7
二日後、僕は何事もなく退院することが出来た。本当だったらこのまま真の捜索に復帰したいところだったのだけど、篠崎に「病み上がりなんだから無理しちゃ駄目!」と強いお叱りを受けてしまった。結局僕は残りのゴールデンウィークを自宅で療養することになった。何が黄金の週だ。こんなのどどめ色だ。
そんな最低最悪のどどめウィークを終えてから数日。
「まさかお前に呼び出される日が来るとは思わなかったよ、結城」
放課後、どうしてだか僕は結城に呼び出された。しかもこれまたどうしてだか篠崎には内緒の話ときた。喚き散らかす篠崎をなんとか早乙女に押し付け、指定されたカフェに行くと既に結城はそこにいた。
というのが、ここまでのいきさつだ。
「別に、私だって出来ることなら呼び出したくなんてなかったし」
相変わらず何処か心理的な距離を感じるその態度に僕は乾いた笑みをこぼした。この前の入院騒動で多少は仲良くなれたと思ったのだけど、どうやらそれは勘違いだったらしい。
「じゃあ今日はどういったご用件で」
「…………岡野真のことなんだけど」
「え、真、の、こと?」
まさかその名前が出てくるなんて思っていなくて、わかりやすく動揺してしまう。だけど僕なんかお構いなしに結城は話を続ける。
「私やっぱりどうしても気になって、彼のこと調べてみたの」
そういえば結城は僕が真の名前を口にしたとき、何だか微妙な顔をしていた。聞き覚えがあるというようなことを言っていたっけ。
「……みつけたの、岡野真」
みつけた? 今みつけたって言ったのか? だって真の家は離婚していて、何処にいるのかも探し方もわからないような状況だったというのに。どうやってみつけたって言うんだ。
あまりの衝撃に言葉が出なかった。どういうことなのか問いただしたいのに、口から出るのは荒くなった息だけ。
「ちょっと大丈夫?」
肩で息をする僕に、結城が心配そうに尋ねてくる。
「もしかしてまだ体調戻ってないの? それなら日を改めるけど」
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ、だから」
「ならいいんだけど」
何だかんだで僕を気遣ってくれるあたり普通に優しいんだよな。その優しさのおかげなのか、僕の呼吸も次第に落ち着いていった。
「悪い、待たせてしまって」
「別に。急に言った私にも非はあると思うから」
「そんなこと」
「私が南波のこと理解してなかったのが悪いの。ごめん」
何で結城が謝っているのだろう。悪いのはどう考えても僕の方なのに。
「続き話してもいい?」
「ああ、うん。頼む」
「岡野真。何処かで名前を聞いたことがあるって思ったら、今年の新入生代表だったの。一応名簿でも名前は確認したから間違いない」
「てことは」
結城が頷く。
「彼は私の後輩で、私の高校にいる」
どくんと大きく心臓が鳴る。
「いや、でも、名前が同じだけで、全くの別人ってことは」
僕は一体何を言っているんだ。こんなのまるで真じゃなければいいと思っているみたいじゃないか。
「私もその可能性は考えたよ。岡野真なんて結構ありふれた名前だし。それで私、彼のクラスを訪ねてみたの」
「え」
「会って、彼に直接聞いてみた。篠崎椿と南波洸基を知ってるかって。そしたら彼、もちろん知ってるよって言って、あんたが前に言ってた製菓部の話とか色々してくれたよ」
「じゃあその岡野真は」
「南波達が探していた岡野真で間違いないでしょうね」
どうしてだろう。さっきから胸の奥がずっとざわめいている。喜ばしいことのはずなのに、全然喜べない。それどころか人違いだったらいいみたいな発言までしてしまった。最低だ。これまでも僕は自分のことを酷い人間だとは思ってきたけど、ここまで底辺だったなんてもう救いようがない。
