「もう……もう無理! ……絶対にもう無理!」
地面に倒れ伏しながら息も絶え絶えにギブアップを申告した私の隣では、諒が座りこんで大きく肩で息をしている。
「俺だって……もう無理だ!」
「ハハハッ、確かに疲れたけど……でも結構楽しかったよね?」
額にほのかに汗かきながらも、いつもと同じ笑顔で谷先生の前にできた長い列に並ぶ貴人を、私は驚愕の思いで見上げた。
(化け物……! 鉄人……?)
どうやら諒も同じようなことを思ったらしい。
「ああ、もういい! こんなことではりあったって、貴人に勝つはずがねえ!」
大の字になってゴロンと地面に転がった。
「大丈夫……?」
顔を覗きこんだ私を見上げ、だるそうに「無理」と手を振り、思いのほかニッコリと笑顔を見せる。
「でも大丈夫じゃないのは、お前もだろ! 髪の毛、汗で張りついてる」
持ち上げた右手で、諒が私の額にかかる前髪を一房持ち上げた瞬間、どうしようもなくドキリとした。
「…………!」
絶対に、顔が真っ赤になったに違いない。
その証拠に、諒は慌てて手を引っ込め、しばらくは起き上がりそうになかったその場所から、飛び上がらんばかりの勢いで急いで立ち上がった。
「す、水分! 水分補給!」
横に投げ出していたリュックを漁りながら、私には背を向けてそんなふうに言うので、私も繭香に預かったままのリュックから、繭香の水筒を取り出す。
「わ、私も!」
大事に飲まなければ、あとで繭香になんて言われるかわからないと気をつけていた水筒の中身を、思わず大量に飲んでしまって軽く後悔の念にとらわれた。
(諒が悪いのよ……急にあんなことするから!)
大急ぎで早歩きさせられて、ただでさえパンク寸前だった心臓が、別の意味でドキドキする。
「問題、もらってきたよ」
何も知らない貴人がニコニコと私たちのところに帰ってきたのと同時に、佳世ちゃんと渉と繭香も集まってきた。
背中を向け合って水筒を抱きしめている私と諒に、「どうかしたの?」なんて平気で尋ねてくるのは渉ぐらいだ。
「どうもしないわよ。ねえ?」
「あ、ああ」
あきらかに不自然に、目をあわさずに諒と会話をする私を、繭香は意地悪く追いつめてくる。
「いくら薄暗くて周りからあまり見えないからって、いちゃつくんだったら目は離せないな」
「いちゃついてなんかないわよ!」
思わず叫んでしまって、貴人にククッと笑われた。
「はい、これ。一応数学の問題みたいだから、琴美が解く?」
笑いながら、もらってきたプリントを私にさし出してくれる。
「う、うん……」
素直に受け取ってはみたが、別に私じゃなくっても、諒でも貴人でもいいんじゃないかと思った。
そしてふと思い当った。
(考えてみたら……私たちのグループに二年の学年トップスリーが揃ってるんじゃない? そりゃあ柏木がブツブツ言うはずだわ……)
グループ決めをしたLHRで、さんざん文句を言っていた宿敵の姿を思いだした。
(でも全員参加の学校行事なんだし、さすがに難し過ぎる問題なんて出ないと思うけど……)
そんなことを考えながら目を落とした問題用紙のプリント。
ざっと目を通して、思わず呟いてしまった。
「……何これ」
前後左右から、みんなが一斉に私が持つプリントを覗きこんでくる。
「え? 難しいの?」
「どれどれ」
「私にも見せろ」
そして一様に、みんな絶句した。
「誰だ。こんな悪趣味な文章考えたの……」
「谷先生じゃないかな? ここのチェックポイントの係りでしょ?」
佳世ちゃんの予想に、ゾゾッと背筋が寒くなりながら、私は仕方なくその問題文を読み上げた。
『私、谷口奈々。16歳。趣味は料理。特技は暗算。成績は中の上。見た目は十人並み。私には好きな人がいます。ずっとずっと大好きでした。でもその人を好きな子は、私の他にも八人もいます。私が両思いになれる確率はいったいどれぐらいなんでしょうか。――答えとその理由を簡潔に答えよ』
私が読み終わっても、しばらくの間はみんな沈黙していた。
私たちのグループと同じように、問題文を手に入れたらしい人たちが、そこかしこで額をつきあわせて相談している。
中には計算機をとり出したところもあるようだ。
「ようは『確率』の問題なんだから……九分の一じゃ……ないのか?」
疑い疑いながらも口を開いた諒に、私は同意した。
「うん。そうだね……11パーセントぐらい……?」
さらに賛同を得ようとチラリと貴人を見たら、彼は何かを考えこむみたいに、顎に軽く曲げた人差し指を当てていた。
(貴人……?)
私たちのグループどころか、まちがいなく学年一位。
ひょっとしたら学園随一かもしれない頭脳が、いったい何を考えているのか。
私は好奇心にかられて、ずっと貴人を見続けた。
その視線に気がついて、私に目を向けた貴人がそれはそれは嬉しそうに微笑む。
「なに? 琴美……どうしたの?」
自分で言うのも恥ずかしいが、あまりにも優しいその笑顔に貴人からの好意をありありと感じてしまって、私は真っ赤になって俯いた。
「な、なんでもない……」
隣からチッと小さな舌打ちが聞こえる。
「じゃあ、答えは11パーセントでいいな。書くぞ」
私の手から問題用紙を取り上げた諒が、ちょっと怒ったようにしゃがんで、リュックから取り出したシャーペンで、答えを書きこもうとする。
「…………待って」
制止の声をかけたのは、思いがけないことに貴人じゃなくて渉だった。
「そんな計算、実際の恋愛感情においては、全然成り立たないと思うんだけど……どう?」
「どう?」と私に尋ねられても、本当に困る。
「確かに! あんなに好きだったのに、ずっと両思いだったはずなのに、私は渉にあっさりとフラれたもんね」とでもコメントして欲しいのだろうか。
右の頬がピクピクひきつるのを感じた。
「そりゃあそうかもしれないけど……そんなこと言ってたら、答えなんて出ないでしょ……」
なるだけ冷静に返事しようとしている私の神経を逆撫でするかのように、渉はどこか遠い目をしながら、話し続ける。
「答えか……答えなんてあるのかな……」
その呟きを聞いた途端、貴人がパチンと指を鳴らした。
「そうか! わかった! わかったよ! ありがとう早坂君!」
嬉しそうに叫びながら、渉の両手を掴んで、ぶんぶんと大きく上下に揺する貴人を、繭香がバチンと叩いた。
「バカ者! わかったんなら大声を出すな! IQ200だとか噂のあるお前の答えを盗もうと、周りの連中が集まってくるだろう!」
ハッと周囲を見回してみれば、みんな自分たちのことに一生懸命で、幸いなことに貴人の声に反応したグループはなかったようだ。
それもそのはず、私と諒が最初に計算したように、さっさと答えを決めてしまって、みんなこのチェックポイントはもう出発しようとしているところなのだから。
それでも繭香の主張はもっともだというように、彼女に向かって頭を下げてから、貴人は今度は小声で話し始めた。
「答えっていうか……この問題が意図したところがわかった気がする。だからみんなちょっと耳を貸して」
言われるままに、私を含めた他の五人は貴人の近くに顔を寄せた。
整いすぎた貴人の顔ももちろんだけど、隣にいる諒の顔もぐっと距離が近くなって、そんな場合じゃないのに心拍数がどんどん上がる。
(もうっ! 静まれ心臓!)
自分で自分に喝を入れながら、耳をそばだてて聞いた貴人の言葉に、私は驚いて口をポカンと開けた。
みんなの顔を見渡しながら、貴人は笑って言った。
「早坂君の言うとおり、この問題に正答なんてないと思うんだよね。だから六人六とおり、それぞれの回答を書こう」
「「へっ?」」
思わず隣にいる諒と、まぬけな返事が重なってしまった。
それで顔を見合わせて、お互いの距離の近さに同時に赤面する。
でも今は本当は、悠長にそんなことをしている場合じゃない。
「……答えとその理由を簡潔にとは書いてあるが、六つも記入していいなんてどこにも書いてないぞ。大丈夫なんだろうな?」
棘だらけの繭香の質問に、貴人は再びニッコリと笑った。
余裕たっぷりのいつもの笑み。
しかし笑顔のまま貴人が繭香に返した言葉は、これまたいつものように傍で聞いている者にしてみたら、繭香の怒りの炎に油を注ぎこんでいるとしか思えないものだった。
「さあ? 単に俺がそう思っただけだから、保証はできないな」
ブルブルと繭香の肩が震え始める。
なぜだか繭香の睨みがまったく効かない貴人の代わりに、怒りの矛先が自分に向いてはたまらないと、私は急いで口を開いた。
「いい。大丈夫! きっと大丈夫だよ。うん。そうしよう!」
諒の手からひったくるようにして、問題用紙とシャーペンを取り上げ、答えを書きこもうとする。
そこでハタと思った。
(なんて書こう……?)
もちろんさっき諒が書こうとしたように、11パーセントと書きこむのは簡単だ。
でもそれは、計算とも言えないほどのごくごく簡単な計算によって求められた数値。
そこに『理由』なんて存在しない。
そう。
答えと共に求められている『理由』を書くためには、貴人が言うように単なる計算では答えは出ないのだ。
きっと――。
「貴人……私もひとつだけわかったような気がする……」
私の人よりちょっとだけ回転の早い頭が、超高速で働き始める。
「なに?」
どこか嬉しそうに先を促す貴人の声に従って、私はその先の言葉を続けた。
「これ、少なくとも数学の問題じゃない……たぶん……ううん、きっと。現国の文章読解問題だわ……」
「ご名答!」
貴人の鮮やかな返事と共に、全ての教科の中で唯一国語を苦手としている諒が、私の隣で「うっ!」と呻き声を上げた。
そんな諒を、私はとても気の毒に思って憐れみの目を向けた。
どちらかといえば文系の科目を得意としている私と反対に、諒は理系の科目を得意としている。
佳世ちゃんと繭香も、どちらかといえば文系。
「俺? どっちもダメだって琴美が一番よく知ってるだろ?」
あっけらかんと笑う渉は問題外として、オールマイティな貴人も別格。
よってこの問題は、諒に一番最初に答えを書かせることが決定した。
「六人六とおりってなると、前の人とは違う答えを書きたくなるのが一般的心理だから、あとになるほどたいへんかも……勝浦君、先に書いたほうがいいよ?」
さすがに佳世ちゃんの勧めには嫌な顔ができなかったらしく、諒は渋々と問題用紙の上に屈みこんだ。
「だいたいさあ……読解問題とかって、誰が答えを決めてんだよ。この時、主人公はどう思ったでしょうか、なんて……本人にしかわからないに決まってるだろ!」
ブツブツと文句を言いながら、問題文を睨みつけている諒に、貴人が笑いながら返事をする。
「確かにそうだね」
「ちゃんと計算さえすればスパッと答えが出る数学のほうが、何百倍も面白いよ! 俺は絶対そう思う!」
「うん、そうだね」
「はいはい」
貴人の返事には何も反応しなかったくせに、私のおざなりな返事はお気に召さなかったらしい。
諒がガバッとこちらをふり向いた。
「なんだよ。お前、自分が国語が得意科目だからって、バカにすんな!」
「バ、バカになんてしてないわよ!」
そこからひさしぶりに喧嘩に発展しそうだった私たちの間に、すっと繭香が割って入った。
「痴話げんかしてるヒマがあるんだったらさっさと書け……見ろ! よそのグループにどんどん置いていかれてるんだぞ!」
「………………!」
諒はサッと問題用紙に向き直り、私は口を真一文字に引き結んで、気をつけの体勢になった。
「痴話げんかなんかじゃないわよ!」の叫びは、繭香相手にだけは出せない。
絶対に。
それから、渉・繭香・佳世ちゃん・貴人と順番に答えを書きこむ間、私は直立不動の体勢で待ち続けた。
せめてこれ以上繭香を怒らせないようにと、懸命の努力だった。
(じゃあ最後に私も書こうかな。みんななんて書いたんだろ? どれどれ?)
