8

 真の家を出て自宅付近に着いたときにはすっかり暗くなっていた。それを見越した真が「夕飯食べていきなよ」って言ってくれていたのだが断った。あれ以上一緒にはいられなかった。
 やがて僕が住んでいるアパートが見えてくる。その前によく知っている人物がいた。
「あ、やっと帰ってきた」
「篠崎? 何でここに」
「だって勝手に部屋に入る訳にもいかないし」
 何かこの前も似たような会話をした気がする。
「それに」
「それに?」
 両手の指を絡めながらもじもじとする姿は普段の篠崎とはまるで不釣り合いだった。
「……結果、明日まで待てなくて」
 ああ、そういうこと。自分の中の何かが急激に冷えていくような感覚がした。
「とりあえず、ここじゃあれだから」
 僕達は近所の公園に行った。部屋にあげても良かったのだけど、そろそろ僕を不審に思った家族に突撃されそうだった。
「この公園久々だなあ」
「まあわざわざ公園に行くような年齢でもないし」
 鞄を前に抱えながらブランコに腰かける。というか強制的に座らされた。
「何でブランコ」
「公園といえばブランコでしょ」
「知らねえよ。だいたいお前乗れないじゃん」
 どうしてこんなことに。僕達は真の話という非常に大事な話をするためにここに来たはず。
「だから私の代わりにブランコ漕いで欲しいなって」
「絶対に嫌だ」
 傍から見れば「夜に一人で公園のブランコに座り込んでいる謎の男子高校生」という限りなく不審者に近い状態だというのに、これでブランコを漕いだりしたらそれこそ通報されかねない。
「頼むから僕を不審者にしないでくれ」
 今だって必死に声を押さえてるんだから、ちゃんと僕の頑張りを汲んで欲しい。ていうかそもそも外では会話をしないって約束だったはずなのに、いつのまにか「夜には部屋に来ない」くらいしか守られていないような気がする。
「わかったよ」
 何でやれやれしょうがないな顔をされているんだ。文句を言いたいのは僕の方だというのに酷い話だ。
「そろそろ本題に入りたいんだけど」
「あーうん、そうだよね。そうなんだけど」
 急に歯切れの悪くなった篠崎を見て、僕は一つの仮説に思い当たった。
「もしかして緊張してるのか?」
 だとしたら僕をブランコに乗せて遊ぼうとしたことにも納得がいく。あれは時間を稼いでいたんだ。僕が話し出すのをなるべく遅らせようとした。
「お前が早く聞きたいって言ったくせに」
「それがちょっと怖くなっちゃって」
 まあわからなくもないけどさ。
「最初からそう言えばいいだろ」
 言ってくれたら全然待つのに。心の準備が出来るまでいくらだって待ってあげるのに。
「……今さら僕に気を遣うなよ」
 それは今朝、篠崎が僕に言ったセリフだった。
「まさか同じことを言われるなんて思ってなかった」
 篠崎は呆気にとられたような顔をしていた。
「やっぱり洸基には敵わないなあ」
「そんなこと」
 僕が篠崎を上回ったことなんて、きっと片手で数えられるほどしかない。
「今から告白する訳じゃないのにね。そもそも幽霊が緊張って変な話だよね」
「全然変じゃねえよ」
 緊張に幽霊とかそんなの関係ない。だってたとえ幽霊だったとしても篠崎は篠崎だ。生身の人間じゃなくなったからといって、篠崎を構成する精神までもが変わってしまう訳ではない。だから何もおかしくはない。
「そう言ってくれて安心した」
 篠崎に笑顔が戻る。
「ありがとう。もう大丈夫」
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。だからお願い」
「……わかった」
 ごめん、篠崎。実は僕も緊張してるんだ。僕の方が心の準備が出来ていない。
 篠崎の喜んだ顔を見るための心の準備が。
