真っ暗な川原でなぜか校歌を歌わされ。
蕾がほころび始めた梅園で今の心境を一句詠まされ。
それから長い石段を黙々と登らされた。
向かっているのは、学園の東側にある山の中腹にある展望所。
そこで、眠気もピークの頃に無理やり二度目の食事を摂るのが、夜間遠行では恒例となっている。
「…………」
私の前を行く貴人も、すぐうしろの諒も、それに続く佳世ちゃんも渉も、もう誰も口を開かない。
夜にみんなで歩く――なんていつもはできない体験が、楽しいのは序盤から中盤まで。
終盤にさしかかると六百人あまりの同じジャージの群れは、みんな口をつぐみ、重たい足をひきずるようにして、ただ黙々と次の目的地を目指す。
その実、一人一人、本当に数多くのものと戦っているのだ。
(もうやだ……足、痛い……右肩も……)
肉体的苦痛と。
(あーあ、なんで私、今年も参加しちゃったんだろう……? そりゃあ全員参加の学校行事には違いないけど、仮病使うとかさ……)
自分の思い切りのなさを嘆く気持ちと。
(だいたいなんでこんな行事があるわけ? ……進学校なんだから、勉強だけしてればいいじゃない……! 肉体の鍛錬とか、精神力を鍛えるとか……そんなの、やりたい人が勝手にやればいいのよ……!)
疲れを怒りに置き変えて、学校を非難する気持ち。
しかし――。
(……………疲れた)
しょせんはそのひとつに尽きる。
考えてもどうしようもないことを、このまま考え続けても、余計に疲れるだけだ。
私は考えることをやめ、あまり意識しないようにただ慣性で足を動かしながら、目の前の背中を見た。
途中でちゃんと保険医の手当てを受けた貴人は、今は左腕を包帯で吊っている。
(ゴメンね……)
謝っても「平気、平気」と笑われるばかりだから、なおさら申し訳ない。
せめて荷物を持とうかと申し出たのに、「琴美だって怪我してるからダメ」と渡してもらえなかった。
右肩だけに引っ掛けたリュックも、背の高い貴人だとそう重そうには見えないが、長い石段を登るのにはバランスが悪そうで、本当に申し訳ない。
そんなことを思いながら歩いていたら、小石を踏んで体勢を崩しかけてしまい、一段下にいた諒に支えられた。
「なにやってんだ……! 階段は危ないんだから、ちゃんと歩くことに集中しろ……!」
「う、うん。ゴメン……」
素直に返事して、私は足元に視線を戻す。
命令口調の言い方にはちょっとカチンとしたが、いつものように「なんですって!」とこぶしをふり上げる気にはなれない。
疲れきってそんな元気がないからというのが理由の一つ。
諒の言うことが正しいからというのも一つ。
そして、私の荷物をずっと諒が、文句も言わずに持ってくれているからというのも、一つだった。
二度の食事のためのお弁当や、防寒着、雨具。
今年はオリエンテーリング形式でどんな問題が出されるかもわからなかったから、用心のために本も少し入っている。
いくら私が水筒を忘れたとはいっても、それらが全部入ったリュックを、二人ぶん背負って歩き続けるのは結構辛いだろう。
「ねえ諒……やっぱり……」
自分で持とうかと言いかけると、先にそれを察知したらしい諒に、シッシッと追い払うような仕草で再び前を向かされる。
「いいから。気にしないでちゃんと前見て歩け。お前が落っこちてきたら俺まで危ない……」
「うん」
かすかに息の上がった声で、それでも憎まれ口は忘れずに、ちゃんと返事をしてくれるから、これ以上諒に負担をかけたくなくて、私は口をつぐんだ。
「琴美、大丈夫……? あともう少しだと思うよ?」
ふり返って笑ってくれた貴人にも、すぐにうんと頷く。
こんな私なんかに二人がかけてくれる優しさが、嬉しくて申し訳なかった。
午後九時から始まった夜間遠行も、開始から九時間が過ぎ、私たちは行程のほぼ九割の所まで来ていた。
今目指している展望所に到達したら、その次の目的地は、もうゴールである学校だ。
(よくがんばったな……)
疲労感と共に少しの満足感を感じることは確かだが、なにも最後近くになって千段もの石段を登らせることはないのではないかとも思う。
私でなくてもあちこちで、足を踏み外す生徒の声が聞こえる。
