高城領とメアドを交換した。

友達なんかいなかったし、親と連絡をとるのもほぼ業務連絡のみだから、私のケータイはいまだにガラケーだ。高城領もちょっとビックリしてた。

 カバンのポケットにしまってあったケータイは、ほとんど新品の状態。連絡先を登録するのも久々のことで戸惑ってしまって恥ずかしい。


「じゃあ、明日バンドのメンバー紹介すっから!放課後、明けといてなー!」

「うん、わかった」


 校門を出てそんな会話をしたあと、私たちはそれぞれ反対方向へ歩き出した。送るって言って聞かない高城領には、ちょっと1人で考えたいからとなるべく言葉を選んだ。断るっていうのも意外と気を遣うんだ。

 ひとりで歩くいつもの帰り道だけれど、吸う空気はなんだか違う。

 今日は、本当にいろんなことがあった。大袈裟かもしれないけれど、世界が変わっていくのを感じたっていうのかな。こんなこと、今時映画のヒロインだって言いやしないだろうけれど。

 多分きっと、思い返したときに今日という日がトクベツな日になるんだろう。何故だかそんな予感がしてるんだ。

 ……でも、まだ一つ残ってることがある。それは私にとって最大の難関だ。


「……よし」


 一度立ち止まって深呼吸をしたあと、覚悟を決めて再び歩き出す。吸い込んだ空気は、やっぱりいつもと違う味がした。




 家に着いたのはいつもより30分遅い時間だった。

 制服のままリビングに入ると、いい匂いが鼻をくすぐった。すくむ足をなんとか動かして、広いリビングの中を音もたてずに進む。

 無表情で夕飯の支度をしているお母さんは、私が部屋に入ったのに気づいたのか気づいてないのかさえわからない。今日はお父さんがいなくてよかったと心底思う。

 ジュージューと、フライパンの上で何かが焼ける音。漂う匂いに空腹を感じるけれど、緊張で今はそれどころじゃない。

 ……言わなきゃいけない。


「……お母さん」


 それは、本当に小さな声だったと思う。震えたそれに、なんて自分は弱い人間なんだろうと情けなくなってくる。聞こえたのかどうかわからなかったけれど、お母さんはゆっくり私に顔を向けた。

 面と向かってしゃべるのは、いつ以来なんだろう。

 夕食と朝食以外の時間、私はこのリビングという空間にいたことがない。だから、お母さんが料理をする姿を見るのだって、本当に久々のことで。

 お父さんが帰ってこないうちの家庭で、お母さんが毎日きちんと料理をしてくれているのが私のためだってこと、わかっていたけれど。目の前にすると、やっぱり胸が痛くなる。


「……どうしたの?」


 凍りついたような空気があたりを漂う。冷や汗が止まらない。ぎゅっと、服のすそをつかむ。高城領の言葉を思い出す。

───嘘ばかりついてるって言っていた。思ったことをもっと吐き出せばいいと、そう言ってくれた。


「……わたし、明日から部活やることになったから……帰りが少し、遅くなる」



 なんて言葉を返されるのか、怖くて顔があげられない私はまだまだ弱いと思う。


「……勉強の妨げになるんじゃないの?」

 
 冷たく、ひどく冷静な口調でそう言って、お母さんは再び夕飯の支度を始めた。唇をぎゅっと嚙みしめる。

 ダメだ。ここで終わったらいつもと同じじゃないか。諦めたら、ダメなんだ。


" 音が、曲が、音楽が。
誰かの心に伝える事だってできる "


「どうしても……やりたいの……!」


まっすぐまっすぐ前を向いて。今にも溢れそうな涙をぐっとこらえた。自分がこんなことを言うなんて、自分でも驚くくらいだ。

でも、高城領が、後ろで背中を押してくれている気がしたの。

 声を荒げた私にお母さんは一瞬こっちを見た。いつも無表情のお母さんが、少しだけ驚いた顔をして。


「……綾乃がそんなことを言うなんて珍しいわね。……好きなようにしなさい。けれど、勉強の邪魔になるようだったらやめなさいね」


いつもみたいにつめたい口調だった。でも、お母さんがわたしの名前を呼んだ。アヤノ。なんだかそれは、とっても特別名前に思えて。


「……ありがとう、お母さん……っ」


それしか言えなかった。今はまだ、それが私の精一杯だった。

 溢れそうになる涙をぐっとこらえてお母さんに背中を向けた。バタンと扉をしめて、廊下へ出る。急いで自分の部屋へかけあがりながら、高鳴る胸の鼓動が騒がしい。溢れ出そうなこの感情を、私はどうしたらいいだろう。




「……っ」


 部屋へ駆け込み、ズルズルとその場にしゃがみ込む。

 悲しいのかな、それはなんだか違う気がする。じゃあ嬉しいのかって聞かれると、それもなんだか違うく思えて。

 だけどね。たった一言だけだったけれど。

私はお母さんに向って、初めて自分の意見を言えた気がする。初めて、面と向かって言葉を話せた気がする。

そしてお母さんも、そんな私を見て驚いてた。当たり前だよね。いつも黙って『いい子』でいた娘が、いきなり反論してきたら驚くに決まってる。


 なんだか今日は、凄い日だ。いろんなことが変わっていく。それは私自身なのか、私の周りなのかはわからないけど。

ただひとつ、お母さんにはバンドのことを部活と言ってしまった。嘘になるけれど、バンドをやるなんてちょっと言いにくかったんだ。


 私、今日始めて自分になれたみたいだ。





「おはっよー!」


いつもながら、彼の声はよく通るなあと思う。姿が見えなくても、誰の声なのかわかってしまったところが少し悔しいけれど。


「おはよ」


 今日は私も、小さな声でそう返事をする。恥ずかしいから顔は下に向けたままだけれど。見なくてもわかる。彼はきっと今白い歯を見せて笑っているんだろう。

 朝、下駄箱、隣には高城領。


「おれ、昨日曲作りめっちゃはかどってさー! すげえいい感じなんだ!綾乃のおかげかなー?」


 教室に向かって歩き出す。昨日と合わせてこれで二回目。隣を歩くのは。

 いつものように笑いながら、ポケットに手をつっこむ。適度に着崩した制服と、ブレザーから覗くグレーのパーカーは領によく似合ってる。


「曲作れるって、すごいよね。私には絶対できないや」

「んー…おれの場合ほとんど趣味みたいなモノだけどね!でも、完成した時の達成感ハンパねーからやめらんないんだよなあ」


 好きなことを話すときのニンゲンってこんなにも嬉しそうな顔をするんだ。知らなかったなあ。高城領の横顔は、なんだか可愛かった。

 背が低くて目線の高さが合うって所も、きっと高城領が女子に人気の理由のひとつなんだろう。



「バンドの人、どんな人たち?」

「キャラ濃いけど中々いい奴らだよー!ぜってー2人とも綾乃のこと気に入るから安心してよ!」


 高城領のバンドメンバーは、彼を含めて3人いるらしい。なんでも、ボーカルだけが見つからなくてずっと探していたんだと。


「……そっか。よかった。
高城領が言うならきっとそうだね」


 高城領はフレンドリーで、私なんかに喋りかけてくれる変わり者。だけど多分、このひとはとても優しい。そう思う。

 でも、他の2人は私の全然知らない人らしい。まあ私が他人に興味があるわけもなく、クラスメイト以外のニンゲンを知るわけがないんだけれど。

 高城領が教えてくれたことと言えば、領と同じバンドに所属していて、同じ学年ということだけ。

……実のところ、私は昨日から大分緊張している。だって、友達がいない歴早3年。いやもっとか。人と関わるなんて、私には未知だ。

 というか、そういえば。領が返事を返してくれていないことに気がつく。


「? 高城領、どーしたの?」


 トナリを歩く高城領。私より少しだけ背が高いから、ちょっとだけ見上げるカタチになる。男子の中では、やっぱり小柄だ。

そんな高城領の横顔は、心なしかほんのり赤く染まっている。


「……もー! 綾乃がヘンなこというからだ」

「え? 私ヘンなこと言った?」

「……なんでもない。ていうか、いつまで高城領って呼ぶ気?!」

「いや、それは、」

「次そう呼んだら許さないからねー!領って呼ぶ練習でもしときなっ」


 高城領が少し不機嫌そうに教室内に消えていく。これまた自然と、クラスの中心グループは高城領を囲むのだ。

 ……領。そう呼んでいいよって何度も言ってくれるけれど、そう簡単にはいかないのが現実で。心の中では気軽に呼べても、いざ目の前にするとやっぱり違う。

 人の名前を呼ぶって、案外のこと難しい。






「…….はあ」


 今日も案の定、授業に集中できない。小太り担任のうざったい授業でも、真面目に聞いてるフリをするのが私なのに、昨日今日はどうかしている。


 自分の席から窓の外を眺める。


 昨日とはちょっと違った空の色が広がっている。そうか、毎日同じ青じゃないんだあって。人の気分が毎日違うように、空の色もきっと毎日違うんだろう。

 放課後。

 何が起こるだろう。私と、高城……領と、そのバンドメンバーたち。本来なら、関わるはずのなかった人たち。

 緊張と、不安と、ほんの少しの期待が混ざった変な気持ち。でも、ワクワクしてる。私の世界が変わることに、私は内心わくわくしているんだ。




______キーンコンカーンコン


 最後の授業の終わりのチャイムが鳴ると同時に、やっと終わった堅苦しい授業に生徒たちが騒ぎ出す。

 なんだか、今日は長かった。物凄く、時間が経つのが遅かった。

 窓の外の空を見る。流れる雲が、まるで私の背中を押しているみたいだ。


「綾乃ー!」


 教室のど真ん中の席。そこから声を張り上げて私を呼んだのは領だ。おかしいな、私。これが誰の声なのか、区別できるようになってしまった。


「はやく行こっ!
俺もう今日、一日がすんごく長くてさー」


 躊躇もなく私の席までやってきた領が、私が思っていたことと同じことを言う。なんだかそれがくすぐったい。

 私と領のコンビが珍しいのか、クラスの人たちがコソコソ何かを話し始める。それもそうだよね、だって領は学内イチの人気者だ。


「早くいこ! 綾乃!」


 領が、躊躇いなく私の手を引いた。重なる手。満面の笑みの領。昨日まで、周りにどう思われるのか気にしてばかりいた私だけれど。

これだけ何も気にしない領を見ていたら。……なんだか、周りを気にするの、馬鹿らしくなってきた。


「早いよ、領!」


 クラスの人が驚いて、私と領を目で追っている。その前を颯爽と通り過ぎていく。

 何コレ、すごい。

 領に手を引かれて走る廊下は、今までと全然違った。そう、まるで、世界が、変わったみたいに。




 廊下を駆け抜けて、階段を上る。領の脚は早くて、ついていくのに必死だった。

 突然領が止まるから、私は領の背中に思わずぶつかって。そしたら領は振り向いて、これまた満面の笑みで言った。


「着いたよ、綾乃」


〝音楽準備室〟と書かれたプレートが掛かった扉を、領が勢いよく開けた。

 ああ、領ってば、待ってよ。

 息整えたいし、走ったせいで髪はグシャグシャだし、なによりまだ、私の心の整理がついてないんだってば───。

 他の2人はどんな人だろうとか、上手くやっていけるんだろうかとか、私でいいんだろうかとか。考える暇もくれないなんて、領はバカヤロウだ。


「おまえら相変わらず来るのはえーなー」


 領が2人に話しかけている。トビラの後ろに隠れた私。ギュってつぶった目をゆっくりゆっくりあけて、一歩前へと踏み出した。



「コイツ、前から言ってた綾乃!今日から仲間だからヨロシクなー!」



領がそんな風にあたしの肩を持った。その力強さに、私もまっすぐ、まっすぐ、前を向こうと思った。

「……領、スキンシップ激しいんじゃない。緊張してるよ、その子」


 そう言いいながら、表情を変えずにこちらをじっと見つめる、黒髪の男の子。首から提げたヘッドホンに、色白だけどハッキリした顔立ち。寡黙そうな、クール属性というやつだろうか。でも、世間では確実にカッコいいって言われる類の人種だ。


「へーえ。これがウワサの綾乃チャンね」


 次に横から口を出したのは、なんていうか奇抜な見た目をした女の子。真っ黒なストレートロングに赤紫が混ざった髪の毛。ムラサキとピンクのネイルをした手で、ベースを持っている。多分ばっちり校則違反だろう。でもすごく、綺麗な子。

 ……なんか私、とんでもないところに来ちゃったかも。

 だって、私を除いてこの3人、容姿の整い方が半端じゃない。人目をひくってこういうことなんだ、って思い知らされる。やっぱり、私とは正反対の場所にいる人たち。

 領がいなかったら、関わる事すらなかったであろう人。



「まあまあ、とりあえず? 綾乃、自分で自己ショーカイできる?」



 領が私の顔を覗き込む。
どうしよう、私こんなの慣れてない。

 ……でも。2人の視線に、一回ぎゅっと目を瞑って、また開く。そして、コクリと頷いた。



「……えっと、か、片桐綾乃です……」


 緊張しすぎて声が上ずる。恥ずかしい。

 私って本当にこういうこと慣れてない。学級委員や生徒会、押し付けられて何度もやったことがあるけれど、そんな雑用係みたいなものとは全然違う。私って、実は人前苦手なんだ。こんな状態で、ボーカルなんてできるのか甚だ疑問だ。


