ひょっとしてHEAVEN !? 3

 私の手を引き歩きながらも、やっぱり貴人はずっと何かを話していた。
 この夜間遠行のことや。
 『HEAVEN』の活動のこと。
 尽きることなく出てくる話題が大学のことに及ぶにいたって、私はようやく、これまでなんとなく本人に確認し損ねていたことを口にしてみた。

「貴人……本当に大学に進学するの……?」
「ああ。そのつもりだけど……」
「それで……あの……」
 でもいくら私でも、「やっぱり私と同じ大学に行くつもり?」なんて率直には聞けない。

 なんと言ったらいいものかと困りながら、必死に次の言葉を探す私の耳に、貴人の笑い混じりの声が聞こえてきた。
「ごめん……あの時のセリフを、もう一回ここで言ってあげられたらいいんだろうけど……さすがにあれは、俺にとっても決死の覚悟だったんだよね……」

 ボッと頭に血が上ってしまって、この場に卒倒するかと思った。
「いい! もう一回なんて……! 言わなくっても大丈夫! 大丈夫だから……!」
 大慌てでそう答えると、貴人は肩を揺すって大笑いを始める。
「ハハハッ……そんなに拒否しなくても……!」

「拒否じゃないわよ! でも……だって……!」
 負けじと言い返しながらも次の言葉に詰まる頃には、私は、貴人と二人きりになると思った時から抱えてしまった変な緊張が、不思議となくなっている自分に気がついていた。

 貴人がいつものように私に手をさし出してくれたから。
 笑ってくれたから。
 これまでのように自然に接することができるようになったのだと思う。

 笑い過ぎて涙を拭きながらも前を向いて歩き始めた貴人の、綺麗過ぎる横顔に目を向ける。
(ありがとう……)
 これまでどんな時も、いつもいつもどん底の気持ちから私を救って、立ち上がらせてくれた人が、そこにはいた。
 

 
「それで……琴美はどこの大学に行こうと思ってるの?」
 思い切って私が進学の話を始めたことで、貴人の中でも何かが吹っ切れたのだろうか。
 朗らかな声で尋ねられる。

 だけど私は、ふいに痛いところを突かれて、思わず呻き声を上げた。
「うっ……」
 そういえば、衝撃の大晦日からこっち、そのことをすっかり忘れていた。

 なるべく早く決めるようにと、冬休みの最中にわざわざうちまで大学名鑑を持ってきてくれた担任にしてみたら、どれだけ薄情な教え子だろう。
(先生……ごめんなさい……)

 もうすぐ受験生だというのに、それ以外のことで頭がいっぱいだった自分を深く反省しつつ、私はこの際だからもう、貴人に助けを求めることにした。
「それなんだけど……実を言うと、まだ決めてないんだよね……」

 ブッと一瞬吹き出した貴人は、すぐにそれを抑えて、私に笑顔を向けた。
「いいんじゃない? ゆっくりと決めれば……」
 さすがだ。
 ここで再び大笑いを始めると、私がプイッとへそを曲げてしまうことも、貴人には全てわかっているような気がする。
 それでいて私を追いこむようなことは決して言わず、やんわりと前向きに背中を押してくれる。

 貴人といると気持ちが楽になる。
 自然体のまま、私は私のままで、それでもいいと思える。
 肩の力が抜けた状態で、素直にがんばってみようという気持ちが湧いてくるなんて、なんて幸せな状況なんだろう。

 そこまで考えて、私はハッと、貴人の大きな手を握る自分の手を見つめた。
(幸せ? ……これって幸せ……なのかな?)
 突然降って沸いた解答に、私は驚いて貴人の背中を凝視した。

(貴人と一緒にいると……私って幸せなの?)
 それは自分でも思ってもみなかった答えだった。
 

 
 例えば貴人が『学園の王子』と呼ばれるくらいの、できすぎの人気者じゃなかったなら、私はどうしていたんだろう。
 笑顔を見ているだけで幸せな気持ちになる。
 落ちこんだ時には必ず手をさし伸べてくれる。
 そんな貴人を他の誰にも譲りたくはないと、もっと必死にがんばったんではないだろうか。
 ――諒を好きだと思って、ジタバタしている今の想いとそう違わないくらいには。

 でもそんなことを思うには、あまりに貴人はすご過ぎて。
 外見も中身も、その横に自分が並ぶなんて想像もできないくらいに完璧で。
 考えてみること自体、最初から考えられなかった。

 それに繭香がいた。
 全然似ていないようなのに、貴人によれば、内面に私とよく似た物を抱えているという繭香を理解したいという気持ちのほうが、何を置いても私の最優先で、貴人のことなんてあと回しだった。

 そのうち、繭香の貴人に対する想いに気がついてしまったら、そのあとはもう考えてみることさえしようとはしなかった。
(じゃあその全部をとり除いたら……? 一人の男の子として見たなら、私は貴人のことをどう思っている?)

 そんなことは簡単だ。
 この手に導かれて、この笑顔に励まされたから、私はいつだって実力以上の力を出せた。
 貴人が口にする「嘘のつけない琴美。真っ直ぐな琴美」に少しでも近づきたくて、 こうありたいと思う自分を真正面から目指せた。

 意地を張ることもなく。
 無理をすることもなく。
 たとえ力が及ばなくて、失敗したとしても、何も恐れるものはない。
 だって何よりも私に力をくれるあの笑顔で、貴人が「大丈夫」と言ってくれたなら、私は何度でも立ち上がれるのだから。

(どうしよう……私……!)
 これまで貴人が、包みこむように私に与えてくれていた想いが、どんなに大きくて、どんなに自分にとって大切だったのかに思い至って、涙が浮かんできそうだった。

(貴人……!)
 とても今までのように、その全てにもう知らないふりはできない気がした。
 
 

「琴美……ねえひょっとしてここじゃないかな?」
「へっ?」
 例によって、本来今やらなければならないことをすっかり忘れて、自分との自問自答にふけっていた私は、突然立ち止まった貴人に、かなりまぬけな返事をしてしまった。

 貴人はそんな私を咎めることなく、クククと喉の奥で笑いながら、目の前にある河童の像を指差す。
「ほら、こことこことあそこ。ちょうどこんなふうな配置じゃなかった? 暗いから遠くの山の形までは確認できないんだけど……」

 チェックポイントで渡された、あのあまり上手くはない風景画を頭の中で思い浮かべて、私は叫んだ。
「確かに!」

 何本もの道が繋がっているところといい、大きな木が二本生えているところといい、きっとここでまちがいはないだろう。
 自慢の記憶力を駆使して、私はそう結論づける。

「ここに何があるのかな?」
 呟きながら歩きだそうとして、ハッと気がついた。
 まだ貴人と手を繋いだままだった。
 しかも貴人の倍もの力で、私のほうがしっかりと握り締めている。

「ご、ごめん……!」
 慌てて放そうとしたら、貴人がクスリと笑った。
「俺は別にずっとこのままでもいいよ?」
 ドキリとどうしようもなく心臓が跳ねる。
「え? は? ……でっ、でも……!」

 ダメだ。
 貴人の想いの大きさとか。
 自分がもともと貴人に抱いていたはずの淡い感情だとか。
 いろいろ自覚してしまったせいで、また心拍数が上がってきた。
 とても普通になんて接することができない。

 思わず乙女ムードの感情に流されて、「私もこのままでいい」なんて頬を染めて言ってしまそう。
(でも……! だけど……!)

 頭に浮かんでくる諒の顔に違った意味で胸を痛めながら、私は必死に後退りした。
「そ、そんなわけにはいかないよ。やっぱり!」
 慌ててふり解こうとする手を、貴人は放してくれない。
「琴美……ちょっと待って……」

 なんだかちょっと貴人の顔が真剣になった気がするけれど、私はなおさら焦るばかりだった。
「貴人、ゴメン! 私、なんか混乱してて……!」
「うんわかった。わかったから琴美……それ以上下がらないで……」
「へっ?」
 静かだが妙に迫力のこもった貴人の声と表情に、私が首を捻った時にはもう遅かった。

 ガラッと足元で何かが崩れる音と共に、私の体は宙に放りだされていた。
「……? ……きゃああああ!」

 いつの間にか背後に迫っていた真っ暗な崖の下に、自分はこれからまっ逆さまに落ちていくんだと、私の頭が理解した。
「いやああああ!!」

 でも実際にはそうはならなかった。
 まさかこうなることを予想していたわけではないのだろうが、貴人が放そうとしてくれなかった私の右手は、まだしっかりと貴人の手の中にあった。

「琴美!」
 自分も地面に叩きつけられながら、貴人が両手で私の腕を持ってくれたから、私は足元に何もない空間の恐怖を感じながらも、その場に宙吊りになり、かろうじて崖から落下せずには済んだ。
 だけど――。

 私の腕を掴む貴人の手から、ツウッと何かが流れ落ちてくる。
 夜の闇の中でも、それが真っ赤な血だということが、私の目に見えた。

「貴人!」
 焦る私を宥めるように、貴人はいつものように笑ってみせる。

「大丈夫だよ、琴美。すぐに助けるから」
 でもその綺麗な微笑みは、私から見てもかなり蒼白で、貴人が必死に無理をしてるんだろうってことがよくわかる。

「やだ貴人! 怪我したんじゃないの? ……私のことはいいから、手を放して!」
「嫌だ」
 悲鳴のような声で懇願する私に、きっぱりと答える貴人の声は強い。
 微笑みさえ浮かべている表情も、貴人の意志の強さそのものだ。
 でも貴人の腕から流れ落ちて来る血液は、止まるどころかどんどん量を増しているように感じる。

「私はいいから! 自分でどうにかするから! ……貴人!」
「絶対嫌だ」
 満天の星空を背に貴人は笑っていた。
 涙で霞む私の視界の中でも、それでもまだいつものように、鮮やかに笑っていた。
 
 私は人に涙を見られることが苦手だ。
 精一杯肩肘張って生きている自分の化けの皮が、全部剥がれてしまうような気がするから。

 本当の私は強くなんてない。
 早とちりだし、うっかり者だし、鈍い上に気もきかない。
 だけどそんな私の欠点を全部わかってて、それでも「そのままでいいよ」と笑って許してくれる。
 ――私にとって貴人はそんな相手だから、懸命に歯を食いしばっている今のような状況でも、涙が溢れだしてしまう。

「私こそ嫌だってば! ……放してよ……!」
「嫌だよ」
 あいかわらず、短いその返事しかしない貴人の声は真剣だ。
 なのに私の手を掴む両手も、私を見下ろす笑顔も、胸に痛いくらい優しい。

「だって……! だって……!」
 絶対に怪我をしたはずの貴人の両腕を見上げながら、負担をかけているばかりの自分が悔しくて、どうしたらいいのかと必死に頭をめぐらす私の耳に、その時よく聞き慣れた声が聞こえてきた。

「琴美……? 琴美か?」
「繭香!?」
 急いで声のしたほうに視線をめぐらして見たら、遥か下方に人影が見えた。
 そこに繭香が立っているということは、おそらくあそこはちゃんとした地面なのだろう。

「貴人! ほら大丈夫! 繭香がいる! あそこがきっと地面よ。手を放してくれたら、私、自分でちゃんと着地するから!」
 貴人は綺麗な目を少し眇めて、私と繭香の距離を計ってから「無理」と笑った。

「結構高さがある。危ないよ琴美。猫みたいに着地できるって言うんなら、話は別だけど……」
 かなり蒼白な顔をしながらも、クスクスと笑い出す貴人の笑顔に、私は涙も吹き飛ぶほどの勢いで、懸命に訴える。

「大丈夫! ちゃんと猫みたいに華麗な着地を決めてみせる! だから……ね!」
「いや無理だよ」
 変わりない返答に、ため息が出た。

 どうして貴人は、こんなにも頑ななんだろう。
 彼の意志の強さを、私は常々うらやましくさえ思っていたはずなのに、今はそれが歯痒く思える。
 まさかこんなふうに感じる日が来るとは、今まで思ったこともなかった。

「もうっ! 貴人の意地っ張り!」
「ハハハッ……助けてるのに、俺が怒られるの? ……でも……なんて言われたって放すわけにはいかない」
 どうしたらいいのかわからない。
 途方に暮れる私の耳に、下の方から繭香とはまた違う声が聞こえてきた。

「いいから放せよ……」
 そう。
 繭香がそこにいるということは、一緒に行ったはずの諒もいるに違いないってことを、私は今の今まですっかり失念していた。

「どんな変な格好で落っこちてきたって、俺がちゃんと受け止めるから」
 思いがけない言葉に感動して、せっかくひっこんだ涙がまた浮かんでくる。

「諒……」
 なのに――。
 そのあとに続いたのは、私のその涙も、またひっこむような言葉だった。

「どうせ、またそいつがドジやったんだろ……? まったく問題起こさずにはいられないのかよ……! 重くて受け止めるのは無理そうだったら、大人しく俺が下敷きになるから……貴人も無理すんな!」
「ちょっと諒!」
 一瞬浮かんだ感動の気持ちも全部消し飛んで、なんとか諒を一発殴りに、早くあの場所に行きたいと足元を睨みつける私の上で、貴人は大笑いを始める。