解答を書きこむための空欄を埋め尽くすように、様々な文字で書きこまれた答えにザッと目を通し、私は感嘆した。
(確かに……同じ文章読んでこれだけ答えがあるんなら、この問題、渉や貴人や諒の言うとおり、本当の意味で正答なんてないのかも……)
ひょっとしたら、一つの事柄に対して自分なりの意見を書かせる小論文の要素も兼ねているのではないかなどと思いながら、私は僅かに残った空欄に自分の意見を書きこもうとした。
その前に内容がなるべく重ならないようにと、もう一度みんなの答えに目をとおすことは怠らない。
(それにしても……よくもまあこれだけ、個人の特徴がよく出た答えになったわね……)
思わず笑みが漏れた。
問題:
『私、谷口奈々。16歳。趣味は料理。特技は暗算。成績は中の上。見た目は十人並み。私には好きな人がいます。ずっとずっと大好きでした。でもその人を好きな子は、私の他にも八人もいます。私が両思いになれる確率はいったいどれぐらいなんでしょうか』
答え:
『そんな事は告白してみなけりゃわからない。俺はこの谷口って奴じゃないんだから……! ただ言えることは、中の下とか十人並みとか、自分を卑下するような表現は俺は好きじゃない。だから成功率10パーセント。なんとなく。(勝浦諒)』
『「その人を好きな子は、私の他にも八人もいます」とかうしろ向きなことを言っている時点で、永遠に言いだせないことが確定。よって確率は0パーセント。人は人、関係ない。自分の意気地のなさを人のせいにするな! (藤枝繭香)』
『得意の料理を活かして、彼の好きな物を作ってあげたらいいと思います。がんばり次第で確率もどんどん上がると思います……50パーセントぐらいまでは、たぶん。奈々ちゃん、がんばって! (高瀬佳世)』
『本当に好きだったら、もし一回告ってダメでも、またがんばればいい。ずっとずっと好きだったってくらい根気があるんなら、きっといつか報われると思う。だから成功率100パーセント。きっとそうだよ。(早坂渉)』
『大切なのは自分の気持ち。そして相手の気持ち。それがピタリと重なる奇跡の瞬間が、どんな二人の間にもあると思う。そのタイミングを逃さずに上手くがんばれたなら、100パーセント成功。まちがいなし!(芳村貴人)』
ダメだ。
面白すぎてニヤけた顔が直らない。
「琴美……さっさとしろ……!」
繭香の怒りの声にハッと我に返って、私は諒のシャーペンを持ち直した。
(そうだな……何パーセントぐらいだろう……?)
ここ七ヶ月ほどの間に、自分の身に起こった出来事をなぜだか思い出しながら、私はシャーペンを動かし始めた。
(恋愛に関してだけは、ほんと、予想もつかないもんね……)
七ヶ月までは、まさか自分が諒を好きになるなんて思いもしなかった。
学園の王子である貴人に告白されるなんてことも――。
(ほんとビックリ……ほんと信じらんない……!)
でもこれは確かに現実のことだし、私だってきっといつかは、貴人にも諒にもきちんと自分の気持ちを伝えなければならないんだろう。
そう思ったら、ドキリと胸が鳴った。
(そしたらもう、こんなふうにみんなではいられなくなるのかな……?)
それがとてつもなく悲しいと思う私に、はたして踏んぎりをつけることなんてできるのだろうか。
(無理な気がする……)
情けなく脱力していく私の目に、その時、繭香の解答が飛びこんできた。
『うしろ向きなことを言っている時点で、永遠に言いだせないことが確定。よって確率は0パーセント』
私に対する言葉ではなく、問題に対する解答だったのに、なぜか相当こたえた。
(うっ……0パーセントって……そんな……繭香……)
諒だって少なからず私に好意を抱いているように、感じる時も無きにしも非ずなのに、確率ゼロとは手厳しい。
勝手に精神的ダメージを受けながら、私はなんとか自分の答えを書き終えた。
『がんばればなんとかなるかもしれない。たぶん……きっと……だから希望的観測も含めて、成功率18パーセント。いや……25パーセントくらいかな?(近藤琴美)』
私の手から解答の書かれた用紙を取り上げた繭香が、答えに目を通し、はあっとため息をついた。
「なんなんだこの中途半端な数字……! しかもこれ以上ない往生際の悪さ! あまりに琴美らしすぎて、情けなくなってくる……」
「ど、どういう意味よ!」
繭香相手だというのに思わず叫んでしまった私に、繭香はもう一度大きな大きなため息をついてみせた。
「言葉どおりの意味だ。……あいかわらず、どうにもならん……あとで泣くことにならんといいな」
吐き捨てるように言い残すと、クルリと私に背を向けて谷先生に用紙を提出に行った繭香と、「ハハハッ」と肩を揺すって大笑いを始めた貴人に憤慨しながら、私は佳世ちゃんの手を引いた。
「もうっ! 先に行くからね! 行こう佳世ちゃん!」
「う、うん」
腹立ち紛れに歩きだしながらも、繭香の予言じみた言葉は、実は私の心の奥にひっかかっていた。
でもまさかこのあと三ヶ月も経ってから、まざまざと思い出し、後悔に苛まれる日々が訪れることになろうとは、この時はまだ、さすがに思いもしなかった。
「ねえ……まだかな?」
「うん。もう少しだと思うよ」
「佳世ちゃん、さっきもそう言った……」
「ははっ、ゴメンね……」
ダメだ。
いくら体がきついからって、佳世ちゃんに当たるなんてよくない。
よくないってわかっているのに、彼女以外には私のグループには、まともな会話が成立するメンバーがいないもんだから、ついつい佳世ちゃんにばかり話しかけてしまう。
「私こそゴメン……」
後悔しながら呟いたら、佳世ちゃんが私と繋いだ手にぎゅっと力をこめた。
「ううん。あ……ほら、琴美ちゃん! 見えてきたんじゃない?」
佳世ちゃんの嬉しそうな声につられて、ずっと自分のスニーカーの先ばかり見ながら歩き続けていた視線を上げてみたら、本当に遥か先にそれらしきものが見えてきた。
「ほんとだ!」
俄然元気になって、それまでどちらかといったら私の手をひっぱってくれていた佳世ちゃんを、逆にひっぱるように歩き始める自分は、自分でも本当にげんきんだと思う。
「よし! あともう少し!」
それまで死んだように無言で歩き続けていたくせに、目的の場所が見えた途端、揚々と叫んだ諒と、こんなところまで似てなくてもいいのにと、ため息をつく。
「なんだよ?」
私の反応を目ざとく察知して、諒が喧嘩を売ってきた。
「なんでもないわよ」
ここで挑発に乗ったら、無駄に体力を消耗するだけだと自分に言い聞かせ、私は冷静に諒から目を逸らした。
でも次のチェックポイントに着く順番を負けたくないだなんて、無駄な闘争心には火が点いた。
「佳世ちゃん、ちょっと先に行くね」
佳世ちゃんの手を離して、歩く速度を上げた私に、なぜだか諒もピッタリとついてくる。
「なんなのよ?」
「お前こそなんだよ?」
お互いに息を弾ませながら、これ以上ないほどの速さで早歩きを続ける私たちに、他のメンバーは誰もついてこない。
「俺たちおんなじグループなんだから、無駄なことすんなよ!」
「あんたこそ! ついてこなけりゃいいでしょ!」
「……………!」
大きな瞳をカッと怒りに見開いて、なおさらスピードを上げた諒に、遅れをとるまいと私は必死にがんばった。
「ちょっと待ちなさいよ! 待てっ! ……諒!」
「バーカ。誰が待つか」
「なんですって!」
ハアハアと息を切らしながらも、罵りあう会話はやめず、私と諒は周りの誰もが目を見張るスピードで、次のチェックポイントに駆けこんだ。
「やった! 勝ったっ!」
巨大な公園の駐車場だというその場所に着いた途端、地面に座りこんで息も絶え絶えに呼吸しながら、私は歓喜の思いに酔いしれた。
「くそっ!」
一回目のチェックポイント同様、汚れるのも構わず地面に大の字になった諒は、悔し紛れに地面を叩いている。
駐車場に入ろうかという寸前で、ついに歩くことをやめ走り始めた私は、タッチの差で諒に勝利したのだった。
「走るのは反則だろ……それじゃ夜間『遠行』じゃないじゃないかよ……!」
そう。
この遠行では長時間歩かなければならないのだから、誰も途中で走ろうだなんてことは思わない。
そんなことをすれば、後半に疲れることはわかっているのだから、暗黙の了解どころではない、常識中の常識ルール。
でも別に、走ることを禁止されているわけではなかったと思う。
たぶん。きっと――。
「うるさい! 注意書きに明記されてるわけじゃないんだから……やった者勝ちよ!」
「ひでえ女……」
生意気な口をひっぱってやろうかと諒の上に体を乗り出して、私はハタと固まった。
一つ目のチェックポイントと同じ体勢。
私を見上げる諒と、またもや真正面からしっかりと見つめあってしまって焦る。
(……………!)
全身に火が点いたかのように顔が熱くなって、私は慌てて諒の上からどいた。
その途端、後ろから冷ややかな声がかかった。
「琴美……チェックポイントのたびに、暗闇に乗じて諒を押し倒すのは、いい加減やめろ」
怒るでもからかうでもなく、心底呆れているかのように繭香の声に、私は夢中でふり返った。
「「そんなんじゃない!!」」
自分でも懸命に否定しているのに、諒の嫌そうな声はなんだか少し悲しかった。
そのチェックポイントで待っていた地理の沢上先生が、私たちに渡してくれたのは、地図と思われる絵と一枚の暗号文だった。
「なにこれ?」
あまり美術の成績が良さそうには思えない人が描いたふうの風景画と、奇怪な文章。
『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
なぜかっていまさらきくの? そんなことわかってるだろ?』
横から覗いて読んだだけで、私は思わず照れてしまったくらいだったが、問題文を持つ繭香の手はブルブルと震えていた。
「なんだ……これは……!」
心底怒ったような声に、このまま握り潰されてはたまらないと私が慌ててその用紙を取り上げた途端、繭香はキッと貴人を睨み上げた。
「本当に今回はアイデアを出しただけで、お前は問題制作には関わってないんだろうな?」
「もちろんだよ」
貴人はニッコリ笑って頷いた。
「だとしたら、お前並みに頭が沸いている教師が、残念ながらうちの学校にはいるということだな!」
「ハハハッ……なかなかひどいな、それ……!」
繭香にどんな暴言を吐かれても、どうして貴人はいつも笑っていられるんだろう。
それが凄いとつくづく思う。
「芳村君じゃないよ……」
私の手から問題文を取り上げながら、渉が呟いた。
「芳村君は自分のこと『俺』って言うだろ? ほら……これは『僕』だ……」
そういえばそうだなんて思いながら、私ももう一度渉の手に握られた問題文を覗きこんだ。
「自分のことを『僕』って呼ぶ上に、そんな臭いセリフを真顔で吐ける人間を、俺、一人だけ知ってるけど……絶対言いたくない……!」
キュッと唇を噛み締めた諒の顔を見て、私もドキリとした。
笑った顔は天使のように清らかなのに、縁なしの眼鏡をかけた途端、ビー玉みたいな薄い色の瞳が冷淡に輝き始める『白姫』のことを、ハッと思い出した。
(そういえば……この夜間遠行には智史君は参加してないのよね……?)