 でもここで僕が待たせる訳にもいかない。いずれは言わなくてはいけない話だ。だったら早めに怪我をしてしまいたい。
「真は信じてくれたよ。お前が死んで幽霊になったことも、会いたがってるって話も、ちゃんと信じてくれた」
「本当に?」
「こんなところで嘘吐かないって」
 本音を言えば嘯きたかった。けどさすがにやめておいた。ここで嘘を吐けば篠崎だけじゃなくて真のことも裏切ることになってしまうから。
「それで真くんは、真くんの方は何て言ってるの?」
「…………真もお前に会いたいって」
 篠崎の顔が一気に明るくなる。数分前まで緊張で強張っていたとは思えないほど緩みきったその表情は、さっきの真と瓜二つだった。そのことに気が付いて、僕は泣きそうになった。下唇を噛んで何とか涙を堪える。
「今月末の日曜十四時に、結城の高校に行くときに前を通った大きい公園。そこにある噴水の前が待ち合わせの場所」
「ちょっと先だね」
「もうすぐで中間テストだから」
 真にとっては高校に入って初めての中間テストだしちゃんと集中させてあげたい。僕も僕で特別勉強が得意という訳でもないから時間は確保しておきたい。そういう訳で、僕達二人共テストが終わってからにしようということになった。
「中間テストかー。それならしょうがないよね」
「そう、だからしばらくは篠崎に構っていられないから」
「じゃあ今遊ぼうよ」
「………………は?」
 何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。
「遊ぶ? 今? ここで?」
「今ここで」
「嫌に決まってんだろ」
「いいじゃんちょっとくらい。どうせ誰も見てないって」
「お、おい!」
 急に手を引っ張られたことで、抱えていた鞄が盛大に地面に落ちる。しかも閉め忘れていたらしく中身までもが雪崩のように飛び出してしまった。
「ごめん!」
 篠崎が散らばった物を拾おうとしてくれたのは、たぶん反射だったのだと思う。
 だからこそ次の瞬間、僕は慌てふためいた。
「あれ、これって」
 篠崎が手を伸ばした先にあったのは。
「私のノート?」
 僕がずっと隠してきた、あのノートだった。
 篠崎の手がノートに触れそうになる直前、僕は奪い取るような形でノートを拾い上げ鞄の中に無理やり突っ込んだ。
「どうして? みつからなかったって洸基言ってたよね?」
「これは、その」
 謝らないといけない。すぐにでも謝らないといけない。なのに言葉が喉につっかえて出てきてくれない。その間にも時間は経っていく。
「わ、わかった。私が暴走しないように、わざと隠してたんだよね。ほら私バカだから、片っ端から書いてあることやっていこうとか言い出しそうだもん。それで大事な場面でだけ私のノートを使ってたんでしょ。ほら桃花のときとか」
 今にも泣きそうな震えた声で篠崎は言う。
「だって、そうじゃないとわかんないよ。洸基がノートを隠していた理由。ねえ、そうなんだよね」
 それはきっと懇願だった。
「洸基、何か言ってよ」
 もう駄目だと思った。
「違う」
「違うって?」
「僕がノートを隠したのは篠崎のためじゃない」
 僕は。
「お前を成仏させないためにノートを隠した」
 限界だった。
「お前が困ればいいと思った。手がかりをみつけられなくて、そのまま成仏出来ずに彷徨い続ければいいと思った。だから隠した。それが真実」
「でも、洸基は私のこと助けてくれたじゃん。私と桃花が仲直りするのを手伝ってくれた。真くんと会う約束をしてきてくれた」
「ただの気まぐれだよ。本当はずっと邪魔したかった。協力なんて一瞬たりともしたくもなかった!」
 言わなくちゃいけない言葉と反対の言葉ばかりが溢れてくる。ぐちゃぐちゃになった気持ちを吐き続けてしまう。