「ハハハッ! ちょっ……諒! 笑わせないで! 力が抜ける!」
「だから抜けていいんだって! 俺が下にいるから!」
「うーん……でも琴美を諒に渡すのか……」
「変な言い方すんな! この場合、仕方ないだろ!」
「でもな……」

 延々と続きそうな問答に、(なんでもいいから早くして!)と思っていたのはどうやら私だけではなかったらしい。
「いいからさっさと放せ。どうせ引き上げる力は残ってないんだろ。お前の意地で、今一番辛い状況にあるのは琴美だぞ!」
 繭香の静かな怒りの声を聞いて、貴人が私に視線を向け直した。

 目と目があった瞬間、ちょっと困ったような表情になる。
「うん、わかってる。ごめん琴美」
「ううん……そんな……!」
 私は辛くなんかない。
 辛いのは貴人の腕だろうと言い返そうとした瞬間、ニッコリと笑われた。

「じゃあ放すけど、俺が本当は放したくないんだってことは覚えててくれる?」
「え?」
「本当は放したくないんだよ。忘れないで琴美」
 思わず頬が染まってしまいそうなセリフを、真っ直ぐに見つめられながら、微笑み混じりに告げられて、頭がぼうっとする。

 それでも私が返事をしないことには、きっとこの状況は先に進まない。
 私はおずおずと頷いた。
「わ、わかった……」

 いよいよこれから下に落ちるのかと思ったら、さすがにドキドキして、距離を確認するように足下を確かめてみる。
 瞬間。
 貴人が私の上から声をはり上げた。

「諒! 絶対に受け止めろよ!」
 いつも笑い混じりにしゃべる貴人が、そんなに真剣な声を出すのを、私はあまり聞いたことがない。

(……えっ?)
 驚いてもう一度上を見上げようとした時、下からも思いがけない声が聞こえた。

「当たり前だろ!」

(えっ?)
 こちらは声だけ聞いていれば、いつもどおりのちょっと怒ったような声。
 でもその内容が、さっきまで貴人と話していた時とは、あまりに違いすぎる。

「俺がそいつを落とすわけないだろ!」

(えっ? えっ!?)
 私に諒の言葉の真意を考える間も与えず、貴人が手を放した。

「きゃあああ!」
 短い悲鳴が終わる頃には、私はもう繭香の隣に到着していた。
 それも諒を下敷きにしたのではなく、ちゃんと諒の腕の中に受け止められて。

「いってえ!」
 叫んだ諒から慌てて飛び退こうとしたのに、私を受け止めると同時にしりもちをついたらしい諒は、私を放してくれない。

「諒? ちゃんと受け止めた?」
 貴人の問いかけに、誇らしそうにちょっと顎を上げて、
「だから! ……俺がこいつを落とすわけないだろ!」
 諒がもう一度叫んだ返事にドキリとした。

 抱きかかえるようにまわされた両手に、ぎゅっと力がこめられたことに、もうどうしようもなくドキドキした。
 

 
「で? まさか絵に描かれた場所を発見したから、暗号の文章のとおりに飛び下りたってわけじゃないよな?」
 暗い中でも爛々と輝く繭香の瞳に、探るようにじっと見つめられて、私はその場にひれ伏してしまいそうだった。

「そ、そんなことはありません……」
 なぜか口調まで敬語になってしまう。

「じゃあ、やっぱり琴美が……いつものようにドジったんだな……」
「はい……」
 しゅんとうな垂れる私の頭を、よしよしと佳世ちゃんが撫でてくれる。

「大丈夫。芳村君の怪我も出血は多いけど、傷自体はたいしたことないから……琴美ちゃん気にしないで……」
 その貴人は、腕にできた裂傷をハンカチで押さえてニコニコしている。

「そうそう」
「でもたぶん、長い時間琴美をぶら下げてた肩のほうがいかれてると思うよ? ……あとからかなりの痛みがくるかも……」
 真正直な渉の言葉に、佳世ちゃんがちょっと焦る。

「早坂君!」
「大丈夫だよ。大丈夫」
 それすら笑顔で返してしまう貴人に、申し訳ないやらすまないやらで、私はなおさら小さくなった。
 

 
 もともと私と貴人がいた場所から、繭香と諒がいた崖下までは、よく探してみたら歩いて下りる道があった。
 それを通って貴人が私たちのところにやって来るのとほぼ同時に、渉と佳世ちゃんも到着した。
 どの道を通ってもこの場所に辿り着けたということは、どうやらここが目的地でまちがいないようだ。

     『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
 なぜかっていまさらきくの?そんなことわかってるだろ?』

 渉が持っていた暗号文をもう一度読んでみたら、その恥ずかしい文面がさっきまでの自分の状況と微妙に重なってしまって、とてつもなく照れた。
 私の手を「本当は放したくない」と言ってくれた貴人と、
「俺がこいつを落とすわけない」と言い切った諒。
 思い出したら顔から火が出るように恥ずかしいし、冷静ではいられない。

「こ、これにどういう意味があるのかしらね……?」
 心の動揺を悟られないようにと、考えることに集中しようとする私につられるように、貴人も諒も繭香も渉も佳世ちゃんも首をひねる。

「告白?」
「いやノロケだろ?」
「ふん。ずいぶんもったいぶった言い方だな」
「でも、こんなふうに言われたらちょっとドキッとするよね……」
「えっ? 佳世ちゃんってこんな言い方が好きなの?」
「う、ううん……そういうわけじゃなくって……」
 ダメだ。
 全然らちがあかない。

「そもそもこの場所に何があるって言うの? 木が生えてて、枯れ葉が積もってて、あいもわわらず河童の像。これまで進んで来た道と何が違うって……」
 言いかけて私は、何気なく指差したその『河童の像』をまざまざと凝視した。

(おかしい……)
 何がかと言うと、その像がだ。
 これまで道沿いに転々と立っている姿は何度も目にしたが、こんなふうに通行の邪魔になるようなところに立っていた物は他にはなかった気がする。

「ねえ……」
 なんか変じゃないかと、私が口を開きかけた時に、諒が唐突に叫んだ。
「うわっ! 俺、この暗号わかったかもしれない!」
「ほんとに!?」
 思わず自分が話そうとしていたことはあと回しにして、何を見て諒がそう思ったのかに耳を傾ける。

「ああ。がけのしたを見てみろよ」
 言われてそのまま、私は自分たちの周囲を見回した。
「お前……やっぱバカだろ……?」
 ひさしぶりにそのセリフを聞いて、嬉しくもあったけれど、腹がたったのも本当だった。

「なによ! だって、崖の下ってここでしょ?」
「そうだけど、そうじゃねえよ……ほら『がけのした』!」
 言いながら諒が指差したのは、例の暗号文だった。

 ぜんぶ平仮名で書かれたメッセージは、そう言えばなんだか中途半端なところで改行されている。
「なによ偉そうに! いくら見たってなんのことだか私にはさっぱり……」
 言いかけて息を呑んだ。
 諒が私に言いたかった『がけのした』が、その時はっきりと見えた。

「これって……!」
 大興奮して自分が気がついたことを話し始めた私には、崖の下には何があるのかさえ、もうわかっていた。
 
     『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
 なぜかっていまさらきくの? そんなことわかってるだろ?』
 
 暗号文の中には確かに「崖」があった。
「きみ『がけ』がを……」の部分だ。
 それならその「崖」の下にあるのは、「いま『さら』きくの?……」の部分ということになる。

「わかった! さらだわ!皿!」
 私は叫ぶと同時に、不自然極まりない位置に立っている河童の像をふり返った。
 河童の頭の上に乗っている皿に触ってみたら、たいした力も入れていないのにポロッと取れる。

「ちょっ! お前! 壊すなよ!」
 焦る諒に、私は手にした河童の皿をつきつけた。
 石によく似た色に塗ってはあるが、それはあきらかに発泡スチロール製だった。

 裏は真っ白のままで、中央に大きく「合格」の朱色の文字。
 その上、端っこのほうには、ご丁寧に製作者のサインまで入っている。
 ―――『Urara.T』

「やっぱり、うららが一枚かんでるじゃないのよ!」
 叫んだ私に負けないくらい悲壮な顔で、諒が頭を抱える。

「じゃあやっぱり、この口が腐りそうな文章を考えたのはあいつか……!」
「へえ……さすがにそれは聞いてなかったなあ……」
 感心したように細い顎に指を当てた貴人を、繭香がキリッと睨み上げた。

「本当だろうな? もしお前があらかじめ知ってたんなら、この課題は智史に電話一本すれば済む話だったんだからな! 無駄に歩き回ったり、そんな怪我なんかしなくとも!」
 繭香の指摘にドキリとして、私も思わず貴人の顔を見上げた。

 諒も渉も佳世ちゃんも、みんな次の貴人の返事を息を詰めて待っている。
「いや。確かに知らなかったよ。でも知ってたからって、俺たちだけ智史に答えを教えて貰ったんじゃ、ズルイって言うか……謎解きの楽しみが半減しちゃうと思わない?」
 終始笑顔で答える貴人の返事が全て終わる前に、繭香はクルリと貴人に背を向けて歩きだした。
「なるほど、確信犯だな……」

「えっ? あれ……繭香?」
 呼びかける貴人を無視して歩き続ける繭香を追って、諒も歩きだす。

「あいつの仕掛けに踊らされたのかと思うと腹が立つ! くっそう! 腰が痛てえ!」
「おーい諒?」
 貴人の肩を背伸び気味にポンと叩いて、佳世ちゃんの手を引いた渉も歩きだした。

「確かに……公園の中をあちこち歩き回らされてちょっと疲れたかな……この先もまだまだ遠行が残ってることを考えると……そんなに生真面目に考えないで、楽する方法使っちゃってもよかったんじゃない?」
「もうっ、早坂君!」
 渉に手を引かれて歩きながら、佳世ちゃんは顔だけふり返って貴人に言った。

「気にしないで芳村君。私は楽しかったよ。手……大丈夫?」
 あいかわらず優しい。
 その上、気遣いまでバッチリ。

 みんなに置いてきぼりをくって、一瞬硬直していた貴人が柔らかに笑んだ。
「高瀬さんって……いいよね……」
 佳世ちゃんは私の大親友だ。
 その上、自分自身も彼女に癒されまくっていると、私は深く自覚している。
 それなのになぜか、貴人のその言葉は私の胸にチクリと刺さった。

「私たちも行こう、貴人……」
 そんな気持ちをふり払うかのように、私はうらら制作の河童の皿を片手に握りしめたまま、貴人を促して、みんなのあとを追って歩き始めた。
 
 

「繭香と諒はきっと怒るだろうって思ってたけど……早坂君にも痛いところを突かれたなぁ……のんびりしてるように見えて、彼、結構鋭いよね……?」
 並んで歩きながら、貴人がそんなふうに私に尋ねてきた。

 私は何の気なしに、思ったままを答えた。
「ああ、うん……昔から時々、ドキッとするようなこと言うの。でも渉の場合、全然悪気はないんだよね。ただの天然だから……」
「ハハッ、さすがに詳しい……」
 そう返されてドキリとした。
 その声が少し寂しげに聞こえたから。

 隣を歩く貴人の顔をそっと見上げてみたら、貴人も私のほうを見下ろしていた。
 綺麗な瞳とバッチリ目があってしまって妙に焦る。
「……悔しい?」
 思わず聞いてしまったあとで、バカなことを言ったと後悔した。

 でも貴人が鮮やかに笑いながら「悔しい」と返してくれたので、それでかえって変な緊張感がなくなった。
 ちょっと嬉しそうに笑う貴人の顔が、私のほうこそ嬉しくて、自分でも持て余してしまったさっきの感情を、本人に言ってみる気になる。

「私も悔しかった。貴人が佳世ちゃんを褒めるから……」
「……ほんとに?」
「本当」
 ダメだ。
 ますます笑顔になる貴人に見惚れてしまう。

 私のせいで怪我した腕に、応急処置として佳世ちゃんが巻いてくれたハンカチを結び直しながら、貴人は歌うように話す。
「あんまり調子に乗せたらダメだよ、琴美……俺、結構乗せられやすいし、かなりポジティブシンキングなんだ……」
 公園の出口へと向かう道を二人で歩きながら、ついさっき同じ道を歩いた時より、ずっと普通に会話できていることがなんだか嬉しかった。

「うん。知ってる。その上、頑固者で、渉も言ってたとおりかなり真面目だよね」
「ハハッ、なんだ……すっかりバレちゃってるじゃないか」
 私のどんな軽口も、笑顔で受け止めて笑い飛ばしてくれるから嬉しい。

「琴美はさ。思ったことをそのまま口にするし、何も考えないですぐに突っ走っちゃうよね」
「う……うん」
 話が今度は私のことになったと思ったら、さっそく痛いところを突かれてしまって、返事に詰まる。

「だけど裏表がない。変に飾ったりもしないってわかってるから……いつも信用してる」
 なんだかジンと来た。
 「好きだ」なんて言われるのの何倍も嬉しかった。

 もちろんそんな言葉、私の十七年の人生において、渉にだって数えるぐらいしか言われたことはないし、貴人にだってこの間の大晦日に一回言われただけだけど――。

「ありがとう。嬉しい」
 思ったままに返事して、本当に貴人の言うとおりだと思った。
 貴人の前だと、私は素直に自分の感情を口にできる。

「うん。でも、俺こそありがとうだな……」
 そんなふうに言って、また笑いながら歩き続ける貴人に置いていかれないように、私も歩を早める。
 遥か前方に私たちを置き去りにしたメンバーたちが、公園駐車場のチェックポイントで待ってる姿が見えてきた。
 

 
「ずいぶんと楽しそうだったな」
 暗号を解いて目的地に到着したことの証明として、貴人と繭香が先生に河童の皿を提出しに行った途端、諒がポツリと呟いた。
 おそらく貴人と一緒の時の様子を言われているのだと気がついて、ドキリと心臓が跳ねる。

 何も答えない私の顔を一瞬覗きこんで、諒ははあっとため息をついた。
「別にいいけど、俺には関係ないし……」
 座りこんでいた場所から立ち上がって、さっさといなくなろうとするので、慌てて呼びかけてしまう。

「諒!」
 ふり返ってくれたはいいものの、胡散臭げな目を向けられて、なんと言ったらいいのかわからなくなった。

 そもそもなんで呼び止めてしまったのか。
 自分自身でもよくわからない。
 ただわかっているのは――。

(私ってすごく嫌なヤツだ……!)

