9

 最後の夜だからといって、特別なことは何もしなかった。今まで通り日が沈む頃に篠崎は僕の部屋からいなくなり、僕も引き止めたりはしなかった。普通に一人の夜を過ごし、朝を迎えてからまた二人の時間に戻った。
「おはよ」
「おはよう、篠崎」
 この朝の挨拶を篠崎に言うことも、もう二度と来ないのだと思うと少しだけ寂しくなった。でも以前のように押し潰されそうな気持ちにはなっていない。
「どうする? 行くには少し早いけど」
 約束の時間までまだかなりあった。遅くても一時間前に出れば間に合うのだけど、それを差し引いてもだいぶ余裕がある。
「結城と早乙女に会いに行くか?」
 結城は言わずもがな篠崎の親友な訳だし、早乙女ともそれなりに仲良くやっていたように見えた。そんな二人に別れを告げなくてもいいのか気になっていた。
「ううん、大丈夫。昨日話したから」
「昨日?」
 昨日って、僕が篠崎に会いに行く前のことだろうか。いやでも早乙女は篠崎が今日真と会うことを知らなかった訳だし、結城の姿も見かけなかった。というより他校の生徒である結城が簡単には入れるとも思えない。
 じゃあ一体いつ話したというんだ。
 答えはすぐに教えてくれた。
「夜、お泊り会したの」
「………………はい?」
「だから、お泊り会。桃花の家に三人で集まって」
 おいおいおいおい。ちょっと待て。僕はなるべく普通にしようと頑張ったのに、何で女子だけで楽しんでるんだよ。おかしくないか。
「洸基の話もしたよ。どんな話したか気になる?」
「どうせ悪口でも言い合ってたんだろ」
 これまでの僕の悪行を考えると、悪口以外に僕の話題なんて思いつかない。
「……さあ、どうでしょう」
「今の微妙な間は何だ」
 これはもう確定だろ。言われたってしょうがないことをしたけど、そういうのは悟られないようにして欲しい。
「ま、いつかいいことあるよ」
「意味わかんねえよ」
 こういう場合のいいことってろくでもないことの方が多い。
「とにかく昨日沢山話したし、お別れもしてきたから」
「ならいいんだけど」
 となると本当にやることがなくなった。思い出話に花を咲かせる、みたいなのは何だか恥ずかしい。
「あ」
 まだ一つやり残したことがあった。
「ノート返しに行かないと」
 黙って持ち去ってしまった訳だし、ちゃんと謝って返さないといけない。許してもらえるかわからないけど、このままという訳にはいかない。
「気にしなくていいのに。ていうか、あげるよ」
「いや篠崎は良くても、お前の親は良くないかもだろ」
 しかもその篠崎の意思は聞こえない訳だし。
「洸基ならいいと思うけどなあ」
「そうかもしれないけど」
 けど。
「ちゃんとけじめをつけたいんだ」
 このノートが全ての始まりだから。これが最終的に僕の手元に残るのだとしても、一度は元の場所に返さないと僕がしてしまったことの全てを清算したとは言えない。
「……わかった。じゃあ午前中はノートを返しに行こう」
「ありがとう」
 荷物を持って部屋を出る。
 リビングでは父と母が朝食を食べていた。ちなみに僕は篠崎が来る前に済ませている。
「出かけてくるから」
 母の眉間に皺が寄ったのがわかった。
「出かけるって、あんた大丈夫なの? 最近引きこもってばっかりだし、この前も学校で倒れたばかりでしょ?」
 それは遠回しに駄目だと言っているようなものだった。仕方がないとは思う。このところ心配ばかりかけてきた。
 でも僕は。
「あのさ」
 緊張はもちろんしている。
 けどこれくらいの緊張。
「僕、もう大丈夫だから」