だからといって、彼が一枚かんでいるとは、実を言えばあまり考えたくない。
一筋縄でいかない智史君が考えた問題なんて、簡単に解けるような気がまったくしない。
「き、気のせいよ……偶然の一致よ、きっと……!」
自分に言い聞かせるかのように呟く私を見て、諒はハアッと大きなため息をついた。
「できればそう願いたいもんだ……」
「とりあえず、この絵の場所を捜してみたらどうかしら? この公園の中なんじゃないかな? ほら……」
佳世ちゃんが指差したのは、地図に描かれた何本もの道の分岐点に、その都度置かれている河童の像らしき物だった。
私たちが今いるこの広大な公園は、その名も『河童王国』。
入り口から入ったばかりのこの駐車場にだって、何体もの河童の像が建っている。
「確かに……」
私たちは顔を見あわせて頷いた。
「じゃあ……この地図に一致しそうな場所がないか捜そう」
「わかった」
「OK」
渉の手に地図を残し、他のメンバーは頭の中にその図を写し取って、私たちは駐車場をあとにした。
しかし――。
「河童の像、多すぎだろ、ここ!」
「しかもわかれ道も多すぎ!」
十五分も歩かないうちに、投げだしてしまいそうになった。
「あのさ、みんなで一緒にいてもあまり意味がなくない? ここは三組にわかれて、別々の道を行ったほうが効率的だと思うよ」
渉の提案に、私たちは全員頷いた。
「そうだな」
「うん。そうしよう」
ところが、誰と誰が組むんだろうなんて、心臓に悪いことを私が考え始めた時には、繭香はもう諒をひきずるようにして歩き出していた。
「行くぞ。さっさとしろ」
「え? お……俺!?」
諒はまさか繭香が自分を選ぶとは思っていなかったらしく、ひどく面食らいながらも彼女のあとについて行く。
「じゃあ、またあとでね。三十分後にさっきの駐車場に集合でいいかな?」
渉と佳世ちゃんが手を繋いで行ってしまった以上、私と一緒に行ってくれるのは貴人しかいない。
「俺たちも行こうか、琴美」
軽やかな声にふり返って、いつもの極上の笑顔を目にした途端、どうしようもなく心臓がドキドキし始めた。
「う、うん」
貴人のあとをついて歩きだしながら、まるで雲の上でも歩いているような、実に足元がおぼつかない気分だった。
貴人は、うしろからついてくる私が急いだりしないでいいくらいの速さで、ゆっくりゆっくりと歩きながら、ずっと歌うように何かを話している。
「琴美……河童の好物って知ってる?」
「……きゅうりでしょ?」
「うん。でも魚や他の野菜でもいいらしいよ……」
「ふーん」
「じゃあ、河童の指って何本だと思う?」
「えっ? 五本じゃないの?」
「うん。四本なんだってさ。指と指の間には水かきもあるし、人間っていうより、蛙の手を思い出すよね」
際限なく続く貴人の河童話に、私は思わず足を止めた。
貴人はふり返ったわけでもないのに、その気配を背中で察知したらしく、自分も歩くのをやめ、私をふり返った。
「どうしたの?」
「ううん。貴人、河童に詳しすぎ……」
「ハハッ、違うよ。ほら。河童の像に色々と書いてあるだろ? 俺はそれをそのまま読み上げてるだけ……」
「なんだ……」
そこで貴人が、初めて私に目を向けた。
これまでは背中を見ているだけだったから、なんとか落ち着きを取り戻しつつあった私の心臓が、貴人の綺麗すぎる顔を真正面から見てしまって、どうしようもなく暴れる。
「そうでもしてないとなんか落ち着かなくって……ゴメン」
「ううん……! 私こそ、ごめん……!」
全然そうは見えないけれど、貴人だって私と同じくらいにドキドキしているのかなんて思ったら、ますます胸の鼓動が速くなった。
「ちょ、ちょっと急ごうか? みんなとの待ちあわせに間にあわなくなったらいけないから……」
「ああ」
焦って歩きだそうとした途端、木の根に躓いて転びそうになった。
私の体を支えてくれた貴人が、クスッと笑って私に向かって右手をさし出す。
「はい。お手をどうぞ……けっこう暗いから、一人で行っちゃうと危ないよ」
「う、うん……」
素直に貴人の手を取る自分がなんとも不思議だった。
たとえばこれがもし諒だったら――。
(もちろん諒は貴人みたいに優しい言い方はしないし、そんなことされても気味が悪いんだけど!)
私はきっと意地を張って、諒の申し出を断わり、一人でさっさと歩きだすんだろう。
そう考えながら、貴人に初めて声をかけられて、座りこんでいた場所から立ち上がった時のことを思いだした。
(そうだ……あの時だって、そのあとだって……私はいつも貴人の手を取ることには迷いがなかった……)
自分の手を引いて、歩き始めた貴人の大きな手を見つめる。
(なんで……? なんでだろう……?)
それはとても重要なことのような気がするのに、ずっと考えるのを拒否していた時間があまりにも長すぎて、全然、思い当る答えが浮かんでこない。
「琴美、ほら。星が綺麗」
あいかわらず笑い混じりな声に促されて、見上げた夜空には本当に満天の星が輝いていた。
「綺麗……」
思わず呟いた私を、ひどく嬉しそうに見下ろす貴人の瞳も、星にも負けないほどにキラキラしている。
――その輝きにいつになくドキドキした。なんだかとてもドキドキした。
私の手を引き歩きながらも、やっぱり貴人はずっと何かを話していた。
この夜間遠行のことや。
『HEAVEN』の活動のこと。
尽きることなく出てくる話題が大学のことに及ぶにいたって、私はようやく、これまでなんとなく本人に確認し損ねていたことを口にしてみた。
「貴人……本当に大学に進学するの……?」
「ああ。そのつもりだけど……」
「それで……あの……」
でもいくら私でも、「やっぱり私と同じ大学に行くつもり?」なんて率直には聞けない。
なんと言ったらいいものかと困りながら、必死に次の言葉を探す私の耳に、貴人の笑い混じりの声が聞こえてきた。
「ごめん……あの時のセリフを、もう一回ここで言ってあげられたらいいんだろうけど……さすがにあれは、俺にとっても決死の覚悟だったんだよね……」
ボッと頭に血が上ってしまって、この場に卒倒するかと思った。
「いい! もう一回なんて……! 言わなくっても大丈夫! 大丈夫だから……!」
大慌てでそう答えると、貴人は肩を揺すって大笑いを始める。
「ハハハッ……そんなに拒否しなくても……!」
「拒否じゃないわよ! でも……だって……!」
負けじと言い返しながらも次の言葉に詰まる頃には、私は、貴人と二人きりになると思った時から抱えてしまった変な緊張が、不思議となくなっている自分に気がついていた。
貴人がいつものように私に手をさし出してくれたから。
笑ってくれたから。
これまでのように自然に接することができるようになったのだと思う。
笑い過ぎて涙を拭きながらも前を向いて歩き始めた貴人の、綺麗過ぎる横顔に目を向ける。
(ありがとう……)
これまでどんな時も、いつもいつもどん底の気持ちから私を救って、立ち上がらせてくれた人が、そこにはいた。
「それで……琴美はどこの大学に行こうと思ってるの?」
思い切って私が進学の話を始めたことで、貴人の中でも何かが吹っ切れたのだろうか。
朗らかな声で尋ねられる。
だけど私は、ふいに痛いところを突かれて、思わず呻き声を上げた。
「うっ……」
そういえば、衝撃の大晦日からこっち、そのことをすっかり忘れていた。
なるべく早く決めるようにと、冬休みの最中にわざわざうちまで大学名鑑を持ってきてくれた担任にしてみたら、どれだけ薄情な教え子だろう。
(先生……ごめんなさい……)
もうすぐ受験生だというのに、それ以外のことで頭がいっぱいだった自分を深く反省しつつ、私はこの際だからもう、貴人に助けを求めることにした。
「それなんだけど……実を言うと、まだ決めてないんだよね……」
ブッと一瞬吹き出した貴人は、すぐにそれを抑えて、私に笑顔を向けた。
「いいんじゃない? ゆっくりと決めれば……」
さすがだ。
ここで再び大笑いを始めると、私がプイッとへそを曲げてしまうことも、貴人には全てわかっているような気がする。
それでいて私を追いこむようなことは決して言わず、やんわりと前向きに背中を押してくれる。
貴人といると気持ちが楽になる。
自然体のまま、私は私のままで、それでもいいと思える。
肩の力が抜けた状態で、素直にがんばってみようという気持ちが湧いてくるなんて、なんて幸せな状況なんだろう。
そこまで考えて、私はハッと、貴人の大きな手を握る自分の手を見つめた。
(幸せ? ……これって幸せ……なのかな?)
突然降って沸いた解答に、私は驚いて貴人の背中を凝視した。
(貴人と一緒にいると……私って幸せなの?)
それは自分でも思ってもみなかった答えだった。
例えば貴人が『学園の王子』と呼ばれるくらいの、できすぎの人気者じゃなかったなら、私はどうしていたんだろう。
笑顔を見ているだけで幸せな気持ちになる。
落ちこんだ時には必ず手をさし伸べてくれる。
そんな貴人を他の誰にも譲りたくはないと、もっと必死にがんばったんではないだろうか。
――諒を好きだと思って、ジタバタしている今の想いとそう違わないくらいには。
でもそんなことを思うには、あまりに貴人はすご過ぎて。
外見も中身も、その横に自分が並ぶなんて想像もできないくらいに完璧で。
考えてみること自体、最初から考えられなかった。
それに繭香がいた。
全然似ていないようなのに、貴人によれば、内面に私とよく似た物を抱えているという繭香を理解したいという気持ちのほうが、何を置いても私の最優先で、貴人のことなんてあと回しだった。
そのうち、繭香の貴人に対する想いに気がついてしまったら、そのあとはもう考えてみることさえしようとはしなかった。
(じゃあその全部をとり除いたら……? 一人の男の子として見たなら、私は貴人のことをどう思っている?)
そんなことは簡単だ。
この手に導かれて、この笑顔に励まされたから、私はいつだって実力以上の力を出せた。
貴人が口にする「嘘のつけない琴美。真っ直ぐな琴美」に少しでも近づきたくて、 こうありたいと思う自分を真正面から目指せた。
意地を張ることもなく。
無理をすることもなく。
たとえ力が及ばなくて、失敗したとしても、何も恐れるものはない。
だって何よりも私に力をくれるあの笑顔で、貴人が「大丈夫」と言ってくれたなら、私は何度でも立ち上がれるのだから。
(どうしよう……私……!)
これまで貴人が、包みこむように私に与えてくれていた想いが、どんなに大きくて、どんなに自分にとって大切だったのかに思い至って、涙が浮かんできそうだった。
(貴人……!)
とても今までのように、その全てにもう知らないふりはできない気がした。
「琴美……ねえひょっとしてここじゃないかな?」
「へっ?」
例によって、本来今やらなければならないことをすっかり忘れて、自分との自問自答にふけっていた私は、突然立ち止まった貴人に、かなりまぬけな返事をしてしまった。
貴人はそんな私を咎めることなく、クククと喉の奥で笑いながら、目の前にある河童の像を指差す。
「ほら、こことこことあそこ。ちょうどこんなふうな配置じゃなかった? 暗いから遠くの山の形までは確認できないんだけど……」
チェックポイントで渡された、あのあまり上手くはない風景画を頭の中で思い浮かべて、私は叫んだ。
「確かに!」
何本もの道が繋がっているところといい、大きな木が二本生えているところといい、きっとここでまちがいはないだろう。
自慢の記憶力を駆使して、私はそう結論づける。
「ここに何があるのかな?」
呟きながら歩きだそうとして、ハッと気がついた。
まだ貴人と手を繋いだままだった。
しかも貴人の倍もの力で、私のほうがしっかりと握り締めている。
「ご、ごめん……!」
慌てて放そうとしたら、貴人がクスリと笑った。
「俺は別にずっとこのままでもいいよ?」
ドキリとどうしようもなく心臓が跳ねる。
「え? は? ……でっ、でも……!」
ダメだ。
貴人の想いの大きさとか。
自分がもともと貴人に抱いていたはずの淡い感情だとか。
いろいろ自覚してしまったせいで、また心拍数が上がってきた。
とても普通になんて接することができない。
思わず乙女ムードの感情に流されて、「私もこのままでいい」なんて頬を染めて言ってしまそう。
(でも……! だけど……!)