 貴人が真っ直ぐに自分に向けてくれる好意が嬉しくって。
 彼の隣にいるのが心地良いなんて、自分でも思っていて。

 そのくせ、諒が自分に背を向けて行ってしまうのは我慢できない。
 表向きはそうは見えなくても本当は優しい諒が、しょうがないなというふうにまた手をさし伸べてくれることを期待している。

(卑怯者! 最低!)

 自分で自分が嫌になって、心の中で罵ったら涙が浮かびそうになる。
 そしたら諒がなおさら私を気にかけてしまう気がして、私は必死に歯を食いしばった。

「ゴメン。なんでもない……」
 俯いて呟いたら、もう一度はああっと大きなため息をついた諒が、私の前に屈みこんだ。

「だからって、何が変わるなんて言ってないだろ……お前は何も気にすんな……どうせ俺のポジションなんて、五年も前からずっとこのまんまだよ……」
 軽く頭を小突かれて、濡れた目のまま顔を上げた。
 諒の言ってる意味がよくわからない。

(五年? ……五年前って、何かあったっけ?)
 キョトンと考え始めた私の額を、諒がビシッと指先で弾く。

「いたっ!」
「だから気にすんなって! お前はもう、一生気がつかないくらいの勢いでいいんだよ……バーカ!」
 話の細部は良くわからないながらも、とてもバカにされていることはわかる。
 諒がおそらく、私を元気づけようと喧嘩を売ってきてるってことも。

「誰がバカですって!」
 その喧嘩を全力で買いながら、私はすっくとその場に立ち上がった。
「もちろんお前だよ。当たり前じゃん」
 顔は意地悪くニッと笑っているのに、私を見る諒の目は優しい。

 そんなことに気がついたら、またいろんなことを考え始めてがんじがらめになってしまって、動けなくなると思ったから、私は気づかないフリでこぶしをふり上げる。

「諒! あんたね!」
 途端、右肩に鋭い痛みが走った。

「いたっ!」
「無理すんな。右手一本でその体重をしばらくの間支えてたんだから……」
 言いながら諒は、さっさと私のリュックを取り上げて、自分の肩に掛ける。

「貴人も辛かったと思うけど、お前の腕だって相当辛かったと思うぞ……その体重だもんな……」
 うんうんと一人で納得しながら先に歩きだした背中を、私は今度は左手をふり上げながら追いかけた。

「ちょっと! まったく失礼なヤツね、諒! 私の体重はそんなに重くはないわよ!」
 諒は顔だけふり返って意地悪く笑いながら、歩くスピードを上げた。

「ぜひそう願いたいね。じゃなきゃ遠行のラストを飾るはずの課題が辛すぎる!」
「へっ? 諒、最後の課題知ってるの?」
 思わず足を止めた私にべえと舌を出して、諒は走り始めた。

「お前には絶対教えねえ!」
 軽やかな背中には、自分のぶんと私のぶん、二人ぶんの荷物。

「ちょ、ちょっと待ってよ、諒!」
 あっという間に小さくなるその背中を、私は夢中で追いかけた。
「ねえ! 待ってってば!」
 あちこち歩き回って疲れきった足は重かったが、諒が引き上げてくれた心は軽かった。
 真っ暗な川原でなぜか校歌を歌わされ。
 蕾がほころび始めた梅園で今の心境を一句詠まされ。
 それから長い石段を黙々と登らされた。

 向かっているのは、学園の東側にある山の中腹にある展望所。
 そこで、眠気もピークの頃に無理やり二度目の食事を摂るのが、夜間遠行では恒例となっている。

「…………」
 私の前を行く貴人も、すぐうしろの諒も、それに続く佳世ちゃんも渉も、もう誰も口を開かない。

 夜にみんなで歩く――なんていつもはできない体験が、楽しいのは序盤から中盤まで。
 終盤にさしかかると六百人あまりの同じジャージの群れは、みんな口をつぐみ、重たい足をひきずるようにして、ただ黙々と次の目的地を目指す。
 その実、一人一人、本当に数多くのものと戦っているのだ。

(もうやだ……足、痛い……右肩も……)
 肉体的苦痛と。

(あーあ、なんで私、今年も参加しちゃったんだろう……? そりゃあ全員参加の学校行事には違いないけど、仮病使うとかさ……)
 自分の思い切りのなさを嘆く気持ちと。

(だいたいなんでこんな行事があるわけ? ……進学校なんだから、勉強だけしてればいいじゃない……! 肉体の鍛錬とか、精神力を鍛えるとか……そんなの、やりたい人が勝手にやればいいのよ……!)
 疲れを怒りに置き変えて、学校を非難する気持ち。
 しかし――。

(……………疲れた)
 しょせんはそのひとつに尽きる。

 考えてもどうしようもないことを、このまま考え続けても、余計に疲れるだけだ。
 私は考えることをやめ、あまり意識しないようにただ慣性で足を動かしながら、目の前の背中を見た。
 途中でちゃんと保険医の手当てを受けた貴人は、今は左腕を包帯で吊っている。

(ゴメンね……)
 謝っても「平気、平気」と笑われるばかりだから、なおさら申し訳ない。
 せめて荷物を持とうかと申し出たのに、「琴美だって怪我してるからダメ」と渡してもらえなかった。

 右肩だけに引っ掛けたリュックも、背の高い貴人だとそう重そうには見えないが、長い石段を登るのにはバランスが悪そうで、本当に申し訳ない。
 そんなことを思いながら歩いていたら、小石を踏んで体勢を崩しかけてしまい、一段下にいた諒に支えられた。

「なにやってんだ……! 階段は危ないんだから、ちゃんと歩くことに集中しろ……!」
「う、うん。ゴメン……」
 素直に返事して、私は足元に視線を戻す。

 命令口調の言い方にはちょっとカチンとしたが、いつものように「なんですって!」とこぶしをふり上げる気にはなれない。
 疲れきってそんな元気がないからというのが理由の一つ。
 諒の言うことが正しいからというのも一つ。
 そして、私の荷物をずっと諒が、文句も言わずに持ってくれているからというのも、一つだった。

 二度の食事のためのお弁当や、防寒着、雨具。
 今年はオリエンテーリング形式でどんな問題が出されるかもわからなかったから、用心のために本も少し入っている。
 いくら私が水筒を忘れたとはいっても、それらが全部入ったリュックを、二人ぶん背負って歩き続けるのは結構辛いだろう。

「ねえ諒……やっぱり……」
 自分で持とうかと言いかけると、先にそれを察知したらしい諒に、シッシッと追い払うような仕草で再び前を向かされる。

「いいから。気にしないでちゃんと前見て歩け。お前が落っこちてきたら俺まで危ない……」
「うん」
 かすかに息の上がった声で、それでも憎まれ口は忘れずに、ちゃんと返事をしてくれるから、これ以上諒に負担をかけたくなくて、私は口をつぐんだ。

「琴美、大丈夫……? あともう少しだと思うよ?」
 ふり返って笑ってくれた貴人にも、すぐにうんと頷く。
 こんな私なんかに二人がかけてくれる優しさが、嬉しくて申し訳なかった。

 
 
 午後九時から始まった夜間遠行も、開始から九時間が過ぎ、私たちは行程のほぼ九割の所まで来ていた。
 今目指している展望所に到達したら、その次の目的地は、もうゴールである学校だ。

(よくがんばったな……)
 疲労感と共に少しの満足感を感じることは確かだが、なにも最後近くになって千段もの石段を登らせることはないのではないかとも思う。
 私でなくてもあちこちで、足を踏み外す生徒の声が聞こえる。

(くたくたに疲れてるんだから、危ないのに……)
 不満まじりにそんなことを呟いたら、貴人に背中のままクスリと笑われた。

「それはやっぱり……あの時間にあの場所に、みんなを居させてあげたいっていう学校側の配慮なんじゃないかな……」
「え…………?」
 貴人の言ってることがよくわからず、首を捻る私に向かって諒が聞いてくる。

「おい。まさか何のことかわからないなんて言うんじゃないよな……?」
 ちょっと驚いたような訝る声に、「うん」と頷いたならどんなに呆れた顔をされるか。
 重々覚悟しながらも、私は恐る恐る諒をふり返った。

「わかんないんだけど……」
「…………!」
 諒は大きなため息をついて私から顔を背け、貴人は肩を震わせて笑い始めた。

「お前なあ! 去年も遠行には出たんだろ……?」
 激する諒のうしろからひょっこりと渉が顔を出す。
「あ……最後のチェックポイントだったら、琴美は半分寝てたよ? 俺のぶんも弁当作ったから、夕方に仮眠できなかったとかで、その弁当食べるなり俺に寄り掛かってきて……」
「渉! ……渉!!」
 間にいる諒を突き飛ばさんばかりの勢いで三段ほど階段を駆け下り、私は渉に飛びついた。

「なに?」
 きょとんと瞳を瞬かせる渉に悪気はない。
 昨年の今頃は、私はまだ渉とつきあっていて、そのことはここにいるみんなが知ってることなんだから、今さら隠す必要もない。
 だけど――。

「ふーん。行くぞ貴人……」
 私にはもう目も向けず、貴人を誘って再び歩きだす諒の全身からは棘が突き出たように見えた。

「あ? ああ……」
 一瞬呆けていた貴人は、我に返ったかのように諒のうしろに続き、継いでふっと佳世ちゃんに笑顔を向ける。
「高瀬さんも……行く?」
 ダンスをエスコートする時のように、自分に向かって優雅にさし出された右手を、「私なら大丈夫」と佳世ちゃんはやんわりと断わった。

 その光景の全てに、私はもう何重もの意味で居たたまれなかった。
(なんなのよこれ……!)
 このメンバーで夜間遠行のグループを組むとなった時から、私が密かに恐れていた最悪の展開。

(もう嫌っ!)
 頭をかきむしりたいほどの思いで、いっそう疲れながら、私は重い足をひきずって再び歩き始めた。
 

 
 目的地の展望所へ到着し、早い朝食となる二度目のお弁当を開く頃には、貴人と佳世ちゃんと渉はすっかりいつものとおりだった。
「わあ……高瀬さんのお弁当美味しそうだね……」
「ほんと。去年の琴美のヤツよりずっとすごいよ……」
「そんな……」

(渉……これ以上余計なこと言われたらたまらないから、今は聞き逃しておくけど……あとで絶対に殴る!)
 私はこぶしを握りしめてそんな三人のやり取りを見ながら、黙って座っていた。

 諒は私たちと少し距離を置いて、ここで見つけた剛毅や玲二君のグループに混じってしまっている。
 頑ななまでに私に背を向け続ける黒髪に、私はため息をついた。

(すぐに怒っちゃうのはいつものことだし……渉の話に怒ったってことは、ちょっとは妬きもち妬いてくれてるのかな、なんて……むしろ嬉しいけど……)
 今このタイミングで、というのは実にまずかった。

(あーあ……せっかく作ってきたのに……)
 実は私は、自分のぶんに加えていくつか余分におにぎりを作ってきていた。

 佳世ちゃんの立派なお弁当と比べて、実に失礼なことを言っている今年の渉はともかく、去年の渉は私が作ってきたお弁当を「美味しい美味しい」と食べてくれた。

 はっきり言ってさっき諒に呆れられたとおり、私はこの展望所に何があるのかは全く覚えていないけれど、その渉の嬉しそうな顔だけはしっかりと覚えてる。

(だからって諒に、素直に渡せるなんて思ってなかったけどね……)
 日頃お世話になってるからとかなんとか。
 苦しい言い訳も考えてきていたのに、全部水の泡だ。
 だからといって、貴人にあげるなんてことも、今さらあてつけがましくできるはずもない。

(どうしよこれ……)
 途方にくれながらリュックの中を覗きこんでいたら、背後からにゅつと手が伸びてきた。
「何? 余ってるんならもらおうか? なんでそんなにたくさん持ってきてるの……まったく食い意地がはってるね……」
 嫌味ったらしくそんなことを言いながら、あつかましく私のおにぎりを取っていこうとする相手をふり返って確認して、私は悲鳴を上げた。