 篠崎に告白したときと比べたら全然平気だ。
「今まで色々迷惑と心配をかけてごめん。でも、僕はもう大丈夫だから。安心して」
 父と母が顔を見合わせ、目をぱちぱちとしている。その隙に僕は玄関へと行く。
「いってきます」
 僕は久々に家族の前でちゃんと笑えた。

 一連の流れを見ていた篠崎は満足げな顔をしていた。
「……何だよ」
「別に。かっこよかったなーって思って」
「それは良かった。実は最後にかっこいいところを見せてやろうと思ってさ」
 僕がそう言うと何故か篠崎は怪訝そうな顔になった。
「今度は何」
「……洸基ってそういうこと言う人だっけ?」
「お前はいい加減冗談って言葉を覚えろ」
 まあ全部が冗談だとは言い難いのだけど。
「これは独り言だから無視してくれていいんだけど」
 そんな前振りをしてしまったのは、これから話す内容がちょっとばかり気恥ずかしいものだから。誰かに語るのであれば照れの方が勝ってしまうけど、独り言だと思えば、これは自分が一人で勝手に吐露しているだけということにしてしまえば言えるような気がした。
「僕はずっと虚勢を張っていただけなんだ」
 弱い自分を隠すために、必死で自分を嘘で塗り固めた。
「僕は人に誇れるようなものが何もなくて、性格も全然良くなくて、思いつく気の引き方は意地悪をすることだけだった」
 それが小学生の頃の僕。
「中学生になってからは、なるべく優しくしようと思った」
 真に憧れて。でも真の前で急に態度を変えるのは何だか負けたような気がして嫌だった。それで真がいない間に変わってやろうと思った。
「結局、たいして変われなかったんだけどさ」
 自分のことなのに何だか笑えて仕方がなかった。
「けどきっとこれが僕なんだよな」
 変に背伸びしても、取り繕っても、意味がないのだとようやくわかった。
 誰かに憧れを抱いてそのようになりたいと思うのは悪いことではないと思う。人は成長する過程で自分のいらない部分を捨てていく。そうやって大人になる。ただそのときに無理に頑張るのではなく、自分のペースで歩んでいくのが大事なんだ。だって僕は僕でしかなくて、他の誰かではないのだから。
「僕は僕なりに自分との付き合い方を探していくよ」
「……うん、いいと思う」
 篠崎が嬉しそうに笑う。
「だから独り言なんだって」
 せっかくそういう設定で話をしていたのに、そんな反応をされたら結局同じじゃないか。顔に熱が集中していくのがわかって、余計に恥ずかしさが込み上げてくる。
「私は今の洸基、好きだよ」
「あのな」
 仮にも昨日告白した人間に軽々しく好きとか言うなよ。しかも僕振られてるし、これから別の人に告白するのも知ってるし。
 でもまあ。
 僕も今の自分の方が割と好きだ。

 手元にあるノートをみつめる。
「ね、だから言ったでしょ」
 言ってた。言ってたけども。
「こうもすんなり許されると、何て言うか」
 僕はおばさんにノートを勝手に持ち去ったことを謝罪した。理由はさすがに本当のことを話しても信じてもらえるはずがないから誤魔化したけど、それでも誠心誠意謝った。
 すると「椿のノートなんて洸基くんも物好きね。良かったらもらってあげて」と全然怒られなかったどころか変人の烙印まで押されてしまった。しかも本当に僕のものになってしまった。どんなきつい罰でも受けるつもりだった僕としては狐につままれたような気分だ。さすが篠崎の母親、言動が篠崎のそれだ。
「もしかして罰して欲しかったの? え、洸基って実はドM?」
「そんな訳ないだろ。僕はあくまでも罰を受ける覚悟をしていたってだけで、罰してくれと願っていた訳じゃない」