頭に浮かんでくる諒の顔に違った意味で胸を痛めながら、私は必死に後退りした。
「そ、そんなわけにはいかないよ。やっぱり!」
慌ててふり解こうとする手を、貴人は放してくれない。
「琴美……ちょっと待って……」
なんだかちょっと貴人の顔が真剣になった気がするけれど、私はなおさら焦るばかりだった。
「貴人、ゴメン! 私、なんか混乱してて……!」
「うんわかった。わかったから琴美……それ以上下がらないで……」
「へっ?」
静かだが妙に迫力のこもった貴人の声と表情に、私が首を捻った時にはもう遅かった。
ガラッと足元で何かが崩れる音と共に、私の体は宙に放りだされていた。
「……? ……きゃああああ!」
いつの間にか背後に迫っていた真っ暗な崖の下に、自分はこれからまっ逆さまに落ちていくんだと、私の頭が理解した。
「いやああああ!!」
でも実際にはそうはならなかった。
まさかこうなることを予想していたわけではないのだろうが、貴人が放そうとしてくれなかった私の右手は、まだしっかりと貴人の手の中にあった。
「琴美!」
自分も地面に叩きつけられながら、貴人が両手で私の腕を持ってくれたから、私は足元に何もない空間の恐怖を感じながらも、その場に宙吊りになり、かろうじて崖から落下せずには済んだ。
だけど――。
私の腕を掴む貴人の手から、ツウッと何かが流れ落ちてくる。
夜の闇の中でも、それが真っ赤な血だということが、私の目に見えた。
「貴人!」
焦る私を宥めるように、貴人はいつものように笑ってみせる。
「大丈夫だよ、琴美。すぐに助けるから」
でもその綺麗な微笑みは、私から見てもかなり蒼白で、貴人が必死に無理をしてるんだろうってことがよくわかる。
「やだ貴人! 怪我したんじゃないの? ……私のことはいいから、手を放して!」
「嫌だ」
悲鳴のような声で懇願する私に、きっぱりと答える貴人の声は強い。
微笑みさえ浮かべている表情も、貴人の意志の強さそのものだ。
でも貴人の腕から流れ落ちて来る血液は、止まるどころかどんどん量を増しているように感じる。
「私はいいから! 自分でどうにかするから! ……貴人!」
「絶対嫌だ」
満天の星空を背に貴人は笑っていた。
涙で霞む私の視界の中でも、それでもまだいつものように、鮮やかに笑っていた。
私は人に涙を見られることが苦手だ。
精一杯肩肘張って生きている自分の化けの皮が、全部剥がれてしまうような気がするから。
本当の私は強くなんてない。
早とちりだし、うっかり者だし、鈍い上に気もきかない。
だけどそんな私の欠点を全部わかってて、それでも「そのままでいいよ」と笑って許してくれる。
――私にとって貴人はそんな相手だから、懸命に歯を食いしばっている今のような状況でも、涙が溢れだしてしまう。
「私こそ嫌だってば! ……放してよ……!」
「嫌だよ」
あいかわらず、短いその返事しかしない貴人の声は真剣だ。
なのに私の手を掴む両手も、私を見下ろす笑顔も、胸に痛いくらい優しい。
「だって……! だって……!」
絶対に怪我をしたはずの貴人の両腕を見上げながら、負担をかけているばかりの自分が悔しくて、どうしたらいいのかと必死に頭をめぐらす私の耳に、その時よく聞き慣れた声が聞こえてきた。
「琴美……? 琴美か?」
「繭香!?」
急いで声のしたほうに視線をめぐらして見たら、遥か下方に人影が見えた。
そこに繭香が立っているということは、おそらくあそこはちゃんとした地面なのだろう。
「貴人! ほら大丈夫! 繭香がいる! あそこがきっと地面よ。手を放してくれたら、私、自分でちゃんと着地するから!」
貴人は綺麗な目を少し眇めて、私と繭香の距離を計ってから「無理」と笑った。
「結構高さがある。危ないよ琴美。猫みたいに着地できるって言うんなら、話は別だけど……」
かなり蒼白な顔をしながらも、クスクスと笑い出す貴人の笑顔に、私は涙も吹き飛ぶほどの勢いで、懸命に訴える。
「大丈夫! ちゃんと猫みたいに華麗な着地を決めてみせる! だから……ね!」
「いや無理だよ」
変わりない返答に、ため息が出た。
どうして貴人は、こんなにも頑ななんだろう。
彼の意志の強さを、私は常々うらやましくさえ思っていたはずなのに、今はそれが歯痒く思える。
まさかこんなふうに感じる日が来るとは、今まで思ったこともなかった。
「もうっ! 貴人の意地っ張り!」
「ハハハッ……助けてるのに、俺が怒られるの? ……でも……なんて言われたって放すわけにはいかない」
どうしたらいいのかわからない。
途方に暮れる私の耳に、下の方から繭香とはまた違う声が聞こえてきた。
「いいから放せよ……」
そう。
繭香がそこにいるということは、一緒に行ったはずの諒もいるに違いないってことを、私は今の今まですっかり失念していた。
「どんな変な格好で落っこちてきたって、俺がちゃんと受け止めるから」
思いがけない言葉に感動して、せっかくひっこんだ涙がまた浮かんでくる。
「諒……」
なのに――。
そのあとに続いたのは、私のその涙も、またひっこむような言葉だった。
「どうせ、またそいつがドジやったんだろ……? まったく問題起こさずにはいられないのかよ……! 重くて受け止めるのは無理そうだったら、大人しく俺が下敷きになるから……貴人も無理すんな!」
「ちょっと諒!」
一瞬浮かんだ感動の気持ちも全部消し飛んで、なんとか諒を一発殴りに、早くあの場所に行きたいと足元を睨みつける私の上で、貴人は大笑いを始める。
「ハハハッ! ちょっ……諒! 笑わせないで! 力が抜ける!」
「だから抜けていいんだって! 俺が下にいるから!」
「うーん……でも琴美を諒に渡すのか……」
「変な言い方すんな! この場合、仕方ないだろ!」
「でもな……」
延々と続きそうな問答に、(なんでもいいから早くして!)と思っていたのはどうやら私だけではなかったらしい。
「いいからさっさと放せ。どうせ引き上げる力は残ってないんだろ。お前の意地で、今一番辛い状況にあるのは琴美だぞ!」
繭香の静かな怒りの声を聞いて、貴人が私に視線を向け直した。
目と目があった瞬間、ちょっと困ったような表情になる。
「うん、わかってる。ごめん琴美」
「ううん……そんな……!」
私は辛くなんかない。
辛いのは貴人の腕だろうと言い返そうとした瞬間、ニッコリと笑われた。
「じゃあ放すけど、俺が本当は放したくないんだってことは覚えててくれる?」
「え?」
「本当は放したくないんだよ。忘れないで琴美」
思わず頬が染まってしまいそうなセリフを、真っ直ぐに見つめられながら、微笑み混じりに告げられて、頭がぼうっとする。
それでも私が返事をしないことには、きっとこの状況は先に進まない。
私はおずおずと頷いた。
「わ、わかった……」
いよいよこれから下に落ちるのかと思ったら、さすがにドキドキして、距離を確認するように足下を確かめてみる。
瞬間。
貴人が私の上から声をはり上げた。
「諒! 絶対に受け止めろよ!」
いつも笑い混じりにしゃべる貴人が、そんなに真剣な声を出すのを、私はあまり聞いたことがない。
(……えっ?)
驚いてもう一度上を見上げようとした時、下からも思いがけない声が聞こえた。
「当たり前だろ!」
(えっ?)
こちらは声だけ聞いていれば、いつもどおりのちょっと怒ったような声。
でもその内容が、さっきまで貴人と話していた時とは、あまりに違いすぎる。
「俺がそいつを落とすわけないだろ!」
(えっ? えっ!?)
私に諒の言葉の真意を考える間も与えず、貴人が手を放した。
「きゃあああ!」
短い悲鳴が終わる頃には、私はもう繭香の隣に到着していた。
それも諒を下敷きにしたのではなく、ちゃんと諒の腕の中に受け止められて。
「いってえ!」
叫んだ諒から慌てて飛び退こうとしたのに、私を受け止めると同時にしりもちをついたらしい諒は、私を放してくれない。
「諒? ちゃんと受け止めた?」
貴人の問いかけに、誇らしそうにちょっと顎を上げて、
「だから! ……俺がこいつを落とすわけないだろ!」
諒がもう一度叫んだ返事にドキリとした。
抱きかかえるようにまわされた両手に、ぎゅっと力がこめられたことに、もうどうしようもなくドキドキした。
「で? まさか絵に描かれた場所を発見したから、暗号の文章のとおりに飛び下りたってわけじゃないよな?」
暗い中でも爛々と輝く繭香の瞳に、探るようにじっと見つめられて、私はその場にひれ伏してしまいそうだった。
「そ、そんなことはありません……」
なぜか口調まで敬語になってしまう。
「じゃあ、やっぱり琴美が……いつものようにドジったんだな……」
「はい……」
しゅんとうな垂れる私の頭を、よしよしと佳世ちゃんが撫でてくれる。
「大丈夫。芳村君の怪我も出血は多いけど、傷自体はたいしたことないから……琴美ちゃん気にしないで……」
その貴人は、腕にできた裂傷をハンカチで押さえてニコニコしている。
「そうそう」
「でもたぶん、長い時間琴美をぶら下げてた肩のほうがいかれてると思うよ? ……あとからかなりの痛みがくるかも……」
真正直な渉の言葉に、佳世ちゃんがちょっと焦る。
「早坂君!」
「大丈夫だよ。大丈夫」
それすら笑顔で返してしまう貴人に、申し訳ないやらすまないやらで、私はなおさら小さくなった。
もともと私と貴人がいた場所から、繭香と諒がいた崖下までは、よく探してみたら歩いて下りる道があった。
それを通って貴人が私たちのところにやって来るのとほぼ同時に、渉と佳世ちゃんも到着した。
どの道を通ってもこの場所に辿り着けたということは、どうやらここが目的地でまちがいないようだ。
『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
なぜかっていまさらきくの?そんなことわかってるだろ?』
渉が持っていた暗号文をもう一度読んでみたら、その恥ずかしい文面がさっきまでの自分の状況と微妙に重なってしまって、とてつもなく照れた。
私の手を「本当は放したくない」と言ってくれた貴人と、
「俺がこいつを落とすわけない」と言い切った諒。
思い出したら顔から火が出るように恥ずかしいし、冷静ではいられない。
「こ、これにどういう意味があるのかしらね……?」
心の動揺を悟られないようにと、考えることに集中しようとする私につられるように、貴人も諒も繭香も渉も佳世ちゃんも首をひねる。
「告白?」
「いやノロケだろ?」
「ふん。ずいぶんもったいぶった言い方だな」
「でも、こんなふうに言われたらちょっとドキッとするよね……」
「えっ? 佳世ちゃんってこんな言い方が好きなの?」
「う、ううん……そういうわけじゃなくって……」
ダメだ。
全然らちがあかない。
「そもそもこの場所に何があるって言うの? 木が生えてて、枯れ葉が積もってて、あいもわわらず河童の像。これまで進んで来た道と何が違うって……」
言いかけて私は、何気なく指差したその『河童の像』をまざまざと凝視した。
(おかしい……)
何がかと言うと、その像がだ。
これまで道沿いに転々と立っている姿は何度も目にしたが、こんなふうに通行の邪魔になるようなところに立っていた物は他にはなかった気がする。
「ねえ……」
なんか変じゃないかと、私が口を開きかけた時に、諒が唐突に叫んだ。
「うわっ! 俺、この暗号わかったかもしれない!」
「ほんとに!?」
思わず自分が話そうとしていたことはあと回しにして、何を見て諒がそう思ったのかに耳を傾ける。
「ああ。がけのしたを見てみろよ」
言われてそのまま、私は自分たちの周囲を見回した。
「お前……やっぱバカだろ……?」
ひさしぶりにそのセリフを聞いて、嬉しくもあったけれど、腹がたったのも本当だった。
「なによ! だって、崖の下ってここでしょ?」