「ぎゃああ! 柏木!」
「柏木?」
 呼び捨てにされたことに眉をひそめた宿敵の名前を、私は慌てて言い直す。

「柏木……君! ……勝手に持っていかないでよ、ちょっと!」
 取り返そうと手を伸ばした私の腕をかいくぐって、柏木はそのまま二、三歩後退った。

「いいじゃない。いとしの芳村君は高瀬さんのお弁当がいいみたいだし……あんまり気の毒だから、毒見してあげるよ。これってボランティア?」
 ニタニタと笑いながら、そのまま自分たちのグループが陣取った場所に帰ろうとした柏木の前に、人影が立ちはだかった。

「あっ……!」
 私が名前を口にする間もなく、彼は柏木の手から私のおにぎりを取り上げた。
「バカか、お前は! 小学生かよ!」
 心底呆れたような声とは不釣あいに、かなりの怒りに燃えた目で至近距離から睨まれて、柏木は挙動不審に目を泳がす。

「ちょっとからかっただけだよ……そんなに怒ることないじゃないか、勝浦君……」
 逃げるように走り去って行く背中に、諒は大声で叫んだ。
「怒ってない! なんで俺が怒んなくちゃいけないんだ!」

(いや……どう聞いても怒ってるでしょ、それ……)
 私だけじゃなく、もう暗い中に背中が見えなくなった柏木だって、心の中できっとそうつっこんだに違いないと私は思った。
 

 
「ほら」
 私が座るところまでやって来た諒は、怒ったように私におにぎりをさし出した。
 だから私はこれがきっとチャンスなんだと、意を決して口を開いた。

「よ、よかったら諒が食べて。本当にたくさん作ってきちゃったんだ……ほら」
 リュックの中からまだ二、三個のおにぎりを取り出して見せると、諒は「それじゃ」と口の中だけで呟いた。

 俯いた頬がちょっと赤いように見えるのは気のせいだろうか。
 そんなふうに思ったら、自分の方こそボッと顔に火がついたかのように赤くなってしまって大慌てする。

「ま、まだあるけどいる?」
「おお」
 いつになく素直に、諒がそんなふうに返事するからますます焦る。

 あたふたとしながら、私が諒に向かってさし出したおにぎりを、横から大きな手が一つ攫った。
「俺にもちょうだい」
 貴人だった。

 ドキリと心臓が跳ねた私に向かってではなく、貴人は自分と私の前に立ったままの諒に向かって確認する。
「いいだろ?」

 俯いていた諒が顔を上げた。
 一瞬私にチラリと目を向けてから、貴人に向かって口を開く。
「だ……」
 とてつもなくドキドキした。

(なんて言うつもり? それはどうして? そしたら貴人はどうするの? それで私たちの関係は……これからどうなるの?)
 一瞬の間にいろんなことが頭を駆け巡った私は、とても諒の返事を待ってはいられなかった。

「ど、どうぞ貴人! あ、渉も食べる? なんなら……剛毅や玲二君にも持っていってよ、諒!」
 リュックから次々とおにぎりを取り出しながら、みんなに押し付けるように渡していく私を見下ろして、諒がふうっと息を吐いた。

「……わかった。高瀬だけじゃなく、美千瑠や夏姫の弁当とも味を比べてくれって……そういうことだな」
 一瞬、本当にほんの一瞬。
 なんだか複雑そうな顔をしたくせに、諒は次の瞬間には意地悪く笑って、私にそんなことを言った。
「は? ……何言ってんの?」

「ハハハッ……そうなの? 琴美って結構チャレンジャーだね?」
 さっきは諒に向かって、結構真剣な顔をしていたくせに、貴人までそんなことを言って笑いだす。
「ちょ、ちょっと待って! これは……そういう意味じゃないわよ?」

 確かに十二時間前。
 おにぎりを作った時には、私は諒のことだけを考えて作ったのだ。
「食べてもらえるかな?」なんて乙女チックモード全開でドキドキしながら作ったのだ。

「じゃあまあ……俺もついでに食べるかな…」
 本来の目的である諒のほうが、いつの間にか「ついで」になってしまっている。
「だから、そうじゃないってば!」

 焦る私をよそに「じゃあな」と行ってしまう背中。
 その背中を見ながら私は頭を抱えた。
(なんでこうなるの?)
 悔しくて、虚しくて、呆けてしまう。
 でもこの思いが、これからの数ヶ月間、自分の頭を支配し続けることになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
 みんながお弁当を食べ終わる頃、先生の車に乗って展望所までやってきた繭香は、真っ先に佳世ちゃんを攫ってどこかへ行ってしまった。
 しばらくして帰って来ると、憐れむような表情で私の肩をポンポンと叩く。

「普通に歩いたって大変なこの行事中に、よくもまあそれだけ面白い展開をくり広げられるな? ……早坂にお礼を言わなきゃならない……ぜひ私もその場に居たかった……」
 しみじみとそんなふうに言われてムッとした。

「こっちは面白くもなんともないのよ!」
「いや面白いだろ……」
 意地悪そうに唇の端を吊り上げた繭香に背を向けて、私は歩きだそうとした。
 けれどその途端自分の目の前に立ちはだかった人物を見て、思わず大声を上げてしまった。

「う、うらら!?」
「琴美……おはよう……」
 私に向かって両手をさし伸べたうららは、薄い色の髪を私の肩に押しつけるようにして、すぐに首に抱きついてくる。

「は? なに? なんでここに居るの?」
 混乱するばかりの私に答えをくれたのは、うらら本人ではなく、どうやら彼女と繭香と一緒にたった今この場所に到着したらしい智史君だった。

「どうしても琴美と一緒に、自分も『それ』が見たいんだって……いつもよりちょっと早起きしたんだよ。おかげでこっちは寝不足……」
 眼鏡をかけた智史君は本当に赤い目をしていて、大きく伸びをしながら先生の車から降りて、こちらに向かってくる。

「ここまでの行程はサボっておいて、最後だけ現われるってどういうことだよ!」
 反対方向から走ってきた諒が、挑むような視線で智史君に問いかけた。

 智史君は眼鏡の奥の瞳をほんの少しだけ細めて、事も無げに言った。
「ああ。サボりなんかじゃないよ。うららは病気だから、途中からしか参加できないんだ。僕はそのつきそい」
「は?」
「夜に活動したらいけない病。本当の病名は適当につけたからもう忘れちゃったけど、れっきとした医者の僕の父さんが考えたんだから、そうおかしな名称ではなかったと思うよ? ちゃんと診断書を提出して、学校にも認められてる……これでいい?」
「…………!」
 諒の全身から怒りの炎が放出されるのが、私には見える気がした。
 きっと私だけではなく、その場にいた人間にはみんな見えたと思う。

 なのに智史君は涼しい顔をして、諒の怒りを煽るような話をやめてくれない。
 いいや。
 あれは絶対にわざとやってるんだ。

「なんでうららのつきそいでお前まで休めるんだ! ……なんて野暮なことは今さら聞かないでよ? そんなの……僕がうららの保護者代わりになってるからに決まってるでしょ?」
 最悪だ。
 足元に視線を落として、ブルブルと震え始めた諒の姿に私は気が気じゃない。

「智史君! 智史君! 私まだちょっとやることがあるから、うららをお願い!」
 そう叫んで、さっきは「おはよう」なんて言ってたのにまたすうすうと寝息を立て始めたうららの体を智史君に押し付けて、私は諒の手を掴んで走りだした。

「諒! 一緒に来て!」
「は? ……へ?」
 とまどいながらも、諒は私に手を引かれて走りだす。

「へえ……僕に感謝してほしいくらいだね……」
 クスクスという笑い声と共に背後で聞こえた智史君の呟きは、できればもう諒の耳には入らないで欲しいと願った。
 

 
「やることってなんだよ……?」
 みんなが集まってる展望所からはちょっと離れた休憩所まで走り抜けて、ようやく足を止めた私に向かって、諒はふて腐れたように問いかけた。

「ええっと……」
 何も考えずに走り出したのだから、上手い言い訳なんて当然浮かんで来ない。
 あちらこちらを視線を彷徨わせる私の顔を見て、諒ははああっとため息をついた。

「お前にまで気を遣われるようじゃ、俺ももう終わりだな……」
 心底落胆したような声に、ちょっとムッとする。
「なによ! 余計なお世話だったとでも言いたいの?」
「いや、助かったよ……ありがとう」
 思いがけず素直なお礼が返ってきて、驚いて諒の顔を仰ぎ見た。

 言った諒も、どうやら思わず言ってしまったようで、首まで真っ赤になって私から目を逸らす。
 お互いの心臓の音まで聞こえてしまいそうな気まずい沈黙を破ったのは、遠くから聞こえてきたみんなの歓声だった。

「おおおおう!」
「わあっ!」
 折り重なる叫びにふり返ってみると、山の端から朝日が顔を出すところだった。
 そう言えばさっきからうす紫色に明るくなってきていた空が、ほのかな茜色に輝きだす。

「ああ……出たな……」
 ため息のような声に諒のほうを見たら、眩しさに目を細めた諒が小さく笑っていた。
 その瞳の輝きに、まるで子供みたいに無防備な邪気のない笑顔に、視線が釘づけになる。

「ほら、あれだよ。この最後のチェックポイントで、先生たちが俺たちに見せたがってたもの。うららがわざわざお前と見るために起きてきたもの。……お前が去年、早坂のことばっかり考えててうっかり見逃したもの……」

「そんなんじゃないわよ!」と喉まで出かかった言葉が声にならない。
 からかうように、嬉しそうに、私の顔を覗きこむ諒から、悔しいくらいに目が離せない。

「早くみんなのところに帰るぞ。お前を独り占めしたなんて……うららの恨みを買って、あとで智史に嫌味を言われんのは嫌だからな……」
 ほんのついさっきまで、その智史君に対してあんなに怒ってたくせに、もう笑いながら歩きだそうとする諒の腕を、私は思わず掴んでしまった。

「なんだ? ……どうした?」
 言えるわけない。
 できるならこのまま二人でいたいなんて。

 新しい一日の始まりを告げる光は、闇に馴染んでいた目にはまだ眩し過ぎて、諒のように目を細めていなければ涙だって浮かんできそうだ。
 だから今この瞬間、私の目から涙がこぼれた落ちたとしても、なんとでも言い訳は立つ。

 本当は、なんだか苦しくて。
 いったいいつの間にこんなに好きになっちゃったんだろうと思うくらい、諒と一緒にいたくて。
 涙がこぼれるのを止められない。

「お前なぁ! いくら俺だって、こんなところにまで上着なんて持って来てないぞ……?」
 ポロポロと泣きだした私に、いつものように何かを頭から被せなければと焦りだした諒に、私はそっと首を振った。
「いいよ、別に……」

 そう諒にならいい。
 情けないところも、みっともないところも、散々見せてきたんだから。
 私が隠れて泣くのにも、いつもつきあってくれてたんだから。

「……んなわけにはいかないだろ!」
 それでも自分のジャージの袖で、ゴシゴシと私の頬をこすってくれる不器用な優しさが嬉しい。

「どうする? もうちょっとここにいてから……帰るか?」
 顔を覗きこむようにして尋ねられて、また胸が高鳴った。

 変なの。
 こんなふうに、諒とまるで恋人同士のような会話をしてるなんて。
 憎まれ口も叩かずに、素直にうんと頷いてしまうなんて。

 いつもと勝手が違うからか、照れたようにすぐに目を逸らしてしまう諒から、私のほうは目を離せない。
 このままどこかに諒が居なくなってしまわないように、ギュッと諒のジャージの袖口を握り締めた。

「ありがと……諒」
「おお」
 素っ気ないけどとまどったような声を隣に聞きながら、私はもう一度朝日に目を向けた。

 正視するのさえ辛いような眩しい輝き。
 この光景は、きっともう一生忘れないと思う。
 

 
 すっかり私の涙も乾いた頃になってから、私たちは展望所へ戻り、みんなとも一緒に朝日を眺めた。
 繭香とうららと手を繋いで、眺めたこの光景だって私は絶対に忘れない。

(夜間遠行ってただ辛いだけの行事だと思ってたけど……なんだ……こんな感動の場面も用意されてたんじゃない……!)
 ちょっと感動を覚えながら、残りの行程もがんばろうと心に誓った。
 なのに――。

「じゃあ私はこれで」
「私も……」
「僕もゴールで待ってるよ」
 先生の車で展望所へやって来た三人は、日の出の観察が終わったら、また当然のように車に乗りこんで帰っていった。

「繭香とうららはともかく! お前はおかしいだろ、智史!」
 叫ぶ諒に向かって、優雅に手を振りながら去っていく智史君の姿を見ながら、私は何気なく思ってしまった。

(ひょっとして先生たちも、智史君に弱みでも握られてんのかしら……?)
 全然冗談にならない。
 文化祭での賭けの元締めが智史君だったことに思い当って、青くなる私を見て貴人が笑う。