「なに綾乃、そんだけっー?!」


 領が笑う。だけって。私はもっと焦る。何言えばいいかわかんないんだもん、しょうがないよ。今はこれが精一杯だ。

でも、そんなことすら言えるはずもなく。


「えっと、あの……」

「まあいいじゃん、キンチョーしてんでしょ。このキャラ濃いメンツ見たら誰でもそーなるわなー」


 ケラケラと笑いながら、言葉が出ない私にフォローを入れてくれたのは奇抜な格好の女の子だ。口調は男の子みたいだけれど。

でも、なんて優しく笑うひとなんだろう。


「じゃあ、次は俺らの紹介」



 女の子に続いて、黒髪くんがそう言って立ち上がる。手にはドラムスティックらしきものを持って。




「俺は、高沢 浩平(タカザワ コウヘイ)。 ドラム担当兼、ふたりのお世話役」

「はあっ?! お世話役ってなんだよコーヘー!」

「アンタらウルサ。アタシは、赤川 怜(アカガワ レイ)。ベース担当ね。ヨロシク」

「俺は、高城 領!ギター兼、作詞作曲、たまにボーカルもやります! ってことで綾乃、これからヨロシクッ!」



 3人が、私の目の前に立って笑ってる。私を見て、笑ってる。

どうしてだろう。胸がぎゅって熱くて、言葉が出ない。だって、ひとが、私に向かって、ヨロシクって手を差し伸べてくれている。

 小さな部屋に4人。息をする音が聞こえる距離だ。私がここにいる。だって、3人の目に私がちゃんと写っているから。



「よろしく、お願いします……」



 人と関わること。
今まで避けて通ってきた道。

 こんなふうに、誰かと笑い合える日が来るなんて思わなかった。



「てかさ、綾乃俺らのバンド名知らないよね?」


 領がコウヘイくんにじゃれながら、興奮気味にそう言う。知ってるわけがない。だってここは、私の未知の世界なんだから。



「……うん、知らない」

「よっしゃー!じゃ、教えてやる!俺らのバンド名はー」

「「はるとうたたね」」



 領が大きな口をあけて、今にもきっとその言葉を言おうとしたところに、他の2人が声をそろえてそう言った。

そして、ニヤリと笑う2人。領はポカンとして、それから怒り始めた。


「おっまっえっら!! 俺がいませっかく言おうと思ったのに! 横から口出すなアホー!」


 領がコウヘイくんに飛びつく。それに対して、「ばかみてー」って笑う赤川さん。



「ははっ」



そして、そんな " はるとうたたね " のメンバーをみて、私も自然と笑顔が溢れた。



「「「……」」」



わたしが声を出して笑ったからか、3人が動きを止めてこっちを見た。ビックリして笑いが止まってしまった。な、なに、その反応は。


「綾乃が笑った……」
「てか、笑うとチョーカワイイじゃん」
「バッカ言うな怜! 」


 コソコソと何か言っているのが耳に入るけど、もしかして私のことバカにしてる? なんて思ったけれど、3人は咳払いをひとつして私の方に向き直った。



「ってことでー改めて!」

「はるとうたたねへヨウコソ」




───はるとうたたね、spring nap───




私も今日から、ここの一員になるんだ。



「ふう…」


下駄箱で思いっきり深い息を吐く。でもこれは、悪い意味のため息じゃないと思う。

普段の私じゃ絶対に体験できないようなことに色々出くわして、疲れたなあとは思うけど。私にはそれすら新鮮で、自分が吐いたため息を嬉しく思っていることに自分でビックリしてしまう。


 領と他の2人は、これからまだ曲作りと曲合わせをするんだって。『はるとうたたね』は、人数が少ないこともあって部活動として正式には登録していないものの、軽音楽同好会としてあの教室を使う許可はきちんと取ってあるらしい。

 領たちの顔が広いっていうのもあると思うけれど、うちの校風は案外自由だ。赤川さんのあの奇抜な髪型でも学校に通っているのはさすがに驚いたけれど。

 そして私は、とりあえず今日は帰宅。課題はメンバーの名前を覚えてくること!って領は笑ってた。でも、明日から特訓……らしい。それもそうだ。だって私は、音楽に関してはすべて初心者なんだから。



「今日は疲れた?」



 下駄箱で立ち尽くしていたからか、突然後ろから声をかけられてびっくりした。考え事をしていたせいで後ろから人がやってくるのに気づかなかったらしい。

恐る恐る顔を上げると、そこにはさっきまで音楽準備室にいたはずのコウヘイくんが立っていた。




 思わずペコリと頭を下げる。

 さっき一緒にいたのに、いざ2人きりになると困る。人と関わることをやめていた私には、どうしていいかわからない。

 ああ、そうか。さっきまでは領がフォローしてくれてたんだって、今更気づく。



「疲れたというか、こういうことに慣れてないから……。あ、でも、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです……」



 とりあえず、そんなことを言ってみる。ぎこちないけれど、きちんと笑えたと思う。作り笑いは得意なはず。それなのに、コウヘイくんは私を見て目を丸くして、そして小さく笑った。

 表情をあまり変えないのに、笑ってくれたことが少しだけ嬉しい。




「なんで敬語? 変わってるね」

「いや、だって……」

「綾乃って、確か学年1位だったよね」

「え、なんでそれを」

「同じ学年なんだから、それくらい知ってる。バンドとか興味あるの?」

「……領に誘われて」

「俺と一緒だね」

「え?」

「ていうか、これから仲間になるんだし、そんなよそよそしくしてたらやっていけないよ。 今日からは友達だとおもって」

「とも、だち、」

「うん、仲間。 俺のことは、コウヘイって呼んでくれればいいよ」



 真っ直ぐ射貫くように、でも優しく私の目を見てコウヘイくんは手を差し出した。無表情だけれど、言葉からも視線からも好意的な気持ちがきちんと伝わってくる。

私のこと、迎え入れてくれてるんだ。

 〝友達 〟、〝仲間〟。聞きなれないフレーズになんだか戸惑うけれど、それと同時に、言葉には表せないほど心臓があたたかくなっているのを感じる。


 私はゆっくりと、差し出されたコウヘイの手を握った。




「えっと、じゃあ、コウヘイ、で」


 たどたどしく。そう言ったら、コウヘイはまた静かに笑った。

 領のこともそうだけれど、誰かの名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいことだって知らなかった。自分の名前を呼ばれるのも、なんだかくすぐったくてなだ慣れないっていうのに。


「綾乃、結構緊張しやすいタイプだ」

「慣れてなくて……」

「真面目だよね、相手がどう思ってるかとか、結構考えてそう」

「ああ、うん、そうかも」

「うん、おれもそうだったからわかるよ」



なんとなく、浩平は私と似ている気がする。あの三人の中では、だけれど。



「あ、私も、綾乃、でいいです、」

「……まだ敬語?」

「……綾乃でいいよっ」



 私なりに頑張っているつもりなのに、コウヘイは無表情のまま痛いところをついてくる。



「綾乃って案外おもしろいね、 今から帰るの?」

「あ、はい、……じゃなくて……うん」

「敬語抜けるの、そのうち慣れるよ。じゃあ、綾乃、気をつけて」

「うん……!」

「バイバイ」

「……バイバイ、コウヘイ」



 誰かに言われる『バイバイ』が、誰かに返す『バイバイ』が、当たり前みたいだけれど決してそうではないことを私は知っているから。



「バイバイ、綾乃。また明日」



そう言って手を振ってくれる人がいるなんて、それだけで泣きそうなくらい奇跡みたいなことだって思うんだ。

 私が見えなくなるまで後ろで手を振ってくれていたコウヘイは、なんて優しいんだろうと思う。

 『バイバイ、また明日』って。人と別れる時って、少しさみしいんだね。でも、その言葉があるから、また会えるって思うんだ。あいさつって、素敵なことなんだね。




「……ただいま」


 重たい扉を開ける。この言葉、もう言わなくてもいいことわかっているけれど。なんとなく、口をついてしまう。

 靴がないから、お父さんは帰って来てない。よかった。今日は2人の喧嘩を聞かないで済む。


「ご飯よ、早くしなさい」


 お母さんがリビングから声を出した。喋りかけられたことにビックリしたけれど、今日は帰るのが遅かったからだろうとすぐに気が付いた。今は丁度、いつものご飯の時間なんだ。


「……うん」


 急いで階段を駆け上がって、制服を着替えてから私はリビングへ入った。

 帰ってこないお父さんの分の食事を見ると、いつも胸が痛む。なんだかんだいって、お母さんはいつもお父さんの分の食事も用意してる。


「……いただきます」


 静かに席について、私も、お母さんも一言も何も言わず、ただ食べるだけの食事。

 それが普通だった。───私が高校受験に失敗してから。


「……部活はどうだったの?」


 だから、そうお母さんに尋ねられたとき、私は心臓が飛び出るかと思ったんだ。





「え? ぶ、部活?」

「どんな部活なの」

「あ、えっと、音楽関係、かな」

「そう……」


 会話はそこで終了する。お母さんはまた食事を始めて、私の方を見ようともしなかった。

 けれど。

 お母さんが、私に話しかけた。気にしてくれた。私の方を見てくれた。高校受験を失敗してから、一度だってこんなことはなかったのに。

 淡々と食事をこなす日々。同じ家にいたって私は空気と同じだ。成績表を見せるときくらいしかろくな会話もない。お母さんだって言葉を並べるのに気まずさを感じているに決まってる。

 だけど、気にしてくれていた。

 
 ……涙が出そうなのをぐっとこらえた。


 嬉しい。たったこれだけのことが、こんなにも嬉しいんだ。





「綾乃おはよーっ!」

「おはよう」


 今日も昨日と同じように下駄箱で出会う私と領。それはもう、タイミングぴったりでちょっとビックリしてしまう。


「お、今日はちゃんと返してくれるじゃん!」

「そりゃあ、おはようくらい返すよ」

「はは、なんか嬉しいなー」

「あのね、昨日。お母さんが……ご飯の時に、話しかけてくれたの」

「え、ホントに? なんて?」


 目を丸くして、まるで自分のことみたいに喜んでくれる領が私の顔を覗き込む。どうしてこんなことを話してしまうんだろうって自分でも不思議でたまらないけれど。


「部活のこと聞かれただけなんだけどね。でも嬉しかったんだ。……ありがとう。領のおかげだ」


 本当は、どうしても言いたかった。昨日からずっと。高城領に話さなきゃいけないって。……ううん、聞いてほしいって思ってた。

だって、こんなにも私の世界を変えるきっかけをくれたのは、まぎれもなく領だから。


「何言ってんだよー!? 綾乃が自分で行動した結果だろ? 俺は何にもしてないよ。綾乃が頑張ったからだ」


 二カッていつものように明るい笑顔を見せて、領が私の頭をクシャッと撫でた。

俺も嬉しい、って歩きながら笑う領。私は今まで、領のことを悪い風に勘違いしてたなあって今更思う。

 この人が周りに人気があって、人の中心にいるのは、きっと当たり前みたいなものなんだ。



「そーいえばさあ、俺今日用事があって途中でいなくなるからさ、怜とコーヘーと練習な? コーヘーがたぶんボーカルのこととか色々教えてくれるから!」

「そうなの? わかった。コウヘイって、優しいよね」


 ピタッて、領が歩みを止めた。
私も動く足を止めて後ろを振り返る。

 驚いた顔で固まってる領がおかしくて思わず笑ってしまったんだけれど、そんなことは気にも留めず領の表情は変わらない。


「……コウヘイ?」

「?……コウヘイがどうしたの?」

「……綾乃、いつからコウヘイって呼んでんの?」

「え……? あ、昨日帰りに会った時に、そう呼んでって言われたから……」


 私なんかが、やっぱり図々しかったかな。領が右手で頭をクシャッとして、足早に私を通り過ぎた。私はそれを追いかけるように後ろを歩く。


「ごめん、やっぱ馴れ馴れしいよね。私なんかが……」

「あー!違う違う。そーじゃなくて……。てか、ジュース買いに行かせた時かー。クッソあいつホントやることはえー…」


 領は頭を右手でクシャクシャかきながら、意味不明なことをブツブツと言いいながら振り返った。


「綾乃が他の男子のこと呼び捨てにしてるの聞いたの初めてだったから、ちょっとビックリしただけ。ゴメンな?」


 なんだ、そんなことか、と思わずホッとする。いつも笑顔の領が珍しく表情を歪めたのがちょっと怖かったんだ。

 ……謝る必要なんてないのに。そう思いながら領の隣に足を進める。


「てか、コーヘーって優しいかー?」

「え? うん。すごい優しいと思う。なんていうか……同じ匂いがするというか」

「ふーん……」



 自分で聞いてきたくせに、興味のなさそうな領。まあ、領は優しいを通り越しているけれど。そんなことは言わないでおく。



「やっぱ、やめたっ!俺、今日いなくなるのやめ!綾乃の練習は俺が見る!」



 うんうん、って頷きながら足を進める領。そんなにいきなり予定変えて大丈夫なの?って聞くと、ダイジョーブって返事が返ってきた。



「ほんと?なら、よかった。領がいるとほっとするし、楽しいから」

「……俺といると楽しい?」

「うん。すごく。世界が輝いて見える」

「……俺も」



 いやに真剣な声だったから、ふと私より少しだけ高い領を見上げた。

いつもの笑顔じゃなくて。もっと優しくて、もっと大切な何かを見るように、領が私を見てた。



「俺もだよ、綾乃」



 その表情が、なんだか少しくすぐったくて。胸の奥が、どくんと音を立てた。



「よっしゃー! 今日もやるぞー!」


 昨日みたいに、小さな音楽準備室の中。領が他の2人が好きなことをやっているのを見てそう叫んだ。楽しそうだなあとその姿を見つめるわたし。


「毎日うっせーなー領は」
「ホント」


 そう言っって他の2人も笑っている。狭い教室の片隅におかれた電子ドラムに座るのはコウヘイ。ヘッドホンをつけた瞬間、コウヘイの顔はいつも変わる。ドラムスティックでリズムを取り出すのは、完全に自分の世界に入ってしまった合図だ。

 一方怜さんは電子メトロノームの目の前でベースを弾いている。ピッキングって言うんだって、領が耳打ちして教えてくれた。


「んじゃー、始めますかっ!」

「は、はい」


 ぐって背筋を伸ばして、いつもみたいに笑う領の顔を見つめる。今日はボーカルについて色々教えてもらったりする予定だったんだけれど……領がガサゴソと自分のリュックをさばくっている。


「あー、あったあった。ハイこれー」


そういって、小さな携帯型音楽プレイヤーを手渡された。それにキョトンとするわたし。


「とりあえず、綾乃の歌唱力を一回ちゃんと確認したいから……このプレイヤーに入ってる曲でなんか歌えるのある? ここに入ってるのなら俺ギターで伴奏できるからさ」


 領に手渡されたプレイヤーには、流行りのJ-POPから洋楽、知らないロックバンドまで様々なものが何百曲も入っていた。

 領って、音楽が本当に好きなんだなあって思う。そして、これならギター弾けるから、ってすごいな。私にはよくわからないけど、きっとすごいんだろう。


「えーと、じゃあこれ、……〝What a wonderful world〟」


 私が選んだのは、英語と音楽の授業で習った、ルイ・アームストロングの名曲だ。最近のロックバンドやJ-popに疎い私にはちょうどいい。一度は誰だって聞いたことがあるだろう。タイトルの和訳は『この素晴らしき世界』。


「綾乃渋いなー。でもわかる、これはいい」


 領が嬉しそうに、部屋の片隅に置かれたギターケースから自分のギターを取り出した。「ジャズっぽいのは得意分野じゃないけど、俺も結構好きだよ」って付け足して。

 そして、ピックで弦を軽くなぞる。その瞬間、頭に曲が浮かんだ。たった一音弾いただけなのに。


「すごい……」

「確かこのコードだったよなー。綾乃の声ならもう少しキーあげて……」



原曲よりも高いキー。確かに女の子には歌いにくい高さだ。わざと歌いやすいようにあげてくれている。すごい。


「よしよし、じゃあいくよ」


 領がいきなりイントロを弾き始める。ゆったりとしたメロディと情緒ある強弱。ギターソロなのに曲の特徴をよくつかんでる。領って実はすごいギタリストなのかもしれない。

 私は領の隣に座って、大きく息を吸い込んだ。

 英語の発音はたぶんカンペキだと思う。伊達に学年1位をやってない。


 流れるような領のギターにのせて、私は歌った。第一声は思わず声が裏返ったけれど、気にせずギターを弾く領の姿を見たら「恥ずかしい」という感情さえ馬鹿馬鹿しく思えてしまって。

 人前だとか、何も気にしないで、目を閉じて。

息を吸い込んで、歌として吐き出す。懐かしいメロディーと歌詞。一回聞いただけで、この曲の虜になった。


 歌うことって、こんなに気持ちよかったっけ?