「そうだけど、そうじゃねえよ……ほら『がけのした』!」
言いながら諒が指差したのは、例の暗号文だった。
ぜんぶ平仮名で書かれたメッセージは、そう言えばなんだか中途半端なところで改行されている。
「なによ偉そうに! いくら見たってなんのことだか私にはさっぱり……」
言いかけて息を呑んだ。
諒が私に言いたかった『がけのした』が、その時はっきりと見えた。
「これって……!」
大興奮して自分が気がついたことを話し始めた私には、崖の下には何があるのかさえ、もうわかっていた。
『きみがけがをするくらいならぼくがとびおりる。
なぜかっていまさらきくの? そんなことわかってるだろ?』
暗号文の中には確かに「崖」があった。
「きみ『がけ』がを……」の部分だ。
それならその「崖」の下にあるのは、「いま『さら』きくの?……」の部分ということになる。
「わかった! さらだわ!皿!」
私は叫ぶと同時に、不自然極まりない位置に立っている河童の像をふり返った。
河童の頭の上に乗っている皿に触ってみたら、たいした力も入れていないのにポロッと取れる。
「ちょっ! お前! 壊すなよ!」
焦る諒に、私は手にした河童の皿をつきつけた。
石によく似た色に塗ってはあるが、それはあきらかに発泡スチロール製だった。
裏は真っ白のままで、中央に大きく「合格」の朱色の文字。
その上、端っこのほうには、ご丁寧に製作者のサインまで入っている。
―――『Urara.T』
「やっぱり、うららが一枚かんでるじゃないのよ!」
叫んだ私に負けないくらい悲壮な顔で、諒が頭を抱える。
「じゃあやっぱり、この口が腐りそうな文章を考えたのはあいつか……!」
「へえ……さすがにそれは聞いてなかったなあ……」
感心したように細い顎に指を当てた貴人を、繭香がキリッと睨み上げた。
「本当だろうな? もしお前があらかじめ知ってたんなら、この課題は智史に電話一本すれば済む話だったんだからな! 無駄に歩き回ったり、そんな怪我なんかしなくとも!」
繭香の指摘にドキリとして、私も思わず貴人の顔を見上げた。
諒も渉も佳世ちゃんも、みんな次の貴人の返事を息を詰めて待っている。
「いや。確かに知らなかったよ。でも知ってたからって、俺たちだけ智史に答えを教えて貰ったんじゃ、ズルイって言うか……謎解きの楽しみが半減しちゃうと思わない?」
終始笑顔で答える貴人の返事が全て終わる前に、繭香はクルリと貴人に背を向けて歩きだした。
「なるほど、確信犯だな……」
「えっ? あれ……繭香?」
呼びかける貴人を無視して歩き続ける繭香を追って、諒も歩きだす。
「あいつの仕掛けに踊らされたのかと思うと腹が立つ! くっそう! 腰が痛てえ!」
「おーい諒?」
貴人の肩を背伸び気味にポンと叩いて、佳世ちゃんの手を引いた渉も歩きだした。
「確かに……公園の中をあちこち歩き回らされてちょっと疲れたかな……この先もまだまだ遠行が残ってることを考えると……そんなに生真面目に考えないで、楽する方法使っちゃってもよかったんじゃない?」
「もうっ、早坂君!」
渉に手を引かれて歩きながら、佳世ちゃんは顔だけふり返って貴人に言った。
「気にしないで芳村君。私は楽しかったよ。手……大丈夫?」
あいかわらず優しい。
その上、気遣いまでバッチリ。
みんなに置いてきぼりをくって、一瞬硬直していた貴人が柔らかに笑んだ。
「高瀬さんって……いいよね……」
佳世ちゃんは私の大親友だ。
その上、自分自身も彼女に癒されまくっていると、私は深く自覚している。
それなのになぜか、貴人のその言葉は私の胸にチクリと刺さった。
「私たちも行こう、貴人……」
そんな気持ちをふり払うかのように、私はうらら制作の河童の皿を片手に握りしめたまま、貴人を促して、みんなのあとを追って歩き始めた。
「繭香と諒はきっと怒るだろうって思ってたけど……早坂君にも痛いところを突かれたなぁ……のんびりしてるように見えて、彼、結構鋭いよね……?」
並んで歩きながら、貴人がそんなふうに私に尋ねてきた。
私は何の気なしに、思ったままを答えた。
「ああ、うん……昔から時々、ドキッとするようなこと言うの。でも渉の場合、全然悪気はないんだよね。ただの天然だから……」
「ハハッ、さすがに詳しい……」
そう返されてドキリとした。
その声が少し寂しげに聞こえたから。
隣を歩く貴人の顔をそっと見上げてみたら、貴人も私のほうを見下ろしていた。
綺麗な瞳とバッチリ目があってしまって妙に焦る。
「……悔しい?」
思わず聞いてしまったあとで、バカなことを言ったと後悔した。
でも貴人が鮮やかに笑いながら「悔しい」と返してくれたので、それでかえって変な緊張感がなくなった。
ちょっと嬉しそうに笑う貴人の顔が、私のほうこそ嬉しくて、自分でも持て余してしまったさっきの感情を、本人に言ってみる気になる。
「私も悔しかった。貴人が佳世ちゃんを褒めるから……」
「……ほんとに?」
「本当」
ダメだ。
ますます笑顔になる貴人に見惚れてしまう。
私のせいで怪我した腕に、応急処置として佳世ちゃんが巻いてくれたハンカチを結び直しながら、貴人は歌うように話す。
「あんまり調子に乗せたらダメだよ、琴美……俺、結構乗せられやすいし、かなりポジティブシンキングなんだ……」
公園の出口へと向かう道を二人で歩きながら、ついさっき同じ道を歩いた時より、ずっと普通に会話できていることがなんだか嬉しかった。
「うん。知ってる。その上、頑固者で、渉も言ってたとおりかなり真面目だよね」
「ハハッ、なんだ……すっかりバレちゃってるじゃないか」
私のどんな軽口も、笑顔で受け止めて笑い飛ばしてくれるから嬉しい。
「琴美はさ。思ったことをそのまま口にするし、何も考えないですぐに突っ走っちゃうよね」
「う……うん」
話が今度は私のことになったと思ったら、さっそく痛いところを突かれてしまって、返事に詰まる。
「だけど裏表がない。変に飾ったりもしないってわかってるから……いつも信用してる」
なんだかジンと来た。
「好きだ」なんて言われるのの何倍も嬉しかった。
もちろんそんな言葉、私の十七年の人生において、渉にだって数えるぐらいしか言われたことはないし、貴人にだってこの間の大晦日に一回言われただけだけど――。
「ありがとう。嬉しい」
思ったままに返事して、本当に貴人の言うとおりだと思った。
貴人の前だと、私は素直に自分の感情を口にできる。
「うん。でも、俺こそありがとうだな……」
そんなふうに言って、また笑いながら歩き続ける貴人に置いていかれないように、私も歩を早める。
遥か前方に私たちを置き去りにしたメンバーたちが、公園駐車場のチェックポイントで待ってる姿が見えてきた。
「ずいぶんと楽しそうだったな」
暗号を解いて目的地に到着したことの証明として、貴人と繭香が先生に河童の皿を提出しに行った途端、諒がポツリと呟いた。
おそらく貴人と一緒の時の様子を言われているのだと気がついて、ドキリと心臓が跳ねる。
何も答えない私の顔を一瞬覗きこんで、諒ははあっとため息をついた。
「別にいいけど、俺には関係ないし……」
座りこんでいた場所から立ち上がって、さっさといなくなろうとするので、慌てて呼びかけてしまう。
「諒!」
ふり返ってくれたはいいものの、胡散臭げな目を向けられて、なんと言ったらいいのかわからなくなった。
そもそもなんで呼び止めてしまったのか。
自分自身でもよくわからない。
ただわかっているのは――。
(私ってすごく嫌なヤツだ……!)
貴人が真っ直ぐに自分に向けてくれる好意が嬉しくって。
彼の隣にいるのが心地良いなんて、自分でも思っていて。
そのくせ、諒が自分に背を向けて行ってしまうのは我慢できない。
表向きはそうは見えなくても本当は優しい諒が、しょうがないなというふうにまた手をさし伸べてくれることを期待している。
(卑怯者! 最低!)
自分で自分が嫌になって、心の中で罵ったら涙が浮かびそうになる。
そしたら諒がなおさら私を気にかけてしまう気がして、私は必死に歯を食いしばった。
「ゴメン。なんでもない……」
俯いて呟いたら、もう一度はああっと大きなため息をついた諒が、私の前に屈みこんだ。
「だからって、何が変わるなんて言ってないだろ……お前は何も気にすんな……どうせ俺のポジションなんて、五年も前からずっとこのまんまだよ……」
軽く頭を小突かれて、濡れた目のまま顔を上げた。
諒の言ってる意味がよくわからない。
(五年? ……五年前って、何かあったっけ?)
キョトンと考え始めた私の額を、諒がビシッと指先で弾く。
「いたっ!」
「だから気にすんなって! お前はもう、一生気がつかないくらいの勢いでいいんだよ……バーカ!」
話の細部は良くわからないながらも、とてもバカにされていることはわかる。
諒がおそらく、私を元気づけようと喧嘩を売ってきてるってことも。
「誰がバカですって!」
その喧嘩を全力で買いながら、私はすっくとその場に立ち上がった。
「もちろんお前だよ。当たり前じゃん」
顔は意地悪くニッと笑っているのに、私を見る諒の目は優しい。
そんなことに気がついたら、またいろんなことを考え始めてがんじがらめになってしまって、動けなくなると思ったから、私は気づかないフリでこぶしをふり上げる。
「諒! あんたね!」
途端、右肩に鋭い痛みが走った。
「いたっ!」
「無理すんな。右手一本でその体重をしばらくの間支えてたんだから……」
言いながら諒は、さっさと私のリュックを取り上げて、自分の肩に掛ける。
「貴人も辛かったと思うけど、お前の腕だって相当辛かったと思うぞ……その体重だもんな……」
うんうんと一人で納得しながら先に歩きだした背中を、私は今度は左手をふり上げながら追いかけた。
「ちょっと! まったく失礼なヤツね、諒! 私の体重はそんなに重くはないわよ!」
諒は顔だけふり返って意地悪く笑いながら、歩くスピードを上げた。
「ぜひそう願いたいね。じゃなきゃ遠行のラストを飾るはずの課題が辛すぎる!」
「へっ? 諒、最後の課題知ってるの?」
思わず足を止めた私にべえと舌を出して、諒は走り始めた。
「お前には絶対教えねえ!」
軽やかな背中には、自分のぶんと私のぶん、二人ぶんの荷物。
「ちょ、ちょっと待ってよ、諒!」
あっという間に小さくなるその背中を、私は夢中で追いかけた。
「ねえ! 待ってってば!」
あちこち歩き回って疲れきった足は重かったが、諒が引き上げてくれた心は軽かった。
真っ暗な川原でなぜか校歌を歌わされ。
蕾がほころび始めた梅園で今の心境を一句詠まされ。
それから長い石段を黙々と登らされた。
向かっているのは、学園の東側にある山の中腹にある展望所。
そこで、眠気もピークの頃に無理やり二度目の食事を摂るのが、夜間遠行では恒例となっている。
「…………」
私の前を行く貴人も、すぐうしろの諒も、それに続く佳世ちゃんも渉も、もう誰も口を開かない。
夜にみんなで歩く――なんていつもはできない体験が、楽しいのは序盤から中盤まで。
終盤にさしかかると六百人あまりの同じジャージの群れは、みんな口をつぐみ、重たい足をひきずるようにして、ただ黙々と次の目的地を目指す。
その実、一人一人、本当に数多くのものと戦っているのだ。
(もうやだ……足、痛い……右肩も……)
肉体的苦痛と。
(あーあ、なんで私、今年も参加しちゃったんだろう……? そりゃあ全員参加の学校行事には違いないけど、仮病使うとかさ……)
自分の思い切りのなさを嘆く気持ちと。
(だいたいなんでこんな行事があるわけ? ……進学校なんだから、勉強だけしてればいいじゃない……! 肉体の鍛錬とか、精神力を鍛えるとか……そんなの、やりたい人が勝手にやればいいのよ……!)