「……一つ聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「どうして篠崎は呼ばなかったんだ?」
真がみつかったなんて聞いたら、きっと篠崎は大喜びするだろう。というより、この報告を一番に聞かせる相手は僕じゃなくて篠崎であるはずだ。
「椿に言っても良かったの?」
決してふざけている感じではない、至って真面目な顔で結城は言ってくる。
「お前までそんなこと言うのかよ」
この手の話は早乙女からもう何度もされている。二人共、一体何が言いたいんだ。
「きららは優しいね」
「だから」
「この際だし、私きららみたいに優しくないからはっきり言わせてもらうけど」
射貫かれそうなほど鋭い眼光が僕に向けられる。
「南波、椿のこと好きなんでしょ」
息が詰まる。否定の言葉も肯定の言葉も出てこない。何を言っても不正解になるような気がして黙り込んでしまう。そんな僕を見て結城は溜め息を吐いた。
「やっぱり、そうなんだね」
「…………いつから知ってた」
「つい最近。だってどう見たってそうだし、そう考えたら昔のことも合点がいくっていうか」
そんなにわかりやすかっただろうか。自覚がない。でも結城に言われて、これまでの早乙女の発言も僕が篠崎を好きだと気付いていたからだったのだとわかった。
「でも椿は岡野真が好き。違う?」
「……違わない、です」
何もかも結城の言う通りだ。僕は篠崎に絶対に叶わない恋をしている。
「バカだと思うか?」
「そんなこと言ってないじゃん」
「じゃあ諦めろってことか?」
そんな不毛な恋なら続けない方がいいって、そういう話だろうか。
「卑屈すぎ。何でそう暗い方にばっかり考えるの」
「これが僕なんだよ」
僕は決して明るい人間じゃない。そんなの誰が見ても明白だ。
「あっそ」
結城は若干切れ気味だった。
「諦めろとは言わない。けど、せめてけじめはちゃんとつけなさいよ」
それはつまり。
「篠崎に告白しろ。そう言いたいんだろ」
「それ以外にあると思う?」
冷ややかな視線に耐え切れず、僕は目を逸らす。
「言ったって意味ないだろ」
僕の恋はもう終わってるんだ。言う前から終わっている。僕が告白したところで結末は変わらないんだ。それだけならまだいいけど、僕が伝えることで篠崎に気まずい思いをさせてしまうかもしれない。だったら言わない方がいい。僕だけが勝手に苦しんでいればいい。
「僕は告白するつもりはない」
「告白しないって、それがどういうことなのかわかって言ってる?」
僕は答えない。
答えられない。
「いつまでも一緒にはいられないんだよ。わかってるの? だってあの子は」
「わかってるよ!」
わかってんだよ、そんなことは。
「篠崎はとっくに死んでる」
でも。
「今、この世界に存在してるんだよ」
幽霊かもしれない。彼女のことを認識出来るのは限られた人だけかもしれない。でも、たとえそうなのだとしても、今この世界にいるんだよ。二度と会えないはずだった僕達は再会し、止まっていた時間を埋めることだって出来る。
「そうだね。私にそのことを教えてくれたのは南波だもんね」
「ならわかるだろ。お前だって篠崎とやりたいこととかまだあるだろ」
「わかるよ。わかるし、やりたいこともある」
「だったら」
「だけどいつまでも先延ばしになんて出来ないでしょ」
すぐに反論出来なかったのは、僕だって本当は理解しているから。
「確かにずっと一緒にいられるかもしれない。でも大人になるのは私達だけで、椿はそのまんまなんだよ。いつまでも子供のまま。それが本当に椿の幸せだって言える?」