 領のギターって不思議だ。私の声をまるで支えながら引き出してくれているみたい。歌いやすい。歌うのが気持ちいい。

 夢中になって歌った。
領のギターに重なる自分の声が、信じられないくらい生き生きしていたんだ。



ジャンッ・・・


 荒っぽく弾きあげた一音とともに、わたしの声と領のギターの音が同時に消えた。

 そして、領と目があう。

 途中から、私は何を思ってたんだろう。
 わからないけど、ただ、ただ歌うことが楽しくて、気持ちよかった。自分の声が、こんなに生き生きと発せられたことが今まであっただろうか。

 曲にのめりこむって、きっとこういうことなんだろう。



「……すげえよ、綾乃、すごい」



 目が合ったまま、領が真顔で私にそういう。私はちょっと照れくさくなったけど、たぶん領のギターがなかったらここまで歌うことはできなかっただろうと思う。

 他の二人もいつの間にか私が歌うのを聞いていたらしく、ぽかんと私と領を見ていた。



「すご、びっくりした……」
「てか、領のギターと綾乃の声がスゴイ合ってんの」



自分の頬が熱くなるのを感じた。人に褒めてもらうのって、こんなに恥ずかしいことだっけ。テストの成績表を担任に褒められたときとは、全く違う感情が渦を巻く。

あったかくて、心地いい。



「あー、おれ、ギター弾いてて超気持ちよかった」

「綾乃の声と合ってんだよ。てかイキナリでそんな息ピッタシに歌えるもん?」

「領がボーカルよりダンゼンいい」

「うるせーよ怜!」



3人の声も、なんだか遠く聞こえてしまう。自分の中で鳴っているこの鼓動に戸惑いを隠せなくて。

私、もっと歌いたいって思ってる。

胸がドキドキして、止まらない。もっと、もっとやってみたいって思ってる。



「私、頑張る……」



人前で歌を歌うこと。自分にできることは、勉強することだけだって思ってた。やりたいことは、完璧を追い求めることだけだって思ってた。

でも、わたし、いま。
自分の意思で、歌いたいって思ってる。



「綾乃がやる気だ! おれらも負けてらんねーなー!」

「うっさい領」
「声がでかい」

「はああ!? なんだよ人がせっかく盛り上げてんのにさー!」





「んじゃー今日はここで解散なー!」


あの後、発声練習法や発音練習法とかを領に教えてもらった。あと、少しだけ曲作りを見せてもらったりして。

時間はあっという間に過ぎて、下校時刻はすぐにやってきた。


「じゃあなー!」
「んじゃ」
「バイバイ」


3人に同時にそう言われてちょっと笑えてしまった。私も笑ってバイバイ、と返す。

領とコウヘイは、何やら怜さんに耳打ちをして背を向けて帰って行った。

残された怜さんと私は2人きりだ。



「家、コッチ?」



私が慌てて頷く。怜さんも同じ方向だったのか、「んじゃ行こ」と言って歩き出した。私はその横に急ぐ。

2人で同じ道を歩く。なんだかそれは、とても気まずかった。怜さんとは、まだ2人きりの空間になったことがなかったからだ。



「れ、怜さんもこっちの方向……?」



咄嗟に出たのがそんな言葉。本当、自分でも笑ってしまうくらい不自然な会話。

この前まで、人と話すことすら避けてきた私だったのに、この沈黙が、息苦しいって思ってしまった。




「ふっ、しゃべり方よそよそしいな」



少しだけ笑みを浮かべた怜さんはやっぱりすごくキレイな人だと思った。



「いや、だって……」

「つーかタメでいーよ? 同い年なんだしさー」

「えっと、じゃあ……あ、綾乃ってよんで」

「ん。最初っからそのつもり。綾乃って面白いのなー? ウチのことは怜でいーかんね」



女の子を呼び捨てにするなんて、いつ以来だろう。怜、って、次に呼ぶ時はちゃんとそう呼べるだろうか。

領や浩平。そして怜。

はるとうたたねのみんなは不思議だ。私、いつからこんな風に人と話せるようになったんだろう。

変えてくれているのは、きっと3人が優しくて、私の方をちゃんと向いていてくれるから。



「つーかさ、綾乃に聞きたいことあんだけど」

「う、うん? なに?」

「綾乃、領のこと好きなん?」



一瞬、胸がドキッと鳴って、赤紫が混じった真っ黒なストレートロングの怜の髪を見つめた。

夕日が反射して、ますます綺麗だ。怜は派手だけど、その外見がとてつもなく似合う。



「……違うよ。……なんで?」

「いーや。そーかと思って。
違うんならいーけど。今まで領目当てでバンドやりたいとかいうヤツ何人もいたからさ」

「そ、そうなんだ…」



領が人気者なのはわかっていたけど、さすがだなあと思う。領がモテるのはわかりきっていることだけど、なんだか、胸がモヤモヤする。



「コッチは真剣にベースやってんだっつーの。そーゆーヤツらが来ると、ホント腹立つんだよね。領はお人好しでアホだから、そーゆーの気づかなくてさー」

「そっか…」



怜は、本当にバンドが、ベースが好きなんだな。不真面目そうに見えても、音楽の話をしている彼女はとても生き生きしていたから。



「……見た目こんなんだけど、バンドとベースのことだけは真面目に考えてんだよ、一応ね。初めて自分がやりたいと思ったことがベースだったから」



怜の横顔は綺麗だった。私は今ままで、多分こういう人たちを見下していた。

勉強が出来ることがすべてだって思い込んでいた。

でもきっと、違う。

好きなことをこうやって追いかけている怜は、本当に強くて素敵だと思った。私が馬鹿みたいに勉強していた間、きっと怜は馬鹿みたいにベースを弾いていたんだろう。

人の違いなんて、そんなものなんだ。何を大切にするか。何に時間をかけるか。親や先生の示す先がすべてだなんて誰が決めたんだろう。



「見てて、わかるよ。……私は、みんなが羨ましい。」

「……羨ましいって?」

「そこまで本気になれるものが、私にはないから」



怜が、歩いていた足を止める。
私は少し前で止まって、怜の方を振り返った。



「じゃーさ綾乃」

「うん…?」

「ウチらと本気になればいいじゃん?」



怜の目があまりにも真剣で、私はそこに、吸い込まれるんじゃないかって思った。それほどに、輝いていたんだ。



「ウチらと本気で、バンドやろう」



ああ、なんでかな。泣きそうだ。だってまるで、ドラマのワンシーンみたいなこんなこと。

私の人生で、こんな日が来るなんて、誰が予想できたんだろう。私さえ、信じることのなかった今日という日。



「……やりたい。私、はるとうたたねのみんなとバンド、本気でやりたい……!」



風が吹いて、私と怜の髪をさらった。



「期待してるよ、新人サン」



そう言った怜の顔は、まるで夜空に輝く星みたいに、すごく輝いて見えたんだ。







2.はるとうたたねと夢








私がはるとうたたねの仲間入りをして、1週間と3日が経った。


その中で変わったこと。


朝、必ず領と下駄箱で会って、一緒に教室に行くようになったこと。

おはよう、と人に言うようになったこと。

お昼は、4人で集まって食べること。

放課後、バンド練習に参加するようになったこと。

……本当にたまに、お母さんが音楽関係の部活をしている、ということについて口を挟むようになったこと。


言い出したら、たくさんある。わたしの周りが、世界が、だんだんと変わっていってるのを、肌で感じてる。


そして。

一ヶ月間の長い夏休みが近づいていた。


「あっちー! まじ最近暑くねーっ?!」

「そりゃ夏だからな。つーか夏休みまであと3日だし」

「どうせ休みもなく練習でしょ」

「え、そ、そうなの?」


わたしの言葉に3人がにやりと笑う。

いつの間にか、こんな風に3人の会話に混ざれるようになった私。まだちょっと不自然だけど、少しずつ、輪に入れている気がするんだ。



「綾乃には言ってなかったけどー、夏こそバンド! 夏といえばバンド! ってことでほぼ毎日集まります!」

「領の場合、春でも冬でも秋でもバンドだろー」

「うるっさいなー! 夏は特に燃えるの!」



窓の外では、セミがこれでもかという程鳴いている。教室の中は蒸し暑くて倒れそうだ。



「そうなんだ……」


中学に上がってから、夏休みというものは私にとって地獄も同然のようなものだった。学校も嫌いだけど、一日中家にいるというのは、想像以上に精神を使う。

毎日課題と夏休み明け授業の予習。自分の部屋から出る時間はご飯とお風呂とトイレだけ。たまに散歩に行ったりはするけれど。



「てか、今年はどこでやんの、夏練」



怜が、あちい、と言いながら長い髪をひとつにくくっている。

夏休み中は学校を貸してもらえないから、場所を移動しなくちゃならないらしい。

去年は浩平の家だった、と怜がわたしに耳打ちした。



「んー……どーする? 浩平は去年お世話になったからもう行けないし、綾乃ん家はぜったいむりでしょ? 怜の家もキビシーし…」

「だとすると」



怜の言葉に続いて、全員の視線が領に集まる。


「俺ん家しかないじゃん!」


いつもの笑顔で、領が立ち上がった。




「えー、これで1学期は終了となりますが、この学校の生徒だということを忘れず、節度のある行動を……」



小太りの担任が話すお決まりのワードを聞き流し、長い長い一学期最後のホームルームが終わった。

担任が教室から出て行くと、クラスメイト達が一斉に騒ぎ出す。

ついに、長い夏休みの始まりだ。いままで感じたことのない高揚感が、わたしの胸の中を支配してる。


「やっーと終わったー!綾乃! ほら! いえーいっ!」


無駄に高いテンションのまま、私にハイタッチを求める領。夏休みがそんなに嬉しいのか。まあ、今年ばかりはわたしもその気持ちがわかるけれど。

領と私は、クラスで一緒にいることが多くなった。

始めはクラスメイトも心底驚いていたみたいだけれど、最近はもう慣れた目つきで私たちを見る。

領は誰とでも仲良くなれるもんね、なんてそんな風に言われることも度々。

確かに誰とでも仲良くなれる領だから、こんな私といても不思議に思われないんだろうな。



「おい、領! 綾乃!はやくしなっ! 教室閉められるし!」



教室の扉の方から怜の声がして、ひょっこりと浩平と怜が顔をのぞかせて手招きしている。



「今行くっー! よっしゃ、いこ、綾乃」



領がそう言って、私の手を引いた。
手首をつかまれて、そのまま走り出す。



「ちょ、領はやい、」



走り出した領の背中。私の言葉に笑いながら、止まることのない私たちの足。

風が頬に当たって、廊下を蹴る足音は心地よかった。優等生をやってきた私が廊下を走ることなんて今までなかったのにね。

いま見えている景色は、なんだかとてもキラキラしてるよ。





「ギリギリセーフっ!」


学校の校庭まで楽器やアンプ、楽譜を運んで走ったおかけで、みんなぜーぜーと息を吐いている。

汗が溢れて出て止まらない。今が夏であることを恨めしく思う。

この学校は変なところで厳しくて、部活に所属していない生徒は教室やらなんやらを使うことができない。許可が取れないのだ。

もちろん、部活認定していない私たちが夏休み中、校内を使うことは出来ない。



「んじゃこのまま、俺ん家行きますかーっ!」



それぞれ楽器を持って(領の家にドラムはあるらしいから浩平はアンプ係だ)歩き出す。

領は、そんなに遠くないからダイジョーブ! と笑っている。

重い荷物と、この暑さで、歩いてる最中会話は弾まない。夏に重い荷物なんて運ぶものじゃない。








「ついたついた、ここ俺ん家ー!」

「デカ」



怜の言葉に、私と浩平も頷く。

近いと言いながら、30分もかけてたどりついた領の家。白を基調とした大きな家で、玄関口に植えられた色とりどりの花たちは丁寧に手入れされているのがよくわかる。



「そういやお前らも初めてかー! おれん家くるの」

「フツーに初めてだよ」

「領の家に来る用事ないしな」



白い壁に、うすいピンクの屋根。領にしてはメルヘンチックだと思うけれど、きっとお母さんの趣味なんだろう。かわいらしい。

表札には【TAKASHIRO】とちゃんと書かれていて、ああ領の家なんだなあと実感する。



「お花、綺麗だね」

「ああ、コレー? うちのかーさんガーデニング好きなんだよね!」



そう言いながら、領がすずらんの彫刻の入った白くて可愛らしい玄関扉を開けた。

その瞬間、冷たい風がスッと頬を伝う。



「……天国」



浩平が言う。クーラーの効いた空間はまさに……天国だ。



「おじゃましまーすっ」

「はーいどうぞー。今親いないけどー」



冷たいフローリングに足を踏み入れた。なんだか妙にドキドキしている。

ここが、領の家。毎日領が暮らしている場所。

……ちょっと前まで、顔を知っているだけのただのクラスメイトだったのに。

まさか領の家に行くことになるなんて、誰が予想できたかな。私が1番びっくりしてる。



「かーさん買い物行ってるから、そのうち帰ってくるみたい」


スマホを確認しながら領が歩き出す。フローリングの床をドギマギしながら歩いて行く。

領の家の廊下。隅から隅まで綺麗で、お母さんが毎日掃除をちゃんとしてるんだなあと思う。

階段を上がる途中の壁に、三枚ほど写真がかけられていた。家族写真が2枚と、小学生くらいの幼い領の写真。



「領ちっさ! こん時から小柄だったのな」

「うるさいなー! 怜は女子のくせに背高すぎなんだよ!」



もー見るなよ、なんて言いながら恥ずかしそうに階段を上っていく領。その後ろ姿を笑いながら、怜とコウヘイがついて行く。


……愛されて育ったんだなあ。


領は、きっと愛されるために生まれてきたような人なんだろう。

お父さんとお母さんと手を繋いだ3人の家族写真。笑い声が聞こえてきそうなほどあたたかな表情。


同じ年で、同じように愛し合った2人の元に産まれたはずなのなのに、領と私は全然違う。

今更こんなことを思う自分が恥ずかしいけれど、領はやっぱり、私とは正反対の人なんだ。



2階に上がって、廊下を歩いて突き当りから3つ目の部屋。

薄い青の扉。「RYO」と書かれたプレートは、きっとお母さんの手作りなんだろう。



「どーぞ。汚いかもしれないけどー!」



領の部屋。

なんでだかわからないけど、私の胸は凄い速さで音を立てている。誰かの家に行くのも、誰かの部屋に入るのも、テリトリーを荒らしているみたいで緊張する。その分、近づけたということでもあるけれど。