「なに考えてんの琴美? すごい顔だよ?」
「なんでも! なんでもないわ!」
 これから先も決して『白姫』の不興だけは買うまいと、私は心に誓って歩き始めた。
 
 

 諒が言っていた『夜間遠行』の最後の課題は、学校がもう道の先に遠く見え始めた頃になって実施された。

「はーい。この中から一枚引いてくださいねぇ」
 ニコニコと笑いながら、なぜか美千瑠ちゃんが持っている四角い箱の中から、グループの代表者が一枚ずつ小さな紙を引いていく。

「うおっ、やった!」
「ぎゃああ、嘘だろ!?」
 その紙を見た反応が、グループごとに様々な理由はすぐにわかった。
 そこには、この場所からゴール地点までをどのようにして歩いていくかの指示が書かれているのだ。

 うしろ向きで歩き始める人たち。
 ムカデ競争のようにグループ全員の足と足をロープで繋ぎ始める人たち。

「ち、ちょっと待ってよ!?」
 みんなから、グループの代表としてその紙を引くことを命じられた私は、思わず後退った。

「これって、すごく責任重大じゃないの?」
 焦る私に向かって、貴人はにこやかに笑いかける。

「大丈夫だよ。何が出たって、やればいいだけだから……」
「そうそう。誰が引いても同じだしね」
「気にしなくていいよ。琴美ちゃん」
 渉と佳世ちゃんも私の気持ちを軽くするように声をかけてくれたが、ただ一人、諒だけは違った。

「一番最悪のを引いたとしても、まあなんとかなるだろ……絶対お前のくじ運は凶悪だと、俺は思うけどな……」
「なんですって!」
 こぶしをふり上げた勢いのままに、私は半ばやけくそで紙を引いた。
 そこに書かれていたのは――「二人一組になって、片方が片方をおんぶ」という指示。

「ぎゃあああ!」
「ほらな。やっぱり最悪の課題だ……」
 思わず叫んでしまった自分とは裏腹に、諒があまりに落ち着いていたので思わず問いかけてしまった。

「どうしてこれが最悪だってわかるのよっ! 他にもっと酷いのがあるかもしれないじゃないのよっ!」
 なのに諒は、顔色一つ変えずにサラッと言ってのけた。
「だって、その内容考えたの俺だから」
「は?」
 まるで智史君のような涼しい顔に、心底まぬけな声が出てしまった。

「数学の山ちゃんが、面倒臭いから勝手に考えてくれって俺にふったんだよ。ああ、なんかこれ、俺たちに当たりそうだな……なんて思いながら書いたのに、ほんとに引くんだもんな……お前ってほんとにバカ……?」
「バ……! な……!」
 もうどこから怒っていいのかわからない。
 パクパクと口を動かすばかりの私に、諒は背中を向けた。

「いいから早く乗れよ、ほら……」
「は……?」
 何を言ってるんだろう。
 まさか諒が私をおんぶするって言うんだろうか。

(そ、そりゃ貴人は腕に怪我してるから無理だし……渉はもうさっさと佳世ちゃんおぶっちゃってるし……必然的にそうなるだろうけど……!)
 焦る私は、思わず貴人をふり返った。

「た、貴人を諒が背負うってのはどう? 余り者は私ってことで……」
 途端、貴人はおなかを抱えて大笑いし始め、諒は怒って私を睨んだ。

「バカかお前は! 俺を殺す気か!」
「だって……!」
 肩を揺すりながら笑う貴人が、困りきる私に向かって片目を瞑る。

「大丈夫だよ。諒は絶対に、琴美だけは落とさないそうだから……」
 崖から落ちた時のやり取りをひっぱり出して、そんなふうに太鼓判を押されても困る。

(そうじゃなくて……!)
 背中に乗るのが恥ずかしいからとか。
 諒に悪いからとか。
 女の子らしい躊躇の余地は、私には与えられないのだろうか。

「早くしろって! 後から来た奴らにどんどん抜かれてくだろ!『お姫様だっこ』じゃなかっただけ、マシだと思え!」
「なに? そんなことまで書いたの諒!?」
 呆れる私の耳に、ようやく笑いがおさまったらしい貴人の声が聞こえてきた。

「どうやらその『お姫様だっこ』のチームが来たよ。ラグビー部同士か……ハハッ……なかなか酷いことを考えついたね、諒……」
「ブッ! ……だろ?」
 私たちの横を駆け抜けていく、自分と同じぐらい体の大きなチームメイトを本当に『お姫様だっこ』している剛毅の姿には、貴人ばかりではなく諒も私も笑わずにはいられなかった。

「俺たちも行くぞ、ほら」
 再び向けられた背中に、もうああだこうだ言う時間はなかった。
 私は仕方なく――そのくせどうしようもなくドキドキしながら、諒の背中につかまった。

 身長だったら私よりちょっと高いぐらいで、運動なんて全然してない帰宅部のくせに、諒が軽々と私を背中に担いでしまうからビックリする。
「お、重くない……?」
 申し訳ない気持ちで問いかけたら、ニッと笑ってふり返られた。
「重いに決まってるだろ!」

 間近で見る不意打ちの笑顔に、ドドドッと心拍数が上がる。
 そんな自分を諒には気づかれたくないから、目の前にある黒い頭を軽くペシッと叩いた。

「失礼ね! もう!」
「痛てっ! 落とすぞ、こら!」
「きゃあ!! なにすんのよ!」
 最後のほうはもうお互いに笑いながら、諒は夜間遠行の最後の行程に一歩を踏みだした。

 十時間を歩きとおしたあとの、最後の最後の直線。
 体はくたくたに疲れているし、眠さだってピークだ。
 諒の背中の上にいる私には、何もすることがないけれど、そのぶん、諒には二人分以上の負担が圧し掛かる。

「がんばれ……がんばれ、諒!」
 応援することしかできなくて、そう言い続ける私に向かって、諒は律儀に返事をする。

「おう。当たり前だ!」
 その背中が頼もしかった。
 思わずギュッと抱きついてしまいそうになる自分を必死に自制しなければならないくらい、もう、大好きだと思った。

 ――そんな自分に気がついた、夜間遠行だった。
「春樹! ちょっと出かけてくるから、お母さん帰ってきたらそう言っといてね!」
 せっかくの日曜日だというのに、リビングの大型テレビの前に朝から陣取って、魂を抜かれたようにゲームを続けている弟の背中に、とりあえず声をかけた。

 絶対に聞こえていないことはわかっているので、返事も待たずに玄関へ急ぐ。
 なのにちょうどデータをセーブ中だったのか、思いがけず春樹がこちらをふり返った。
「どこ行くんだよ? ……デート?」

 脱ぎかけていたスリッパを、思わず力いっぱい投げつけてしまった。
「違うわよ!!」

「知ってるよ……瀬川さん、今日は練習試合だろ? 見学に行くぞってウチの監督が大張り切りして、ほとんどの連中がそれに乗っかったから、俺は今日、部活が休みになったんだよ」
 中学二年の春樹は、サッカー部に所属している。
 毎日夜遅くまで、土日も関係なく練習があるのに、今日は珍しく家にいると思ったらそういうことだったのか。
 しかし――。

「なんであんたは行かなかったのよ?」
 するどく指摘してやったら、意味深に笑われた。
「別に……俺だったらいつだって瀬川さんのプレーは近くで見れるし、部活の奴らと姉ちゃんの彼氏応援に行くってのも、なんか恥ずかしいし……」

 残るもう片方のスリッパも、春樹に投げつけてやった。
 一個目はかわされたが、今度は不意打ちだったからか、上手く頭にヒットしてちょっとスッキリする。

「いてっ! なにすんだよ強暴だな! 夏姫! お前、そんな調子じゃいつか絶対瀬川さんにフラレるからな!」
 私と同じで結構短気な春樹は、気に入らないことがあるとすぐに怒りだす。
 三つも年上の私を呼び捨てするばかりか、お前呼ばわりするのでほんと、頭にくる。

「うるさい! バカ!」
 これ以上一緒にいたら気分が悪くなるだけだと思って、私は再び玄関に向かって歩き始める。
「瀬川さん、結構もてるんだからな! ウチの学校にだってファンクラブあるんだからな!」

(知ってるわよ! バカ!)
 春樹の挑発にはもう乗らず、私はバタンと大きな音をさせて玄関の扉を閉めた。
 

 
 中学は別だったけど、その頃からちょっとした顔見知りで、高校に入ったら同じクラスで生徒会でも一緒で、自然と行動を共にすることが多くなった「瀬川玲二」を、私はみんなには「見かけほどは頼りにならない男」と言っていた。

 だってあんなに一生懸命うちこんでた陸上を、高校入学と同時に辞めてしまったし、赤面性で女の子とは上手く話せないし、体のわりに声も小さいし、見るからに情けなかったのだ。

(ダメだ、こりゃ……中学の頃は、少なくとも走ってる姿だけはかっこよかったのにな……)
 そんなことを考えては、誰に聞かれたわけでもないのに一人で大慌てしていた。
(か、か、かっこよくなんかないわよ! 別に!)

 「かっこいい」――その言葉はどちらかといえば、私自身にかけられることが多い。

「きゃあああ! 古賀先輩かっこいい!!」
 いつも応援してくれる下級生の子も、毎日欠かさずさし入れしてくれるクラスメートも、校門で待ち伏せしている中学生も、みんな私を「かっこいい」と言う。

(ファンクラブだったら……私なんて中学生の頃からあったんだから!)
 こんなことで玲二とはりあってどうするんだろう。

 メンバー全員女の子のファンクラブ。
 男よりも男らしいと私を賛美してくれる彼女たちが、だけど最近、私だけではなく玲二も応援しているから心境は複雑だ。
 

 
 ことの発端は、文化祭の劇で玲二が王子様役をやったことだと思う。
 足を怪我していたお姫様役の私を庇って、うまく劇を成功させた姿は、確かに私の目から見てもかっこよかった。

 私目的であの劇を見に来ていた女の子たちが、あとになって玲二を「ほんとに王子様みたいだった!」と評す声を、私は嬉しいような悲しいような気持ちで聞いていた。

(なんだか、やだな……)
 胸がチクチクする。
 頭が痛い。

 普段は全然頼りにならなくても、いざという時は頑として譲らない。
 強い意志を持っている。
 そのくせ際限なく優しい玲二が、「かっこいい」ことぐらい、私は本当はずっと前から知っていた。
 私だけが知ってるつもりだった。
 なのに――。

(なんか悔しい……)
 意地っ張りで、自分の気持ちになんか全然素直になれない私が、つまらない意地を張っているうちに、『HEAVEN』でもクラスでも目立たない存在だったはずの玲二が、女の子の注目を浴びている。

 ところが、らしくもなく悶々とする私とはまるで真逆に、玲二は好きな相手に好意を示すことに迷いがなかった。
 ――つまり私に。

 クリスマスのラブプレートを書いてほしいと言った時、玲二はてらいもなく「好きだよ夏姫」と私に告げた。
 嬉しくて嬉しくて、ほんとは飛び上がりたいくらいだったのに、私はと言えば、「そんなに言うんだったらしょうがないから、書いてあげる」と実に嫌そうな顔でプレートを受け取っただけ。

「好き」の言葉には、実は何も反応を返していない。

(だから本当は、玲二は私の「彼氏」なんかじゃないのかも……?)
 そんなふうにしか思えない自分は、なんて素直じゃないんだろう。
 可愛げがなくって、自分でも呆れてしまう。

「そんな調子じゃいつか絶対瀬川さんにフラレるからな!」
 春樹の罵倒も、

「サッカー部のエースで、成績は中の上で、身長も無駄に高い……顔はまあ、すっきりと爽やか系ではあるし、笑うとなかなか可愛い……その上、女の子が苦手なくせに、不器用な優しさを示すことには照れがない……マズイわ、冷静に分析したら玲二君ってかなりポイント高いわよ? 夏姫ちゃん」
 恋愛マスターの可憐の評価も、胸に突き刺さるばかりだ。

 しかも冗談では済まされない。
 玲二を好意の目で見ている女の子は、半年前とは比べものにならないくらい多いのだから。
 
 
 だから私は決意した。
 今度のバレンタイン。
 ――去年まではチョコを貰う側で参加し、結果一人勝ち状態で、男子の反感を一身に浴びていたその女の子の一大イベントに、今年は私はチョコを渡す側で参加する。
 

 
 そのためにさっさとみんなを巻き沿いにした。

「えっ? バレンタインって、女の子がプレゼント貰う行事でしょ?」
 どれだけ恋人に甘やかされてるんだかと呆れてしまう可憐も。

「お前……! 私が年末に失恋したって知ってて言ってるのか?」
 思わず受話器を耳から放してしまうくらい大激怒した繭香も。

「うん。わかった」
 淡々と同意したうららも。

「ちょ、ちょっと待って! 私……どうしていいんだか、まだ決心がつかなくて……」
 傍から見てれば結論はもう出てるのに、あいかわらず往生際の悪い琴美も。

 みんなみんな――。

「ええ。いいわよ。じゃあ、その前の日曜日に私の家に集合ね」
 手作りチョコ作成の先生として、私がアポイントを取った美千瑠の家に召集をかけた。

(料理なんて全然しないんだけど……ほんとにできんのかな?)
 マフラーを首に巻き直しながら、いつもロードワークで走り慣れた道を急ぐ。

 吐く息は白く、指先だってかじかんでるから、とてもゆっくり歩いてなんていられない。
(嘘……ほんとは気持ちが焦って走らずにいられない……!)