(くたくたに疲れてるんだから、危ないのに……)
不満まじりにそんなことを呟いたら、貴人に背中のままクスリと笑われた。
「それはやっぱり……あの時間にあの場所に、みんなを居させてあげたいっていう学校側の配慮なんじゃないかな……」
「え…………?」
貴人の言ってることがよくわからず、首を捻る私に向かって諒が聞いてくる。
「おい。まさか何のことかわからないなんて言うんじゃないよな……?」
ちょっと驚いたような訝る声に、「うん」と頷いたならどんなに呆れた顔をされるか。
重々覚悟しながらも、私は恐る恐る諒をふり返った。
「わかんないんだけど……」
「…………!」
諒は大きなため息をついて私から顔を背け、貴人は肩を震わせて笑い始めた。
「お前なあ! 去年も遠行には出たんだろ……?」
激する諒のうしろからひょっこりと渉が顔を出す。
「あ……最後のチェックポイントだったら、琴美は半分寝てたよ? 俺のぶんも弁当作ったから、夕方に仮眠できなかったとかで、その弁当食べるなり俺に寄り掛かってきて……」
「渉! ……渉!!」
間にいる諒を突き飛ばさんばかりの勢いで三段ほど階段を駆け下り、私は渉に飛びついた。
「なに?」
きょとんと瞳を瞬かせる渉に悪気はない。
昨年の今頃は、私はまだ渉とつきあっていて、そのことはここにいるみんなが知ってることなんだから、今さら隠す必要もない。
だけど――。
「ふーん。行くぞ貴人……」
私にはもう目も向けず、貴人を誘って再び歩きだす諒の全身からは棘が突き出たように見えた。
「あ? ああ……」
一瞬呆けていた貴人は、我に返ったかのように諒のうしろに続き、継いでふっと佳世ちゃんに笑顔を向ける。
「高瀬さんも……行く?」
ダンスをエスコートする時のように、自分に向かって優雅にさし出された右手を、「私なら大丈夫」と佳世ちゃんはやんわりと断わった。
その光景の全てに、私はもう何重もの意味で居たたまれなかった。
(なんなのよこれ……!)
このメンバーで夜間遠行のグループを組むとなった時から、私が密かに恐れていた最悪の展開。
(もう嫌っ!)
頭をかきむしりたいほどの思いで、いっそう疲れながら、私は重い足をひきずって再び歩き始めた。
目的地の展望所へ到着し、早い朝食となる二度目のお弁当を開く頃には、貴人と佳世ちゃんと渉はすっかりいつものとおりだった。
「わあ……高瀬さんのお弁当美味しそうだね……」
「ほんと。去年の琴美のヤツよりずっとすごいよ……」
「そんな……」
(渉……これ以上余計なこと言われたらたまらないから、今は聞き逃しておくけど……あとで絶対に殴る!)
私はこぶしを握りしめてそんな三人のやり取りを見ながら、黙って座っていた。
諒は私たちと少し距離を置いて、ここで見つけた剛毅や玲二君のグループに混じってしまっている。
頑ななまでに私に背を向け続ける黒髪に、私はため息をついた。
(すぐに怒っちゃうのはいつものことだし……渉の話に怒ったってことは、ちょっとは妬きもち妬いてくれてるのかな、なんて……むしろ嬉しいけど……)
今このタイミングで、というのは実にまずかった。
(あーあ……せっかく作ってきたのに……)
実は私は、自分のぶんに加えていくつか余分におにぎりを作ってきていた。
佳世ちゃんの立派なお弁当と比べて、実に失礼なことを言っている今年の渉はともかく、去年の渉は私が作ってきたお弁当を「美味しい美味しい」と食べてくれた。
はっきり言ってさっき諒に呆れられたとおり、私はこの展望所に何があるのかは全く覚えていないけれど、その渉の嬉しそうな顔だけはしっかりと覚えてる。
(だからって諒に、素直に渡せるなんて思ってなかったけどね……)
日頃お世話になってるからとかなんとか。
苦しい言い訳も考えてきていたのに、全部水の泡だ。
だからといって、貴人にあげるなんてことも、今さらあてつけがましくできるはずもない。
(どうしよこれ……)
途方にくれながらリュックの中を覗きこんでいたら、背後からにゅつと手が伸びてきた。
「何? 余ってるんならもらおうか? なんでそんなにたくさん持ってきてるの……まったく食い意地がはってるね……」