 頼むからこれ以上僕を変人扱いしないでくれ。
「けど洸基は絶対振り回されるタイプだよね」
「違うね。僕が付き合ってあげてるんだ」
「可愛くないなあ」
「男に可愛げを求めるのが間違ってるんだよ」
 しかも僕みたいな性悪なんかに。
「あーでも弱ってるときの洸基は結構可愛かったなあ」
「その話を持ちだすのは少しずるくないか」
「普段からあれくらい素直だったらいいのに」
「もう黙ってくれないかな」
 だから恥ずかしいんだって。どうせなら夜の病院での記憶も飛んでくれたら良かったのに。いやでも記憶がなかったらなかったであとから言われるのも怠いし。どっちにしても地獄じゃないか。
「いい思い出が出来たよ」
「お前は最後にする思い出話がそれでいいのか」
 もっと他にないのかよ。
「僕の話なんかしたって面白くないだろ」
「面白いよ」
 それは喜べばいいのか、はたまた笑いものにされていると解釈して悲しめばいいのかどっちなんだろう。
「だって人生の大半一緒にいたんだよ。昔の話なんてしだしたら尽きないよ」
 確かに一理ある。僕達はずっと一緒で沢山の思い出を共有してきた。話しだしたら切りがない。何日だって話し続けられるだろう。
「これくらいがちょうどいいのかもな」
「そうだよ。最後まで軽口言い合ってる方が私達らしいじゃん」
 それは僕と再会した篠崎が言った最初の願いでもあった。
「もうすぐ時間だな」
「うん」
「真が来たら僕は退散するから」
「ええ、一緒にいてくれないの?」
「僕がどういう立ち位置か考えてから発言してくれないかな」
 というかそうでなくても告白の場面に立ち会うとか普通あり得ない。友達に見守られながらとか、そういうのは押し付けになりかねないし、そもそもあの状況って実際はフィクションの世界でしか起こりえない。フラッシュモブ? そんなものは知らない。
「大丈夫だって、篠崎なら」
「簡単に言わないでよ」
 言えるんだよ。だって僕は結果を知っているんだから。
「僕が告白出来たんだから、篠崎だって言えるよ」
 臆病者の代表格が言えたんだ。僕と違って勇気のある篠崎ならちゃんと伝えられるはずだ。
「うん。ありがとう。私、頑張るよ」
 篠崎が小さくガッツポーズをする。
「その意気だ」
 あとは真が来るだけなのだけど。
 少し遅くないか。
 約束の時間はもう過ぎていた。真が遅刻するような人だとは思えない。もしかして僕が約束の日程を間違えた? いや何度も確認したからそれはないはず。迷子というのも考えにくい。じゃあ何かトラブルに巻き込まれたとか。真の性格上、充分あり得る。
「どうしたの?」
 篠崎がきょとんとした顔で見てくる。
「いや、何でもない」
 駄目だ。篠崎に気付かせたら駄目だ。ただでさえ告白前で気持ちが不安定になっている篠崎に無用な心配をかけてはいけない。
 篠崎にバレないように配慮しながら真にメッセージを送る。
『今何処? 何かあった?』
 返事はすぐに来た。
『ごめん』
 ごめんって一体何が。考えているうちに続きが送られてくる。
『ちょっと二人だけで話せない?』
 ちらりと横にいる篠崎を見る。
 このタイミングで二人だけってことは、篠崎と話す前に僕に何か言いたいことがあるってことだよな。
『いいけど。何処に行けばいい?』
『公園の入口近くにいる』
『わかった。すぐ行く』
 それだけ打って、スマホをポケットにしまう。
「あのさ」
 大丈夫。
「なんか真、迷子になったみたいでさ」
 篠崎には真の家がこの近くにあることを告げていない。
「え、そうなの?」