 長い距離を走る時、一定のペースを保とうと努力するように、どうしようもなくドキドキと跳ねる心臓に、私はくり返し言い聞かせる。
(落ち着け、落ち着け、大丈夫!)

 例え多少出来が悪くたって、玲二ならきっと受け取ってくれる。
 ゆでタコみたいに真っ赤になって、それでもちゃんと「ありがとう」と言ってくれる。
 私は玲二のそんな誠実さが好きなんだから。
 他のみんなよりずっと前にそれに気がついて、好きになったんだから。

(そんなこと、絶対本人には言えないけど……)
 心の中で顔をしかめた次の瞬間、私はやっぱり首を横に振った。

(ううん……言えないじゃなく……言えるようにがんばらなくちゃ!)
 そうでなければ、とりあえず今は私の「王子様」でいてくれる玲二が、他のお姫様のところへ行ってしまっても、私には文句も言えない。

(いきなりは無理だけど、ちょっとずつ……玲二が変わったみたいに私も変わらなくちゃ!)
 いきり立つ気持ちは、やっぱりたおやかな「姫」にはほど遠くて、自分でも苦笑してしまうけれど、私は顔を上げたまま、走るスピードをもう少し上げた。

(いいの。だってこれが私だから!)
 約束の時間のかなり前に、誰よりも早く私が美千瑠の家に着くことはまちがいなかった。
 ――それは今度のバレンタインにかける、私の意気ごみ。

(玲二……喜んでくれるかな?)
 でもドキドキと胸を高鳴らせる心境は、全力で駆ける姿とは裏腹に、すでに乙女モード全開だった。
 
「ねえ……さっきから見てたんだけどさ。一人? 誰か待ってんの? よかったら、一緒にご飯食べに行かない?」
 あと少しでメッセージを打ち終わる時に声をかけられたから、顔を上げるのも返事をするのも一瞬遅れた。

 それをどんなふうに解釈したのか。
 声の主はスマホを見つめたたままの私に、どんどん話しかけてくる。
「いい店知ってんだよー。すぐ近くなんだ。もちろんおごるから……ね?」

(三十点……)
 声と話し方とその内容から、とりあえず予想点を点けてみた。
 私の予想はあまり大きくはずれたことはない。

 打ち終わったメッセージを送信して、スマホをバッグにしまって、顔を上げてみたら、ニヤケた顔の男が目の前に立っていた。
 根元が黒くなってきている長めの金髪に、耳たぶにズラッと並んだリングのピアス。
 鼻にも鼻ピ。
(うっ……二十点だったかも……!)

 心の中で眉間に寄せた皺は、実際に顔には浮かべず、社交辞令として頭を軽く下げた。
「ごめんなさい。友だちを待ってるから……」
 もちろんここで微笑なんて浮かべちゃいけない。
 押せばどうにかなるんじゃないかなんて、相手を調子づかせてしまう。

 だからセリフのわりにはかなり冷たい顔で、キッパリと断わったつもりだったのに、相手はそんなことに気がつかないタイプだったみたいで、私に向かって一歩踏みこんだ。
「友だちって男? それとも女? 女の子だったら、その子も一緒でもいいよ?」

(…………!)
 最悪。
 この手の相手は、こちらが何を言っても聞きはしない。
 とにかく「うん」と答えるまで、しつこく誘ってくる。

 心の中で小さくため息をついた。
 こんなふうに声をかけられることが多いから、外での待ち合わせなんていつもだったら絶対しない。
 デートの時は彰人さんが家まで迎えに来るし、学校の帰り道は、家の近くまで諒ちゃんが送ってくれる。

『だって……絶対にヘンな奴らを近づけるんじゃないぞって、俺、脅されてんだよ!』
 幼馴染の権限を奮って、いったいどんなふうに彰人さんは諒ちゃんに頼んだんだろう。
 考えてみれば面白い。
 ――そして嬉しい。

 五つ年上の私の大好きな彼は、いつも私を好きだという気持ちを照れもせず前面に出してくれる。
 今みたいな場面だって、遠くからでも見つけたならきっと飛んできてくれるはずだけど、残念ながら今日の待ち会わせの相手は彼じゃない。

(相手が女の子だってバレたら……またちょっとめんどくさいことになりそうだな……)
 そう思った矢先、道路の向こうから元気な声が聞こえた。

「可憐さーん! ごめーん! 待ったー?」
 大きく手を振りながらこっちに走ってくる琴美ちゃんが、私の名前を呼んでしまったからガックリした。
(ああ……名前までバレちゃった……)

 予想どおり。
 声につられて琴美ちゃんをふり返ってから、もう一度私に視線を戻した目の前の男は、ニヤニヤと笑ってる。

「へえー……キミ、可憐って言うんだ……ピッタリだね。友だちも一緒でいいよ。行こ?ね?」
 腕を捕まれてゾッとする。

「行きません。用事があるから!」
 キッパリと断わっても、思ったとおり、男は腕を放してくれない。

「いいじゃん。ちょこっとだけだから!ね?」
 駄目だ。
 やっぱりしつこいタイプ。

「……どうしたの? 可憐さん」
 様子がおかしいことに気づいてくれた琴美ちゃんに、私は助けを求める視線を向けた。
(助けて!)

 なのに、学年トップクラスの成績のわりにはどこか天然の琴美ちゃんは、そんな私を見ながら呑気に首を傾げる。
「……お友だち?」

『そんなわけないでしょう!』という叫びを呑み込んで、私は必死に首を横に振った。
「え? ……じゃ……誰?」
 琴美ちゃんの視線が、私の腕をがっちりつかんだ男の手に注がれる。

(ナンパよ! ナンパ! それもかなり強引に、しつこく絡まれてるの!)
 なりふり構わずにそう叫んでしまおうかと思った声を、私は再び呑みこんだ。
 頭上から、この場面ではおそらく一番頼りになるだろう人物の声が聞こえてきたからだった。

「可憐……何やってんだ? 琴美も……あんまり遅いから美千瑠が心配してるぞ?」
 目の前のナンパ男のせいで、まだ琴美ちゃんが来るのを待ってるというメッセージを送るのが遅くなって良かったと心から思った。
 きっと美千瑠ちゃんが迎えによこしてくれたんだろう。
 彼女のボディガードを、私は天の助けとばかりにふり返った。

「剛毅!」
 そこには我が『HEAVEN』一の巨体。
 ラグビー部所属で、黙って睨めばちょっとガラの悪い人たちだって目を逸らしてしまうほど強面の剛毅が、腕組みして仁王立ちで立っていた。

 驚いたように、私の腕をつかんでいた男の手から力が抜ける。
 そのチャンスを逃がさず、私が剛毅に駆け寄って背中に隠れると、男は二、三歩じりじりと後退った。

「な、なんだ……やっぱり男待ちか。そりゃそうだよな。ハハ」
 乾いた笑いを浮かべながら一人で納得すると、脱兎のごとくこの場から逃げだしていく。
「じゃ!」

 転がるように自分の横を走り抜けて行った男を見て、「なんなの?」と首を傾げる琴美ちゃんの鈍さは、もう表彰ものだ。
 それに対して――。

「お前も、大変だな……」
 どうやらわざと作っていたらしい厳しい顔を崩して、少し笑いながら私の肩を叩いた剛毅は、さすがあの美千瑠ちゃんのボディガード。
 きっとこんなことにも馴れているんだと感心した。



 「可愛いね」と言われるのは嫌いじゃない。
 横を通り過ぎた人がわざわざ私をふり返って、もう一度見返していくのも。
 男の子たちが意味深な視線を投げかけてくるのも。
 自分に魅力があるんだと思えば、嬉しくさえある。

 ただ私の場合は、こんなふうに声をかけてくる男の子が、あまり褒められた雰囲気の人じゃないことが多くて――煩わしいだけだから、一人ではあまり外出しない。
 そのへん、美千瑠ちゃんはどうなんだろう。

「美千瑠か? まあ……一人でフラフラしてたら同じように苦労してるかもしれないけど、俺が傍にいないってことは有り得ないからな」
「……有り得ないんだ?」
「ああ」

 剛毅に尋ねてみたところ、さも当たり前のように説明されて閉口する。
 私から見たら、剛毅のほうはどう見たって美千瑠ちゃんに好意を抱いているに違いないんだけど、そのへんのところはどうなってるんだろ。
 あくまでも仕事の範疇なのか。
 それとも他の男を近づけたくないっていう私情が少しは挟まれているのか――。

(まあいいっか……)
 聞いてみたところで、明確な答えが返ってくるとは思えない。
 琴美ちゃん同様、剛毅もそれ系の話に関してはかなり鈍い気がする。

(琴美ちゃんもねえ……)
 私の隣を歩く、ちょっと小柄な彼女の頭を見下ろしてみた。
 学年トップスリーに入る頭の良さにしては、あまりにも色恋沙汰に関してだけ鈍すぎる。
 貴人にしたって諒ちゃんにしたって、見ているこちらのほうが可哀相になってくる。

(結局、どうするんだろう?)
 誰が見ても明確な三角関係は、本人以外には丸わかりの琴美ちゃんの本心を考えれば、貴人に勝算はまったくないんだろうけど、私は正直どうなるかわからないと思っている。

 だって、琴美ちゃんに好意を寄せられてる諒ちゃん自身が、彼女と負けず劣らずの鈍感なのだから。

(両思いだって、本人たち以外はみんな知ってたんだけど、見ててあまりにも面白くって、ちょっと長く放置しすぎちゃった……ごめんね……)

 本来ならとっくに落ち着いていたところを、そうなってなかったもんだから、貴人が入りこむ余地があったというわけ。
 なんでもできる学園の王子様――貴人が本気で琴美に迫るなんて、私は絶対ないと思ってたから、諒ちゃんには悪いけど面白い。

(ごめんね……ほんとは諒ちゃんを応援してあげたいんだけど……貴人の本気も叶えてあげたいから、私はどっちにもつかないわ……)

 私と身長はそれほど変わらないけど、とりあえず護衛係として毎日一緒に帰ってくれている諒ちゃんには、心の中だけで手をあわせた。



「で? 何を作るんだ?」
 小さな体なのに誰よりも大きな態度で、腕組みをしてふんぞり返る繭香に、夏姫ちゃんがパラパラとレシピ本をめくりながら返事する。

「えっと……生チョコ? ……このチョコブラウニーってやつでもいいな……あ、やっぱ、トリュフ!」
「自分の好きな物を、片っ端からあげてるんじゃないだろうな……? 玲二は何が好きなんだ?」
「え? ……そんなの知らないよ」
「は?」

 一瞬、呆気に取られた表情になったあと、何かを叫ぼうと大きく口を開ける繭香の行動を予測して、私は素早く二人の間に割って入った。
「大丈夫、大丈夫! 玲二君だったら……意外と甘い物全般大好きだから、何を作ったって大喜びまちがいなし! ね? 美千瑠ちゃん?」

 ただでさえ予定時間を大幅に過ぎて始まったこの『バレンタインのお菓子作り講座』が、繭香の怒りが爆発することでこれ以上遅くなってはたまらない。

 でも間に入ったはいいものの、さすがに一人では手に余って、急いで今日の講師に助けの手を求めた。
「ええ、そうね。いつも何を作っても美味しいって食べてくれるわ。夏姫ちゃんが作るんなら、それだけで何でも大丈夫よ……」
 ニッコリと笑って、私が望んだとおりのセリフを言ってくれた美千瑠ちゃんのおかげで助かった。

「そっかな……」
 真っ赤になって再びレシピ本をめくり始めた夏姫ちゃんを見ながら、繭香も諦めたかのようにため息をつく。
「なんでもいいから早くしてくれ……」

 可愛らしいエプロンにお揃いの三角巾まで身につけた姿は、いつもの迫力満点の目力さえも少しは和らげてくれているのに、今日の繭香は不機嫌極まりない。
「だいたいなんで私までつきあわされなきゃならないんだ……」
 ブツブツと文句を言っているわりには、美千瑠ちゃんの指示に従って素直にバターを練り始めた繭香の怒りは、もっともだと思う。

 繭香が年末に貴人に告白して、キッパリとふられたということを、私たちは他ならぬ本人の口から聞いた。
 その繭香に向かって、「バレンタインのチョコを一緒に作ろう!」と誘える夏姫ちゃんは、さすがに神経が太いというか、怖いもの知らずというか。

「できた……美千瑠。これでいい?」
 六人で好きなように動き回っても、全然余裕たっぷりの杉原家のキッチン。
 着いてすぐから黙々と作業に集中していたうららは、どうやらもう何かが出来あがったらしい。
 それにひきかえ――。

「どうしよっかな? ねえ……やっぱチョコケーキが美味しそうじゃない?」
 玲二君のためと言うより、自分が食べたい物から頭が離れない夏姫ちゃんと、

「うん、そうだよね……うん」
 絶対、その夏姫ちゃんの言葉なんて聞いてはいなくて、あきらかに、何を作るかより誰にあげるかで悩んでるふうの琴美ちゃんは、まだ作業に入ってさえいない。