「……そんなの本人に聞かなきゃわかんねえだろ」
完全に負け惜しみだった。
「言いたいことは他にもある」
「何だよ」
つい口調が喧嘩腰になってしまったことに気が付いて、僕は口を閉じた。こんなのは八つ当たりだ。結城だって別に僕をいじめたくて言っている訳じゃないのに、どうしても苛立ちの方が勝ってしまう。そんな僕のことなんて気にも留めていないのか、結城は平然と話を続けてくる。
「南波まだ何か隠してるよね」
「な、んで」
乾いた声が口からこぼれた。そんなのもう正解と言っているようなものだった。
「私、前に言ったよね。南波は幸せになれないって」
「……言ってたな」
水族館の帰り、突然言われた言葉だった。
「私は今もそう思ってる」
それはたぶん、警告だった。僕がこれ以上間違った道を進まないようにするための、結城なりの戒めの言葉。
「南波が何を隠してるか知らないけど、椿のことを想うのなら変なことしないで。それこそ南波が一番嫌だったことじゃないの?」
「僕は」
僕だって最初はこんなことをするつもりはなかった。僕の気持ちはどうであれ、篠崎の願いを叶えてやりたいと真剣に思っていた。だけどいざその願いの塊を見たとき、僕は胸が苦しくなった。どうしても耐えられそうになかった。また篠崎がこの世界からいなくなってしまうのが。篠崎がいなくなった世界を再び生きていくのが。
「私は南波のおかげで椿と仲直りすることが出来た。だから私は南波にもちゃんと前に進んで欲しい」
そう言って結城は小さなメモ用紙を机の上に置いた。
「これ、岡野真の連絡先」
「真の?」
「言っとくけど、あんたがちゃんと連絡を取ったかなんて岡野真本人に聞けばすぐにわかるんだからね」
「要するに、これは死刑宣告って訳か」
あるいは魔女裁判か。どちらにしろ僕に逃げ道は存在しないということだ。
「南波、私達は椿とお別れしなくちゃいけない。どれだけ辛くても、悲しくても、それが椿のためなんだから」
結城が荷物を持って席を立つ。
「話はこれで終わり。お願いだから、椿を悲しませるようなことだけはしないでよね」
僕の答えを聞かずに、結城は店から出ていった。その背中を僕はただ黙って見ていることしか出来なかった。
結城がいなくなってからも、僕はしばらくの間その場にいた。やがて外が暗くなってきていたことに気が付いて店を出た。
家に帰るとすぐに夕飯だった。さっきのことで頭がいっぱいで全く食べる気になれなかったけど、また倒れる訳にもいかないのでどうにか胃に流し込み、早々に部屋に戻った。
ようやく訪れた一人の時間。だけど心は全然休まってくれない。
結城に渡された真の連絡先をじっと眺める。
連絡しなきゃだよな。
結城本人にも言われたように、僕が連絡をしたかどうかなんて同じ学校に通っている彼女ならいつだって確認が出来る。もし連絡をしなくてそれがバレてしまったら。今度こそ、僕は言い逃れが出来なくなる。
スマホを手に取り、書かれているIDを入力する。検索の結果出てくるのは当然真の名前。一瞬だけ迷って追加のボタンを押した。
ここからどうしよう。
真に何を話せばいいのだろう。結城の話によると、真は僕と篠崎のことを憶えていてくれたようだけど、もう何年も会っていないうえに離婚したことまで知ってしまった。しかも知ってしまった理由が完全に偶然とは言い難い。こういうのって簡単に触れていい問題じゃないのに、僕は彼のいないところで勝手に知ってしまった。だから謝るべきなのだと思う。
それから篠崎のこと。
『篠崎が会いたがってるんだけど会ってやってくれない?』
何だそれ。話が唐突過ぎる。
ていうか、さ。
そもそも真は篠崎が死んだということを知っているのか?