領の部屋はとても広い。まあ、これだけ大きな家なんだから当たり前かもしれないけど。

モノトーンで揃えられたシンプルな部屋。あまりよく知らないバンドのポスターが2枚ほど貼ってある。

ギターが2本立てられていた。学校から持ち帰ってきたものも合わせて3本だ。本棚に並べられた沢山のCD。束ねられた音楽雑誌。


領がどれだけ音楽が好きなのか、よくわかる。



「意外と綺麗じゃん。さては急いで昨日掃除頑張ったんだろ? 」

「あったりー! さすがにバレたかっ」



怜と浩平がドカドカと荷物を降ろす。重かったー、と言いながら座り込む。遠慮のかけらもない。



「てか広いなー。ウチの部屋の3倍あるわ」

「いや、フツーフツー」



フツーではないと思うけど。

男の子の部屋。生まれて始めて入った、異性の部屋。



「綾乃、何突っ立ってんの? 荷物おろしなよー! 重かったでしょ! ゴメンなー?」

「領って綾乃に甘いよな」

「それ思う」

「えっ、そんなことないって、いやそんなことなくはないんだけど! 」



3人のやり取りにちょっと笑いながら荷物を降ろす。クラスメイトの家に遊びに行くなんて今までなかった。ましてや男の人の部屋。

初めてのことばかりで、戸惑うのは当たり前だ。

それに、他人の家に入って、自分の家との違いに───なんとなく、胸が痛む。当たり前のように家中に愛情のかけらが落ちている領と私は、やっぱり違う世界の人間なのかもしれない。





「エロ本ないのかよエロ本」

「怜、思春期の男子にそういうこと言わないほうがいいよ」

「いや持ってねーし! 綾乃、こいつらの事無視していいから! まじで!」

「隠すなよ領ー」

「そーそ!どーせベットの下とかにあんでしょ」

「ないから! さばくんな! 」



そこまで必死になると、逆に怪しいよ、領。


じゃれあい始めた領と浩平を無視して、怜がせっせと荷物を整頓し始めたから、私もそれを手伝う。

領と浩平は子供みたいにじゃれ合っていて、本当に仲が良いなあと思う。


ふと、たくさんのCD達が目に入る。


全然知らないな、私。そもそもこういうものには疎いし、お母さんはきっとバンドの音楽なんて聴かないだろうから触れる機会もなかった。

そう思うとやっぱり、私がここにいるのは奇跡みたいなものだ。

領があの日声をかけてくれなかったら、話を聞いてくれなかったら、私はここにはいなかった。




「楽譜の整理超タイヘンだったんですけど。おまえらふたり全然やらねーから、ウチらマジ肩痛いっつの。なあ、綾乃」

「え? 私はだいじょ…」

「痛い痛いあー痛い! ジュースでも買ってこいクズ野郎達」



大量の楽譜達は整理されずにバラバラだったから、怜と2人で手分けして片付けた。結構大変だったのは確かだ。

怜はこれを狙っていたのか、領と浩平が「はあー?!」と言いながらも渋々了承するとニッコリ笑って見せた。



「でもその前にー、これからの予定たてます! あーホラ怜、そんなイヤな顔しない」

「チッ。……後でハーゲンダッツ買ってこいよ、私と綾乃の分」

「なんかさっきよりグレードアップしてない?!」




ウルセーと言いながら、怜が手帳を取り出したから、私もつられてカバンから手帳を出す。

今年の春、鮮やかなオレンジ色が気に入って、少し奮発して買ったもの。予定なんて、学校のこと以外書いたことほぼないけれど。



「じゃーとりあえずー」



これからの生活が決まってゆく。不思議なことだ。誰かとの約束で、白い予定表が埋まっていくこと。

初めての夏休み。

今まで、図書館や家でひたすら復習と予習を繰り返していただけの夏が、今年は違う。信じられないけれど、夢じゃない。





「10月中旬が文化祭な。夏休み明けは9月1日!それまでは毎日練習ー! あ、でもお盆は休みで、強化合宿は1週間後! その次の日が高校生ロックフェスなー?」



軽やかに説明しながら、てきぱきと大きなカレンダーに予定を記入していく領。

それを必死に聞きながら、手帳を埋める私達。



「……強化合宿? 高校生ロックフェス?」



聞かされていなかった単語に思わず聞き返す。



「あー、綾乃は初めてだね」



浩平が思いついたように私を見た。



「えーっと、強化合宿は、一日中みっちり練習出来るようにってことと、親睦を深めるためにもやりまーす! 俺の家で1泊2日! 綾乃、ちゃんと許可もらってきてね?」



二カッとまたいつもの笑い方。

領の家に1泊2日。

修学旅行以外で友達と"お泊まり"なんてしたことない。小学生の頃、周りの子たちが話すのを聞いて、ちょっとだけ羨ましかったのを覚えてる。

あの時は、親が厳しくて、小学生でお泊りなんて駄目だって言われたけれど、今はきっと大丈夫だろう。だって、お母さんもお父さんも私なんかに興味はないはずだ。



「毎日の練習は俺の家の防音室なー。コーヘー! オヤジのドラムちょっと古いけど、我慢しろよー? 」

「いや、使わせて貰えるだけでも有り難いよ」



家に防音室。オヤジのドラム。

その言葉から連想するなら、きっと領の家族も領と同じように音楽が大好きなんだろう。なんだかとっても、素敵な家族だ。領が生まれ育った家だもの、素敵じゃないはずがないんだけれど。




「スタ練は金かかるから多くて4回? あーバイト増やしてえー!」

「領、すでにファミレスと楽器屋のバイト掛け持ちしてんじゃん」

「そーなんだよなー。ギターの練習妨げたくないしなー」



領、バイトしてたんだ。話しぶりからして、怜も浩平もしているみたいだ。自分のやりたいことを貫くため、お金は確かに必要だ。

ちなみに、スタ練っていうのは、スタジオを借りてやる練習のことらしい。私も最近教えてもらって知った。思いっきり音が出せて気持ちいいんだって。その代わり、やっぱりお金がかかるんだと。



「みんな、バイトしてたんだ……」

「バンドやるのって案外かかるんだよな。欲しいCDとか好きなバンド関連の雑誌はすぐ買っちゃうし。新しいギターも欲しいしなー」



領が珍しく困ったように笑った。隣の2人もウンウンと頷いている。

自分の好きなことのためにお金を稼ぐってどんな感じなんだろう。

高校生でアルバイトをするなんて、と今までは少なからずどこかで嫌悪感を抱いていた。その時間があるなら、もう少し自分の能力をあげる努力でもすれば、と。

けれど、こういうことを馬鹿にしていたくせに、私は実際社会に出たこともなければ、自分でお金を稼いだこともない。バイトどころか、親のお金で生きているだけだ。


本当に、自分がどれだけ甘えた人間なのかがよくわかる。勉強だけがすべてなわけじゃない。それを認められるのは、今この状況に自分が置かれているから。そうじゃなかったら、わかろうともしなかった。



「高校生ロックフェスっていうのは……?」

「それはフツーにフェスだね! 俺らみたいに高校生でバンド組んでる奴らが集まんの。いい刺激にもなるし、申し込んだいたんだ。綾乃はそれが初ステージになるね」

「領、それ思ったんだけど、こないだ人気だったこの曲いれるのどう?」




話の途中で、浩平は楽譜らしき物が入った分厚いファイルをペラペラめくって領に見せる。




「それ、俺も思ってたんだよね! でもさーここの入りが難しくて」

「今回ボーカルが綾乃なわけだし、一小節ズラして……」

「それはアリだな、怜はどー思う?」

「アタシもそこ弾きにくかったからイイと思うよ。あとここのリズムがさー」



いつも思う。

バンドの話をしている時の3人は、普段と全然違う。

いつも仲良しで、楽しくはしゃいでいるのとはまるで違う表情で、真剣に音楽に向かい合っている。

時には意見が合わなくて喧嘩してることもあるし、3人のタイミングが合わなくて誰かが怒り出す事もある。

でも、そうやってぶつかり合えるのってすごい事なんじゃないかな。

領と怜と浩平と。強い絆で結ばれたみたいな3人。ここに自分がいるのは未だに信じられなくて、まだ余所者感が抜けない私。



「よし、じゃあ予定決め終了ー!」

「おーい? ハーゲンダッツ忘れてんじゃねーよ? サッサと買ってきな」



怜が私の肩に手を回す。2人は渋々了承して、部屋から出て行った。




パタン、と扉が完全にしまったのを確認してから、肩に腕を回したままの怜が私の顔を覗き込んできた。その表情は何やら楽しげだ。


「で? 綾乃は実際どっちがいーと思ってんの?」



ニヤリと笑った怜の言葉にぽかんとする。肩は相変わらず掴まれたままだ。

どっちって、何が?

テーブルの上においてあったクッキーがココア味とバニラ味だったのに気づいて、ああこれか、と納得してみる。



「うーん、あたしはバニラ派かな……だって、ココア味ってちょっと苦いでしょ?」

「……馬鹿?」

「えっ? 怜がどっちって聞いたのに!」

「ちげーって、アイツらの話」

「……アイツら?」

「もー綾乃、オマエほんと馬鹿、つーか天然鈍感」

「れ、怜に言われたくない」



ため息をつきながら、私の方から手をどかす。バニラとココアのクッキーは、なんだか領と浩平みたいだと思った。



「フツーに考えればわかんだろ。領と浩平。どっちが好きかって聞いてんの」

「ど、どっちって……そんなのないよ」

「へーえ? 本当に?」

「本当の本当! それに……3人の中に私なんかが入っていいのかなって……」

「……」




怜はちょっとだけ考える仕草をした後、再びガシッと私の肩へ腕を回した。



「綾乃はさー、きっとそーゆーの疎いんだろーけど、ウチらは綾乃のこと超歓迎してんだよ?」

「か、歓迎…?」

「あー、歓迎っつー言い方はヘンだよな。なんつーか、アレだよ。もうすでに、ウチらは綾乃のこと仲間だって思ってるってコト。モチロン、領も、コウヘイも。」



"仲間"。

その響きに、どくんと胸がなる。こんなに絆の強い3人の中に、突然混ざったのは私なのに。

どうして、こんなにも優しいんだろう。なんだか、涙が出てきそうだ。

人の優しさに、時々ひどく泣きたくなる。触れたことがないあたたかさに触れているからだ。



「……怜、ありがとう……」

「まーさ、ウチらは高1の時から3人でバンド組んでっから、それなりに絆みたいなもんもあるけどさ。今までボーカル探してきて、こんなにしっくり来る奴、綾乃が初めてなんだよ。モチロン、ボーカルとしてもだけど、メンバーとして、仲間として、な? 」