 これじゃまるで、僕達が初めて大喧嘩をしたときと逆じゃないか。僕は今、あのときの篠崎と同じことをしている。僕が怒った彼女の言動をそっくりそのままやってしまっているという自覚はあるのに、駄目だとわかっているのに、僕の口は止まってくれない。
「ムカつくんだよ。一緒にいると疲れる。全然楽しくない。お前の面倒なんて見てられないんだよ。それくらいわかれよ」
 そしてついに言ってしまう。
「嫌いなんだよ。お前のこと、ずっと嫌いだった」
 嫌いになってくれと思った。僕のことなんて、もう二度と会いたくもないと思うくらいに嫌いになって欲しかった。このまま平手打ちでもされて、一生の別れを告げられたかった。
 幸い、真との待ち合わせ場所を伝えることは出来ている。二人で最後の思い出を作って、想いを共有して、僕のことなんか忘れて成仏してくれたらいい。
 僕が犯した罪に対する罰にしては軽すぎるかもしれない。でも僕にとって篠崎に嫌われるというのは死刑よりも重い。嫌われるくらいなら死んでしまいたい。だけどそれだと罰にはならないから、僕は一生苦しみながら生きていく。
 それがいいと思った。
 なのに。
「何でだよ」
 どうしてか僕をみつめる篠崎の目からは怒りを感じられない。
「何で怒らねえんだよ! 怒れよ! 僕はお前を傷付けたんだぞ!」
 感情のままに言葉を投げつける僕とは違って、篠崎は困ったような控えめな声で言った。
「…………ごめんね」
 篠崎の目から涙がこぼれたのを見て、僕はようやく冷静さを取り戻した。
 僕はなんて酷いことを。
 でももう何もかも手遅れだ。
「ごめん」
 急いで残りの荷物を鞄に詰め込んで篠崎の横を通り過ぎる。
「洸基!」
 篠崎が僕を呼ぶのも無視してその場から逃げ出す。
 夜の街を必死で駆け抜けていく。
 全速力で走っているからか、上手く呼吸が出来なくて胸のあたりが痛くなってきた。
 いや違うか。
 痛むのは。
 僕の心、そのものだ。

 学校から帰ろうとしたら雨が降っていた。しかもかなり土砂降りの。天気予報では晴れの予報だったから傘や身体を拭けるようなタオルは持ち合わせていない。ずぶ濡れで電車に乗る訳にもいかず、ただひたすら雨がやむのを待つしかなかった。
 何をする訳でもなくぼーっと突っ立っていると、突然視界の端から傘が現れた。どういうことかと目を向けると、そこには早乙女がいた。
「早乙女? 何で」
「一緒に入らないかなって思って」
「そうじゃなくて。だって今日は」
 今日は土曜日なのに。
 早乙女が大きな溜め息を吐く。
「南波くん、テスト初日一教科目で途中退室したよね。いきなり倒れて、また前みたいになるんじゃないかって心配したんだから」
「なんか人酔いして。二日目からは大丈夫だったけど。その、心配かけて悪かった。でもそれとお前がここにいるのと何が関係あるんだよ」
「その初日受けられなかった分の後日試験が今日だったんでしょ?」
「……ああ」
 僕の学校では、試験中の急な体調不良や忌引きといったやむを得ない事情に限り再試験を受けることが出来た。といっても点数の全てが反映される訳ではないのだけど、後日試験をするのとしないのでは成績に大きな差が出る。それで乗り気ではなかったが受けさせてもらっていた。それが今日、土曜日だったという訳だ。
「篠崎さんと何かあったの?」
「よくわかったな」
「わかるよ。ずっと学校来ないし、テスト初日にようやく来たかと思ったら始まってすぐに保健室に行っちゃって。わからない方がおかしいよ」
 言われてみれば、確かにこれ以上ないくらいわかりやすいか。
「篠崎さんと何があったの」
 もう一度早乙女が聞いてくる。
「別にたいしたことじゃ」
「たいしたことじゃ?」
 早乙女の目が少しだけ鋭くなる。誤魔化さないでと言っているようだった。実際その通りなのだと思う。
「……僕はやっちゃいけないことをしたんだ」