知らない、と思う。だって僕達は真が何処に行ったのかわからなかったくらいには会っていない。高校進学を機に戻ってきたのだとしても、その頃には篠崎は入院していた。篠崎の入院のことを知っていたのは家族と、あとはせいぜい彼女とクラスメイトになるはずだった人達くらいのはず。そしてそのまま、僕や結城のように親しい人には打ち明けずに死んでいった。
嫌な汗が背中を流れる。
もし真が知らないのだとしたら。
篠崎が死んだことを伝えるのは、僕、なのではないだろうか。
結城の口振りからして、たぶんあいつは真に篠崎のことを伝えていない。あえてなのか、単純にそこまで頭が回らなかったのか。それはわからない。けど意図して伝えなかったのだとしたら。
結城は僕を試しているのかもしれない。
いずれにしろ、確認を取る必要があるのは確かだ。そして知らないようなら伝えなくちゃいけない。
何故なら、篠崎はどうしようもなく幽霊だから。
もし仮に真に篠崎のことを伝えないまま会って、真が僕達と同じように篠崎の姿が見えたとしても、篠崎に触れなかったら間違いなく気付かれる。それ以前に、周りの人の反応や篠崎に課せられている行動制限ですぐに見破られるだろう。それこそ真が篠崎を見ることが出来なかったら、その時点で一発アウト。
つまりこれに関しては絶対に隠すことが出来ないということだ。
真との接触が避けては通れない事象だということはわかった。これに関してはもうしょうがない。
でもさ。
無理だろ。
まず篠崎が死んだことに対して、真が受け入れられるのかがわからない。昔仲の良かった友人に久々に再会出来ると思ったら、とっくに死んでるって告げられるんだぞ。少なくとも僕なら耐えられない。
そして真が受け入れられたとして、今度は篠崎が幽霊として存在しているということも信じてもらわないといけない。でないと篠崎と会わせるなんて到底出来ない。
ただ普通幽霊なんて信じられるものじゃない。
僕と結城は予め篠崎が死んでいるということを知っていたうえで見えてしまったから、篠崎の幽霊を信じざるを得なかった。早乙女に関しては、元々霊感があったみたいだから信じるとかそういうのではなかったけど、僕達のようにたまたま見えてしまったという点では同じだ。
だけど真は違う。
偶然ではなく、僕の口から幽霊だと伝えるのだ。
どう考えたって上手くいく気がしない。
だって僕自身がまだ。
どうにかして誤魔化したいって思ってしまっているのに。
結城の目が光っている以上、連絡を取らないという選択肢はないということは理解している。
けど、篠崎に関する話はなるべく避けるようにして、説明の場を設けるのを限界まで引き延ばせないか。会わせないで済む方法はないか。そもそも真が篠崎の死を受け入れなければいいのに。そんなことがどうしても頭をよぎってしまう。
僕は真に嫉妬している。
朝、いつものように篠崎は僕の部屋にいた。
「おはよ!」
そしていつものように元気よく僕に挨拶をしてくれる。
でも僕は篠崎の顔を上手く見れないでいた。
「あれ、もしかして機嫌悪い?」
「別に」
こんな態度じゃ勘付かれるのも時間の問題だ。
「…………あのさ、篠崎」
覚悟を決めて、僕は言う。
「もし、真に会えるかもしれないって言ったら、どうする?」
篠崎の目が丸くなる。
「みつかったの?」
僕は静かに頷く。
「結城の高校にいるらしい」
「もしかして昨日は」
「結城に話を聞きに言ってたんだ」
まあ僕もその場で初めて聞いたんだけど。
「……会える、の?」
「あくまでも可能性ってだけで、確定はしてないんだけど」
「それでも会えるかもしれないんだよね」
期待を奥に宿した瞳が向けられる。その眩しさに、つい目を細めてしまう。
「…………今日の放課後、僕は真と会う」
昨日の夜、自分を必死に騙して何とか真に連絡をした。