嫌味ったらしくそんなことを言いながら、あつかましく私のおにぎりを取っていこうとする相手をふり返って確認して、私は悲鳴を上げた。
「ぎゃああ! 柏木!」
「柏木?」
呼び捨てにされたことに眉をひそめた宿敵の名前を、私は慌てて言い直す。
「柏木……君! ……勝手に持っていかないでよ、ちょっと!」
取り返そうと手を伸ばした私の腕をかいくぐって、柏木はそのまま二、三歩後退った。
「いいじゃない。いとしの芳村君は高瀬さんのお弁当がいいみたいだし……あんまり気の毒だから、毒見してあげるよ。これってボランティア?」
ニタニタと笑いながら、そのまま自分たちのグループが陣取った場所に帰ろうとした柏木の前に、人影が立ちはだかった。
「あっ……!」
私が名前を口にする間もなく、彼は柏木の手から私のおにぎりを取り上げた。
「バカか、お前は! 小学生かよ!」
心底呆れたような声とは不釣あいに、かなりの怒りに燃えた目で至近距離から睨まれて、柏木は挙動不審に目を泳がす。
「ちょっとからかっただけだよ……そんなに怒ることないじゃないか、勝浦君……」
逃げるように走り去って行く背中に、諒は大声で叫んだ。
「怒ってない! なんで俺が怒んなくちゃいけないんだ!」
(いや……どう聞いても怒ってるでしょ、それ……)
私だけじゃなく、もう暗い中に背中が見えなくなった柏木だって、心の中できっとそうつっこんだに違いないと私は思った。
「ほら」
私が座るところまでやって来た諒は、怒ったように私におにぎりをさし出した。
だから私はこれがきっとチャンスなんだと、意を決して口を開いた。
「よ、よかったら諒が食べて。本当にたくさん作ってきちゃったんだ……ほら」
リュックの中からまだ二、三個のおにぎりを取り出して見せると、諒は「それじゃ」と口の中だけで呟いた。
俯いた頬がちょっと赤いように見えるのは気のせいだろうか。
そんなふうに思ったら、自分の方こそボッと顔に火がついたかのように赤くなってしまって大慌てする。
「ま、まだあるけどいる?」
「おお」
いつになく素直に、諒がそんなふうに返事するからますます焦る。
あたふたとしながら、私が諒に向かってさし出したおにぎりを、横から大きな手が一つ攫った。
「俺にもちょうだい」
貴人だった。
ドキリと心臓が跳ねた私に向かってではなく、貴人は自分と私の前に立ったままの諒に向かって確認する。
「いいだろ?」
俯いていた諒が顔を上げた。
一瞬私にチラリと目を向けてから、貴人に向かって口を開く。
「だ……」
とてつもなくドキドキした。
(なんて言うつもり? それはどうして? そしたら貴人はどうするの? それで私たちの関係は……これからどうなるの?)
一瞬の間にいろんなことが頭を駆け巡った私は、とても諒の返事を待ってはいられなかった。
「ど、どうぞ貴人! あ、渉も食べる? なんなら……剛毅や玲二君にも持っていってよ、諒!」
リュックから次々とおにぎりを取り出しながら、みんなに押し付けるように渡していく私を見下ろして、諒がふうっと息を吐いた。
「……わかった。高瀬だけじゃなく、美千瑠や夏姫の弁当とも味を比べてくれって……そういうことだな」
一瞬、本当にほんの一瞬。
なんだか複雑そうな顔をしたくせに、諒は次の瞬間には意地悪く笑って、私にそんなことを言った。
「は? ……何言ってんの?」
「ハハハッ……そうなの? 琴美って結構チャレンジャーだね?」
さっきは諒に向かって、結構真剣な顔をしていたくせに、貴人までそんなことを言って笑いだす。
「ちょ、ちょっと待って! これは……そういう意味じゃないわよ?」
確かに十二時間前。
おにぎりを作った時には、私は諒のことだけを考えて作ったのだ。
「食べてもらえるかな?」なんて乙女チックモード全開でドキドキしながら作ったのだ。
「じゃあまあ……俺もついでに食べるかな…」
本来の目的である諒のほうが、いつの間にか「ついで」になってしまっている。
「だから、そうじゃないってば!」
焦る私をよそに「じゃあな」と行ってしまう背中。
その背中を見ながら私は頭を抱えた。
(なんでこうなるの?)