「……怜……」




ボーカルとして。メンバーとして、仲間として。誰かに必要とされている。"1"の文字がなくても、3人はちゃんと私のことを見てくれる。

たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。



「つーわけで! 女同士、隠し事はナシだぞ? 綾乃!」

「隠し事なんてないよ…!」

「ほーう? じゃあ、領と浩平どっち好きか言ってみ?」

「ええっ?! 話戻ってない?! ていうか、じゃあっておかしいし!」

「細かいコトは気にすんな。で? どーなの、綾乃」




腕を回しながら、私の顔を覗き込んでニヤニヤと笑っている怜。カラコンと長いまつげのせいでスゴイ目ヂカラだ。女の私でもドキドキしてしまう。




「もー! 2人とも友達! ていうか、怜がさっき仲間、って言ったじゃん……」

「そりゃ、そーだけど。なんだよー。せっかく綾乃から恋バナでも聞き出せるかと思ったのに」

「こ、恋なんてしたことないからわかんないよ…」

「は、マジ?」

「え、うん……」



怜は目を丸くさせた後、私から離れて前髪をかきあげた。



「はー、こんなピュアガールが現代にまだいるとはビックリ。こりゃアイツらもタイヘンだ」



なにそれ、って私が言うと、気にすんな、って怜はまた私の肩に腕を回した。そしてまた楽しそうに笑いながら。



「ま、いーや。ウチはあんたがどっちに転ぶか楽しみでしょーがないわ」



なんて言って、ギュっと肩を掴まれた。怜のこういう男っぽいところが好きだ。実際、怜本人も「女々しいヤツは女でも男でも大キライだから」と言っていたくらいだし。

それにしても、怜の言動は時たまよくわからない。

試しにあたしが右と左に転んで痛い思いをするところを想像してみたけど、やっぱり怜の言いたい事はさっぱりわかならなかった。




「はい、じゃ今日はコレでオワリー!明日は8時集合だからよろしくねー!」


領の元気な声を聞いて、見ていた楽譜から顔を上げた。領の部屋の時計の針は午後6時を指していた。

2人がハーゲンダッツを買って帰ってきて、私と怜はそれを有り難く頂いた。

その後は雑談しながらみんなで曲について話し合ったり。

最終的には、それぞれの担当分野にわかれた。私は、はるとうたたねがよくコピーするという人気バンドの歌詞とメロディを必死に覚えていたところだ。



「じゃあ、お邪魔しました」



領のお母さんは結局帰ってこなくて会えなかったけれど、きちんと玄関でそう頭を下げて領の家を出る。

領が「律儀!」って笑った。常識じゃないか。そんなに笑わなくてもいいのに。



「じゃあ解散なー。」
「おー、また明日」
「あ、バイバ…」



みんなに手を振ろうと言葉を言いかけたその時。突然、怜に肩をぐっとつかまれた。



「まちな」



顔を上げたら、フッて一瞬、何かたくらんでるような笑みを浮かべた怜がいて。



「あぶねーからどっちか送っててやれよ。いつもならウチが一緒に帰ってやるトコロだけど、あいにく今日は本屋よる予定があるカラさー」



ええ、怜ってばなに言ってるんだろう。 そんなの悪いし、私は別に1人で帰れるのに。

それを言葉にする前に、目の前の2人が顔を見合わせて、そして私たちの方に向きなおした。



「じゃ、俺が…」
「俺が行く!」


浩平の言葉に領の言葉が重なって、浩平は差し出そうとしていた手を引っ込めた。

怜がニヤリと笑って領を見た。



「じゃ、領行けば」

「しょーがないなあ、まあこう見えても俺紳士だからねー」



じゃ、行くよ綾乃、って。領は当たり前みたいに私の手を引いた。




あの日以来、領は家に帰る途中まで送ってくれるようになった。本当は家まで送っていきたい、って領は言ったけど、それはさすがに悪いから途中までってお願いしたんだ。

それから一週間、毎日練習があった。お母さんには、部活と、その帰りに図書館に寄ってくる、と言っておいた。

嘘ばっかりだけど、今まで私が周りについてきた優等生というウソに比べたらこれくらい、どうってことないよね。

図書館にいく、と付け加えたおかげで勉強についても何も言われなかった。それ以外には、興味もないのかもしれない。


そんなの、わかってたこと、だけどね。


それから、この1週間で、3人の音楽に対する熱い想いを何度も見た。

楽器ができるなんてそれだけでもすごいと思うのに、3人とも努力を惜しまない。


もっといいものを。
もっといい音楽を。


人気バンドのコピーだけじゃなくて、領を中心に作った自分たちの曲も。三人とも、全部を真剣に奏でるんだ。

私は、そんな彼らの音楽を、一番近くで聴いている。

なんて幸せ者なんだろうと思う。ここに混ざれていること自体、夢みたいでまだ信じられないでいるんだ。




「いらっしゃーいっ!お泊りセットは持ってきたー?!」


二カッといつものように白い歯を見せて笑う領が、元気にそう言い放ちながら玄関の扉を開けた。


夏休みの日々はあっという間に過ぎた。練習と、家に帰ってからの勉強。3人はそれに加えてバイトも。休みとはいえど、慌ただしい休日だ。


そしてやってきた、強化合宿の日。

今日から一泊2日、4人で領の家に泊る。目的は長時間練習を可能にすることと、親睦を深めること。両親が旅行に行っている間を狙って開催されるんだとか。



「てか、綾乃よく許してもらえたねー。大丈夫だった?」

「あ、うん。特に気にしてなかったから」

「そーなんだ」



浩平が意外そうにしているのも無理はないと思う。私の家の詳しい事情は、領しか知らない。多少は勘付いている部分もあるかもしれないけれど。

普通の"優等生"の親だったら、異性もいる合宿───外泊なんて、学校行事や申請があるもの以外許さないかもしれない。


でも、うちは違う。


そもそも、私なんかに興味なんてない。お父さんは私の事をもう気に留めもしないし、お母さんは勉強のことさえちゃんとしていれば何も言わない。

そんな、家族の形をした何か。もうずっと前から形を失いつつある、何か。




「じゃー午前中は2グループに別れよっか!」




領が、気を利かせたみたいにそう声を張り上げたから、私を含めた他の3人ともビクッと肩を震わせた。





「うるさいなー領。ビックリするじゃん」

「なんだよいつも通りだろー!」

「……じゃ、俺今日はあや…」

「今日もおれが綾乃と合わせねー!」



浩平の言葉に領の言葉がかぶる。最近、よくあるな、こういうこと。

こうなると、絶対決まって浩平は、「ん、じゃあそれで」と薄く笑う。


その作り笑いが、私はなんだか苦手だ。


浩平は、いつも言いたい事我慢してるんじゃないかな。自分がそうだからこそ、他人のそういう部分には敏感になってるのかもしれない。

学校や家の中で、作り笑いをしたり、敵を作らないように振る舞うことは生きていく上でどれほど大切なことなのか、嫌と言うほど学んできた。




「じゃ、おまえら下の防音室なー! 俺と綾乃はここでやるからー」

「はいはい」

「領、綾乃にヘンなことすんなよ?」

「なにそれ! 信用ないな! しないから!」



怜が睨みをきかせると、ホントホント!って領がグイグイと2人を外に追いやった。浩平は珍しく声を出して笑っていたけど。




領のギターにあわせて、歌を歌う。

これが最近の日課だ。







領のギターが止まって、私はカラカラになった喉をペットボトルのお茶で癒した。

あれから、もうすでに2時間が経過していた。

歌うことはキライじゃないけど、さすがに長時間の声出しはまだ慣れない。領は何度も休憩を入れてくれるけど、私の喉はちゃんと休まないと潰れてしまいそになる。


世の中のボーカルって凄いと思う今日この頃。


領もたまに私にあわせて歌うけど、音程感覚も発生もカンペキなところを見ると、私よりは確実に歌がうまいと思う。長年ギターの弾き語りをしていたと言っていただけある。

正直なところ、なんでボーカルを探していたんだろうと思うほど。

私は、1人で歌うより2人で歌う方のが好きだ。ギターに声が重なって、またそこに誰かの声が重なるのが最高に気持ちいい。

はるとうたたねを結成した高1の時からギターを弾きながら歌っていたと言っていた。つまりギター兼ボーカルだ。

毎日嫌と言うほど見ていればわかる。領がギターも歌も大好きなこと。



「はーつかれたー! 今からちょっと休憩なー」



そう言って領は、どこからかクッキー缶を取り出して、いつものように二カッと笑った。銀色の丸いレトロな箱。休憩、の言葉に心が躍る。




缶の蓋をあけると、マーブル模様の形違いのクッキーが顔を覗かせた。ちょうど小腹がすいたところだ。



「綾乃はさー、好きな奴とかいる?」



2枚目のクッキーを手に取ったとき、領がいきなりそんなことを言い放った。

ビックリして顔をあげると、意外にも真剣な顔をしている領がいる。今までその手の類いの話をしたこと、なかった気がする。この間怜に訳のわからない話をふられた時以来だ。



「……好きな奴、って?」

「好きな男、とか」



え、って驚いてから、目線をぐるりと一周回した。なんでそんなこと、聞くんだろう。

本当は考える必要なんて無いけれど、ちょっとだけ考えたフリをする。

だってこの間、怜にこの手の話をされた時。好きな人も出来たことのない私のことを怜は笑ってきたし。

周りの人たちが当たり前にしていることが、私には当たり前じゃない。それが、なんとなく、恥ずかしいと思ってしまう。世の中の"普通"に、私だけ適応出来ていない気がして。




「……いないよ。好き、とかよくわかんないし」




自然と共にぐるりと一周した思考でそんなことをポツリと呟く。

ふうん、と領は私から視線を外した。

領なら、「そっか」と笑ってくれると思ったのに。なんだか、この空気が好きじゃないな。いつもの領じゃないみたいだ。重たい雰囲気。家での息が詰まる空間を思い出しそうになる。



「……領は? いるの? 」

「どーだと思う?」



思わぬ方向に返ってきた返事に、戸惑って言葉を詰まらせる。そらした視線を再び私へと向けた。視線が絡み合って、目がそらせない。




「わ、わかんないよ、そんなの」






「……どーだと思う?」

「だから、わかんないってば、」

「俺、好きな奴いそう?」



───高城領という人間。

いつも人に囲まれて、みんなを明るく照らす太陽みたいな存在。おまけに、背が低いことを除けばかなり整ったルックスをしている。低身長も、彼の親しみやすさのひとつの要因ではあると思うけれど。

今まで、考えたことなかったな。

領はきっと、今までも、これからも、恋多き人生を歩むに違いないだろう。それは領自身が歩み寄らなくても、周りから自然の条理のようにやってくるものだ。

人が集まるのには、理由がちゃんとある。


私とは、真逆だ。



「うん。いそう」

「……おれ、そんな風に見える?」

「いるっていうか、恋多き人生だろうなあ、と」

「ふはっ、なにそれおもしろ!」



ケラケラと笑う領。そんなに笑わなくたっていいのに。



「なー、じゃーさ、仮におれに好きな人がいるとして。綾乃は、誰だと思うの?」



笑いながらまっすぐこちらを見つめる領。

……領の、好きな人。

考え始めたけど、なんだかもやもやして、一向に思い浮かばない。というか、あまり考えたくないな、とおかしな感情が浮かぶ。



「……怜とか?」

「えー何それ。なんでー?」



怜ならしっくりくるかな、と思っただけなんだけれど。ほっぺをふくらませてそっぽを向いたその姿はひどくかわいらしい。やはり犬みたいだ。





「……領と怜なら、お似合いかなあ、って」


領と怜が並んで歩いてるのを想像する。

領が、怜と。
怜が、領と。

領の背が低くて、怜の背が高いのは少しちぐはぐだけれど、想像した二人が並んでいる姿は嫌というほど様になる。世間の誰も文句を言わない関係。


怜だから、なんとなく想像したけれど。もし他の女の子だったら。


それって何故か、あまり想像したくない。領に彼女がいるのかいないのか、好きな人がいるのかいないのか、そんなことも知らないくせに。



「……お似合い?」



そうだよ。

いやっていうほど、素敵なカップルだ。怜じゃなくたって、領の隣にはキラキラしたひとが似合う。いつも誰かの中心にいて、人の笑顔を引き出せる素敵な人。

そんな領の横にいていいのは、同じように誰からも好かれて、世界の綺麗な部分しかしらないような、純粋で無垢な女の子だ。そう決まってる。




「わかんないけど、領には、きらきらした女の子が似合うかなって」

「……」



怜がきらきらしているかどうかはさておいて。

領が黙り込む。視線だけ交わしたまま。

私の中にある、意味のわからないモヤモヤした気持ちが伝わってしまいそうで、思わず下を向く。



「……そーいうこと、言うなよ」



やっと口を開いた領の声は、いつもより少し低めだった。




「だって、本当のこと、」



私のモヤモヤが伝わってしまわないように、わざと強めの口調で言葉を紡ぐ。

ちゃんとわかってるって、わかってほしくて。

領に似合うのは、領と同じようなひとたちだってこと。私とは正反対の、光のような人だってこと。ここに自分がいることでさえ、時々ひどく恥ずかしくなる。

たまに勘違いしそうになる自分が、物凄く恥ずかしいよ。




「なに、それ」

「なに、って思ってること、言っただけだよ」

「綾乃はそう思ってるってこと、か」



そう思ってる、って。私そんなに変なこと言った?

今までにないくらい落胆したような声をだした領にビックリして、口を開けたまま私は固まった。つられて上を向いてしまったから、彼の顔がはっきりと見える。

領は腕で顔を隠すようにしてうつむいた。いつもの面影は、ない。


───なんで、そんな態度なの?


カッコよくて、優しくて、完璧な領に似合うのは、キラキラした人だって、私ちゃんとわかってるよ。



「……ごめん、領」

「謝ることじゃないけど、さ」

「……」

「綾乃は、おれのこと、自分とは遠い存在だっておもってるの?」

「だってそれは、生きてきた環境も、感じ方も、違う。それに、領のとなりは、キラキラした人が似合うとおもう、それだけだよ」

「なに、それ」

「だって……」

「キラキラしたとか、よくわかんないけど、」



ガシガシ、と領が頭をかいた。







「好きな奴と、お似合いになれるようにしなきゃだね、おれも」



───"好きな奴″。


領の口から出たその言葉。

領、好きな人、いるんだ。

なんだか急に実感が沸いて、私は再び顔を伏せる。

なんだ。そっか。そりゃあ、そうだよね。

領だってひとりの男の子だ。だいたい、この歳になって人を好きになったこともない私の方がおかしい。この前怜に驚かれたのだって、そういうことだ。



「……誰?」

「え?」

「領の好きな人、誰?」



思い切って顔を上げた。

そこには、目をまん丸にした領がいる。



「……え?」

「だから、領の好きな人」



がくんっとでも効果音が入ったように領は肩を落として頭を抱えた。



「もー綾乃バカー?! もう、俺不憫すぎ……うあっー」

「な、意味わからない! なんで叫ぶの!」

「叫びたい気分なの! ア"ッー!」

「なにそれ……。人が質問してるのに!」



しばらくすると、叫んでいた領がピタッと止まった。顔を覆っていた手のひらの隙間から、チラリと顔をのぞかせる。

私はまた、領の視線につかまる。



「……キョーミある?」



ぐっと、息を飲み込んだ。


絡み合った視線がほどけないのは、領が私から目を逸らしてくれないから。そして、私が領から目を離せないから。



「キョーミ、なんて……」



……ある? ……ない?


領の好きな人を、私は知りたいと思う。

でも、それと同様に、知るのが怖いと思う自分もいた。聞きたくない。領の好きな人。でも、知りたい。

矛盾した気持ち。本を読んでも、現代文や古典、倫理の教科書にだって載っていなかった。自分の気持ちさえまともに言語化することさえ出来ない。

情けない。



「……ある、けど……いい」

「……」



スッと視線が解ける。

領が横を向いたから。私を視界から離したんだ。私はつられて下を向く。見ていられない、と思ったから。



「……まあ、まだまだこれからだし」



領がつぶやくようにそう言って、「ヨイショ」と膝をついて立ち上がった。つられて私も上を向く。



「昼飯にしよ」



顔を上げるとそこには、いつもみたいに屈託なく笑う領の姿があった。




お昼ごはんはオムライス。

料理の苦手な怜とそんなことには無縁の領は私の横で見ているだけだったけれど、浩平は中々器用でいろいろ手伝ってくれた。

お母さんがいないときは自分で作ったりするから、私は案外家事が出来る方なのだ。


できあがったオムライスとポテトサラダを見て3人はうっとりした声を出す。今までの合宿ではほとんどがコンビニ弁当かカップラーメンだったんだとか。

怜と私が隣に座って、テーブルを挟んで向かい側に領と浩平が座った。みんなで手を合わせていただきますをして、黄色の山にスプーンを差し込むと、3人とも美味しいって言ってくれた。


晩御飯はカレーとお昼の残りのポテトサラダで、今度は私の隣に領が座って、目の前に怜と浩平が並んだ。


キャンプとか、スキー合宿とか、修学旅行とか。わたしが家族以外の人と一日中一緒にいるだなんて、そんな学校行事の時だけだ。

だから。

こんな風に誰かの仲間にいれてもらって、自分の作ったものを美味しいって食べてもらえて、ましてやテーブルを囲んで楽しく食事ができるだなんて、思っても見なかった。

私、なんて幸せなんだろう。

笑いながら食事をとることが、こんなに幸せなことなんだって、きっとこの3人に出会わなかったら知らなかったよ。





「じゃー俺はいってくるー」



頭に音符マークを浮かべながら領がルンルンでお風呂場へ向う。いつでも上機嫌だけど、合宿中はいつも以上に元気で楽しそうだ。

昼間はひたすら個人練習、夕方に合わせをして、夕飯を食べたら自由時間がやってくる。4人でテレビを見たり、ゲームをしたりと様々で、修学旅行みたいだなあと思う。中学生の時の修学旅行は、確か気分が乗らなくて当日に休んでしまったけれど。


時間はあっという間に11時。


ジャンケンの結果、お風呂の順番は、1番目が怜、2番目が私、3番目が領、4番目が浩平になった。怜が『女子が先に決まってんだろーが』と男子2人を脅してたんだけどね。

怜は先にお風呂に入って、私がシャワーを浴びている間に寝る準備を済ませたみたい。女子部屋からはすーすーと小さな寝息が聞こえていた。

わたしは今髪を乾かし終わったところだっていうのに、やることが早いなあ。でも、朝から夕方までずっと練習続きだ、きっと相当疲れてるんだろう。私も喉がカラカラだ。しっかり保湿しなきゃ。