簡単な雑談から始めて、僕は会う約束を取り付けることが出来た。
「じゃあ」
「いや今日は僕一人で会いに行く」
「どうして?」
「それは、だって、その」
どうやら本気でわかっていないらしく、篠崎は不思議そうに首を傾げている。
「真はお前が死んだこと知らないと思う、から」
こういうことはあまり口に出したくない。篠崎が死んでいるということを再認識させられてしまうから。それに篠崎だって、自分が幽霊だってことを突きつけられるのは辛いと思う。
「……そっか。確かにそうだよね。真くんとはもうずっと会ってないんだもんね」
「ごめん」
「何で謝ってるの?」
「何でって」
篠崎の目が細くなる。
「もしかして」
表情を一切崩すことなく篠崎が詰め寄ってくる。反射的に逃げようと後ずさるけど、僕のすぐ後ろにはベッドがあってそのまま倒れ込んでしまう。それを好機と見たのか、篠崎が僕の上に乗り上がってきた。
心臓がやかましく鳴る。恋愛感情からではなくて、どうしてこんなことをされているのかという動揺と篠崎から感情を読み取れないことへの恐怖からだった。
「おい、どけよ」
「どいたら洸基逃げるじゃん」
「そりゃ逃げるって」
誰だって理由もわからず詰め寄られたら逃げるだろ。
「洸基さ」
顔が近付いてくる。すぐにでも押し返したいのに、身体が固まって言うことを聞いてくれない。鼻先が触れそうな距離まできたところで篠崎は言う。
「今さら私に気を遣わないでよ」
「だってさ」
「私最初に言ったじゃん。軽口を言い合えるくらいがちょうどいいって」
確かに篠崎が戻ってきたその日、そんな感じのことを言っていた。
「だから洸基はそんな顔しないでよ。洸基だけは洸基のままでいて」
簡単に言わないで欲しい。
でもそれを口にしようとは思えなかった。
「……わかったからいい加減どいてくれ。僕、学校あるんだけど」
溜め息混じりに言うと、ようやく篠崎の顔に笑顔が戻る。
「うん、それそれ」
そして満足そうにして僕の上からどいてくれた。その様子を見て、また溜め息が出てしまう。
「とにかく、今日は僕一人で行くから」
「了解道中膝栗毛」
相変わらずセンスがどん底だし、そのギャル語のブームはとっくに終わったんだよ。てか実際に使っているのを聞いたのは初めてだから、本当に流行っていたのかすら怪しい。
「それで確認なんだけど、篠崎の答えは会いたいってことでいいんだよな」
「うん。真くんに会いたい」
「お前が死んだことも全部説明することになるとしてもか?」
「しつこいよ」
「……わかった」
ほら、無理だって。
「真にもそう伝えとく」
「ありがとう」
こんなの伝えられる訳がない。
篠崎はきっと僕が篠崎を好きだなんて考えてすらいないだろう。僕に僕であって欲しいと願う彼女からしたら、僕の告白は僕らしくない行動に違いない。
それも言い訳なのかもしれない。
でも篠崎が望まないのなら。
僕は最後までただの幼馴染みのままでいるのが正解なのではないだろうか。
もしかしたら僕は今、人生で一番緊張しているかもしれない。
真の通う高校、つまり結城のいる高校の前で人を待つのはこれで二回目だった。
あのときもそれなりに緊張はしていたけど、すぐ近くには早乙女と篠崎がいた。目立つ他校の制服も早乙女がいてくれたおかげで浮くことはなかった。また当事者は僕ではなくて篠崎だった。
それが今回は単身で待っていて、当事者は僕自身。緊張の度合いというのか種類が全然違う。
じろじろと見られているような視線が気になり、つい俯いてしまう。にもかかわらず、どうか早く来てくれという気持ちと、まだ会いたくないという気持ちがせめぎ合っていた。そんな相反する二つの気持ちが、さらに僕の心拍数をあげているような気がした。
やがて視界の端に足が入り込む。立ち止まったまま一向に動かないその足は女子のものじゃなくて男子のもの。ということは、つまり。