(ほんっとに個性バラバラ……面白い……)
 みんなからは少し離れた壁際の椅子に腰掛けてクスクス笑っていたら、美千瑠ちゃんが長い髪を揺らして、思いがけず私をふり返った。

「可憐さんは? 何を作る?」
「えっ? 私?」
 ビックリして、思わずいつもより多めに瞬きしてしまった。

「玲二にあげるバレンタインのチョコを作るからみんなつきあって!」という夏姫ちゃんからの電話に、これは面白いことになりそうだと思って出かけては来たけれど、私自身も作るんだって発想はまったくなかった。

 だってバレンタインといえば、いつも彰人さんが私にプレゼントをくれて、美味しい食事に連れて行ってくれて、夜景の綺麗な場所までドライブしてという、定番中の定番のデートの日だ。

 女の子が男の子にチョコレートをあげるなんて風習は、日本だけ、それもごく近年の習慣でしかないんだから――なんて笑いながら話していたら、だんだん痛いぐらいの視線が私に集まってきた。

「まさに余裕の発言だな……」
「いいな、可憐は……」
「はあっ……ほんとにうらやましい!」
 繭香や夏姫ちゃんや琴美ちゃんはともかく、どうして美千瑠ちゃんやうららまで、そんな責めるような目を私に向けて来るんだろう。

「可憐さん……あのね、時々はね……」
 小首を傾げながら何かを言いかけた美千瑠ちゃんを片手で制して、うららが私の前までやって来た。
 いつもほとんど口を開かない、何にも関心を示さないうららの突然の行動に、みんなが一斉に注目した。

「可憐」
 何を映しているのかよくわからない、色素の薄い瞳に真っ直ぐに見つめられて、思わず背筋がピンと伸びる。

「な、何?」
 らしくもなくドキドキしながら答える私に、うららは次の瞬間、予想もしていなかった表情を見せた。
 つまり――ニコリと小さく笑った。

「大好きな人の喜ぶ顔……見たくない?」
 無表情に覆われていることの多いうららの思いがけない笑顔に、なぜだかときめいてしまいながら、つられるように私は答えてしまった。
「……見たい」

 頷いたうららは、もういつもの表情に戻っていて、一瞬さっきのは錯覚だったんじゃないかとさえ思ったんだけど、作業台へと私の手を引いて行く細い腕を、振り払う気はなんだか起きなかった。
 うららに問いかけられた瞬間、頭に浮かんだ彰人さんの笑顔を、本気で見たいと自分でも思ってしまった。

「じゃあ、うららちゃんと同じでいいかな? まずね……」
 美千瑠ちゃんにさし出されたエプロンを素直につけて、セットするのに二十分もかかった自慢の巻き髪を、無造作にうしろで束ねる。

 誰かのために腕まくりをする自分なんて想像もつかなかったんだけど。
 本当に今日は、見ているだけのつもりだったんだけど。

(まあ、いいか……)
 きっとこれからも毎年毎年やってくる彰人さんとのバレンタイン。
 時には私のほうから彼にチョコレートをプレゼントする――そんな年があってもいい。

 私に対する好意を示すことに照れのない彼は、きっと貴人にだって負けないくらいの笑顔で喜んでくれるに違いないのだから。
(うん。喜ぶ顔……見たいかも!)

 作り終わったチョコレートをさっさと器用にラッピングして、私が今まで座っていた椅子に入れ替わりで腰を下ろした途端、もう静かに目を閉じたうららを、私は感謝の気持ちでふり返った。

(まあ、毎年期待されても困るんだけど……とりあえず今年は、私の気まぐれってことで……)
 ほんとに気まぐれな私に誰よりも慣れている彰人さんだったら、そんなふうに注釈つけて渡したチョコだって、きっと喜んでくれるはず。
 とびきりの笑顔で。

(よし……じゃ、がんばっちゃおうっかな!)
 今日は見学だけのつもりだった私も、結局『HEAVEN』の女子による『バレンタインのお菓子作り講座』に、上機嫌で参加することになった。
 まあもちろん、今年だけの気まぐれのつもりだけど……
 見ているだけでなんだかイライラする。
 どうしてああも、やること成すこと俺の癇に障るのか。

 あまり努力しているふうには見えないのに、成績は常に学年上位。
 大きな声で自己主張が強く、口うるさい女子の代表格。

『ちょっと男子! いいかげんにしてよ!』と何かと言えば俺たちを目の敵にしているくせに、ちゃっかり他のクラスに彼氏がいたりする……。
 本当に腹が立つ女だ。

 だったら見なければいいじゃないかと、自分でもそう思うのだが、望むと望まざるとに拘わらす、なぜか俺の目はすぐにあいつの姿を追ってしまう。

(あーあ……『あんたたちの掃除は雑すぎる!』ってさっきまであんなに怒ってたくせに、早坂を見つけた途端、あの笑顔かよ……)
 校門で待っている彼氏に向かって、長い髪を揺らしながら一目散に走っていくうしろ姿を三階の窓から眺め、俺はため息をつく。

(くそっ……!)
 そのイライラが、空しい片思い故の腹立たしさなのだと、気がつくのにそう長くはかからなかった。

 そんな自分の賢さを恨んだ中学時代。
 実るはずのない俺の初恋は、中学卒業と同時に華々しく散った。
 はずだったのに――。
 
 

「なんでお前がここにいるんだよ?」
「こっちのセリフなのよ!」
 高校の入学式当日。
 そいつが俺の隣の列に並んでいた。

 口では条件反射のように文句を言いながらも、心の中ではもうどうしていいのかわからないくらいに動揺している俺とは裏腹に、そいつはさも当たり前といったふうに、自分がこの星颯学園に入学したいきさつを語る。

「私はもともとここが第一志望だったもの!あんたはもっと上を狙ってたはずでしょ?」

 『お前こそもっと上を狙えただろ!』と怒鳴り返そうと思ったのに、ちょっと頬を染めながら口を尖らす表情を見ただけで、
(ああ、なんだ……早坂に合わせてレベル落としてここに来たのか……)
 とわかってしまう自分が悲しい。

 こいつが、考えてること全部顔に書いてあるのがいけないんだ。
 そのくせ――。

(俺が本当はもっと上を狙ってたなんて、よくわかるな……しかもここってクラスわけが成績順だから、ひょっとして三年間クラスも一緒か?)
 そう思っただけで微妙に嬉しくなり、気分が高揚してくる自分が腹立たしい。

「うるせえ。本命の入試の日に風邪ひいたんだよ」
「は? バカじゃないの?」
「…………!」

 前言撤回。
 可愛げのなさ過ぎる顔を力いっぱい睨みながら、もっと声を荒げようかとした瞬間、そいつの眉間に深々と刻まれていた皺がなくなった。

「あっ……!」
 俺には絶対に向けられることのない笑顔を顔じゅうに浮かべて、嬉しそうに目を輝かすから、ふり返って見てみなくても、俺の背後に誰の姿を見つけたんだかすぐにわかる。

(早坂かよ……くそっ……)
 これから三年間、またこのどうしようもない気持ちを持て余すのかと思うと、ただただ憂鬱な高校生活の幕開けだった。
 

 
(なんか、ヤなこと思い出したな……あんまり寒いからか?)
 二年前の今ごろの季節。
 極寒の日が続いた直後、受験生だというのに重症の風邪をひきこみ、第一志望の高校を受け損ねた俺にとって、寒さはもはやトラウマだ。

 かじかむ手を擦りあわせて、マフラーを念入りに巻き直す。
(別に試験が近いとかって訳じゃないけど……こんなとこで俺を待たせんなよ!)

 北風の吹き荒ぶ真冬の公園。
 足元には先日から降り積もった雪がこんもりと山を作っている。

「ああ寒い! ……ちきしょっ!」
 口では文句を言いながらも、その実、俺は頬が緩まずにはいられなかった。

『ねえ、諒……明日渡したい物があるから……いつもの公園で待っててくれる?』

 昨晩突然かかってきた電話。
 いつもと違う殊勝な声に、俺がどんなに動揺したのかなんて、あいつにはきっとわからない。

 なぜなら今日は2月14日。
 俺の認識がまちがっていないならば、女の子が好きな男の子にチョコレートをプレゼントする日だ。

(ってことは……そう思って……いいのか?)
 まるで天敵のように目の敵にされていた日々から、徐々に歩み寄りを見せ、『HEAVEN』で仲間として活動するようになって十ヶ月。
 早坂とはとっくの昔にわかれたあいつが、俺にチョコレートをくれるということはもしかして――?

(いや! 待て待て!)
 かん違いして喜んでは、どん底に突き落とされ、のくり返しの経験から、どんなに好条件が揃っていても物事を決して楽観視してはいけないと、俺の理性が感情にストップをかける。

(あいつが好きなのは、誰がどう見たって貴人だろ! 繭香がいるから遠慮してるってだけで!)
 あいつを見てきた年数だけなら誰にも負けない自信がある俺には、そう断言することができる。

 もちろんそれをわざわざ、恋愛に関しては鈍いことこの上ないあいつに親切に教えてやる気はないし、だからって俺が諦める気も全くないわけだが……。

 結局、望むと望まざるとに拘わらす、俺はあいつから目が離せない。
 ならばとことんこの片思いを貫いて、あいつがいつか俺をふり返るかもしれないワンチャンスを待とうなんて、うしろ向きなんだかしたたかなんだかよくわからない覚悟に、とうとう神様が温情をかけてくれたんだろうか?

 だとしたら、ここだけは絶対外せない。
 貴人が「俺は琴美が好きだよ」とわざわざ俺に宣言してきた以上、あいつのお守り役は俺だからなんて、今までのように現状に満足しているわけにはいかないのだ。

(もし本当にそうなら……俺のほうから告白する……!)
 決死の覚悟を決めたため、とうとう昨夜は一睡もできず、徹夜の状態で待ちあわせ場所に立つ俺に、声をかけてくる人がいた。

「あれ? ひょっとして……諒……先輩?」
 なんだか聞き覚えのある声にふり返ってみると、あまりにも見慣れた顔が立っていた。
 近所に住む二つ年下の幼馴染。
 山崎茜。
 中学三年生。
 いつもは俺のことを『諒ちゃん』と呼ぶくせに、『先輩』なんて呼ぶから、一瞬誰かと思った。

「なんだよ、先輩って……」
 額を軽く小突くと、照れくさそうに小さく笑われる。

「だって、星颯学園に合格したら、諒ちゃんは私の先輩になるんだもん……今から練習しとかなくちゃ……」
 そういえば茜は受験生だ。
「暇な時にはちょっと勉強見てあげなさいよ」と母さんにも言われていたことを思い出した。
 
 志望校が星颯学園だというのも、そういえば前にも聞いたような気がする。
 先輩風を吹かして、俺は少し偉そうに腕組みした。

「中学の頃だって、俺は茜の先輩だったぞ? そん時は全然そんな呼び方しなかったくせに……」
「あの頃はまだ子供だったから! でも高校はやっぱり違うもん!」
「そうかな?」
 首を傾げる俺の顔を見上げ、茜がふいに手にしていたバッグから何かを取り出す。

「あのね。本当は今から諒ちゃん……じゃなかった、諒先輩の家に行くところだったの。あの……これね……」
 茜にしてはなんだか言葉の切れが悪いなと思って、ふと目を向けた彼女の手にある物を確認して、俺はドキリとした。

 綺麗にラッピングされた小さな箱。
 なぜだか真っ赤になって俺にそれをさし出している茜。
 今日が2月14日である以上、この状況はもしかして――。

「私ね、ずっと前から諒ちゃんのこと……」

(茜。いつの間にかまた『諒先輩』じゃなくって『諒ちゃん』になってるぞ?)なんて突っ込む余裕もない。
 幼馴染が突然、全然知らない女の子になってしまったような気分で、俺は焦りまくった。

(ここで受け取ったら、俺も茜が好きってことになるんだっけ? いや、もちろん、好きなことは好きなんだが、その『好き』は『好き』が違うって言うか……なんて言ったらいいんだ?)
 涙さえ浮かべた真っ赤な顔で、必死に自分を見上げている茜を見ていると、焦りはどんどん大きくなる。

(妹みたいに思ってるなんて言ったら、泣くか? やっぱり泣くよな?)
 しかしそれが俺の本当の気持ちだ。
 だいいち俺には、他に好きな相手がいる。

(そうだ。それを伝えなきゃ!)
 茜がどんな反応をするにしろ、自分にとっての真実を正直に伝えたほうがいいに決まっている。
 その結果、茜が泣きだしたなら、今までどおり幼馴染として慰めればいいわけだし。