 そこまで言ってしまえば、もう駄目だった。
「僕は篠崎が生前に書いていたノートを隠した。未練なんて本当は消したくなかったんだ。そのノートがみつからなければ、少しでも長く篠崎といられると思った」
 でも。
「でも結城と再会して、篠崎の未練っていうのが単なるやりたいことじゃないことに気が付いた」
 篠崎の一つ目の未練は、結城と仲直りすること。病気のことを打ち明けられず、喧嘩別れになってしまった親友と再び心を繋げること。
 それは結城側も同じだった。何も知らないで、知ろうとしないで、自分の気持ちに歯止めが利かなくて傷付けてしまった親友に謝りたい。それが結城の未練。
「じゃあどうして手を貸したの?」
「罪滅ぼしだったんだ。僕は二人が仲直りすることで篠崎が成仏したら、それが自分への罰になるんじゃないかって、そう思ったんだ」
 けど篠崎は成仏しなくて、それどころか触れる理由が判明したり真の話まで出てきた。
「……僕はずっと真に嫉妬してた」
 篠崎に想いを寄せられている真が羨ましかった。篠崎の二つ目の未練になっていることが、どうしようもなく羨ましかった。僕だって僕なりに頑張ってきたのにそれが報われることはなくて、何年も会っていないにもかかわらず篠崎の心をずっと射止めている真に嫉妬していた。
「僕は篠崎の中にはいない。篠崎が戻って来る理由になれない。それが堪らなく悔しかった」
協力したいのに、篠崎のために動きたいのに、反対の動きをしてしまう。そしてそのまま手遅れなところまで行ってしまうんだ。
「…………真と会った帰り、篠崎と会ってノートのことがバレた」
 早乙女が息を呑んだのがわかった。それでも僕は話すのをやめない。
「僕は篠崎に酷いことを言った。感情に任せて、言っちゃいけないことを口にして、篠崎を傷付けた」
 あのときの篠崎の涙が忘れられない。僕が泣かせた。篠崎から笑顔を奪った。
「聞いてもいい? 前に南波くんが答えられなかった質問だよ」
 僕は頷く。
「南波くんは篠崎さんに対して何もないの?」
「……ある」
「それは何?」
 降り続ける雨をみつめながら言う。
「好きなんだ。篠崎のこと」
 どうしようもなく、ずっと、僕は篠崎に恋をしている。
「ようやく言えたね」
「隠してたとか、気付かないふりしてたとか、そういうんじゃないんだ」
「わかるよ。わかってた。言えなかったんだよね」
「言える訳ないだろ」
 散々酷いことをした。篠崎に傍にいて欲しいと願ってしまった。
 こんな人間が好きだなんて言葉、口にしていいはずがない。
「だからどうにかして諦めたかった。この気持ちを消してしまいたかった。そしたら僕側の問題っていうのも解決するんじゃないかって」
 篠崎に触れることが出来るのはこちら側の問題なのだと前に早乙女は言った。篠崎への未練を消化するために、彼女を繋ぎ止めておきたいという気持ちが原因なのだと。
 僕の未練。
 それは「篠崎に気持ちを伝えたかった」。
 そんな篠崎と心を繋ぎたいという気持ちが現実的な形になったのが、触れるという行為だった。なら僕が諦めることが出来れば、気持ちを伝えたいという未練そのものを失くしてしまえれば、僕は篠崎に触れることが出来なくなる。それで篠崎を縛るものはなくなり、あとは彼女自身が未練を消すことが出来ればちゃんと成仏してくれる。そう思った。
「でもさ、諦められねえんだよ」
 篠崎のことがどうしようもなく好きなんだ。
「諦めなきゃいけないんだけどな」
 どうやったら諦められるんだろう。
「南波くん、岡野くんに会ったって言ったよね。てことは篠崎さんと会う日も決めたりした?」
「……したけど」
「いつ?」
「………………明日」
「明日って……」
 そう、もうそんなにも日が経っていた。そしてあの日から一度も僕は篠崎と会っていない。