「洸基?」
何処か懐かしい、だけどあの頃よりほんの少し低くなった声が僕の名前を呼ぶ。その声に導かれるように僕は顔を上げる。
「……真、なのか?」
僕の問いかけに目の前の彼は柔らかい笑みを浮かべる。
「久しぶりだね」
「久しぶり」
数年ぶりに見た真の姿。僕よりも低かったはずの背は追い抜かれていて、顔付きも大人っぽくなっていた。でも笑ったときの顔にはまだ幼さが残っており、僕の知っている真の面影はちゃんとあった。
「えっと、どうしようか」
実は会う約束をするだけで精一杯でこの先のことを考えていなかった。ここは年上かつ誘った側である僕が引っ張るべきなのだろうけど、残念ながら今の僕に思考能力はないに等しい。そんなどうしようもない僕に真が助け舟を出してくれる。
「俺の家来る?」
「真の家?」
そういえば真は今何処に住んでいるのだろう。
「俺この近くで一人暮らししてるんだ。だから何も気にしなくていいよ」
一人暮らし。色々聞きたいところではあるが、どちらにしろ移動は必須だし他にいい場所も思いつかない。ここは真の案に乗らせてもらおう。
「じゃあお言葉に甘えて」
「そんな畏まらなくていいのに」
真の家は本当にすぐ近くだった。歩いて五分もかからないところにある何処にでもあるような賃貸アパートの一室に通される。
「お邪魔します」
「適当に座ってて。飲み物用意するから」
「いやいいよ別に」
「そう? けど洸基はお客様だしな」
「僕には畏まるなって言っておいてそれはないだろ」
でもこういうところは変わっていないなと思う。
「……それもそうだね」
「納得してくれて何よりだよ」
まあ篠崎じゃないんだから、真が変に意地を張ってくるとは思っていなかったのだけど。
「で、ええっと、洸基は俺に関することってどれくらい知ってるの?」
そうだゲームでもしようよ、みたいな感じで聞いてきた。あまりにも普通すぎて逆に困ってしまう。どんな気持ちで答えたらいいのかわからない。
「気にしなくていいよ。俺はもうとっくに整理がついてるから」
僕の思っていることがわかったのか、真は気遣いの言葉をかけてくれる。きっと僕が結城を介して会いに来た時点である程度のことは察していたのだろう。
「さすが新入生代表だな」
「茶化さないでよ。もしかして結城さんから聞いたの? そんな凄いものじゃないから」
僕からすればかなり凄いことなんだけど。しかもこれが謙遜とかじゃなくて、本人は本気でそう思っているんだよな。本当、変わってない。
「それで、洸基は何を知ってるの」
「……たいしたことは。ただ、離婚して父親の方に引き取られることになったから家を出たってことくらい。なんていうか、そういう一つ聞けば誰だって予想出来るようなレベル」
「うん。今洸基が言ったのであってるよ。俺の両親は離婚して、元の家に母さんと妹が残ることになって、俺は父さんに連れられて引っ越した。これが中学に入る前の春休みの話」
中学入学前。だから真は僕達の中学に来なかったんだ。
「ちなみに誰から聞いたの?」
「お前の、妹」
名前は確か芽衣だったはず。
「そっか。元気そうだった?」
「自分で確かめに行かないのか? 血を分けた実の兄妹なんだし、会いに行ったっていいと思うんだけど」
「なかなか難しくてさ」
真が困ったように笑う。
「……悪い」
失敗したと思った。こんなこと言うべきじゃなかった。真の妹はまだ小学生のようだったし、会えば間違いなく母親の耳に入る。真と会うことに反対なのだとしたら、それこそ二度と会えなくなってしまうかもしれない。そんなの二人ともきっと望んでいない。少し考えたらわかるはずなのに、どうしてよく考えもしないで口にしてしまったのだろう。
「洸基が気に病むことじゃないよ。よくある話だから」
「でも」