悔しくて、虚しくて、呆けてしまう。
でもこの思いが、これからの数ヶ月間、自分の頭を支配し続けることになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
蕾がほころび始めた梅園で今の心境を一句詠まされ。
それから長い石段を黙々と登らされた。
向かっているのは、学園の東側にある山の中腹にある展望所。
そこで、眠気もピークの頃に無理やり二度目の食事を摂るのが、夜間遠行では恒例となっている。
「…………」
私の前を行く貴人も、すぐうしろの諒も、それに続く佳世ちゃんも渉も、もう誰も口を開かない。
夜にみんなで歩く――なんていつもはできない体験が、楽しいのは序盤から中盤まで。
終盤にさしかかると六百人あまりの同じジャージの群れは、みんな口をつぐみ、重たい足をひきずるようにして、ただ黙々と次の目的地を目指す。
その実、一人一人、本当に数多くのものと戦っているのだ。
(もうやだ……足、痛い……右肩も……)
肉体的苦痛と。
(あーあ、なんで私、今年も参加しちゃったんだろう……? そりゃあ全員参加の学校行事には違いないけど、仮病使うとかさ……)
自分の思い切りのなさを嘆く気持ちと。
(だいたいなんでこんな行事があるわけ? ……進学校なんだから、勉強だけしてればいいじゃない……! 肉体の鍛錬とか、精神力を鍛えるとか……そんなの、やりたい人が勝手にやればいいのよ……!)
疲れを怒りに置き変えて、学校を非難する気持ち。
しかし――。
(……………疲れた)
しょせんはそのひとつに尽きる。
考えてもどうしようもないことを、このまま考え続けても、余計に疲れるだけだ。
私は考えることをやめ、あまり意識しないようにただ慣性で足を動かしながら、目の前の背中を見た。
途中でちゃんと保険医の手当てを受けた貴人は、今は左腕を包帯で吊っている。
(ゴメンね……)
謝っても「平気、平気」と笑われるばかりだから、なおさら申し訳ない。
せめて荷物を持とうかと申し出たのに、「琴美だって怪我してるからダメ」と渡してもらえなかった。
右肩だけに引っ掛けたリュックも、背の高い貴人だとそう重そうには見えないが、長い石段を登るのにはバランスが悪そうで、本当に申し訳ない。
そんなことを思いながら歩いていたら、小石を踏んで体勢を崩しかけてしまい、一段下にいた諒に支えられた。
「なにやってんだ……! 階段は危ないんだから、ちゃんと歩くことに集中しろ……!」
「う、うん。ゴメン……」
素直に返事して、私は足元に視線を戻す。
命令口調の言い方にはちょっとカチンとしたが、いつものように「なんですって!」とこぶしをふり上げる気にはなれない。
疲れきってそんな元気がないからというのが理由の一つ。
諒の言うことが正しいからというのも一つ。
そして、私の荷物をずっと諒が、文句も言わずに持ってくれているからというのも、一つだった。
二度の食事のためのお弁当や、防寒着、雨具。
今年はオリエンテーリング形式でどんな問題が出されるかもわからなかったから、用心のために本も少し入っている。
いくら私が水筒を忘れたとはいっても、それらが全部入ったリュックを、二人ぶん背負って歩き続けるのは結構辛いだろう。
「ねえ諒……やっぱり……」
自分で持とうかと言いかけると、先にそれを察知したらしい諒に、シッシッと追い払うような仕草で再び前を向かされる。
「いいから。気にしないでちゃんと前見て歩け。お前が落っこちてきたら俺まで危ない……」
「うん」
かすかに息の上がった声で、それでも憎まれ口は忘れずに、ちゃんと返事をしてくれるから、これ以上諒に負担をかけたくなくて、私は口をつぐんだ。
「琴美、大丈夫……? あともう少しだと思うよ?」
ふり返って笑ってくれた貴人にも、すぐにうんと頷く。
こんな私なんかに二人がかけてくれる優しさが、嬉しくて申し訳なかった。
午後九時から始まった夜間遠行も、開始から九時間が過ぎ、私たちは行程のほぼ九割の所まで来ていた。
今目指している展望所に到達したら、その次の目的地は、もうゴールである学校だ。
(よくがんばったな……)
疲労感と共に少しの満足感を感じることは確かだが、なにも最後近くになって千段もの石段を登らせることはないのではないかとも思う。