「南波くんはそれでいいの?」
「それでって?」
「篠崎さんとこのままの関係でいいの? このまま無理やり自分の気持ちを押し込めて、諦めてしまうの?」
「だって」
 だってしょうがないだろ。
「篠崎はもう僕なんかに会いたくないと思うんだ。もうずっと顔を見せないって、それが答えだろ。だから僕は諦めるんだ。諦めなきゃいけないんだ。それに元々僕は篠崎の未練じゃなかったんだ。最初から決まってたんだよ。こういう運命だって」
 篠崎の運命の人は僕じゃない。
 僕は隣にはいられない。
「違う。それは違うよ」
「違うって何が」
「篠崎さんは南波くんのことを凄く大切に思ってる。嫌いになんてなってない」
「何でそんなこと言えるんだよ」
 あんなことをしたんだ。嫌われていないはずがない。自分に自信がないとかそういうのではなくて、普通に考えたら誰だって僕と同じ結論に至る。
「結城さんが言ってた。南波くんが倒れたとき、篠崎さん凄い取り乱してたって。私も篠崎さんが凄く心配そうにしてるところを見た」
「それは」
 確かに僕が目を覚ましたとき、篠崎は泣いていた。夜は僕のために病室まで訪ねてきてくれた。あのあと僕はすぐに眠ってしまったのだけど、眠りに落ちるその瞬間まで篠崎は僕の傍にいてくれた。
「……けど、そのときはまだ篠崎は僕がしたことを知らなかった訳だし」
 知らなかったのだから、僕に優しくしたっておかしくはない。
「そのときだけじゃない。今も、今だって篠崎さんは南波くんのことを大切に思ってる。だって篠崎さんはずっと南波くんのこと待ってるんだから」
「待ってる? は、何言って」
「南波くんが学校に来てない間、篠崎さんはずっと教室で南波くんのこと待ってた。寂しそうな顔して、南波くんの席をみつめてた」
「そんなこと」
 そんなこと言われたって。
「でも、でもテストのとき篠崎はいなかった!」
「それは南波くんに気を遣って別の場所にいただけ。初日はすぐに倒れて保健室行っちゃったから、ほとんど意味はなかったけど。でも」
 早乙女が一歩僕に詰め寄る。
「どうでもいいと思っているのならそんな行動取ったりしないよ」
 真っ直ぐに手が伸びてきて、早乙女は僕の胸にそっと触れた。
「篠崎さんの中に南波くんはいる」
 早乙女の手が離れて、今度は自分で胸のあたりを掴む。
「篠崎の中に、僕は、いる?」
「うん。絶対に」
 雨に濡れていないのに目の前が滲んだ。歪んで、上手く前が見えなくなる。早乙女の顔も何だか見れなくて僕は俯いた。瞬間、地面にぽつぽつと水滴の跡がついた。
「確かに南波くんは篠崎さんの未練にはなれなかったかもしれない。けどだからといって、南波くんと篠崎さんのこれまでが消えてなくなる訳じゃないでしょ。思い出は、想いは心の中に在り続ける」
 …………ああ、その通りだ。
 僕の中にはずっと篠崎がいる。一度たりとも消えてなくなったりしなかった。思い出も、想いもここにある。きっと、この先もずっと。
 顔を上げると、そこには早乙女の柔らかな笑顔があった。
「その気持ちを篠崎さんに伝えてあげて」
「……でも僕は篠崎の居場所を知らない」
「私は言ったよ。篠崎さんは南波くんのことを待っていたって」
「早乙女、お前もしかして最初から」
「私はただ、意気地なしでどうしようもなく不器用な友達に喝を入れに来ただけだよ」
 それを聞いて、また僕の視界が揺らいだ。けどここで足踏みする訳にはいかなかった。両目を痛いくらいに擦って、僕は早乙女の目を真っ直ぐにみつめる。
「ありがとう。篠崎のところに行ってくる」
 行って、伝えてくる。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 僕は校舎の方に足を向け、力いっぱい踏み出した。
 さあ、このどうしようもない恋に終止符を打とう。

