10
叩かれると思ったときにはもう遅かった。
右頬に強烈な痛みが走った。口の中がほんの少しだけ血の味がして気持ち悪い。
大学三年生を目前に控えた春。本日をもって、一年ほど付き合っていた彼女と別れることになった。
別れを切り出したのは僕の方。理由は彼女が浮気をしていたから。どうやら僕があんまり構ってやらなかったのが原因らしいのだが、どうして僕が叩かれたのだろうか。あまりにもの理不尽さに怒りと呆れが同時にやってきて、どうしようもなく溜め息が出てしまう。
男なら彼女のたった一度の浮気くらい寛容な精神を持って許せという意味だったのだろうか。いや男女関係なく浮気は駄目だろ、常識的に考えて。
じゃあ何だ。「浮気させてごめん」と僕に謝って欲しかったのだろうか。いやいやどんな理由であれ浮気を正当化しようとしたら駄目だろ、倫理的に考えて。
とにかく、僕の一年に及ぶ恋は彼女の浮気によって呆気なく終わった。
「今回はいけると思ったんだけどな」
さっき別れたのが大学に入って三人目の彼女だった。どの子とも何故か上手くいかず、結局別れてしまう。今回の子は一年も続いたから大丈夫かと思ったら、これだ。僕は女運がないのだろうか。悲しすぎる。
「まじで何なんだよ」
むしゃくしゃする気持ちと微熱を帯びた右頬を連れて、僕は久しぶりに一人で街を歩いた。
「あのさ、落ち込むたびにここに来るのやめて欲しいんだけど」
賽銭箱の横に座っていたのを早乙女にみつかった。
「いいだろ、別に」
どうせ暇なんだしという言葉はさすがに飲み込んでおく。
大学生になってから、ここは僕のお決まりの落ち込みスポットになっていた。ここの雰囲気が何となく好きだったし、早乙女に愚痴も聞いてもらえるという最強の場所だった。
「話し相手なら岡野くんがいるでしょ?」
「真にこんなかっこ悪いところ見せたくないんだよ」
いわゆる男のプライドというやつ。
「じゃあ結城さんは? 確か同じ大学だったよね」
「あいつに話せる内容ならここには来ないっての」
単なる話し相手なら結城でもいいのだが、僕が今したい愚痴の相手としては最悪だった。あいつに話したら傷口に塩と胡椒だけじゃなく、ハバネロにデスソースまで擦り込んでくるからもう二度と愚痴らないと決めた。
「もう、少しだけだからね」
その点、早乙女は何だかんだ言って僕の話を聞いてくれるから居心地が良かった。
「……また振られたの?」
「振られたんじゃない。僕が振ったんだ」
そこだけは間違えられたくない。振られたと振ったのでは天と地ほど差がある。
「てか、何でわかったんだよ」
僕がそう聞くと、早乙女は黙って自分の右頬を指した。
「ちょっと腫れてるから」
「……どうりで痛みが引かない訳だよ」
どうやら思っていたよりも強く叩かれていたらしい。あの怪力女。ちょっとは手加減しろよ。そんな悪口が次々と浮かんでくるけど、それくらい許して欲しい。だってどう考えたって被害者は僕だし。
「湿布とか貼っておく?」
「いいよ、これくらいすぐ治るだろうし」
治らなかったら、そのとき考えればいい。
「それで今回はどうして別れたの?」
「浮気されたんだよ。で、別れようって言ったらこの仕打ち」
「南波くんって本当に恋愛下手だよね。そうでなくても女心をわかってない人なのに」
「仕方ないだろ」
高二までずっとただ一人を追いかけていたんだ。そんなので恋愛経験値が溜まるはずもなければレベルだって上がるはずがない。
「だいたい早乙女はどうなんだよ」
そういえば早乙女の恋愛話を聞いたことがなかった。高校生のときからこの手の話をするのはいつも僕の方で、早乙女は僕の良き相談相手というポジションだった。
「私、女子大だから」
「……あっそ」
せっかく話を聞けるかもと思ったのに残念だ。
「そうだ。南波くんに見てもらいたいものがあるの」
「見てもらいたいもの?」
「ちょっと待ってて」
そう言って早乙女が何処かへと消える。
数分後、戻ってきた早乙女は小さなプランターを抱えていた。
「はい」
渡されたプランターを見て、僕は一瞬だけ息が詰まった。
「え、これって」
「うん。椿の花だよ」
そこには色鮮やかな椿が咲いていた。花を愛でるなんてしたことはないのだけど、今目の前にある椿はとても可愛らしくて、不思議と心が温かくなる。
「南波くん、喜ぶかなって思って」
「ああ、凄く嬉しいよ」
早乙女が僕や彼女を大切に思ってくれていることが、とても嬉しい。
「それに凄く綺麗だ。きっと育てた人が良かったんだろうね」
「そう言われると何か恥ずかしいんだけど」
早乙女の顔が少しだけ赤くなる。
「あ、ありがとう」
蚊の鳴くような声だった。でも表情は百二十点満点の笑顔だったから、気持ちは充分に伝わってきた。
「あの、南波くん。さっきの話なんだけど」
「さっきの話って?」
「私の、恋愛の話」
やや間があって。
「私じゃ駄目かな」
ぽつりと早乙女は言った。
「駄目って何が」
潤んだ瞳が向けられる。
「南波くんの次の彼女、私じゃ、駄目、かな」
「…………へ?」
二人の間に風が吹いて、僕はようやくその言葉の意味を理解する。
「はあ!?」
揺れた椿が、まるで笑っているようだった。