私でなくてもあちこちで、足を踏み外す生徒の声が聞こえる。
(くたくたに疲れてるんだから、危ないのに……)
不満まじりにそんなことを呟いたら、貴人に背中のままクスリと笑われた。
「それはやっぱり……あの時間にあの場所に、みんなを居させてあげたいっていう学校側の配慮なんじゃないかな……」
「え…………?」
貴人の言ってることがよくわからず、首を捻る私に向かって諒が聞いてくる。
「おい。まさか何のことかわからないなんて言うんじゃないよな……?」
ちょっと驚いたような訝る声に、「うん」と頷いたならどんなに呆れた顔をされるか。
重々覚悟しながらも、私は恐る恐る諒をふり返った。
「わかんないんだけど……」
「…………!」
諒は大きなため息をついて私から顔を背け、貴人は肩を震わせて笑い始めた。
「お前なあ! 去年も遠行には出たんだろ……?」
激する諒のうしろからひょっこりと渉が顔を出す。
「あ……最後のチェックポイントだったら、琴美は半分寝てたよ? 俺のぶんも弁当作ったから、夕方に仮眠できなかったとかで、その弁当食べるなり俺に寄り掛かってきて……」
「渉! ……渉!!」
間にいる諒を突き飛ばさんばかりの勢いで三段ほど階段を駆け下り、私は渉に飛びついた。
「なに?」
きょとんと瞳を瞬かせる渉に悪気はない。
昨年の今頃は、私はまだ渉とつきあっていて、そのことはここにいるみんなが知ってることなんだから、今さら隠す必要もない。
だけど――。
「ふーん。行くぞ貴人……」
私にはもう目も向けず、貴人を誘って再び歩きだす諒の全身からは棘が突き出たように見えた。
「あ? ああ……」
一瞬呆けていた貴人は、我に返ったかのように諒のうしろに続き、継いでふっと佳世ちゃんに笑顔を向ける。
「高瀬さんも……行く?」
ダンスをエスコートする時のように、自分に向かって優雅にさし出された右手を、「私なら大丈夫」と佳世ちゃんはやんわりと断わった。
その光景の全てに、私はもう何重もの意味で居たたまれなかった。
(なんなのよこれ……!)
このメンバーで夜間遠行のグループを組むとなった時から、私が密かに恐れていた最悪の展開。
(もう嫌っ!)
頭をかきむしりたいほどの思いで、いっそう疲れながら、私は重い足をひきずって再び歩き始めた。
目的地の展望所へ到着し、早い朝食となる二度目のお弁当を開く頃には、貴人と佳世ちゃんと渉はすっかりいつものとおりだった。
「わあ……高瀬さんのお弁当美味しそうだね……」
「ほんと。去年の琴美のヤツよりずっとすごいよ……」
「そんな……」
(渉……これ以上余計なこと言われたらたまらないから、今は聞き逃しておくけど……あとで絶対に殴る!)
私はこぶしを握りしめてそんな三人のやり取りを見ながら、黙って座っていた。
諒は私たちと少し距離を置いて、ここで見つけた剛毅や玲二君のグループに混じってしまっている。
頑ななまでに私に背を向け続ける黒髪に、私はため息をついた。
(すぐに怒っちゃうのはいつものことだし……渉の話に怒ったってことは、ちょっとは妬きもち妬いてくれてるのかな、なんて……むしろ嬉しいけど……)
今このタイミングで、というのは実にまずかった。
(あーあ……せっかく作ってきたのに……)
実は私は、自分のぶんに加えていくつか余分におにぎりを作ってきていた。
佳世ちゃんの立派なお弁当と比べて、実に失礼なことを言っている今年の渉はともかく、去年の渉は私が作ってきたお弁当を「美味しい美味しい」と食べてくれた。
はっきり言ってさっき諒に呆れられたとおり、私はこの展望所に何があるのかは全く覚えていないけれど、その渉の嬉しそうな顔だけはしっかりと覚えてる。
(だからって諒に、素直に渡せるなんて思ってなかったけどね……)
日頃お世話になってるからとかなんとか。
苦しい言い訳も考えてきていたのに、全部水の泡だ。
だからといって、貴人にあげるなんてことも、今さらあてつけがましくできるはずもない。
(どうしよこれ……)
途方にくれながらリュックの中を覗きこんでいたら、背後からにゅつと手が伸びてきた。
「何? 余ってるんならもらおうか? なんでそんなにたくさん持ってきてるの……まったく食い意地がはってるね……」