 高鳴る鼓動に気付かないふりをして、僕は扉を開ける。いつも使っている後ろ側ではなくて、前の扉を。
 果たして、篠崎はそこにいた。
 僕の使っている座席に手を振れるような形で、そこに立っていた。
「洸基、どうして」
 篠崎は驚いたような顔をしていた。それを見た途端、僕は逃げ出したい衝動に駆られた。
 でも、もう逃げたくない。
 もう二度と、傷付けたくない。
「しのざ」
「ごめん!」
 今度は僕が驚く番だった。
 だって篠崎が僕に向かって頭を下げているのだから。
「私、洸基の気持ち全然考えてなかった。全然わかってなかった。私のバカに付き合わせたりしてごめん。本当にごめん」
「篠崎」
「でもね、私、やっぱり成仏したいよ。洸基が倒れたとき、何も出来なかった。私一人じゃ洸基を助けられなかった。洸基が泣いているのに、抱きしめることは出来てもその涙を拭ってあげられない。今だって雨が降っているのに、私は傘をさしてあげることが出来ない」
 篠崎が顔を上げる。その目からは大粒の涙が流れていた。
「だから私は洸基にちゃんと触れるようになりたい。洸基が辛い思いをしているとき、その涙を拭ってあげられるようになりたい。洸基に傘をさしてあげられるようになりたい」
 篠崎の言葉とそこに込められた気持ちが胸の奥に流れ込んでくる。
 ……やっぱり、わかっていないのは僕の方だった。
「篠崎」
 もう一度名前を呼んで、少しずつ篠崎に近付いていく。手を伸ばせばすぐにでも触れられそうな距離まで来たところで、僕は足を止める。
「まずはごめん。ノートを隠して、酷いことを言って、傷付けて、ごめん」
 声が若干震えていた。手先も冷たくなっていた。それでも僕は続ける。
「篠崎にどうしても聞いて欲しいことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「うん。何でも言って」
 小さく息を吐く。耳元で心臓の音が鳴っている。まるで全身が心臓になったみたいだった。
 そして。
「好きだ」
 ついにその言葉を口にした。
「篠崎のことが、好きだよ」
 僕はずっと。
「ずっと、篠崎のことが好きだったんだ」
 君に恋をしていたんだ。
 篠崎の瞳が揺れる。そして次の瞬間、僕は篠崎に強く抱きしめられていた。
「ごめんね」
 僕の胸に顔を埋めたまま、篠崎は言う。
「ごめんね、嫌な思いをさせて。そりゃそうだよね。好きな人に成仏したいって言われたら、ノート隠しちゃうよ。別に好きな人がいるって言われたら、邪魔したくなっちゃうよ。仕方ないよ。気付いてあげられなくてごめん。苦しい思いをさせて、ごめんね」
 篠崎がゆっくりと僕から離れる。
「ありがとう。凄く嬉しい。でもごめんね。私、他に好きな人がいるから」
「…………うん。知ってる」
 こうなることはちゃんとわかっていた。僕の恋が報われる日が来ることはないということなんて、最初からわかりきっていたことだ。
 でもいいんだ。
「伝えられただけで、満足だから」
 ようやく本当の気持ちを伝えられたから。
「あ」
 篠崎の手からリストバンドがすり抜け、床に落ちた。
 それは僕の魔法が解けた合図だった。
 リストバンドを拾い、僕はもう片方の手首につける。
 大丈夫。
 僕はもう大丈夫。
「これ、今度こそ篠崎の分も大切にする」
 これさえあれば、僕は前を向ける。
「次は篠崎の番だな」
「……うん」
「頑張れ。応援してる」
「ありがとう」
「帰ろう。一緒に」
 もう手は繋げないけど、それでも片手を差し出す。篠崎は笑顔で応じてくれて、そっと手を添えてくれた。
 僕達は今、心で繋がっている。
 何も考えずとも相手の幸せを心の底から願えた、幼き頃のように。
 さよなら、僕の恋心。
 明日、篠崎椿はいなくなる。