 だから誤魔化せる。
「でさ、僕ちょっと迎えに行ってくるから、篠崎はここで待っててくれない?」
「私も一緒に行くよ」
「いや、篠崎はここにいて。行き違いになったら困るから」
 もっともらしいことを並べているということに多少の罪悪感はあるけど、真が僕と二人で話したいというのだから仕方がない。もし嘘だとバレてしまっても今まで吐いてきた嘘に比べたら、この嘘は優しい嘘だとして許してもらえるはずだ。
「わかった。じゃあ、ここにいる」
「助かるよ」
 篠崎の目をみつめ、僕は出来る限り優しく笑った。篠崎に不安な気持ちになってもらいたくはなかった。
「篠崎」
 もしかしたら。
「必ず連れてくるから。篠崎は心の準備をしてて」
 これが篠崎と言葉を交わせる最後のときかもしれない。
「それから」
 だから伝えておこう。
「今までありがとう」
 僕は。
「篠崎と出会えて僕は幸せだったよ」
 もう一度笑って見せて、僕は篠崎に背中を向けた。
「いってくる」
 そして僕は走り出した。
 今度は篠崎が幸せになる番だ。

 僕が駆けつけたとき、真はベンチに座っていた。暗い顔をして俯いていた。
「真」
 声をかけてようやく真の顔が上がる。
「……洸基」
「横、座っていいか」
 力なく頷いたのを見て、僕は事の重大さを理解した。
「どうしたんだよ」
 再会したばかりの僕が言うのもおかしいかもしれないが、真らしくなかった。こんなにもわかりやすく沈んでいる姿はあまり見たことがなかった。
「ごめん」
 急に謝られて僕は困ってしまう。そういえばさっきの返信一発目も「ごめん」だった。
「何かあったのか?」
 真は消えそうな声で言った。
「俺、椿に会いに行けない」
 僕は何て言えばいいかわからなかった。それはこの期に及んで何を言っているんだという怒りや呆れからではない。
 真の気持ちが僕にもわかるような気がしたから。
「もし椿のことが見えなかったらどうしよう」
 真は怯えていた。仕方がないと思う。再会する好きな人は幽霊でその姿を見ることが出来ないかもしれないなんて、そんなの冷静でいられる方がおかしい。僕が真の立場だったらと考えただけ不安で押し潰されそうな気持ちになるし、下手したら約束をすっぽかして布団の中で震えながら丸くなっているかもしれない。誰にも相談出来ずに一人きりで、ただ時間が過ぎることを祈るに違いない。
 だからここまで来ることが出来て、ちゃんと人に頼ることが出来る真を僕は尊敬する。
「真」
 今にも泣き出してしまいそうな目が向けられる。
 それはたぶん、いつかの僕だった。
「真の気持ちは痛いほどにわかる。僕だっていつも足踏みしてる。むしろ踏み出せないことの方が多い」
 僕は臆病者だ。
 どうしようもないくらい臆病で、卑屈で、悲しい人間だ。
「でも真は違うだろ。同じ臆病者でも、真は僕のように自分に嘘を吐いて誤魔化したりする人じゃないだろ」
 そんな真だから、篠崎は。
「篠崎はお前に会いに来たんだ。他でもないお前に会うために戻って来たんだ」
 だから。
「絶対に大丈夫。真の気持ちは必ず届く」
 お姫様は王子様が来るのを待っていて、王子様はお姫様をみつけだす。そしてめでたく結ばれる。これが二人の運命の物語。僕はそんな運命の二人を結びつけるために存在している魔法使い。それでいいんだ。
「篠崎のところに行ってやってくれ」
 篠崎を幸せにしてやってくれ。
「…………やっぱり洸基には勝てないや」
 真はぽつりとそう呟いた。
「俺は、ううん、ぼくはずっと洸基に憧れてたんだ」
「え?」
 真が僕に憧れていた?