「ふう、」



領がお風呂に向かった後、台所の4人テーブルの1つに腰掛けて水を一杯。

そのまま頭を机にくっつける。ひんやりして気持ちいい。そういえば、今日はずっと1人になることがなかったな。

学校でも、家でも、ひとりでいるのは得意なのに。



「……なにしてんの」



ふと、上からした声に顔をあげる。

まだお風呂に入っていない浩平は、男子部屋にいると思っていたのだけれど。気配がないから気づかなかった。

そのまま何も言わず、目の前に座る。無口だなあ。



「お風呂入ったとこだから、暑くて……頭冷やしてたの」



机に頭をつけて頭を冷やしていたなんて、変なの、ちょっとつかれてるかな。




「……」

「浩平はお風呂4番目だったね」

「うん、領って風呂長いから、最悪」


そう言いながら顔をしかめたので、思わずクスッと笑ってしまう。



「……笑うところ?」

「ううん、仲良いんだなって」

「別に、普通」

「お互い信用してるの、見てればわかるよ」

「……言うようになったね、綾乃」



言うようになったね、とはどういうことなんだろう。無口の浩平に比べたら全然なんだけどな。



「本当のことだよ!」

「綾乃、よく笑うようになったよね」

「え、」



よく笑うようになった、なんて。言われるまで気づかなかった。

そういえば、私はもっと世界に対して捻くれていて、もっと笑わなかったかもしれない。



「……領のおかげ?」

「ううん、3人のおかげ」



わたしの言葉に、浩平が微笑む。浩平だって、滅多に笑うことないのに。わたしはその表情が嬉しくて、つられて笑う。

そんな笑顔に気を許したのか、私はこのもやもやを浩平に話してみようと思った。



「あのさ、領って誰が好きなのかな」



それを聞くのはなんだか恥ずかしくて、両肘を机について、顎を掌に傾ける。シャワーの音はずっと聴こえているから、領はまだ、お風呂に入ってる。



「気になるの?」

「気になるって言うかね、今日、聞かれたの。『俺の好きな人誰だと思う』って。その時私、知りたいって思ったんだよね。だけど、知るのが怖いような気もしてて……」



話していて気がついた。
このセリフ、前にお父さんが帰ってきたときについてたテレビでやっていた、学園恋愛物の連ドラ主人公と同じな気がする。

いや、でも、私には恋愛なんて遠い未来の話なんだけれど。



「……それって、さ」



浩平の声が突然マジメになった。なんとなく気恥ずかしくて逸らしていた視線を、そっとあげる。



「……?」



浩平は、その言葉の続きを言おうとはしなかった。

肘をついたまま、私の方へは視線を向けない。





「やっぱり、なんでもない」



そう言って、にこりと笑った。いつも無表情なくせに、こういうときだけ小さく輪合う。不器用な、下手くそな笑顔だ。その笑顔の裏側に何か隠しているんだって、見抜けないわけない。

だって私は、きっと誰より作り笑いをしてきた人間だから。



「嘘だ、なんでもないわけないよ」

「え、」

「だって浩平、作り笑いヘタだもん」



そうだよ。

いつだって無口で無表情で、怜と領には自分のことを曝け出しているけれど、私にはまだ違う。どこかで壁があるんだよ。人に壁を作るのが上手い私だからこそ、わかるの。

自分自身だってまだすべてをさらけ出しているわけじゃないのに、何を図々しいことを、と思われるかもしれないけれど。



「作り笑い、ヘタ、か」



ぽつりとそう呟いて視線を落とす。



「うん、私と似てるね」



そうだ、私、きっと淋しかったんだ。

欲張りかもしれないけど、初めてできた友達に、壁を作りたくないって思ってた。隠し事や、誤魔化して終わる関係に、もうなりたくない。

なんだ、そっか。
だから、領のことも。

こんなにモヤモヤしてたんだ。



「……綾乃には、お見通し、ってこと、か」






ごくりと唾を飲んだのと、浩平がこちらに視線を戻したのはほぼ同時。視線が合って、ふう、とひとつ息を吐いてから、浩平が口を開く。



「綾乃は、家厳しいんだっけ」

「ああ、うん……厳しいと言うか、結構もう、家族の形ではないというか、こんなこと言われてもあれだし、重くは捉えないで欲しいんだけど……」

「俺もね、多分、そんな感じ」

「え、」

「家系がね、代々医者の家系なんだよ、医大に進んでほしいって、中学の時から言われてる」

「そう、だったんだ、」

「テストは綾乃の次、万年2位だけど、すごく成績が悪いわけじゃない。大学受験の勉強だってしてるしね」

「私と同じだ、」

「うん、そう、似てるなって思ってた」

「バンドのことは、親にはなんて?」

「……許してもらってないよ、好きでやってることだし。バンドにかかる費用は、全部バイトしてまかなってる」




さっきまで暑かった手のひらが、この一瞬で急に冷たくなったのを感じる。

ずっと1位を取らなきゃ、居場所がなくて、1位をとることが、私が生きてる意味だって思ってた。

きっと、そんな私と同じなんだ。

医大や医学部に進んで、医者になること。それが、浩平に託された使命で、学校に通う理由。


……自分だけが辛いと、いつも、そう思っていた。





「わたしもね、」



ぐっと、喉元に力を入れる。自分自身のことを話すこと。人に内側をさらけ出すこと。

周りの人が当たり前にしていることが、時々、自分にはひどく難しいことだと感じる。だからこそ、何倍も、何十倍も、努力して手に入れてきた。

けれどきっと、当たり前のように見えているだけで、本当はみんな私のように、内側に何かを抱えているのかもしれない。葛藤して、躓いて、何度も立ち上がっているのかもしれない。




「中学受験も、高校受験も失敗して……親とはほとんどうまくいってない。もう諦められてるっていうか、1位を取ること以外、気にもしてもらえてないと思う」

「……」

「勉強して、勉強して、成績1位をとること。それだけが、生きてる意味だって思ってた」




浩平の方は見ない。

領にこの話をしたとき。空が綺麗だと知った授業中の屋上で、私はどんな風に彼に話をしたっけ?

あのときはまだ、こんな風に、勉強以外のことに夢中になったり、人と一緒に努力したり、何気ないことで笑い合ったり、そういう日常を知らなかった。何もわかっていなかった。

だけどね、今は違う。



「だけど、領や浩平や怜に出会って、こうして歌を歌うことの楽しさを知って、……私の毎日、今ね、信じられないくらい、輝いてる」

「輝いてる、か」

「大袈裟だって思うかもしれないけど、本当にそう思うの」

「……わかるよ、俺も、領に誘われてドラムを始めたから」

「え、そうなの?」

「うん、手先が器用だって、中学生の時だけど」




そういえば、領と浩平は同じ中学なんだったっけ。私のことをスカウトしてきたときのように、きっと必死で誘ったんだろうなあ。想像できる。




「あのときは、俺も医者になるっていう決められた将来を信じて疑わなくて、バカみたいに誘ってくる領のこと、心底うざかったよ」

「わかる、私もそう」

「でも、あいつのこと、信じて損はなかったな」



うん、それも、わかるよ。

無口な浩平がこんなにも表情を豊かにして話しているところ、初めて見た。

領のことも、怜のことも、誰より信頼して大切にしている。はるとうたたねのメンバーを、音楽を、誇りに思ってる。浩平の表情からも、言葉からも、全部伝わるよ。



「てか、さ」

「うん?」

「綾乃はすごいな」

「え……」

「俺、どんだけ勉強しても、1位だけは取れなかったもんな。まあ、俺がバイトやバンドやってる時間も勉強してるんだから、当たり前なのかもしれないけど」

「それは……」

「並大抵の努力で出来ることじゃない。2位の俺が1番よくわかってるよ。綾乃は、本当に頑張ってる」




もっと、もっと頑張らなきゃって。私の努力が足りていないって、才能がないって、ずっと自分ばかりを責めてきたけれど。

本当は、こんな自分のこと、自分が1番に認めてあげなくちゃいけなかったのかもしれない。

浩平だって。学年2位をとり続ける勉強量は並大抵の努力じゃ敵わないこと、私がいちばんよくわかってる。それに、浩平はそれだけじゃない。毎日ドラムの練習をして、バンドを続けるためにバイトをして、その間を縫って勉強も。


……勉強だけしている私なんかより、ずっと、ずっとすごいよ。



「浩平も、だよ」

「え?」

「誰よりも努力してる、その姿勢に、きっとみんな惹かれてるんだよ」




私も、怜も、領も。浩平がメンバーを信頼しているように、私たちも浩平のこと、大切なんだ。




「……綾乃はいい奴だよね」

「いい奴?」

「うん、……俺、第三者にはなりたくない、かも」

「第三者?」

「こっちの話」




言葉の真意がわからなくてきょとんと首を傾げたけれど、浩平はやさしく微笑むだけだった。



夏合宿が終わっても、みんなで集まって毎日数時間でも練習をした。もちろん予定が合わない日もあるので、そういう日はそれぞれ個人練習。

私も、お母さんが家にいない時間を狙って発声練習や滑舌をよくする舌の運動、音程をきれいにとるための音感トレーニング、ひとりでもできることを領に教わった。お風呂の中や階段付近は、自分の声が響いて歌っているのが気持ちいいってことも。

3人の伴奏と合わせる度に、自分の声量や技術力のなさに情けなくなるけれど、そんな私に3人は決して嫌な顔をしない。

音程を間違えても、歌詞を間違えても、タイミングやリズムがずれても、どれだけだって、何度だってやり直していちからちゃんと教えてくれるの。



『綾乃の声は本当に綺麗だし、何より領のギターの音色にいちばんマッチしてる』


浩平がこの間そう言ってくれたな。


『綾乃、自信持って歌えばいいんだよ。オーケストラで言えば、綾乃は指揮者なんだ。俺らはね、綾乃が気持ちよく歌えるように、どれだけだって合わせてやる。信用して』


領はそう笑ったな。



『ワタシのベースに合わせられんの、この2人だけだと思ってたケド。綾乃の歌声、合ってんのよ、うちらのバンドに必要』


怜はそうやって、私の頭を撫でてくれたな。


こんなふうに、自分を認めてくれる場所、今までなかった。そんなことに、毎日涙が出るくらいうれしくて、どうにかして、はるとうたたねの、必要な1人になりたいって、私思ってるんだよ。






「いい朝だなー! バンド日和!」

「なんじゃそら」



領がぐいっと空に向かって両手を伸ばす。呆れたように笑う怜のツッコミもお構いなしだ。



「綾乃、緊張してる?」

「う、うん……」

「ガッチガチだなー、もっと気楽でダイジョーブだって!」




朝早く、借りた小さなスタジオに集まって最終打ち合わせを済ませた。何度も歌った既存バンドのコピー曲と、領が作詞作曲したはるとうたたねオリジナル曲のふたつ。


───そう、ついに始めてのライブの日がやってきた。


歌うのは2曲、時間にしたら15分にも満たないけれど。




「綾乃、初ステージだもんなー」

「領は無邪気すぎだ」

「浩平がいつも冷静すぎるんだろー?!」

「ハイハイ、時間ねーからサッサと行くよ」




怜のひとことに「はーい」と領が返事をしてスタジオを出る。本番まであと数時間、まずは会場へと向かわなきゃ。


実は、昨日から緊張が解けない。毎日練習してるとはいえ、ひとりで人前で歌うのなんて人生で初めてのことだ。




「つーか、その前に衣装でしょーが。ウチが綾乃のことめっちゃかわいくすっから」



怜が誇らしげにそう言うと。



「それもそうじゃん! たのしみだなー」



と無邪気に領はわらう。上機嫌だ、きっとステージに立つのがすごく楽しみなんだろうなあ。






「んじゃ、急ぐよ綾乃」



そう言って怜が見上げたのは、電車を乗り継いでやってきた、今時のオシャレ女子が集うショッピングビル。最近近くにできたんだってクラスの子が言っていたのを聞いたことがある。人気のファッションやコスメブランド、女の子が好きそうなカフェがそろっている。

本番まで数時間なのに大丈夫なのか尋ねると、領は笑って「もちろん!」と言ってくれた。本番前に練習しすぎるのもよくないんだとか。緊張しないように、こうして楽しいことをして過ごすことが多いみたい。




「綾乃は綺麗な黒髪だから、黒がいいと思ウンだよねー。綾乃はなんか好きな系統とかあるん?」

「私こういうの疎くて……全部怜に任せる」

「んじゃ、黒がベースな!」




怜のこういう強気な喋り方も、頼りになるところも、同じ性別なのにすごくカッコいいと思ってしまう。

一見派手な見た目をしているけれど、自分に似合うオシャレを貫いているんだろうなあ。

だって、こういう話をするときの怜は、バンドの話をするときと同じくらい生き生きしていて輝いてる。



「つーか、オマエらは邪魔だからどっか行ってろ」



怜はふたりにそう言ってひらひらと手を振った。やれやれと肩を落とす浩平と、「オッケー!」と嬉しそうな領。

私と怜が衣装を選んでいる間、領と浩平はショッピングビル内のファストフード店で待っていることになった。





とは言っても無限に時間があるわけじゃないので、怜おすすめのお店を早足でぐるぐると回った。考える暇もなくあれもこれもと鏡の前で合わせたり、試着したり。そのどれもが可愛くって、こんな風に自分の見た目に気を使ったことなかったな、と思う。


「いいなー綾乃は。なんでも似合う」

「ええ?! 怜のほうが背も高くてスタイルも良くて綺麗で、何でも似合うよ、」

「ありまえだろ、努力してんだから」


怜は決して褒めても謙遜なんてしない。ベースもお洒落も、自分が好きで努力している事に対して真摯だ。


「つーか、キレイと可愛いは別物なんだよ、覚えとけ」

「ハイ……」


言われるがまま、怜が持ってきた服を次々に試着して。気がついた頃にはすでに1時間が経過していた。


「うん、コレにしよ。サイコーにカワイイ」

「うん……かわいい、」


鏡に映る自分を見て、思わず頬が緩む。好きな服を着て、心があたたかくなるのなんて初めてのこと。

私が試着している間にお会計を済ませてしまった怜は、「次行くよ」と私の手を引く。お金は今まで貯めてきた私のお年玉やらお小遣い。友だちもいないし使い道もないから、今までの分がほとんど貯めてある。


「次は髪な。ココ、ドライヤーとか貸してくれる店あっから。行くぞ」


初めて着た、真っ黒なミニ丈のワンピース。制服のスカートより短いものを身につけたのは初めてだ。白い靴下と厚底のローファー。確かに、服がこんなに可愛いのに髪は毎朝適当に整えているストレートのまま。