疲れを怒りに置き変えて、学校を非難する気持ち。
しかし――。
(……………疲れた)
しょせんはそのひとつに尽きる。
考えてもどうしようもないことを、このまま考え続けても、余計に疲れるだけだ。
私は考えることをやめ、あまり意識しないようにただ慣性で足を動かしながら、目の前の背中を見た。
途中でちゃんと保険医の手当てを受けた貴人は、今は左腕を包帯で吊っている。
(ゴメンね……)
謝っても「平気、平気」と笑われるばかりだから、なおさら申し訳ない。
せめて荷物を持とうかと申し出たのに、「琴美だって怪我してるからダメ」と渡してもらえなかった。
右肩だけに引っ掛けたリュックも、背の高い貴人だとそう重そうには見えないが、長い石段を登るのにはバランスが悪そうで、本当に申し訳ない。
そんなことを思いながら歩いていたら、小石を踏んで体勢を崩しかけてしまい、一段下にいた諒に支えられた。
「なにやってんだ……! 階段は危ないんだから、ちゃんと歩くことに集中しろ……!」
「う、うん。ゴメン……」
素直に返事して、私は足元に視線を戻す。
命令口調の言い方にはちょっとカチンとしたが、いつものように「なんですって!」とこぶしをふり上げる気にはなれない。
疲れきってそんな元気がないからというのが理由の一つ。
諒の言うことが正しいからというのも一つ。
そして、私の荷物をずっと諒が、文句も言わずに持ってくれているからというのも、一つだった。
二度の食事のためのお弁当や、防寒着、雨具。
今年はオリエンテーリング形式でどんな問題が出されるかもわからなかったから、用心のために本も少し入っている。
いくら私が水筒を忘れたとはいっても、それらが全部入ったリュックを、二人ぶん背負って歩き続けるのは結構辛いだろう。
「ねえ諒……やっぱり……」
自分で持とうかと言いかけると、先にそれを察知したらしい諒に、シッシッと追い払うような仕草で再び前を向かされる。
「いいから。気にしないでちゃんと前見て歩け。お前が落っこちてきたら俺まで危ない……」
「うん」
かすかに息の上がった声で、それでも憎まれ口は忘れずに、ちゃんと返事をしてくれるから、これ以上諒に負担をかけたくなくて、私は口をつぐんだ。
「琴美、大丈夫……? あともう少しだと思うよ?」
ふり返って笑ってくれた貴人にも、すぐにうんと頷く。
こんな私なんかに二人がかけてくれる優しさが、嬉しくて申し訳なかった。
午後九時から始まった夜間遠行も、開始から九時間が過ぎ、私たちは行程のほぼ九割の所まで来ていた。
今目指している展望所に到達したら、その次の目的地は、もうゴールである学校だ。
(よくがんばったな……)
疲労感と共に少しの満足感を感じることは確かだが、なにも最後近くになって千段もの石段を登らせることはないのではないかとも思う。
私でなくてもあちこちで、足を踏み外す生徒の声が聞こえる。
(くたくたに疲れてるんだから、危ないのに……)
不満まじりにそんなことを呟いたら、貴人に背中のままクスリと笑われた。
「それはやっぱり……あの時間にあの場所に、みんなを居させてあげたいっていう学校側の配慮なんじゃないかな……」
「え…………?」
貴人の言ってることがよくわからず、首を捻る私に向かって諒が聞いてくる。
「おい。まさか何のことかわからないなんて言うんじゃないよな……?」
ちょっと驚いたような訝る声に、「うん」と頷いたならどんなに呆れた顔をされるか。
重々覚悟しながらも、私は恐る恐る諒をふり返った。
「わかんないんだけど……」
「…………!」
諒は大きなため息をついて私から顔を背け、貴人は肩を震わせて笑い始めた。
「お前なあ! 去年も遠行には出たんだろ……?」
激する諒のうしろからひょっこりと渉が顔を出す。
「あ……最後のチェックポイントだったら、琴美は半分寝てたよ? 俺のぶんも弁当作ったから、夕方に仮眠できなかったとかで、その弁当食べるなり俺に寄り掛かってきて……」
「渉! ……渉!!」
間にいる諒を突き飛ばさんばかりの勢いで三段ほど階段を駆け下り、私は渉に飛びついた。
「なに?」
きょとんと瞳を瞬かせる渉に悪気はない。
昨年の今頃は、私はまだ渉とつきあっていて、そのことはここにいるみんなが知ってることなんだから、今さら隠す必要もない。
だけど――。
「ふーん。行くぞ貴人……」
私にはもう目も向けず、貴人を誘って再び歩きだす諒の全身からは棘が突き出たように見えた。
「あ? ああ……」
一瞬呆けていた貴人は、我に返ったかのように諒のうしろに続き、継いでふっと佳世ちゃんに笑顔を向ける。
「高瀬さんも……行く?」
ダンスをエスコートする時のように、自分に向かって優雅にさし出された右手を、「私なら大丈夫」と佳世ちゃんはやんわりと断わった。
その光景の全てに、私はもう何重もの意味で居たたまれなかった。
(なんなのよこれ……!)
このメンバーで夜間遠行のグループを組むとなった時から、私が密かに恐れていた最悪の展開。
(もう嫌っ!)
頭をかきむしりたいほどの思いで、いっそう疲れながら、私は重い足をひきずって再び歩き始めた。
目的地の展望所へ到着し、早い朝食となる二度目のお弁当を開く頃には、貴人と佳世ちゃんと渉はすっかりいつものとおりだった。
「わあ……高瀬さんのお弁当美味しそうだね……」
「ほんと。去年の琴美のヤツよりずっとすごいよ……」
「そんな……」
(渉……これ以上余計なこと言われたらたまらないから、今は聞き逃しておくけど……あとで絶対に殴る!)
私はこぶしを握りしめてそんな三人のやり取りを見ながら、黙って座っていた。
諒は私たちと少し距離を置いて、ここで見つけた剛毅や玲二君のグループに混じってしまっている。
頑ななまでに私に背を向け続ける黒髪に、私はため息をついた。
(すぐに怒っちゃうのはいつものことだし……渉の話に怒ったってことは、ちょっとは妬きもち妬いてくれてるのかな、なんて……むしろ嬉しいけど……)
今このタイミングで、というのは実にまずかった。
(あーあ……せっかく作ってきたのに……)
実は私は、自分のぶんに加えていくつか余分におにぎりを作ってきていた。
佳世ちゃんの立派なお弁当と比べて、実に失礼なことを言っている今年の渉はともかく、去年の渉は私が作ってきたお弁当を「美味しい美味しい」と食べてくれた。
はっきり言ってさっき諒に呆れられたとおり、私はこの展望所に何があるのかは全く覚えていないけれど、その渉の嬉しそうな顔だけはしっかりと覚えてる。
(だからって諒に、素直に渡せるなんて思ってなかったけどね……)
日頃お世話になってるからとかなんとか。
苦しい言い訳も考えてきていたのに、全部水の泡だ。
だからといって、貴人にあげるなんてことも、今さらあてつけがましくできるはずもない。
(どうしよこれ……)
途方にくれながらリュックの中を覗きこんでいたら、背後からにゅつと手が伸びてきた。
「何? 余ってるんならもらおうか? なんでそんなにたくさん持ってきてるの……まったく食い意地がはってるね……」
嫌味ったらしくそんなことを言いながら、あつかましく私のおにぎりを取っていこうとする相手をふり返って確認して、私は悲鳴を上げた。
「ぎゃああ! 柏木!」
「柏木?」
呼び捨てにされたことに眉をひそめた宿敵の名前を、私は慌てて言い直す。
「柏木……君! ……勝手に持っていかないでよ、ちょっと!」
取り返そうと手を伸ばした私の腕をかいくぐって、柏木はそのまま二、三歩後退った。
「いいじゃない。いとしの芳村君は高瀬さんのお弁当がいいみたいだし……あんまり気の毒だから、毒見してあげるよ。これってボランティア?」
ニタニタと笑いながら、そのまま自分たちのグループが陣取った場所に帰ろうとした柏木の前に、人影が立ちはだかった。
「あっ……!」
私が名前を口にする間もなく、彼は柏木の手から私のおにぎりを取り上げた。
「バカか、お前は! 小学生かよ!」
心底呆れたような声とは不釣あいに、かなりの怒りに燃えた目で至近距離から睨まれて、柏木は挙動不審に目を泳がす。
「ちょっとからかっただけだよ……そんなに怒ることないじゃないか、勝浦君……」
逃げるように走り去って行く背中に、諒は大声で叫んだ。
「怒ってない! なんで俺が怒んなくちゃいけないんだ!」
(いや……どう聞いても怒ってるでしょ、それ……)
私だけじゃなく、もう暗い中に背中が見えなくなった柏木だって、心の中できっとそうつっこんだに違いないと私は思った。
「ほら」
私が座るところまでやって来た諒は、怒ったように私におにぎりをさし出した。
だから私はこれがきっとチャンスなんだと、意を決して口を開いた。
「よ、よかったら諒が食べて。本当にたくさん作ってきちゃったんだ……ほら」
リュックの中からまだ二、三個のおにぎりを取り出して見せると、諒は「それじゃ」と口の中だけで呟いた。
俯いた頬がちょっと赤いように見えるのは気のせいだろうか。
そんなふうに思ったら、自分の方こそボッと顔に火がついたかのように赤くなってしまって大慌てする。
「ま、まだあるけどいる?」
「おお」
いつになく素直に、諒がそんなふうに返事するからますます焦る。
あたふたとしながら、私が諒に向かってさし出したおにぎりを、横から大きな手が一つ攫った。
「俺にもちょうだい」
貴人だった。
ドキリと心臓が跳ねた私に向かってではなく、貴人は自分と私の前に立ったままの諒に向かって確認する。
「いいだろ?」
俯いていた諒が顔を上げた。
一瞬私にチラリと目を向けてから、貴人に向かって口を開く。
「だ……」
とてつもなくドキドキした。
(なんて言うつもり? それはどうして? そしたら貴人はどうするの? それで私たちの関係は……これからどうなるの?)
一瞬の間にいろんなことが頭を駆け巡った私は、とても諒の返事を待ってはいられなかった。
「ど、どうぞ貴人! あ、渉も食べる? なんなら……剛毅や玲二君にも持っていってよ、諒!」
リュックから次々とおにぎりを取り出しながら、みんなに押し付けるように渡していく私を見下ろして、諒がふうっと息を吐いた。
「……わかった。高瀬だけじゃなく、美千瑠や夏姫の弁当とも味を比べてくれって……そういうことだな」
一瞬、本当にほんの一瞬。
なんだか複雑そうな顔をしたくせに、諒は次の瞬間には意地悪く笑って、私にそんなことを言った。
「は? ……何言ってんの?」
「ハハハッ……そうなの? 琴美って結構チャレンジャーだね?」
さっきは諒に向かって、結構真剣な顔をしていたくせに、貴人までそんなことを言って笑いだす。
「ちょ、ちょっと待って! これは……そういう意味じゃないわよ?」
確かに十二時間前。
おにぎりを作った時には、私は諒のことだけを考えて作ったのだ。
「食べてもらえるかな?」なんて乙女チックモード全開でドキドキしながら作ったのだ。
「じゃあまあ……俺もついでに食べるかな…」
本来の目的である諒のほうが、いつの間にか「ついで」になってしまっている。
「だから、そうじゃないってば!」
焦る私をよそに「じゃあな」と行ってしまう背中。
その背中を見ながら私は頭を抱えた。
(なんでこうなるの?)