「もちろん椿にいたずらをするようなところは駄目だと思っていたよ。でも、洸基みたいに積極的になれたら、こんなふうに誰かの背中を押せるような人になれたらってずっと思ってた。それで『俺』なんて言い方をしたりしたんだけど、やっぱり難しいね」
 知らなかった。真が僕をそんなふうに見ていたなんて。だって真はいつだって温厚で、優しくて、僕と篠崎のことを見守ってくれていた。そんな真のようになりたいと思っていたのは、憧れていたのは、僕の方だったのに。
 ああ、そうか。
 僕達はずっと互いを見ていたんだ。
 正反対だと思っていた。けど本当の僕達は、心の奥底は、誰よりも似ていたんだ。
「僕も真に憧れてたよ」
 僕も上手くいかなかったんだけどさ。そういうところも含めて、僕達はよく似ている。
「……そっか。洸基も」
 目が合って、ようやく真が笑ってくれる。
 もう大丈夫そうだ。
「ほら、早く行けよ。篠崎が待ってる」
「うん。ありがとう」
 立ち上がり、真っ直ぐに篠崎の元へ駆けていく。
 その後ろ姿はとてもかっこよかった。
 
 ゆっくりと流れている雲を眺めていた。
 僕の心は意外と凪いでいた。それこそ吹き抜ける穏やかな風のように。あの空の上の雲のように。
 時間という感覚があまりなかった。だから真がここを離れてからどれくらい経ったのか僕は把握していなかった。まだほんの数分かもしれないし、もしかしたら一時間を超えているかもしれない。
 でもどれだけ時間が経っていようと、別にどうでもよかった。あの二人には何も気にしないで最後の時間を過ごして欲しいから。
「洸基」
 名前を呼ばれて顔を向ける。
「……おかえり、真」
 そこにいたのは真だけだった。その真の目が少しだけ赤くなっていて、僕は全てを悟った。大丈夫。最初からわかっていたことだ。僕はまだ冷静だ。
「椿、成仏したよ」
「そうか。それは良かった」
 ちゃんと真に見届けてもらえたようで、本当に良かった。
「ありがとう。洸基のおかげだよ」
「いや僕の方こそ、篠崎と会ってくれてありがとう」
「……良かったの?」
「何が?」
「最期に立ち会わなくて」
 真が気まずそうに聞いてくる。
「だって洸基は、洸基はずっと」
 そして今にも消えそうな声で「椿と一緒にいたのに」と言った。
「いいんだよ」
 真が気にすることじゃない。お前はそんな気持ちを抱えなくていい。だって何一つ悪いことはしていないのだから。
 だから僕が言ってあげないといけない。僕じゃなくちゃ駄目なんだ。
 でないと真は自分を赦せない。
「僕の役目は篠崎を成仏させることであって、見届けることじゃないから」
「…………そっか」
 強張っていた真の表情が僅かに緩んだのを見て、僕は安心する。
「でもやっぱり洸基にもちゃんとお別れをして欲しい」
「僕はちゃんと篠崎と話したよ」
 真の元へ向かうときに、僕はもう覚悟を決めていた。それで篠崎に別れの言葉を残してからあの場を離れた。それに真を待っている間も沢山話をした。僕としては充分だ。
「洸基としてはそうかもしれないけど、椿は違ったみたいだよ」
「違うって何が」
「椿から伝言を預かってるんだ」
「伝言?」
 真が口を開いたと同時に風が強く吹いて。
 そして聞こえた。
「私も洸基と出会えて幸せだったよ」
 今、確かに僕は聞いた。聞こえたんだ。もういないはずの君の声が。
 ああ、そうだ。篠崎はもう。
「……ごめん、真」
「何?」
「少し一人にして欲しい」
「わかった」
 真が僕に背中を向けて歩き出す。けどすぐにその足が止まった。
「今度、二人で何処か遊びに行こうよ。じゃあ、また」
 そう言って、今度こそ真は僕の前からいなくなった。
 そのことを確認したと同時に、僕は限界を迎えた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 僕は泣いた。ここが公園であるということも忘れて、子供のように声をあげながら泣いた。どうしようもなかった。簡単に止められるようなものじゃなかった。
 神様、どうか今だけは。
 篠崎のことを想うことを赦してください。
「しのざき…………しのざき……」
 好きだった。
 ずっと篠崎のことが好きだったんだ。
 この恋は叶わなかったけど、それでも伝えられただけで僕はもう充分だった。
 けど。
 幸せだったって、僕と出会えて幸せだったって。
 そんなこと言われたら、また熱が蘇ってきてしまう。
「……なんで、いまなんだよ」
 嬉しかった。篠崎も同じ気持ちでいてくれたことが。
 その言葉で、僕のこれまでは報われた。
 伝えたい。
 ただ一言「ありがとう」って伝えたい。
 なのに。
 篠崎椿は、もうこの世界にいない。