嫌味ったらしくそんなことを言いながら、あつかましく私のおにぎりを取っていこうとする相手をふり返って確認して、私は悲鳴を上げた。
「ぎゃああ! 柏木!」
「柏木?」
呼び捨てにされたことに眉をひそめた宿敵の名前を、私は慌てて言い直す。
「柏木……君! ……勝手に持っていかないでよ、ちょっと!」
取り返そうと手を伸ばした私の腕をかいくぐって、柏木はそのまま二、三歩後退った。
「いいじゃない。いとしの芳村君は高瀬さんのお弁当がいいみたいだし……あんまり気の毒だから、毒見してあげるよ。これってボランティア?」
ニタニタと笑いながら、そのまま自分たちのグループが陣取った場所に帰ろうとした柏木の前に、人影が立ちはだかった。
「あっ……!」
私が名前を口にする間もなく、彼は柏木の手から私のおにぎりを取り上げた。
「バカか、お前は! 小学生かよ!」
心底呆れたような声とは不釣あいに、かなりの怒りに燃えた目で至近距離から睨まれて、柏木は挙動不審に目を泳がす。
「ちょっとからかっただけだよ……そんなに怒ることないじゃないか、勝浦君……」
逃げるように走り去って行く背中に、諒は大声で叫んだ。
「怒ってない! なんで俺が怒んなくちゃいけないんだ!」
(いや……どう聞いても怒ってるでしょ、それ……)
私だけじゃなく、もう暗い中に背中が見えなくなった柏木だって、心の中できっとそうつっこんだに違いないと私は思った。
「ほら」
私が座るところまでやって来た諒は、怒ったように私におにぎりをさし出した。
だから私はこれがきっとチャンスなんだと、意を決して口を開いた。
「よ、よかったら諒が食べて。本当にたくさん作ってきちゃったんだ……ほら」
リュックの中からまだ二、三個のおにぎりを取り出して見せると、諒は「それじゃ」と口の中だけで呟いた。
俯いた頬がちょっと赤いように見えるのは気のせいだろうか。
そんなふうに思ったら、自分の方こそボッと顔に火がついたかのように赤くなってしまって大慌てする。
「ま、まだあるけどいる?」
「おお」
いつになく素直に、諒がそんなふうに返事するからますます焦る。
あたふたとしながら、私が諒に向かってさし出したおにぎりを、横から大きな手が一つ攫った。
「俺にもちょうだい」
貴人だった。
ドキリと心臓が跳ねた私に向かってではなく、貴人は自分と私の前に立ったままの諒に向かって確認する。
「いいだろ?」
俯いていた諒が顔を上げた。
一瞬私にチラリと目を向けてから、貴人に向かって口を開く。
「だ……」
とてつもなくドキドキした。
(なんて言うつもり? それはどうして? そしたら貴人はどうするの? それで私たちの関係は……これからどうなるの?)
一瞬の間にいろんなことが頭を駆け巡った私は、とても諒の返事を待ってはいられなかった。
「ど、どうぞ貴人! あ、渉も食べる? なんなら……剛毅や玲二君にも持っていってよ、諒!」
リュックから次々とおにぎりを取り出しながら、みんなに押し付けるように渡していく私を見下ろして、諒がふうっと息を吐いた。
「……わかった。高瀬だけじゃなく、美千瑠や夏姫の弁当とも味を比べてくれって……そういうことだな」
一瞬、本当にほんの一瞬。
なんだか複雑そうな顔をしたくせに、諒は次の瞬間には意地悪く笑って、私にそんなことを言った。
「は? ……何言ってんの?」
「ハハハッ……そうなの? 琴美って結構チャレンジャーだね?」
さっきは諒に向かって、結構真剣な顔をしていたくせに、貴人までそんなことを言って笑いだす。
「ちょ、ちょっと待って! これは……そういう意味じゃないわよ?」
確かに十二時間前。
おにぎりを作った時には、私は諒のことだけを考えて作ったのだ。
「食べてもらえるかな?」なんて乙女チックモード全開でドキドキしながら作ったのだ。
「じゃあまあ……俺もついでに食べるかな…」
本来の目的である諒のほうが、いつの間にか「ついで」になってしまっている。
「だから、そうじゃないってば!」
焦る私をよそに「じゃあな」と行ってしまう背中。
その背中を見ながら私は頭を抱えた。
(なんでこうなるの?)
悔しくて、虚しくて、呆けてしまう。
でもこの思いが、これからの数ヶ月間、自分の頭を支配し続けることになるとは、この時はまだ思いもしなかった。