「でも、うん、そうだね。こうして一人暮らしをしてまで手の届く範囲に戻って来てしまったのは、色々心残りがあったからだろうね」
「…………強いんだな」
僕と違って、ちゃんと自分の気持ちを受け入れて認めることが出来るなんて。僕はもうずっと、見ないふりして聞こえないふりをしているというのに。
「俺の話はこれで終わり。他の話をしよう」
「ていうか、その『俺』って何だよ」
真の柔らかい言葉遣いには不釣り合いな一人称。彼が並べる言葉の中で『俺』という部分だけが浮いていた。
「ほら、俺ってあんまり男らしくないから。せめて一人称くらいは男らしくしようって思ったんだ」
照れくさそうにするのを見て、真でもそんなこと思ったりするんだと意外に思った。
「そういう洸基だって『僕』って言ってるけど、どうして?」
「これは」
僕だって同じだ。
僕は真のようになりたかった。
温厚で優しい彼のようになろうと思った。彼に少しでも近付きたくて当時彼が使っていた一人称を真似た。そういう形から入ろうとする点では、僕達はよく似ているのかもしれない。
「洸基?」
「え、ああ、僕もお前と同じような理由だ」
さすがに本人に直接「お前のようになりたかったから」と言うのは憚られた。
「確かに何か丸くなった気がするよ」
「丸くなったって、あのな」
「だって今の洸基は椿に意地悪を吹っ掛けるようなことはしなさそうだから」
突然篠崎の名前が出て、僕は心臓を掴まれたような気分になった。真の方から篠崎のことに触れてくるという想定をしていなかった。
「椿は元気にしてる? ちゃんと仲良くやってる?」
目の奥が熱くなる。やっぱり真は篠崎が死んだことを知らない。
「……元気なのは元気だよ」
幽霊ではあるけど、一応元気ではある。むしろ今が一番元気なのかもしれない。怪我をすることも病気になることも二度とないのだから。
「仲も良好な関係を築けていると思う」
少なくとも今のところは。
「ということは、二人は今でも交流があるんだね。良かった」
心の底から安心したというような穏やかな表情にまた胸が痛くなる。
言わなくてはいけない。篠崎が死んで幽霊になったことを。恋敵である前に真は友達だから。このまま共通の友達が死んだことを知らないままでいて欲しくない。
「真、あのさ」
「椿にも会いたいな。今度三人で何処か遊びに行こうよ」
何で。
お前までそんな目をするんだよ。
潤んだ瞳の奥から熱を感じる。頬も僅かだけど赤くなっているような気がする。
こんなのずるい。どうしてなんだよ。
「ごめん、遮っちゃって。何を言おうとしたの?」
言えない。
言いたくない。
でも真は友達なんだ。僕の大切な数少ない友達。
言わなきゃ。
言うんだ。
「もしかして言いにくいこと?」
「何で」
僕の顔を見ながら真が深い溜め息を吐く。
「洸基は自分がわかりやすい人間だってことをもう少し自覚した方がいいよ」
まさか数年ぶりに再会した、しかも最後にあったのが僕が小学校を卒業するときだった相手に言われるとは思わなかった。どれだけ僕は成長していないのだろう。悲しすぎる。
「それから」
「まだあるのかよ」
「洸基がこうなるときはたいてい椿関連」
完敗だった。何でそんなにわかるんだよ。それくらい僕がわかりやすすぎるのだろうか。確かに早乙女にも結城にもよく見透かされてはいたけども、それは単純に彼女達が勘が良すぎるのだと思っていた。
「椿に何かあったんだね」
観念して僕は頷く。真を欺くのは絶対に無理だと悟った。
「けど信じてもらえるかどうか」
「今さら何を言ってるの? 下手な嘘を吐いたところでバレるんだし、そもそもここで嘘を吐くような人じゃないでしょ、洸基は」
「僕は割と噓吐きだよ」
真が知らないだけで、本当の僕はしょうもない嘘ばかり口にする。
「だとしても、本気で俺を騙すつもりだったら自分が噓吐きだって明かしたりしないよ」
