 エリーは言った。「あたし、サムのことで心配で片時も心が休まらなかったでしょ。だからこの子にも影響を与えたんじゃないかしら。そりゃお腹の中で動いたものよ。あたしにとっては初めての経験だけど、随分騒々しい子だなってのはわかったわ。けど生まれてきたサチは目方は少し足りなかったけど、とてもリラックスして見えたわ」

 そのサチは今、エリーのお腹では握り締めていただろう手をパアッと開いている。サチのように暖かい陽の光だけを求め、両手をパアッと広げられたら、どんなにすてきだろう。たとえそれがガラス越しの陽の光だとしても…。

 目を閉じると、浮かんでいる市民プールの水が大きな海のように感じられた。海は太平洋でも大西洋でも中東の海でもなく、「陽」の海だ。涙を薄める必要のない海だ。自由に手足を伸ばせる海だ。濁りを全部のみこんで濾過してしまう海。パアッと両手を無防備に開いて浮かんでいられる海。

 どれだけ浮かんでいたのだろう。頭がこつんとプールサイドにあたった。プールから上がり、端に腰をかけると、年配の男が二人ゆっくり泳いでいるのが見えた。

 どこにでもあるプールの光景だった。市民プールの光景…。八つに仕切られた空をもつ市民プール。二つのパラソルのある市民プール。なのにしばらくどこか次元の違うところに流されていたような気がして、私はしばらく動けなかった。




 そのあと、近くにある水族館にでも行ってみようということになった。エリーも私もとりたてて水族館に行きたかったわけではない。ただ赤ん坊をつれて水族館にでも行ってみる、その響きの温かさに惹かれた。

 呼び物のラッコの水槽と赤ちゃんイルカの他は、お義理程度にペンギン、亀、アザラシ、ワニなどの古びた水槽が散在している寂しい水族館だった。

 孤独のアザラシは退屈そうに時折思い出したようにゴロゴロする他は、どこを見るともなく目を半分開けて昼寝を決め込んでいた。斑に毛の抜けたように見える体はつやがない。

 こんな近くでアザラシを見るのは初めてだった。アザラシは巨大だった。何という名なのだろう。見回したが種類が記してある看板は見当たらなかった。

 毛の抜けた重量感あるアザラシを見ていると、体が下へ下へと沈み込んでしまいそうだった。

 私はやたらに喉が乾き、朝から飲み続けているルイボスティは発汗せぬまま、体にたまり、その分頭には薄まった血しか行かないのか、ビーンという耳鳴りまで始まっていた。

 相変わらず半開きの目のアザラシは唯一の観客である私たちに注意を払う様子も見られなかった。

 どれくらいそこに立っていたのだろう。ほんの数分だったかもしれないし、かなり長くだったのかもしれない。明日からまたエリーも私もあまり満たされたとはいえず、かといって不幸というのでもない日常に戻るのだ、そんなことを漠然と考えながら立っていた。

 風が長らく微動だにせぬように、私とエリーの時間も止まっているように感じた。これからどこへ行くのだろう。自分がどこにいてどこにいくのかわからなかった。

 ピシャリと音がした。アザラシが水に入ったらしい。

 こっちよ、エリーが私の手を引いた。反対側に周ると下までガラス張りになっていて、水の中を泳ぐアザラシが見えた。水の中でのアザラシは違う生き物のようだった。ヒュー、エリーが感嘆の声をあげた。水の中を何の抵抗もなくスーイスーイ、かなりの速さで泳ぎ回っている。何の努力もみえない自然な動きだった。水の中で縦になり、横になり、くるりくるりと回転し…。むしれたような毛も水の中では滑らかに見えた。

 どうして人間、こんなふうに生きられないんだろう。するりするりと攻撃的になることなく、摩擦を避け…。

 所詮、夢物語か…。人間はするりするりと泳げる世界に生きていないのだから。何の摩擦もなくすいすいすい。攻撃も軋轢もない世界、そんなのは永久にやってこない。だとしたら、水から上がってコロリコロリ、半開きの目をしたアザラシのように怠惰になるしかないじゃない…。

 水に入るとね、ふわっと軽くなるの。体だけじゃなくってね。すべての…すべての重圧がよ。エリーの言葉が私の頭でエコーしていた。