悔しくて、虚しくて、呆けてしまう。
でもこの思いが、これからの数ヶ月間、自分の頭を支配し続けることになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
みんながお弁当を食べ終わる頃、先生の車に乗って展望所までやってきた繭香は、真っ先に佳世ちゃんを攫ってどこかへ行ってしまった。
しばらくして帰って来ると、憐れむような表情で私の肩をポンポンと叩く。
「普通に歩いたって大変なこの行事中に、よくもまあそれだけ面白い展開をくり広げられるな? ……早坂にお礼を言わなきゃならない……ぜひ私もその場に居たかった……」
しみじみとそんなふうに言われてムッとした。
「こっちは面白くもなんともないのよ!」
「いや面白いだろ……」
意地悪そうに唇の端を吊り上げた繭香に背を向けて、私は歩きだそうとした。
けれどその途端自分の目の前に立ちはだかった人物を見て、思わず大声を上げてしまった。
「う、うらら!?」
「琴美……おはよう……」
私に向かって両手をさし伸べたうららは、薄い色の髪を私の肩に押しつけるようにして、すぐに首に抱きついてくる。
「は? なに? なんでここに居るの?」
混乱するばかりの私に答えをくれたのは、うらら本人ではなく、どうやら彼女と繭香と一緒にたった今この場所に到着したらしい智史君だった。
「どうしても琴美と一緒に、自分も『それ』が見たいんだって……いつもよりちょっと早起きしたんだよ。おかげでこっちは寝不足……」
眼鏡をかけた智史君は本当に赤い目をしていて、大きく伸びをしながら先生の車から降りて、こちらに向かってくる。
「ここまでの行程はサボっておいて、最後だけ現われるってどういうことだよ!」
反対方向から走ってきた諒が、挑むような視線で智史君に問いかけた。
智史君は眼鏡の奥の瞳をほんの少しだけ細めて、事も無げに言った。
「ああ。サボりなんかじゃないよ。うららは病気だから、途中からしか参加できないんだ。僕はそのつきそい」
「は?」
「夜に活動したらいけない病。本当の病名は適当につけたからもう忘れちゃったけど、れっきとした医者の僕の父さんが考えたんだから、そうおかしな名称ではなかったと思うよ? ちゃんと診断書を提出して、学校にも認められてる……これでいい?」
「…………!」
諒の全身から怒りの炎が放出されるのが、私には見える気がした。
きっと私だけではなく、その場にいた人間にはみんな見えたと思う。
なのに智史君は涼しい顔をして、諒の怒りを煽るような話をやめてくれない。
いいや。
あれは絶対にわざとやってるんだ。
「なんでうららのつきそいでお前まで休めるんだ! ……なんて野暮なことは今さら聞かないでよ? そんなの……僕がうららの保護者代わりになってるからに決まってるでしょ?」
最悪だ。
足元に視線を落として、ブルブルと震え始めた諒の姿に私は気が気じゃない。
「智史君! 智史君! 私まだちょっとやることがあるから、うららをお願い!」
そう叫んで、さっきは「おはよう」なんて言ってたのにまたすうすうと寝息を立て始めたうららの体を智史君に押し付けて、私は諒の手を掴んで走りだした。
「諒! 一緒に来て!」
「は? ……へ?」
とまどいながらも、諒は私に手を引かれて走りだす。
「へえ……僕に感謝してほしいくらいだね……」
クスクスという笑い声と共に背後で聞こえた智史君の呟きは、できればもう諒の耳には入らないで欲しいと願った。
「やることってなんだよ……?」
みんなが集まってる展望所からはちょっと離れた休憩所まで走り抜けて、ようやく足を止めた私に向かって、諒はふて腐れたように問いかけた。
「ええっと……」
何も考えずに走り出したのだから、上手い言い訳なんて当然浮かんで来ない。
あちらこちらを視線を彷徨わせる私の顔を見て、諒ははああっとため息をついた。
「お前にまで気を遣われるようじゃ、俺ももう終わりだな……」
心底落胆したような声に、ちょっとムッとする。
「なによ! 余計なお世話だったとでも言いたいの?」
「いや、助かったよ……ありがとう」
思いがけず素直なお礼が返ってきて、驚いて諒の顔を仰ぎ見た。
言った諒も、どうやら思わず言ってしまったようで、首まで真っ赤になって私から目を逸らす。
お互いの心臓の音まで聞こえてしまいそうな気まずい沈黙を破ったのは、遠くから聞こえてきたみんなの歓声だった。
「おおおおう!」
「わあっ!」
折り重なる叫びにふり返ってみると、山の端から朝日が顔を出すところだった。
そう言えばさっきからうす紫色に明るくなってきていた空が、ほのかな茜色に輝きだす。
「ああ……出たな……」
ため息のような声に諒のほうを見たら、眩しさに目を細めた諒が小さく笑っていた。
その瞳の輝きに、まるで子供みたいに無防備な邪気のない笑顔に、視線が釘づけになる。
「ほら、あれだよ。この最後のチェックポイントで、先生たちが俺たちに見せたがってたもの。うららがわざわざお前と見るために起きてきたもの。……お前が去年、早坂のことばっかり考えててうっかり見逃したもの……」
「そんなんじゃないわよ!」と喉まで出かかった言葉が声にならない。
からかうように、嬉しそうに、私の顔を覗きこむ諒から、悔しいくらいに目が離せない。
「早くみんなのところに帰るぞ。お前を独り占めしたなんて……うららの恨みを買って、あとで智史に嫌味を言われんのは嫌だからな……」
ほんのついさっきまで、その智史君に対してあんなに怒ってたくせに、もう笑いながら歩きだそうとする諒の腕を、私は思わず掴んでしまった。
「なんだ? ……どうした?」
言えるわけない。
できるならこのまま二人でいたいなんて。
新しい一日の始まりを告げる光は、闇に馴染んでいた目にはまだ眩し過ぎて、諒のように目を細めていなければ涙だって浮かんできそうだ。
だから今この瞬間、私の目から涙がこぼれた落ちたとしても、なんとでも言い訳は立つ。
本当は、なんだか苦しくて。
いったいいつの間にこんなに好きになっちゃったんだろうと思うくらい、諒と一緒にいたくて。
涙がこぼれるのを止められない。
「お前なぁ! いくら俺だって、こんなところにまで上着なんて持って来てないぞ……?」
ポロポロと泣きだした私に、いつものように何かを頭から被せなければと焦りだした諒に、私はそっと首を振った。
「いいよ、別に……」
そう諒にならいい。
情けないところも、みっともないところも、散々見せてきたんだから。
私が隠れて泣くのにも、いつもつきあってくれてたんだから。
「……んなわけにはいかないだろ!」
それでも自分のジャージの袖で、ゴシゴシと私の頬をこすってくれる不器用な優しさが嬉しい。
「どうする? もうちょっとここにいてから……帰るか?」
顔を覗きこむようにして尋ねられて、また胸が高鳴った。
変なの。
こんなふうに、諒とまるで恋人同士のような会話をしてるなんて。
憎まれ口も叩かずに、素直にうんと頷いてしまうなんて。
いつもと勝手が違うからか、照れたようにすぐに目を逸らしてしまう諒から、私のほうは目を離せない。
このままどこかに諒が居なくなってしまわないように、ギュッと諒のジャージの袖口を握り締めた。
「ありがと……諒」
「おお」
素っ気ないけどとまどったような声を隣に聞きながら、私はもう一度朝日に目を向けた。
正視するのさえ辛いような眩しい輝き。
この光景は、きっともう一生忘れないと思う。
すっかり私の涙も乾いた頃になってから、私たちは展望所へ戻り、みんなとも一緒に朝日を眺めた。
繭香とうららと手を繋いで、眺めたこの光景だって私は絶対に忘れない。
(夜間遠行ってただ辛いだけの行事だと思ってたけど……なんだ……こんな感動の場面も用意されてたんじゃない……!)
ちょっと感動を覚えながら、残りの行程もがんばろうと心に誓った。
なのに――。
「じゃあ私はこれで」
「私も……」
「僕もゴールで待ってるよ」
先生の車で展望所へやって来た三人は、日の出の観察が終わったら、また当然のように車に乗りこんで帰っていった。
「繭香とうららはともかく! お前はおかしいだろ、智史!」
叫ぶ諒に向かって、優雅に手を振りながら去っていく智史君の姿を見ながら、私は何気なく思ってしまった。
(ひょっとして先生たちも、智史君に弱みでも握られてんのかしら……?)
全然冗談にならない。
文化祭での賭けの元締めが智史君だったことに思い当って、青くなる私を見て貴人が笑う。
「なに考えてんの琴美? すごい顔だよ?」
「なんでも! なんでもないわ!」
これから先も決して『白姫』の不興だけは買うまいと、私は心に誓って歩き始めた。
諒が言っていた『夜間遠行』の最後の課題は、学校がもう道の先に遠く見え始めた頃になって実施された。
「はーい。この中から一枚引いてくださいねぇ」
ニコニコと笑いながら、なぜか美千瑠ちゃんが持っている四角い箱の中から、グループの代表者が一枚ずつ小さな紙を引いていく。
「うおっ、やった!」
「ぎゃああ、嘘だろ!?」
その紙を見た反応が、グループごとに様々な理由はすぐにわかった。
そこには、この場所からゴール地点までをどのようにして歩いていくかの指示が書かれているのだ。
うしろ向きで歩き始める人たち。
ムカデ競争のようにグループ全員の足と足をロープで繋ぎ始める人たち。
「ち、ちょっと待ってよ!?」
みんなから、グループの代表としてその紙を引くことを命じられた私は、思わず後退った。
「これって、すごく責任重大じゃないの?」
焦る私に向かって、貴人はにこやかに笑いかける。
「大丈夫だよ。何が出たって、やればいいだけだから……」
「そうそう。誰が引いても同じだしね」
「気にしなくていいよ。琴美ちゃん」
渉と佳世ちゃんも私の気持ちを軽くするように声をかけてくれたが、ただ一人、諒だけは違った。
「一番最悪のを引いたとしても、まあなんとかなるだろ……絶対お前のくじ運は凶悪だと、俺は思うけどな……」
「なんですって!」
こぶしをふり上げた勢いのままに、私は半ばやけくそで紙を引いた。
そこに書かれていたのは――「二人一組になって、片方が片方をおんぶ」という指示。
「ぎゃあああ!」
「ほらな。やっぱり最悪の課題だ……」
思わず叫んでしまった自分とは裏腹に、諒があまりに落ち着いていたので思わず問いかけてしまった。
「どうしてこれが最悪だってわかるのよっ! 他にもっと酷いのがあるかもしれないじゃないのよっ!」
なのに諒は、顔色一つ変えずにサラッと言ってのけた。
「だって、その内容考えたの俺だから」
「は?」
まるで智史君のような涼しい顔に、心底まぬけな声が出てしまった。
「数学の山ちゃんが、面倒臭いから勝手に考えてくれって俺にふったんだよ。ああ、なんかこれ、俺たちに当たりそうだな……なんて思いながら書いたのに、ほんとに引くんだもんな……お前ってほんとにバカ……?」
「バ……! な……!」
もうどこから怒っていいのかわからない。
パクパクと口を動かすばかりの私に、諒は背中を向けた。
「いいから早く乗れよ、ほら……」
「は……?」
何を言ってるんだろう。
まさか諒が私をおんぶするって言うんだろうか。
(そ、そりゃ貴人は腕に怪我してるから無理だし……渉はもうさっさと佳世ちゃんおぶっちゃってるし……必然的にそうなるだろうけど……!)