「そうかもしれないけど」
「どんな突拍子もないことだって俺は信じるよ」
曇りのない澄んだ瞳だった。何故こんなにも真っ直ぐに僕を信じてくれるのか、僕には到底理解出来なかった。でもどのみち僕に選択肢は残されていない。
「わかった」
大きく息を吐いて心を落ち着かせる。
「篠崎は……死んだ。死んで、幽霊になった」
真の顔を見る勇気が出なくて下を向いてしまう。
ついに言ってしまった。伝えてしまった。
長い沈黙。その静けさは時間が経つにつれて少しずつ僕の胸を締め上げていく。まるで僕がどれだけの負荷に耐えられるのか実験されているみたいだった。企てたのは神様だろうか。真から言葉を奪って、僕が沈黙に殺されるのを待っているのかもしれない。実際、僕の心は着実に蝕まれている。
もう限界だというところで、ようやく頭の上から真の声がする。
「そっか。だからあんな言い方をしたんだね」
想像していなかった言葉につい顔を上げてしまう。
「……あんな言い方?」
「元気なのは元気。聞いた瞬間から凄い引っかかってたんだ。でも洸基の言葉で納得がいった。あれは幽霊としてって意味だったんだね」
「信じるのか?」
こんなバカみたいな話を。
「俺はどんな突拍子もない話でも信じるって言ったはずだよ」
「言ってたけど」
「けど何?」
「僕の妄想だとか、そういうふうには思わないんだな」
「妄想なの?」
「違う、断じて妄想なんかじゃない」
僕だけじゃなくて早乙女と結城も篠崎のことを見ている。しかも僕から言ったのではなく、彼女達の方から見えるということを言ってきた。だからこれが妄想とかの類ではなく現実であるというのは確かなはずなんだ。
「ただこんなにも簡単に信じてもらえるなんて思ってなくて」
「俺だって別に何でも信じる訳じゃないよ。信じるのは相手が洸基だから。それだけの話」
恥ずかしげもなく言うその姿は同性の僕から見てもかっこよかった。
「洸基の他にも椿のことが見える人はいるの?」
「結城と僕の高校の友達が」
「俺も椿のこと見えるかな」
「……わからない」
幽霊である篠崎のことが見える理由の方は未だによくわかっていない。でも親しかった人が亡くなったとき、その人の幽霊だけは見ることが出来たみたいなのは意外とよく聞く話ではある。だからきっと僕と結城の場合はそれで、早乙女は神職の家系だからなのだと思う。
「見える可能性はある、と思う。けど、絶対とは言い切れない」
何故なら篠崎の両親のように、生前の彼女と深い関係だったにもかかわらず見えなかった人もいるから。僕達と彼らの間に何の差があるのかはわからない。それこそ体質的な問題なのかもしれないし、もっと別の何かなのかもしれない。真がその条件に当てはまっていないなんてことも充分にあり得る。
けど篠崎と何の繋がりもなかった早乙女が見えたんだ。ならたとえ条件を満たしていなくても真が見えることだってあるとは思う。
「それでも会いたいか?」
対面するその瞬間までどっちに転ぶかわからない。もし見えなかったら、辛い思いをするのは二人だ。
「俺は」
真と目が合う。
「俺はそれでも椿に会いたいと思うよ」
先程と違って沈黙の時間は一切なかった。それだけ強い想いがあるということなのだろう。
「そうか。篠崎もお前に会いたがってたから、きっと喜ぶよ」
「椿も? 嬉しいな。俺のこと憶えてくれてたんだね」
「忘れる訳ないだろ」
だって篠崎は真のことが好きなのだから。
「それに会いたいって思ってるのが俺だけじゃなくて良かった」
「真はさ」
僕はついにその言葉を口にする。
「篠崎のことが好きなんだな」
「…………うん。好きだよ。ずっと好きだった」
緩んだ顔にどうしようもない気持ちになる。
なあ真、僕も篠崎のことが好きなんだ。
「……だと思った」
たったそれだけのことがどうしても言えなかった。