(そううまくいくかはわからないけど……)
 少し気が引ける思いを感じながらも、俺は重たい口を開いた。

「茜。俺はさ……」
 その瞬間。
 痛いくらいに突き刺さる視線を前方に感じた。

 公園の入り口付近に目を向けてみると、こんな場面を一番見られたくなかった人物がそこで立ち竦んでおり、俺は全身金縛りにあったような気分になる。

 あいつが俺をここに呼び出したんだから、考えてみればこの場に現れるのは当然なのだが、あまりにも間が悪い。
 これはどう見ても、俺が他の女の子に告白されている図だ。

(いや……それ自体はまちがいじゃないんだが……)
 心の声に、冷静につっこみを入れている場合では断じてない。

 思いこみが激しくて、超カン違い体質のあいつが、この状況を誤解する前に釈明しなければ。
 そう焦れば焦るほど、俺はパニックに陥った。

「お、お前っ! ……いや、ちょっと待て!」
 茜に向かって言いかけていた言葉も途中で止め、訳がわからないことを口走る俺を、茜が不審げに見上げる。

「諒ちゃんどうしたの?」
 何気なく俺のコートの袖を軽くひっぱる仕草。
 小さな頃からの茜の癖なのだが、そんな親密な様子をあいつに見られるのはあまりにもヤバイと感じて、俺は茜から身を引いた。

 途端、連日の雪に固く凍ってしまっていた部分の地面に足を滑らし、転びそうになった挙句、バランスを取ろうともがいた末に、茜にギュッと抱きついてしまった。

「――――!」
「――――!」 
 驚いて息を呑んだ茜と、あまりのことに心の中で絶叫する俺。

 その俺たちにクルリと背を向けて、今まさに入ってきたばかりの公園から駆けだしていくうしろ姿。
「琴美!」

 実を言うと、俺は面と向かってあいつの名前を呼んだことはこれまで一度もない。
 いつも「お前」呼ばわりで、ひねくれた口ばかりきいてきたのは、今となっては照れ隠し以外のなんでもない。

 それでもいつかは、貴人があいつのことを呼ぶみたいに、ちゃんと思いをこめて名前を呼びたいと思っていた。
 少しずつ、本当に少しずつ距離を縮めて、いつかはそうするつもりだった。

 こんなふうに言い訳がましく、走り去るあいつを呼び止めるために、叫ぶつもりは全くなかった。
 なのに――。

「琴美っ!!」
 俺の決死の呼びかけにも、全くふり返ることもせず、長い髪を翻らせて、あいつは一目散に駆け去っていった。

(ああ……俺ってやっぱりツイてねえ……)
 このあと本当は、どんな展開が待っていたのか。
 なのにそれが俺のドジでぶち壊しになってしまった今、これから先、俺たちの関係はどうなっていくのか。

 考えれば考えるほど、後悔ばかりが残る高校二年のバレンタインデーだった。
「先輩、好きです!」
「あの……これ、一生懸命作りました! 受け取ってください!」

 さし出される包みは、包装紙もリボンもさりげなく添えられたメッセージカードも、本当にどれも可愛くて、見ているだけで楽しくなる。
 きっと一生懸命考えて、選んでくれたんだろうなと考えると、家の前でズラッと横一列に並んだ女の子一人一人に、お礼を言って握手して回りたいくらいだ。

 正直にそう話したら、一緒に家から出て来た繭香に上目づかいで睨まれた。
「お前はどこのアイドルだ! バカか!」
「別に……アイドルだなんて思ってないけど……」

 ダメだ。
 繭香の言葉の選び方はいちいち秀逸で、ツボにはまる。
 俺は一度笑いだしたら止まらないほうなので、できればあまり面白いことを言わないでほしい。
 小声でそう頼んだら、ますます睨まれた。

「いいから! さっさと丁重にお断りしてこい!」
 小さなもみじみたいなてのひらで背中をバチンと叩かれるので、俺は仕方なく重い一歩を踏みだす。

(あーあ……気が重いな)
 これから俺は、きっと家の前で俺が出てくるのを何時間も待っていてくれたであろう女の子たちに、ひどい宣言をしなければならない。

 雪のバレンタインデー。
 きっと寒くて凍えそうな中で、懸命に待っててくれたんだろうに、繭香から出された指令は、「全てのチョコレートの受け取り拒否」だ。

「ねえ……やっぱり受け取るだけ受け取ったらダメかな?」
 ふり返って小声で尋ねたら、繭香が鬼のような形相になった。

「ダメに決まってるだろ! それじゃ去年までと何も変わらん! 自分で宣戦布告したんだからいい加減覚悟を決めろ! 往生際が悪すぎる!」
「だよね……」

 自分よりよほど男らしいのではないかと思う幼馴染の叱咤を受け、俺はようやく決心がついた。
 女の子たちの列に向かって歩きだす。

 俺は人が悲しむ顔を見るのは好じゃないし、できることなら悲しませることはしたくない。
 それぐらいなら、俺のほうがちょっと嫌な思いをすればいいと思うし、実際これまでずっとそうしてきた。

 本当に我慢できないくらいの嫌なことなんて、滅多にあるものじゃないんだから、あまりくよくよしない俺が傷つくことなんて、実はほとんどない。
 だからその信念のままに、恋愛関係の問題に関しても、あくまでも受け身で、好意を寄せてくれる女の子たちにはみんな、ありがとうと笑顔で感謝の言葉を返したいのに。

 これまでずっとそうやってきた方法では――どうしてもう、いけないんだろう?

 繭香に聞けば、きっと返ってくる言葉は決まっている。
「じゃあ、琴美のことは諦めるんだな?」

 正直そう聞かれると、俺にはなんとも答えられない。

 自分がこんなに誰かのことを好きになるなんて、思ってもいなかった。
 しかも彼女はあきらかに別の相手を好きなのだとわかっているのにだ。

 繭香だって、俺とそう変わらないぐらい恋愛偏差値は低いはずなのに、最近妙に先輩ぶってアドバイスをくれるのでとまどう。
 まるで小さな妹がいきなり姉になってしまったかのような変貌ぶりだ。

 女の子たちの前に着いて、最後にもう一度繭香のほうをふり返ると、偉そうに腕組みしながら、「行け」とばかりに顎で指示された。
 これではもう、ごまかしようがない。
 顔を真っ赤にしながら、涙まで浮かべた女の子たちが、一斉に俺に注いだ視線の重みをひしひしと全身で感じながら、俺は深々と彼女たちに頭を下げた。

「ごめん。今年はもう、チョコレートは受け取らないことにしたんだ」
 中には何年間も俺にチョコを渡し続けてくれている子もいて、本当に良心がズキズキ痛む。

「そんな!」
「だっていつもは……」
「うん。だけど今年はもう状況が違うから……」
「状況?」
 ざわめきが止まらない女の子たちに向かって、俺はもう一度頭を下げた。

「好きな人ができたんだ。だからもう彼女からしかチョコレートも受け取らない」
 頭をあげないままにきっぱりと言い切ったら、きっと非難の声が上がるか、すすり泣きが聞こえると思っていたのに、思いがけずあたりは沈黙した。

「え? え?」
 そんなにおかしなことを言っただろかと、内心不安に思いながら顔を上げると、女の子たちの笑顔にぶつかる。

「よかったですね、先輩!」
「ついに王子にも春が到来か~」
「それはおめでとう、貴人君」
「え、ええ……」
 これはどういう反応なんだろう。

 俺のことが好きで、バレンタインデーにチョコを家まで届けに来てくれたはずの女の子たちに、気がつけばぐるっと取り囲まれて、熱心な激励を受けている。

「がんばってね! 応援してるから!」
 実に清々しい笑顔で、みんなあっさりと手を振りながら帰ってしまって、逆に拍子抜けしたくらいだ。

 ひょっとしたら泣かせてしまうんじゃないかなんて、どうやら俺の身勝手な想像だったようだ。
 気が抜けたような気分で踵を返すと、ドアの前で待っている繭香が肩を震わせて大笑いしていた。

「なにがおかしいのさ」
 少なからず口を尖らせながら尋ねると、涙を拭き拭き繭香が言う。

「いや……お前の周りに集まる連中って、本当に良いヤツばかりだな……」
「そう?」
「ああ。本人も含めてお人よしだらけだ」
 ハハハと珍しく声を出して、繭香が笑い続けるので、せめて一糸報いたくなった。

「じゃあ繭香もね」
「…………!」
 昨年末自分をフッた相手の恋が成就するように応援するなんて、普通に考えても繭香は相当の「お人よし」だ。

 あまりに的確な指摘に、繭香は顔を真っ赤にして怒った。
「そんなことはない!」
 その顔を正面から見てしまい、遂に始まった俺の大笑いは、そう簡単には止みそうにもなかった。
 

 
「で? これからどこに行くの?」
「いいから黙ってついてこい!」
 さっきからずっとその問答のくり返しで、俺を伴ってどこに行こうとしているか、繭香はちっとも説明してくれない。

 昨夜からの雪が解けて固まった地面はかなり滑りやすくなっていて、繭香が足を取られないか心配だから、できれば俺のほうが先を歩きたいのに――。

 そう言って催促しても「着いてのお楽しみだ」と無駄だった。
 でも申し訳ないが、俺は学校から見ると俺たちの家があるほうとは真逆のその方角に、何があるのかをもうすでに知っていると思う。

 選挙前、繭香が学校を休んでいた間、毎日のように通った道だから。
 繭香の家に行った琴美を送って、彼女の家まで――。

 繭香の嬉しそうな背中を見ていると、俺をビックリさせたい気持ちが存分に滲みでていて、余計な言葉はかけられない。
 まるで今日初めて知ったかのように驚いた顔をして見せるのは、たぶん俺はかなりうまいほうだと思う。

 だからまあいいかと思いながら、小柄な背中に先導されて歩いていると、目的の家のかなり前方で、繭香がふいに足を止めた。
 それなりの大きさの公園の前。

 いったいどうしたのだろうか問いかけようとしたら、公演の入り口から誰かが走り出してきた。
 繭香は一瞬驚いたように目を見開き、それからすぐに「琴美!?」と叫んだが、俺には見えた瞬間にわかっていた。
 琴美が片手で頬を擦りながら泣いていることも。

 どうしたのだろうと考える前に体が動きだす。
 こういうところが、最近の俺の凄いところだと自分でも思う。

 とにかく琴美に関してだけは、何がどうしてこうなったのを考える思考回路が、頭の中で直結してしまっている。

 バレンタインデー。
 琴美の家の近く。
 手にはチョコレートが入っていると思われる小さな紙袋。
 ――そして泣いている琴美。

 これだけ揃っていれば、「何があったの?」なんて本人に聞くまでもない。

 繭香の声掛けが一瞬遅くなって、琴美は繭香には気づかず走り抜けたが、俺はそうはいかない。
 いろんなことにあまりに不器用過ぎて、なかなかうまくいかない琴美の片思いを、もう応援したりはしないと――決めたんだ。

「琴美っ!」
 繭香と同じように通り過ぎてしまわれる前に呼び止めて、腕を引いた。

 俺の顔を見て、「なんでこんな所に?」という表情をした琴美を、かまわず抱きしめた。

「いきなり何するのよ!」と諒みたいに殴られないのは、俺の役得だ。
 そういう意味では、俺は琴美にちゃんと信頼されていると思う。

 でもそんな信頼なんていらないから、俺の言動行動で琴美を一喜一憂させられるたった一人になりたいと思うのに、
 ――諒みたいになりたいと思うのに――
なれないことがこんなに悔しい。

 そして俺にはたどり着けない場所にもうずっと前からいるくせに、こうして琴美を泣かしてばかりいるあいつが、今は少し腹立たしい。

「諒となんかあった?」
 抱きしめながら問いかけたら、琴美が俺の腕の中で必死に首を横に振る。

 それが嘘だとわかっていながら、俺は「そう」といつもどおりの返事をした。
 優しく見守って、元気づけて励まして、今までずっとそうやってきたとおりに、琴美を慰めようとしたら、いつの間にか俺の前方に回りこんできていた繭香にじっと睨み据えられた。

 それから繭香が、細く尖った顎をクイッと上に反らす。
 それは小さな子供の頃からずっと俺の女王様だった繭香の、変わることのない ――GOサイン。

 気がつけば俺は、もう解放しようとしていた琴美の体を強く抱き締め直していた。
「琴美。俺は絶対に琴美を泣かしたりしない。いつも琴美が笑っていられるように……そのためになんだってできるよ。だから俺を選んで。そばに居させて」

 たぶん諒と何かがあって、泣いて落ちこんでいるところなのに、まるでそこを狙ったかのような告白。
 でも言葉にした想いには、偽りはない。
 いつだって俺が琴美を見ながら、ずっとずっと抱き続けていた想いだ。
 だから――。

「貴人……」
 泣きながら縋りついてくる琴美を、必ず守ろうと思う。
 諒に対する遠慮や気遣いより、俺はやっぱり琴美を守りたい。

「うん」
 特に何か返事を貰ったわけでもないのに、一人で勝手に納得して、宥めるように琴美の背中をトントンと叩いていたら、繭香がとてつもなく嬉しそうな顔でこちらを見ていた。

 親指をピンと立てて、空を指すそのポーズは――繭香女王のOKサイン。

 どうやら彼女の望むほうへ、ことが進み始めたことがあんなに嬉しいらしい。
 その顔を見ていたら、自分のことのように嬉しくなった。

 まるで誰が当事者なのか、まったくわからない俺たちの上に、雪が降り始める。
 
 
 ――それはきっと明日からの、新しい日々の幕開けの合図。

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