焦る私は、思わず貴人をふり返った。
「た、貴人を諒が背負うってのはどう? 余り者は私ってことで……」
途端、貴人はおなかを抱えて大笑いし始め、諒は怒って私を睨んだ。
「バカかお前は! 俺を殺す気か!」
「だって……!」
肩を揺すりながら笑う貴人が、困りきる私に向かって片目を瞑る。
「大丈夫だよ。諒は絶対に、琴美だけは落とさないそうだから……」
崖から落ちた時のやり取りをひっぱり出して、そんなふうに太鼓判を押されても困る。
(そうじゃなくて……!)
背中に乗るのが恥ずかしいからとか。
諒に悪いからとか。
女の子らしい躊躇の余地は、私には与えられないのだろうか。
「早くしろって! 後から来た奴らにどんどん抜かれてくだろ!『お姫様だっこ』じゃなかっただけ、マシだと思え!」
「なに? そんなことまで書いたの諒!?」
呆れる私の耳に、ようやく笑いがおさまったらしい貴人の声が聞こえてきた。
「どうやらその『お姫様だっこ』のチームが来たよ。ラグビー部同士か……ハハッ……なかなか酷いことを考えついたね、諒……」
「ブッ! ……だろ?」
私たちの横を駆け抜けていく、自分と同じぐらい体の大きなチームメイトを本当に『お姫様だっこ』している剛毅の姿には、貴人ばかりではなく諒も私も笑わずにはいられなかった。
「俺たちも行くぞ、ほら」
再び向けられた背中に、もうああだこうだ言う時間はなかった。
私は仕方なく――そのくせどうしようもなくドキドキしながら、諒の背中につかまった。
身長だったら私よりちょっと高いぐらいで、運動なんて全然してない帰宅部のくせに、諒が軽々と私を背中に担いでしまうからビックリする。
「お、重くない……?」
申し訳ない気持ちで問いかけたら、ニッと笑ってふり返られた。
「重いに決まってるだろ!」
間近で見る不意打ちの笑顔に、ドドドッと心拍数が上がる。
そんな自分を諒には気づかれたくないから、目の前にある黒い頭を軽くペシッと叩いた。
「失礼ね! もう!」
「痛てっ! 落とすぞ、こら!」
「きゃあ!! なにすんのよ!」
最後のほうはもうお互いに笑いながら、諒は夜間遠行の最後の行程に一歩を踏みだした。
十時間を歩きとおしたあとの、最後の最後の直線。
体はくたくたに疲れているし、眠さだってピークだ。
諒の背中の上にいる私には、何もすることがないけれど、そのぶん、諒には二人分以上の負担が圧し掛かる。
「がんばれ……がんばれ、諒!」
応援することしかできなくて、そう言い続ける私に向かって、諒は律儀に返事をする。
「おう。当たり前だ!」
その背中が頼もしかった。
思わずギュッと抱きついてしまいそうになる自分を必死に自制しなければならないくらい、もう、大好きだと思った。
――そんな自分に気がついた、夜間遠行だった。
「春樹! ちょっと出かけてくるから、お母さん帰ってきたらそう言っといてね!」
せっかくの日曜日だというのに、リビングの大型テレビの前に朝から陣取って、魂を抜かれたようにゲームを続けている弟の背中に、とりあえず声をかけた。
絶対に聞こえていないことはわかっているので、返事も待たずに玄関へ急ぐ。
なのにちょうどデータをセーブ中だったのか、思いがけず春樹がこちらをふり返った。
「どこ行くんだよ? ……デート?」
脱ぎかけていたスリッパを、思わず力いっぱい投げつけてしまった。
「違うわよ!!」
「知ってるよ……瀬川さん、今日は練習試合だろ? 見学に行くぞってウチの監督が大張り切りして、ほとんどの連中がそれに乗っかったから、俺は今日、部活が休みになったんだよ」
中学二年の春樹は、サッカー部に所属している。
毎日夜遅くまで、土日も関係なく練習があるのに、今日は珍しく家にいると思ったらそういうことだったのか。
しかし――。
「なんであんたは行かなかったのよ?」
するどく指摘してやったら、意味深に笑われた。
「別に……俺だったらいつだって瀬川さんのプレーは近くで見れるし、部活の奴らと姉ちゃんの彼氏応援に行くってのも、なんか恥ずかしいし……」
残るもう片方のスリッパも、春樹に投げつけてやった。
一個目はかわされたが、今度は不意打ちだったからか、上手く頭にヒットしてちょっとスッキリする。
「いてっ! なにすんだよ強暴だな! 夏姫! お前、そんな調子じゃいつか絶対瀬川さんにフラレるからな!」
私と同じで結構短気な春樹は、気に入らないことがあるとすぐに怒りだす。
三つも年上の私を呼び捨てするばかりか、お前呼ばわりするのでほんと、頭にくる。
「うるさい! バカ!」
これ以上一緒にいたら気分が悪くなるだけだと思って、私は再び玄関に向かって歩き始める。
「瀬川さん、結構もてるんだからな! ウチの学校にだってファンクラブあるんだからな!」
(知ってるわよ! バカ!)
春樹の挑発にはもう乗らず、私はバタンと大きな音をさせて玄関の扉を閉めた。
中学は別だったけど、その頃からちょっとした顔見知りで、高校に入ったら同じクラスで生徒会でも一緒で、自然と行動を共にすることが多くなった「瀬川玲二」を、私はみんなには「見かけほどは頼りにならない男」と言っていた。
だってあんなに一生懸命うちこんでた陸上を、高校入学と同時に辞めてしまったし、赤面性で女の子とは上手く話せないし、体のわりに声も小さいし、見るからに情けなかったのだ。
(ダメだ、こりゃ……中学の頃は、少なくとも走ってる姿だけはかっこよかったのにな……)
そんなことを考えては、誰に聞かれたわけでもないのに一人で大慌てしていた。
(か、か、かっこよくなんかないわよ! 別に!)
「かっこいい」――その言葉はどちらかといえば、私自身にかけられることが多い。
「きゃあああ! 古賀先輩かっこいい!!」
いつも応援してくれる下級生の子も、毎日欠かさずさし入れしてくれるクラスメートも、校門で待ち伏せしている中学生も、みんな私を「かっこいい」と言う。
(ファンクラブだったら……私なんて中学生の頃からあったんだから!)
こんなことで玲二とはりあってどうするんだろう。
メンバー全員女の子のファンクラブ。
男よりも男らしいと私を賛美してくれる彼女たちが、だけど最近、私だけではなく玲二も応援しているから心境は複雑だ。
ことの発端は、文化祭の劇で玲二が王子様役をやったことだと思う。
足を怪我していたお姫様役の私を庇って、うまく劇を成功させた姿は、確かに私の目から見てもかっこよかった。
私目的であの劇を見に来ていた女の子たちが、あとになって玲二を「ほんとに王子様みたいだった!」と評す声を、私は嬉しいような悲しいような気持ちで聞いていた。
(なんだか、やだな……)
胸がチクチクする。
頭が痛い。
普段は全然頼りにならなくても、いざという時は頑として譲らない。
強い意志を持っている。
そのくせ際限なく優しい玲二が、「かっこいい」ことぐらい、私は本当はずっと前から知っていた。
私だけが知ってるつもりだった。
なのに――。
(なんか悔しい……)
意地っ張りで、自分の気持ちになんか全然素直になれない私が、つまらない意地を張っているうちに、『HEAVEN』でもクラスでも目立たない存在だったはずの玲二が、女の子の注目を浴びている。
ところが、らしくもなく悶々とする私とはまるで真逆に、玲二は好きな相手に好意を示すことに迷いがなかった。
――つまり私に。
クリスマスのラブプレートを書いてほしいと言った時、玲二はてらいもなく「好きだよ夏姫」と私に告げた。
嬉しくて嬉しくて、ほんとは飛び上がりたいくらいだったのに、私はと言えば、「そんなに言うんだったらしょうがないから、書いてあげる」と実に嫌そうな顔でプレートを受け取っただけ。
「好き」の言葉には、実は何も反応を返していない。
(だから本当は、玲二は私の「彼氏」なんかじゃないのかも……?)
そんなふうにしか思えない自分は、なんて素直じゃないんだろう。
可愛げがなくって、自分でも呆れてしまう。
「そんな調子じゃいつか絶対瀬川さんにフラレるからな!」
春樹の罵倒も、
「サッカー部のエースで、成績は中の上で、身長も無駄に高い……顔はまあ、すっきりと爽やか系ではあるし、笑うとなかなか可愛い……その上、女の子が苦手なくせに、不器用な優しさを示すことには照れがない……マズイわ、冷静に分析したら玲二君ってかなりポイント高いわよ? 夏姫ちゃん」
恋愛マスターの可憐の評価も、胸に突き刺さるばかりだ。
しかも冗談では済まされない。
玲二を好意の目で見ている女の子は、半年前とは比べものにならないくらい多いのだから。
だから私は決意した。
今度のバレンタイン。
――去年まではチョコを貰う側で参加し、結果一人勝ち状態で、男子の反感を一身に浴びていたその女の子の一大イベントに、今年は私はチョコを渡す側で参加する。
そのためにさっさとみんなを巻き沿いにした。
「えっ? バレンタインって、女の子がプレゼント貰う行事でしょ?」
どれだけ恋人に甘やかされてるんだかと呆れてしまう可憐も。
「お前……! 私が年末に失恋したって知ってて言ってるのか?」
思わず受話器を耳から放してしまうくらい大激怒した繭香も。
「うん。わかった」
淡々と同意したうららも。
「ちょ、ちょっと待って! 私……どうしていいんだか、まだ決心がつかなくて……」
傍から見てれば結論はもう出てるのに、あいかわらず往生際の悪い琴美も。
みんなみんな――。
「ええ。いいわよ。じゃあ、その前の日曜日に私の家に集合ね」
手作りチョコ作成の先生として、私がアポイントを取った美千瑠の家に召集をかけた。
(料理なんて全然しないんだけど……ほんとにできんのかな?)
マフラーを首に巻き直しながら、いつもロードワークで走り慣れた道を急ぐ。
吐く息は白く、指先だってかじかんでるから、とてもゆっくり歩いてなんていられない。
(嘘……ほんとは気持ちが焦って走らずにいられない……!)
長い距離を走る時、一定のペースを保とうと努力するように、どうしようもなくドキドキと跳ねる心臓に、私はくり返し言い聞かせる。
(落ち着け、落ち着け、大丈夫!)
例え多少出来が悪くたって、玲二ならきっと受け取ってくれる。
ゆでタコみたいに真っ赤になって、それでもちゃんと「ありがとう」と言ってくれる。
私は玲二のそんな誠実さが好きなんだから。
他のみんなよりずっと前にそれに気がついて、好きになったんだから。
(そんなこと、絶対本人には言えないけど……)
心の中で顔をしかめた次の瞬間、私はやっぱり首を横に振った。
(ううん……言えないじゃなく……言えるようにがんばらなくちゃ!)
そうでなければ、とりあえず今は私の「王子様」でいてくれる玲二が、他のお姫様のところへ行ってしまっても、私には文句も言えない。
(いきなりは無理だけど、ちょっとずつ……玲二が変わったみたいに私も変わらなくちゃ!)
いきり立つ気持ちは、やっぱりたおやかな「姫」にはほど遠くて、自分でも苦笑してしまうけれど、私は顔を上げたまま、走るスピードをもう少し上げた。
(いいの。だってこれが私だから!)
約束の時間のかなり前に、誰よりも早く私が美千瑠の家に着くことはまちがいなかった。
――それは今度のバレンタインにかける、私の意気ごみ。
(玲二……喜んでくれるかな?)
でもドキドキと胸を高鳴らせる心境は、全力で駆ける姿とは裏腹に、すでに乙女モード全開だった。