トイレのメイクルームに連れられて、借りてきたドライヤーとコテで巻髪を作っていく。前髪もくるんと巻いて。軽くパウダーをつけて、ピンクのアイシャドウに目尻のライナー、睫のカールにマスカラは忘れずに。ハイライトとチークをそろえて軽くリップを塗ったら完成だ。


真っ白だったケーキがデコレーションされていくみたい。信じられない。自分じゃないみたい。



「よし、完璧」

「怜、すごい……自分じゃないみたい」

「当たり前じゃん?ウチがプロデュースしてんだからさ」

「ありがとう、うれしい、」

「綾乃はかわいーんだから、素材活かさなきゃ損っしょ」



さあ急ぐよ、とまた怜に手を引かれて。待っている二人の元へ走る。時々窓や鏡に映る自分が信じられなくて、何度も頬が熱くなった。





「ジャーン、どーだ、超かわいくなったろ?」



ファストフード店へと急いで、領と浩平の前に私を差し出す。背中をトンと押されて思わず前のめりになったところを領が咄嗟に支えてくれた。



「領ごめん! もう、怜押さないでよー…」

「いーじゃん、コイツら見てみなよ」

「ええ……」



ちらりとふたりを見ると。領と浩平は、目を丸くして私を見て、それから同じタイミングで視線を逸らした。



「ほら、照れてんだよコイツら、カワイーね」

「照れてる?」

「綾乃がカワイーから。な、そーだろ」



怜の言葉に視線を戻した領の頰は心なしか赤く染まっている。



「ほんとにカワイーからどうしようかと思ったー、綾乃、めちゃくちゃ似合ってる!」

「ありがとう……」



かわいい、なんて言い慣れていないからどうしたらいいかわからない。お世辞だってわかってるけど、面と向かってこんなふうに言える領はすごいな。



「コーヘーは?なんかないの?」



怜がそう浩平に詰め寄ると、視線をこちらに向けてから「……うん、可愛い、似合ってる」と小さくこぼした。



「あたりまえでしょ? このアタシがプロデュースしたんだからな」



どや顔でそう言う怜には頭が上がらない。今後の私服も全部決めて欲しいくらいだ。



「えっ、と、怜、選んでくれてありがとう」

「ウン、ウチも楽しかった。またかわいくさせて」



いいなあ、こういうの、女の子同士の楽しみみたいですごくたのしい。怜がうれしそうで、わたしもうれしいよ。




【はるとうたたね】


殴り書きでそう書かれた白い紙が、雑にセロハンテープで貼られている。

大きいビルの地下一階。ライブ会場舞台裏の奥の奥の廊下の突き当たり。狭いけれど、バンドごとに控え室がある会場はかなり珍しいらしい。もちろん、学生バンドの学生ライブだからこそだけれど。


「芸能人みたい……」

「はは、ゲーノージン! なれたらいいけどねー」



領の声にみんな笑う。

何組もの学生バンドが集まって主催されているこのライブは、何ヶ月かに一度開催されるイベント。来客は友人や家族が多いけれど、人気バンドにはファンがいたりするらしい。



「はるとうたたねにもファンがいたりする?」



わたしの問いに、「あー」と怜が手を止める。



「ファンつーか、応援してくれてんのは領の友達とかが多いな。アイツほんっと顔が広いから」

「なるほど……」

「あんだけフレンドリーで顔もいいし、本当に領のこと好きな女子も多いだろうけどね」

「そ、そうなんだ」

「ま、でも基本は知人ってわけ。うちらの目標はできる限り多くのファンを作ること。やるからには大勢に聴いてほしいじゃん?」

「そうだよね」



ライブ会場は、決して広いとは言えないけれど。

私にとっては、すごく大きな場所に思える。


ここで、歌う。


他のボーカルと並んで、下手だって思われないかな。私の歌なんかを、聴いてくれるんだろうか。

不安と緊張で押しつぶされそう。うまくいかなかったら、って、そんなことばかり頭によぎってしまう。

ぐっと手のひらを握ると、横から領に肩をポンッと叩かれた。




「綾乃、大丈夫、やれるよ」





わたしだけに聞こえる声。

同じ部屋にいるけれど、きっと浩平と怜には聞こえなかったと思う。

わたしが緊張していること、不安に思っていること、気づいてくれていて。その不安を2人にまで伝染させないようにしてくれてるんだ。


領がにこりと笑う。



───『大丈夫、やれるよ』



領の言葉は、なんでこんなに説得力があるんだろう。頼れるリーダーだから。いつも1番近くで練習に励んできたから。でもそれだけじゃない。

誰よりもギターが好きで、誰よりも音楽が好きで、誰よりもバンドが好きで、誰よりも努力している領だからこそ。


彼の見ている世界を、ほんの少しだけでも、一緒に見てみたいと思えた。


さっきの不安は、一気に吹っ飛ぶ。だって、私だって、この夏ずっと一緒に頑張ってきたんだ。

努力だけは、誰にも負けない。才能なんてなくたって、コツコツ頑張ること、ひたすら努力すること、それは誰よりもわたしの得意分野なんだから。



やれる。
 

───やってやる





「spring nap……」



ふと、パンフレットを見る。パンフレットといっても、A4の紙に今夜でるバンド名がずらりと並んで書いてあるだけだけれど。


spring nap───はるとうたたね。




「あー、ひらがな表記にしてって言ったのに英語になってる」

「英語でもひらがなでもいいの?」

「基本はひらがな、たまーに英語、気分だよ」

「気分なんだ……」

「俺は季節の中で春がいちばんすき。たくさんの人に出逢えるから」

「領はすぐ友達になれるもんね」

「まあそうだけど……」




バンド名の由来、そういえばあまり聞いたことがなかったな。

話している間に怜がピッチ調整に入ったので、領もギターを片手にそちらへ向かう。そういえば以前領はチューナーよりも自分の耳の方が正しいと言っていたな。絶対音感があるらしい。

ベースと合わせて最終調節。私もギターに音を分けてもらう。領が奏でるギターは誰よりもやさしい音色をしている。




「次の次にはるとうたたね入りまーす、最終準備おねがいしますー」




楽屋まで呼びにきたスタッフの声に身が引き締まる。ちらりと3人を見ると、全員私を見ていた。まるで「大丈夫だ」って言っているみたいに。


───本番は、目の前だ。





「じゃあいつもの円陣いきますか」

「いつもの……?」

「これから"いつもの"になるんだよ」

「はい輪になってー」




領の掛け声にあわせて、肩を組んで円陣を組む。




「んじゃ今日も、サイッコーに楽しみましょう!」

「はーい」

「うん」

「は、はい……!」


「「「おうっ」」」





最後の声出しとでも言うようにタイミングよく3人がそう大声をだして足を踏み出した。びっくりしたけれど笑う3人を見てつられて笑う。

わたし、やっと一員になれるね。



スタート、初のステージだ。







場面転換のため、スポットライトの消えた暗いステージへと足を進める。暗くても、すぐそこに観客が大勢いるのは肌で感じる。会場内はすごい熱気で溢れている。


セッティングし終わると、明かりがつくカウントダウンがすぐに始まる。

裏方の人が右手を挙げて5本指をひとつずつ折っていく。




「綾乃、」




ボーカル、ステージのど真ん中。横にいるのはギターの領。ピッチ合わせに少しだけ音を鳴らして、私へと合図する。今日歌う最初の曲の、最初の一音。



ラスト1本の指を折る。ステージの明りが灯る。──浩平のドラムを合図に、イントロがはじまる。


マイクを持つ手に力をいれる。どうしよう、練習と全然違う。

聞こえてくる音も、会場の雰囲気も、自分自身のコンディションも何もかも。観客からの歓声と、ホールの反響、会場の熱に飲み込まれる。飲み込まれてしまう。

自分の手が震えているのを感じて、ぎゅっと目を閉じる。



───『大丈夫、やれるよ』



聞こえたのは、楽屋で言われた、領の声だ。


ぱっと目を開くと、さっきよりもクリアに周りの音が聞こえた。



勢いに乗せて、普段よりも少し早いテンポでリズムを刻む浩平のドラム。

それに合わせるようにベースが間をとって、領のギターはいつもよりも気持ちよさそうに伸び伸びとイントロの旋律を奏でていく。




────聞こえた、歌える






すっと息を吸い込んで、最初の一音を声に出したらもう迷いなんてない。


たくさん練習したんだ。初心者の私に合わせて何度も何度もギターを弾いてくれた領。メトロノームのように正確なリズムを刻んでくれる浩平と怜。どれだけだって練習に付き合ってくれて、いつだって私の声が一番「はるとうたたね」の音に合っていると言ってくれた。


3人が奏でる音楽に沿って歌う、私の声。


今まで、人前に出ることなんて嫌いだった。ましてや、音楽なんて大の苦手科目。人前で歌うことが、私の人生にあるだなんて思わなかった。




それでも、今この瞬間。

このライトの下で、このメンバーで、音楽をつくることが、こんなにも楽しくって、こんなにも心が震えるなんて、信じられない、幻みたいだ。





「今日はありがとー! 次は夏フェスで!」


観客席に向かってそう叫ぶ領の声とともに、浩平のドラムが終わる。気づけば全曲歌い終わっていて、全身汗だく、喉もからからだ。時間にしたら数十分。だけど、ステージの上がこんなに暑くて時間が過ぎるのは一瞬なんだって、初めて知った。


ふと見上げた先。───そこにはさっきまでとは全く違う世界が広がっていた。


まるで光がはじけ飛んで、しゃぼん玉のように浮遊しているみたい。観客席ひとりひとりの顔がしっかりと見える。満面の笑みで手をたたく人、さいこうだった、アンコール、と汗だくで声援を叫ぶ人、両手で顔を包んで涙を拭いている人、まっすぐにこちらを見てきらきらと目を輝かせている人。


───きれい、だ。


小さいころに見た夕暮れの海より、帰り道に見かけた雨上がりの虹より、誰かが称賛した芸術作品より、あの日見た授業中の空より───ずっと、





きれいだ、この景色が、世界で一番きれいだ。










場面転換のため舞台が暗くなる。それでも尚歓声の声は止まない。各バンドに制限時間があるからアンコールには応えられないけれど、再登場の声は裏まで聞こえるくらい、ずっと続いている。


泣きそうだ。ううん、涙、止まらないや。



「はあ、つっかれたーー!!」


楽屋に戻ると、一番に領がそう叫んでぐっと拳を上にあげる。見渡せば三人とも汗だくで、やりきった、という表情。澄んでいて、晴ればれとして、誰よりかっこいい。3人が、いちばんかっこいいよ。



「え、てか、綾乃泣いてんじゃん」

「え、」

「…初舞台だしね」



三人が私を取り囲む。よしよし、と怜が頭をなでてくれると、領も浩平も笑った。



「大成功、だな」



浩平がTシャツで汗をぬぐいながら言う。泣いている私の気持ちを、三人とも何も言わなくてもわかってくれたんだろう。



「うん、もちろん! 綾乃の初舞台、大成功!」



領の声にあわせて、浩平と領は宙で手を合わせる。


ねえ、すごいね。


世界って、こんなにも輝いてたんだ。

私は今まで、何も知らずに勉強だけで生きてきた。「1」の文字以外で自分を満足させられるものなんてないと思っていた。それ以外すべて価値なんてないものだって。


だけど、それだけじゃなかった。


順位とか、1番とか、そんなことどうでもよくなる世界がここにあった。




教えてくれたのは、ほかでもない、「はるとうたたね」───3人だ。






初ステージから早3日。あの日の興奮が抜けきらないまま、寝られない日の夜のような毎日を過ごしている。



───だって、今でも覚えている。



あの感覚。ステージの上に立った時の高揚感。歌っている間の夢のような気持ちよさ。歌った後の達成感。観客からの歓声。したたり落ちる汗。いつもより響くホール。反響して返ってくる自分たちの音楽。3人の輝いた笑顔。


リズム、メロディー、バランス、すべてがそろって、ひとつの音楽になっていく。ひとつの曲になっていく。



【はるとうたたねヤバくね?】
【新ボーカル、女子だから舐めてたけど最高だった】
【声がいいよね】
【正直今回ダントツ】
【もう一回聴きたい】



───【はるとうたたねの新ボーカル、あやの、最高】



ライブ会場のホームページにある掲示板。一昨日から書き込みが止まらないと運営から連絡があった。覗いてみて、そう書かれたコメントがあった時、涙が出そうだった。



私の歌を聴いてくれる人がいて、

覚えていてくれる人がいて、

応援してくれている人がいて、



前の自分が今の自分を見たら、きっと信じられなくて目を瞑ってしまうようなことばかりだ。







「すっごいよ、綾乃。再出場の以来が止まらないって!今までこんなことになったことない!」


この間のライブ主催者からかかってきた電話を終えると、領がケータイを片手にそう言った。

私たちはまだ、あの時の興奮がおさまらないでいるけれど。

聞いてくれていた人たちも同じ思いだと思うと、ますます心が熱くなってくる。領の目も信じられないくらいまるくなっているし。


「だってすごかった、あんな歓声あびたの初めて」


浩平がそう言えば。


「ウチも超びびったつーの。つーか、ウチらも自分自身で一番達成感あったしな」


怜もそう言う。


「私も……人生で1番、楽しかったかも」


私がそう言えば。


「俺も!ライブのたびに毎回、人生で1番を更新してくんだよ!」


領もそう言って笑う。

そういえば、領がライブの前に円陣で言っていたな。 『楽しんで』と。


ステージの上で、誰よりも1番いい景色を見させてもらった。だからこそ、楽しいという思いが強く残っていて。それをメンバーや観客に共有できたことが、何より嬉しいんだ。


そして、あのライブ以来、私達の絆はずっと深まった気がした。



「ていうかどうする? 噂を聞きつけたフェスやらライブ会場やらサークルやらから10個くらい出演の依頼があるんだけど」

「まじで? 普通はこっちから頼むもんなのにな」

「ええ、じゃあこんなに出演依頼がくるってすごいことなんじゃ……」

「すごいよ、綾乃今気づいたの」



浩平の呆れた顔に苦笑いしつつ、興奮はやっぱりおさまらない。今すぐにでももう一度あのステージに乗りたいくらいだ。


「うーんと、まあ、主がそこらへんでやってるイベントとかフェスとか学生合同ライブとかだけど……」

「けど?」

「一個信じられないのが来てるんだよねー……」

「え、何?」



怜も浩平も領に視線を向ける。もちろん私も。

その集中した視線に苦笑いしながら、領はFAXで送られてきた出演依頼の紙を私たちへと差し出した。


「b-station、地方限定だけど、学生バンドをとりあげてるテレビ番組」


そう聞いたとき、きっと私だけじゃなく、他の2人も目が点になっていたことだろう。自分の目を疑いたくなったくらいだ。鳩が豆鉄砲をくらったようになるとはまさにこのこと。



「「テ、テレビーー!?!」」




『b-station』

まだデビューしてない歌手や学生バンドなど、夢を追いかけるアーティストたちをゲストに呼んで、何曲か曲を披露できる。評判がいいとデビューまで導いてくれるんだとか。あくまで噂だけれど。

もちろん、出演したとしても素質がないと判断されたらそれで終わりだ。出たからといって全員が有名になるわけじゃない。むしろこの番組から発掘されたスターたちはほんのひと握りだ。

けれど。


───この番組からスタートした有名アーティストは、少数だけれど確かにいることも事実なのだ。


デビューまでサポートしてもらえるのは、ほんの一握り。そんなことわかっている。

1時間の番組の中で、だいたい毎回3〜5組が紹介される。その中で断トツ目立つくらいじゃないと無理だ。それも理解してる。


だけど、純粋に、本当にすごいことだって、きっとみんな自分たちを褒めてあげたいの。



「ホントすごいよね」

「信じられない」

「実はさ、あのライブの時に、いたらしいんだよね」

「いたって、誰が?」

「あの有名レコード会社の副社長、武田って奴が!」

「……武田?」



領の言葉にはてなマークを浮かべると、3人が揃ったように肩を落とした。聞いたことない名前なのに、有名人?



「あんね、うちらの世界では武田ってチョー有名人なの」

「そ、そうなの?」

「日本でいちばんでかいレコード会社の副社長。副社長とは名ばかりで、実権を握ってるのは全部武田ってやつなんだとか」

「社長は高齢らしくてね」

「武田にプロデュースしてもらったアーティストはもれなく全員ミリオン達成のスターに成長する。コネや圧力もあるかもしれないけど、何より武田の音楽センスとプロデュース力、それからスターを見つける目は群を抜いてるって」

「そんなにすごい人なんだ……」


怜の説明にごクリと唾を飲み込む。あの会場にそんな人がいたなんて……タイミングも含めて実力というけれど、今回ばかりは出来すぎている。運が良かった。



「それでさ、実は……」

「なに?領、まだなんかあんの?」

「あのライブの日、廊下で知らないおじさんに話しかけられてさ。深く帽子被ってて、マスクもしてたから顔はよくわからなかったんだけど、」


2人の唾を飲み込む音が聞こえた。私も釣られてごくりと音を立てる。



「『スターになる気はあるか?』、って、ただそう一言聞かれて。おれ、『気があるんじゃなくて、なりますよ』って、興奮抜けきらないまま強気に言っちゃってさ……」



怜も浩平もポカンと口をあけてそのまま固まっていた。わたしは言葉が見つからない。


「え、それって……」

「.うん、たぶん、あの時はわからなかったけど……」

「まさか、」


「───声、かけられたんだ、武田に」



また、2人が目を丸くして固まる。嫌でもそれがすごいことなんだとわかってしまう。音楽をしている人たちにとって、夢のようなことなんだろう。



「目、つけられたってこと?」

「そうかも、しれない」

「ウソだろ……」

「まって、ウチほんとに信じらんない」

「それがマジなんだよ、こんな嘘つかないよ、おれ」

「いや、領が嘘なんてつかないのはわかってんだけど、頭が追いついてねーんだよ!」

「俺も怜に同感……」



話のついていけない私は、とりあえず一人で正座。きっと、他の3人には、すごくて嬉しいことなんだろうな。夢、なのかもしれない。音楽で生きていくこと、好きなことを追い続けていくこと。





「でも、b-stationのプロデューサーとか主催とか企画とか、関わってる人間の名前色々調べたけど、武田の名前はなかった」

「なんだよ、」

「だけど、武田と繋がりがあるって言われてる奴が運営にいるらしい、」

「え、まじか」

「掲示板で見たんだけど、コネでb-stationに出演させて、素質があると思ったら武田に拾われていくんだって。つまり、試してる」

「もしかしたら武田が俺らを見つけて、この番組に出るよう仕向けたのかも」

「てことは、お手並み拝見ってこと?」




番組の中で評価を得るには、運営からの指示もそうだけれど、視聴者の声ももちろん大事だ。わたしたちがテレビに出演して、世間の目にどう映るのか。

武田さんはもしかしなくても、領の言うとおり私たちを試しているのかもしれない。



「てかさ、この番組って参加者募集して、その中から出演者が選ばれるんじゃなかった?主催者から呼ばれるなんてことあんの?」

「それが呼ばれてるんだよ、すごいことだよ」

「すご……」



ここまできて、私もやっと話に追いつけたような気がした。武田さんは、有名レコード会社のすごい人で。そんな人がたまたまあのライブ会場にいて、私たちに目を付けて、テレビの出演依頼を送ってきた。


なるほど、考えてみたらすごいことだ。


だってそれは、私たち「はるとうたたね」が、もしかすると芸能人になるかもしれない、ってことだ。





『b-station』の出演依頼日程は幸いにも文化祭の次の日だった。日付が1日ずれていたら文化祭には出られないところだったかもしれない。

この依頼を受ければ、全国とはいかなくても確実にこの地域のテレビでは放送されるだろう。いつも何気なく見ている箱の中に一瞬でも自分が映るかもしれない、と思うとなんだか急に怖くなる。


「はるとうたたね」が有名になる───かも、しれない。


3人が心の底から喜んでいて、私も嬉しい。うれしいけれど……。

正直、迷いもある。というか、実のところは全然、私は覚悟を持っていないのかもしれない。


領に「バンドやらない?」と言われた日、「文化祭でお母さんに歌っている所を見せる」と決めたけれど。

それがゴール、じゃないのかもしれない。それは、3人とバンド練習をするようになって頭をよぎって、この間ステージに立った時には確信にかわっていた。私は「はるとうたたね」のボーカルとして、やっていきたいって。


けれど──どこまで?


領や怜は元々音楽が好きで、将来もそれで食べていこうと思っている人たちだ。浩平は医者になるという家庭の事情があると言っていたけれど、音楽で見返してやりたいとも思っているみたいだ。みんなそれぞれ、覚悟をもってる。


───じゃあ、私は?







夏休みが終わるまであと一週間。

たくさんの出演依頼をもらった私たちは、夏休みということもありイベントやライブ会場にたくさん出させてもらった。回数を重ねる度に、見たことのある顔が増えていく。リピーター、即ちファンができているんだ。



「綾乃ーコレで全部だっけ?」

「うん、これで大丈夫かな」

「よし! じゃー帰ろっか!」



今日も今日とて、領の家で朝から練習。途中、休憩時間に小腹がすいたのをいいことに、夕方からみんなで鍋パーティーをすることになったのだった。

じゃんけんで負けた私と領が買い出し係。近くのショッピングモール地下食材売り場へ。

メモに書いてきた必要食材はすべてそろったので、お会計を済ませてエレベーターを待つ。夕方のこの時間はやっぱり混んでるなあ、人集りがすごい。


買った物はすべて領が持ってくれた。こういうところ、男の子は優しいなあと思う。

チン、という音がしてエレベーターがやってきた。扉が開いてびっくりする。中が人でいっぱいだからだ。



「わ、混んでるね……」


数人降りたので乗れる隙間があるけれど、私たちの後ろに並んでいた人が半ば強引に詰め寄ったのでエレベーター内は人で溢れかえって身動きがとれない。


「綾乃ここおいで」


どうしよう、と固まっていると。ふっと肩を引き寄せられて、私はエレベーターの角にストンと収まる。領が私の肩を引いてくれたんだ。

ふと顔を見上げると。

私より幾分か背の高い領が、壁に両手をついて身体を支えていた。つまり、領の腕の中にいる体制だ。私のためにスペースをとってくれたんだろう。

やさしい、やさしいけど……すぐそこに領がいると気づいた途端、鼓動が信じられないくらい早く音を立てる。


だって、こんなに近くにいたこと、ない。





「さすがにこんなに混んでるとは思わなかった」


小声でそう言った領の吐息は、私の前髪に直接あたった。それくらい近いってこと。もちろん、顔を上げられるわけない。

至近距離すぎる。心臓が爆発しそう。なんでかなんて、わからないけれど。

頬が熱い。なんだろうこれ、おかしいよ。胸の音が領に聞こえたらどうしようって、そんなバカなことを考えてしまうくらい。


「ん? 綾乃どーしたの?」


そんな私に気づいたのか、領が小声でそう問いかけながら、左手で私の髪を耳にかけた。「顔真っ赤だけど、大丈夫?」なんて、気の抜けたことを聞いてくる。


領の周りに本気で彼に恋をしている女の子が多い理由がよくわかる。無自覚たらしなのかもしれない。


「いや、なんでもない、早く着かないかなって、」

「……そーだね」

「あの、ありがとう、スペース作ってくれて」

「綾乃、押しつぶされそうになってたもん」

「人混みに慣れてないのかも……」

「うん、ていうか、知らない人と接近されるの、俺がいやなんだよねー」

「え、?」

「こっちの話だけどね」


あと、綾乃の髪の毛いつも綺麗だよね、と。なにやら褒める言葉を並べていたけれどあまり耳には入ってこない。

ふわふわした気持ちになる。感じたことのない感情だ。胸の奥がぎゅっと締め付けられて、頬や手指が熱い。なんだろう、これ。

全神経が、領がいる側に集まっているみたい、わたし変だ。


そう思った瞬間、エレベーターが目的の階に着く。たくさんの人が降りていったので、私はやっと領の腕の中から解放された。ほっと息をついて、さっきまで上手く息が吸えていなかったことに気づかされる。



「じゃ、かえろっか」



いたって普通の様子の領に、ぎこちなく笑い返した。領にはこんなこと、日常茶飯事、なんだろうな。






買い物を終えて領宅に戻る途中。行きはバスに乗ったのだけれど、領が「ちょっと歩かない?」と提案してきたので徒歩で帰ることになった。


夕暮れ、オレンジ色の道、夏の終わり。


友だちと買い物に行くとか、一緒に登下校するとか、そういう当たり前のことを今までしてこなかったおかげで、今この一瞬一瞬がすごく貴重な物に思えてくる。



「綾乃はさー」

「うん?」

「……b-station のことどう思ってる?」

「え、」



二人の陰が並んでいるのに視線を落とす。長い影、ふたりぶん。

珍しく真剣な領の声に、少しだけ驚く。



「いや、ちょっと気になっててさ」

「気になる、っていうのは?」

「俺が無理矢理バンドに誘ったようなものだし、テレビに出たら少なくとも今よりは有名になって、ファン、とかももっと出来はじめると思う」



有名になって、応援してくれる人が増えていく。嬉しい反面、その分責任感もプレッシャーも増えていく。積もっていく。



「俺はね、綾乃。父さんも母さんも学生時代に軽音部で、音楽にちゃんと理解があって、例えば今回のことは、俺にとっても家族にとってもむしろ喜ばしいことなんだよ」

「うん……」

「でも、全員がそういうわけじゃない」



それは、私や浩平のことを言っているんだろう。



「怜はさ、ああ見えておばあちゃんっ子で、結構フリーな家庭だからやりたいことやってるって感じなんだ、でも多分本気でバンドやりたいと思ってる」

「うん、わかるよ」

「浩平の事情は知ってると思うけど、多分あいつも、俺らと同じ夢を見てるって、見たいって言ってくれると思う。まだちゃんと聞いたわけじゃないけど、きっと」



───俺らと同じ夢



「……綾乃は、どう思ってる?」



ふと、横を見上げると。

いつも楽しそうに笑っている領が、いつになく真剣な目をしてこちらを見ていた。

向き合ってくれているんだ。私はこれに、きちんと返事をしなきゃいけないんだ。



「私、は、」

「もし、テレビに出て、デビューが決まったら? デビューまでとは言わなくても、事務所に入ることになったら? 想像以上にファンがついたら? って、そんな夢物語のようなこと、あるかわかんないけど、」

「うん、」

「おれは、おれらはね、綾乃、……はるとうたたねは、綾乃がいないと成り立たないって、そう思ってる」

「……うん、」

「でも、それは、強制じゃないんだ、綾乃の意思があって、綾乃の将来があって、……進むべき場所は、綾乃が決めるべきで、」



わかってるんだけど、と領が続ける。どうしよう、泣いてしまいそうだ。



自分のこと、こんなにも必要としてくれる場所があったこと、わたしきっとどんな選択をしたって一生忘れることなんてできないだろう。




「すぐにじゃなくてもいいんだ、もし、そのときがきたら、でもいい。……少しだけ考えておいて欲しい、俺らとバンド、続けるかどうか」





うん、そうだね。

文化祭がゴールじゃない。それは私も思っていたことだ。できればずっとこのまま、3人とバンドを続けていきたい。もっと歌が上手くなりたい。ステージに何度だって立ちたい。みんなの夢、一緒にかなえたい。



───だけどそれは、また、家族の期待を壊すことになる。



何度も期待を裏切ってきた。今度こそは、今回こそは、そう言って何度も、本番で躓いて、上手くいかなくて、なんの期待もかけられなくなった。

いい成績をとることが当たり前、いい大学に行くのが当たり前、いい会社に入っていい人と出会って結婚して、そんな理想像、成功者の"あたりまえ"を形成されているこの国で、レールを外れて人と違う道を選ぶことは至極勇気がいることだ。


今だって、自分は出来損ないで、人より多くの努力をしなきゃ、親が思う"あたりまえ"のレールには乗れやしない。


何度も失敗したからこそ、1番の成績をキープして、いい大学に入りたい。今度こそ、お母さんに失望されたくない。───あの頃みたいに、笑って欲しい。


根本的にある自分の想い。気づかないふりをしていたけれど、きっとそう。


本当は私、ずっと、認められたかった。


ずっと、お母さんにまた笑って欲しいと思っていた。




「……返事、ちゃんとするから、ちょっと考えてもいいかな、」

「うん、もちろん、ごめんねいきなり」



しょぼん、と肩を落としたように口をつぐんだ領はもうすっかりいつもの領だ。



「ううん、私も考えてたから」

「そっか、」

「でもね、わたし、今ひとつだけ言えることは、ね」

「うん?」

「……領に出会えて良かった。あのとき声をかけてくれて、本当にありがとう」




世界がかわった、きみが手を引いてくれたから。

あの日から突然、私の世界は廻りだしたんだよ。




「うん、おれも、綾乃に出会えて良かったって、心から思ってるよ」




はるとうたたねで見せて貰ったこの夏の思い出は、きっと勉強だけしていたら絶対に経験できなかったことなんだ。

今までの私だったら、誰かの気持ちにふれあえること、こんな風に涙がでそうになること、うれしいの最大級を、知ることなんてきっとできなかったよ。



はるとうたたね に出会えて、本当に良かった。